おみくじ 福引 あみだくじ……

参議院選挙が終わりました。

自民党の圧勝という大方の予想通りの結果でしたが、もう少し民主党が頑張るかと思いきや、惨敗ということで、改めて前回担った政権でのふがいなさへの国民の怒りが反映されたかたちです。

しかし、投票率は戦後三番目の低さということで、このことから、投票場へ行かなかった人たちの中には、自民党へ投票したくないけれども、かといって民主党へは入れる気にもなれず、他には後押ししたい政党もなく、仕方なく棄権……という人も多かったのではないでしょうか。

とはいえ、投票した人の中で自民党が多かったのは確かであり、これは、これまでそれなりに成果をあげてきたアベノミクスへの評価とも見るべきかもしれません。

が、勝った自民党も、この投票率の低さを真摯にみて、けっしてすべての国民に肯定されたなどと奢らず、また、かつて自らが民主党政権に打倒されて凋落したときの理由は何だったかを思い出して、今後の政権運営に当たってほしいと思います。

……と、珍しく政治に関しての感想など書いてしまいましたが、このコラムではなるべく政治がらみのことは意識して書かないようにしています。右でも左でも上でも下でもなく、常に中立な立ち位置で物事を考えたいと思っているためでもあります。

などと書くと、なーんだ、ちゅうぶらりんなだけで、自分の意見が言えないのだろう、と言われてもしかたがないので、時には真面目なことも書こうかとも思いますが、今日はやめておきましょう。天気もぱっとせず、気分も乗らないので(結局書く気がない……)。

さて、選挙のことについて書き始めてしまったので、改めて、この選挙とは何ぞやと調べてみました。

言うまでもなく、選挙とは公職に就任する者を選定する行為であり、現代の選挙は投票によって行われることが多いのですが、古くは地方の議員選出などで挙手や起立、喝采などの方法で採決が行われたこともあったようです。

しかし、現在ではやはり投票所に行って票を投じる、という形式が主流となっています。その理由はなんといっても記名投票であれば、ごまかしがきかず、公平性が保てるからでしょう。挙手や喝采では、人数の把握が正確ではなく、多数の有権者を対象とする場合にはさらに不確実性が増します。

こうして1890年(明治23年)に第一回の衆議院議員総選挙が投票で行われて以来、国政選挙などの重要選挙は投票によって行われるというのが普通になっていきました。

それでは、どんな選挙があるかといえば、投票者を誰に置くか、という観点からその分類をみると、選挙には、公選、官選、互選などがあります。

公選とは、今回の参議院選挙などの国会議員などの選挙に見られるように、一般の有権者の投票によって選出する方式で、民選とも言うようです。また、官選とは、日本の政令指定都市の区長に見られるように、国家などの行政機関の指名によって選出する方式です。必ずしも投票で行われるわけではなく、挙手や起立だけで決められる場合もあります。

互選というのは、内閣総理大臣の指名投票がもっともわかりやすい例です。国会議員などの国民の代表者だけで行う投票によって選出する方式で、バチカン市国におけるコンクラーベもカトリック信者のうちの偉い人だけが集まって教皇を選出します。

ところで、投票者による選挙の分類ということになると、もうひとつ、「くじ引き」という方法があります。

くじなどを利用して、立候補者毎に等しい確率で当選者を選出する方式であり、定数が何人であろうと当選者の勢力比の期待値は被選挙権行使者の人口比と完全に等しくなり、よくよく考えてみれば、非常に公平な方式です。

古代ギリシアや室町幕府の将軍の選出などに例があり、室町幕府の場合には、このくじ引きによって、足利義教が第6代目の将軍に選ばれました。

そんなもの現在の日本で行われているわけないよ、と思う人もいるかもしれませんが、日本の公職選挙法にはきちんとくじ引きによる規定が書いてあります。例えば地方自治体の議会では、選挙終了後初めて行う本会議では議長選出選挙を行いますが、その際、最多得票者が複数いて同数の場合はくじ引きとなります。

くじによって「当たる」裁判員制度

このほか、日本だけでなくほかの国でも「陪審員」を選ぶ際などには、得票数が全く同じ場合などには決選投票を行わず、くじ引きで当選人を決定することになっているそうです。

陪審員は、日本の場合では、検察審査員や裁判員のことをさします。検察審査員というのは、検察官が不正をやっていないかを判断するための審査員で、くじによって無作為に選出された国民がこの役割を担います。裁判員のほうは、検察官ではなく、一般人を裁く裁判における審査員を同じく一般国民から選ぶもので、こちらもくじによって選ばれます。

では、よく耳にするこの陪審員と裁判員は何が違うのでしょうか。これは、その昔「陪審員制度」という、アメリカなどで採用されている裁判制度を日本も採りいれていた時代があり、裁判員のことも陪審員と呼んでいたためであり、その名残で現在でもよく混同されて使われるのです。

日本では1923年(大正12年)に陪審法が制定され、1928年(昭和3年)から陪審制度による刑事裁判が行なわれていました。しかし、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、陪審法は施行が停止され、今日に至っています。

アメリカでの陪審員制度での陪審員に課された責務は、被告が有罪か無罪かという事を、検察や弁護側などが集めた証拠と情報をもとに判断して決めることだけです。陪審員は、「①事実認定」を行うだけで、「②量刑」と「③法律的な評価」を決定するのは、裁判官です。

陪審員制度の場合には、一般市民でも十分に判断できるような材料が事前に揃えられていて、これらの証拠をもとにして裁判官から独立して有罪無罪を判断することが多いようです。

ただ、アメリカの場合は、陪審員制度を採用しているとはいえ、裁判官がすべてを裁量する裁判官裁判も併用されていて、被告が陪審員裁判か裁判官裁判のどちらかを選ぶ権利が与えられています。

日本では、陪審員制度が1943年(昭和18年)に停止されて以来、裁判官裁判だけでした。ところが、2009年(平成21年)に66年ぶりに、刑事裁判制度への市民参加制度が復活することとなり、新たに陪審員制度に代わって導入されたのが「裁判員制度」です。

この日本の裁判員制度では、アメリカのように被告が裁判手法を選ぶことはできず、裁判員裁判しか選べません。ただし、今のところ民事裁判や行政裁判などには適用されておらず、刑事事件を扱う裁判だけで採用されています。

また、裁判員に課されている責務としては、有罪か無罪かを決めることだけではなくて、被告の量刑まで判断する必要があり、このため、その判断基準となる証拠の吟味から始めなくてはなりません。

しかし、日本の裁判員制度は、裁判官が一緒になって、量刑を確定するまでの「①事実認定」をする裁判員を補佐してくれることになっています。

この点が陪審員だけで事実認定をするアメリカと違うところです。その分「らくちん」とはいえますが、ただし、日本では裁判員が②の量刑決定をも行なわなければなりません。裁判官が単独で行うのは③の法律評価だけになっています。

