それぞれのエピローグ

2014-2-6478台風が近づきつつあり、今日明日はお日様は望めそうもありません。しかも、仮に晴れていたとしても、今日は新月なので、夜空も真っ暗です。

これで生活にも張りがなければ、四方八方塞がりといった感じで、暗くなってしまいそうなのですが、私的にはここのところの生活はそれほど悪くはありません。毎日それほどストレスを感じることもなく元気で過ごせているというのは、ありがたい極みです。

それにしても、東京を離れてどのくらい経ったか、などと最近ではあまり気にもならなくなってさえきましたが、改めて数えてみると、2年と6ヶ月ちょっとです。2年半といえば、10年のちょうど4分の1、パーセンテージにすると25%。伊豆での生活がこれからも長く続いていくとすれば、まだそのほんの序章にすぎません。

この「序章」とは、物語の前置きのことで、文学作品などではよく「プロローグ」という言葉が使われます。物語の冒頭で、本文の内容の概略や背景について述べ、読者が内容になじみやすくするために書かれた部分のことです。

音楽においては、一つの曲の前奏部にあたります。プレリュードともいいますが、一般的な書き物では、「導入部」「序文」「序説」ともいいます。

逆に、全体をしめくくる言葉や終わりの部分や「終章」として付け加えられるのは、「エピローグ」です。本編後の後日談的なものを書く部分であり、本編では書けなかった、書かなかった部分を補足したりするのに使います。あぁそんな見方もあったのか、そういうことだったのか、といった物語のオチに使われる場合も多いようです。

エピローグには他に似たような用語はありません。強いていえば「エンディング」でしょうか。が、プロローグにはほかに、アバンタイトルというのがあり、これは、映画やドラマ、アニメや特撮などでオープニングに入る前に流れるプロローグシーンのことで、プレタイトルとも呼ばれ、一般的にこのような映像手法をコールドオープンといいます。

一方、文学や演劇で使われる序章の部分には、プロローグをもっと簡単にしたものもあり、これを「エピグラフ」といいます。

……エビグラタンではありません。エビピラフも違います。エピローグとも混同しそうですが、これは、文書の巻頭に置かれるよりより短い文章で、詩である場合や他の本からの引用した短い慣用句などである場合もあります。

その本の内容を端的に表すことが多いようですが、一方ではより広く知られている別の文学作品と関連づけたり、比較をもたらしたりするためにも使われます。必ずしも、その本の冒頭だけでなく、各セクションの初めにエピグラフを配する場合もあります。

たとえばスタンダールの「赤と黒」には1章ごとに凝ったエピグラフが付されていて、これは、「小説、それは街路にそうて持ちあるく一つの鏡である」、といった具合です。日本ではあまり見かけませんが、翻訳モノを読んだことがある人は、こうしたエピグラフに遭遇したことがあるでしょう。

日本の小説では、たとえば堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭にある、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が有名です。また、太宰治は「二十世紀旗手」で「――(生れて、すみません。)」という名エピグラフを残しました(ちなみにこれは、原文のママ)。

ところが、この「生まれてすいません」は実は盗作だった、ということが言われているようです。

最初にこの文章を書いたのは、寺内寿太郎という、は昭和初期の無名の詩人だといわれています。生没年も不詳の人物ですが、川柳の才能があったといわれ、当時流行の探偵小説にも凝ったことがあるようですが、太宰治ほど有名ではなく、小説化の端くれ、といったところだったでしょう。

昭和初期に評論家として活躍した「山岸外史」という人のいとこです。この山岸という人は、若いころに、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌を創ったこともある人物で、太宰治の親友の一人でした。

現在、「リーガル」のブランド名で有名な「リーガルコーポレーション」、かつては「日本製靴」といったこの会社の社長などを歴任した山岸覺太郎の息子でもあります。

1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、「青い花」という同人誌などの仲間として交友を深めました。クリスチャンだったようで、その著作により太宰に影響を与えましたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となりました。

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しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を自らの回想録「人間太宰治」、「太宰治おぼえがき」などのなかで明らかにしています。

文学者でもあり、1939年(昭和14年)、「人間キリスト記 或いは神に欺かれた男」で第3回の北村透谷文学賞を受賞しており、この本はとくに太宰に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに、北村透谷は文学者でもありましたが、評論家としても有名な人であり、この文学賞の受賞者には評論家としても評価の高い人が多いようです。

この山岸外史という人は、戦前の1944年(昭和19年)、左翼色の強い「ロダン論」を刊行直後に軍部からの言論弾圧を受けています。またこのころから空襲も激しくなってきたことからこれを避けて山形県米沢市に疎開し、ここで1950年(昭和25年)まで山形で農民生活を経験し、「労働者」として目覚めます。

もとより、共産思想にシンパシーを感じていたこともあり、山形での経験もきっかけとなって、戦後の1948年には日本共産党に入党。また、その傍ら、「新日本文学会」という旧プロレタリア文学運動の流れを汲む組織の事務局長を務めました。

このころ、軍の弾圧によって休刊になっていた、同人誌「青い花」を太宰治、や檀一雄らと復刊しますが、このころから文学編集者としての道を歩むことを決め、1962年(昭和37年)、日本共産党から離脱。しかし、その後も日本民主主義文学同盟に所属するなど、政治色の強い活動を続けました。

日本民主主義文学同盟というのは、戦争の激化と弾圧によって壊滅させられたプロレタリア文学に代わって、左翼文学の中心とすべく、彼らみずからがその新潮流を「民主主義文学」と名づけたのに由来する組織であり、現在も存続して活動を続けています。

透谷文学賞も受けた著書「人間キリスト記」は太宰に多大な影響を与えましたが、山岸はこのほかにも「人間芭蕉記」「夏目漱石」「芥川龍之介」「眠られぬ夜の詩論」「煉獄の表情」などがあり、こうした評論によってこの時代の作家を広くこの世に広めたという功績があります。しかし、1977年(昭和52年)、73歳で亡くなりました。

