ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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妖しい光の候

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7月になり、伊豆では、あちこちに出ていたホタルもほとんど見られなくなりました。

しかし、東北地方などではまだまだこれからが見ごろ、というところも多いようで、7月下旬までは楽しめるようです。長野県では、志賀高原など高地では10月から11月になっても見られるといいます。

この本州以南の各地でみられるホタルですが、一般には「ゲンジボタル」を指すことが多いようです。

オスは川の上空を飛び回りながら、メスは川辺の草の上などに止まって発光します。発光のパターンは西日本と東日本で違い、西日本のほうが発光のテンポが速いそうです。西日本の蛍は「2秒に1回」、 東日本の蛍は「4秒に1回」発光します。

このテンポの違いは、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断するフォッサマグナが境となっているそうです。が、現段階では、このような発光周期の差がなぜ生じたかはっきりしていないといいます。東と西を分けるこの大地溝帯が、生物の生育にどんな影響を与えているというのでしょうか。

「ゲンジ」は言うまでもなく「源氏」から来ています。とくに、平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた「源頼政」の思いが夜空に高く飛び舞う蛍にたとえられたといいます。

頼政は、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り、公卿に列しました。しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒を呼びかけました。。

ところが、その計画が露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。そして、そのまま平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しました。

以後、敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって平家と戦うという話が広まり、「源氏蛍」として生まれ変わったとして全国に喧伝され、全てのホタルの代表であるかのように言われるようになりました。

が、実際にはホタルには遥かに多様な種があります。国内では約40種が知られており、熱帯に区分される南西諸島により多くの種がありますが、本土が主な分布域です。

この中に、ヘイケボタルというのもいます。こちらはとくに由来となった武将などがいるわけではありません。その命名は、ゲンジボタルより小型であるため弱い印象があるためでしょうか。源氏に駆逐され、滅亡した平家になぞらえたものと思われます。

とはいえ、生物的には、かなり逞しい存在です。環境の悪化に弱いゲンジボタルに比べ、汚れた水域にも生息することができます。時には干上がる水田のような環境でも生息できるのは、鰓呼吸だけではなく空気呼吸を併用しているからです。成虫の出現期間は長く、5月から6月には終わってしまうゲンジボタルに比べて9月頃まで発光が見られます。生存期間が長いということは、それだけ強い生物だということです。

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ゲンジボタルにせよ、ヘイケボタルにせよ、これら発光するホタルの成虫は、ほぼ全種が腹部の後方の一定の体節に発光器を持ちます。ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とアデノシン三リン酸(ATP)がはたらくことで発光します。

ルシフェラーゼとはホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素です。発光酵素 とも呼ばれます。一方、ATPは、生物の体の中でエネルギーの放出・貯蔵などの重要な役目を果たしている物質です。

ホタルの発光はこの二つの物質の化学反応によるもので、ルシフェリン – ルシフェラーゼ反応と呼ばれます。化学的エネルギーを光エネルギーに変換する化学反応の過程で、光が発生するもので、生物発光は英語ではバイオルミネセンス(Bioluminescence)と言います。

ホタルに限らず、こうした生物の発光は電気などによる光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出しません。このため「冷光」、“冷たい発光”とも言われます。

省エネで知られる、LED 照明は消費電力効率が飛躍的に向上し、70% 以上もあり、このため省エネルギーのみならず、発熱も抑えられています。明るくても比較的熱くない、熱効率の良い照明器具としてもてはやされていますが、それでも生物発光より多くの熱を出します。

これに対してホタルの光は、放射する光の20%以下しか熱放射を起こしません。エネルギー変換効率が非常に高いため、発する熱は極めて小さく、それでいて光への変換も可能としていることは注目に値します。どんなに光っても、ホタルが熱くならないのは、この高効率な生体機能のためです。

明るさの点では、電気を利用するLEDランプなどに比べれば遥かに劣りますが、暗黒条件下でのこうした発光は、微弱な光であっても、生きるための手段としては必要十分な明るさをもたらします。

