ダウンフォール作戦

9月になりました…… いや、なってしまいました。

8月中には諸問題を片づけて、9月からは仕事に邁進しようと考えていたのですが、あいかわらず暑いこともあり、思うようになかなか作業がはかどりません。

9月もまだまだ暑い日が続きそうですが、今週末ぐらいから徐々に空気は入れ替わってくるようで、その秋の風に期待したいところです。

さて、このたび新規一転ブログの装丁を変えました。……といっても大幅にコンテンツが変わったわけではなく、気分に応じて背景やヘッダー画像を自由に変えやすくできるタイプに変更しただけです。

ご覧いただいている方にはあまり大幅な変更をしたような印象を与えないようなるべく配慮したつもりですが、改めて見ると……やっぱ変わっていますよね。

ま、これまで通り毎日見て頂いていればそのうち、次第に慣れて頂けると信じ、とりあえずはこの装丁のまま続けさせてください。

ところで、このブログの外観を変える過程で、過去の記述のバックアップを取る必要があり、その際、一部の画像などが化けてしまうという不具合があったため、この際と思い、これまでのブログを手間暇かけてひとつひとつチェックしました。

そしてこれら過去のブログをみているなかで、昨年の富士山の初冠雪は9月の12日だったことに気がつきました。朝起きて、いつもと富士山の様子が違うな……と思っていたら、その日のうちに気象庁からも初冠雪を確認した旨の報道があったことなども思い出しました。

12日といえばもうあと10日ほどです。今年は暑いのでどうなのかなとは思うのですが、初冠雪の平均発生日は、14日なのだそうで、だとすればそれほど遠い先ではなさそうです。

ただ、富士山の初冠雪は、おととしの2011年は24日、また2年前は25日、さらに3年前の2009年には10月7日までずれ込んでおり、その他過去には10月になってからでないと見られなかった年も結構あるようです。

ま、初冠雪があったからといって、何を得するわけでもないのですが、やはり夏の終わりを感じさえる一番わかりやすい指標でもあります。夏の暑さが苦手な私としては、できるだけ早く夏が終わったと証明するものが欲しいと思う次第。

ならばいっそのこと、人工的に雪でも降らしてしまえばいいのに、とまでも思ったりするのですが、仮に可能だとしても一般の賛同や公の許可が下りないでしょうね。

もっとも、雪を降らせるのにも多大なお金がかかるでしょうから、本気でそんなことをしようと思う人はいないでしょう。降らせたところでそこでスキーができるわけではないし……

ところが、戦争ともなればこれぐらいの規模のことはもし成果があるのならばやってみようか、と考える輩が出てくるようで、太平洋戦争でも、この富士山に雪……ならず、なんとペンキをぶっかけようという計画があったそうです。

アメリカのCIA(アメリカ中央情報局)の前身であるOSS(戦略情報局)には「神経戦部」という部局があり、ここのスタッフが考えた作戦だそうで、彼らは戦争末期の時期において“何をしたら日本人がへコむのか”ということを本気で研究していたといいます。

その結果として、米軍は「武力抵抗は無駄だ」というようなことを書いたビラなどを飛行機で散布していますが、いまひとつパッとした効果が出ず、「このまま戦っても無駄だ」と日本国民の士気を落とすためにもっと効果的な方法はないか、ということで考えだされたのが、この「赤ペンキ作戦」だそうです。

その主旨としては、日本人はこの山を大変愛しており、その理由はやはりあの美しさからゆえであり、これをペンキで塗って汚したら、さぞかし士気が落ちるに違いない、というもので、なんだか子供の喧嘩でガキ大将にいつもいじめられているひ弱っこが考えそうな発想です。

誰しもが馬鹿げていると思うに違いありませんが、ところが、驚くなかれこの作戦は、基礎提案の段階で、おおむね了承を得たということで、さらに具体的な実施方法を検討するよう指示が出たといいます。

この結果に喜んだ神経戦部のスタッフが早速検討しましたが、その結果としては、この作戦の実行は現実的でないことがわかりました。

実際に富士山を真っ赤にするためにどれほどのペンキがいるのかを試算したところ、表面積から考えて、必要とされるペンキはおよそ12万トンも必要だということがわかり、これを一斗缶18リットルに換算すると、およそ670万缶が必要になるという計算になります。

さらに仮にこの量が用意できたとしても、それを運ぶにはB29が約3万機いることがわかり、このB29をマリアナ諸島から飛ばすとすれば、富士山まではおよそ2500キロ。このために必要燃料は現在のお金に換算すると1機200万円くらいになり、すなわち燃料代だけでも600億円の費用がかかる計算になるそうです。

