787

先日修善寺に降った雪は、ふもとの温泉街ではその日のうちに消えてしまいましたが、山の上にあり、北側斜面に建つ我が家では、寝雪になって残っていました。

その雪も、昨夜から降り始めた比較的暖かい雨で融け出し、家の前の公園に植えてある桜の木々がその雨に濡れています。ほんのりとピンク色に見えるのは、早くもつぼみを蓄えているからでしょう。伊豆に春がやってくるのもそう遠くなさそうです。

さて、最近テレビ等で、ボーイング社の最新型旅客機が頻繁に事故を起こしたことに関するニュースが頻繁に流れていますが、このボーイング787という飛行機については薄々は知っていたものの、実際にはどんな飛行機なのか詳しく知りたくなり、調べてみました。

まず、従来機との比較ですが、従来型の中型機のボーイング757や767比べると、その機体幅をかなり広げたワイドボディ機で、特に改良の第一目標となった767より、航続距離や巡航速度は大幅に上回るとともに、燃費も向上しています。

ちなみに、787のひとつ前に開発されたボーイング777は、翼幅、胴体長ともジャンボジェットと呼ばれた747よりも大きく、双発機としては世界最大であり、787はこれよりも一回り小さくなります。

しかし、787では、航続距離や巡航速度の大幅な改善をめざして開発が進められ、中型機としては従来のものよりもはるかに長い航続距離を得ることとなり、今までは747や777などの大型機でないと飛行できなかった距離もこの機を使うことにより直行が可能になりました。

より具体的には、従来の中型機ではアメリカ西海岸あたりまでしか行けなかったものが、この飛行機では東海岸のボストンあたりまで飛んで行けるようになります。

中型機ながら乗客数も大型機並みになり、飛行距離も伸びたことから、従来では飛行距離の大きい大型機しか飛ばせなかった場所へより小さい容量の飛行機を飛ばせることができるようになったことは画期的です。

なぜなら、従来は高い乗客率がのぞめない遠くの場所には、燃料がたくさん積める大型機しか飛ばせなかったものが、今後は思うように客を集められない場合でも、より燃料消費量の少ない中型機ならこうした遠地へ飛ばすことができるようになります。

これにより乗客が多いときには大型機を、少ないときには中型機をと言った具合に、手持ちの飛行機の効率的な運用ができるようになるためです。

これにより、これまでは需要があまり多くなく大型機では採算ベースに乗りにくかった長距離航空路線の開設も容易となりました。

燃料の消費率も少ないというメリットも含めると、この機は従来型よりもはるかにコストパフォーマンスが高く、日本ではANAやJALが新たな国際線への参入を予定しているほか、他国でもこの機の購入を予定している航空会社が多く、これらによる新たなる国際線の開発に向けて大きな期待が寄せられています。

この787は従来型に比べて大きく軽量化を図ることに成功しており、これは炭素繊維を使用した強化プラスチックカーボンなどの複合材料を多用しているためです。

その使用比率は全体の約50%にもおよび、残り半分は、複合材料にすることのできないエンジン等の金属部品なので、実質、機体のほぼ100パーセントは複合材料化されているといえるようです。

ワイドボディとしたため、客室の座席配列は、767やまたヨーロッパ製のエアバスA300クラスよりも広くなり、従来型ではエコノミークラスで2-4-2の8座席が多いのに対し、3-3-3の9座席も可能となり、ジャンボジェットの747のエコノミークラスとほぼ同等の座席幅を確保できるようです。

また、この太い胴体のため、床下貨物大き目のコンテナを2個並列に搭載可能であるといい、客室も従来より天井が20cm高くなりました。従来比1.6倍の大型の窓が採用され、窓側でなくとも外の景色を見ることができるそうです。

窓にはシェードがなく、代わりにエレクトロクロミズムを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節することができる!とか、従来機のボーイング777ではコックピットのみへのオプション装備だった加湿器が、初めてキャビンに標準搭載されており、最新技術を使った空気清浄器も搭載されています。

またトイレには、TOTOと共同開発した、世界初の航空機用の温水洗浄便座がオプション採用されており、ANAでは国際線に導入されているということです。

確かに、高い航空運賃を払わされているのに、トイレだけは旧来のままだよなーと私もかねがね思っていましたので、これを機会に他の航空機における機内環境においても、大いなる変革をはかっていってほしいものです。

