自然ってなんだっけ


そろそろ10月も半ば、最近になってようやく過ごしやすくなりました。

秋吹く風も涼しく、軽快な足取りで外を歩くことができます。

ただ、惜しむらくはその空気の中に、ほんの少しウィルスが含まれているかもしれないという懸念があることです。

最近かなり下火にはなっているというものの、もしかしたら… と考えると気楽に町中は歩けません。とくに人が密集している都市部にはいまだなかなか足を向けられないというのが現実です。

こうした昨今、安全に出歩けるのは人里離れた野山ぐらいです。奥深い山の中や霧深い渓谷に身を置けば、そこではマスクもはずして思い切り深呼吸ができます。

最近、週末になるとそうした自然を求めて、よく山野を歩き回るようになりました。伊豆には山奥ながらも足元がしっかりしたトレイルがいろいろあります。半日ほどもそこに身を置けば、心身ともにリフレッシュされるとともに、忌まわしい感染症のことも忘れていることができます。

あまり人には教えたくないのですが、最近のお気に入りのひとつが、伊豆の国市にある「浮橋市民の森」という公園です。

旧大仁町の町政50周年を記念して作られたもので、約15ヘクタールもの広さがある公園です。自然のままの起伏を活かした園内は、深い緑に囲まれ小川を中心にほどよく整備されており水遊びが出来ます。森林浴・バードウォッチングにも最適です。

標高の高いところにあるので、夏は涼しく過ごせます。まだ秋に行ったことはありませんが、モミジの木がたくさんあるようなので、これからが見頃でしょう。四季それぞれの植栽もいろいろあり、他の季節でも楽しむことができそうです。ただ、アクセスがよくなく、それがあまり人に知られていないゆえんです。






こうした自然に満ちた場所は人を幸せな気分にしてくれます。この「自然」は、英語に訳すと”natureになります。生まれや性格を意味するラテン語の”natura”に由来しますが、英語では、「世界の現象全体」という意味で1266年に初めて使われたそうです。

その昔の西洋の宗教学では、神と人間の間に位置するものと定義されていました。11世紀以降にキリスト教神学者・哲学者などによって確立された「スコラ哲学」では「神がお書きになった二つの書物のひとつ」とされています。

二つのうちの一つは、「聖書」であり、もうひとつが「自然という書物」です。聖書だけでなく、神が書いたもうひとつの書物である自然を「読む」ことによって、神の意図や目論見を知ることができる、と考えられていました。

この二つの書物は異なった言語で書かれていたそうです。聖書は人間が話す言葉で書かれ、もう一方の自然は「数的な言葉」で書かれていたといいます。

ガリレオ・ガリレイも次のように述べています。「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」。

英語で、“law”といえば法律のことですが、これにはもともと数学や物理などの「法則」という意味も含まれていました。古くはlayの過去の分詞だったそうです。「横たわる」と言う意味ですが、神が置く、整えるというのが原義であり、つまりlaw=法則=自然とは神によって「整えられたもの」ということになります。

現在でも大学の一カリキュラムとして採用されている「リベラルアーツ」の自由七科は、もともとはこうした神が与えたもうた法則や聖書の言葉を学ぶためのものでした。キリスト教の理念に基づいた教育体系であり、これを整えるためギリシャ・ローマ以来の諸学が集大成されてできたものです。

13世紀のヨーロッパで大学が誕生した当時、神学、法学、医学が主な科目であり、これを学んで卒業した人たちはエリートとみなされていました。ただ大学に入っていきなりこれを学ぶのではなく、その前の段階で学ぶべき基礎的な学問体系として用意されていたのがリベラルアーツです。

神学家や裁判官、医者を目指す学生たちは、それを本格的に学ぶ前にリベラルアーツの自由七科を哲学部ないし学芸学部といった場所で学習していました。これは現在でいうところの「教養学部」に相当するものです。

より具体的には、この7科はさらに3科と4科に区分され、うち3科は文法・修辞学・弁証法であって、これらは上の「二つの書物」のうちの「人間の言葉で書かれたほうの書物」を学ぶためのものです。つまり、聖書をよりよく理解するためのものと位置づけられていました。

