戦後日本のパラダイムシフト

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明日15日は終戦記念日です。

日本政府は、海外で戦争に従事した引揚者に対して、給付金の対象となる期間を定める関係から、昭和42年(1967年)より8月15日を「終戦日」としており、1965年(昭和40年)からは政府主催で毎年この日に「全国戦没者追悼式」を行うようになりました。

ただし、これより以前にも散発的に追悼式典は行われており、一番最初の追悼式典は1952年(昭和27年)5月2日に、新宿御苑で政府主催で昭和天皇・香淳皇后の臨席のもとで行われています。また、1959年(昭和34年)3月28日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、その竣工式と併せて厚生省の主催で実施2回目の式典が行われました。

その後、閣議決定で毎年追悼式典が行われることが決まり、1963年(昭和38年)には8月15日に初めて式典が行われました。この第3回式典の会場は、日比谷公会堂でした。また、翌年の1964年(昭和39年)8月15日には今度は靖国神社で第4回式典が開催されました。

現在のように日本武道館で行われるようになったのは、翌1965年(昭和40年)8月15日の第5回式典からであり、以後、毎年この日に武道館で式典が行われています。追悼の対象は二次大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人です。

毎年、この式典の式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれ、これがテレビで放映されるのが印象的です。一般にもこの日が、終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれます。

しかし、日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が「終結した」とされる日については8月15日以外にも諸説あり、主なものは以下のとおりです。

1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日(ただし、連合国による条約“締結日”は、1951年9月8日)。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれています。

また、国内新聞各社はかつて、東京湾東部(中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域)に停泊する米戦艦、ミズーリ号の甲板上でポツダム宣言受諾の調印式が行われた9月2日を、「降伏の日」や「降伏記念日」、「敗戦記念日」と呼んでいました。

しかし、上述のとおり昭和42年(1967年)に「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」が定められてからは、法律的には8月15日を「終戦日」と呼ぶようになりました。

以後、小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史分野)の多くも、「終戦の日」を8月14日か8月15日と記すようになり、9月2日については単にミズーリ号上での降伏文書調印式に触れるだけで、「降伏記念日」には言及しないことも多くなりました。

またサンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及している教科書が多いものの、実際の日本での発効日、1952年4月28日については、記載されることが少なくなっています。

ところが、高等学校日本史教科書の多くは、9月2日を「終戦の日」として記載するものが多くなっており、その一方で、8月14日は「ポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日」、8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」とより具体的に記されています。が、この日は「終戦の日」とは記していない場合が多いようです。

これはおそらく、小中学生には終戦の日の議論は難しすぎるので、お盆期間でもある8月15日を終戦の日として印象付けたほうがより理解が深まる、と考えたからだと思われ、一方、高校では、戦争終結日に対して、より突っ込んだ議論をさせたい、あるいは戦争についてより深い理解ができる年齢に達している、と考えたためではないかと思われます。

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このように、一口に終戦の日、といっても解釈はまちまちです。が、最大公約数的には、1952年のサンフランシスコ平和条約が発効した日、4月28日が戦争に対して一応の区切りがついた日と考えることができるでしょう。日本が国際社会に復帰した日でもあり、すなわち「日本の主権回復の日」であるわけです。

戦争の相手国であった「連合国各国」と日本国との平和条約が発効した日でもあり、この日を境にGHQの占領も終わりました。その正式名称もGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP) であり、これは、「“連合国”最高司令官総司令部」と日本語訳されます。

しかし、「連合国」とはいえ、複数の国が駐留していたわけではなく、連合国軍の1国にすぎないアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP)として就任し、その総司令部が東京に設置されていました。

4月28日以降、便宜上このGHQとしてのアメリカ軍部隊は去り、日本とアメリカの間で締結された「安全保障条約」に基づき「在日米軍」に衣替えしました。つまり、そうした意味では、この日以降日本の「戦後」が始まったといえます。

それでは、この年1952年(昭和27年)の4月以降、日本にはどんなことが起こったでしょうか。

「血のメーデー事件」は、この年の5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、学生を中心としたデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件です。この事件は全学連と左翼系青年団体員らの一部左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られており、この学生運動では戦後初の死者を出しため、「血の」と称されました。

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議していました。

この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いました。

その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込みました。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じました。

乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めました。

応援の予備隊が到着して警察側の総数は約2,500名となりましたが、一方のデモ隊も数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなります。警察部隊は催涙弾を使用しましたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めました。

この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石しました。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させました。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となりました。

その結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及びました。

この事件では、デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴され、うち16名が暴力行為等の有罪判決を受けました。

さらにこのあとの5月9日には、警官隊、早大の警官パトロール抗議集会に突入して学生ら100人以上負傷した「早大事件」が起こっており、この血のメーデー事件の余波と考えられています。

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年表をみると、この1952年にはこの後も、5月26日に高田事件(愛知県名古屋市瑞穂区)、5月30日・大梶南事件(宮城県仙台市の大梶南地区)、6月5日・万来町事件(山口県宇部市)、6月24日・吹田事件(大阪府吹田市・豊中市)、同日・枚方事件(大阪府枚方市)、7月6日・大須事件(に愛知県名古屋市中区大須)と次々に事件が起こっています。