ちなみに、新幹線も2014年開業予定の北陸新幹線からは温水洗浄便座が入れられる予定ということで、空のみならず、地上の交通手段におけるアメニティーの向上にも期待したいところです。

このほか、我々が見る機会はまずないといってよいでしょうが、コックピットにも最新技術が導入されていて、777でも採用されていたLCDを多用したグラスコックピットをさらに進化させ、ヘッドアップディスプレイ(HUD)もついているほか、エレクトロニック・フライトバッグ(EFB)と呼ばれる装備も標準装備となりました。

これは、従来操縦士が持ち込んでいた紙に書かれたマニュアル類やチャートなどを電子化し、画面上に表示するものであり、離着陸性能の計算をしたり、地上では空港の地図と自機の位置を表示することもできる最新鋭の装備だそうです。

この787の機体性能ですが、巡航速度はマッハ0.85となり、767のマッハ0.80、やA330、A340のマッハ0.83を上回り、長距離路線では、より所要時間の短縮が可能になりました。

航続距離は最大で8500海里(15,700km)であり、これは前述のように、アメリカ東部のボストンやニューヨークからの東京路線をカバーするのに十分であり、このほかロサンゼルスからロンドン、あるいは、東京からヨハネスブルグへノンストップで飛ぶことも可能だといいます。

炭素性素材を多用するなどして軽量化を図った結果、ボーイング767と比較すると燃費は20%も向上したそうで、これは空力性能の改善にも寄るところが大きいようで、またエンジンも最新の技術が導入されて燃費効率も高まっており、これらの相乗効果によるものです。さらには、軽量化できることによって最大旅客数も若干増加したといいます。

このエンジンは、ロールス・ロイス社製のものとゼネラル・エレクトリックのものの二種類が用意されているそうで、電気接続のインターフェースを標準化したため、これら2種類のエンジンの交換が可能とされており、将来の技術進歩によりさらに高性能エンジンが開発されたときには、異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能になりました。

残念ながらこのエンジンの開発に日本は加わることができなかったようですが、実際のエンジンの製造では、ロールスロイス製のほうに三菱重工と川崎重工が、ゼネラル・エレクトリック製の製造にはIHI(石川島播磨重工)が参加しています。

一方、機体のほうも、その70%近くを日本を含めた海外メーカー、約70社で国際共同開発され、これによって開発費を分散して負担できるとともに、世界中の最高技術を結集した機体にすることが可能となりました。

参加企業は下請けを含めると世界で900社に及ぶそうで、イタリア、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、韓国、中国といった国々が分担生産に参加しており、日本からも前述の三菱重工業などの重工各社をはじめとして数十社が参加しています。

日本企業の担当比率は合計で35%と過去最大であり、これは767のときの15%、777のときの20%を上回っており、この35%という数字はボーイング社自身の担当割合と同じということです。日本の航空機産業への参入もついにここまできたかというかんじです。

ただ、先日のあるニュース番組で、コメンテーターのひとりが指摘されていましたが、これら参加企業が持ち寄った技術は各国の最先端技術であり、それらの部品の中にはある部分がブラックボックスになっているものもあるということで、これらを統合した787を「システム」として運用する場合には、そのブラックボックス部分が大いに問題になります。

システムを統合する側のボーイング社自身がシステムの個々の部分のすべて把握できなくなる可能性があるからです。

787はANAを初めとする導入に手をあげた航空会社への導入が、3年以上も遅れました。このため、ボーイング社としては納入を焦っていたようであり、こうしたシステムとしての統合性の確認をどこか怠っていたのではないかと、このコメンテーターさんは指摘されていました。

また、飛行機のフラップなどを動かす動力系統を、従来機では「油圧」などを用いた機械制御にしていたものを、787からはこれらの動力をすべて「電気」にしたということであり、このため蓄電容量の大きく性能の高いことで定評のあった日本製のユアサのバッテリーを使ったということですが、そのあたりに今回の事故の原因はあるのかもしれません。

このほかにも国産の部品が多数使われているということもあり、国内メーカーはそれぞれ気が気ではないでしょう。

このようにボーイング社外の各国メーカーに部品の提供を依頼している関係から、アメリカ以外の国で製造された部品やエンジン等を最終組立工場に搬送するためには、ボーイング社の専用の輸送機が用いられているということです。