さて、その山岸の従弟とされる、寺内寿太郎という男のことです。この人は、幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育っていますが、伯父の世話で慶應義塾大学の経済学部を卒業して会社勤めをしていたそうです。

が、この会社では不遇だったようで、私生活もうまくいかずに家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともありますが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻される、といったこともありました。

その後も、たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会や漁業組合で書記として生計を立てる傍ら、作家活動も行いました。極端な寡作家ながら、この宮古時代に「遺書(かきおき)」と題する7〜8作の詩稿を完成して帰京。

くだんの「生れてすみません」は、この詩集の中に一行詩として書かれていました。その「遺書」の詩稿を公表したところ、この無名の作家の作が太宰治の目にとまり、1936年(昭和11年)の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません」として剽窃されるに至った、というわけです。

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ちなみに、「剽窃(ひょうせつ)は「盗作」とは違います。「剽窃」は書かれたものの一部の文章をさし、「盗作」は一般に作品全体に対象が及ぶことしばしばです。つまり「盗作」の方が、対象範囲が広いということになります。

剽窃ではない、とする場合には、通常、その本人の作であることを付記する必要があり、これがない場合は、現在では著作権侵害として訴えられてもおかしくはありません。が、盗作は、たとえ原作者の名前が書かれていても、泥棒のそしりを受けることは免れません。

この寺内は早い時期から太宰作品の愛読者だったようです。しかし、その敬愛する作家がまさか自分の作品を剽窃するとは思いもしなかったでしょう。太宰の「二十世紀旗手」が発表された翌年、これを読んでその事実を知った寺内は、すぐに山岸のもとに駆けつけて、この事実を彼に訴えたといいます。

このとき、寺内は顔面蒼白だったといい、「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた。」と叫びながら山岸に訴えたと伝えられています。

太宰とはかねてより懇意にしていた山岸は、すぐさまこのことを太宰に伝えたようですが、これを聞いた太宰は狼狽し、この一文を山岸の作であると錯覚した、とい言い訳をしたそうです。が、他方では「わるいことをしたな」と言ったといいます。実は確信犯だったでしょう。

このことがきっかけになったのかどうかはわかりませんが、その後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまったといいます。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だったといいます。

まさしく、「生れてすみません」を地道に歩んだ人だったようですが、その原因を作ったのがかの有名な大作家である太宰治であったとすると、罪なことをしたものです。

この寺内の作品を剽窃した太宰もまた、「生まれてスイマセン派」でした。自殺マニアであり、「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺しました。享年38。

2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられました。

1998年(平成10年)に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明しています。この遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判明しました。

「人間失格」の連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられています。この作品の後にも「グッド・バイ」という遺作がありますが、これは未完のままであり、完結作としては「人間失格」が最後です。

この作品は、体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説と考えられています。しかし、太宰が自らその生を絶ってしまったため、ほんとうに彼の生涯がそうしたものであったのかどうかは不明です。

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太宰は、上述の同人誌、「青い花」の創刊を通じて、詩人の中原中也とも親交がありました。中原もこの雑誌に投稿していたようです。

この中原中也という人は、残っている写真などをみると、長州人にありがちな、色白できゃしゃな感じでなかなかな優男です。が、実は性格はかなり荒い人だったようで、ふだんからの言動もきつく、酒席などでも、同席者に凄絶な搦みをかませることも多かったそうです。

一方の太宰治は、これもその当時の写真からもうかがわれるようにかなりナイーブなタイプだったようで、あるとき、中原とある酒宴で同席したとき、中原から例によってドスを利かせた声で、「お前はいったい何の花が好きなんだい」と訊ねられました。

これに対し、気弱な太宰は、泣き出しそうな声で「モ、モモノハナです」と答えるのがやっとだったといい、中原は「チエッ、だからおめえはダメなんだ!」とこき下ろしたといいます。

このほかにも中原は酒癖の悪さで知られており、大岡昇平を殴ったこともあるほか、文芸評論家の中村光夫をビール瓶で殴った上に「お前を殺すぞ」と暴言を吐いたと言われています。

写真などから太宰は骨太な人物で、逆に中原はやさおとこで気が弱そうに思っていた人も多いと思いますが、逆だったようです。太宰の側ではそうした粗野な中原の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対しても「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」と、いつも中原の悪口を言っていたといいます。

しかし、一方では太宰は中原の才能を高く評価していたようで、後に中原没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったといいます。

立原というのは、24歳で急逝した詩人の立原道造のことで、その彼の死の二年前に亡くなった中原中也を記念した中原中也賞を受賞しています。その中原の才能を買っていた太宰にこき下ろされていたことを立原が知っていたらどう思ったでしょう。

かくして自身もその没後に天才と言われた太宰治もこの世からいなくなりました。文学作品で、登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を吐くことを、「モノローグ」といいますが、これはつまりは一人芝居のことです。

その生涯においてこのモノローグを演じ続けた太宰が最後に選んだエピローグは自らの命を絶つという筋書きでしたが、果たして自分で仕上げたこの芝居の出来具合をあの世でどう思っていることでしょう。

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さて、「いざ生きめやも」のエピグラフで有名になった堀辰夫のほうはどうでしょう。彼は、自殺ではありませんでしたが、これもまた、早くして亡くなりました。

40歳過ぎの戦争末期ころからは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできず、軽井沢町の追分で闘病生活を送り、1953年(昭和28年)5月28日)48歳の若さで死去しています。

それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としての「ロマン小説」という文学形式を確立しようとした作家と評されます。
フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、これを日本の古典や王朝女流文学と融合させることによって独自の文学世界を創造しました。

肺結核を病み、軽井沢などに療養することも度々ありましたが、その悲哀をネタにした作品を多く残したところにも特徴があり、ご存知軽井沢と言えば、今上天皇と美智子妃が恋を育んだ地であり、誰もが憧れるロマンの香りあふれる地でもあります。

