静岡 vs 山口 

旧長州藩庁門

最近、税制の地方化の議論が活発になっているのと関係があるのか、「県民性」を話題にしたバラエティー番組を良くテレビでみるようになりました。

新聞や雑誌でも「県民性」を扱った記事をよくみかけるようになったような気もします。本屋さんなどへ行くと、その地方の「県民性読本」的なものが山積みになっていることもよくあるようです。

静岡もそうで、先日本屋に行くと、静岡県の歴史本の特集コーナーの中に、そうした類の本がいろいろ積まれていました。

その一冊にざっと目を通してみたのですが、これらやネットの情報などを総括すると、静岡県民の県民性というのは、だいたい次のように言われているようです。

○男性

静岡市以東の県東部の人はおっとりしているというか、マイペース。協調性があり、誰からも好感が持たれるが、逆に言えば優柔不断なところも。浜松など県西部は明るく、行動力もあるし、根性もある人が多い。ギャンブル好きだが、のめり込むことはない。

○女性

男性がのんびりしているだけに活動的。性格もさっぱりしていて、どちらかというと男性的。じっと耐えるタイプではないし、腹にためるタイプでもない。好き嫌いもはっきりしている

また、静岡県民は、西部では「遠州泥棒(強盗)」、中部は「駿河乞食」、東部は「伊豆餓死」といわれるような性格を持っているともいわれます。

静岡市など中部の人はおっとりしていて人が良いので、「やめまいか」と面倒なことを嫌がるので、どうしても食えなくなったら「物乞い」をするのだそうで、これに対して浜松など西部は行動力もあるし根性もあるので、困ったら泥棒に走るのだそうです。

この静岡中部人の評価はともかく、西部の人の「泥棒」はあまりにもひどい言われようですが、これは、江戸時代の「遠州商人」が、「やらまいか」というチャレンジ精神を発揮して成功したことを、他国民がやっかみ、嫉んだために生まれた言葉のようです。

我らが伊豆の、「伊豆餓死」は、「伊豆詐欺」とも言われるそうで、困ったときやお金に窮した時には、餓死するか、あるいは詐欺をしてなんとかその場をしのぐ人が多いと評されたためのようです。浜松などの西部の「泥棒」まではひどくないにせよ、あんまりよい評価ではないですね。

餓死と詐欺の二通りの評価があるということは、伊豆ではまた二タイプの住民特性を持った地域があるのでしょう。「餓死」のほうのそれは、想像するに、伊豆中部以南の地方ではその昔流人が多く、貧乏であったがゆえに窮すると餓死するしかなかったことに由来するのかもしれません。

また、「詐欺」のほうは、鎌倉や駿府などの中央により近く、権謀術数をはかってのしあがった北条氏一族やその後の時代を担った北条早雲の後北条氏に代表される性格なのでしょう。

それでは、私の故郷の山口はどうなのかな、と調べてみると、だいたい次のように言われているようです。

○男性
一言で言えば、保守的。「年上に従う」「男尊女卑」といったものがいまだに残っている。お金におおまかで、体裁を気にするが、目立ちたがり屋の一面もある。総理を多数出しているだけに、政治好き。郷土意識も強い。

○女性
情に厚く、心優しい。明るく社交的で行動力もある。お金には鷹揚で流行にも関心が強いため、ミーハーに見られやすいが、考え方はとても堅実。

山口県全体でみると、ここは、「米」、「塩」、「紙」のいわゆる「三白」で豊かな地であったこともあり、やはり「保守的」というのがその代表的な性格のようです。

「クルマは4ドアセダン」で「政治は自民党」、そして昔ほどではないにせよ、「男尊女卑」や「目上の人には従う」といった古い時代の風習が根強く残っている、とよくいわれるようですが、あたっているかもしれません。

このほか、金にはおおまかで体裁を気にする人が多いともいわれますが、確かに、山口県民は「おしゃれ」とまではいいませんが、多くの人が集まるところへ行くときには、わりときちんとした格好で行く人が多いように思います。

いまや過疎県になりつつあるので、お年寄りも多いのもたしかなのですが、お年寄りだからといって汚い恰好をしている人も少なく、おっダンディだな、このおっさん、というかんじの人がわりと多いようです。