この裁判員制度は、法律的知識と経験のない一般市民には非常に大きな負担にもなりかねないともいわれますが、他国にもあまり例をみない、日本独自の制度だそうで、政府筋を中心としてこれを世界に誇れるものだ、と自慢する人も多いようです。

しかし、これを真に受け、この導入によって、日本もようやくアメリカと同じように陪審員制度が取り入れられていて先進的になった、と考えている人も多いかと思いますが、そこのところはちょっと違います。

今のところ、一般国民からの参加が求められた裁判員が扱うのは刑事事件だけであり、アメリカのように民事裁判での陪審員制度が認められていませんし、欧米の陪審員制度のように事前に集められた詳細な資料をもとに詳しい説明等を受けることもできない点は、むしろ遅れているといえます。

証拠を人に揃えてもらえる陪審員制度に比べて、「量刑」を下さなければならない点でも裁判員にとっては大きな負担であり、裁判員制度によって裁判員になった民間人は、陪審員制度での陪審員よりさらに高度な判断が必要とされるわけです。ただ、その分、裁判所の人がサポートしてくれるというのは心強いことではありますが。

それにしても、裁判については全くの素人である一般人が高度な判断をする裁判員となるわけであり、検察や裁判官の意見や心象に傾いてしまう危険も指摘されています。

普段の生活とはうってかわったこういう公的な場所に引き出され、重い判断をしなくてはならない裁判員制度には、やや否定的な声もあり、導入された現在もいまだに賛否両論こもごもです。

ただ、いずれの制度に一長一短はあるようです。陪審員制度との相違点という観点から現行の裁判員制度を見ていくと悪い面も目につきますが、良い点もいろいろあるようです。

なので、新しい裁判員制度を否定するばかりではなく、もしかしたら、「くじ」に当たって自分が裁判員になる日も来るかもしれない場合に備え、その仕組みについてはこうした違いなども知った上で、よく理解しておけば、「貧乏くじ」に当たったとがっかりすることもないでしょう。

くじの歴史

ところで、この「くじ」というのも、考えてみれば不思議なしくみです。

いったい誰が考えたのだろう、と調べてみたのですが、無論わかるわけはありません。が、古くは古代アテネで、公職者選出のためにすでにくじが利用されていたそうで、リーダー的な人などは除いて、人気のある一部の公職は、希望する市民の中からくじで選ばれていたようです。

日本では、文献に出てくる限りでは、前述のように鎌倉幕府の将軍選びに使われたものが一番古いようです。

このころ、室町幕府4代将軍の足利義持がその在職中に、将軍の座を実子の義量(よしかず)に譲り、5代将軍が誕生しました。しかし、この義量は子供のころから疱瘡を患うなどかなり病弱だったようで、将軍職を継いでからすぐにわずか17歳の若さで死去してしまいました。

酒の飲みすぎで死んだのではないかと言われておおり、15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられています。

こうして将軍義量に先立たれてしまったあと、前将軍の義持が実権を持ち続けていましたが、自らが再度将軍職に就こうとはせず、そうこうしているうちに、息子の死から3年ほど経った42歳のとき、浴室で尻の傷を掻きむしって感染症にかかり、これが原因で重態に陥りました。

臣下の武将たちが後継者を定めるよう、改めて義持に懇願したのですが、義持はこれを拒否し、部下たちがこれを評議して定めるように命じます。群臣たちの評議の結果、義持の下にいた4人の弟のうちの一人を籤引きで定めることが決まり、義持もこれを了承しました

義持が後継を指名しなかった理由としては、息子の義量が死んだあとに、一度石清水八幡宮で籤(みくじ)を引き、その際に男児誕生の結果が出、さらにその日には男児誕生の夢を見たのが理由だったそうです。

このため「もう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」と語り、義持自らがくじをひくことを渋ったといいます。

これはどういうことかというと、自分は石清水八幡宮で一度くじを引いており、そのご宣託によって男児が誕生すると信じており、臣下らが作ったくじを自らが引いて新しい将軍を決めるということは、最初のご宣託で示された神の意思を邪険にすることになり、これをやってしまうと世継ぎを新たに得ることはできなくなる可能性もある、と考えたのです。

こうして説明書きを書いていてもわけのわからない論理であり、律儀というか、バカというか、つまりはそういう政治的決断をする能力のない人物だったのでしょう。

このため、結局はこのくじは、部下たちに引かせることになったわけですが、それにしても国政の場で選ぶリーダーをくじによって、しかも部下にそれを選ばせることで決めるとは、将軍も舐められたものです。

しかも、義持は自分が生きているうちは、くじを引くな、と指示したため、将軍職の決定はこうして義持の死後にまで持ち越されることになりました。ただ、幕閣の家臣たちはこれに逆らって彼の死の前にその面前で籤を引いており、義持の死後にこれを開封しています。

こうして、義持の死後、石清水八幡宮において神籤会が催され、義持の弟の中から3男として生まれたために門跡に入ることを強いられ、このため京都東山の青蓮院に入り「義円」と名乗っていた人物が選ばれ、のちの6代将軍、足利義教となりました。

しかし、そんな天下のリーダーをくじで決めているような政権が長続きするわけはなく、この義教から二代あとの、8代将軍足利義政の代には継嗣争いが起こるようになり、これが発端となって室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争う、かの有名な応仁の乱が勃発しました。

やがてこの乱は九州など一部の地方を除く全国に拡大していくことで、室町幕府はどんどん衰退していきました。そして、将軍の権威が失墜すると、その配下の守護大名同士も反目しあうようになってお互いを食いつぶし、その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭していきました。

これらの国人勢力も互いに整理統合されながら、新たに強力な戦国大名が成長し、これが群雄割拠して幕府支配に取って代わるようになり、以後の戦国時代への流れを作っていく事になるのです。

さすがにその後の日本の歴史では、これほど国勢を左右するような場でくじが使われるようなことはなくなりました。そのかわり血で血を洗う凄惨な戦いが長く続き、徳川幕府が成立するまでの中世にこの国は大きく荒廃しました。そう考えると、くじによるリーダー選びのほうがまだましだったかもしれません。

その後の徳川幕府はさすがにくじで将軍を選ぶほど馬鹿ではなく、国を外に向かって閉ざすという暴挙は行ったものの、かえってこれが世界にも類をみないほどの独特の文化をつくることになり、その後265年もの長き間の安泰が続きました。この間、くじによる政治判断というのはほとんど行われることはなかったようです。

が、明治になって西洋の選挙制度が導入されるようになると、くじは再び政治の中でもしばしば使われるようになってきました。以来、現在に至るまで、政治の世界ではごくたまにくじによってリーダーを決められるというシーンがみられます。

