今日、7月18日は、「マダム貞奴」で知られる、川上貞奴(本名、川上貞、旧姓:小山)が生まれた日だそうです。
東京・葭(よし)町の芸者となり、「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚、民間人がまだほとんど海外に出ることのなかった明治時代において、共にサンフランシスコでの公演で舞台に立ち、これにより日本の女優第一号と言われ、その後帝国女優養成所を設立、帝劇女優劇の基礎を築いた人です。
今日が誕生日ということなのですが、これは明治4年(1871年)のことであり、このころはまだ暦が新暦になる前のこと。従って、新暦に直すと9月2日生まれということになります。
「マダム貞奴」の名は、29歳のときに夫とヨーロッパ公演を行ったときにその舞台が評判になり、付けられた名前です。
最初はロンドンで舞台に立ち、その後、パリでも公演を続け、これも大好評であったため当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会にまで招かれ、ついにはパリの社交界にもデビューすることになり、このころから「マダム貞奴」の通称で呼ばれるようになりました。
こうした華やかな名声に彩られる一方で、そうした成功に至るまでは夫の音二郎の破天荒な生き方に翻弄され、一時は無一文になって二人で国外逃亡を図ったり、海外公演で公演資金を興行師に全額持ち逃げされ、餓死寸前になったりするなど、波乱万丈の前半生を送っています。
しかも、若くして夫が亡くなったあとは、昭和の「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介とねんごろになり、ついに結婚はしなかったものの、彼とその後の一生を共にしており、この愛人との数々のエピソードもまたその当時のマスコミを刺激し、たびたび新聞の三面を飾るネタとなりました。
こうした波乱の人生を送った女性としては、以前このブログでも取り上げた、同じ女優の岡田嘉子や李香蘭こと山口淑子のほか、女優ではありませんが男装の麗人と呼ばれた川島芳子などが思い浮かびますが、このマダム貞奴の人生もまた、彼女たちの人生に引けを取らないほど、激しいものでした。
このため、死後60年以上もたった現在でも、演劇の題材としてよく取り上げられ、一番新しいところでは、三谷幸喜作の舞台で「恐れを知らぬ川上音二郎一座 」というのがあり、これは2007年に上演されました。
この劇は、型破りな演劇人・川上音二郎を題材の中心に据えていますが、その妻である貞奴との夫婦愛や劇団員たちとの奮闘をも巧みに描いた喜劇・群像劇で、三谷氏は本作により、2007年度第7回朝日舞台芸術賞・秋元松代賞を受賞しています。
このほか、宝塚歌劇団でも一本立てのミュージカルとして上演されており、こちらは「夜明けの序曲」というタイトルで、花組男役トップスター「松あきら」が音二郎を、「若葉ひろみ」が貞奴を演じました。
1982年の初演ではこの年の芸術祭出品作品となり、同賞大賞を受賞。また、1999年の再演では、花組男役トップスターの「愛華みれ」が音二郎を、「大鳥れい」が貞奴を演じています。
1985年(昭和60年)には、NHKの大河ドラマにもなっており、この時の作品「春の波濤」では、貞奴を松坂慶子、音二郎を中村雅俊が演じました。しかし、平均視聴率は18.2%、最高視聴率は24.7%と低迷しました。
しかも、NHKはその原作が杉本苑子の「冥府回廊」としていたものの、「女優貞奴」など、明治期の女性を中心とした伝記などを執筆していた山口玲子氏が、その著書からせりふなどの盗用があるとして、著作権侵害で名古屋地裁に提訴。
地裁では敗訴となり、名古屋高裁、最高裁にも上告しましたが棄却ということで、結局その面目はなんとか保たれましたが、NHKはその後、こうした「近代物」を取り上げることにすっかり意欲を無くしてしまいました。
その後昭和期まで生きた実在人物を主人公とした大河ドラマ作品は長いこと作られることはありませんでしたが、その禁をようやく破ったのが、今年の「八重の桜」ということになります。果たしてその視聴率は大丈夫でしょうか。
ちなみに、私もこの春の波濤は見ていません。
冒頭の初回か2回目かは見たような記憶がありますが、このころちょうどアメリカ留学の準備をしていたころで忙しかったせいもありますが、主人公の貞役の松坂慶子と、イケメンの中村雅俊という組み合わせがどうもしっくりこず、なかなかドラマの中に入っていけず、途中で見るのをやめたような記憶があります。