ホタルが発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説があります。幼虫は、親以上に捕食者に食べられやすいため、卵の段階からもう既に発光が始まります。

一方、成虫の発光は、おもに交尾の相手を探すための交信に発光を用いられており、明らかに種族保存のための行為です。光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるのは、雌に気に入られるために、発光方法そのものに工夫が凝らされてきた結果といわれています。

ホタルだけでなく、こうした生物発光を行う生物が光るのは、夜に限られることが多く、このことから、こうした生物は「概日リズム(circadian rhythm)」を持っている、とされます。約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しており、一般的に体内時計とも言います。

もっとも体内時計といっても、メカニカルな時計とは異なり、生物の体内で形成されるものですから、正確とはいえず、光や温度、食事など外界からの刺激によって微妙に修正されるのが常です。光や温度は天候に左右され、かなり誤差が出ますから、このあたり、人間の「腹時計」のほうがむしろ正確かもしれません。

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このように自らの体を光らせる能力を持っているのは、無論、ホタルだけではありません。ホタルはその成虫が交尾のために光るのに対し、ホタル以外の生物の発光は、餌を呼び寄せるために使われることが多いようです。チョウチンアンコウなどの深海魚は、獲物を誘うルアーとしてこれを使います。魚の頭部に背鰭から変形し、釣竿よろしく伸びた突起の先が発光し、これを揺らすことで、小魚や甲殻類を攻撃範囲内に引きつけます。

また、水深1,000mより深い海に生息する深海魚、ダルマザメは、体全体が発光しますが、下腹部の一部のみを暗いままに残してあり、大型の捕食魚に対し、小さな魚の影に見せかけているといいます。それらが「小さな魚」を捕食しようと近寄ってきたとき、ダルマザメに体の一部分を食べられるといいます。

自身の影で大型の獲物をおびき寄せる、珍しいタイプの海洋生物で、自分の体長に匹敵する15~30cmのイカを丸ごと食べることもあり、さらに自分よりはるかに大きなイルカやイルカの一種であるゴンドウなどすら襲うといいます。

プランクトンのなかには、鞭毛を光らせるものもあります。鞭毛とは、毛状の細胞小器官で、本来は、遊泳に必要な推進力を生み出す事が主な役目です。「渦鞭毛藻類」という単細胞藻類は、2本あるこの鞭毛を発光させます。水流により捕食者(多くは自分より大きなプランクトン)を感知したとき発光します。

これにより、自分より数十倍も大きい捕食者を引きつけ、天敵である捕食者どうしが共食いするように仕向け、その間に自分は逃げおおせる、というわけです。

同様にある種のイカでは、発光する化学物質や、発光バクテリアを含む液を、普通のイカの墨のように吐き出すことで、敵を撃退します。発光する煙幕によって、捕食者を混乱させ。その混乱に乗じて安全に逃げおおせます。

このほか海中では、ミジンコによく似た「貝虫」などが発光生物として知られています。長距離の伝達にはフェロモンを使用しますが、短距離においては発光によってお相手を惹きつけているといわれています。

生物発光を、人間と同じように照明に使うものもいます。海棲生物のほとんどの発光色は青か緑ですが、深海魚の「ワニトカゲギス」などは、赤い光を放ちます。赤色光は海水中で速やかに吸収され深海にはまったく届かないため、ほとんどの深海生物の眼は赤色を認識する能力をもちません。

これに対してワニトカゲギスは赤色光を放出するとともに、自身で赤い光を認識することもできます。このため、獲物や他の捕食者に気づかれることなく周囲を探索することが可能になります。

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このように生物発光はそれを用いる生物それぞれの事情で用いられ、その多くは科学的にメカニズムが証明されています。

同様に、その昔は妖怪や物の怪の仕業ではないか、といわれていたものが、近年になって、ほぼ原因が特定され、科学的にほぼ証明された自然現象である、といわれるようになったものもあります。

そのひとつに、「不知火」があります。

九州に伝わる「怪火」の一種で、夏の日の風の弱い新月の夜などに見られると言い、代表的な発生場所は八代海や有明海などの九州沿岸です。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数が増えていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

