生没同日

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先日、画家の柳原良平さんが亡くなりました。

トリスウイスキーのラベルでおなじみの、「アンクルトリス」の産みの親として有名ですが、無類の船好きとしても知られ、日本では知られていない船も含め、多数の船舶をイラストつきの情報で紹介しました。

1971年、至誠堂より「柳原良平の船の本を出版。同シリーズは第4冊まで出版され、これらの書籍は、現代日本における船舶趣味・クルーズ趣味などへの源流となりました。過去には、「帆船日本丸記念財団」の理事も務めていたそうです。

その海好きを反映してか、横浜港にもほど近い横浜市中区に在住で、亡くなったのも横浜市内の病院でした。

横浜市の再開発・埋立地区である「みなとみらい21」という街の名称は一般公募により選ばれたものですが、市の一次選考では落選、二次選考委員であった柳原さんが「横浜といえば港町である」として強く推したことで再度発掘され、最終決選投票で選出されるに至ったという逸話があります。

が、生まれたのは東京で、学校は京都の市立美術大学。卒業後、海運会社専属の画家を目指しましたが、日本にはそのような職がなく、壽屋(現・サントリー)に入社。同社宣伝部で開高健、山口瞳とともにトリスウイスキーのCMを制作しました。

このとき描いたCMキャラクターのアンクルトリスが人気となり毎日産業デザイン賞、電通賞などを受賞。その後、サントリーが制作した洋酒天国に掲載したイラストも人気を呼びました。のちに、作家となった山口瞳氏の著書のカバー絵や挿絵の多くを担当したほか、山口の小説を映画化した「江分利満氏の優雅な生活」でもアニメーションを担当しました。

1959年のサントリー退社後は、船や港をテーマにした作品や文章を数多く発表しましたが、その数年後からは漫画家としても活躍し、読売新聞の夕刊で1962年からほぼ4年間、4コマ漫画「今日も一日」を連載しました。このほか、公明党の機関紙・公明新聞にも4コマ漫画「良ちゃん」を連載していました。

しかし、柳原さんといえば、やはり船のイラスト、というイメージが強く、数々の船の絵を世に送ったことから、商船三井、佐渡汽船、太平洋フェリー、東海汽船などなど日本を代表するような海運各社から名誉船長の称号を贈られています。

特に東海汽船では高速船「アルバトロス」のデザインを担当し、さらに超高速ジェット船「セブンアイランド(愛・虹・夢)」の命名並びにデザインを担当しています。また、商船三井では同社のコンテナの「ありげーたー」マークをデザインしており、同社のWEBサイトのトップページにも柳原のイラストが使用されています。

亡くなったのは8月17日で、実は「生没同日」です。生まれた日と亡くなった日が同じということで、ときどきこういう人がいます。

多くの人にとって、誕生日は1年の中でも特別な日であり、そんな日に死ねるというのは本望だ、と思う人も多いでしょう。ところが、死因・性別に関わらず、実は死ぬ確率が高い日だという、調査結果があるようです。

調査を行ったのはスイスのチューリッヒ大学の研究者で、40年分のスイス国内約240万人のデータから、この結果が導きだされました。それによれば、「誕生日では他の日に比べて死亡率が13.8%も高かったそうで、男女間格差はなかったようです。なお、1歳未満は解析対象から除外されていました。

また、年齢別の解析からは男女とも60歳以上でのみ誕生日での死亡率が高くなる(11~18%上昇)が見られたといいます。

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別の統計データでは、生没同日の人の死因を調べたところ、女性では脳卒中が一番多く、男性は自殺・事故が一番多いのだそうで、その割合は、誕生日の4日前から上がっていくとのことです。

有名な、アメリカのオーラリーディング・ヒーラー、レバナ・シェル・ブドラ氏(女性)によれば、たいていの人は、誕生日の前後1週間ほどはちょっとバランスを崩した感じになるそうです。

自分でも自覚している人が多いようですが、周囲の人々を観察しているととくにそれは分かりやすいそうで、彼女によれば、これは、人が「新しい自分」になるためにシフトしなければならない期間だからだそうです。

つまり、スピリチュアル的にみれば、誕生日は魂レベルでの自分自身の変わり目だということであり、意識的にしろ、無意識にしろ、自分自身が成長、変容するために不安定になるようです。

上の統計では、年齢が上のほうが誕生日に近いときに死ぬ確率が高くなるといいますから、年を取ればとるほど、そうした不安定さは増す、ということなのでしょうか。

またスピリチュアルにおいても、「冬至」や「夏至」といった暦の上でも大きな季節変化がある時期には、魂も大きくゆさぶられる、ということがいわれているようです。今年の「秋分の日」は9月23日ですから、そのころじっくりと自分を観察してみて、大きな変化があるかどうか確認してみてはいかがでしょうか。