この項を書くにあたっては、貞奴や音二郎が残した数々のエピソードや残されている写真なども色々みたのですが、どうも、この二人の俳優さんのイメージとは合わないような気がします。
写真をみると、貞奴はややしもぶくれで、ふっくらしたかわいらしいかんじの美人であり、どちらかといえばタヌキ顔です。が、今はともかく若いころの松坂慶子さんはどちかかといえばキツネ顔であり、いい役者さんには違いないのですが、本物の貞子が持っていたようなエキゾチックというか、コケティッシュなかんじには少々欠けるような気がします。
なので、もし私が同じドラマで配役をするとすれば、例えば藤原紀香さんとか、最近モスクワで賞を受賞した「さよなら渓谷」で有名にもなり、大河ドラマ「龍馬伝」にも出演していた真木よう子さん、あるいはビールのCMで大人気の檀れいさんあたりのほうがぴったりくるのでは、という気がします。
一方の音二郎のキャスティングも失敗だったと思います。実際の音二郎は、中村雅俊さんのような二枚目ではありません。どちからといえば三枚目で、しかもどこかおっちょこちょいで何かしでかしそう~な顔をしており、こういうタイプは芸能界でいえば、お笑い芸人の中によくいそうです。
とんでもないことを言ったりやったりするのだけれども、どこか憎めない、男性にも女性にも好かれるタイプ、といった感じであり、誰がいるかな~と考えたところ、明石屋さんまさんとか、ビートたけしさんあたりがこれに該当するかも、と思い当たりました。
しかし、お二人ともかなりの高齢?であり、しかも三枚目すぎるような気もしますし、彼らと紀香さんやよう子さんを組み合わせるのは多少無理があるかも。だとしたら、オリエンタルラジオの中田敦彦くんぐらいかな~と思ったりもするのですが、どんなものでしょう。
……とまあ、私のイメージはこうなのですが、言いたかったのは、この貞奴と音二郎の結婚というのは、それぐらいギャップがあるもので、まさに美女と野獣の結婚というかんじで世間にも受け止められていたようです。
それではこの二人の経歴をみていきましょう。
貞奴
貞奴のほうは、本名は「小山貞」といい、東京・日本橋の両替商・「越後屋」の12番目の子供として明治4年に生まれています。ところが、その後生家は没落しており、このため7歳での時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となっています。
芳町という町名は今は使われていません。現在の日本橋人形町周辺にあった花街であり、かつて「元吉原」と呼ばれ、遊廓がたくさんあるいわゆる赤線地帯であり、とはいえ、東京ではこの時代には高所得者ばかりが利用する一流の遊び場でした。
この貞奴、芸事にはかなり才能があったようで、とくに日舞の技芸に秀でて頭もよく、文字通り才色兼備であったために女将に認められ、花街の住人皆が憧れる伝統ある「奴」の名跡を拝領。やがて芸妓としてお座敷にあがることになりました。
ちなみにこのころの芸名はまだ、「奴」であり、「貞奴」を襲名するのはその後、音二郎との結婚を機にしてからのことになります。
芳町は、場所柄も東京の一等地にあり、政府高官もよく訪れる一流の花街でした。多数の政治家が出入りしており、この中には大臣クラスの人物や高級軍人などもいました。
時の総理大臣や伊藤博文もまたここによく出入りしており、貞奴はとくに伊藤の贔屓(ひいき)受けていたといい、このこともあって、彼の子分的存在であった西園寺公望などからも引き立てたれるようになりました、
西園寺公望もまた、後に総理大臣となっており、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼しましたが、このころにはまだ第2次伊藤内閣の文部大臣として初入閣を果たしたばかりのことでした。
しかし、総理と文部大臣にとりたてられるということはすごいことであり、この時点で既に「日本一の芸妓」とまでいわれるようになっていました。
そして、この西園寺公望の媒酌人として、やがて貞奴は川上音二郎と結婚することになります。
音二郎
音二郎のほうは、1864年(文久4年)に福岡の博多で生まれており、貞奴よりも7歳年上になります。川上家は、福岡藩の郷士でしたが、商売も営んでおり、しかもかなりの豪商であったと伝えられています。