その距離は4〜8キロメートルにも及ぶこともあり、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認しやすいといい、また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くとされます。こうしたことから、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

古くは、「日本書紀」「肥前国風土記」「肥後国風土記」などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。

江戸時代までは妖怪の仕業ではないかと言われていましたが、大正時代に入ると、不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、その結果、蜃気楼の一種でないか、といわれるようになりました。

昭和時代に入ってからの研究では、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。こうした現象はとくに八代海のような遠浅の地形でしか起こらないことなども確認されました。

戦争中の1943年、広島高等工業学校、通称「広島高工」の教授、宮西道可は、「不知火の研究」という論文を発表しています。

これによれば、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔(旧暦の8月1日、 新暦では8月25~9月23頃)の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見える、としました。

また、戦後になって熊本大学教育学部の山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である、と発表しました。そして、「その光源は民家等の灯りや漁火などであり、条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こりうる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である。」と論じました。

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このように近代になって蜃気楼の一種と認識されるようになった不知火ですが、無論、幻ではなく、現在でも見ることができるようです。干満の差がある海岸で起こる現象とされ、これまで目撃情報の多かった八代海やこれよりも北にある有明海以外でも類似の現象を見ることができるといいます。

旧暦8月1日前後(新暦では8月下旬)の風の弱い新月の夜に発生しやすいとされます。とはいえ必ず見ることができる現象ではなく、見ることができたら運が良い、といった頻度のようです。現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことなどで、見ることが難しくなったようです。

熊本県宇城の不知火町では、旧暦の8月1日(昨年は9月12日)に「海の火まつり」毎年のように開催されています。地元・竜燈太鼓の演奏、松明行列、総おどり、海上花火大会とともに「不知火」観望会なども開催されますから、運がよければ花火と不知火の両方を楽しむことができるかもしれません。

一方、日本ではこの不知火以外に、やはり何等かの物理化学現象ではないか、といわれているものの、いまだに原因が特定されていないものもあります、

そのひとつが狐火(きつねび)です。

沖縄県以外の日本全域に伝わる怪火で、ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれます。

火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいようです。

十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するのが目撃されたこともあるそうです。

火のなす行列の長さは一里(約4キロメートル)あるいは約500~600メートル)にもわたるといい、火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいいます。

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東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされます。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。このことから榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなりました。

この木は明治時代に枯死しましたが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停(現在の「ほりぶん」前の交差点)の近傍に残っており、一帯は以前には榎町と呼ばれてもいました。地元では地域おこしの一環として、1993年より毎年大晦日の晩に、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています

正岡子規は「狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)」とうたっており、野辺送りは野焼きのことで、冬の季語です。これにより、この王子狐の行列の時期は冬とされることが推定されるわけですが、他の狐火は一般的には夏の暑い時期や秋に出没する例が多いようです。

その原因ですが、古くは元禄時代の本草書「本朝食鑑」に、キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述があります。また同書には、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の「訓蒙天地弁」、江戸後期の随筆家・三好想山による「想山著聞奇集」にも同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述があります。

さらに長野県の奇談集「信州百物語」によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとあります。

これらの歴史的記述をもととに、哲学館(現:東洋大学)を設立した井上円了は、1916年(大正5年)、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説を提唱しました。

土中に埋まった動物の骨や死骸は、バクテリアによって分解され、土壌の有機成分となる際にリン化合物を発生させることが知られています。リンは発火点が60度とかなり低温であり、空気中で室温でも徐々に酸化されて自然発火し、熱および青白い光を発します。

このため、土の中に大量の骨があれば、確かに狐火に見えるかもしれません。しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、それほど多くの骨が広範囲に散らばっているとは考えにくく、またリンの弱々しい光が、はたして「火」のように見えるかはなはだ疑問です。

井上円了は、哲学者として著名な人物でしたが、迷信を打破する立場から妖怪を研究し、近代的な妖怪研究の創始者としても知られています。当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