実はこれらはすべて在日コリアンがらみの争乱事件です。

この背景には、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したことがあります。この戦争では、当初戦況はソビエト連邦が支援する北朝鮮が優位でしたが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変し、逆に韓国優位となり、韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達しました。

ところが、今度は急遽参戦した中国人民志願軍によって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続くようになりました。当時の日本は、連合国軍の占領下にあり、朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として朝鮮半島への軍事作戦を展開していました。

またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請しました。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始しました。

こうした動きに対して、北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こすようになりました。但し、その後次々と起った事件の首謀者がすべてが朝鮮人というわけではなく、また必ずしも北朝鮮支持者というわけでもありませんが、こうして次々と争乱が起こった背景には朝鮮戦争への日本の間接的な参加がありました。

また、この当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調しており、この二者がこうした争乱においてタッグを組むことも多くありました。

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これら一連の事件の中でも最大規模だったのが、「吹田事件」です。この舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺にはアメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していていました。また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成されていました。

1952年6月24日夕方、阪大豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催され、学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加しました。

集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択され、集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになりました。

このデモ隊は、翌25日未明から西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動しましたが、このうちの山越部隊が、途中にあった笹川良一宅に「ファシスト打倒」と称して投石したり、国鉄労働組合の中野新太郎邸の障子を破ったりしました。

一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入りました、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要しました。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになり、電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、午前5時ごろ山越部隊との合流を果たしました。

合流後、デモ隊は南下し摂津市千里丘の須佐之男命神社に到着。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていましたが、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破しました。

デモ隊はさらに暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負いました。また午前7時ごろ茨木市警察の軽装甲機動車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げ、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負いました。

この後も、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などし、その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となりました。ところが、解散したデモ参加者らが大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとしたところへ30人の警察官が追いつき、解散した(元)デモ隊と衝突しました。

これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出ました。この際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負いました。のちに列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市もこれを承認しています。

この事件における裁判では、吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった山本治雄を主任弁護士として結成され、弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、国会でも吹田事件を取り上げて警察などによる「弾圧」の不当性を訴えました。

この結果、1963年6月の第一審判決で裁判所は騒擾罪の成立を認めませんでした。検察は111人の被告人のうち47人を起訴していましたが、その後行われた1968年7月の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となっただけで、騒擾罪の無罪は変わりませんでした。

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さらに、1952年7月6に起こった「大須事件」は、先の「血のメーデー事件」とこの「吹田事件」と並んで「三大騒擾事件」とされています。愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件で、中華人民共和国の北京で日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の「帆足計」と改進党の「宮越喜助」の両代議士が帰国し、この日に名古屋駅に到着した際に起こりました。

両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行しましたが、これは名古屋市警察によってすぐに解散させられました。しかし、その際12人が検挙され、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚しました。

このため、翌日の1952年7月7日(月曜日)に、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させました。午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行されました。

集会は夜の午後9時50分まで行われ、これが終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めました。警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、果たしてデモ隊は放送車に向かって(予定通り)火炎瓶を投げ込み炎上させました。

警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行しましたが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥りました。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生しています。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷しました。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙しました。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である「祖国防衛隊」とも連携しながら実行に移されたことが判明しました。

名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴し、裁判は当初の予想よりも長期化しましたが、1978年9月、最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定しました。

なお、これに先立つ6月2日には、「菅生事件」が起こっていますが、この事件には朝鮮人は関与していません。大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件とされます。

犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件でしたが、この事件が起こった背景には、この年頻繁におきた多くの動乱に関与し、背後で操っていたのが日本共産党である、と警察がみなしていた、ということがあります。

日本共産党は党内の過激派である「所感派」が1950年に武装闘争方針を採り、農村に「山村工作隊」を組織。左右の対立が先鋭化する中、この6月の菅生事件までに白鳥事件(1月21日)、青梅事件(2月19日)、辰野事件(4月30日)などを発生させており、この当時は現在では考えられないほど「活動的」な党派でした。

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こうした動乱の歴史的な意味はさておき、このように、「日本の主権回復の日」である、4月28日以降の1952年は、大荒れで日々が過ぎゆく、といった感じであり、波乱に満ち満ちた「戦後」の始まりでした。しかし、こうした、騒ぎは7月以降は沈静化していきました。そして、1952年8月28日には第3次吉田内閣下での衆議院の解散が行われました。

これ以前の1946年には、GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生しました。その後、第2次、第3次吉田内閣が発足しますが、1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了すると、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除され、これによって鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求しました。

このころから政局は混乱するようになり、吉田派の派内では「広川弘禅」と「増田甲子七」の派内抗争が発生。1952年7月、吉田は自由党幹事長ポストを、増田から自身の側近であった1年生議員の福永健司に指名し、議員総会において抜き打ちでその指名を敢行しようとします。ところが、反対派が激しく抵抗し失敗に終わります。