若いころには論語や孟子を学び、旧制福岡中学校の前身にあたる藩校、修猷館(しゅうゆうかん)にも進学しましたが、このころに実母が死亡。ところが後妻として川上家に入った継母との折り合いが悪く、音二郎は1878年(明治11年)家を飛び出し、大阪へ行く便船をみつけて密航を図りました。
この企ては途中で発覚し、あやうく連れ戻されそうになりますが、監視の目をかいくぐって出奔し、その足で江戸へ向かいました。その道中でも無銭飲食を繰り返したため、江戸にたどり着くまで追っ手に追われ続けていたといいます。
江戸では口入れ屋(武家や商家などに奉公人等を紹介する手配師)に転がり込み、なんとかここの奉公人にしてもらいますが、長続きせず、その後は転々と吉原遊郭などで下働きなどをしながら食いつないでいました。
その後、何等かの縁があって芝の増上寺の小僧をするようになりましたが、この寺に毎朝に散歩に来る人物がおり、これがなんとかの有名な福澤諭吉でした。ご存知のとおり、慶應義塾の創始者ですが、音二郎もほどなくこの事実を知り、福沢に頼み込んで学僕にしてもらうことに成功。
実は、この福澤の娘婿が、のちに貞奴と生涯をともにすることになる「福澤桃介」であり、ともにこの諭吉に助けられ、同じ女性を愛することになるというのは、本当に不思議なことです。おそらく、彼ら全員が前世ではソウルメイトであったに違いありません。
ともかく、こうして音二郎が得た仕事は雑用ではありましたが、これによってようやく落ち着いた生活をすることができるようになり、塾の手伝いをしながらも合間をみては学問もするようになります。しかもかなり真面目に勉強したようで、その勤勉ぶりが認められ、やがて福沢の紹介もあって警視庁に入り、巡査となりました。
ところが、結局この警察勤務もまた長続きせず、退職。このころ自由民権運動がさかんになっていたことからこの世界に身を投じるようになり、自らが反政府組織の「壮士」であると周囲に吹聴するようになりました。
最初は適当なことばかり言っていたようですが、しかし次第に本格的な活動を行うようになり、19歳のときには正式に「立憲帝政党」に認められ、その党員となっています。
また、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成に参加。玄洋社というのは、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗することを主張する、どちらかといえばかなり右寄りの団体でした。その後は明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持ち、日本が太平洋戦争に突入する原因を作ったともいわれています。
このころから、音二郎は自らを「自由童子」と名乗るようになり、大阪を中心に演説、新聞発行などを行うようになりましたが、その内容の大半は政府攻撃であったために、度々検挙されています。
しかし、その一方では21歳のときに、「講談師」の資格を得るなど芸事にも熱心に取り組んでおり、自由民権運動の弾圧が激しさを増す中、1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打った興行を行っています。
これが彼が演劇人として活動した最初であり、このとき23歳。また、その後は落語家の桂文之助にも入門し、浮世亭◯◯(うきよていまるまる)とも名乗るようになります。
その後、各地で演劇や落語の公演をやりながら、その中で政治風刺を続け、その芸風を固めつつ、また磨いていきましたが、改良演劇の興行を行ってから3年ほど経ったころに、世情を風刺して歌った「オッペケペー節」を発表。これが大衆に大いに受け、大評判となりました。
時はその後勃発する日清戦争時を前にしたぶっそうな世相の中のことでもあり、このころの政府はといえば、すぐにでも対外戦争へ突入していきそうな激しい右傾化が生じており、しかもこれに反対する民主活動家には激しい弾圧を加え始めていたころのことです。
そんな中で大ヒットしたオッペケペー節は、こうした民主活動への弾圧を風刺するものとして、そのブームは最高潮を迎えていきます。
1891年(明治24年)には、書生や壮士ら素人を集め「川上一座」を立ち上げ、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げしたのを皮切りに、東京でも中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。この中でもオッペケペー節を唄ったところ大いにうけ、東京でもその大流行が起こりました。
