世紀の恋……の行方

2015-2015

私の郷里、山口の下関に、「藤原義江記念館」というのがあります。

と、いいながら一度も行ったことがありません。が、下関にある、ということは前々から知っていて、いったいどういう人物だったのだろう、と先日ふと思い出し調べてみると、戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手だそうです。

あのド田舎の山口からオペラ歌手?と意外なかんじがしたのですが、調べてみると、生まれたのは下関ではなく大阪で、その後東京へ移り、学校教育もここで受けたようです。

生年は、1898年(明治31年)。父母は、下関市で「ホーム・リンガー商会」を営んでいたスコットランド人の貿易商、ネール・ブロディ・リードと、同地で活動していた琵琶芸者、坂田キクです。リードは28歳、キクは23歳のときの子です。

この大阪での出生地は、母キクの実家であったようです。詳しい事情はよくわかりませんが、このとき2人の間は既に壊れており、義江が生まれる前に既に離婚していたようです。この離婚に際して、キクはリードから手切れ金あるいは認知料の類をまったく受け取らなかったといいますから、高潔な性格だったのでしょう。

その後、芸者を続けながら義江を育てますが、巡業が多かったことから九州各地を転々としていました。義江はハーフということになりますが、父がスコットランド人だったことから日本国籍はありませんでした。

しかし、7歳のころ、母が世話になっていた、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、ここではじめて日本国籍を得るところとなりました。そして、通常より1年遅れで杵築尋常小学校に入学。その後、キクは、大阪市北新地へ移釣ることになり、義江も母につき従いました。

大阪では祖父の家に寄宿しつつ、学校にも通わず、給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れましたが、時代はまだ明治であり、一見混血児とわかる容姿は周囲の人々から、奇異の目を浴びせられることも少なくなく、彼はその逆境を、耐えて生きました。

ところが、義江が11歳の時、祖父の家が火事で焼けてしまいます。母に頼ることもできず、ついに思い余った義江は、下関のリードを頼ることにします。はじめて対面した父リードは、思いのほか慈悲深い人物であり、この息子に養育費を出すことを申し出ました。

こうして、義江は東京の暁星小学校に転入。この小学校は今も麹町にあり、1888年に開校した私立校ですが、現在もそうですが、全国でも珍しい、男子児童のみからなる小学校で、創立以来、多くの著名な卒業生を輩出し、全国屈指のフランス系カトリックの名門として知られています。

従って、ここに入れたということはこの父親はそれなりに裕福だったことがうかがえます。リードはこのころ、自らがホーム・リンガー商会を運営することは止め、東京にあった「瓜生商会」という商社の社員になっていましたが、やり手だったのでしょう。

この暁星小へは、社長の瓜生寅の好意でここから通うことになりますが、その後、中学に進むと、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々としました。

同じ学校に落着けなかったのは素行不良が原因でしたが、その理由としては、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことなどが考えられます。親から与えられた金はすぐに遊興に使い込む、悪友をたむろして町を練り歩く、女性関係でも奔放だったようで、このためどこの学校へ移っても不良生徒とみなされました。

後の彼の人生における金銭浪費癖と、乱れた女性遍歴は、このころから既に育まれていたわけです。

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ところが、そんな彼にも転機が訪れます。このころ、人気女優・松井須磨子や大衆演劇の人気役者・沢田正二郎らが演じる芸術座の演劇が大人気となり、ツルゲーネフの「その前夜(1916年)や、1917年(大正6年)のトルストイの「生ける屍」は、連日の公演が満席になるなど、好評を博していました。

また、トルストイの「復活」の劇中歌として松井の歌う「カチューシャの唄」のレコードは2万枚の売り上げを記録しました。蓄音機の普及が進んでおらず数千枚売れればヒットという時代にあって、これはスゴイことです。

18歳になった義江もまた、この芸術座の公演を見てすっかりと魅せられ、自らも役者になろうと志を立てます。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、「戸山英二郎」なる芸名を沢田に与えられた彼は、さっそく端役を務めるようになりました。

「戸山英二郎」という芸名は、姓の戸山のほうは当時住んでいた「戸山が原(現新宿区内)」から、名の「英」は父リードの故国イギリス(スコットランド)から取ったものでした。

しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、ハーフである彼が持つその西洋風の容貌にはぴったりの役は回ってこず、「戸山英二郎」に活躍の場はありませんでした。新国劇が、洋モノを公演するようになるのは、1926年(大正15年)の白野弁十郎(シラノ・デ・ベルジュラックの翻案)以降であり、この頃の彼には出番はありませんでした。

そこで義江はさらに転身を図ります。ちょうどこのころ、イタリアの、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーが擁するローシー歌劇団の日本公演を見た義江は、この「オペラ」という日本ではまだ新ジャンルと目されていた分野に強く惹かれました。

悩んだ末、沢田に詫びをいれた義江は、新国劇を抜け、浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。これは、浅草三友館で旗揚げし、日本もの歌劇を売り物として、その後の「浅草オペラ」の全盛時代を作り上げる草分け的な歌劇団でした。のちに東京少女歌劇団と改称し、その後名古屋を本拠地に活動ましたが、昭和に入ってから消滅したようです。

「少女歌劇」が売りでしたが、この間には男性も加わったこともあり、藤原義江のオペラ初舞台もここでした。江利チエミの母で女優の谷崎歳子などもここで活躍していました。

1918年(大正7年)には、同じ浅草オペラで人気を博していた根岸歌劇団(金龍館)に移籍。その後の「浅草オペラ」の黄金期における立役者になっていきます。関東大震災までの大正年間東京の浅草で上演され、一大ブームを起こしたオペラで、第一次世界大戦後の好況を背景に、国内におけるオペラ及び西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たしました。

この根岸歌劇団は、同じビル内に軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部の3つを運営しており、3館共通入場券という形式が一般に受け、このころ帝国劇場などでした上演されておらず、高級な芸術とみなされていたオペラの大衆化を実現したことで知られています。

しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で金龍館もろとも浅草が廃墟になったため、翌年に解散。出身者がつぎつぎ劇団を立ち上げましたが、往時のようにはうまくいかず、1925年、再開された浅草劇場での「オペラの怪人」を最後に姿を消し、と当時に浅草オペラも過去のものとなりました。

義江は音楽教育を受けておらず、読譜もままなりませんでしたが、日本人離れした容貌と舞台栄えする大きな体躯もあり、また一座のプリマ・ドンナ的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の安藤文子の溺愛も得て常に引き立てられていきました。

数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上しましたが、この安藤はやがて義江の最初の戸籍上の妻ともなりました。安藤文子は1895(明治28)年、東京府東京市生まれで、かつて文京区小石川にあった淑徳高等女学校(現淑徳中・高等学校)を卒業後、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)声楽家を修了。

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その後上述のイタリア人演出家ローシー氏に師事し、赤坂ローヤル館にて初舞台を踏みました。その後は浅草の東京歌劇座に参加し、七声歌劇団・新星歌劇団を経て、根岸歌劇団の歌姫として上演先の浅草・金龍館で人気を博しました。

この頃は「浅草オペラ」の黄金期であり、彼女の当時の人気ぶりはすごかったようです。「ペラゴロ」と呼ばれる浅草オペラの熱狂的なファンの支持を受け、当時の様々なオペラ関連の書評も絶賛したといいます。また、大正12年に発行された「今古大番付」では、「歌劇俳優大番付」における「小結」とされており、のちに「横綱」にもなっています。

しかし、その後、関東大震災で浅草オペラが衰退して以降は、表舞台からかき消すよう姿を消しており、「伝説のソプラノ歌手」の名を遺したまま、いつどこで亡くなったかもわかっていないようです。

安藤は義江より3歳年上の姉さん女房だったようで、傍目にも美男美女のこの二人は周囲の羨望の的でした。ところが入籍して間もないころ、義江は知人のすすめで彼女を残し、ヨーロッパに単身留学してしまいます。

義江はその3年後にいったん帰国しますが、その年の11月頃に夫婦関係は解消されていたようです。また二人の間には男児(洋太郎)を設けましたが、早世してしまっています。

こうして、義江は1920年(大正9年)3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立ちました。学資金はちょうどこの頃門司市で没した父リードの巨額の遺産であり、妊娠した妻・文子を残しての出発でした。