一方、4科とは、算術・幾何・天文・音楽であって、こちらは人が理解するには少しばかり解説が必要なもの、とされていました。当時は天文も音楽も数学的なものとされており、この4科は「数の言葉で書かれたほうの書物」=「自然をよりよく理解するためのもの」という位置づけでした。

現在の自然科学は、この自然を理解するための4科の裾がさらに広がりあるいは深まって発展してきたものです。それに加え、上級学問である神学、法学、医学も合わさって形成されたものにほかなりません。

つまり、欧米において「自然」を学ぶためには、神の声を聖書で読んで理解し、加えて神の言葉を数学的に学んで基礎学力をつけたうえで、さらに上級の学問を学ぶよう仕向けられていたわけです。






それでは日本ではどうかというと、日本で「自然」という言葉が初めて使われるようになったのは平安時代のことです。平安末期の辞書である「名義抄」には既に「自然ヲノヅカラ」という表現がみられます。

日本語のルーツでもある中国でも、いわゆる老荘思想の中に「自然」という言葉が出てきますが、これらはいずれも現在のような自然を意味するものではなく、「意識的せずに」といった文章の言い回しとして使われていた語です。

老子の老荘思想における「無為自然」とは、「作為がなく、宇宙のあり方に従ってありのままであること」と解釈でき、ことさらに知や欲をはたらかせずに、ありのままに生きることがよい、と言う意味になります。

つまり、自然ではなく、これと対立する人為的なものを否定するという意味で使われており、ここから自然やそこに宿る魂(自然霊)を尊ぶ神道のような宗教が生まれてきたと考えられます。

自然という言葉を欧米のように「数的な言葉」と考え、科学の一端として捉えるようになるのははるかに後世のことです。人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際に使われるようになった言葉だと思われます。

それまでの日本では、自然は「じねん」と読むことが多かったようです。これは万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする仏教の無因論からきたものです。外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じることで「偶然」「たまたま」といった意味も持ちます。

現代語の「自然」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在せず、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけでした。仏教的な精神風土が日本に根付いた結果使われるようになったものといえます。






このように、「自然」と言う言葉の生い立ちは、日本と欧米ではかなり違っていますが、現在のように西洋的な自然の考え方が世界標準になり、東洋にも浸透し融合してからは、我々日本人が使っている自然もnatureとほぼ同じ意味合いのことばになっています

一方、「自然(=nature)」と言う言葉は、現在では「自然環境」の意味として使われることも多くなっています。

原生地域を意味することもありますが、通常は野生動物、岩石、森林、海岸など、人類に影響されていないものを指します。また人類の介入にも関わらず以前と変わらぬ姿を保持するものも指し、人工物や人間が介在する事象は自然の一部とは見なされません。

そして我々が普段言うところの「自然環境」とは地球のことにほかなりません。地球は今のところ生命の存在が確認されている唯一の惑星であり、その自然は様々な分野の科学的研究対象となっています。

太陽系においては、太陽に近いほうから3番目の惑星であり、地球型惑星としては最大であって全惑星の中では5番目の大きさです。その気候的特徴としては、2つの大きな極地があり、2つの相対的に狭い温帯があって赤道付近には広い熱帯と亜熱帯があります。

降水も地域によってかなり異なり、年間降水量が数mにも及ぶ地域もあれば、1mm未満の地域もあります。地球表面の71パーセントは塩水の海洋に覆われています。それ以外は大陸や島であり、人間が居住する土地の多くは北半球にあります。

地球は地質学的および生物学的プロセスを通して進化し、そこに古代の痕跡を残してきました。地球を覆う表皮、「地殻」は、過去にはほぼひとつにまとまっていましたが、その後プレートに分かれてゆっくりと移動し始め、今やユーラシア、南北アメリカ大陸、オーストラリア、アフリカ、南極などに分化しています。

地球の内部に目を向けると、そこは地球ができた当時と同じように活発に活動しています。岩石が溶解したマントルという分厚い層があり、その内側には鉄を多く含む核があって磁場を形成しています。






一方、こうした地球を取り囲む大気圏に目を向けると、そこは地球ができたころとは大きく変わってきています。

実はその構成は生命活動によって形作られてきたものです。火山やプレートといった地質学的な活動がそれを左右してきたと考えがちですが、こうした地表の条件を安定させるためには生態学的なバランスを取ることが必須であったといわれています。