これら畿内や東京で上演された演劇の内容はいずれも政府風刺を基本としたものであり、各地での公演における乱闘騒ぎに憲兵が登場するのは日常茶飯事だったといいます。憲兵と運動家の争乱はもとより、ときには会場にいる自由民権派同士のいさかいなどもあり、音二郎もまたよくそこに下りて行って、自らもその乱闘に加わっていたといいます。
このオッペケペー節の歌詞は結構長いものですが、その一例を以下にあげておきましょう。
「権利幸福嫌ひな人に、自由湯をば飲ましたい、オツペケペーオツペケペツポーペツポーポー、固い上下の角取れて、マンテルズボンに人力車、意気な束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで、うはべの飾りは好いけれど、政治の思想が欠乏だ、天地の真理が分らない、心に自由の種を蒔け、オツペケペオツペケペツポーペツポーポー」。
結婚
このオッペケペー節の大ヒットの余波を借りて、川上は1893年(明治26年)、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間ですが、パリの演劇事情を視察しています。が、その翌年の1894年に帰国し、前述のとおり、西園寺公望の媒酌で貞奴と結婚しています。
なぜ、神田葭町の一流芸者であった貞と、こうした破天荒な壮士芝居の川上音二郎と一緒になったのかについては諸説があるようです。
伊藤博文が貞をひいきにしていたため、伊藤が川上に会わせたためという話や、奴のお母さんが壮士芝居を見て、たいへんおもしろいから行っておいで、ということになって見に行った、という話もあります。
また、貞はこの当時大人気だった歌舞伎役者の中村福助に惚れていて、彼とのデートの約束をスッポカされたところ、同じ場所で川上音二郎も別の女性との約束をスッポカされ、これがきっかけで二人が結びついた、とう話もあるようです。
さらには、貞は乗馬が大好きだったということですが、ある日馬に乗っていたら落馬してしまい、たまたま通りかかった川上が気つけ薬を飲ませた、という話もあり、実際の話とは少々違いますが、この乗馬場での出会いというのが二人のなれ初めの話の本命のようです。
いずれにせよ、こうした伝説がいろいろ出るようになったのは、音二郎のような乱痴気騒ぎが大好きな書生かたぎの役者が、一流の葭町の芸者と一緒になったという不思議から出てきたことでしょう。
貞はこのころまだ23歳の若い盛りであり、しかも現在でも通用するような美人さんです。これに対して、年齢も既に30歳となり、それほど男前ともいえないような音二郎と貞との結婚は誰しもが驚いたことでしょう。
しかし、音二郎の本質は、博多っ子の典型のような人だったといい、非常に気っ風のいい人物だったという評もあり、東京の下町にある花街育ちで、男と言えば金持ちばかりを見てきた貞には、こうした貧乏ながらも奔放な男性はとてつもなくまぶしいものに見えたのかもしれません。
こうして、二人は結婚し、貞は川上と一緒になってからはそれまで「奴」とだけ名乗っていた芸名を「貞奴」と名乗るようになり、そればかりではなく、音二郎にも影響されて、時には彼の主宰する芝居にも出るようになりました。
しかし音二郎の破天荒な性格が災いし、このため夫婦生活は苦しく、しかもそんな中、音二郎は、衆院議員の選挙に出馬するという「暴挙」に出ています。
ところが、一体何をやり始めるかわかったもんじゃない、とうような危ない雰囲気のある人物に当然票は集まるはずもなく、最初のチャレンジにおいてみごとこの挑戦は失敗し、音二郎は落選の憂き目を見ます。
ところが、それでもあきらめずに二度目の選挙にも立候補しますが、結果は同じで再び落選。結果としてはこの二度の選挙に投じた資金は膨大なものになるとともに、借りていた金も返せなくなり、川上一座の運営は極端に悪化し、著しい資金難に陥るようになりました。
この三年前の1895年(明治28年)には、日清戦争も終わっており、それまでは戦争をネタとして政府批判を続けていた川上一座の興行も、オコリが落ちたように人気がなくなっていました。
こうして、いよいよ食い詰めた二人は、1898年(明治31年)に有名な事件を引き起こします。この事件を引き起こした首謀者は誰あろう、音二郎自身なのですが、現在に至るまでその意図は解明されておらず、その行動たるやさっぱり意味がわかりません。
