神か仏か……

おとといのこと、この日は朝から富士山が良く見えました。いま、山口から来て滞在中の母は、富士山が大好きで、我が家からも良く見えるその姿をみて大興奮。

こりゃー、もっとよく見せてやらんといかん、ということで、この日は、伊豆南部の松崎のほうへ連れて行こうかとも考えていたのですが、急きょ、進行方向を180°変え、芦ノ湖方面へ行ってみることにしました。

いつものように、三島から国道1号に乗って、箱根峠まで上がり、ここから西進して御殿場まで行くのですが、途中の芦ノ湖スカイラインからは、どアップの富士山がよくみえ、バーさんの興奮もさらにエスカレート。

この日は麓の三島などでは気温は20度を超えていたのですが、スカイライン上の気温は、16°前後と低く、下界では既に散ってしまっている桜やモクレンがまだまだ満開の状態でした。桜と富士を同時に写真に収める機会というのはなかなかないもので、私としても初の経験であり、親孝行をしたことによる思わぬ余得となりました。

このあと、御殿場に下り、ここで食事をして、さらに、富士山の北側に回るべく、山中湖へ。これで、自宅からみえる南からの富士山に加え、芦ノ湖スカイラインからの東側の富士山、そして山中湖からの北側の富士山の「3方面作戦」が完遂。

あとは西側だけ、ということで、このあと本栖湖近くの公園で今開かれている「富士芝桜まつり」会場をめざしたのですが、このころから天候が悪くなり、会場に着いたころには、富士山は全く見えなくなっていました。

これにより、一日で富士山の4方面のすべてを見るという野望も潰えてしまいましたが、3方面だけとはいえ、これだけ大きな富士山を目の前で見ることができた母親の喜びようは尋常ではなく、あー、連れて来てやってよかった、と思ったものでした。

それにしても、こうしたいろいろな角度からみた富士山のかたちは、当然のことながらその表情をいろいろ変えるものだなと、改めて感心してしまいました。

いつも自宅からみている富士山は、右下部分に大きな宝永山火口がありますが、東側の芦ノ湖からのこの火口は、左下に見えます。この「アクセント」の場所によってかなり、印象が変わります。

また、雪面と地肌の境界線がある場所も、いつも我々が南から見ている富士山は左右一直線にまんべんなく、左右同じ高さにあるのに対し、東側から見た富士山では、左から右下へ向かってこの境界線が下がっており、いつも同じレベルの雪原線に見慣れている私には、「何かヘン」にみえてしまいます。

また、北側の山中湖側からみると、この雪原線の場所は、ぐっと下のほうに下がります。山体全体がより白く見え、「真冬の富士山」そのものです。

これは、南側のほうが日中、太陽の日差しを浴びる時間が長いため、その部分の雪が融けやすいためにほかなりませんが、そんな当たり前のことも、同じ日に違う角度から富士山をみると、確認できてしまったりします。

さらに北側からみる富士山は、東側や南側からみる富士山に比べて、山頂部分がやたらにとんがって見えます。これは富士山頂の「お鉢」の北側部分の峰々が南側よりも凸凹しているためです。

また、北側から見た富士は、左右のシンメトリーもややいびつになり、「左肩上がり」のように見えますが、これは富士山東北側へ流れた溶岩流のほうが、西側よりも多かったためでしょう。

これら各角度からの富士山の見え方は微妙なものなので、普段富士山を見慣れていない人にとってはどうってこともない程度の違いなのかもしれませんが、これだけ毎日富士山を見て暮らしていると、ちょっと違う角度の富士山を見ただけで違和感を感じてしまうというのは不思議なものです。

もっとも、いずれの角度からの富士山も、それぞれの美しさがあり、優劣がつけられるようなものではないのですが、私としては、やはり右下に宝永山火口の“あばた”があり、雪原線が水平な、静岡県側からの富士山が一番好きです。「ウチの子一番」といったところでしょうか。

しかし、私のこうした好みだけではなく、昔から富士山の山体そのものは「駿河国」の所有物であるという考え方が普遍的だったようです。

万葉集には、「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」と万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が書いており、また平安時代の役人で学者の都良香(みやこのよしか)も「富士山記」という伝承を記した書物に、「富士山は、駿河国に在り」「富士山は駿河の国の山で(中略)まっ白な砂の山である」などと書いています。

日本最古の物語といわれる「竹取物語」にも、富士山のことを「駿河の国にあるなる山なむ」と書かれており、古くから富士山は駿河の国、つまりは静岡県にあるものということが一般認識だったようです。

とはいえ、これは主要な交通網が東海地方に集中しており、富士山の眺めを見る機会は南側からのほうが圧倒的に多かったためでしょう。もしも古代に東海道のような主要幹線が山梨県側にあったら、その帰属は甲斐の国と目されていたかもしれません。