日本で787の製造に参加したメーカーの部品は、その多くの生産工場が名古屋近郊にある関係から、中部国際空港を拠点としてこの輸送機が定期的に飛来しているそうです。

787の製造に参画している重工各社のうち、三菱重工業はジャンボジェットの747が計画された2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、他社よりも機体製造における優位性を持っているようで、この787の開発においてもすでに1994年には重要部分を三菱が担当することが決定しており、海外企業としてボーイングの主翼を担当するのはこの三菱が初めてでした。

ちなみに、三菱が開発した炭素繊維複合材料は、国産の支援戦闘機である、F-2戦闘機の開発をアメリカと一緒におこなっていたときに開発されたもので、これが炭素繊維複合材料が航空機に初めて採用されたケースだということです。

炭素繊維複合材料の研究開発は、アメリカ側でも従来から行って来ていましたが、F-2の開発の最終段階では、三菱側が開発した複合材の方が優秀であるとアメリカ側が評価し、結果的に三菱が主翼の製造の権利を勝ち取りました。

従って、787の主翼の開発においても、この三菱の世界最先端の戦闘機開発で培われた技術が使われており、いまやこうした国産の最先端技術が、世界を飛ぶ航空機にまで応用される時代になったといえます。

一方、胴体の製造では、川崎重工業が前方胴体・主翼固定後縁・主脚格納庫を担当し、富士重工業が中央翼・主脚格納庫の組立てと中央翼との結合を担当しており、三菱が担当する主翼も含めると、機体重量比の半分以上にこれら各社が得意分野とする炭素繊維複合材料が使用されています。

1機あたり炭素繊維複合材料で35t以上、炭素繊維で23t以上も採用されているそうで、世界最大の炭素繊維材の製造メーカーである東レは、ボーイングと一次構造材料向けに2006年から2021年までの16年間の長期供給契約に調印し、使用される炭素繊維材料の全量を供給する予定ということです。

長く経済の不況にあえぐ日本ですが、日本を代表する重工業各社やエレクトロニクス関連企業がこうしたボーイング社の世界最先端の航空機製造技術を持つメーカーの生産に携わるようになっただけではなく、今年はMRJのような我が国独自の技術を投入した「純国産機」も空を飛ぶ予定であり、JAXAの宇宙ロケットのほうも、今後本格的に民用移管が進むようです。

2010年代は、日本では航空・宇宙産業の花開く時代になることはまちがいなく、他の産業のけん引役となっていってほしいものですが、その矢先に起こった今回の事故だけに、一日も早い原因究明が待たれます。

涙の香り


選挙が終わりましたね。結果はともあれ、新たな政権への期待と不安うずまく今日このごろ、といったかんじでしょうか。以前、2012年はアセンション(上昇、即位、昇天)の年らしい、と書きましたが、果たしてこの選挙結果が、長く低迷にあえぐ日本の上昇のきっかけになるのでしょうか。今後も見極めていきたいと思います。

さて、一昨日のブログで飛行機の話題を書きましたが、今日19日は、日本で初めて動力機が飛行した日のようです。

明治もほぼ終わりの1910年(明治43年)の12月19日、この当時、代々木の練兵場と呼ばれていた現代々木公園で、陸軍中将の徳川好敏と日野熊蔵の二人が操縦する軍用機が初飛行に成功したとされています。

しかし、実はこれに先立つ5日前の12月14日にも、滑走試験中に日野が「60メートル程度の飛行に成功した」、という新聞報道がなされているそうで、こちらが本当の初飛行ではなかったかと見るむきもあるようです。

しかし、現場責任者としてこの飛行を間近で注視していた学者のジャッジでは、初飛行とは目に映らなかったようで、この新聞報道の根拠となった「距離60メートル」は10紙ほど来ていた新聞社のうちのひとつの記者の目測のようで、取材していた他の9紙は距離を記載しておらず、初飛行とも報じていないということです。

この記事を書いた記者自身も後日の回想で、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした」と書いていることから、実際には「飛行」というよりは「ジャンプ」程度ではなかったかと推察されています。

「飛行」とは航空力学的には、翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態をさすそうで、このことからしてもこの「ジャンプ」は「飛行」ではない、ということのようです。