というのも、なぜか東京から遠く離れた下田まで行き、かなり大きめの船だったとはいいますが、推進力はオールだけの「ボート」を買い受け、これに音二郎と貞奴、そして音二郎の可愛がっていた姪の「つる」そして犬1匹が乗りこんで、下田の沖へ向けてあてもなく漕ぎ出したのです。
後日の音二郎本人の話では、千島か、アメリカに行くつもりであったと言っていますが、そんなことはできようはずもありません。
案の定、いくらも沖へ出ないうちに横須賀の海軍の軍港に入りこんでしまい、海軍の官憲につかまってしまいました。そして司令官の前に引き出され、「バカなことをしてはいかん、やめろ」とたしなめられた音二郎ですが、このときも「いや、やめません、がんばります」とわけのわからない答えを返しています。
この問答にとうとう司令官も根負けし、「勝手にしろ、ただし、子どもは乗せていくな」ということで、姪だけは連れて行くのは思いとどまったようです。この後2人だけで再出港しますが、結局は嵐に巻き込まれ押し戻されています。
その漂着場所は、もとの下田港だったとも、淡路島だったとも言われているようですが、はっきりしません。が、ボートで下田から淡路島まで行くのはいくらなんでも難しいでしょうから、下田説が正しいのではないでしょうか。
ここのところの事実関係を私も調べてみたのですが、ネットでははっきりした情報が得られませんでした。伊豆にまつわる話でもあり、また調べて詳しいことがわかれば、再びここで取り上げたいと思います。
ともかく、この「珍事」はまた世間を驚かせるとともに呆れさせることになり、このときの新聞の論調は、また例の川上が大ボラで、とんでもないことをやりおった、という風だったようです。しかし、この事件がまた二人を有名にしていきました。
このように窮すれば何をしでかすかわからない、ハチャメチャな行動満載で、言ってみれば人生そのものが漫才のような人は、その昔から芸事をたしなむ人には多くみられます。
大河ドラマのような番組において、もし音二郎役をやらせるならば、芸人さんがいいだろうと私が書いたのもそうした理由です、普段はろくなことはやらないけれども、その一方で会ったらすぐにファンになってしまいそうな魅力があり、顔を見てしまうと不思議と文句が言えなくなってしまう。音二郎もまたそんな人だったのではないでしょうか。
事件を起こしても「すみません」と言われると、マァ、しょうがない、ということになる。かつて「フライデー事件」を起こしたビートたけしさんのことや、何を言っても憎まれない明石屋さんまさんの顔がついつい思い浮かびます。
海外興行と成功
その後、二人は危機的な状況をなんとか克服し、といっても並大抵のことではなかったでしょうが、この間なんとか人気のある興行を創出し、収入を回復させていったようです。この「ボート事件」がかえって世間の耳目を集め、人を呼び込む効果もあったのでしょう。
こうして、その翌年の1899年(明治32年)には、川上音二郎一座のアメリカ興行が実現するまで業績は回復し、貞奴もこの渡航に同行しています。が、貞自身は役者として舞台に立つ予定などはなく、単に夫の音二郎をサポートするつもりだけの渡航だったようです。
ところが、興行先のサンフランシスコでは、予定していた女形が急死するという不幸にいきなり襲われます。しかも、別途立てようとした女形も、アメリカ人の興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたため、急遽、貞奴がこの代役を務めることになりました。
これが、川上貞奴が、「日本初の女優」といわれるゆえんです。無論、これより以前から、夫の主宰する劇にはたびたび出演していましたが、サンフランシスコでの公演が、「海外公演を成功させた」というふうに尾ひれがついていき、やがて「世界的な場で演じた」というふうに噂はどんどん変化していきました。
その噂は当然日本国内にも伝わり、国内の新聞などでも取り上げられ、その後幸運にもアメリカ全土やヨーロッパでも成功したことから、後年も「日本初の女優」という話が定着していくようになりました。
ところが、この興行はさらに不幸に見舞われます。サンフランシスコでの公演中、その運営にあてていた公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされたのです。