晩年には、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えを持つに至り、数々の研究成果から、「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれました。しかし、上のとおり、リンの光を狐火の原因とするなど少々こじつけがましい研究成果も多かったようで、発表した研究の中には科学的な根拠に乏しいものもあったようです。

このほか、1931年(昭和6年)には、生物学者の神田左京が、狐火の正体は、朽木に付着している菌糸、キノコの根が光を発しているのではないか、という内容の論文を発表しています。たしかに、日本には、関東以西の太平洋側地域に「ヤコウタケ」という光るキノコがあり、ほかにも「ツキヨタケ」といった発光キノコがあります。

しかし、こちらもかなり大量になければ狐火には見えないはずであり、また、林間にうっそうとした繁みの中で発光したものが、遠くから見えるはずはなく、こちらも説としてはかなり厳しいものがあります。

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ちなみに、この神田左京という人は、1874年(明治7年)に長崎県で生まれています。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し博士号を取得して41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴ですが、以後は「権威が嫌い」という理由で定職にも就かずホタルの研究に没頭したことで知られています。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでしたが、業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘われるほどでした。

彼を理解する少数の篤志家による援助のみで暮らしを立て、赤貧洗うがごとき生活でしたが、ホタル研究に邁進した結果、「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見する、という業績をあげました。1935年(昭和10年)に自費出版した「ホタル」を出しますが、その後まもなくの1939年、65歳で没しています。

まさに「ホタルと心中」したかのような人生ですが、あちらの世では光輝いているでしょうか。

人間がともした火を狐火と見間違ったとする説もあります。先日、このブログでも紹介した「虫送り」という行事は、戦前まではさかんに行われており、これは、稲を病虫害から守るために、田植えが終わった季節に松明をともして田んぼの畦道を歩きまわる というものでした。

稲作地方の風物詩であり、遠くの町から見れば狐の嫁入りそっくりに映ったはずであり、こうしたことから、1977年には、日本民俗学会会員で「怪火研究家」の角田義氏が、狐火の正体は虫送りなど人の手による灯火の行列が、光の異常屈折によって現れる現象だと説明しました。山間部から平野部にかけての扇状地などでは、光の異常屈折が起こりやすく、虫送りの松明の火が狐火に見えたのだ、という説はなるほど納得がいくものではあります。

戦後の近年では虫送りの行事はかなり減っており、と同時に狐火もあまり見られなくなっているようなので、時期的にもあっているような気がします。

しかし、ほかにも天然の石油の発火ではないか、とする説もあり、結論が出たわけではあありません。球電現象などをその正体とする説もあって、現在なお正体不明の部分が多いようです。

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この球電(ball lightning)現象ですが、空中を発光体が浮遊する自然現象、あるいはその発光体とされるものです。目撃例の多くは、赤から黄色の暖色系の光を放つものが多いとされていますが、白色や青色、色の変化するものなどもあるとのことです。また、中には灰色や黒色の光が吸収されていると思われ、金属光沢のような色や、黒色のものもあります。

2014年の7月30日、中国南部の湖南省の養豚場で「球電」の爆発が発生、女性が負傷し170匹以上の豚が死ぬという事故がおこりました。怪我をした農夫の妻は、「それは大きな火の玉のように見え、突然爆発し、二股に分かれていった」と証言しています。10分ほど目が眩んで何も見えなくなったといい、彼女の左目は黒くなり足は出血していたそうです。

この養豚場の事件に先立つ2年前の2012年7月にも、中国中北部、海抜 1,600mにある蘭州で球電現象が目撃されています。西北師範大学の研究者は、この青海高原という場所で、分光器を設置して雷を観測していたところ、偶然にもカメラで球電現象を撮影することに成功しています。

一般的には、雷放電が激しく起きているとき発生することが多いといわれ、多くの場合には豪雨の際に現れます。大きさは10~30cmくらいのものが多く、中には1mを超えるものも存在します。数秒から数分間地表付近を動きまわって消失するといいますが、移動中の金属体を追いかける、送電線などの細い金属を蒸発させる、などの現象も確認されているといいます。