このため、この5日後の12月19日のほうが初めての動力機初飛行の日として公式に認められ、現代に至るまで「日本初飛行の日」ということで記録されるようになりました。

徳川好敏と日野熊蔵

この初飛行を成功させたうちの一人、徳川好敏(とくがわよしとし)は、その名前からわかるように江戸時代の将軍家、徳川家の血筋の人です。しかも、清水徳川家第8代当主ということで、かなり徳川家の主筋に近い人物です。

この清水徳川家というのは、「御三卿」のひとつです。

田安、一橋、清水の三家がそれで、その家格は尾張、紀州、水戸のいわゆる「御三家」に次ぐものでした。御三家で将軍に値する血筋の人が出ない場合には、この御三卿家から将軍を出すことができ、実際、第11代将軍の徳川家斉が田安徳川家から、第15代将軍の「徳川慶喜」が一橋徳川家から出ており、それぞれ徳川宗家を相続しています。

なので、この初飛行は、徳川家の名家の血筋である好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍の意向だったのではないかという評価もあるようです。

徳川好敏はもう一人のパイロットの日野熊蔵大尉とともに、操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され、ここを卒業しています。

日野のほうは、熊本の旧相良藩の藩士の家の出であり、江戸時代であれば徳川好敏に比べればはるかに身分の低い平民でした。しかし、明治のこのころには天才発明家などと報道される有名人だったそうです。

この初飛行のあとも、自身で飛行機を設計し続け、その機体は「日野式飛行機」として知られているほか、「日野式自動拳銃」の開発者として知られています。

1916年(大正5年)には陸軍歩兵中佐にまで昇進しましたが、40歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞め、その後生活は困窮したといわれ、68才で没しています。

一方の徳川好敏のほうは、その後陸軍に航空兵科が新設されると、ここの航空学校教官を勤め、その後航空兵団長を経て航空兵団司令官となるなど順調な出世人生を送っています。

1928年(昭和3年)に、日本陸軍航空兵分野確立の功労により、華族に列せられて男爵を授爵。1940年(昭和15年)には勲一等旭日大綬章を受章し、終戦時には陸軍航空士官学校長も勤めました。昭和38年まで生き、79才で没。ともに日本初の動力飛行機を飛ばした日野とは対照的な華やかな人生でした。

萬朝報と黒岩涙香

この話はこれで終わりです。なーんだそれだけか、とお思いでしょう。

なので、このお話の裏にもうひとつ面白そうな話を見つけたのでご紹介することにします。

それは、この日本初の動力飛行が行われた日の5日前の12月14日の滑走試験中、「60メートル程度の飛行に成功した」と新聞した記者が所属していた新聞社のことです。

他社が飛行したとは認めていないのに、「初飛行だ」といわばフライング報道をしたわけであり、そういう意味ではジャーナリストとしてどうかな、と思うのですが、調べてみるとこの新聞社、なるほどそういう会社か……と思わせるような新聞社でした。

この新聞社の名前は萬朝報(よろずちょうほう)といいます。東京を中心に日刊紙を発行していた新聞社で、その名前は「よろず重宝」というシャレから来ています。このネーミングからして怪しげですが、1892年(明治25年)に発刊されたいわゆる「ゴシップ紙」のはしりとして知られています。

有名人が囲った妾についてのスキャンダルを「蓄妾実例」といった見出しで報道するなど、プライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞で、この「蓄妾実例」の例にもみられるように、権力者のみならず、一般人の商店主や官吏の妾の情報までをも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業までその新聞に掲載していました。

それでもこの当時はこの明治という時代なりのおおらかさがあり、プライバシーにはそれほどうるさくない風潮があったらしく、「俺の妾をなぜ載せない」という苦情まであったといい、いかがわしい新聞というイメージを持ちつつも、労働者階級に絶大な人気を博したそうです。

一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれ、また第三面に扇情的な社会記事を取り上げたため、現代でも使う「三面記事」という用語ができました。

この新聞社を創立したのは、「黒岩涙香(くろいわるいこう)」という人物です。1862年(文久2年)に土佐国の安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩の下級武士である「郷士」の子として生まれました。

藩校の文武館で漢籍を習得したあと16歳で大阪に出て、のちの大阪英語学校となる中之島専門学校に学び、英語力を身につけると翌年上京して成立学舎や慶應義塾といった有名校に進学。しかし、学業が性にあわなかったらしくいずれも卒業せず、このころから新聞への投書を始め、自由民権運動に携わるようになりました。