現在においては、富士山は、静岡県側では、富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町などに所属し、また山梨県側では、富士吉田市、南都留郡鳴沢村などにまたがっていて、たくさんの市町村がその山体を共有しています。

とはいえ、これらの市町村に登録された自動車のナンバーは「富士山」ナンバーのいわゆるご当地ナンバーで統一されており、ゆるくまとまったひとつの地域である、という印象はあります。

また、前にもこのブログで書いたような気がしますが、その昔から「富士信仰」という富士山をご神体として考える宗教があり、この信仰では、富士山の山塊全体を「神体山」と考え、信仰の対象としているため、そこには境界など存在しません。

現在も、古くからの取り決めをもとに、富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き、ほとんどの部分が、富士山信仰の御本家、「浅間大社」の境内となっており、この部分の税金は浅間神社が払うことになっているようです。

ただし、山頂のこの部分の山梨、静岡両県の境界線をどこにするかという問題は、長年争われているにもかかわらずまだ決着していないと聞いています。ということは、どちらへどれだけの固定資産税を払うのかも決まっていないということになります。国税の収入が滞っているといわれる昨今、そこのところはいったいどうなっているのでしょうか。

この富士山頂を「所有する」浅間神社は、富士山をコノハナノサクヤビメを祭神と考え、これを信奉者たちが神霊として祀っている神社であり、その総本宮は麓の富士宮市にあり、こちらは富士山本宮浅間大社と呼ばれています。

そして富士宮市街にあるこの神社が「本宮」であるのに対し、富士山頂に据えられている浅間神社は「奥宮」と呼ばれています。

富士山の山頂がこのように一法人の所有物になったのは、徳川家康による庇護の結果です。

富士信仰を奉ずる人々が、家康から本殿などの造営や、富士山に上る人に入山料として徴収した「内院散銭」を得る権利を得たことから、その後成立した江戸幕府から、正式に八合目以上の土地が、この信仰者たち、すなわち法人としての浅間神社に寄進されました。

その後、明治維新以後は、この土地が浅間神社に帰属するか否かという問題は放置されたままになっていましたが、こうした歴史的経緯を踏まえ、30年ほどまえに、その土地の所有権は富士山本宮浅間大社にあるとした最高裁の判決が下りました。

そして、2004年には富士山の山頂8合目以上の登山道、トイレ、測候所などを除く385万平方メートルの土地の所有権は、財務省東海財務局から無償で同神社に譲渡されたわけです。

ところで、江戸時代よりも前には、富士山の山頂部は「仏」の世界と考えられている時代があったのをご存知でしょうか。

現在は富士山は神の山とされており、山頂に8つある峰々は「八神峰」あるいは、「富士八峰」と呼ばれ、それぞれに神様が宿っているとされていますが、その昔はこれらは神様ではなく、仏様として奉られており、その名も「八葉」と呼ばれていました。

8つの峰々とは、最高峰3776mの高さの剣ヶ峰を筆頭に、白山岳(釈迦ヶ岳:3756m)、久須志岳(薬師ヶ岳:3725m)、大日岳(朝日岳:3735m)、伊豆岳(観音岳・阿弥陀岳:3749m)、成就岳(勢至ヶ岳・経ヶ岳:3733m)、駒ケ岳(浅間ヶ岳:3722m)、三島岳(文殊ヶ岳:3734m)などです。

カッコ内の旧名称を見ても、そのいくつかは、釈迦や薬師、観音などといった仏様の名前になっているのがわかるでしょう。そもそも、これら各峰は仏教関連の名称より由来していたものでしたが、その多くが、明治元年の神仏分離令によりその名称が変更されたものです。

ちなみに、これらの峰々は、剣ヶ峰を除いてすべて富士山頂の北側に位置しており、山梨県側の山中湖などからみた富士山の山頂が凸凹しているように見えるのはこのためです。

古い時代の日本では、神々への信仰が特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的でしたが、ここへ仏教が伝来してきたことから、伝統的な「神」観念に大きな影響を与えるようになりました。

仏教が社会に浸透する過程では、伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、奈良時代以降にはさらに神仏関係は次第に緊密化し、平安時代にはついには、神仏混淆(しんぶつこんこう)、あるいは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれる、空前の神仏合体時代が訪れました。

これにより、もともとは富士山も神様の山だったものが、いつの間にか仏様の山になっていきます。鎌倉時代の書物である「吾妻鏡」では、富士山の山体を「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という風に呼んでいたと記録されています。

また、鎌倉時代中期の文永年間に書かれた「万葉集註釈」にも「いただきに八葉の嶺あり」と書かれており、その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できるといいます。

富士山頂の8つの峰々が、仏教的に「八葉」と呼ばれるようになったのも、このころからのことです。日本各地では、仏教の普及とともに、神様と仏様が同時に祀られるようになり、急速に神仏習合が進んでいきます。