その主な活動は、戦前の1933年(昭和8年)、季刊雑誌「四季」を創刊したことに始まります。この雑誌は結局、二冊で終刊の憂き目に遭いましたが、このころに傾倒していた恋人、片山総子との別れや心身疲労を癒すため、6月初めから滞在するようになった「つるや旅館」が、そもそもの軽井沢との出会いのきっかけです。

ここには9月まで滞在し、作品執筆を行いましたが、その村で7月に、同じく肺病を患って療養に来ていた、東京は世田谷・成城在住の一人の油絵を描く少女と出会います。

この少女こそが、「矢野綾子」であり、やがてこの若干19歳の少女と恋仲になった堀辰夫は、彼女を題材として、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説「美しい村」の執筆に入りました。

この「美しい村」の「夏」の章では、矢野綾子との出会いが描かれており、ここではそれまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ってきた彼の人生そのものが描かれ、この作品はそれ以前の自伝的作品、「聖家族」以後の堀彼の人生の要約として読むことができるといいます。

掘はその後も彼女と交際を続け、6年後の1934年(昭和9年)、24歳になった矢野綾子と婚約にこぎつけます。一方の堀は、6つ年上の30歳でした。

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このころの堀は、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリアックの作品に触れて、強い影響を受けています。

モーリアックは、古い伝統や因習の殻に閉じこめられた地方的な家庭生活を舞台とし、そこでの個人と家庭、信仰と肉の葛藤、エゴイズムと宗教意識の戦い、といったかなり重い題材を好みました。

また、病的なほどに我執や肉欲にとらわれる人間の内面を執拗に分析しました。敬虔なクリスチャンであり、神なき人間の悲惨を描くことが彼の生涯のテーマでした。

その表現方法は、独自の「内的独白」という手法であり、文体は古典的で端正、精緻で、構成もきわめて巧妙でした。地元フランスでは、深刻な道徳問題を取り扱う「心理小説家」として名を馳せましたが、こうした繊細で重厚な作風は、堀辰夫以外にも遠藤周作や三島由紀夫の作風に大きな影響を与えたといいます。

さて、矢野綾子と1934年(昭和9年)婚約した堀は、この年の10月に、長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)に移り住み、ここの「油屋旅館」に滞在するようになりました。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでおり、ここで「物語の女」という短編を書き上げますが、ここで結核が悪化し、スランプに入ってしまいます。

ちょうどこのころ相方の矢野綾子も肺を病むようになったため、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院します。しかし、綾子はこの年12月6日に死去。享年25でした。結婚というゴールに至ることなく、死によってその仲が引き裂かれるというのは、まるで悲恋ドラマの世界そのものです。

堀自身も悲嘆の極みだったでしょうが、もともと力量のある作家であった彼はその悲しみを文章へと転じ、これはのちに彼の代表作として知られる「風立ちぬ」として知られるようになりました。1936年(昭和11年)から執筆を始め、終章「死のかげの谷」を書き終えたのは1937年(昭和12年)のことでした。

実は、この「風立ちぬ」の有名なエピグラフ、「いざ生きめやも」もまた、堀辰夫のオリジナルではありません。ただし、原文は日本語ではなく、フランス語であり、書いた人はフランス人作家のポール・ヴァレリーといいます。

アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリーは、フランスの作家ですが、詩人としても有名な人です。その前半生は不遇でしたが、ノーベル文学賞受賞者であり、「狭き門」などで有名なアンドレ・ジッドなどの勧めにより創作していた「若きパルク」という作品で一躍名声を得ました。

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ちなみにこの「狭き門」は、新約聖書の「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」というイエス・キリストの言葉に由来し、これはすなわち困難であっても多数派に迎合せず、救いに至る生き方の喩えです。

この作品では、主人公のジェロームが2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱き、彼女もまた彼を愛します。周囲の人々も両者が結ばれることに好意的でしたが、にもかかわらず、彼女は彼との結婚をためらいます。神の国に憧れを持つ彼女は、最終的に地上での幸福を放棄し、ジェロームとの結婚をあきらめ、ついには命を落とす、というストーリーです。

戦後翻訳されたこの物語は日本ではかなり反響を呼び、話題作となりました。しかし、「若きパルク」などに代表されるヴァレリーの作品はあまり読まれていません。が、フランス国内では、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出され、数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われたほどの人です。

1945年に73歳で亡くなったときも、ドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられています。しかし、生前何度もノーベル文学賞候補としてノミネートされましたが、結局受賞は実現していません。

日本では、作家としてよりも詩人として知られているようですが、その詩の内容というよりも、アルベルト・アインシュタインの相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになったようです。

堀辰夫は、東京帝国大学文学部国文科卒の英才で、フランス語にも堪能だったようですから、こうしたものもスラスラ読めたでしょう。当時のヨーロッパの先端的な文学に多数触れたことが、堀の作品を深めていくのに役立ちましたが、当然このヴァレリーの詩も読んでいました。

そして、その中に、「海辺の墓地」という作品があり、「いざ生きめやも」は、ここから持ってきたようです。フランス語の本文からの翻訳であるため「引用」です。従って太宰と違って、剽窃というのは言い過ぎでしょう。

原文は、“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”」で、これは直訳では(風が起きた、生きてみなければならない)になるようです。これを「風立ちぬ いざ生きめやも」と格調高く訳した堀辰夫の才能はさすがと言わざるを得ません。

が、大作家とされる堀もまた、自分だけで名作と言われるこのエピグラフを生み出すことはできなかったというのは事実ではあるわけです。

しかし、彼が書いた「風立ちぬ」は、不朽の名作とも呼ばれ、けっしてその名を損なうようなものではありません。「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成る小説で、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて訪れる愛する者の死を覚悟し見つめながら共に生きる物語です。