一説によれば、一つの球電が爆発した際に放出されるエネルギーは10キロ分のダイナマイトに相当し、焦げ跡や硫黄臭・オゾン臭を残すことが多いといいます。

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すさまじいエネルギーであり、この球電によって、死亡事故も起きています。

1753年7月、ロシアに在住していたドイツ人物理学者のゲオルグ・ウィルヘルム・リッヒマンはサンクトペテルブルグで針がねを用いた電気の誘導実験を行っている最中、突如発生した球電と接触し、感電死したと言われています。

彼は、自分の業績を後世に伝えるため銅像を作ろうと、たまたま彫刻師を自宅に招いていました。その直前に、あるシンポジウムに参加していた折には、外で雷鳴が轟いていたといいますが、それを退出して、自宅に彫刻家を招き、実験を行っていたようです。そのとき、突然球電が現れ、彼の額を貫きました。靴はズタズタとなり、服の部分は焦げていたといい、球電が貫通した彼の額には赤い点が残っていたといいます。

同席した彫刻家によれば、「小さな砲弾が炸裂したようだった」といい、入ってきた球電の威力は部屋のドア・フレームを叩き破り、ヒンジごと吹き飛ばすほどだったといいます。

リッヒマンはは、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員であり、電気学、大気電気学、熱量測定などの先駆的な研究に取り組んだことで知られています。電気の専門家であった彼が、よりによって電気実験の最中に球電現象で死ぬことになるとは皮肉なことです。

1987年には、日本でも目撃されており、しかも撮影された写真が残っています。長野県黒姫で日本の学生が偶然屋外で撮影したとされる写真で、球電を収めた数少ない貴重な写真として世界的に知られています。

このほか、2004年の夏頃、福岡県久留米市上空で青系列の球電が目撃されており、当時同地で雷雨による大規模停電が発生していたといいます。

球電は非常にまれな現象で、正体については諸説ありますが、どうやら雷に伴うことが多いらしいとうこと以外発生条件がつかめていません。

自然発生したプラズマのかたまりという説が有力ですが、科学者たちの多くは、「球電」と呼ばれている目撃例のすべてが同じ原理で説明できる現象ではなく、同じような見え方をするさまざまな現象が「球電」という言葉でひとくくりにされている、と考えているようです。従って、前述の狐火もまた、球電現象のひとつなのかもしれません。

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さて、長くなってきたのでそろそろやめようと思いますが、最後に、科学的にはまったく証明されていないものの、実際に起こったとされる不思議な現象をひとつだけ。

青森県の下北半島の突端に、尻屋埼灯台という灯台があります。「日本の灯台の父」と称されるイギリスの土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、1876年(明治9年)に完成した白亜の灯台で、二重のレンガ壁による複層構造の美しい灯台です。

現在も運用されており、日本の灯台50選に選ばれています。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は美しい景勝地となっています。

この灯台、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に米軍からの射撃を受け、このとき、村尾常人という標識技手が殉職しました(享年42歳)。灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されましたが、ブラントンによって設計された堅牢な躯体は残りました。しかし、運用不能になり、この日から灯台の灯りは消えました。

ところが、翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が突如として光を放つようになり、その目撃が相次ぎました。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられたため、当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになりました。

同年8月に霧信号舎(霧や吹雪などで視界が悪いときに船舶に対し音で信号所の概位・方向を知らせる)の屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えたといい、以来、人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊がおこした仕業なのではないかと噂しました。

その後修復され、銃撃の跡が今でも残る33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保っていますが、今はもう、ここに村尾標識技手の幽霊が出る、という噂はないようです。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)はここからすぐのところにあります。死者あるいは祖霊と生きている者との交感の際の仲介者として良く知られるイタコですが、ここで呼び寄せをしたら、あるいは村尾技師に会えるかもしれません。

自分が勤務した灯台において、死後も、何故あかりを灯し続けたかったのか、その気持ちをぜひとも聞いてみたいものです。

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