やがて神仏習合は、駿河の国においても浸透するようになり、江戸時代までには、富士山周辺では、富士山をご神体とするたくさんの富士菩薩、または浅間菩薩を祀るお寺さんがたくさんできるようになりました。

ところが、明治元年(=慶応4年、1868年)になって、神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることになりました。

この法律による寺社分離は、その後明治の半ばころまでには、ほぼ全国に広がり、このころまでには従来のように神社かお寺かよくわからん、といった形態の寺社はほとんどなくなりました。

多くの場合、お寺の中にあった神社は別の場所に移され、新たな神社を作るか、もしくは寺を廃して、それを神社とする、あるいはその逆などの改変が加えられましたが、大規模なものでは、それが無理だったため、お寺の中に神社が残されたまま、といったものも残りました。

その典型が、高尾山にある、「高尾山薬王院」と、その“境内”にある「飯縄権現(いずなごんげん)」です。薬王院のほうはお寺さんなので、手を合わせるだけですが、飯縄権現さんのほうは神様であるため、柏手を打ってお詣りをします。

薬王院は、744年(天平16年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、本尊に薬師如来を安置して創建されたという由緒あるものですが、飯縄権現のほうは、その後、永和年間(1375~79年)に京都から移遷した飯縄権現をも守護神として奉るようになったものです。

薬王院には、その後、江戸時代初期の寛永年間(1624~44年)に不動明王を本尊とする奥の院も造られるなどさらに発展し、飯縄信仰のほうも高尾山全体を修験道者の道場として繁栄するようにことになったことから、典型的な神仏習合社となりました。

しかし、両者とも由緒正しいものであり、またあまりにも大きな組織となっていたため、明治になってからの神仏分離令においても、完全分離できず、現在のような形態のまま残りました。このため、高尾山に出かけた多くの人がお詣りに来ても、果たしてお寺に参ったのか、神社だったのか、すっきりしないかんじで帰って行かれるようです。

この神仏分離令ですが、これが発令されたそもそもの目的は、この高尾山の例にもあるように、従来はお寺なのか神社なのかよくわからない組織を分離し、神社とお寺、それぞれから税金を取りやすくするということでした。

そもそも神社分離の考え方は、江戸時代からあり、それを敢行した藩もありましたが、江戸幕府としては、寺社の多くが抱えている既得権益の領域に踏み込むことができず、その全国基準をとうとう作ることができませんでした。

ところが、江戸末期に急速に発展した「国学」という学問がその牙城を崩す要因となっていきました。

国学とは、本来は日本の古典文学を研究する学問です。江戸中期に急速に普及し、その研究者としては、本居宣長(もとおりのりなが)などが有名です。

それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を古事記や万葉集といった古典や古代史のなかに見出していこうとする学問であり、いわば、古代日本人のそもそもの心象風景を明らかにしようとした、「国粋主義」的な学問です。

伏見稲荷の神官であった荷田春満という人が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱え、これを体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵であり、その弟子としてこれを更に深く追求したのが本居宣長でした。

本居宣長の時代には、国学の源流はほぼ完成されていましたが、さらにこれに夢中になったのが、本居宣長の弟子と「自称」していた平田篤胤(あつたね)でした。

平田篤胤は、1776年(安永5年)8月24日に出羽久保田藩(現在の秋田市)の大番組頭であった下級武士の大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下に生まれました。

現存する史料からは、不幸な幼年期を送ったようであり、父親からは、頭が悪く落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたといいます。

そんな境遇から逃れるためか、20歳の時に故郷を捨て江戸に出奔していますが、無一文同然で頼る処ところもなかったため、生活の苦難と戦いながら勉学に励みます。苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊きなどもしていたそうです。

1800年(寛政12年)、25才になったころ、勤め先の旅籠で、備中松山藩の藩士で、代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまって養子となり平田姓を名乗るようになります。

平田篤胤が本居宣長の弟子を「自称」していたというのは、そのことを詐称していたのではないかと考える人が多いためです。

その根拠としては、平田篤胤はそもそも生前の宣長とは面識がなかったらしく、宣長が没した後2年ほど経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようです。

知人に送った手紙には、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと書かれているそうで、没後の門人として加わるために涙ぐましいウソをついています。

また、のちの書いた自伝によれば、本居宣長が死ぬ直前に宣長のことを知り、門下に加わろうとしたと書かれており、その後すぐに宣長は没してしまったため、没後の門人としてその名を宣長が主唱していた塾に置かせてもらったとも書いているとのことです。

ところが、色々な歴史研究によれば、篤胤は、宣長が生きているころにその存在を知ったというのさえウソだったことがわかっており、自分の学派をかつて宣長が研究していた国学の正統として位置付けるため、史実を改竄したのではないかというのがもっぱらの見方のようです。