吉田は、このような事態を打開するために、8月28日に不意をつく形で解散を断行しました。この解散は、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定されました。

いわゆる「抜き打ち解散」であり、この解散は、自派では密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的で行われたものでした。

このときの衆議院議長は、8月26日に議長に就任したばかりの大野伴睦でしたが、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となりました。

大野は第一次吉田内閣発足のころから、吉田茂のお目付け役として幹事長に就任するなど党内の実力派でしたが、その後の10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後に吉田によるバカヤロー解散が行われたため、このときも議長を長く務めることはありませんでした。

この解散を受けて、10月1日に第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らしました。

そして、新たに発足したこの第4次吉田内閣による政府下で、10月25日、「ポツダム命令」が完全に廃止されました。

ポツダム命令とは、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、GHQ最高司令官の発する要求事項があった場合には、日本の法律よりも優先して、その要求事項が実施されるように、日本政府が便宜を図る、とされるものです。

一応、日本政府が命令する、という形をとりますが、日本の政府が定めた法律を飛び越して頭ごなしにGHQの命令がまかり通るよう、その要求事項を無条件に受け入れるよう定めたものであり、罰則も可でした。

ポツダム命令により定められた事項は多岐にわたりますが、占領初期にはこのポツダム命令は「非軍事化・民主化」政策の推進という役割を果たしました。

GHQは、昭和21年(1946年)にこのポツダム命令のひとつである、「公職追放令」を出しましたが、これにより戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われるとともに、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象となり、こうした財閥関係者には大きな打撃となりました。

その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となりました。また、公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返りました。

しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまいます。

逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰しました。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されましたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多くありました。

その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における中国共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(いわゆる「逆コース」)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わりました。

逆の見方をすれば、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた、ということになり、これを「レッドパージ」と呼びます。1万を超える人々が失職し、「赤狩り」とも呼ばれました。

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こうした労働運動や社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになったのがポツダム命令であり、「公職追放令」がこれに含まれていた他、「政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件」や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが含まれていました。

このポツダム命令は、上述のサンフランシスコ講和条約が発効する、4月28日には廃止される予定であり、GHQはその条約の発効が近づくと、行き過ぎた占領政策の見直しが図られました。

その一環として、1951年5月にマシュー・リッジウェイ司令官は、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めました。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われました。

そして、昭和27年(1952年)4月28日、ついにサンフランシスコ平和条約が発効(1952年)し、と同時にポツダム命令は廃止され、「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」が発布されて、公職追放令も廃止されました。

上でこの年の5月以降の多くの争乱、動乱について長々と書き連ねましたが、これら動乱の発生は、こうした公職追放令や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが廃止されてすぐから発生しており、ポツダム命令の廃止と無縁ではないことがわかります。

こうしたポツダム命令の多くは、サンフランシスコ講和条約の発効に伴って、「日本の主権回復」がなされた4月28日に廃止されましたが、ただし、その後の混乱を避けるため、必要なものは条約発効の日から「180日間限り」で廃止される、という決まりになっていました。

日本政府としても、こうしたGHQが定めたいくつかの命令は、その後も社会主義運動などを取り締まる上で便利だったため、この間に引き続き新たに代替の法律を制定したり、法律としての効力を有するように存続措置がとられました。

しかし、180日が過ぎた10月25日にその残ったポツダム命令も完全廃止されたことから、これにより、GHQからの縛りだ、という言い訳は通用しなくなり、これらの法律のゴリ押しはできにくくなりました。こうしてポツダム宣言という過去の亡霊の影響も受けることなく、日本は完全に自由になり、国際法的にも日本は完全独立した、というわけです。

従って、本当の意味での日本の終戦は、平和条約が発効してポツダム命令が完全廃止された、1952年10月25日である、ということがいえるのかもしれません。

ただし、このとき、ポツダム命令を完全に日本の法律・政令・省令に代えてしまったものの中には今も効力を持って存続しているものもあります。

・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……
・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く運輸省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……(その他多数)

といった「ポツダム宣言の……」という文々が含まれている法律がそれであり、法令番号は制定時のものがそのまま付されることになっています。

無論、日本国の法律としての効力を持っており、連合国から何ら干渉を受けることはないものですが、いまだにポツダム宣言の名残がここにある、というのは何やら悩ましい限りであり、日本の戦後はまだ続いているのか、と思わせるようでいやな感じです。

とはいえ、この10月25日をもってひとまず日本は、「いまだ戦時中」という呪縛からは完全に解き放たれることとなりました。

この年は動乱争乱のような暗い話題ばかりではなく、5月19日には、白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになるなど明るい話題も増えました。

1月23日には、国会中継の放送がスタート、3月31日には日本文化放送協会(現在の文化放送)開局、4月1日には、硬貨式の公衆電話が登場、7月29日、日本のアマチュア無線が再開(全国の30人に戦後初のアマチュア無線局予備免許発給)など、国内の通信網がようやく正常化した感のある年でもあります。