2人の限られた「生」が強く意識されており、一方では「死者の目」を通じて、より一層美しく映える景色が描かれています。死という誰しもが迎える終末に向かいつつ、時間を超越した二人の幸福感が確立してゆく過程を描いた作品で、精緻に男女の内面分析を行うその作風に、傾倒していたモーリアックその人の影響がみられる、という人もいるようです。

この作品が書かれた1936年(昭和11年)のころの堀辰夫は、富士見高原療養所から戻り、東京、本所区向島の小梅町(現:墨田区向島一丁目)の自宅に帰っていたようで、この家は1923年(大正13年)の関東大震災で焼失した自宅跡に新築したものです。

八ヶ岳での療養の結果、このころの堀の体調は、比較的良好だったようで、次から次へと作品を発表しており、これらは雑誌「改造」に掲載された「風立ちぬ」のほか、「文藝春秋」の「冬」、雑誌「新女苑」の「婚約」(のち「春」)などです。

しかし、その翌年の1937年(昭和12年)の春、それまでの「張りつめていた気持ち」が緩み、また、「何かいひしれぬ空虚」に襲われた堀は、突如訪れたこのスランプから脱するために、古典に目を向けるようになります。

そして、少年時代に愛読していた「更級日記」や「伊勢物語」を取り出し、欧米文学でもリルケらが取り組んでいた「王朝文学」へ傾倒していきます。そしてこの年の6月、これらの古典文学の背景にある京都へ初めて旅行。11月には、王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」を追分の油屋旅館で書き上げました。

ところが、彼が愛し、長年逗留を続けていたこの油屋旅館は火事で焼けてしまい、このためこの年の年末に堀は、軽井沢にあった川端康成の別荘を借りてここで執筆を続けました。「風立ちぬ」の終章「死のかげの谷」もここで書き上げています。

翌1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」にこの終章「死のかげの谷」が掲載されたのち、それまでの各章をまとめた単行本「風立ちぬ」が初めて野田書房より刊行されました。現在でも、新潮、岩波文庫などから重版され続けており、翻訳版もアメリカ(英題:The Wind Has Risen)、フランス(仏題:Le vent se lève)、中国(華題:風吹了)などで出版されています。

2014-2-6558

掘が愛した、信濃追分というところは、しなの鉄道の軽井沢駅よりも、ひとつ長野寄りにあります。旧中山道の宿場町だった往時の趣を色濃く残すエリアであり、江戸時代の高札場などが復元されており、周辺には「旧本陣跡」「脇本陣油屋旅館」「枡形の茶屋」といった見どころが点在するところです。

油屋が焼け落ちる前、堀はここで運命的な出会いをしています。巡り合ったのはのちに夫人となる加藤多恵であり、これは油屋が焼け落ちる前の1937年(昭和12年)の初夏、6月のころのことだったようです。

この加藤多恵という人は、静岡県出身です。父は日本郵船の駐在員で、その関係から育ったのは香港、広東でした。日本女子大学校を卒業後、弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に来ていたようですが、ここでかねてから父と親交のあった山下汽船の創業者、山下亀三郎の弟から、堀辰雄を紹介されました。

矢野綾子が亡くなってから2年。堀もまだその傷が癒えないころだったでしょうが、すぐに二人は恋に落ちたようです。ところが、時悪く、追分の油屋旅館が焼け落ちたため、堀は東京向島の自宅へ帰ることになり、さらに悪いことにこのころから体調を崩し、翌年の1938年(昭和13年)2月にはこの向島の自宅で喀血しています。

すぐさま鎌倉にある額田病院という病院に入院しましたが、ここでの療養は功を奏し、体調も少し持ち直しました。そして、前年追分で知り合った加藤多恵と、室生犀星夫妻の媒酌により4月にゴールにこぎつけました。

彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといいます。最後まで家族を愛してくれた情の深い辰雄の行く先をこの二人は案じていたのでしょう。辰雄は1904年生まれですから34歳。対する多恵は、11歳も離れており23歳ですから、少し年齢差があります。

しかし、もともと文学的な才能があった多恵は掘の良き理解者であり、その差を埋めるには十分でした。掘は静養も兼ねて軽井沢に別荘を借り、ここを新居として新生活をスタートさせました。が、引越し好きな彼は、軽井沢だけにとどまらず、その後も逗子や鎌倉などを転々としています。

その後、しばらくは幸せな生活は続き、この間、体調もよかったようで、1944年(昭和19年)には「樹下」を発表しています。しかし、戦時下であり、激化する空襲などを避けるため、この年の下旬に追分に疎開先の家を探しに行きました。ところが帰京後に再度喀血し、絶対安静の状態が続きました。

ようやく状態が安定した9月になって、追分に借りた家へ移り、終戦の年の1945年(昭和20年)にはここで療養に専念しつつ、新たな小説の創作意欲を持てるまでに回復しました。そして翌1946年(昭和21年)3月に「雪の上の足跡」を発表。

しかし、それ以降は、病臥生活に入り、1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となります。その後一進一退を繰り返す状態が続きましたが、そんな中、1950年(昭和25年)、自選の「堀辰雄作品集」が第4回毎日出版文化賞を受賞。その生涯に最後の花を添えました。

1951年(昭和26年)には追分に建設していた新居が完成し、7月、再び追分に戻り、ここで療養に入ります。しかし、その二年後の1953年(昭和28年)5月には再び病状が悪化、かねてより建築を命じていた書庫の完成を見ないまま、28日に死去しました。48歳没。多恵夫人と歩んだ闘病生活は14年にも及びました。

葬儀は、港区芝の増上寺で執り行われ、葬儀委員長は川端康成でした。翌々年の1955年(昭和30年)に小金井の多磨霊園に墓が建てられ、現在も堀辰夫はここに眠っています。