無論、その結果として日本人の戦意が本当に落ちるかどうかもわからず、逆に「やったぁ、赤富士だ~」といって喜ぶかもしれず、ということで、結局このプランが実行に移されることはありませんでした。

しかし、実際にこれだけのペンキが放出されたなら、これを除去するには相当な年月がかかったことでしょう。とはいえ、冬の間にはこの赤く染まった富士にも雪が降って白くなるでしょうから、夏の間は赤富士が楽しめ、冬には白富士とひとつで倍おいしいということにもなり、富士山鑑賞の楽しみが増えていたかも。考えようによっては残念です。

……とばかなことを書いていると富士山信仰をいまだに持っている団体さんなどからお叱りがくるかもしれないので冗談はこれくらいにしておきましょう。

ところが、この赤ペンキ大作戦はさすがに見送られたものの、米軍としては実際に日本に上陸した場合、自軍の部隊にどういう展開をさせるかということを別途真剣に検討しており、この作戦全体は、「ダウンフォール作戦(Operation Downfall)」と呼ばれていました。

いわゆる「日本本土上陸作戦」の作戦名であり、実際には発動前に日本が降伏したために、この計画は中止されましたが、この降伏がなければこの作戦は実際に間違いなく実行に移されていたでしょう。

ダウンフォール (Downfall) とは英語で「失墜」「滅亡」などといった意味であり、太平洋やアジア各地で大敗を続けても頑なに抵抗を行い続けていた日本に対し、その本土での陸上作戦を行い戦争を終結させるために検討された作戦、という意味も持ちます。

その具体的な内容ですが、「オリンピック作戦」と「コロネル作戦」というふたつの作戦から構成されており、両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにすることなどに主眼が置かれていたそうです。

この作戦の序盤には広島と長崎への原爆投下が含まれていましたが、実際に実行に移された原爆投下に引き続き、日本本土に大規模な部隊を上陸させる予定だったといい、この舞台はその後、生物兵器、核兵器、放射能兵器などのいわゆる大量破壊兵器(NBC兵器)による無差別攻撃や、マスタードガス、サリン攻撃などの化学兵器を用いる予定だったといいます。

まるで今、シリアがやっているようなことをまさにこの当時の米軍は考えていたわけであり、このほかにも、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事までも考えていたそうです。

オリンピック作戦とコロネル作戦の違いは、オリンピック作戦は、日本の中枢である東京のある関東を占拠することを目的とする最終決戦であり、コロネット作戦のほうはこれを実現する前の前哨戦という位置づけでした。

つまり、オリンピック作戦では、まず九州南部への上陸し、九州全体を占領したあと、ここを足掛かりとして最終的には関東を占拠するオリンピック作戦が実施される予定でした。

このため、前哨戦であるコロネット作戦では、まず関東空襲を実施するための飛行場を九州に確保することが重視されました。

具体的なXデーまで決まっていたそうで、それは1945年11月1日だったそうです。九州へ投入される予定の海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻と400隻以上の駆逐艦が投入される予定であり、さらに陸上部隊は14個師団の参加が予定されていました。

これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入され、また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日ごろには高知県沖でもって、一師団8万人規模の陽動上陸行動を行うことも計画されていました。

この九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていたといい、さらに米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻してもほとんど死者を出さずにすむと信じ、この毒ガス戦を展開できるよう、マスコミと協力して世論づくりまでしていたという極秘資料が近年暴露されています。

この当時は既に、ジュネーブ協定で毒ガスの使用は国際的に禁止されていましたが、これより以前に日本軍が中国でサリンを用いたという事実を米軍は把握しており、これが米国側の罪悪感を軽減したともいわれています。

上陸予定地点は、宮崎、大隅半島、薩摩半島などで、動員される兵力は25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団だったそうで、この上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍は太平洋に散開していた艦隊のほぼ全部を投入する予定だったといいます。

もしこのものすごい勢力が九州に上陸していたら、このとき既にかなり疲弊していた日本はそう長いあいだ持ちこたえることはできず、おそらくは一週間も持たずしてここは占領されていたに違いありません。

その後、この九州を足場にして関東への上陸が実施される予定であったコロネット作戦についても、その「Yデー」までもが決まっており、これは1946年3月1日だったといいます。

コロネット作戦は、オリンピック作戦に続く最終決戦であったことから、その規模もさらに大幅にアップし、洋上予備も含めるとオリンピック作戦での18個師団を上回る25個師団の参加が予定されていたといいます。