とはいえ、平田篤胤という人は努力の人でもあったようで、そのためかなり学識豊かでもありました。しかし、夢の話を知人に平気で送るような人でもあり、どちらかといえばオカルト的なことが好きな人物だったようで、こうした「不思議」が吸引力となり、多くの門人を持つ結果につながっていったようです。

一種の呪術者のような存在といってもよく、彼の周囲には弟子といいながらも「信者」というかんじの門人が多く集まっていたといいます。

いずれにせよ、本居宣長は真面目な古代史研究者でしたが、平田篤胤は宣長の弟子であると偽りを言い、国学の正統的な継承者としての自己の能力を周囲に喧伝したかったというのが事実のようです。篤胤がその後完成させた国学の中身はともかく、学問成立に至る動機はかなり不純なものでした。

こうして、国学の「権威」になりすました篤胤は、やがて日本のオリジナルなものはすべて仏教伝来によって破壊されたと考えるようになりました。

そして、日本人の霊性も、仏教という異国の宗教によって穢され、歪められたとして、古来行われてきた神仏習合も仏教によって神道が穢された状態であるとし、神道を仏教伝来以前の姿に戻すべしとして「復古神道」を唱えるようになっていきます。

それまでは、本居宣長が研究していたような国学は、「古典文学研究」にすぎませんでしたが、この思想が加わることによって国学はやがてある種の「宗教」のようなものに変わっていきました。

ちょうどこのころ、日本の近海には外国船がしばしば出没するようになり、日本人は外国にたいする脅威を感じ始めていました。そんな背景もあり、平田の唱えた排他的・排外的な国学は、かなりの信奉者を生みました。

とくに寺に既得権利を脅かされることの多かった神社の神主には熱烈に支持されるようになりましたが、同時にこの考え方に傾倒していったのが、幕末に「尊皇攘夷」をとなえるようになった「志士」たちでした。

比較的新しい幕府はよりも、古来から君臨する天皇をより尊重すべきだと考える人たちの中には、この国は純粋な日本人によってのみ統治されていくべきだという、国粋主義的な考え方を肯定する人が多く、このことから、平田国学の熱烈な信奉者になる者も多かったようです。

そして、その考え方の影響下にあっては自然と、外国はけがらわしい、獣のような異国人に神国日本を蹂躙されてはたまらないと考えるようになり、やがて開国に反対し、攘夷の実行を幕府に迫っていきます。

かなり、偏った考え方であることは誰が考えても明らかですが、結果としてはこの平田国学の浸透が、尊皇攘夷運動のエネルギー源となり、のちには討幕運動に発展し、新しい時代が生まれる要因になっていったことは皮肉なかんじがします。

ところが、この平田国学は、明治になってからも、国を築いていく人々の間に根強く残っていました。

かつて外国など穢らわしいと考えていた勤王の志士たちも、じっさいに自分たちが政権を担うようになってからは、外国人を疎外するというのはどだい無理だとわかり、このため諸外国の力を得ながら近代化を図る、西洋化政策をとっていきます。

ところが、収まりがつかないのは、かつて志士たちを思想的に「指導」した平田国学者たちでした。

こうした国学者たちも維新の功労者にはちがいはなく、今や明治政府を主導する立場となったかつての志士たちも、自分たちもその昔は外国人を毛嫌いしていたくせに、その考え方を「指導」してくれた国学者たちをむげに切り捨てることはできませんでした。

このため、これらの古い考え方をもった国学者たちにも何等かの役職を与える必要があり、とはいえ、できるだけ実際の政治には口を出させないようにすべく、「神祇官」という役職を考え出しました。

神祇官とは、宗教政策を担当する職種であり、実際には政治にかかわることができませんが、その名の通り、かつての神社やお寺を管轄し、ここから税金を取るなどの役目を一手に握ることができます。

こうして、神祇官となり、一定の権力を得たかつての国学者たちは、平田篤胤が唱えていた「復古神道」、つまり神道を仏教伝来以前の姿にもどす、ということを実践するため、政府に働きかけて実現させたのが「神仏分離令」です。

これにより、神社なのかお寺なのかよくわからん、といった寺社は高尾山のような特殊な例は別として次々とその姿を消していき、明治政府としては、これらの寺社の管理を国家制度に取り込むことによって、彼らが信徒から徴収していた貢金の一部を税金として確実に徴収できるようになりました。

しかし、その一方では、非常に重大な問題が生じました。寺社分離令を施行し、お寺と神社を別々に分離して建て直す過程において、無数の文化財が破壊されることになったのです。

この政策は、日本史上最悪の文化破壊ともいわれ、これによって多くの寺や神社で仏像や神像が破壊されただけでなく、それまで神仏折衷のまま存在していた建築様式の多くが破壊され、姿を消していきました。