気候がそのバランスを保つ重要なファクターであり、緯度その他の要因で気候は地域によって大きく異なるものの、長期的な全体の気候は氷河期の間はともかく、間氷期の間はほぼずっと安定していました。

この間、全体の平均気温が1、2度しか変化しないことで生態学的バランスが保たれてきたという経緯があり、と同時にそれが地球の地理の安定にも大きな影響を及ぼしてきました。植物や生物の存在そのものが地表の環境を左右し、また大気の成分の構成を変えてきたのです。

そう考えてくると「生態系」こそが自然を表す言葉ということになります。生態系というとすぐに植物と生物を想像してしまいますが、実はこれらだけで成り立っているものではなく、様々な「非生物」とともに構成されています。

生態系を形作る非生物として特に重要なものは、土壌、大気、太陽からの輻射、水、です。これらの非生物因子は、それぞれの生物と相互に関連付けられた形で機能しています。また、その構造と構成は生物との相互作用によって醸し出される様々な環境要因によって決定されています。

反対に、こうした要因の変化は生態系に動的な変化をもたらします。そして生物はこうした生態系という概念の中心です。生物が中心にあってその周辺の環境の全ての要素と相互作用している、というのが現在科学における生態系の基本的考え方です。

生態学の祖と言われたユージーン・オダムは、「与えられたエリアの全ての生体群とエネルギーの流れが明確に定義された栄養構造・生物多様性・系内の物質循環をもたらす物理環境を含む単位を生態系という」と定義しています。

難しすぎてよくわかりませんが、これは、生物と非生物の間の物質の交換をしているコミュニティこそが生態系だ、と言っているだけのことです。

また、生態系内では、様々な種が相互につながり、食物連鎖という形で相互に依存しており、種の間および周囲の環境との間でエネルギーや物質を交換しています。つまり、「生命」こそが生態系の要である生物を形作っているといえます。



では生命と生物の違いは何でしょうか。

生命とは、生物的な現象をおこす性質のことであるといえます。対して生物は、生命現象をおこす個体のことを指し、“生命現象“をおこす”物体“が「生物」です。

「生物が死ぬ」とは、生物が生命を失って抜け殻になることと考えることができます。また「生物が消える」と言った場合、たとえば宇宙空間などのように一切の生き物がいない状態を想像できると思います。現代科学では物理的に生物はそこにいられないと考えられています。

この「生命」の定義については、実は万人が合意したものというものはありません。スピリチュアルを信じている人たちは、死後の世界に棲む霊たちもまた生命(永遠の)、だと主張しています。ただ一般的な科学者たちは、生物学的な生命の証として、一般的に代謝、成長、適応、刺激への反応、生殖を挙げています。

一方、「生物」と言った場合、これは植物、動物、菌類、原生生物のほか、古細菌、真正細菌などの細菌までのものとするのが通常の考え方です。その共通する特徴としては、細胞があり、炭素と水を基本とする複雑な組織があり、代謝活動し、成長する能力があり、刺激に反応し、生殖するといったことです。

一般にこの「生物」の中にはウイルスは含まれていないとされます。生命の最小単位とされる細胞やその生体膜である細胞膜がないからです。また小器官もなく、自己増殖することがないためでもあります。

ただ、生物かどうかについては、上記のような科学常識とされる生物的な特徴すべてが必須とされるわけではない、と考える人もいて、生物に含めてもいいのではないか、とする見方もあります。これはウイルスは少なくとも刺激に反応し、生殖している、といったことなどからきているようです。

もっとも他生物の細胞を利用して自己を複製させるという点などは、明らかに普通の生物とは異なります。寄生が大きな特徴であって、生物というよりもむしろ極微小な感染性の構造体、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなっている物体にすぎない、とする学者もいます。

現在ではこうした非生物論が多数を占めていますが、未だに生物に含めるべきとする学者もいます。ウイルスは宿主に感染した状態では生物のようにふるまっており、これを本来の姿と捉えれば生物とみなせなくもない、というのがその理由のようです。

また、アカウントアメーバというアメーバの原生種の中に巣くうミミウイルスと呼ばれるウイルスのように巨大で複雑なものもあり、これはほとんど生物ではないか、といった議論があります。