例えば、衆議院と参議院の両院協議会の初会の議長の決定でもくじが使われるそうです。各議院の協議委員において、それぞれ互選された両院協議会の議長の初会の議長はくじによって決定すると「国会法」で決められており、実際にそうやって議長が決められています。

このほかにも内閣総理大臣指名選挙というものがあります。

内閣総理大臣は、前述のように議員同士の互選による指名選挙で決められますが、上位2名による決選投票でも獲得数が同数の場合はくじ引きとなります。その方法は、黒玉と白玉を銀紙に包み、それを抽選箱に入れ引いてもらい、黒玉を引いたものがその院における内閣総理大臣指名となると決められているといいます。

ただし、これまで内閣総理大臣指名選挙において、抽選で総理大臣の指名が決まった例は1度もないそうです。が、一度はこういう選挙をみてみたいかも。

また、地方公共団体の長に事故があるとき又は欠けたときの職務代理者、つまり副知事あるいは副市町村長の決定にくじが使われるそうです。ただし、これはその長が代理の順序をあらかじめ定めておらず、また、職務代理者の間での席次の上下が明らかでなく、さらに年齢が同じである場合に限るそうです。

地方自治体の長がくじによって選ばれたというのはあまり頻繁にあることではないでしょうが、過去にはおそらく、長が事故や病気で急死したために後継がくじによって決められた事例もあったかと思われます。詳細には調べていませんが。

宝くじ

さて、現代ではこのくじは、政治の世界以外でも良く使われます。プロ野球のドラフト会議が最も有名なものですし、東京大学の総長選挙でもかつてくじが使われたことがあるそうです。

これは、1989年(平成元年)に行われた総長選挙でのことであり、この選挙は激戦となり、理学部有馬朗人教授と教養学部本間長世教授との間で行われた決選投票で、ともに586票の同数を得て勝負がきませんでした。

しかし、大学の選考内規には、こうした場合にはくじ引きによると明記されており、その結果、有馬教授が第24代東京大学総長に決定したそうです。

このほか、一般大衆に浸透しているくじといえば、おみくじ、あみだくじ、福引などがありますが、やはり、人気一番は宝くじでしょう。

古くは「富籤(とみくじ)」と呼ばれ、950年ほど前の鎌倉時代の文書には既に、大阪府の箕面市にある瀧安寺の「箕面富」というものに関する記述があるそうで、これは金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるといったものだったようです。

富籤は「頼母子(たのもし)」または、「無尽」とよばれる、一種の金融の形態が変化したものだともいわれています。無尽とは、複数の個人や法人等が「講」等の組織に加盟して、金品を定期又は不定期にこれらの講に払い込み、その利息額としての金品を、競り合いや抽選で受け取っていたものです。

しかし、出資者数が少ない場合には獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの問題がありました。このため債権金額を大きくし、しかも債務関係が1回限りとすることなどで、より大きな配分額が得られる「富籤」という方法が案出されるようになりました。

ようするに今の宝くじと同じで、人気が出ればたくさんの人が出資してくれ、さらに抽選回数を少なくすれば、当てられてしまったときの出資金額は少なくて済みます。くじを引く人にとっては、回数は少なくなるものの、当たれば金額も大きいためワクワク感満載、というわけで、今の時代のものとその本質は全く変わりません。

しかし、富籤そのものは、これとは別に発達したものです。「富会」といわれ新年の縁起物としての行事として行われていたもので、自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽選したのが始まりと言われています。

当選者はお守りが貰えただけでしたが、やがて前述の無尽とも結びつき、次第に金銭が副賞となり、やがては賭博としての資金収集の手段となっていきました。

江戸時代には、公儀の許可を得た寺社が勧進のためという理由で富籤を発売していましたが、明治になり刑法が制定されて、一律禁止となりました。

しかし、第二次世界大戦中の1945年7月には、国が「戦費調達」という理由で「福券」や「勝札」という名前で発売し、復活しています。 物資不足のため、副賞の賞品は、タバコやカナキン(キャラコともいわれる純綿の綿織布)などだったそうですが、その後敗戦してしまったため、とうとう抽選は行われることはありませんでした。

しかし、戦後、1948年(昭和23年)に「当選金付証票法」によって地方公共団体が宝くじを発売することが許可され、「宝くじ」の名前を得て復活。このときの副賞の賞品は住宅一棟だったそうです。

この段階ではまだ政府が宝くじを発行していましたが、1954年(昭和29年)には政府がくじを発行する制度を廃止。その後、1964年(昭和39年)に財団法人日本宝くじ協会を発足させ、ご存知のとおり、以後は宝くじの発行手続きはここが一手に担っています。

その後、当選金は徐々にエスカレートし、1968年(昭和43年)には一等の当せん金が1000万円だったものが、1987年(昭和62年)には6000万円になり、1996年(平成8年)にはついに、1等の当選金が1億円に達しました。

昨年の2012年に発売された「東日本大震災復興宝くじ」では、1等の当選金はついに3億円になり、4月には、「当選金付証票法」が更に改正されました。

これにより、当選金の最高額がそれまでは額面の100万倍だったものが、250万倍にまではねあがり、その適用第1号となった「サマージャンボ宝くじ」で1等の当せん金はなんと、4億円に達しています。

今年から新たに発売された「ロト7」では、1等当選金はついに、史上最高の8億円に達し、5月17日に行われた抽選では3口の当選者が出て、このうちの2口は香川県観音寺市の宝くじ売り場から出たということが新聞にも報道されて、この売場は一躍有名になりました。

私自身は、ギャンブルはやらない主義であり、パチンコはもとより、賭け麻雀、ポーカーの類も一切やりません。宝くじも自ら買ったことはなく、何かのパーティーで、ビンゴで当たり、貰ったことがあるくらいで、無論、このくじは当たりませんでしたが、自分の運なんてそんなもんだろう、と思っています。

ケチ臭いやつだ、と思われるかもしれませんが、人間には性というものがあります。私の場合、前世でさんざんギャンブルをやって、相当にひどい目にあったので、現生ではそちら方面には興味が行かないようになっているのだと信じています。

が、我が奥様はどちらかといえばお好きなようで、といっても発売されるたびに買うというほどのマニアでもないようですが、時折買っていらっしゃいます。が、ご自分の小遣いで買われているようなので、こちらも文句を言う筋合いはありません。

前に確か、一万円だか何がしかの額があたったことがあり、その収益の一部でご馳走していただいたような記憶もあるので、これに味を占め、いまさらやめろという気もありません。