その後、多恵夫人は60年近くを生き、2010年(平成22年)日に96歳で没しました。夫のちょうど倍の人生を生きたことになります。この間、「堀多恵子」の名前で、堀辰雄に関する随筆を数多く書いています。

堀辰夫のその生涯はけっして長いものではありませんでした。が、その生涯は今回対比して描いてきた太宰のような「一人芝居」ではなく、病気にも苦しみ、次々と身近な人を亡くしたにもかかわらず慈愛に満ちたものであり、多恵夫人に看取られながらのその最後もまた、幸福なかんじがします。

多恵夫人のその後の一生をみると、その夫の倍以上も生きた時間の中を彼への思い出だけで生きてきたようなところがあり、一人身ではあったものの、彼の幻影との生活は幸せに満ちたものだったのでしょう。

その著書名をみると、「葉鶏頭 辰雄のいる随筆、1970」「片蔭の道、1976」「返事の来ない手紙、1979」「来し方の記・辰雄の思い出、1985」「山麓の四季、1986」「堀辰雄の周辺、1996」「野ばらの匂う散歩みち、2003」「雑木林のなかで 随筆集、2010」といった具合です。

夫への愛情がうかがわれるようなタイトルばかりであり、堀辰夫は没しましたが、その分身であった多恵夫人の残したこれら一連の作品こそが、堀作品のエピローグと考えることもできます。

さて、我が家のタエ夫人はどうでしょう。私が死してのち、私のエピローグを書いてくれるでしょうか。それは、この山の神に対する日々の感謝の念次第、ということになるかもしれません。

2014-2-6594

いざ生きめやも


関東甲信越は一昨日から梅雨に入りました。ブログの履歴を見ると、去年は6月8日に梅雨入りしたようなので、10日以上早いことになります。

梅雨入りが早ければ、梅雨明けもおそらく早いだろうということで、今年の夏はまた長く暑くなるのではと懸念されているようですが、果たしてどうでしょう。

伊豆での夏は既に去年経験しています。しかも猛暑といわれるほど暑かったようですから、それを難なく過ごせたのならば、今年の夏は楽勝さ、と思っているのですが、そうした目論見どおりになるかどうか。

さて、その一昨日、ちょうど60年前の5月28日といえば、堀辰雄の命日だったようです。1904年(明治37年)明治の東京生まれで、昭和初期に活躍した日本の作家です。

お父さんの堀浜之助は、広島藩の士族で裁判所勤め。母・西村志気は、東京の町家の娘でしたが、関東大震災の際に亡くなっており、このことはその後の彼の作品に大きな影響を与えたといいます。

府立三中から第一高等学校へ入学。ここでの同窓生には室生犀星や芥川龍之介がおり、彼らとはこのころから親友ともいえる関係を築くようになります。

その後、東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎など、これもまた後年有名となる文芸家達と知り合っており、小林秀雄や永井龍男らの同人誌「山繭」にも関係。このころの前衛文学であり、昭和文学を代表するプロレタリア文学派と芸術派という、二者の流れとのつながりをもちました。

堀辰雄の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっているようです。

1927年、23歳のとき、芥川龍之介が自殺。その報に接し、大きなショックを受けます。この頃の自身の周辺を書いた「聖家族」で1930年文壇デビュー。 しかし、肺結核を病み、軽井沢に療養することも多くなり、これが後年、ここを舞台にした作品を多く残すことにつながっていきました。

また、病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立ったようです。後年の作品「幼年時代」(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響が強くみられるといいます。

マルセル・プルーストというのは、フランスの作家で、パリで医者の息子として裕福な家に生まれました。パリ大学で法律、哲学を学びましたが、このあとはほとんど職に就かず遊んで暮らしていたといいます。このためあまり作品を残していませんが、30代から死の直前までに完成させた大作「失われた時を求めて」は名作といわれています。

プルースト自身の分身である「語り手」を作品に登場させ、そのの精神史に重ね合わせながらこの時代のフランスの世相「ベル・エポック」を描いた大作であり、複雑かつ重層な叙述と物語構成はその後のフランス文学の流れに決定的な影響を与えたといいます。

「ベル・エポック」というのは、19世紀中頃にフランスで栄えた「消費文化」です。プロイセン(ドイツ)との戦争に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、不安定な政治体制下にありました。

が、19世紀末までには産業革命も進み、プルーストが生きた時代には、ボン・マルシェ百貨店(世界最初の百貨店と言われている)などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになっていきました。

1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であり、いわばバブル期のような豪奢な時代です。単にフランス国内の現象としてではなく、この時代のヨーロッパ文化の総体とされることも多いようです。

19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリは、その歴史において最も華やかなりしころといえ、「ベル・エポック」とはその当時の文化を懐かしんで回顧して用いられる言葉でもあります。日本でいえば、大正時代の「大正ロマン(大正モダン)」に近い感覚でしょう。

そしてこのフランスの「良き時代」を描いた「失われた時を求めて」は、プルーストの代表作となり、ジョイス、カフカとともに20世紀を代表する作家として位置づけられているようになっています。

昭和初期に活躍した堀辰雄もまた、プルーストが憧れたベル・エポックと大正ロマンを重ね合わせていたかもしれず、自らをまた日本のプルーストになぞらえていたのかもしれません。

1933年(昭和8年)、軽井沢で療養していた辰雄は、この頃の軽井沢での体験を書いた「美しい村」を発表。ちょうどそのころ矢野綾子という女性と知り合います。その翌年、矢野綾子と婚約しますが、彼女も肺を病んでいたために、1934年(昭和10年)、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院することになります。

しかし、綾子のほうはすぐに結核が悪化し、その冬には亡くなっています。そしてごく短い間にこの婚約者と軽井沢で過ごした美しい体験が、のちの堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となりました。

辰雄はこのころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受けるようになります。折口は、民俗学者、国文学者、国語学者として知られ、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた人でもあり、彼が完成させた研究は「折口学」とまで呼ばれています。