この当時のアメリカには日系社会はまだ成立しておらず、このため一行は援助を受ける先すら見つけられなかったことから、餓死寸前にまでなったといいます。それでも次の公演先での儲けから返すからとアメリカ人に借金をし、なんとか次の公演先のシカゴまで命からがら必死で到着しました。
しかし、ようやく公演にこぎつけたころには、疲労と空腹で音二郎と貞奴は無論のこと、一座全員が極限状態だったといいます。そんな状態でシカゴ公演は始まりましたが、逆に彼らのその鬼気迫る演技が功を奏しました。
劇中である座員が空腹によってパタッと倒れたのを見て、何も知らない観客は、すごい演技だと大拍手。結果としてこの公演は大成功し、中でも貞奴のエキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼ぶようになりました。
瞬く間にその人気はアメリカ中に広がるようになり、やがてはヨーロッパにまでその評判が鳴り響くようになっていきます。
こうしてこのアメリカ興行の翌年の1900年(明治33年)にも、音二郎と貞奴一座はロンドンで興行を行うことになりました。その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行ったのです。
ちなみにこの万博には日本も正式に参加し、さまざまな工芸品などを出品していましたが、日本政府の事務局に対してはこの興行については許可願い出ておらず、無許可でした。もともと政府の批判を繰り返してきた一座だけに、外国にまで出てきて、政府の言いなりになる必要はないさ、と音二郎が無視したためです。
このロンドン公演の初日には、かの有名な彫刻家のロダンも招待されていたそうです。その公演で華麗に踊る貞奴に、ロダンはすっかり魅了されてしまったといい、公演が終わるや否や楽屋に訪れ、彼女の彫刻を作りたいと申し出たそうです。
ところが彼女はロダンの名声をまったく知らず、時間がないからという理由で、けんもほろろに断ったという逸話が残っています。もしロダンが貞奴の彫刻を造り、これが日本にもたらされていたら、現在では国宝級であったかもしれません。
その8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、貞奴はそこで「道成寺」を踊りました。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したといい、こうした様子は新聞でも「マダム貞奴」の通称で報じられ、その名はフランス中で知られるようになりました。
その後は数々のパーティで引っ張りだこになり、こうしてパリの社交界にデビューすることになった貞奴の影響により、パリの社交界ではその後、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行したそうです。
作曲家のドビュッシーや小説家のジッド、そしてピカソまでもが彼女の演技を絶賛したため、その後フランス政府は彼女に勲章まで授与しています。「オフィシェ・ダ・アカデミー」というそうで、細かく調べていませんが、おそらく現在のアメリカのアカデミー賞に相当するような賞でしょう。
こうして、世界的にも有名な「女優」となった貞奴は、1908年(明治41年)、37歳のとき、後進の女優を育成するためということで、音二郎とともに「帝国女優養成所」を創立しました。
この帝国女優養成所は、東京・芝の理髪店の2階にわずか17畳ほどの広さのものだったそうですが、開所式には、この当時にすでに当代一の実業家と名高かった渋沢栄一男爵など、当時の日本経済界を代表するそうそうたるメンバーが集まり、その門出を祝ったといわれています。
その第1期生は、森律子、村田喜久子など15人で、以後、ここから、日本を代表する女優の多くが生まれていきました。
この養成所の設立は二人の長年の夢だったといい、時まさに二人にとって絶頂のときでした。しかし、そのわずかその3年後の1911年(明治44年)に音二郎が病で死去。47歳という若さでした。
舞台で倒れた直後に亡くなったといい、その半生を舞台にささげた彼らしい死でした。「汽車が眺められるところに」という彼の遺言により、その亡骸は当時博多駅が近くにあった承天寺というお寺に葬られているそうです。承天寺では命日の11月11日に、今でも故人を偲んでオッペケペー節などが歌われるなどの催しが行われているといいます。