ミラノで初めて本場のオペラ公演を聴いた義江は、浅草オペラとの懸隔を実感し、その後自らの喉を鍛えるべく研鑽します。しかし、生来の浪費癖は治まらず資金は枯渇したため、このころ世界的なオペラ歌手とされていた三浦環(たまき)の紹介で声楽教師につくこともありました。

三浦は、プッチーニの「蝶々夫人」で一世を風靡したオペラ歌手で、主人公の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名でした。1915年の英国デビューの成功を受けて、ヨーロッパ各国の歌劇場を客演しており、義江とはこのときに知り合ったようです。

義江はその三浦の哨戒を受けて1921年(大正10年)頃にはロンドンに渡り、当地で知り合った吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てもあり、日本歌唱のリサイタルを開くなどするようになりました。義江が日英混血であるということから両国親善の象徴的存在に仕立てるのが吉田の狙いだったとの説もあります。

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ロンドンでは同じく滞在していた作家・島田清次郎と悪友だったといいます。島田は、石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれで、義江より一つ上。金沢商業学校本科を校内弁論大会で校長を非難し停学処分となった上に、学費未納で退学となり、のちに上京。

黒岩涙香の新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」の懸賞小説に当選すると、めきめきと作家としての才能を発揮し、1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」が菊池寛に高く評価されました。

「地上」はその後5部作まで書かれましたが、いずれも大ベストセラーなり、重版につぐ重版と、巨万の印税が入るようになって島田の身なりも生活も豪奢となり、月々千円を使ったといわれるほどの「大正成金」ぶりでした。

この成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを評しましたが、日本だけでなく、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多く、実力者でもありました。その後、社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行うようになります。

しかし、社会改革という高邁な理想を掲げる反面、現実面での私生活は荒れており、放縦、放恣な生活や奔放な女性関係に人々は眉をひそめ、虚栄、傲慢さが関係者から嫌われるようになると、次第に文壇で孤立していきました。そんな中、ある出版社からの勧めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発し、ロンドンで義江に出会ったのでした。

島田は、そのロンドンで開かれた第一回国際ペンクラブ大会に出席し、初の日本人会員に推されました。詳しい記録は残っていませんが、その財力にモノを言わせて義江とはこのロンドン滞在中に豪遊したことは想像に難くなく、金と女にだらしない、という共通点を持つこの二人はなるほど似たもの同士でした。

島田はその後、海軍少将舟木錬太郎の娘で、文学者舟木重雄、舟木重信の妹(のちに中野要子の名でプロレタリア演劇女優)の婦女子誘拐、監禁・陵辱・強姦を行ったとされて起訴されました。この事件は大きくマスコミに取り上げられ、裁判での多額の弁護料の支払も重なり、物心ともに一気に凋落することとなり、文壇から姿を消しました。

その後も奇行が多く、巣鴨駅付近、白山通り路上を血まみれの浴衣姿で知人宅へ向かっていたところを警察に検束され、警視庁による精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容されました。その後、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年(昭和5年)に肺結核で死去しました。享年31の若さでした。

一方、ロンドン残った義江も、日本人、欧州人を問わず異性関係のスキャンダルは絶えず、やがて、「日本人会から追放」される形でニューヨークへ流れました。米国でも一定の人気を博しましたが、朝日新聞社の原田譲治により、「吾等のテナー・藤原義江」との記事が書かれ、その朝日新聞の肝いりで凱旋公演を行うために1923年(大正12年)帰国します。

同年3月にシアトルを出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、朝日新聞はこの「吾等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載しました。そのおかげもあり、4月に義江を乗せた加賀丸が接岸した横浜埠頭は大勢のファンであふれかえっていました。

5月には、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功を納めます。このころから、「吾等のテナー」の名が定着するようになり、各地でリサイタルを行い好評を博しますが、ちょうどこのころ、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキとのスキャンダルが大事に発展。

このアキは、福澤諭吉の実姉・婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川(なかみがわ)彦次郎と妾・つねとの間の子でした。妾の子とはいえ、女子学習院出身のお嬢様であり、16歳のとき、一度の見合いもなく15歳年上の医博・宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられていました。

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こともあろうに義江はこの名家の医学博士夫人と懇ろになったわけですが、アキとの関係が新聞にスッパ抜かれてスキャンダルになると、その騒ぎを逃れようとして、1930年までの間に外遊、帰国を繰り返しました。

ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、アキからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった具合であり、この間、1928年にアキが離婚した上、義江を追ってイタリアのミラノに移住する、といったこともありました。当時、義江との恋愛は「世紀の恋」と謳われました。

この間、1926年(大正15年/昭和元年)に義江は、ニューヨークでビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行っています。

赤盤とは、静電気防止剤を混入した赤いカラーSPレコードのことで、著名演奏家の録音を特別扱いして通常の黒色ラベルではなく赤茶色のラベルで特別盤としていたものです。販売価格も高めに設定されており、これはLPレコード発売後も継続され、”Red Seal” の愛称で親しまれました。

1930年(昭和5年)に結婚。「藤原あき」となり、義江との間には一子(男子・義昭)をもうけました。この年、義江は、ヴェルディ「椿姫」のアルフレード役で、かねてよりの憧れであった本格的なオペラ出演をはじめて果たしました。このときの指揮者は、山田耕作で、このオペラは、この当時としては異例な原語上演だったようです。

そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航します。今回は新妻・あきも伴っての留学であり、1931年からはイタリアの地方小歌劇場を転々とし、着実にレパートリー拡大を行いました。また妻・あきもこうした地方公演について回り、化粧、衣装、道具など様々な舞台裏の約束事を身に付けました。

これが後の「藤原歌劇団」の結成時にも役立ったといいます。1931年(昭和6年)にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニ「ラ・ボエーム」のロドルフォ役で舞台にも立っています。

1932年(昭和7年)に帰国。この頃、義江は帝国陸軍の関東軍の依頼により、軍歌「討匪行(とうひこう)」の作曲および歌唱を行っており、前線兵士の慰安公演のために満州へ渡ったりもしています。

1934年(昭和9年)6月、義江は日比谷公会堂にてプッチーニ「ラ・ボエーム」の公演を行いますが、この公演は「東京オペラ・カムパニー」と銘打ってのものであり、これが藤原歌劇団の出発点となりました。

この歌劇団の旗揚げには、ホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、ホテル経営によって巨万の富を手に入れ、「ホテル王」と呼ばれた「大倉喜七郎」などがパトロンとしてつき、彼等の援助で運営がなされました。興行的にはたいした実入りはありませんでしたが、音楽的には評論家からある程度の評価は受けたようです。

その後同カムパニー名義で、続けざまにビゼー「カルメン」、ヴェルディ「リゴレット」などが公演されましたが、このリゴレットでは、マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演しています。

その後もプッチーニ「トスカ」などで着実に舞台を重ねましたが、義江は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけ、訳詞上演の際には、妻・あきがしばしば「柳園子」の筆名で参画しました。

正式に「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた「カルメン」であり、この公演は大成功を博しました。その後同年11月には欧米の歌劇場では常識の「椿姫」と「リゴレット」の交替上演、いわゆる「レパートリー上演」を成功させています。

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指揮者としてはマンフレート・グルリットを得ました。この人は、ベルリンの富裕な家庭に生まれた音楽家で、一族は教育界や楽壇・画壇で活躍する名家であり、大叔父にピアニストで、ピアノ教材で有名な作曲家のコルネリウス・グルリットがいます。

1933年にユダヤ系にもかかわらずナチスに入党。4年後にユダヤ人であるために党員資格を剥奪されてナチス政権から逃亡。東京音楽学校からの打診に応じる形で来日し、中央交響楽団の常任指揮者を勤めるかたわら、東京音楽学校の非常勤講師の資格を得ました。

藤原歌劇団の常任指揮者に就任したのは1941年からで、戦中から戦後にかけて、数多くのオペラを指揮、その多くは日本初演でした。戦後はオペラ歌手の日高久子と結婚、グルリット・オペラ協会を発足させ、演奏活動のかたわら、英字紙に音楽評論の寄稿も行なったりもしていましたが、1957年に東京にて他界。享年81。日本洋楽会の功労者といわれます。

義江はその後、太平洋戦争中も1942年(昭和17年)11月にはヴァーグナー「ローエングリン」でも主役を務めるなど、藤原歌劇団の一枚看板としての地位を固めていくとともに、劇団も日本で最も高品質のオペラを上演できる劇団として発展していきました。