この折口から古典を習得した辰雄は、このころから王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」のような作品や、「大和路・信濃路」(1943年(昭和18年))のような随想的文章を書き始めます。また、現代的な女性の姿を描くことにも挑戦し、「菜穂子」(1941年(昭和16年))のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも挑戦しています。

ちなみに私は、高校時代に「風立ちぬ」を読んでから堀辰雄のファンになり、その後、こうした一連の作品にほとんど目を通しました。が、風立ちぬがみずみずしい風景描写や男女の心理描写に主点を置いていたのに対し、「大和路・信濃路」などは妙にジジくさい作品だな、という印象しか残っていません。

古典文学を学び、これを自らの作品に生かそうとしたことにより、それほどまでに作風がガラリと変わったということだと思います。

これら一連の「古典」を書くようになる少し前の1937年(昭和13年)、辰雄は加藤多恵(1913~2010、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌でこの人と結婚しています。

加藤多恵と出逢ったのは、その前年の昭和12年(1937)の夏のこと。その出逢いは軽井沢の西方にある「追分」でした。辰雄はこの頃、軽井沢にもほど近く、江戸時代の宿場町の面影を残すこの追分の地を深く愛するようになっており、頻繁にこの地を訪れていました。

そして定宿の「油屋旅館」に滞在中、堀は避暑に来ていた多恵とめぐり合ったのです。辰雄は1904年生まれですから、11歳も離れており、かなりの歳の差婚です。しかし、彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといい、二人は病弱ながらも情の深い辰雄に好意を持ったのでしょう。

こうして、ようやく多恵との落ち着いた生活に入った辰雄でしたが、相変わらず体は弱く、いまだ肺結核は治りきっていませんでした。

しかし、戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は徐々に世間にも認められるようになり、同じ文学を目指す多くの後輩の支持をも得るようになってきました。

堀自身もこうした後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られています。とくに、辰雄は、詩人で建築家でもあった「立原道造」を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い、慕っていたといいます。

しかし、その立原は、1939年(昭和15年)、辰雄が結婚して2年目の春に24歳で急逝しています。友人の芥川、数年前には婚約者の綾子を亡くし、また弟のように接していた立原を失うなど身近な人を次々と亡くした辰雄はかなり落ち込んでいたようです。

しかし、そんな辰雄に尽し続けたのが多恵夫人であり、自身も肺結核と闘病する辰雄を励まし、その残る短い人生での執筆作業を見守り続けました。

「菜穂子」は、そんな中、1941年(昭和17年)に書かれました。この小説の登場人物「都築明」のモデルは立原道造であるともいわれており、この登場人物も建築学科出身で建築事務所に勤めているという設定であるなど、いくつか共通点が見受けられます。作品としての「菜穂子」こそが、亡くなった立原へのレクイエムと考えたのかもしれません。

その後も辰雄の症状はあまりかんばしいものではありませんでしたが、なんとか戦争中を生き延びました。しかし、戦争末期のころからは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送りました。

しかし、多恵夫人の看病もむなしく1953年5月28日、夫人にみとられながら没しました。享年48歳。

その後、多恵夫人は「堀多恵子」の名で堀辰雄に関する随筆を多く書き遺しています。死後もこうして辰雄に尽くし続けた多恵夫人でしたが、こちらも2010年4月16日、96歳で没しています。かなり長生きといえ、辰雄のほぼ倍の人生を生きたといえます。

その後、堀辰雄の作品群はしばらく戦後の混乱の中にあって埋もれていましたが、昭和30年代ぐらいからまた脚光を浴びるようになり、「堀辰雄全集」の刊行が目指されるようになりました。そして、書簡資料を発掘し厳密な校訂を加えた稿が出され、1980年に完結。1997年にはその新版も刊行されています。

しかし、中でも堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」だと言われ、不朽の名作という評価を得ています。

そもそも風立ちぬは、1936年(昭和11年)、雑誌「改造」の12月号に、まずその「序曲」が掲載されました。翌年には、雑誌「文藝春秋」に「冬」の章、雑誌「新女苑に「婚約」(のち「春」の章)が掲載。

1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」に終章の「死のかげの谷」を掲載ののち、同年4月、以上を纏めた単行本「風立ちぬ」が野田書房より刊行され、ようやく一冊の本としてまとめられました。

その後も戦中戦後を問わず新潮、岩波文庫などから重版され続けており、現在でも「昭和文学作品フェアー」なるものが書店の主宰などで開かれているときには、たいがい他の有名作家の作品とともに書店の軒先に並んでいます。

その内容をここで詳しく書くよりも、ぜひ読んで欲しいと思いますが、簡単にいうと、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病(結核)に冒されている婚約者に付き添う「私」が彼女の死の影におびえながらも、2人で残された時間を支え合いながら共に生きる、といった物語です。

ある書評によれば、

「時間を超越した生の意味と幸福感が確立してゆく過程が描かれ、風のように去ってゆく時の流れの裡に人間の実体を捉え、生きることよりは死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味をも問うた作品である」

だそうですが、私はそこまで重い作品だとは思いません。メルヘンチックなメロドラマと受け取る人もいるかもしれませんが、そこまで軽くもない。じゃぁどんなの?ということになりますが、これはやはり実際に読んで味わっていただくしかないでしょう。

作中には「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句が出てきます。これは、ポール・ヴァレリーという詩人の詩「海辺の墓地」の一節であり、原作では“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”だそうですが、これを、堀辰雄自身が訳したものです。

ポール・ヴァレリーはフランスの作家、詩人、小説家、評論家です。先述した「ベル・エポック」などの華やかな文化を生み出したフランス第三共和政(1940年のナチス侵攻まで存続したフランスの共和政体)の時代において、多岐に渡る旺盛な著作活動を行い、フランスを代表する「知性」と称される人です。