また、福岡市博多区の川端通商店街北側入口近くにある地下鉄の駅階段横には音次郎の銅像が建てられており、道を隔てて博多座と向きあっています。
ちなみに、最近、川上一座が1900年に欧米興行を行った際に録音したオッペケペー節のレコードが発見されています。1997年に「甦るオッペケペー節」という題でCDが東芝EMIから発売されたそうですが、残念ながら音二郎と貞奴の肉声は録音されていないそうです。
ただ、このレコードは日本人が初めて吹き込んだものだということで、大変貴重なものといえます。
福澤桃介
その後、貞奴は数年の間、音二郎の遺志を継ぎ公演活動を続けていましたが、夫の死からまもないころから、木曽川の電源開発で日本の電力会社の礎を築き、電力王といわれた3歳年上の福沢諭吉の女婿、福沢桃介との間が噂されるようになります。
そして桃介が妻と2人の子持ちであったことから、やがて演劇界やマスコミから激しい攻撃を受けるようになります。このため、ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、舞台の一線から完全に退いてしまいました。
実は、桃介との馴れ初めは音二郎との結婚よりもはるかに前の、貞奴がまだ14歳の少女にすぎなかった1885年(明治18年)頃までにさかのぼります。
このころ、置屋で芸妓をしていた貞奴は、その息抜きにと、女だてらに馬術学校にも通っていましたが、そんなある日、この学校で突然野犬に襲われ、馬が暴れ出しました。
ちょうどそのとき、慶応義塾の学生だった桃介がここに通りがかり、犬を追い払って馬を制したことがきっかけになり、2人は恋に落ちます。しかし、その1年後、桃介は福沢諭吉の二女・房と政略結婚。この結果、貞奴と桃介は長い時間を置いた別離を挟むことになったのです。
岩崎桃介は、現在の埼玉県吉見町に相当する武蔵国横見郡の貧しい農家の次男として生まれました。6歳のとき、生家は母サダ(こちらは貞ではなく、サダ)の本家であった岩崎家のあった川越に転居しました。
サダの出た岩崎家は川越で財を成していた商家であり、これを頼ったためでしたが、もともとはサダ自身にもかなりの商才があったといわれています。
ところが、その夫は入り婿で風流を好む人だったといい、川越で提灯屋を営むようになりましたが失敗。このため生計は貧しさを極め、桃介は裸足で学校に通ったそうです。しかし学業に秀で、神童と呼ばれるほどの成績を治めていたといいます。
その後、父はその後岩崎本家が設立に関与した第八十五国立銀行に勤務、サダも本家から借りた金で金貸しをするなどして子供らの学費の工面を続けました。1882年(明治15年)、桃介は旧知の元川越藩士の娘が嫁いだ先の家を頼って上京、この家の主人の紹介で慶應義塾に進学します。
慶應義塾は言うまでもなく、福沢諭吉が設立した学校ですが、この義塾でのある日の運動会で、福澤諭吉の妻・錦が桃介の眉目秀麗ぶりを目にとめ、次女の房(ふさ)の入り婿にどうかと諭吉に勧めます。
残っている写真をみると、この福澤桃介は本当にイケメンであり、音二郎とは雲泥の差です。美人の貞奴とツーショットの写真も残っていますが、まさに美男美女の組み合わせです。
諭吉も桃介を気に入り、こうして1889年(明治22年)、桃介は福澤諭吉の婿養子となり、岩崎の旧姓を捨てて、福澤姓になったのでした。桃介はこのとき、21歳でした。
貞奴と出会ったのはこの結婚の一年ほど前のことでした。貞のことが忘れられない桃介は福澤家への婿入りを躊躇し苦悩しますが、結局は貞を捨て、房との結婚を決意。こうしてまたたくまに20年以上もの歳月が経ちました。
桃介は、房との結婚の直前に慶應義塾を卒業すると、貞への思いを振り切るように渡米し、ペンシルバニア鉄道の見習をしています。帰国後に、結婚。その後は北海道炭礦汽船、王子製紙などに勤務しますが、肺結核にかかり、1894年(明治27年)かはら療養生活を送らざるを得なくなります。
ところが、療養の間、株取引で蓄えた財産を元手に株式投資を始め、ちょうどこのころ始まった日清戦争で日本が勝利したことから株価が高騰したため、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げました。そして療養により病状が好転すると、この株で得た金を元手に実業界に進出し始めます。