20才になった1882年(明治15年)には官吏侮辱罪により有罪の判決を受けるなど、「インテリ不良」ともいえるような前半生を送っていますが、その後「同盟改進新聞」や「日本たいむす」などに新聞記者として入社。

その後、1882年(明治15年)に創刊された「絵入自由新聞」に入社して2年後には主筆にまでになり、語学力を生かして記者として活躍していきます。このころから得意の英語力を生かして翻訳小説に自分なりのアレンジを加えた、いわゆる「翻案小説」に取り組むようになります。

そのひとつが、発刊当時は「今日新聞」という名でしたが、現在は「東京新聞」と呼ばれるようになった「都新聞」に連載した「法廷の美人」で、これが大ヒットしたことから、たちまち翻案小説のスターといわれるようになります。そして、次々に新作を発表していきます。

涙香はこれらの小説の執筆にあたって直訳(逐語訳)はせず、原書を読んで筋を理解したうえで一から自分の文章で物語を構成していったといいます。

私も翻訳をいくつかやったことがありますが、翻訳というのは結構難しい作業で、英語力というよりもむしろ日本語の能力が試されます。英文をうまい日本語表現に改めるためにはある種文学的な才能が必要であり、涙香はその方面の才能に恵まれていたのでしょう。

朝報社と萬朝報

1889年(明治22年)、涙香は、前述の「都新聞」に破格の待遇で主筆として迎えられましたが、社長が経営に失敗し、これに代わって新たに社長に就任した新社長と対立して退社。その三年後の1892年(明治25年)に自らの会社「朝報社」を設立します。そしてこの朝報社で発刊を始めたのが「萬朝報」でした。

この当時、「相馬事件」と呼ばれる旧徳川時代の武家の名家の御家騒動に端を発するスキャンダル事件がありました。

旧相馬中村藩(現福島県の一部)という藩の主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症の症状が悪化したため、家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁後に精神科病院にへ入院させました。

この行為に対して、旧藩時代のある家臣が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令であった志賀直哉の祖父、志賀直道ら関係者を告発したことから事件が表面化しました。

この告発者の元家臣、元部下は世間からは忠義者として同情が集まり、この告発があったことから高名な大学教授等による精神病の診断などが行われ、その結果、精神異常はないという判断が下され、事件はさらに混乱の度合いを増しました。そんな中、こともあろうにこの告発者が旧藩主が入院している病院に侵入し、その身柄を奪取するという事件が勃発。

この元部下は一週間後に逮捕され、家宅侵入罪などに問われ禁錮処分を受けましたが、その行動があまりにも奇矯で偏執的であるとして今度は逆に世間から猛烈な批判を浴びます。

元部下の藩主奪還から5年後には当の相馬誠胤が病死。元部下はこれを毒殺によるものとし、再び相馬家の関係者を告訴したことから、また世間を騒がせることになります。

元部下は遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとし、捜査当局もこれに応じましたが最終的には死因は毒殺とは判定できませんでした。その2年後には元部下が逆に相馬家側より虚偽告訴罪で訴えられ、後に有罪が確定し、事件はここにようやく収まりを見せました。

黒岩涙香の萬朝報は、この相馬事件を「相馬家毒殺騒動」としてスキャンダラスに書き上げ、他紙よりもドラマチックに報道することで部数を伸ばしていきました。このほか「淫祠蓮門教会」といったスキャンダラスな連載記事があり、これは、コレラの治療として「神水」を配布した蓮門教を「淫祠邪教」として徹底的に批判したものでした。

このほか、上流階級の腐敗を暴露した「畜妾調」などのセンセーショナルなスキャンダル記事が都市中下層民の人気を博し、明治32年の発行部数は東京一の9万5000部を数えるようになり、最高潮時には30万部の発行数を誇ったといいます。

翻案小説

これらの連載の多くは涙香自身の手になるものでしたが、この新聞がここまで人気を博したもう一つの理由は、涙香がこの新聞で発表した翻案小説でした。

この中には、我々もよく知る、「鉄仮面」、「白髪鬼」、「幽霊塔」、「巌窟王」「噫無情(あゝ無情=レ・ミゼラブル)」などがあり、これはさらに後年の作品ですが、「八十万年後の社会」というのがあります。実はこれはH・G・ウェルズの “The Time Machine(タイム・マシン)”が原題です。