通常のウイルスが小さいもので20〜40nm、大きいものも含め平均すると100nmほどであるのに対し、このウイルスは直径がおよそ750nmもあります。またゲノムサイズはおよそ120万塩基対、遺伝子数は980もある巨大なウイルスです。

一般的な細菌の大きさはウイルスの50倍程度、5000nm程度の大きさですから、やや小さいものの、これに匹敵する大きさといえ、こうしたこともウイルスも生物とみなせるのではないかという意見を後押ししているようです。



仮にウイルスを生物と見なすならば、その数や多様性は地球上で最も多いといえます。またメタゲノム解析(微生物を培養することなく、ゲノム(遺伝子等)を直接精製してその性質を調べる最新の解析方法)の実用化により様々な環境において「生息する」ウイルスが見つかっています。

これらの解析からは、宿主に残ったウイルス由来の遺伝子が生物進化に関わってきたことがわかっており、またウイルスが地球の生態系や気候にも影響を与えてきたこと、また現在も影響を与えているらしい、といったこともわかっています。

さらに動物や植物のほかほぼ全ての生物の内部に特有のウイルスが存在する、といったこともわかってきています。ヒトを含めた動植物に感染症など疾病を引き起こすウイルスはごく一部ですが、発見・分析されていないウイルスが野生鳥獣を宿主とするものだけで170万種もあるそうです。

その半数が人獣共通の感染症の病原体になるリスクがあると推計されていますが、残りのものは無害と考えられているようです。

それほど多くのウイルスが地球にいるのなら、全宇宙にはもっとたくさんのウイルスがいるのではないか、と考えることもできます。ここまで「自然」の定義を地球に限定して書いてきましたが、それを宇宙空間にまで広げるとすると、天体の大気圏の外側に広がる宇宙の空虚な領域までもが「自然」ということになります。

地球の大気と宇宙空間の間には明確な境界は存在せず、大気は高度上昇と共に徐々に薄くなっていますが、それがどこかでぷつんと切れているわけではありません。その延長線上に宇宙は広がっており、そこには目には見えない素粒子が充満していると言われています。無ではなく何かがそこにあるならばそこもまた自然と考えることができます。

これまで地球外では生命体は発見されていないとされていますが、生物の範疇をウイルスにまで幅を広げて考えるなら、もしかしたら、と言うことも考えられます。ウイルスは生命体に寄生するからこそ存在できるとされていますが、広い宇宙のこと、もしかしたら生命体に依存しないウイルスもいるかもしれません。それをウイルスと呼ぶかどうかは別として。



地球は太陽系内で唯一生命体が存在することが知られていますが、火星にはかつて地表に液体の水が大量に存在していたことを示唆する証拠が見つかっており、そのため、かつて火星には短期間かも知れないが生命が存在していた可能性があります。もしそこに生命がかつて存在していた事実が証明されればそこにもまたウイルスがいたかもしれません。

そのほかの惑星、例えば水星や金星といった他の地球型惑星は、我々が知っている様な生命を維持するには厳し過ぎる環境と見られていいます。しかし、木星の4番目の大きさの衛星エウロパは、氷の地表の下に液体の水の層があると見られており、生命の存在する可能性が指摘されています。

最近、スイスの天文学者たちが赤色矮星グリーゼ581の周囲を回るグリーゼ581dという太陽系外惑星を発見したそうです。このグリーゼ581dはその恒星周囲のハビタブルゾーンにあると見られており、我々が知っているような生命が存在する可能性が大だそうです。

そして、そうした地球外惑星に棲む生物にもまたウイルスが宿っている可能性があります。
いつか、我々人類がそうした生物をみつけ、地球に持ち帰ったとしたら、そうした生命体に宿る未知のウイルスが地球に巣くう時代が来るのかもしれません。

そうしたウイルスによる感染は、地球に大きなダメージを与えるかもしれません。しかし、一部のウイルスなどに見られるように、宿主の生存に有利に働くウイルスも多いと考えられます。それらはむしろ地球の生態系を進化させるかもしれません。

将来、我々の科学技術がもっと発達したら、そうした有利な面だけを取り込むことができるようになるに違いありません。いつか、地球外からきたより優れたウイルスの力を借りることによって、人類はより強靭な肉体を持つようになるのかもしれません。

今はまだウイルスにおびえる日々が続いていますが、いつかそんな日がくる、それを期待したいものです。