が、自分ではやろうとは思いません。というのも、生来の性癖もありますが、その収益金の一部は無駄に使われているという感覚がどうしてもあるからです。

この宝くじの購買による収益金ですが、その発券事務などは前述の財団法人宝くじ協会がやっているものの、「発売元」は都道府県などの自治体と政令指定都市だけということになっており、当せん金支払い分と財団への事務経費を差し引いた残りである宝くじの収益金は、すべて発売元の自治体の収入になります。

サマージャンボ宝くじなどの一部の例外はあるものの、政令指定都市で販売された分についてはその全額がその政令指定都市の収益となり、それ以外の市区町村で販売された分についてもこの市区町村が属する都道府県に、それぞれ納められます。

ということは、例えば仙台市内の発売所で発売したロト6の収益金は政令指定都市である仙台市のものとなり、仙台市周辺のこれ以外の市町村の発売したものは、宮城県の収益になります。

収益金の使い道は法律で決められており、主にいわゆる「箱もの」整備の財源に税金の代わりとして使われていますが、最近では、高齢者福祉などいわゆる「中身」事業の財源に充てられるケースもあります。

じゃあ、政令指定都市ではない一般市町村にはまったくお金が行きわたらないかといえばそうでもなく、都道府県から、各市区町村における売上げ実績や財政状態などに応じて、各市区町村に「市町村振興補助金」として分配されるそうです。

したがって、市区町村の中には、日常から広報誌で宝くじの宣伝を行うところも多く、ジャンボ宝くじの時期になると、「○○ジャンボ宝くじは○○市内の売り場で買いましょう」と、非常にうるさくそのキャッチフレーズを広報に載せるケースも多いようです。

宝くじの収益金が黙っていても入る政令指定都市に比べ、そのすぐ側にあっても、県からのお情けがなければ、そのおこぼれをいただけない一般市町村にとっては死活問題化であるためです。

が、必死になるのはわかるのですが、いやしくも公務員たるものが、おおっぴらにギャンブルを広めている姿というのは、あまり印象が良いものではありません。

加えて最近の宝くじのコマーシャルは限度を超えているようにも思います。

繰り返し繰り返し同じコマーシャルを流せるのはそれだけ人気があり、それなりの収入があるからでしょうが、この不況下で頑張っても収益があがらない企業がいっぱいあるというのに、それを尻目に有名俳優やミュージシャンを使って大々的なコマーシャルを打つ神経には呆れてしまいます。

とはいえ、2008年度の宝くじ売り上げは1兆419億円にも上ったそうで、その内訳は当選金45.7%、経費14.2%であり、残りの40.1%が収益金として自治体に配布されたそうです。自治体へ570億円近い収益金が流れたことになり、無視できない数字です。

この不況下に税金収入の少ない地方自治体にとってはなくてはならない財源でしょう。ここのところは黙って目をつぶってあげてもしかたないかな、とは思います。

しかし、さらにこのうちの「経費」は、日本宝くじ協会、自治総合センターの2公益法人へ流れており、自治体の収益金からはさらに、全国市町村振興協会、自治体国際化協会、地域創造、自治体衛星通信機構などの4公益法人へ事業資金が拠出されているそうです。

これら6公益法人の歴代理事長43人全員が所管の旧自治省、総務省からの天下りであることが明らかになっているそうで、その収益を上げたのが地方の市町村であるとすれば、こうした官公庁総ぐるみで彼らの豊かな生活を支援してさしあげているにほかなりません。

しかも全国各地に作られていて、無駄であると指摘のある「箱もの」の建設費の多くは、これらの法人へ経費として払われたものの中から支出されたものも多く、さらに我々がよく公園でみる遊具などでもときおり、これらの法人の名前を目にすることがあります。

必要なものなら文句はいいません。が、誰も訪れることのないような寂びれた公園に泥にまみれて誰にも見向きもされない、誰も掃除をしないベンチや遊具がどれだけたくさんあるでしょうか。

私が宝くじを買わないのはそうしたことが理由でもあります。

さて、政治がらみの話はあまりしたくない、といいながら、最後のほうはそんな話になってしまいました。

選挙の話などをすればおのずからそうならざるを得ないのは予感していましたが、ま、仕方がないといえば仕方がないか。時にはこうした政治向きの話も良いかもしれません。

が、そうした話をできるだけしなくて済むよう、自民党さんには頑張って欲しいもの。先行き不安ではありますが、いまは信頼していくしか仕方がなさそうです。

ちなみに私は……○○党に入れました。自民党でないのだけは確かです。みなさんはどちらに投票されたでしょうか。それ以前の問題として、投票場に行きましたか?

長州閥はいま……

旧山口県庁議事堂

修善寺は、一昨日あたりからすごい風です。空はピーカンに晴れているのですが、その吹きすさびようはすさまじく、とても洗濯物を干してなどいられません。

昔、学生だったころに沼津に住んでいたころから、伊豆は風の強いところだなと思っていましたが、あれから35年以上経ってもこの気候は変わりません。あたりまえですが……

安倍総理のこと

さて、最近、景気対策やアルジェリアのテロ事件のこともあり、その対応をめぐって、安倍総理のお顔を頻繁にテレビで見ることが多くなったように思います。

前回総理大臣をおやりになったときは、体調不良もあり、何か顔色が悪いな~と思っていましたが、現職ではかなりお元気そうにみえ、溌剌とした感があります。

前のご病気は、「潰瘍性大腸炎」というものだそうで、慢性の下痢と血便をずっと繰り返す結構大変な病気だったようですが、現在ではこれも完治されたたようで、体調も万全のようです。

58才という年齢での総理就任は、歴代をみてもかなり若く、全96代の総理大臣就任の年齢でみると、18番目ということで、この年齢で総理大臣になったのは、ほかに廣田弘毅、海部俊樹、羽田孜、橋本龍太郎などの各氏がいます。

この安倍総理のご実家は、山口県北部の長門市のやや西側にある「日置(へき)」というところで、ここを知っている、行ったことがある、という方は結構な「山口通」だと思います。

ここに、油谷湾という内湾がありますが、その北側の油谷半島と南側の本土との間に囲まれたこの湾は、通年を通して穏やかな海域であり、油谷半島のなだらかな丘の斜面沿いには田んぼや畑が広がるのどかな田園地帯となっていて、海山の取り合わせからなるその風情は、まごうことなく他地域ではほとんど失われてしまった「古く良き日本」の景観です。

油谷半島の最上部付近には「千畳敷」とよばれる高原があり、ここから北側にみる日本海、南側になだらかに連なる中国山地、東側にみる長門海岸、そして西側の油谷湾の眺めは素晴らしく、とくに、油谷湾越しに西側に沈む夕日は絶景です。

この油谷半島の北側の日本海に面した斜面には一面の「棚田」が連なっていて、ここは、東後畑地区(ひがしうしろばたちく)と呼ばれ、日本の「棚田百選」にも選ばれており、こちらも必見の景色です。