ところで、柳原さんと同じように生没同日だった人にどんな人がいるだろうか調べてみました。すると、有名なところでは、古くは、坂本竜馬、加藤清正、ダヴィンチ、ミケランジェロとともにルネサンスを代表する画家のラファエロ・サンティなどがおり、近代では女優のイングリッド・バーグマンもそうです。

ただし、坂本竜馬と加藤清正の生没日は旧暦のものであり、現在の暦の上では微妙にずれています。竜馬は、天保6年11月15日生まれで、慶応3年の同日に暗殺されて死んでいますが、現行のグレゴリオ暦では、1836年1月3日生まれで、死没は、1867年12月10日になります。

また、清正も永禄5年6月24日生まれで、死没は慶長16年の同日ですが、現行暦では、1562年7月25日生まれの、1611年8月2日没です。従って、上述のように誕生日の一週間前くらいから影響が出てくる、という説には合致しないことになります。

ラファエロについては、現行暦通りですから、これに該当します。では、最近の日本人でグレゴリオ暦によっても生没同日の人にどんな人がいるかといえば、上述の柳原さん以外で有名なのは、例えば、映画監督の小津安二郎(1903年12月12日→1963年同日)、俳優の船越英二(1923年3月17日→2007年同日)、などがいます。

小津監督は癌で、船越さんは、脳梗塞で倒れ、2日後に死去しており、いずれも病没であることから、上の説は成り立ちそうです。

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では、自殺はどうかといえば、その当時の政府が社会主義者、無政府主義者を調査摘発した大逆事件で摘発された、高木顕明という僧侶が、1914年6月24日に50歳で亡くなっており、これは秋田刑務所での獄中自殺でした。このほか、今年の7月29日に50歳で亡くなった、ミュージカル演出家の吉川徹さんも、自殺でした。

しかし、日本の有名人の中で、その他自殺で生没同日という例はあまりなく、ほかには、2008年9月29日に58歳で命を絶った、ホッカイドウ競馬の元調教師(元騎手)の佐々木一夫という人がいるくらいです。

また、外国人でも自殺で亡くなった人というのはほとんど見当たらず、事故死はそれなりにあるものの、多くは寿命を全うしての病没が多いようです。従って、必ずしも誕生日になるとナーバスになり、死にたくなるか、というとそうではなく、むしろ体のほうがその死期を悟り、それに合わせて準備をし始めるのではないか、というのが私の見解です。

ましてや坂本竜馬のように暗殺によって死ぬ、というのはまったくもって自分の意思とは関係ないところの死であり、誕生日ナーバス説の適用にはなりません。

ただ、事故はどうかといえば、これはどこか自分に油断があったからそうなったのだ、と考えることもでき、その油断は体調の不調から来る、ということはいえるかもしれません。それなら、暗殺による死もそれを予兆できたかもしれないのに、やはり油断がそうさせたのだ、という説もありえそうです。

とはいえ、人によってはこうした突然の死もあるでしょうし、長らく患った末の死もありで、人さまざまです。いずれにせよ、生まれた日と同じ日にあの世に行く、というのは、きっと人それぞれの理由があってのことであり、何等かの意味があってのことなのでしょう。

自分を振り返ってみるに、やはり誕生日に死ねる、というのはある種の達成感のようなものを感じるのではないか、と思います。毎日一生懸命生きて、次の年の誕生日を迎えたときには、やった!なんとか一年を切り抜けたぞ、と思うことも多く、そうした節目の日にみまかるのはやはり本望だと思えるのではないでしょうか。

韓国において、「韓国孤児の母」と呼ばれて崇敬されている日本人、「田内千鶴子」もまた自分の誕生日にそれまでの人生を満足し、死を迎えた一人だったでしょう。

1938年、日本統治時代の朝鮮の全羅南道木浦市(ぜんらなんどうモッポ)で、キリスト教伝道師尹致浩(ユン・チホ)と結婚し、夫と共に、孤児救済のために「共生園」という孤児院で働くようになりました。朝鮮戦争で夫が行方不明になった後も孤児救済のために尽くし、3000人の孤児を守り育て、1963年に大韓民国文化勲章国民賞を受賞しました。

1968年(昭和43年)10月31日の誕生日に56歳で亡くなりましたが、このとき木浦市で行われた市民葬では、3万人が出席したといいます。

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千鶴子は、1912年(大正元年)高知県高知市若松で生まれました。

彼女が母に連れられ、郷里の高地を後にして当時の日本の植民地、全羅南道の木浦に渡ったのは7歳のときでした。千鶴子の父・徳治は朝鮮総督府に勤務する公務員でしたが、彼女が女学校を卒業し、木浦のキリスト教会で奉仕活動を始めた18歳のとき病死し、残された母は助産婦をしながら、千鶴子を育てました。