「気が合えば、人間関係を大事にするだけに、終生の友にもなる」という評価もあるようですが、これもあたっているように思います。幕末には長州藩の藩士の多くが藩外へ出て活動していきましたが、その時に諸国の藩に多くの友人を作ることのできたことが、この藩を維新の成功に導いた要因のように思います。

一方では、プライドも高く頑固で負けず嫌いで、好き嫌いがはっきりしているといい、目立ちたがり屋であるということもよくいわれます。

昔読んだ司馬遼太郎さんの本に、長州藩と薩摩藩の軍勢が江戸入りした際、それが夜であったがゆえに、それぞれが提灯を手にもって行進してやってきたという話が書いてありました。

そのとき、薩摩藩の軍勢は、それぞれの兵士が様々な色形の提灯をぶらさげており、提灯を持っている兵士も持っていない兵士もいたりのバラバラで、「どやどや」とやってきたという印象であったのに対し、長州藩は、ひとりひとりが同じ提灯を持ち、「一列縦隊」で整然と江戸入りをしてきたそうです。

兵士全員に同じ提灯を持たせるなどの周到な準備をし、軍の統制もとれていたということなのでしょうが、司馬さんはこれはそうではなく、一人一人に同じ提灯を持たせて行進させないと、「俺が俺が」といってそれぞれが勝手に行動をしはじめ、たちまち統制がとれなくなってしまうからだ、と書かれていました。

なるほどな~、さすがに司馬さんだな~よく見ているわ、とこれを読んだ私も思ったものです。確かに長州人は我が強い人が多く、全体で行動するというよりも個々で行動したがる人が多いのは確かです。

別の言い方をすれば「個性的」な人が多いわけですが、そういう個人主義のやからをうまくまとめることのできるリーダーが幕末にはたくさん輩出され、そうした個々の力を結集させることができたらこそ、この藩が幕末に力を発揮できたのでしょう。

そのリーダーとしては、吉田松陰や高杉晋作などが代表的ですが、このほかにも久坂玄瑞や山県有朋、木戸孝允などなど枚挙のいとまがありません。

山口県民は、このように幕末に結集して歴史の変革にあたった経験から、明治以降の時代になっても郷土意識が非常に強く、「政治好き」で有名です。

その郷土意識の強烈さは、維新の動乱後は、何が何でも「わがお国」のリーダーを中央に送り込むのだ、という意識に転化されていき、その結果として数多くの代議士や政治家が生まれ、その中から総理大臣が8人も出たというのは多くの人が知るところでしょう。

そのトップバッターは、あの伊藤博文ですが、これ以下の山口県出身の総理8人について、ざっと、まとめてみましょう。このうち5人は戦前の総理です。

伊藤博文(1841~1909) 光市出身

吉田松陰の松下村塾の門下生であり、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らと尊王攘夷・倒幕運動に参加。明治維新後は初代内閣総理大臣を務め、第5代・7代・10代と通算4度も総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の草起・制定の中心的役割を果たしました。

1863年に長州ファイブとして英国留学をした際に英語を覚えており、あまり上手だったという話は聞きませんが、この「英語力」が総理大臣就任への決定的な要因でした。

なお、初代総理大臣就任時は44才という若さであり、これまでの歴代総理大臣の中で最も若くして就任した人物です。在職通算日数は2720日でした。

山県有朋(1838~1922) 萩市出身

伊藤博文と同じく松下村塾門下生の一人で、文久3年(1863年)に高杉晋作が創設した奇兵隊に参加。その後頭角を現し、奇兵隊の軍監となります。明治新政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて軍国の父とも称されるようになりました。第3・9代の二回、内閣総理大臣に就任しています。在職通算日数は1210日でした。

桂太郎(1847~1914) 萩市出身

2013年現在の歴代総理大臣の中で、通算在職日数が最も長いのが桂太郎です。しかも、第11・13・15代と三回も総理大臣を務めました。在任中には日英同盟を締結し、日露戦争にも勝利したことで、長州人の中では最も大きな実績を残した総理という評価もあります。