かつての山口県大津郡日置村は、この棚田のある油谷半島の根元付近、油谷湾のすぐ東側に広がっており、平成の大合併後に現在では、「長門市」に編入されています。

安倍家はこの地において、江戸時代に大庄屋を務め、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった商家であり、祖父の「安倍寛」が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選したのち、多くの政治家を生む「政治一家」となりました。

安倍総理ご自身は、ご自分のルーツは岩手県、かつての奥州にあった「安倍宗任」という武将の末裔だと言っているようで、この安倍宗任という人物は、1051年( 永承6年)の東北の武将同士の戦いである「前九年の役」において、敵方の「清原氏」の武将であった、源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流されています。

その後、この宗任の流れをくむ者たちが油谷町に流れてきて住み着いたということであり、青森県の五所川原にある、石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社というお社にこの安倍家の始祖である宗任が眠っているということです。

これを知った安倍晋三さんのお父さんで、外務大臣を務めた安倍晋太郎さんは、昭和62年(1987年)にこの神社を奥さんと一緒にお参りし、先祖供養を果たしたそうです。

このとき、「芸術は爆発だ~」で有名な、あの画家の岡本太郎も同行したということです。

岡本太郎自身は、神奈川県の川崎市出身の関東人であって、とくに東北人というわけではないようですが、彼もまた安倍一族の流れをくむ一人として自らのルーツに関心を持って調べていたという経緯があるようです。

そして、安倍氏のルーツも同じ人物であるということをどこからか聞きつけたのでしょう、この参拝に同行し、その際は道案内役まで果たしたということで、芸術家と政治家というあまり接点のなさそうな二人のルーツが同じというのもまた不思議なご縁ではあります。

平成元年(1989年)に発刊された「安倍一族」という盛岡の地方新聞社が編纂した本に、安倍晋太郎氏は「わが祖は宗任」と題する序文を寄せており、これには「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら、華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」と書かれているそうです。

ただし、この安倍宗任は、安倍晋三さんにとっては、女系の祖先にあたり、父系は平氏であったようで、それなのになぜ「安倍」姓なのかというと、平家滅亡の際に子孫を源氏の迫害から守るため、母方のほうのルーツである安倍姓を称した、ということだったようです。

戦前の長州閥

この安倍晋三さんの母方の祖父は、先輩総理大臣である、「岸信介」であることは有名です。

この岸信介氏の弟もまた総理大臣を務めた「佐藤栄作」であることは周知のとおりであり、岸信介は養子に入ったため岸姓を名乗りましたが、元の名は「佐藤信介」であり、この佐藤家の先祖は、源義経の郎党であった「佐藤忠信」という人物だそうです。

岸家の先祖のほうの出自ははっきりわかっていないようです。真偽のほどはわかりませんが一説では満州にいた海賊だったという話もあり、岸信介の曽祖父の代には、長州藩の代官をやっていたようです。

が、いずれにせよ、この岸家、佐藤家、安倍家のいずれをとっても、もともとは長州に芽生えた一族ということではないようで、その三家が山口県という地に集まり、ここを基盤として三人の総理大臣を輩出したというのは、何か不思議なかんじがします。

スピリチュアル的な観点からみると、この三家にまつわる霊たちは、それぞれ「ソウルメイト」ということなのかもしれません。

戦後、このうちの岸家を継いだ岸信介氏が総理大臣に就任したことで、その前の田中義一で途切れるはずであった、いわゆる「長州閥」による総理輩出の伝統は継承されることになったわけですが、その理由などについて検証していく前に、この「閥(ばつ)」という用語がそもそもどういう意味なのか調べてみました。

すると、「世界大百科」の第二版によると、次のように定義されているようです。

「なんらかの既得の属性によって結合し、相互に保護・援助しあう集団。閥は公的な主義・主張、あるいは目的をもって結合した集団ではなく、私的な利益を優先させるために結ばれた集団である。

したがって、閥は外部に対しては閉鎖的・排他的であり、内部的には強固な結合を求められ、親分子分関係的な位階秩序を形成しがちである。また閥は、私的集団にもかかわらず、公的な場においてその利益を優先的に拡張しようとして、社会的には弊害を引き起こす。」

「社会的には弊害を引き起こす」というのは穏やかではありませんが、弊害を起こしたかどうかは別として、少なくとも戦前までに山口県から排出された5人は、いわゆる「長州閥」のおかげで総理大臣になれた、とはよく言われることです。

明治時代以降のこれらの総理大臣は、長州藩による「藩閥」の「もちまわり」によって決めてこられた、とまでいうのは少々言い過ぎのような気もしますが、初代の伊藤博文以降、3代目の総理に主任した山縣有朋、11代桂太郎、18代寺内正毅、26代田中義一までの明治・大正時代の5人が、それほど間をあけずに次々と総理になったのは確かです。

山縣有朋から桂太郎までの間がかなり開いているようにみえますが、この間、伊藤博文が5代目と7代目の総理大臣に再任されており、また山縣有朋も9代目の総理として二回目の当選を果たしています。

桂太郎も、15代総理に再任されていますから、明治時代にはほとんど途切れることなく、これら長州出身者によって総理のポストが占められていたという印象です。

同じく藩閥政治を敷いたとされる薩摩藩でも、黒田清隆、松方正義(2回歴任)などの総理を輩出していますが、この薩摩藩の藩閥による総理大臣の系譜は、大正12年(1922年)に第二次内閣を築いた「山本権兵衛」で途絶え、その後鹿児島県からは総理大臣はひとりも輩出されていません。

これら両藩から多くの総理大臣が出た理由は、県民性うんぬんというよりも、明治維新で勝者側になり、明治政府を主導する絶大なる権力を握ったことが要因であり、これが藩閥政治であるといわれても仕方がないことでしょう。

当然、その配下も同じ藩の出身者で占められており、そうした同郷の人材が多ければ多いほど、その中から総理大臣が出てくる確率が高くなるのは当たり前です。

ただ、長州の田中義一に関しては、寺内正毅が退任してから8年もたったあとに総理大臣になっており、この間がやや空白気味ではあります。

しかし、田中義一は、伊藤博文が自らの「与党」として組織した、「立憲政友会」に所属しており、長州人が数多く含まれていたこの党から代議士に出馬して総理大臣になったというのは、やはり「長州閥」の恩恵を受けたためと考えて良いでしょう。

元陸軍大将などを務め軍人であった田中義一は、日露戦争では満州軍参謀として、同じ長州出身の総参謀長の児玉源太郎のスタッフを務めており、また日本陸軍の父ともいわれる山縣有朋にもかわいがられていたという経緯もあり、これらの経歴が総理大臣への昇格につながったことは間違いないと思われます。