また、4月18日・西ドイツの間に国交樹立、5月15日・イスラエルの間に国交樹立、7月19日~8月3日・日本代表がベルリンオリンピック以来16年ぶりにヘルシンキオリンピック(夏季大会)に参加、8月13・国際通貨基金 (IMF) に加盟、といったふうに徐々に日本の国際社会への復帰が始まった年でもあります。

その後1950年代は、冷戦構造の固定した時代として位置づけられるようになっていきます。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになりましたが、これは日本も同じです。都市近郊には郊外住宅が発達し、政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視されました。

こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつきました。また、世界的にみれば、朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍拡競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こりました。そしてこの緊張は日本にもおよび、政治的な保守化につながっていきました。

1960年代は、日本ではいわゆる「高度成長期」となり、著しい高度経済成長を経験しました。以後、1970年代の「成長期」、1980年代の「最盛期」を踏まえ、1990年代ついにはバブルがはじけて、「衰退期」に入りました。その後2000年代は「成熟期」という見方もありますが、衰退期の延長とみなす人も多いようです。

2010年代をどう呼称するか、についてはまだその途上にあるため、なんともいえませんが、東日本大震災からの復興も含めて、早くもこの時代を「再生期」とする人も多いようです。が、これが正しいかどうかはまだわかりません。

ただ、日本の主権が回復し、戦後復興が始まった1950年代と今のこの2010年代が似ている、という人もおり、そうだとするならば、これからの日本は再び高度成長を遂げ、再び絶頂期を迎えることになります。

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パラダイムシフト(paradigm shift)というのがあります。その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言います。こうした「再生」の時期にこうしたパラダイムシフトが起こると時代は面白くなるし、かつ起こりやすいともいわれるようです。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるため、厳密な定義は特になく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイディアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われています。

人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、それが認識、理解、解釈、行動、態度を決めています。従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができます。

「妻と義母」というだまし絵(隠し絵)を見たことがある人も多いでしょう。1枚の絵が、画面奥に顔を向けている若い女性、あるいは横顔を見せている老いた女性のどちらにも見えるというものです。19世紀からある古いもので作者は不詳ですが、これはパラダイムシフトの例として、良くとりあげられます。

このほかパラダイムシフトの例としては、「天動説」があげられます。旧パラダイム(天動説)が支配的な時代は、多くの人(科学者)がその前提の下に問題解決(研究)を行い、一定の成果を上げますが、その前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場します。

このような問題が累積すると、異端とされる考え方の中に問題解決のために有効なものが現れ、解決事例が増えていくことになります。そしてある時期に、新パラダイム(地動説)を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになり、以後、歴史的にみても以上の動きが繰り返される、というものです。

こうしたパラダイムシフトの例としては、ほかにも相対性理論(アインシュタイン)があり、また進化論(ダーウィン)もそのひとつです。日本では、織豊政権・江戸幕府による、武士の在地領主から大名直属の軍団・官僚への転換が、過去における大きなパラダイムシフトだったといわれています。

大日本帝国憲法が日本国憲法に全面改訂されたことによる大日本帝国の体制消滅と日本国の成立も近代におけるパラダイムシフトです。また今日、これまで述べてきたような第二次世界大戦という経験とそれに伴う「終戦の日」にかかる様々な出来事も、歴史的なパラダイムシフトであったことは間違いないでしょう。

2010年代に、さらにどんなパラダイムシフトが現れるか楽しみではあります。が、同時に昨今の日本の右傾化をみていると、なにやら空恐ろしいかんじがしないでもありません。

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小笠原

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今日は、日本に初めてペリーのアメリカ艦隊がやって来た日です。

いまから165年前の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時に浦賀沖に現れ、停泊したその黒々とした船体は、それまでもたびたび日本近郊を訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、その様子から、日本人はこれを「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていました。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。

さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。実はこの突然のように見える来航は、事前にオランダから日本側に通告がありました。このため、幕府は先刻承知済みであり、江戸の町民にその旨のお触れも出していました。

にもかかわらず、この黒船の最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。しかし慣れとは面白いものです。それがやがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられています。

これが、長い鎖国を経てアメリカという国と日本人が接した初めての出来事とされるわけですが、実は、このとき浦賀にやってきたペリー提督らは、その前に同じ日本である小笠原諸島に立ち寄り、ここを探検していた、という話はあまり表だって語られていません。

小笠原諸島は、「特別区」として東京都に編入されている島々で、東京都「小笠原村」とされている30余の島々を指します。東京の南南東約1,000km以上の太平洋上にある島々で最大のものは父島、母島などでこれらを含むものが「小笠原群島」として知られます。

ここで、小笠原の命名の由来について述べておくと、1593年(天正20年)に信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼なる者が発見したという説があるようです。しかし出典が明確ではなく貞頼という人物の存在自体を否定する説もあります。

これを根拠に1727年(享保12年)、貞頼の子孫と称する浪人者の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出ました、これが始まりで、ここは小笠原島と呼ばれるようになります。

しかし最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまい、貞任はその後領有どころか詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けています。