また、一方では、靖国神社などの国学に基づく、「純粋な神社」も新たに建てられるようになり、これを建設したのも平田国学を信奉する、江戸時代から生き残った国学者たちでした。

別の見方をすれば、神仏分離というこの政策によって新たな文化が生み出されたという考え方もできるかもしれません。その後に生まれ変わった文化をすべて悪いという評価はできないと思います。

しかし、明治の初期、権力を得た国学者たちが、自分たちの権益の拡大のために、神道の国教化を推進しようとしたのはまぎれもない事実であり、これがその後はびこるようになった軍国主義につながっていったことは確かです。

さて、富士山周辺の神仏分離の話をしようとして、熱が入り、話がずいぶんと飛んでしまいました。

ともかく、こうして神仏分離令が発せられたため、富士山周辺においても、あちらこちらにある神社やお寺で、仏像の取り壊しなどが進んでくようになります。

現在、富士宮市の村山というところにある村山浅間神社は、かつては、同じ境内にあって、大日如来を祀る大日堂や僧坊などがあり、これらを一体として「富士山興法寺」と呼ばれていました。

しかし、神仏分離令によりそれぞれが分離され、大日堂は人穴浅間神社となり、富士山興法寺としての「仏教部門」の機能は事実上消滅してしまっています。なお、興法寺の境内にもともとあった、大棟梁権現社というお社は廃止され、場所を移して「富士大神社」として祀られています。

さらには、山梨県の富士吉田市上吉田にある「北口本宮冨士浅間神社」でも仁王門や護摩堂などが取り壊されています。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名が「八神峰」に変更されたのもちょうどこのころのことです。

こうして、かつては「仏の山」でもあった富士山は現在ではすっかり、「神山」となってしまい、今や富士山に向かって、ナムアミダブツと唱えるような人は皆無となっています。

それというのも、一人の経歴詐称歴のある学者のため、というふうに考えると、一体日本の文化って何ナノ?という気にもなってきます。

もっとも、平田篤胤が没してからは今年でもう170年にもなります。この間、明治・大正・昭和・平成と時代は移り進んでおり、明治のころ大きな変革が起き、その後定着していった現在の文化も、現代の我々が慣れ親しんでいるという意味では純然たる日本の文化であることには間違いありません。

靖国神社の可否や天皇を男性に限定してしまった現状の天皇制の問題など、この時代に遡った課題が現在も解決されずに引き継がれてきているのもまた事実ではありますが……

さて、夕べあたりからかなり気温が低くなり、かつこの週末は天候も悪くなるようで、今朝も富士山は見えません。私が富士山は神の山ではなく、もともとは仏の山だと書いたために、コノハナサクヤヒメが怒ったのかもしれません。

なので、今日はこれくらいにして、神の怒りが静まるのを待つことにしましょう。来週明けにはまた天気も回復しそうです。そしたら今度はぜひ、今回見ることのできなかった富士山の西側を確認しに出かけようかと思います。

富士山の西側には、朝霧高原という広々とした高原地帯があるのですが、今回は天候悪化のために満喫できませんでした。新緑が深まるころ、ぜひ再訪したいものです。

日帰り富士山一周の旅、みなさんもやってみませんか?

私を高いところへ連れて行って

昨日の伊豆地方は激しい雨と風で一日中天候は荒れまくり、先週までの好天はどこへ行ってしまったの?というかんじでした。

伊豆では雨で済みましたが、お昼すぎにテレビを見てびっくり!かつて住んだ都は一面の銀世界にあり、あちこちで車がスリップしたり鉄道や他の交通機関が止まったりで大騒ぎのようです。

ですが、白い雪に覆われた懐かしい町をみると、これはこれで妙にうらやましく、伊豆でも降らないかな~と窓を開けて空を眺めてみるのですが、どうやらここでは降るよしもなさそうです。

2階へあがり、北側の空を眺めてみると、いつもの青空は影をひそめ、空は厚い雲に覆われていますが、よくみるとその雲は均一ではなく、厚い雲と薄い雲がまだら模様になっていて、それらが東から西へと足早に動いていきます。

ふだんはそこに見える富士山の上の雲は西から東へと流れているのに、それらはいつもと逆の東から西へと流れており、これは名古屋沖を北上する発達した爆弾低気圧に向かって流れ込む東寄りの風によるものだとわかります。

全天が見えるというわけではないのですが、山の上のこの地から見える広い空とそこを流れていく雲をみあげていると、伊豆半島のど真ん中にいる自分の姿が想像でき、地球の上に立っているなという実感を味わうことができます。

東京でマンション住まいをしていたときにはこうした感覚はなく、広い関東平野の西のはじっこにあるその住宅街から見ていた空はひどく狭く、天候を気にするよりもまず、その環境の息苦しさに先に注意が行ってしまったものです。