岸・佐藤・安倍ファミリー

しかし、以後、田中義一と同じく立憲政友会に所属していた、濱口雄幸(高知県出身)や犬養毅(岡山縣出身)らが首相となり、彼らが退任して以後は、こうした藩閥政治による総理大臣就任はみられなくなり、以後太平洋戦争が終結するまでは、いわゆる薩長土肥と呼ばれた幕末の雄藩からは総理大臣は一人も出ていません。

土佐の高知県出身の濱口雄幸首相が1931年(昭和6年)に退任してから、1957年(昭和32年)に山口県出身の岸信介が総理大臣になるまで、実に26年間ものあいだ、長州や薩摩、土佐、肥後出身で総理大臣になった者はなく、この間に藩閥政治はすっかりなりをひそめたと思われていました。

ところが、そこへ来ての戦後の岸総理の就任です。またぞや藩閥政治の再来か、と当時の人たちは思ったでしょう。

他藩の閥は消滅してしまったけれども、この間に長州閥が廃れてしまったわけではなく、この間も長州人の政治家は脈々と地下活動を続け、戦後再びその猛威をふるうようになったのではないか、という印象を与えたのは確かです。

だがしかし、本当に「閥」といわれるような「閉鎖的かつ排他的な集団」が残っていたのか、というと私は、これはちょっと違うように思います。

戦前の5人の長州出身の総理は、いずれも同じ県内でも出身地が異なります。

ましてや親戚や縁戚関係はないにも関わらず彼らが「閥」と呼ばれ、ひとくくりにされたのは、彼らとその取り巻きが、幕末に勤皇の志士として幕府軍と命をかけて戦い、親兄弟以上に「血」の濃い師弟関係や主従関係がこの過程において結ばれ、これが明治時代にまで持ち越されたためです。

ところが、戦後に出てきた3人の総理は、無論こうした幕末の動乱を経験しておらず、そうした動乱にちなんだ同盟関係はありません。岸信介、佐藤栄作の二人が兄弟であり、また安倍氏は岸信介の孫にあたるなど、彼らの関係は、閥とは明らかに異なる縁戚関係をベースとしたものです。

なお、岸・佐藤家は山陽側の田布施町が地元であるのに対し、安倍家は県北の日置に家がありますが、こうした地理的違いが、この三家が親戚関係であるということの絆をなんら疎外するものではありません、

佐藤兄弟はとびきりの秀才兄弟として有名でしたから、この二人が総理大臣になれたのは、藩閥とは関係なく、安倍晋三もまたこの佐藤家の流れを汲む優秀な血の一族の生まれであり、彼らそれぞれが政治という世界において秀れた才能を持っていたということだと思います。

いわば、アメリカのケネディ家の一家のような関係であり、著名な政治家や実業家を輩出しているこの名門一族と日本のこの「岸・佐藤・安倍ファミリー」はどこか似ています。

第一世代のパトリック・J・ケネディは、実業家として成功し、マサチューセッツ州上院・下院議員に当選、その息子のジョセフ・P・ケネディも、ケネディ家の第二世代として実業家として名を馳せ、証券取引委員会委員長、駐英アメリカ大使を務めました。

そして、第三世代のジョン・F・ケネディは、ジョセフの次男として生まれ、第35代アメリカ合衆国大統領にまで上り詰めます。ケネディ家にとっては絶頂期だったでしょう。

ところが、ジョン・F・ケネディは暗殺されてしまいます。しかし、ジョセフの三男でジョンの弟のロバート・ケネディが第64代アメリカ合衆国司法長官に就任し、四男のエドワード・ケネディもアメリカ合衆国上院議員に就任するなど、ジョンの死によって凋落していくかと思われたケネディ家は、その後も脈々と政界に根を張り続けました。

その後の第四世代としても、ロバートの長男のジョセフ・パトリック・ケネディ二世がマサチューセッツ州選出の元下院議員となり、このほかにもエドワードの長男のエドワード・ケネディ・ジュニアも政治家となっており、この弟のパトリック・ケネディは連邦下院議員となるなど、現在でもケネディ家からは次々と政治家が創出されています。

佐藤家もその後、次男の佐藤信二氏が政治家となり、衆議院議員を8期、参議院議員を1期務める政治家となっています。このほか、安倍晋三の実兄の「岸信夫」氏は、岸信介の息子の岸信和が子供に恵まれなかったため、安倍家から養子として岸家に入った人であり、この人も衆議院議員を1期、参議院議員を2期務めています。

このように、戦前の田中義一総理の退任でいったん途切れたはずの長州出身の総理就任という「伝統」が復活したのは、岸信介氏の総理就任を皮切りに、岸家と縁戚関係のある佐藤家、安倍家を合わせた三家が、さながらケネディ家のように「ファミリー」として絡み合い、その中から多くの実業家や政治家を次々と輩出し続けているからだと思われます。

そして、この親戚縁戚による「共闘」こそが、戦後その先陣を切って総理大臣となった岸信介氏以降、三人かつ四代の総理大臣が出ている最大の理由のひとつと思われます。

木戸幸一と岸信介

がしかし、戦前に長州閥による総理輩出の流がいったん切れたのにもかかわらずこれが復活した背景には何があったのかを更に深く読み取っていこうとしたとき、そこにはこれらファミリーとは親戚でもなんでもなさそうな、にもかかわらず彼らと密接な関係にあった、二人の長州人の姿が浮かび上がってきます。

その一人は、木戸幸一氏です。

木戸幸一は、第二次世界大戦期の日本の政治家、そして最後の内大臣(戦前に存在した宮中で天皇を補佐する役職)であり、幸一の父・木戸孝正は明治の元勲「木戸孝允」の妹の治子と長州藩士「来原良蔵」の長男であり、生粋の長州人です。

木戸孝允と妻の松子の間には子がなく、孝允も早死したため、木戸家の家督を継いだのは、孝允の妹の治子と孝允の盟友で親友の来原良蔵との間に生まれた次男の木戸正二郎でした。

しかしこの正二郎もすぐに没したため、木戸家継承者がいなくなり、その兄である孝正が急きょ養子となって木戸家と侯爵を継承しました(1884年(明治17年)。

木戸孝正は、これに先立つ10年前の1874年(明治7年)にはアメリカに留学しており、帰国後、アメリカで知ったベースボールを持ち込み、日本最初のクラブチーム「新橋アスレチッククラブ」を作ったことなどで知られており、侯爵継承後、東宮侍従長となり、宮内顧問官などを歴任しました。

そして、その息子が木戸幸一ですが、実は孝正と妻の妙子の間の子ではなく、妙子が早逝したため、孝正の後妻に迎えたのが、同僚の宮内顧問官であった「山尾庸三」の長女、寿栄子であり、幸一は孝正と彼女との間に生まれた子供になります。