たえず惜しみなく笑顔を作りながら相手の肩を叩いて好感度を演出することから、「ニコポン首相」のニックネームもつけられました。在職通算日数は2886日でした。

寺内正毅(1852~1919) 山口市出身

第3代韓国統監を務めた後に初代朝鮮総督に就任し、総督としての功績が認められ、第18代内閣総理大臣に就任。頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、独自の立場を貫く主義を掲げていたため、「超然内閣」と呼ばれました。

また「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれました(注:「立憲」とは、権力者が憲法の枠内で政治を行い、権力は憲法に制限される。「非立憲」では、権力者のやりたい放題で、権力者を抑えることができない。)

時は第一次世界大戦の最中であり、シベリア出兵などを宣言しましたが、大きな業績を上げることもなく辞職。在籍通算日数は721日でした。

田中義一(1863~1929) 萩市出身

昭和2年に第26代内閣総理大臣に就任。翌年2月に普通選挙による初めての総選挙を実施しました。在任中に、当時の軍部が主導したとされる「張作霖爆殺事件」、「尼港事件」、「済南事件」、「満洲事件」などなどの数々の中国がらみの事件が起こり、その収拾をめぐって昭和天皇から叱責されたことから、在任わずか2年少しで総辞職しました。在職通算日数805日。

岸信介(1896~1987)  田布施町出身山口市

戦後はじめての長州出身の総理大臣として就任し、第57・58代の二期の首相を勤めました。太平洋戦争開戦時には商工大臣を務め、革新官僚の代表格といわれました。戦後A級戦犯容疑を受け、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に拘留されており、総理就任はその釈放後のことになります。

在任中26ヶ国を訪問するなど積極的に首脳外交を行い、1960年日米安全保障条約(安保条約)改正も実現しましたが、これが逆に国内の騒乱を呼び、その責任をとって辞任。

その後、弟の佐藤栄作、甥の佐藤信二、娘婿の安倍晋太郎、孫の安倍晋三・岸信夫兄弟が政界入りしています。在職通算日数は1241日でした。

佐藤栄作(1901~1975) 田布施町出身

岸信介の弟で、第61・62・63代の三期、内閣総理大臣に就任。岸信介が実兄であり、日本で唯一の兄弟首相の誕生となりました。在任中にアメリカに占領されていた沖縄返還の実現や、非核三原則の制定など多くの実績を残しました。昭和49年には、日本人初となるノーベル平和賞を受賞。

通算在職日数は桂太郎に譲るものの、連続在職日数は佐藤栄作が歴代1位です。通算在職日数は2793日でした。

安倍晋三(1954~) 長門市

戦後最年少で戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣(第90代)に就任したのが安倍晋三です。在任中は「美しい国づくり」プロジェクトに力を注ぎました。父は政治家の安倍晋太郎であり、祖父には岸信介、大叔父には佐藤栄作がいる政治家一族としても知られています。出生地は東京ですが、本籍・選挙区は長門市です。通算在職日数は、366日でした。

菅直人(1946~) 宇部市出身

菅氏は長州出身の総理かどうか、ということでよく取りざたされますが、一応、出生地は山口県宇部市であり、高校2年生まで宇部で過ごしました。しかし、本籍は岡山市であり、選挙区は東京であり、民主党政権時代の評判もかんばしくなかったことなどから、地元山口では、「長州出身の総理大臣」としてカウントすることを否定する人も多いのは確かです。

第94代内閣総理大臣として就任。在任中は東日本大震災の陣頭指揮に当たりました。通算在職日数は499日でした。

これらの8人の総理大臣(菅氏も入れれば9人)のうち、5人は戦前の総理、残るは戦後の総理です。

そこで、よく話題になるのが、なぜ、山口県はこれほど多くの総理大臣を輩出することができたのかということです。

山口県民の県民性が政治に反映された結果であるという、いわゆる「長州閥」のおかげであるというのは、これまでもよく取沙汰されてきていることですが、その真偽のほどを検証してみたいと思います。

が、最近多忙につき、ブログにあまり時間を割くことができません。力尽きたので今日はこれまでにさせていただきます。