これとは比較にならないほどの開放感のある広い空を手に入れた今は、より天上に近づいたような感がありますが、もし可能ならばさらにこれより高いところに住みたいとも思います。

今後さらにそうした場所に移住する可能性がないわけではありませんが、なかなかそうした場所に気に入った土地や家が手に入るとは限りません。なので当面は、山登りなどによって一時的にそうした高いところを訪問するだけということになりそうです。

日本一高い場所にある町

そこでふと思いついたのが、日本一高い場所にある町はどこかな、ということで、早速これを調べてみました。

「町」という定義からすると、何等かの「役場」が存在するところということになりますから、この線で調べてみると、どうやら日本一高い場所にある役場は、長野県の川上村の村役場のようで、その標高は1185mということがわかりました。

この川上村は、その西側に八ヶ岳を望む場所であり、八ヶ岳の広大な裾野である「野辺山高原」の一部のようです。この北側には奥秩父山塊の支脈があり、その隣には「南牧村」や「南相木村」といった同じく野辺山高原に属する村々があります。

川上村役場が高地にあるのと同様、この南牧村の役場も標高1030mの高地にあって、日本で三番目に高い場所にある役場です。こうした1000m近い場所にある日本の市町村役場をその標高順に並べてみると次のようになります。

長野県川上村 1185m
群馬県草津町約1180m
長野県南牧村約1030m
長野県原村約1000m
長野県南相木村約990m
長野県北相木村約970m
福島県檜枝岐村(ひのえまたむら)939m
長野県木祖村約925m

草津町をのぞけば、一位から六位までをすべてこの八ヶ岳東山麓の村々が占めていて、どうやらこれらの村々が属する野辺山高原一帯が、日本一天上に近い「居住」に適した場所ということになりそうです。

単に標高が高いだけでなく、年間を通して降雨量が少なく晴天の日に恵まれる日も多いということで、国立の野辺山天文台や、電波宇宙観測所といった施設もあり、鉄道ファンのみならず天文ファンも集う場所として有名です。

ちなみに、我々が一昨年前に移住先を探し始めたころ、一番最初に訪れたのがこのひとつの「原村」で、ここは東京にも比較的近い高原にあるリゾート地ということで近年人気を集め、多くの別荘が建てられています。

しかし、人気の場所であるだけになかなか売りに出されるような別荘地は少なく、いいなと思うところには既に家が建っていたり、農地のために住宅地が建てられないような場所も多く、こうした土地に家を建てるためには、宅地への転用許可申請などのために時間がかかります。

環境といい、眺めといい、大いに気に入った土地柄ではあったものの、結局良い物件をみつけられず、この地への移住はあきらめました。

日本一高い場所にある駅

上述の村々のうち、南牧村には、JR東日本の小海線(こうみせん)の野辺山駅(のべやまえき)という駅があって、これはJRの駅の中では最も標高の高い位置にある駅であり、その高さは1345.67mで、この駅で販売されている記念入場券には「空にいちばん近い駅」とあるそうです。

ちなみに、逆にJRの駅の中で一番標高が低いのは、東京の総武快速線、馬喰町駅(ばくろうちょうえき)のマイナス30.58mです。

また、世界で最も高い位置にある鉄道駅は中国チベット自治区にあるタングラ駅の標高5068.63mだそうです。これに比べれば八ヶ岳東麓のこれらの村々ははるかに低い場所になりますが、それでも東京スカイツリーの二倍以上の高さの1300mを超える場所に鉄道駅があること自体が不思議なかんじがします。

なお、鉄道の線路が敷かれている場所で最も高い位置は、野辺山駅のすぐ隣の駅の清里駅との間にある同じ小海線の中の地点で、ここの標高は1375mです。

さらに、JRの鉄道路線以外のトロリーバスのような路線も含めた中での日本の最高標高の駅は、立山黒部アルペンルートのトロリーバスのターミナル駅、室堂駅の2450mになり、ロープウェイまで含めるとなると、その最高峰は中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅であり、ここの標高は2611.5mです。

室堂駅は、ここから東側にある大観峰駅まで出ているトロリーバス路線の始点駅であり、この大観峰駅からはさらにロープウェイを乗り継いで、かの有名な黒部ダムサイトまで行くことができます。駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅のほうは終点であり、ここからは富士山はもちろん、雄大な南アルプスの山々を一望に見ることができます。

以上のことから、とにかく歩いて行くのはイヤ、動力でできるだけ高い場所に行きたいという人で、その中でも鉄道などの公共交通機関を使って日本で最も高い場所まで行きたいということになると、それは立山か駒ヶ岳ということになります。