この山尾庸三は、いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に密航でロンドン・グラスゴーに留学し、さまざまな工学を学んで帰国した人物です。帰国は伊藤らよりも大幅に遅れ、維新が実現した明治元年(1868年)であり、帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任されました。

新たに創設された法制局の初代長官も務めており、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立した人物としても知られています。

つまり、木戸幸一は、こうした明治維新における重要人物の孫であり、またそれだけではなく、幸一の夫人は、陸軍大将の「児玉源太郎」の娘です。

しかも血はつながっていないとはいえ、明治の元勲木戸孝允の木戸家を継承しており、これらのことから、木戸幸一氏は、戦後の日本の政界においては、田中義一以降失われたと思われていた「長州閥」のサラブレットともいえる人物であることがわかります。

木戸幸一は、長じてからは、学習院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し同校卒業後は農商務省へ入省。工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任後、友人であった近衛文麿の抜擢により、内大臣府秘書官長に就任。

さらに1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣と初代厚生大臣をやり、1939(昭和14年)年の平沼内閣では内務大臣になるなど、次々と要職に就任しています。

1940年(昭和15年)から終戦の1945年(昭和20年)まで内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードしました。

1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となったおり、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がっていました。

このとき、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、戦争推進派の東條内閣の倒閣工作が密かに進められましたが、東條は難局打開のため内閣改造の意向を示し、木戸らのグループに抵抗しようという動きを見せました。

こうした中、岡田元海軍大将と気脈を通じていたのが、東條内閣に商工大臣として入閣しながら、このころ東條によって軍需次官に降格されていた岸信介であり、岸は東條総理の継続を阻止するため、彼の内閣改造を妨害し、内閣総辞職を要求しました。

これに対して、東條側近の四方諒二(しかたりょうじ)東京憲兵隊長が岸信介の自宅に押しかけ、恫喝したという話が残っており、このとき岸は、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返したそうです。

この動きと並行し、東條に内閣改造後の入閣を要請されていた他の重臣たちも木戸と申し合わせて内閣改造を拒否。東條はついに内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となり、これが戦争終結への大きな一手となりました。

こうした一連の終戦工作のなかで、同じ長州人である木戸幸一内大臣と岸信介の間に会談が行われたかどうか、どのような会話が行われたか、といった詳しい史料はほとんど何も残っていないようです。

しかし、同じく東條を打倒し戦争を終結させたいという思いは同じであり、その上で気脈・人脈を通じた同じ長州人ということで、二人にはかなりの接点があったのではないかと考えられます。

岸信介の曽祖父の佐藤信寛(さとうのぶひろ)は吉田松陰の松下村塾の出身であり、その同門であった伊藤博文も同塾で松陰から直接教えを受けており、伊藤の出身地である旧山口県熊毛郡の束荷村(現光市)と佐藤家の本籍の熊毛郡田布施町はほど近く、このことから佐藤家と伊藤家とは昔から深い親交があったようです。

従って、岸家に養子に入り、政界入りした岸信介に対して、元総理を生み出した伊藤家の人々はにくからぬ思いを持っていたはずです。

実際、岸が東京帝大法学部を卒業後に農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩の、「伊藤文吉」の元へまっ先に配属されていますが、この伊藤文吉は、伊藤博文元首相の養子として伊藤家に入った人物です。

また木戸も岸も同じ東京帝国大学法学部出身の先輩後輩どうしであり(木戸が5年先輩)、優等生であった岸が内務省ではなく、この当時二流官庁と思われていた農商務省に入省したのは、先輩の木戸が同じ農商務省に入省していたのと無関係ではないと考えられます。

さらに、木戸の実父の来原良蔵は、吉田松陰や桂小五郎らと深い交流を持っていた人物で、浦賀沖にペリー提督が黒船で来航した際には、藩命で江戸に上り、浦賀周辺の形勢を視察しており、このとき同行していた伊藤博文の才を見出して直々の部下としています。

博文が松下村塾に入塾したのも良蔵の薦めであったといい、その後良蔵が長崎の海軍伝習所に入ったときにもこれに付き従っています。博文は良蔵の死後、その遺志を継いで活動したとされており、彼を終生師匠として仰いでいたといいます。

このように、あまり知られていないことですが、岸信介と木戸幸一は、同じ政界にあってただ単に気脈を通じる同学の先輩、後輩という間柄だったというだけではなく、同郷の人脈という線でも、その共通の知人である「伊藤家」の人々を介してかなり太いパイプで結ばれていた可能性があることがうかがわれます。

その後、木戸は東京裁判で有罪とされ、終身禁固刑の判決を受け服役していましたが、
1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退します。

岸信介が、総理大臣に就任するのは、この二年後の1957年(昭和32年)であり、「長州出身」の総理大臣の復活の裏では、この木戸元内大臣がその背後での何らかの「操作」をしていたと考えるのが自然でしょう。

こうして、岸信介が首相になったあとの佐藤氏の総理就任、そして近年の安倍氏と次々と続く長州出身の総理誕生の裏には、やはり木戸幸一に連なるかつての長州閥の「なごり」があり、「岸後」も、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に擁護された「安倍一族」が存続し続けることによって現在の安倍総理が誕生したのではないかと考えられます。

これを「長州閥」と呼ぶべきかどうかですが、前述のとおり、「閥」とは徒党を組んで政治を推し進めようとする輩の集団を意味すると考えれば、木戸幸一ひとりを「閥」と呼ぶのは言い過ぎでしょう。

木戸幸一を黒幕とした「岸・佐藤・安倍ファミリー」を閥と考える人もいるかもしれませんが、調べた限りではそういう構図も希薄であり、私自身は、このグループは閥というよりも、上述のケネディ家のような「ファミリー」であると考えています。

また、この当時の政界にはほかにも長州出身の政治家はたくさんいましたが、明治や大正のころのような実力者ばかりではなく、このころには長州人ばかりでグループを組んでその力を行使しようというようなめだった動きはありませんでした。

逆にそうしたグループができていたら、他の政治家や軍部から徹底的に敵対視され、排除されていたのではないでしょうか。

岸信介と松岡洋右

このように、木戸幸一は、戦後初の長州出身総理である岸信介首相の誕生においてかなり重要な関わりをもったのではないかと思われますが、このほかにももう一人の重要人物がおり、それは同じ長州人で、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に外務大臣として関与した「松岡洋右」です。

岸信介は、戦前の1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長などを歴任し、この間、満州国の計画経済・統制経済に積極的にとりくみ、満州経営に辣腕を振るいました。

このころ、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二などなどの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の実力者「弐キ参スケ」の1人に数えられました。