この小笠原諸島というのは、小笠原群島だけではなく、ここから南西へ300kmほど離れた硫黄島なども含みます。太平洋戦争時にアメリカ軍との激戦地となった島であり、これは北硫黄島、南硫黄島と合わせて「硫黄列島」または「火山列島」とも呼ばれます。

その名の通り活発な火山活動によって出きた島々であり、また最近噴火して日々その領域を広げ続けて話題となっている「西之島」も小笠原諸島に含まれます。、さらに本州から1800kmも離れた日本最東端としても知られている「南鳥島」や「沖ノ鳥島」もまた小笠原諸島です。

このうちペリーらが探検をしたのは最大の父島です。ここに上陸する前には、琉球王国にも寄港しており、この浦賀来航よりもひと月以上前の5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊しました。ペリー入国を拒否する琉球王国側を無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍し、開国を促す大統領親書を王国側に手渡しました。

王国側は困惑したものの、来客への慣例としてぺリーらに料理をふるまってもてなしをさしました。が、このとき、清からの使者に対するもてなしよりも下位の料理を出したそうで、そのことにより、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していたといいます。

しかし、ペリーはそれに気が付きませんでした。琉球王国としては表面的には友好的に振舞い、まんまとペリーをあしらったつもりであり、このためその後の武力制圧を免れました。ただ、このように曖昧なままに終わらせてしまったため琉球王国はその後、アメリカが日本やアジア諸国へ進出するための前線基地として長い間利用されるハメになりました。

この琉球王国にペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、小笠原諸島を探検しました。現在は明らか日本の領土と世界から認識されているとはいえ、ここのころにはまだ領有のはっきりしていなかったこの島の領有の可否を判断しようとしたためです。

とはいえ、その探検はわずか4日ほどです。6月9日に琉球を出航、6月14日から6月18日にかけてのことであり、このとき父島の西側にある二見浦にペリーは上陸しました。2組の調査隊を出してこの島を探索し、その結果、このひとつの調査隊がカナカ人が島の数カ所に点住していることを発見しました。

カナカ人とは、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民であり、いわゆる太平洋南部のミクロネシアからやってきた移民であり、カナカは「黒い人」の意味です。さらに山稜を越えて島の南に降りていくと、ポリネシアのマルケサス諸島のヌクヒバ島出身者の居住者を発見し、さらにタヒチ出身の黄褐色肌の住人がおり、彼は英語を少し話しました。

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ちなみにミクロネシアとポリネシアの違いですが、ミクロネシアは「小さな島々」という意味で、オセアニアの中で日本にもっとも近いところに位置する、どちらかといえば「西太平洋から南太平洋にかけてのエリア」で、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島やマーシャル諸島、パラなどが含まれます。

一方、ポリネシアは、「多くの島々」という意味で、北半球に属するハワイ諸島のほか、南半球に散在しているトンガやサモア、タヒチ、クック諸島、イースター島、ニュージーランドなど、「中央太平洋から南太平洋にかけてのエリア」になります。

もうひとつ、我々には馴染の少ない言葉ですが、「メラネシア」というのもあり、これは「黒い島々」という意味で、オーストラリアの北東部の海域を指します。上述のふたつよりもエリアとしてはかなり限定的ですが、ここにはニューギニアや、ニューカレドニアなどの比較的大きな島々が含まれ、ソロモン諸島、ヴァヌアツ、フィジーもここに含まれます。

父島の南端でポリネシアからの移民をみつけたペリーの調査隊の一行は彼らが片言の英語を話すことを見て驚き、訝しみましたが、彼等は、さらに北部へ進んで調査を進めた結果、そこにと比較的大きな集落を発見。これは現在の扇浦付近と呼ばれる場所ですが、驚くべきことにそこには、ナサニエル・セイヴァリー(セボリー)というアメリカ人がいました。

実は、このセボリーはアメリカ東海岸のマサチューセッツに生まれで、長じてからハワイに移住しましたが、そののちここで太平洋の西のほうに未だアメリカ人が見知らぬ島があるという噂を耳にし、これがきっかけで小笠原へ入植したのでした。

このころ林子平という地理学者が「三国通覧図説」という地理本を出しており、その中に小笠原諸島についても記載がありました。これがオランダ交易の中でヨーロッパにもたらされ、翻訳されてボニン・アイランズ(Bonin Ilands)の名で知れ渡っていました。

ボニンとは、「無人」が訛ったもので、もともとは「無人島」として記されていたものですが、これをフランス人の東洋学者が翻訳したものです。無論、この当時日本は鎖国しており、近づくことはできませんでしたが、この本が広く紹介されるようになったことから、日本近海である小笠原諸島へは欧米の外国船がしばしば寄港するようになっていました。

そうしたヨーロッパ船の中に、イギリス海軍のブロッサム号という船がありました。ブロッサム号は、行方不明船となった自国船を探索するため、その船が消息を絶った日本近海にやってきていたのでしたが、1827年5月、この艦の艦長、フレデリック・ウィリアム・ビーチーは、琉球から東へ進路を取り、このボニン・アイランズをめざしました。