その後、20歳で木浦にある女子学校の音楽教師に就任。24歳のとき、音楽指導の恩師に呼ばれ、「生きがいのある仕事をしないか」と言われ、そのとき紹介されたのが、孤児院の共生園での仕事でした。

しかし、訪れてみた共生園は想像をはるかに超えるほどみすぼらしい施設でした。孤児院とは名ばかりで、壁もふすまもない建物の中に、30畳ほどの部屋が一つあるだけで、そこに50人ほどの子供がおり、園長がひとりで皆の世話をしていました。

この園長こそが尹致浩であり、孤児院の周りに住む人々からは「乞食大将」と呼ばれていたといいます。ここで千鶴子は無償で働くことにし、子供たちに歌を教え始めました。

2年後、二人は結婚しました。周囲の日本人たちは、韓国人と結婚した彼女に嫌悪感をあらわにしましたが、本人は結婚とは人と人がするもの、あの世では日本人も韓国人も関係ない、とまったく意に介さなかったといいます。1940年には、長女 清美(ユン・チュンミ)が誕生し、2年後の42年には、長男 基(ユン・キ)が誕生し、賑やかになりました。

しかし、電気もガスもない中、多くの孤児たちを支える毎日は、一般世間で言う新婚生活とはおよそ似つかわないものでした。子供たちは、裸足で施設を出入りし、夜は雑魚寝状態。多くは貧しい家の出であることもあり、躾の行き届かない者も多く、まずは顔や手の洗い方から教えなくてならず、食事前の挨拶もままならない状態でした。

やがて終戦。多くの日本人は帰国しましたが、韓国人と結婚した千鶴子は悩んだ末、残留を決めます。しかし、韓国では、日本の敗戦によって日本人と朝鮮人の立場が逆転しており、それまで鬱積していた民族感情が一気に吹き出していました。このため、彼女が日本人であることがわかると、彼等は彼女に対して敵意をむき出しにしました。

そうした敵意はやがて弾圧に変わりました。共生園がある村でも、村人たちが密かに集まり、彼等に危害を加える計画を練り始めましたが、そんな中、不安に震える千鶴子を見た子供たちは「お母さんが日本人だからといって、僕たちのお母さんには違いない。絶対僕たちが守るから。」と励ましてくれました。

やがて手に石や棒を持って施設の前で警護をする園児も現れ、実際に村人がやってくると、「僕たちのお父さんとお母さんに手を出すな、帰れ!」と楯になって二人を守りました。千鶴子はそんな子供たちを抱きしめながら、この子供たちのために一生を捧げる決意を新たにしたと言います。

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そんななか、1947年には次女 香美(ユン・ヒャンミ)が、49年には次男 栄華 (ユン・ヨンワ)が出生しました。やがて1950年6月には朝鮮動乱が勃発。

南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切りました。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(実態は人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などのかたちで支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈しました。

数年のうちには、南進してきた共産軍が韓国全土を制圧するようになり、やがて共産軍は木浦市内にも入ってくるようになりました。不穏な空気が漂いはじめましたが、そんな中、共産党寄りの村人が中心になって集まり、人民裁判を始めました。

やり玉に挙がったのが伊と千鶴子の二人で、会議の結果、二人は人民から金銭を搾取して園の運営を続けている、とのでっち上げの容疑が持ち上がり、裁判では二人に反逆者のレッテルが張られました。また、日本人を妻としている伊は、親日反逆者だとして処刑すべきだとする決議もなされました。

しかし、役場に勤める一人の役人の弁護により、夫の伊だけは人民委員長を承諾すればその罪を許そうということになりました。伊は子どもたちに危害を加えないことを条件に、それを引き受けますが、その最初の仕事は共産党の敵、日本人である妻を裁くことでした。

委員長に就任した伊は自らその裁判官としての弁論を始め、その中で、「私は日本人でありながら、私と結婚して献身的に孤児たちのために尽してきた彼女を尊敬している。もし彼女が日本人であるという理由だけで死刑にするのであれば、彼女を殺す前にまず私に死刑を与えてほしい。」と締めくくりました。

この演説には村人の誰もが感動し、ぱらぱらという拍手が起こるとすぐにそれは歓声を伴った大拍手に変わっていきました。こうして共生園は安泰のまま経営を続けることが許されました。さらにその2カ月後の1953年7月27日には、北と南で休戦協定が結ばれ、共産軍は北へ退却していきました。

ところが、人民委員長になった伊は、その後、大韓民国政府が樹立すると、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまいます。3ヶ月ほど拘束されましたが、その後知り合いの軍人の尽力により解放されます。しかし、拘置所を出た2日後に、光州市(全羅街道)に食糧調達に行く、といって園を出たまま、行方不明になってしまいました。