この「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられたもので、その5人とは、

東條英機 関東軍参謀長
星野直樹 国務院総務長官
鮎川義介 満業(満州重工業開発株式会社)社長
岸信介 総務庁次長
松岡洋右 満鉄総裁

です。このうちの、松岡洋右と鮎川義介は、同じ長州出身の同郷人であり、この三人の長州人はのちに協力して満州経営にあたり、「満州三角同盟」とも呼ばれました。

岸信介は1896年(明治29年)生まれ、かたや松岡洋右は1880年(明治13年)生まれで、その年の差は16歳もありますが、岸の叔父の「佐藤松介」という人が、松岡洋右の妹の旦那さんであり、血はつながってはいませんが、親戚関係にあります。

しかも、この佐藤松介は松岡の姉である松岡藤枝と結婚しており、この二人の間に生まれた寛子が、後年佐藤栄作の妻になります。従って、血縁関係は薄いものの、松岡家もまた、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に連なる一族ということになります。

ちなみに、この佐藤松介には、「さわ」という妹がおり、この人は岸信介のお母さんの「茂世」の妹でもあるわけですが、この人は吉田祥朔という人物と結婚しており、このためこの吉田祥朔は岸信介の義理の叔父ということになります。

そしてこの二人の子の吉田寛という人が、後年、吉田茂の長女の桜子と結婚しており(この二つの吉田家は別の家系らしい)、これらの話は松岡洋右が生きていたころよりは、ずっと後年の話ではありますが、吉田茂の吉田家もまた後年、岸・佐藤・安倍ファミリーに連なる系譜に取り込まれたということになります。

この松岡洋右は、戦前の長州出身総理のうちでもとくに閥意識が強かったといわれる山縣有朋の最後の門下生ともいわれる人物であり、松岡が結婚した際の仲人は山縣の懐刀でもあった田中義一元首相です。

松岡洋右は、戦前の日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などに関与し、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面における代表的な外交官でしたが、このため敗戦後は米軍ににらまれ、極東国際軍事裁判の公判中に病死しています(1946年(昭和21年)6月)。

山縣有朋との密接な関係をうかがわせる発言として、「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っている中で、「例外は山本権兵衛と山縣有朋ぐらいであった」とも述べており、山縣にはそれなりの敬意を払っていたことがうかがわれます。

このほか、松岡は伊藤博文にも大きな影響を受けていたようであり、伊藤博文が親ロシア派であったことから、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていたといいます。

ところが、岸や木戸が終戦工作を積極的であったのに対し、松岡は何を思ったのか、自分が主導して締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で強く主張。南部仏印進駐(フランス領インドシナ侵攻)に反対し、終戦間際になって、いわゆる北進論を主張するなどのどちらかといえば好戦派に転じました。

松岡は、その後の日本と同盟関係にあったドイツとソビエトの開戦が間近なことを認識していたようで、それなのになぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説があるようですが、このようにコロコロと主張を変え、政府内でも独断専行が強かったことから、昭和天皇は徹底的に松岡を嫌っていたといわれます。

このように同じ長州出身でありながら、木戸や岸とは一線を画していたような印象のある人物ですが、満州運営において岸と共同してその任にあたっていた経緯などもあり、総理経験者である山縣有朋や伊藤博文といった大物(言い換えれば長州閥のドン)と深い関わりのあったこの松岡洋右と親交があったということも、その後岸信介が総理大臣になるにあたってはプラスに働いたと考えられます。

さらに松岡洋右は、満鉄総裁から代議士に転向する際には、前述の「立憲政友会」をベースとして立候補しており、当然のことながら他の長州の政治家とも親密でした。

その最たる人物としては、前述の満州重工社長で戦前には内閣顧問なども務めた鮎川義介(山口市大内村出身)や、立憲政友会の中心的存在であり、総裁も勤めた萩市出身の久原房之介などがいます。

鮎川も久原も戦後は戦犯として逮捕されていますが、とくに久原は右翼に資金を提供したり、2.26事件などに深く関与したなどとして、松岡と同じく、終戦後にA級戦犯になりました。

松岡が代議士になるころには山縣有朋は既に没していましたが、長州人としてこうした明治の宰相の薫陶を直に受けた経験を持つ大物政治家は、当時としては木戸幸一をのぞけばこの松岡ぐらいです。

松岡は、戦後、岸信介に先んじて総理大臣になった吉田茂とも親しい友人関係にあったといい、のちの「自由民主党」の基礎を造った吉田に対して、「君の跡を継ぐのは岸のような若くて優秀なやつだよ」、と勧めていたような気がするのです。

木戸幸一をのぞけば、戦後初の長州人総理となった岸信介を後押しできるキングメーカーはこの人しかおらず、生前に岸氏の総理就任を目の当たりにすることこそできませんでしたが、その実現を切に願っていたのではないでしょうか。

以上、戦後も四代にわたって山口県から総理大臣が出たのは、岸信介という優れた長州出身のリーダーが「岸・佐藤・安倍ファミリー」を形成し、その最初の総理就任をこの木戸幸一と松岡洋右の二人が支えたからこそではないか、と私は思うのです。

さて、長々と書いてきてしまいましたが、山口県出身の総理大臣が多いというその理由はざっとこんなところでしょうか。

他のブログもいろいろ拝見させていただいた上でこの項を書きはじめたのですが、一律に明治以降延々と続いている「長州閥」によるものだ、と一行で切り捨てておられる方も多いので、そのあたりの事情は少々複雑で違う、ということを書きたくてここまで引っ張ってしまいました。

かつて司馬遼太郎さんは、「革命というものは三世代に渡ってなされる。まず第一に思想家が出てくるが、多くは非業の死を遂げる。第二にその後を受け、革命家が出てくる。そして、これも多くは、事半ばにして死ぬ。そして最後に出てくるのが政治家である。」と書かれています。

かくして、伊藤、山縣、桂らの明治に君臨した「長州の政治家」の流れは、いまもまだその流れを維持したまま、存在しているように思えます。

が、それはけっして「閥」と呼ばれるような閉鎖的な形のまま継続しているのではなく、時代が変わり、その時代に適応した形で続いているように思われ、その意味では長州人こと、山口県民こそがそうした時代の変化に適応できる優れた県民性を持っている証拠だというふうにも思われます。

とかく「二世議員」が批判されがちな昨今ですが、私にはそれが悪いという感覚はなく、先代の優れたDNAを受け継いでいるのならば、血がつながっていようがいまいが関係はなく、そのDNAを大事にしていくことのほうが、この国の永続をはかる上においては大事なような気さえします。

極論すれば長州人でなくてもいい、優れた資質をもってDNAが受け継がれるなら、それは会津であっても遠州であっても構わないように思います。

いつか医学がもっと発達したら、そうしたDNAを保存する政府機関なんてものもできるかもしれません。そのDNAを使って作られた「ロボット宰相」なるものが案外とこの国を導いていくのかもしれません。期待しましょう。