そして、1906年(明治39年)、瀬戸鉱山を設立して社長に就任。1907年(明治40年)には、日清紡績を設立。このころから相場の世界を離れるようになり、電力業界に着目します。そして木曽川の水利権を獲得し、1911年(明治44年)には岐阜県加茂郡に八百津発電所を築き、さらに同年、日本瓦斯会社を設立。
ちなみに、この翌年の1912年(明治45年)に、長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)に建設した読書発電所の工事用として架けた橋は、後に桃介橋と呼ばれ、1993年に近代化遺産として復元、1994年(平成6年)には発電所とともに国の重要文化財に指定されています。
そして、ちょうどこのころ夫を亡くしたばかりの貞と再会。再び過去の激情が二人の間で燃え上がり、かつての悲恋の相手と結ばれるという結果につながっていきました。
晩年の二人
二人の関係が世間に知れ渡り、誹謗中傷が激しくなるにつけ、桃介は離婚も考えたようです。が、結局はこれをしないまま貞との関係を続けたため、正妻の房との間に築いた家庭は完全に冷え切っていったようです。
その後桃介は、1924年(大正13年)には恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を完成させるとともに、1926年(大正15年)には中津川市に落合発電所などを建築。また矢作水力(現・東亞合成)、大阪送電などの設立を次々に行います。
これに先立つ1920年(大正9年)には、大阪送電を改組する形で、五大電力資本の一角たる大同電力(戦時統合で関西配電。現・関西電力)と東邦電力(現・中部電力)を設立しており、社長に就任。こうした一連の事業によってその後は長く「日本の電力王」と呼ばれるようになりました。
この間、貞奴はこうした事業面でも実生活でも桃介を支えたといいます。
ときには、2人並んで公の場に姿を現すこともあったそうで、桃介が手掛けた大井ダム工事の視察の際にも行動をともにし、貞奴は工事現場の周囲で赤いバイクを乗り回していたそうです。また、谷底まで視察に行こうとする桃介に対し、他の社員が尻込みする中を一人桃介に付いて現場まで向かったという逸話も残っています。
1920年頃、2人は長年の念願であった同居を始めます。貞奴は49歳、桃介は52歳のころのことです。2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれるようになり、やがて政財界など各方面の著名人が集うサロンとなりました。現在は、愛知県名古屋市東区に復元・移築され、「文化のみち二葉館」として再生されています。
作家の長谷川時雨(はせがわしぐれ、M12誕~S16没。明治大正期に劇作家・小説家として活躍し、雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を率いた)はこの当時の二人と親交があったようで、ある日のこと、ちょうどこの初老にさしかかった桃介と貞奴を街角で目撃しています。
彼女が後年書いた随筆には「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやうだった」と書かれており、老いてなお少年少女のような二人を見ての素直な驚きが記されていました。最後まで仲睦まじく一生を添い遂げた相思相愛のカップルの姿が目に浮かぶようです。
その後、桃介は、1938年(昭和13年)に69歳で没。貞奴は、それから8年後の1946年、膵臓癌により死去。享年75でした。その亡骸は、桃介のほうは、郷里の埼玉県吉見町にある福澤家の菩提寺、満蔵寺に埋葬され、貞奴のほうは、岐阜県各務原市にある貞照寺に納められました。
なぜ縁もゆかりもない、岐阜県?と思ったのですが、貞奴は幼少の頃から成田山を信仰していたそうで、この貞照寺はその信仰の一環で成田山ゆかりの寺のないこの地に、貞奴が、私財で建立したのだそうです。
正式な名称は「金剛山桃光院貞照寺」といい、このなかにある「桃」の文字は、内縁の夫である桃介の「桃」をとったものだそうで、またと貞照寺の「貞」は言うまでもなく、貞奴自身の名の一文字です。
結局二人は夫婦として添い遂げることはありませんでしたが、貞奴はその生涯の最後にこの寺の名にその思いを込めたのでしょう。
眠る場所こそは別々でしたが、幼いころからの恋を成就させた二人の霊は今もあちらの世界で一緒に過ごしていることでしょう。
さて、いつものことながら、今日も長くなりました。終わりにしたいと思います。