ちなみにこの「ローエリング」というのは、バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られるオペラです。初演は1850年にドイツ・ヴァイマル宮廷劇場で行われたという歴史あるもので、第1・3幕への各前奏曲や「婚礼の合唱(いわゆる結婚行進曲)」など、独立演奏される曲も人気の高いものが多く、質の高いオペラとして目されているものです。

しかし義江にとってはこれらの公演内容は満足できるものではなく、興行的にも必ずしも成功とはいえないものであり、また戦局が悪化するにつれてこうした洋モノの興業は認められなくなっていき(ローエリングの公演も同盟国ドイツのものであるため実現した)、劇団の継続にあたっては自宅のピアノを売却するなどの苦労もありました。

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やがて終戦。義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月には帝国劇場で「椿姫」舞台公演を再開しました。

同年秋には東京音楽学校の内紛により教授を辞した木下保(のち、日本を代表するテノール歌手と評される。勲三等瑞宝章受章。)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されました。

が、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちるという人気ぶりから、義江の過演状態は継続していました。しかし、声量・声質の衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったといいます。

1948年(昭和23年)4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により日本芸術院賞を受賞。1950年(昭和25年)に東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を旧三井財閥の三井家11代当主、三井高公の資金援助により建設、やがて義江も同所に居住するようになります。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていました。

1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した義江は、ニューヨーク・シティ・オペラに赴き、長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねました。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、そして1936年から10年間日本で活動した指揮者で、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者です。

楽員からは「ローゼン」(戦前)「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていましたが、まだまだ半アマチュア気分が抜けていなかったN響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課し、楽員をして「過酷」と言わしめつつ技力の大幅なアップに務めたことで知られています。

彼はドイツ人でしたが、ユダヤ系外国人であったため戦時中は活動休止に追い込まれ、目黒にあった指揮者用宿舎を引き払って、日本在住の敵性でない他の外国人らとともに軽井沢に移動。冬にはオーバーを何枚も着込んでも寒さから逃れられない厳しい生活を送り、そこで終戦を迎え、戦後はアメリカに移住していました。

義江は、ニューヨーク・シティ・オペラの「蝶々夫人」の上演レベルのあまりの低さに立腹し、同劇場の音楽監督をしていたローゼンストックにすべて日本人歌手が歌う公演をしたいのだが、と提案します。

その後、彼の助けも得て歌劇団の20名が参加したこのアメリカ公演は1952年から56年まで3回にわたって挙行されて成功し、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得ました。

しかし、金銭感覚に乏しい義江の運営する劇団にとって、この公演は莫大な資金負担となり、大借金を抱えて一転存続不能の危機に陥ります。しかし、高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらって、なんとかこの窮地を切り抜けました。

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1953年(昭和28年)には治まることのない女性遍歴に愛想をつかした妻・あきと離婚。あきはその後、美容部長として資生堂に勤務しつつ、1955年にはNHKの人気番組「私の秘密」のレギュラー出演者となり、そこで聴取者の人気を博すようになります。

この当時の自民党のホープ、藤山愛一郎の父、藤山雷太は、あきの実父、中上川彦次郎の妻の妹と結婚しており、つまり、あきは藤山愛一郎の従姉妹という関係もあり、自民党がその人気に目をつけ、自党に入るようもちかけました。

そして、1962年の参院選に自民党公認で全国区から立候補。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなりました。自民党では藤山派に所属しましたが、任期半ばの1967年に癌のため死去しました。享年69歳。

一方の藤原義江はその11年後の1976年(昭和51年)に77歳にて没しました。上の歌劇研究所の失敗から、1958年には実質的に歌劇の舞台から引退していましたが、1964年(昭和39年)には最後の舞台に立っており、これは東宝ミュージカル「ノー・ストリングス」でした。

1970年には、「オランダおいね」という、TBSの「ポーラテレビ小説に出演しており、この作品で義江はシーボルトに扮し話題を呼びました。1970年3月30日から1970年9月26日まで放送されたこの連続テレビドラマは、最高視聴率19.7%とのことで、そこそこヒットしたようです。