日本一高い場所にある道路

ちなみに、乗用車で行ける場所は?ということになると、富士山には、「富士スカイライン」を使って、五合目の標高約2400m地点まで行けます。が、到達できる高さはこの駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅にわずかに及びません。

一般国道でもその最高地点は長野県と群馬県の境にある志賀草津道路の「渋峠」でその標高は2172mだそうです。

ただし、現在「一般車両全面通行禁止」となっている、岐阜県高山市丹生川町にある「乗鞍スカイライン」の最高標高は2702mということで、この高さは上述のいずれをも凌駕しています。

通行禁止になった理由は、この道路が、日本一の高度を走ることのできる「雲上のスカイライン」としてあまりにも有名になり、観光客のマイカーで溢れかえって渋滞が続くようになったため、著しい排気ガスによって自然破壊が進んだためのようです。

このため、乗鞍岳自体が中部山岳国立公園の特別保護区に指定されて規制が厳しくなるとともに、2003年(平成15年)からは通年マイカー規制となり、一般車両は走行する事ができなくなりました。

しかし、路線バスやタクシーによってここまで行くことは可能で、バスの場合、ふもとの「平湯温泉」から定期便が出ており、最高峰付近の「畳平」まで片道約1時間10分ほどで行けるようです。往復料金2200円かかりますが、楽して高所に行きたいという人にとってはそれほど惜しい出費ではないかもしれません。

日本一高い場所にあるホテル

さて、以上のように、鉄道や乗用車などを使えばそれなりに高所へ行けることはわかりました。がしかし、これらの場所へはその日に行って帰ってくるだけの、いわばタッチ&ダウン式の訪問であって、せっかくそこまで行っても、その場所の風景や環境を短時間しか味わうことができません。

いや、そうじゃないんだ、せっかく行くんだからその場所の雰囲気をじっくり味わいたい、できればそこに1~2日は滞在してみたい、という人にとっては、何等かの宿泊施設がある場所で一番高い場所はどこなの?ということになると思います。

そういう場所というのはおそらく、高所にあるリゾートホテルか、もしくは山小屋のようになると思うのですが、まず、ホテルとして一番高いものはどこかを調べてみました。

すると、これは前述の木曽駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅、2611.5mに併設して建てられている「ホテル千畳敷」のようです。

この千畳敷駅に至るロープウェイの始点は、ふもとの標高1661.5mにある「しらび平駅」であり、ここと千畳敷駅との高低差は950m。終点の千畳敷駅は「千畳敷カール」と呼ばれる雪渓の中にあり、ここにはスキー場もあって、かつ木曽駒ヶ岳の登山口ともなっています。

ホテル千畳敷はこの駅舎に併設されており、客室は全室和室で、16部屋。食堂、お風呂なども備えている鉄筋コンクリート造り3階建てのホテルです。

客室数が少ないことから万人向けとはいえませんが、このロープウェイは冬季も含めて通年営業されており、またふもとの駒ヶ根市街にはたくさんの別のホテルもあることから、必ずしもこのホテルに泊まらないと駒ヶ岳観光ができない、というわけでもありません。

千畳敷駅のある2611m地点からは南アルプスの眺めが雄大に見えるそうで、またやや北よりには富士山も望むことができ、ここからのご来光が美しいと評判のようです。

一昨年前に移住先探しをしていたころには、この麓の駒ヶ根や伊那などの土地を見て回り、このころには、ここに住むようになったらぜひ一度登ってみたいと思っていましたが、結局移住先が伊豆になったために、ここへの訪問はいまだに果たせていません。なので、私としても一度は行ってみたい場所でもあります。

このほか、前述の鉄道(トロリーバス)駅としての最高地点駅である、立山の「室堂駅」2450mにもホテルが併設されていて、こちらは「ホテル立山」といいます。

ホテル千畳敷のほうは通年営業していますが、こちらは冬季には、積雪20メートル、最低気温摂氏マイナス24度におよぶ酷寒の地にあることもあり、冬期はふもとからのバスなどの交通が遮断されるため休業となります。

が、6階建ての鉄筋コンクリート造りであり、客室数は和室、洋室を合わせて85室もあるほか、入浴施設もあります。

ちなみに、私はこのホテルにタエさんと結婚前に行ったことがあり、宿泊こそしませんでしたが、お食事もできる立派なレストランもあって、高所にあるホテルとしてはなかなか良い設備だなと思いました。

ここを訪れたのは、10月のおわりだったと思いますが、すでに積雪は3m近くあり、ホテルの周囲は一面の銀世界で、その雪で覆われた見渡す限り広い平原地帯のまわりには、立山、剱岳、室堂といった神々しい山々がそびえていて、ここが天上の世界か、と思えるほど美しい場所でした。

その見事な景観から通年を通じて多くの観光客が訪れ、厳冬期でも山岳スキーの愛好家には人気のスポットのようです。が、一般人が冬季にここを訪れるのはまれで、スキーなら11月初旬までか、4月以降の春スキーがシーズンのようです。