そして一行は6月8日に小笠原の島々を発見。翌9日に現在の父島二見港のある湾から島へ上陸してみると、前年行方不明となっていた捜索目的のイギリスの捕鯨船、ウィリアム号の乗組員2人、すなわち水夫長ウィットリエンと水夫ピーターセンに遭遇しました。

早速彼等にこれまでの事情を聞いたところ、彼らはその前年に湾内に停泊中に突風で難破し、その後寄港した、ティモール号という別の捕鯨船に仲間は救出されたことがわかりました。しかし、この2人は自らの意志で島に留まり暮らすことにしたと語りました。

このとき、ビーチーは2人に帰国を促したといいますが、このときにはまだ彼等にはその気がなかったようです。もう少しここで生活してみたいという彼等2人を残し、ビーチーらは島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けただけで、父島を出航しました。

この父島に残されたこの水夫2人は、翌1828年5月にここを訪れたロシアの調査船セニアビン号でその後帰国しています。このとき2人はこの無人島?での生活にほとほと疲れていたようで、同号が二見港に着くと促されるまま、ほうほうの体で島を後にしたようです。

一方、その後ホノルルに寄港したビーチーは、このボニン・アイランズのことをホノルルに入植したばかりのセボリーに話して聞かせました。これを聞いたセボリーが、在ホノルルのイギリス領事に相談した結果、ここへの入植計画がもちあがりました。

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こうして、天保元年(1830年)、イタリア出身のイギリス人と・マテオ・マザロを団長とするイギリス人2名、セボリーを含むアメリカ人2名、デンマーク人1名の5名と、ハワイ人男女25名がホノルルを出港し、6月26日に父島の扇浦に到着し、入植をはじめました。

その後、1835年に、マザロはハワイに一時帰国。イギリス領事に自分ら「小笠原移住民」の保護を請願していますが、このとき、この入植地には原住民はいなかったと報告しています。しかし、実際には上述のカナカ人やポリネシア系移民が多数居住していました。

マザロやセボリーらの入植後は、各国の捕鯨船が頻繁に寄港するようになり、彼等は物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していました。このように、この当時の小笠原諸島は全くの孤島ではなく、英米と強いつながりを持っていました。

ところが、その後入植者の英米人のあいだで対立が起き、その中でマテオ・マザロは死に、もう1人のイギリス人リチャード・ミリチャンプはグアムへ去ると、アメリカ人、ナサニエル・セボリーが事実上の首長的地位につきました。

その後、1851年4月にイギリス軍艦エンタープライズ号が父島に寄港しましたが、このときの艦長の航海記には、セボリーはまだ健在であること、また入植後20数名の子どもが生まれ半数は死に、また成長後島を出て行った者もいると記されていました。

また島内には、捕鯨船から脱出したハワイ・オアフ島出身の使役船員たちが身を隠していたことや、その他の船が寄港した際にも、病気のため下船しそのまま島に住み着いた白人がいたことも書かれていました。

これらのことから、ここでの生活はかなり過酷なものであるにもかかわらず、アメリカ人やポリネシア人にとっては一種の「駆け込み寺」的な存在であったことがうかがわれます。

ちなみに、これに先立つ5年前の1847年には、ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航しています。彼はその6年前、手伝いで漁に出て嵐に遭い、仲間の漁師とともに伊豆諸島の鳥島に漂着し、そこで米捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助されました。

漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降りましたが、ジョン万だけが船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて渡米し、教育を受けたあと、彼自身も船乗りを目指しました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、1846年(弘化3年)から捕鯨船員として生活していましたが、この父島への寄港はそのときのものです。

後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになりますが、それはこのときよりもさらに15年もあとのことになります。

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そして、1851年のこのエンタープライズ号の寄港から2年後の嘉永6年(1853年)5月、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が小笠原を訪れました。彼等は、その後首長のセボリーとも親しくなり、いずれこの地をアメリカの植民地とする際には、その新政府の頭目に彼を据えようと考えたようです。

このときのペリーらの航海日誌には、父島には最年長のセボリーなどの欧米系白人のほかにミクロネシア系カナカ人やポリネシア系移民がおり、全体で39人の島民が住んでいると記されています。

その2カ月後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーは浦賀に入港し、日本の開国へ向けて大統領の親書を幕府に手渡しました。翌年2月には7隻の軍艦を率いて再び横浜沖に迫り、早期の条約締結を求めた結果、3月に日米和親条約が締結されました。

さらに1858年7月に日米修好通商条約が締結されました。日本に関税自主権がないなど、この条約は日本にとっては不平等なものでしたが、こうしてともかく日米の交易が始まると、下田・箱館に加え、その後も神奈川、長崎、新潟などが次々と開港・開市されました。

そして、1861年12月(文久元年11月)、幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告。翌年1月には、外国奉行水野忠徳と、ジョン万次郎を含む一行が咸臨丸に乗り込み、同船を含む4隻の艦隊で小笠原に派遣されました。その目的は「開拓調査」でした。