ちなみに、シーボルトの娘として生まれた主人公楠本いねは、1968年に映画デビュー後映画、テレビに出演実績のある丘みつ子でした。

その後、あきより一歳年下の義江も、持病のパーキンソン病が進み、体のバランスが取れなくなっていきます。晩年は帝国ホテル社長、犬丸徹三の厚意で同ホテル内の専用室に居住し、ホテル内のレストランで食事をとる日々を過ごしたといいます。

あれほど華やかだった女出入りも途絶え、一人息子の義昭とも音信不通となり、独りぼっちになった義江を支えたのが、36年前に「リゴレット」で共演した三上孝子でした。

この三上孝子の出自はよくわかりませんが、実家は裕福なお嬢様育ちだったようです。かつての義江の愛人の一人だったと言われており、あき子が去って行った後、孝子は義江に寄り添い、スケジュール調整から来客の接待までを妻のようにこなしていたといいます。

孝子は、親からの遺産の広大な土地を売って半身不随の義江を入院させ、付添婦のように介護し、車椅子に乗せて散歩させたいたといいますが、1975年10月に疾がからみ呼吸困難になった義江は、救急車で日比谷病院にかつぎ込まれました。

翌1976年2月、義江が創った藤原歌劇団は観世栄夫の演出で「セビリアの理髪師」を上演していましたが、もう声のでない義江は、劇団員に対して最後のメッセージを書き送っています。

「僕はベッドの上であの時この時といろいろな人達の舞台を思い浮かべている。一寸、アリアの一節を頭の中でくり返して感無量である。当日の成功を祈っている。」

なお藤原歌劇団はその後、1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となりましたが、「藤原歌劇団」の名称は、西洋オペラの公演事業名として現在も使っているといいます。

そして、そのひと月後の3月22日、義江は77年の生涯を終えました。その後三上孝子は、単身ナポリ行きの飛行機に乗りました。このとき孝子は伊豆松崎の船大工に全長75cmほどの小舟を作らせたものを持参していました。

そして、「お骨はナポリの海に」という義江との約束を守り、彼女は遺骨と遺髪を納めた箱を舟に乗せ、サンタ・ルチアの浜辺から海に流したといいます。その海は、かつての妻、アキと共に過ごした思い出の場所でした。

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放恣な人生を歩んだように見える藤原でしたが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心、本場のオペラを聴き知ってしまった者としてそれを日本に定着させたいとする強い願望が読み取れるといいます。

しかし、実力者でありながら、「センセイは学校の教師と医者だけで沢山だ」と言い、「先生」と呼ばれることを嫌っていたそうです。周囲からは、歌舞伎の若旦那などになぞらえて「旦那」と呼ばれていたといい、謙虚な性格でもあったようです。

父のネール・ブロディ・リードと下関で初めて対面した時、父からかけられた言葉は「サヨナラ」であったといいます。後に父はそれを悔いたそうですが、この事は義江の人生に小さからぬ影を落としたともいいます。

関門海峡を見下ろす小高い丘に、そのリードにまつわるモダンな洋館があります。緑に囲まれたこの場所にあるこの白亜の建物は「紅葉館」とも呼ばれ、ホーム・リンガー商会の2代目社長、シドニー・リンガーが、令息のための邸宅として建てたさせたものです。

リンガー家がこの屋敷を手放した戦後は英国領事の公邸としても使われていたといい、義江の死後2年経った1978(昭和53)年から、世界的オペラ歌手・藤原義江を記念する記念館となりました。

1936年(昭和11年)建立といいますから、義江が38歳のころに建てられたものであり、無論、義江自身が住んだことはありません。グーグルのストリートビューでみたところ、高台に建つその白い装飾性のない外観はいわゆる「モダニズム」を狙ったようです。

アパートに見えなくもありませんが、単純な中に飽きのこない優れた外観であり、印象に残る建物です。鉄筋コンクリート造り、3階建てのこの建物は登録有形文化財にもなっているといいます。館内には義江の遺品や写真などを展示。が、中の見学は予約が必要だそうです。

下関市阿弥陀寺町3-14にあります。これは海響館と呼ばれる人気水族館などの立ち寄り客でいつも賑わっている、「あるかぽーと」のすぐ近くにあります。お近くまで行ったら立ち寄ってみてください。私も帰郷する機会があれば、今度こそ行ってみたいと思います。

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