日本の終戦の年、1945年に亡くなっていますが、その死はこの当時の大統領ドゴールの命によりフランス第一号の国葬をもって遇せられたといいます。1930年から、亡くなった1945年までの間、ほぼ断続的に毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたと言いますが、結局受賞はかないませんでした。

この「風立ちぬ」の「ぬ」は言うまでもなく過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意です。

「いざ生きめやも」の「生きめやも」「は、ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的な表現を堀辰雄が意訳したものです。生きなければならない、しかし……と、その後に襲ってくる不安な状況の予見と一体となった表現であり、なかなか絶妙な言い回しです。

またこれを、「過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている」とまで言う人もおり、うーむそこまで言うか~というかんじですが、何かと意味深なことばではあります。

この「風立ちぬ」の主人公の一人、作中の「私」の婚約者である「節子」のモデルは、無論、堀辰雄と死別した実在の婚約者矢野綾子です。

愛する人との離別を書き、文学として昇華させたものとしては、ほかにも高村光太郎の「智恵子抄」があります。私も先妻を亡くしており、先日も「智恵子抄」を読み返す機会があったのですが、こうした作品を読むと当事者のその悲しみがよくわかります。

なので、「風立ちぬ」も読みかえせばまた学生時代とは違った解釈が今はできると思うのですが、また暗い気分になりかねないので、当面はやめておこうかと思います。

「風立ちぬ」のあらすじは、だいたい諳んじてはいるのですが、ここで書いてしまうと元も子もないのでやめておきましょう。が、少しだけ触れておくと、その最後のほうでは、ある日の夕暮れに療養所で二人が、その最後ともとれる会話を交わすシーンが出てきます。

主人公は、病室の窓から見えるその素晴らしい景色を見ながら、「風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。」

というようなセリフを吐くのですが、これだけでもう泣けてしまいそうです。

この作品の最終章の「死のかげの谷」では、3年ぶりの冬、亡くなった婚約者(節子)と出会ったK村(軽井沢町)にやってきたは主人公が、雪が降る山小屋で亡きフィアンセのことを追想するシーンがあります。

ここの描写もまた美しくかつもの悲しいものがあり、まだ10代で恋愛経験も少なかった私もいたく感動したのを覚えています。

ここのところ、戦前に奥さんの智恵子を亡くし、戦後まもなく、岩手の花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住んで晩年を送った高村光太郎とどこか似ています。彼はここで7年間独居自炊の生活を送っていますが、この間に亡くした妻を述懐する詩をいくつか残しています。

もしかしたら、光太郎も堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、これを意識していたかもしれません。風立ちぬは昭和初期に書かれていますから、戦後に智恵子抄を出している光太郎が目を通していたとしても不思議はないでしょう。

さて、智恵子抄との類似点はともかく、この死別した男女の悲しい物語は、高村作品と同様に多くの人の共感を得るようになり、本としての出版はもとより、映画やテレビでも数多く作品化されていきました。

最初の映画化は、1954年の東宝作品で、監督は島耕二、主演は久我美子、石浜朗だったそうです。我々の世代では、同じ東宝から1976年に出されたもののほうが馴染み深く、このときの主演は、誰あろう、山口百恵と三浦友和でした。

このほか、 1954年(昭和29年)~1962年(昭和37年)までに4度もテレビドラマ化され、一番新しいところでは、短編の青春アニが日本テレビによって作られ、 1986年(昭和61年)に放映されています。

しかしこれ以後、映画やテレビで「風立ちぬ」は制作されていません。

ところが、今年、アニメ映画の大家、宮崎駿がリリースする同名の映画が放映される予定だといいます。彼がかつて「モデルグラフィックス」というアニメ専門誌上で発表した連載漫画であり、その直後からスタジオジブリによりアニメーション映画化されることが決まっていたようです。

今年の夏に劇場公開される予定だそうです。宮崎駿さんが長編アニメーション映画の監督を務めるのは、2008年の「崖の上のポニョ」以来となるということで、話題を集めており、また、宮崎監督が「モデルグラフィックス」で発表した漫画がアニメ化されるのは、1992年の「紅の豚」以来2作目となるということです。

ところが、話の中身は、堀辰雄の風立ちぬとは少し違ったものになるようです。主人公は、実在の人物である「堀越二郎」という航空機の技術者をモデルにしたもので、その半生を描いた作品であり、舞台となるのも軽井沢ではないらしい(原作の「モデルグラフィックス」編を読んでいないのでなんともいえません)。

堀越二郎は1903年(M36)生まれの航空技術者であり、戦後は東京大学をはじめとする大学機関での教授などを歴任した学者です。

群馬県藤岡市に生まれ、東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。三菱九六式といわれる艦上戦闘機の設計において革新的な設計を行ったことで有名ですが、零式艦上戦闘機、つまりゼロ戦の設計主任としてのほうがより知られています。

ゼロ戦のほかにも七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、雷電、烈風といった、後世に語り伝えられる数々の名機の設計を手掛けたことで知られ、戦後は三菱重工業の技術者としてYS-11の設計にも参加しています。

三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関でも活躍し、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めたほか、防衛大学校の教授、日本大学の生産工学部の教授も務めました。1982年死去。享年78。

宮崎監督は、その作品のほとんどにかならず何等かの飛行物体を登場させるほどの飛行機好きであり、このゼロ戦の設計者としても著名な堀越二郎についてもいつかアニメ化したいと考えていたようです。

このため、これから用意されるであろう映画のポスターにも、堀越二郎の名と堀辰雄の二名の名をあげ、「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」と記されているといいます。

しかし、これまで得た情報では、堀越二郎のほうの実際のエピソードを下敷きにしつつも全く別の宮崎監督オリジナルのストーリーが展開されるといい、このことについて堀越二郎の遺族に対しては事前に相談し了解を得ているようです。