ジョン万次郎が選ばれたのは上述の通り小笠原付近に知識があったためであり、また当時ここに住んでいた英米人とも面識があったあめであり、しかも通訳としても有用だったためです。ちなみに万次郎はこの翌年に幕府の軍艦操練所教授となっており、帆船「一番丸」の船長に任命されると、同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行っています。

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水野はこの小笠原での開拓調査に赴く前に、駐日イギリス公使やアメリカ合衆国公使に接触をしており、その目的は、アメリカやイギリスの小笠原領有の意思があるかどうかを内々に確認しておきたかったためでした。

これに対してアメリカ公使ハリスは、「本国政府へ報告し回答を待つ」と答えて即答を控え、ただ「小笠原島在住アメリカ人の既得権の保護を要請する」とだけ水野に伝えました。一方のイギリスの対応はというと、イギリス公使オールコックは、日本との貿易の伸長のみを主張し、領土に対する野心がないという態度をとりました。

その背景には、ちょうどそのころ、ロシア軍艦が対馬を占領する、という事件があったことが関係していました。この対馬占領のロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたためでした。

これに対してイギリスは、公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。老中・安藤信正らと協議した結果、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議を行いました。

その結果、ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、対馬から退去しました。しかし、イギリス側にはこのように幕府に加担してロシアの侵略を阻止した手前、自分たちも小笠原を領有したい、とは言いだせない雰囲気がありました。さらにイギリスは「東禅寺事件」をめぐって、幕府と問題を抱えていました。

東禅寺事件というのは、攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、1861年と1862年の2回発生したものです。最初の事件は、文久元年(1861年)5月、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件で、彼は危うく難を逃れましたが、書記官と長崎駐在領事が負傷しました。

事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみました。

水野忠徳がオールコックに小笠原の領有の意思を確認しようとしたのはちょうどこのタイミングでした。イギリスはこの東禅寺事件において日本との交渉を有利に進めようとする中で、下手に小笠原の問題を持ち出せば、交渉が難航する可能性があると考えたわけです。

こうして、水野は、イギリスに小笠原の領有の意思がないことを確認し、アメリカからは明確な回答がない状況下ではありましたが、咸臨丸で父島二見湾に入港しました。そして、ジョン万次郎を通訳として島の長であるアメリカ人、セボリーと会談しました。

この会談の中では、35年前にイギリス人ビーチーが、島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けた話なども出たようですが、水野は上述のとおり事前にイギリスに領有の意思がないことを確認しており、あえてその話は深入りしないようにし、セボリーらアメリカ人の現在の島での生活についての話題を中心にしました。

セボリーらもこの島での過酷な生活に辟易していたようで、自分たちの生活の将来に憂いたこともあり、この会談の結果、日本人らに島内の木々の伐採や野獣の狩猟を認めました。しかし、セボリーらも自らの生活に必要な分は自由に採ることを幕府側に認めさせるなど、双方にとってのハッピーハッピーの結論が強調されました。

一行は続いて母島にも向い、この合議の結果の通達を行っています。無論、この協議結果はアメリカ本国政府からの回答を得る前のことでした。が、日本側としては既に各国に小笠原開拓の意思を表明してしまっており、かつ現地の最高責任者セボリーも異議を唱えなかったことから、その後アメリカが小笠原領有を主張してくることはありませんでした。

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この翌年の文久2年(1862年)には、再び東禅寺において、警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺する、という事件が起こりました(第二次東禅寺事件)。幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行いましたが、紛糾するうちにさらに次の事件、生麦事件が発生しました。

現・横浜市鶴見区生麦付近において、薩摩藩の島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件で、尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となりました。

このための賠償にあたっての日英交渉はこじれにこじれ、このためイギリスとの一戦が懸念されるようになると、翌年、小笠原では日本人全員に避難命令が出されました。

1863年(文久3年)6月、イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要します。が、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出したため、ついに「薩英戦争」が起こりました。

この戦闘において、イギリスは薩摩の軍事施設や城下へ甚大な被害を与えました。が、一方の英側も戦艦の大破1隻・中破2隻、死者13人を含む死傷者63人の被害を出し、弾薬や石炭燃料の消耗も激しかったことから薩摩を後にし逃げ帰るように横浜港に戻りました。

当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退したこの結果は、世界を驚かせ、当時のニューヨーク・タイムズ紙に「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と言わしめました。

しかし結局、この戦争の後始末は当事者の薩摩ではなく幕府がやることになり、幕府は生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見ましたが、この賠償金の受領によってイギリスは小笠原への入植の理由づけを失いました。また小笠原への執着は損益の方が大であり、他の港での交易を優先すべきと判断するに至ります。

幕府もまたこのころから自国領土というものを強く意識するようになったようで、そのため小笠原も日本固有の領土、と諸外国に認めさせるため、その後も八丈島などから日本人入植者を次々とここへ送りこみ、開拓を進めました。これによりさらにイギリス人が入り込む余地は少なくなりましたが、この点はアメリカも同じでした。