秋季の紅葉も素晴らしいとの評判で、夏でも涼しく星空がきれいなことから、天文ファンならずともその美しい星々を見たいがために行く人も多いと聞きます。

その気になれば「ライチョウ」の観察などの自然観察や、周囲の美しい景色をみながらトレッキングできるコースも整備されているようなので、今度は寒い時期ではなく、温かい時期を選んでまたぜひ一度行ってみたいと思います。

日本一高い場所にある山小屋

これらの二つのホテルのある標高はいずれも3000m未満です。これよりさらに高い場所に宿泊したい、ということになるとあとはもう、山小屋しかありません。

以下が、日本にある高所の山小屋のベストテンになります。

1位 赤石避難小屋 3,120m 南アルプス(赤石岳)
2位 北穂高小屋 3,100m 北アルプス(北穂高岳)
3位 荒川中岳小屋 3,080m 南アルプス(荒川岳)
4位 槍ヶ岳山荘 3,060m 北アルプス(槍ヶ岳)
5位 南岳小屋 3,000m 北アルプス(南岳)
5位 北岳肩ノ小屋 3,000m 南アルプス(北岳)
5位 大汝休憩所 3,000m 北アルプス(立山)
8位 穂高岳山荘 2,996m 北アルプス(奥穂高岳)
9位 剣ヶ峰旭館 2,980m 木曽御嶽山
10位 御岳頂上山荘 2,950m 木曽御嶽山

1位の赤石避難小屋は無人の小屋になり、その名の通り赤石岳などに登頂する人のための緊急の小屋です。ですから仮に「宿泊」を目的に行くとすれば、最も高所にあるのは2番目の北穂高小屋からになります。ただし、こうした山小屋は厳冬期には閉鎖されてしまうものが多く、この北穂高小屋も営業は、4月から10月の終わりまでです。

もっとも、こうした山小屋に宿泊だけを目的で行く人は少ないと思いますし、またこれらの山小屋はあくまで登山客が山に登るための一時通過のための宿泊施設ですから、温泉や豪華な夕食を期待する人向きではありません。

が、メシはともかく、温泉だけでもという人は、以下の山小屋では温泉にも入れるようですから検討してみると良いかもしれません。

温泉のある山小屋(高所順)

1位 みくりが池温泉 2,430m 北アルプス(立山室堂)
2位 高天原山荘 2,285m 北アルプス(高天原)
3位 湯元本沢温泉 2,150m 八ヶ岳(夏沢峠)
4位 鑓温泉小屋 2,100m 北アルプス(白馬鑓ヶ岳)
5位 白馬岳蓮華温泉ロッジ 1,475m 北アルプス(白馬岳)
6位 三斗小屋温泉 1,470m 那須(茶臼山)
7位 県営くろがね小屋 1,346m 東北(安達太良山)
8位 法華院温泉山荘 1,303m 九重山(坊ガツル)
9位 三条ノ湯 1,103m 奥秩父(雲取山)
10位 赤湯温泉山口館 1,050m 上信越(苗場山)

ちなみに、富士山の山小屋は、これらよりも高い標高にあるものも多く、最高地点にあるのは、「御来光館」でその標高は、ナンと3450mだそうです。150名もの宿泊キャパがあるようですが、一番高いところにあるということもあって、夏季にはかなり混雑しているようです。

予約もできるようですが、場所が場所だけに、予約したからといって必ずしもここまで辿り着ける人ばかりではありません。このためこうした富士山の山小屋では、飛び込み客も受け入れてくれる場合も多いようです。

が、それにしてもこうした富士の山小屋はそれでなくても近年の富士登山ブームでどこも混雑しているようですから、一応の予約はしていったほうが安全でしょう。

さて、以上、長々と高いところに行きたい!人向けの情報をかき集めてみましたが、ご参考になったでしょうか。

私自身は、やはり今年はぜひ富士登山を目指したいと思います。できれば宿泊施設に頼らず、夜登ってその日の日中に下ってくる「直行直帰」をひとりで実現したいと考えているのですが、そうしたいと言うとタエさんが横目でにらむので、山小屋もしかたないかな~と考え始めているところです。

季節はまだ冬であり、その日が来るまでにはまだまだ時間がありそうなので、どうやって富士山を攻略するかについては、またおいおいじっくり考えることにしましょう。

今もこの部屋の窓から見える富士山は手に取るように近くに見えます。あそこまで修善寺から誰かロープウェイでも引いてくれればいいのに……と思うのですが、そんなわけにはいきません。

やはり歩いて登るしか今は方法はなさそうです。今からしっかり体を鍛えて来たるべき日に備えることにしましょう。みなさんも今年はぜひ体を鍛え、富士山にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。