このうちの、「白髪鬼」や「幽霊塔」はこの黒岩涙香の翻案小説をもとに後年江戸川乱歩がそのリメイク版を発行しており、昭和世代の間で大ヒットしました。

涙香のバージョンでは、「鉄仮面」のほうが先に萬朝報で連載されましたが、これが大好評を呼び、その連載が終了した翌日から「白髪鬼」が連載されました。この白髪鬼は、白髪鬼となった男の手記実伝として書かれ、これも前作「鉄仮面」を上回る大人気を博しました。

江戸川乱歩版のほうは1931年(昭和6年)に同じ題名のまま公表されました。乱歩自身も彼が少年の頃に耽読した涙香作品の中でも「白髪鬼」がいたく気に入っていたと語っていますが、私は乱歩のほうを読んだ世代で、子供のころに学校の図書館にあったのを何度も借りて読み返したのを覚えています。

このリメイクに際し、乱歩はあらすじを変えるなど独自の改変をおこなっていますが、涙香の遺族の承諾を得て作品名は同じにしているということで、戦前の文庫本には涙香版と乱歩版の二つがあるそうです。乱歩版には「乱歩の白髪鬼」と付けられていたそうですから、古本屋でみつけたら読み比べてみるのも面白いかもしれません。

ちなみにそのストーリーですが、殺害された後、埋葬された墓の中で蘇生し、恐怖のために白髪と化した一人の男の復讐譚です。ウィキペディアに掲載されていたその導入部分を以下にそのまま示します。

「九州の子爵・大牟田敏清は、無二の親友と恃む川村と、美貌の妻・瑠璃子と共に、この世の幸福の絶頂を味わっていた。しかし、瑠璃子と川村の2人は謀って敏清を殺し、埋葬する。

墓の中で甦った敏清は、墓所内で味わったおぞましい恐怖のために自分の姿が白髪の醜い老人と化していたのを知る。敏清が自分の家に戻ってみると、妻であるはずの瑠璃子が朗らかに笑い、親友であるはずの川村が瑠璃子と深い関係を持っていることを知り、また、彼らが謀って自分を亡き者にしたことを悟った。

妻と親友に裏切られた敏清は、2人への復讐を固く誓う。復讐を誓った時点で、敏清は既に人間をやめてしまった。ただ、復讐に燃える一匹の鬼であった。敏清は墓所内で見つけた海賊の財宝を利用して綿密な復讐計画を立て、里見重之として戻ってくる。そして、その計画に則ってじわじわと彼らを追い詰めていくのだった…。」

どうでしょう。面白いと思いませんか。実際、この小説はその後もテレビや映画でたくさん実写化される人気作品となっているので、皆さんの中にもご覧になってご存知の方も多いと思います。

理想団の設立

さて、こうした翻案小説などで萬朝報で一世を風靡した黒岩涙香ですが、やがてこうした連載小説やスキャンダル報道は大衆に飽きられるようになり、部数が伸びなくなってしまいます。このため、涙香は今度は、幸徳秋水や内村鑑三、堺利彦らといった進歩的思想家を入社させ、青年学生層の読者を開拓する方針に転じます。

1901年(明治34年)には自ら「理想団」を設立し、人心の改善、社会の改良といった社会運動を起こしました。

この理想団は、社会問題や女性問題を通じ、社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードし、その論理を掲載した萬朝報は、主たる購買者であった労働者層をめぐってこのころのライバル社であった「二六新報」などと激しい販売競争を展開するようになります。

しかし、その後勃発することになる日露戦争をめぐって、涙香は内村らと社内で対立するようになり、涙香が開戦論を頑強に主張し始めたことから非戦論の内村らは退社していきました。

1911年(明治44年)に涙香は今度は、新しい婦人雑誌「淑女かゞみ」創刊。婦人問題について執筆するようになり、「小野子町論」や「予が婦人観」といった随筆などを刊行しました。

この「淑女かゞみ」は、のちの「婦人評論」という雑誌になりました。この当時女性の間に生まれつつあった「新しい女」とか「婦人矯正運動」ともよばれる気分に乗った執筆であり、新しい時代の女性を模索する乙女たちの人気を博したといいます。