ところが、明治になってこの小笠原問題は再燃します。イギリスはかつてビーチーが父島に領有の証しを残したことを理由に突如この島の領有を主張。このため、日本政府は1875年(明治8年)、この当時国内における最優秀船であった「明治丸」を父島へ派遣しました。

同年11月21日、明治丸は日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港しましたが、新鋭船であるため船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着きました。このためイギリスよりも早く調査を進めることができ、このため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたといわれています。

このとき、調査団はセボリーの息子ホーレス・セボリーやフランス人ルイ・ルサールを含む13戸68人(男性36人、女性32人)および日本人女性2名を父島で確認しています。
そして、翌1876年(明治9年)小笠原諸島を内務省所轄とし、日本の統治を正式に各国に通告し、ここに小笠原の日本領有は確定しました。

その後1882年(明治15年)には、居住していた20戸72人全員が、帰化して日本人となりました。ちなみに明治丸はその後、1887年(明治20年)にも東京府知事、高崎五六らを乗せた硫黄列島の視察調査にも従事しました。その結果、1891年(明治24年)にここも日本の所轄となり、1904年(明治37年)には硫黄島への入植・定住が始まりました。

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その後の第二次世界大戦中の小笠原諸島は、戦火が間近に迫っていると判断されたことから、1944年(昭和19年)に父島母島を中心とする住民7000人弱が本土へ強制疎開されました。が、残留者800人は余りはその後の戦闘に巻き込まれました。

父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していましたが、その後陸軍築城部父島支部が設置され、砲台が築かれ1941年からは戦備に入りました。日米開戦後は陸海の各部隊が防備にあたるとともに、海軍航空隊が防備に当たっていました。

1944年、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれ、同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入りました。

この頃から父島要塞への米軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失しました。

しかし日本側の反撃も激しく、幾つかの米軍機が対空砲火で撃墜されており、その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていました。

その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎える事となります。戦闘も食糧事情もそれほど厳しいものではありませんでしたが、これに対して、両国にとって最も戦略的に重要とされたのは硫黄島であり、ここでの戦いは熾烈でした。

日本側守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となり、第二次世界大戦中を通してノルマンディー上陸作戦を上回る各国最大の犠牲者を出しました。この硫黄島の事については、後日また日を改めて書いてみたいと思います。

この硫黄島での激しい戦いに物資や食料の抽出が行われた事もあり、父島では、残留島民のみならず守備兵も困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられました。が、空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ、食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されていました。

そうした中で、「小笠原事件」と呼ばれる事件も起きています。日本の陸海軍高級幹部が、米軍捕虜8名を処刑し、うち5名の人肉を嗜食したとされる事件です。陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものですが、人肉を食するほど食糧事情が悪化していたわけではない中での出来事であり、戦後大きな批判を呼びました。

1945年9月3日、米海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。父島は米海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われました。10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たしましたが、占領下での困窮した生活の中、要塞跡内の兵器の残骸を屑鉄として回収し生計を立てる住民もいました。

戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離されました。そして欧米系島民のみが帰島を許されました。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校の「ラドフォード提督初等学校」で英語による教育を受けました。

1956年に設立された9年制の学校で、「ラドフォード」は当時のアメリカ海軍第七艦隊司令官の名に由来します。職員は3人だけで、学習用語は英語で、軍人や欧米系島民の子弟がここで学びました。島内には高等学校は無かったので、進学希望者はグアム島の高校へ進学しましたが、のちの日本復帰後は、小笠原村立の小中学校になりました。

1967年(昭和42年)、小笠原諸島の日本への返還が決まり、1968年(昭和43年)6月26日には 協定が発効し、小笠原諸島は日本に返還されると同時に、東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属するようになりました。かつて小笠原支庁直轄だった硫黄列島および西之島もこのとき小笠原村の区域となりました。

日本への返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存するようになりました。このほかの欧米系島民の出自は、米本土、ハワイ、イギリス、ポリネシアのほか、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、など多種多様です。

しかしアメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住した人達もいます。

残った多くの欧米系島民はその後姓を日本風に改めました。アメリカ系であるセイボリーは「瀬掘」あるいは「奥村」に、ワシントンは、「大平」・「木村」・「池田」・「松澤」、ウェッブは「上部」に、ギリーは「南」にといった具合であり、ほかにポルトガル系のゴンザレスは「岸」・「小笠原」になどに姓を変えています。

4~6世代目を迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくないようですが、今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫だそうです。

日本に帰化した後も、キリスト教を信仰するなど彼らの文化を維持し続けたものもおり、言語についても日本語の中に英語の語彙が混じる一種のピジン言語・クレオール言語化した「小笠原方言」が用いられています。

2011年(平成23年)、小笠原諸島は、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多いのが特徴です。

先の大戦で日本は多くの者を失いましたが、幸いにもこの小笠原諸島は取り戻すことができました。日本の固有の領土として育んできたこの豊かな自然を未来永劫守っていきたいものです。

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