が、堀辰雄のほうには言及されていないため、おそらくはオリジナルの「風立ちぬ」のストーリーとはかなり違った展開が予想されます。

配役(声優)などもまだ完全に決まり切っていないようですが、主人公の堀越二郎だけは既に決まっています。

庵野 秀明(あんのひであき)という人で、1960年(昭和35年)生まれといいますから、我々と同世代。どういう人なのかなと思って調べてみたら、なんと私と同郷の山口県の人で、宇部市出身です。

映画監督、アニメーターであり、自ら設立したアニメスタジオ「株式会社カラー」の代表取締役を務めています。代表作に「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」などがありますが、なんといっても「新世紀エヴァンゲリオン」は一番有名です。この「新世紀エヴァンゲリオン」では、第18回日本SF大賞を受賞しています。

その作品では戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊しているほどの軍事オタクといわれます。この風立ちぬの企画が持ち上がった時にも、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(兼社長)に対して、「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしいと申し入れていたそうです。

ジブリとは、「風の谷のナウシカ」の時代からの付き合いだそうで、「風の谷のナウシカ」における作画スタッフの募集告知を見て初めて上京し、その作品が原画として採用されたとか。

ジブリ作品での採用の決め手は、持参した大量の原画を宮崎監督に高く評価されたからで、「風の谷のナウシカ」では最も難しいといわれたクライマックスの巨神兵登場のシーンを任されています。

なんでそんな元アニメーターさんを声優に?という疑問なのですが、宮崎監督は、この庵野さんの声が本作の主人公としてぴったりだと思い、ひそかにその出演を希望していたそうです。

しかし、表だっては、主な声優さんをオーディションで募集することになっていたため、宮崎監督は庵野にもこれを受けることを依頼し、彼もこれには困惑しつつもオーディションを受け、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたといいます。

無論、庵野も出演を受諾。しかし、今のところ、配役が決まっているのは彼だけのようであり、このあとどんな人が配されるのかは、これからのお楽しみといったところです。

気になるあらすじのほうは、東京、名古屋、ドイツを舞台に、航空技術者として活躍した堀越二郎の10代から30代までを中心とした物語が展開されるということです。航空技術者としての活動とともに、「風立ちぬ」のようなヒロインとの恋愛シーンも盛り込まれているとのことですが、詳細はまだわかりません。

ちなみに、このヒロインの名前だけは決まっており、「菜穂子」だそうです。無論、由来は堀辰雄の小説「菜穂子」にちなんでいるのでしょう。

小説のほうの「菜穂子」では、ある小説家との恋を通じて「ロマネスク」を満喫しつつも、その後の結婚においてはその生まれ持った情熱的な性格を封じ込め、つつましく生きようとした一人の女性が描かれています。菜穂子はこの女性の娘であり、彼女を主人公として、その成長の過程で次第に母に反発していく姿が描かれていきます。

母の生き方に疑問を持ちつつも、その母と同じ素質を持っていることにある日気付いた少女が、自分の将来に破滅的な傾向を予感し、結局は心の平和を求め愛のない結婚へ逃避しつつ自己を見つめ直してゆく、という話で、私も確か高校時代に読んでいます。

女性の複雑な心理描写が書かれていて面白い、と思ったかどうかまでは良く覚えていませんが、ふーん、女性ってこんなふうに思考するのか~と、異性を知るという意味ではなかなか興味深い内容、というふうに捉えたような記憶があります。

物語の最後のほうは、不幸な結婚生活に陥ったヒロインと幼馴染の青年との再会が描かれており、彼女を想う青年の孤独な喪失感と、夫を持つ身であるヒロインの不倫感覚との対比が信州の自然を背景に美しく描かれていく……というのですが、無論細かいことは私もよく覚えていません。

ところで、この「菜穂子」の母である女性のモデルになったのは、片山広子という実在の女性作家さんです(筆名:松村みね子)。また、菜穂子の恋人の青年のモデルは、かつての堀辰雄の学友であった芥川龍之介であると言われています。

片山広子は、1878年(明治11年)生まれの歌人、翻訳家であり、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」にも登場しています。「才力の上にも格闘できる女性」という力強く生きる女性としてして描かれ、このほかにも芥川の「相聞」という作品にも出てきます。

芥川龍之介の愛人であった?というわけですが、堀辰雄もこの友人の恋人を良く知っていたと思われ、このためその作品の「菜穂子」にも登場したわけであり、このほかの堀作品である「聖家族」に出てくる「細木夫人」というのもこの片山広子といわれています。

写真をみるとなるほどな、と思わせるような別嬪さんであり、何か知性を感じさせます。晩年の自身の随筆集「燈火節」は、1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しており、文学者としての実力もかなりのものだったようです。

しかし、この「菜緒子」の主人公のヒロインの心は、実は堀自身であるとも言われています。また、菜穂子の結婚後の不倫相手、幼馴染の青年・都築明にもまた、作者自身が投影されているといいます。

一方では前述のとおり、都築明は堀の愛弟子であった立原道造もモデルではなかったかといわれており、立原の急死によってストーリーが書き換えられた可能性もあるということです。

このように、堀辰雄の作品には、亡くなった多くの人の魂が込められているようです。いつの世も、人の死は新たな芸術作品を生んでいく礎となりき……かくいう自らもまたこれなんかな……

おいおい、ところでアニメのほうの「風立ちぬ」の話はどうなったんじゃい、ということなのですが、まだ話題作として登場したばかりなので、私もこれ以上書きようがありません。

ただ、主題歌は、「ひこうき雲」というのだそうで、作詞・作曲・歌とも、あのニューミュージックの女王、荒井由実さんに決定しているとのこと。プロデューサーの鈴木敏夫が主題歌として使用したい意向を打診し、本人から了承を得たとのことですが、どんな歌なのでしょう。こちらも楽しみです。

7月20日封切りの「風立ちぬ」をよろしく。私も見たいと思いますが、みなさんもぜひ見に行きましょう。