さらその後の明治末期から大正初期にかけて涙香は、憲政擁護運動にも立ち入るようになり、シーメンス事件(ドイツ・シーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件)では最も急進的立場に立ち、民衆運動を組織化するとともに政府批判の新聞キャンペーンをリードしました。

晩年

しかし、このころから萬朝報は他紙との営業競争に後れをとるようになっていきます。シーメンス事件の余波を受けて1914年(大正3年)に海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職すると、涙香は続く大隈重信の新内閣を擁護するようになります。

しかし、この内閣でも内相の大浦兼武の汚職事件(大浦事件)などが起こり、大隈自身も古い体質の藩閥政治家と批判されていたことなどから、涙香も批判を浴びるようになり、このころから万朝報の声望も低下し、涙香自身も新聞経営への意欲を衰弱させていきました。

1915年(大正4年)に大正天皇の即位の礼が会あった際、涙香はそれまでの新聞事業の功労により勲三等に叙せられました。

同じ年に長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業しており、このころから執筆活動は徐々に少なくなっていきます。が、1918年(大正7年)にはH・G・ウェルズ原作の翻案小説「 The Man Who Could Work Miracles (奇蹟を行なう男)を出版しています。

その二年後の1920年(大正9年)没。57才でした。その後半生の活躍の母体となった萬朝報は、その後20年も続きましたが、1940年(昭和15年)「東京毎夕新聞」に吸収され廃刊となりました。

エピソード

涙香がこの萬朝報を立ち上げたときには「永世無休」を宣言したという逸話が残っており、ほかにも「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとしたといいます。

萬朝報で涙香は、翻案小説以外にも、家庭欄に「百人一首かるた」や「連珠(五目並べ)」のやり方を掲載させてこれを流行させたといい、こうしたことからも単に発想豊かな文人という以外にも、何か人を楽しませる、楽しませたい、ということに生きがいを感じる気分の人だったように思います。

「黒岩涙香」という名前も、分解してみると「黒い」「悪い」「子」になるというのはよくいわれるようですが、これを本当に本人が意識してつけたとすれば、そのブラックユーモアあふれる精神が想像できます。

この「涙香」というのは、「愛読していた」とされる「紅涙香」に由来する、とあちこちの方のブログに書いてあるのですが、中国の詩句か何かなのでしょうか。ついにそのソースを探すことができませんでした。

本名は黒岩周六といったようですが、ほかにも、「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用いていたようで、この骨や涙が「香る」というネーミングがなんともおしゃれなかんじがします。

さらに、号は「古概」、「民鉄」「黒岩大」と称したそうで、こちらでは骨太な印象。若いころにはあだ名で「マムシの周六」と呼ばれたそうですから、その名のとおり、喰えない印象のある人物だったと想像されます。

しかし、ジャーナリストとしても小説作家としてもまた新聞社主としても読者の意識を鋭敏にとらえる独特の才覚をもっていたに違いなく、そうでなければ今は無くなってしまったとはいえ、50年近い歴史を持つ新聞社は作れなかったでしょう。

さて、今日も長くなってしまったので、この項、そろそろ終わりにしたいと思います。

が、最後にひとつ、この涙香のお兄さんは、黒岩 四方之進(くろいわよものしん)といいました。この人はクラーク博士で有名な札幌農学校(のち東北帝国大学農科大学、現在の北大)の第一期生として博士に学び、その後北海道における畜産開発に尽力し、後年功労者として表彰されている、北海道では結構有名な人です。

涙香がかつて社員として招いた内村鑑三もある時期には北海道におり、この四方之進と友人だったということですが、内村鑑三といえばキリスト教の思想家として有名です。

萬朝報時代には、その英文欄の主筆として通算200数十篇の文章を書いたそうで、この文章は外国人系新聞からも高く評価され、日本人の有識者にも愛読されたといいます。後年、黒岩涙香と意見が合わずに退社することになりますが、このとき涙香は熱心に慰留したともいわれています。

キリスト教論者の内村を高く評価していたことがわかり、こうした事実から涙香もクリスチャンではなかったとはいえ、その博愛の精神の理解者であったことは想像できます。いや、その本質は実は万人を愛する博愛主義者だったのかもしれません。

涙香という人物はあまりまだ世に知られていませんが、多くの執筆物が残されていることから、そうした面からの人物像が今後また発掘されていくかもしれません。今後の歴史研究に期待したいところです。