こちらの上陸予定地点は湘南海岸であり、ここから相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東へ向けて東京都区部へ進行する予定でした。また、これと並行して九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけてにも侵攻をかけ、この両方から首都を挟撃することが予定されていました。

さらには、このYデーの3ヶ月前から、艦砲射撃と空襲によって関東地方に大規模な破壊活動を行なう予定だったといい、その攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機のほか、九州と同様に化学兵器の使用も含まれていました。

計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であり、これらの作戦によってだいたい10日くらいで東京を包囲を完成させる予定でした。

ところが、このアメリカの大規模な侵攻計画を実は日本側では事前にキャッチしていたといい、コロネット作戦における侵攻地が南九州と南四国であることも知り、その侵攻の時期・規模をほぼ正確に予想していたそうです。

そしてこれに対して、「決号作戦」と呼ばれる作戦を用意していましたが、これは大本営の提唱する「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入するという作戦でした。

まさに名前を変えた集団自殺であり、こうした狂気の発想を普通のことのように考えていた日本帝国陸海軍の指導者たちが、その後東京裁判で厳しく弾劾されたのはあたりまえといえばあたりまえです。

アメリカは、このダウンフォール作戦全体の連合軍側の損害予測としては、死傷者約27万人程度とみなしていたようですが、その後占領軍司令官として日本に赴任してくることになるマッカーサーはフィリピン戦などの経験に基づき、この死傷者約5万人程度と少なめに見積もっていたといいます。

が、実際にはどうだったでしょう。おそらく実施に移されていればこれだけの軍隊と大量破壊兵器よって、これを上回る大規模な被害が出ていたのではないでしょうか。

広島の原爆による被害は死者だけでも約24万、長崎は13万人といわれており、死傷者ということになるとその倍以上とも言われていますから、これと同等以上の被害が出ていたとしても不思議ではありません。

しかもサリンなどの化学兵器や生物兵器が使われたことによる後遺症にも悩まされたと思われ、戦後70年近くたってもなお、原爆の後遺症に苦しむ人達に加えて、日本はこうした障害者も抱え込むことになっていたかもしれません。

しかし、このダウンフォール作戦は、トルーマン大統領がポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、中止を命じたことで実際に実施されることはありませんでした。

大統領が中止を決断した最大の理由は、原爆の成功でした。この成功がアメリカよりもいち早く日本侵攻をしようと考えていたソ連をけん制することになり、満州まで接近していたソ連はついに日本上陸にまで至りませんでした。

アメリカにすれば、ソ連に対して、ワシの獲物だ手出しするな、と規制事実をつきつけたことになったわけです。

そしてその目論見どおり躊躇するソ連をみて、これで日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させることが可能になったと判断し、指揮者であったトルーマン大統領もまた、とりあえずこの原爆の成功によって今後日本がどのような行動をとるか、降伏するかどうかを様子見しようと考えたのです。

従って、もし広島と長崎への原爆投下が失敗していたら、まず間違いなくこのダウンフォール作戦は実施に移されていたと思われ、そのあかつきには、日本全土がサリンガスや生物兵器の行使によって汚染されるというおぞましい結果になっていたことでしょう。

原爆は確かにこれ以上の悲惨な結末を招きましたが、その投下の成功がダウンフォール作戦の実施の抑止力となったというのは皮肉な結果ではあります。

そしてそれから70年近くが過ぎ去りました。

そのアメリカが今は大量破壊兵器を持っているとされたイラクを攻撃し、またサリンなどの科学兵器を使ったとしてシリアを攻撃しようとしています。

時が経てば立場も変わるのさ、といいたげなアメリカ軍部の連中の声が聞こえてきそうですが、いつの世にも自分の都合の良い立場で軍事力を使いたいほうだい使ってきたこの国に、はたしていつまでも日本は寄り添っていていいのか、とついつい考えてしまいます。

国益のためにシリアを攻撃する、とまことしやかに述べているようですが、太平洋戦争後70年近く経つ中、ベトナム戦争やイラク戦争を経験してきた現在の一般アメリカ国民も、この国益とは何ぞやというところは、さすがに疑問視しているようです。

もうそろそろ他国へのおせっかいはやめて、独自の文化の熟成のほうに力を注ぐべき時代だと思います。日本もまたしかり。自分より大きな魚にくっついて暮らす小判ザメのような行為はやめにして、無駄な軍事費を削減すれば、消費税のアップもしなくて済むかもしれません。

皆さんはいかがお思いでしょうか。