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このころ、長引いた共産軍との戦いの余波で木浦市内には食べものがほとんど流通しておらず、園の食糧事情も最悪でした。このころまでには戦争の影響もあって園児たちは80人にまで膨れあがっており、食べ盛りの彼等を養うことは並大抵ではありませんでした。

伊園長はそれを何とかしようと出かけたのでしたが、彼を失った後には千鶴子に彼等全員の運命が託されました。泣きたい気持ちを抑え、孤児たちのために町へ出ては、必死に物乞いをしましたが、すべての子供たちを食べさせ、支えるには限界があります。

悩んだ末、彼女は一つの決断をします。それは、ある程度年長になった子供たちには自活を求める、ということでした。子供たちを講堂に集め、10歳になった子供たちには、物乞いでもガム売りでも、なんでもいいから外へ出て、自分が行き延びる努力をしろ、と諭すように呼びかけました。

このとき園児たちは泣きながら千鶴子の元へ集まり、千鶴子もまた彼等を抱きよせて共に泣いたといい、このとき講堂の床には溜まった涙で水たまりができていたといいます。

その日から、千鶴子もまた子供たちとリヤカーを引いて町に出るようになり、残飯でも道草でも食べられものは何でも集めて回りました。ときには物乞いをし、子供たちを叱咤して四方に走らせ、なりふりかまわず生きるための糧を探しました。

こうして1953年は暮れていき、新しい年が明けました。その正月の朝、思いがけないことがありました。年長の子供たちが、どこからか、ほかほかのもち米を取り出し、幼い子供たちに配り始めたではありませんか。

どこからか盗んできたのかと驚いた千鶴子が彼等を問いただすと、その米は、実は彼らが年末までに食べるものも食べずに働いて得た金で買ったものでした。千鶴子はのちに、「あのごはんの味を私は一生忘れられない、と語っていたといいます。

その後も苦しい生活は続きました。夫が行方不明になって以来、園を預かり多くの子供たちを育てるというあまりの重圧に、なんどか逃げ出してしまいたいと思い、また子供たちを伴って死を選ぼうと考えたことも一度や二度ではありませんでした。

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しかし、そんなときいつも彼女を支えてくれたのが子供たちでした。嫌な顔もせずにいつものようにリヤカーを引いて町中を漁り回り、ときには頭を地面に押し付けて物乞いをし、海に出かけては釣りをして帰ってくる彼等は次第にたくましく成長していきました。

彼女はまた、夫の帰りを信じていました。苦しい生活に押しつぶされそうになる心情を支えていたのは、彼がいつか帰ってくる、という奇蹟であり、周囲の子供たちにも常々、「園長が帰ってくるまで辛抱しようね」と呼びかけていました。

ときには籠一杯の魚介類を持ち帰り、明るい笑顔で「お母さん、これでしばらくはごはんの心配をしなくて済むね」と言う彼等の顔を見るたびに、彼女は「私はひとりじゃない、彼等と共に生きている」と実感できたといいます。

1961年には、乳児院の認可を政府から受けることもでき、少ないながらも補助金も出るようになりました。また、園児の中には成長して働きに出るようになるものもあり、彼等の仕送りによる収入もあって、少しずつ暮らし向きも上向いてきました。しかし、出ていくものもあれば入ってくる孤児もありで、施設は相変わらず貧しいままでした。

やがて月日は流れ、夫の伊が失踪してから12年の年月が流れました。1963年8月15日、田内千鶴子は、韓国政府より「文化勳章国民章」を受章しました。「田内千鶴子は私たちの子供を守って育ててくれた人類愛の人だから」という朴正煕大統領の強い後押しがあっての受賞であり、無論日本人初の文化勲章の受賞でした。

そのお祝いの席で千鶴子は、「夫が帰る時までと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と、答えています。

翌年の1964年には、「共生園水仙花合唱団」が創立されました。音楽教師だった千鶴子のアイデアで発足したもので、以後、共生園ではいつも、子どもたちの元気な歌声が響くようになりました。

しかし1965年、彼女は病に倒れます。肺癌でした。摘出手術が必要となりましたが、このときも園の出身者が彼女を助けました。苦しい生活の中から金を持ち寄り、彼女の手術代に当てました。

高熱に苦しみ、医者から入院を勧められましたが、耳を貸そうとはせず、以後3年間を園で過ごしました。たとえ金があっても、共生園の子供たちの生活費や教育費に支障がでてはならない、との考えからでした。

この年、彼女は 「第1回 木浦市 市民賞」を受賞し、さらに2年後の1967年、母国日本の政府からも「紫綬褒章」が彼女に与えられました。この間、手術も受け、しばらくは良好だったものの、やがて癌が再発します。園児たちに頼むからと諭されてついに入院しましたが、日に日に衰弱し、視力障害も発生しました。

1968年10月末に医者に頼みこんで共生園へ帰宅。せめて子供たちに囲まれて死にたいという希望からでした。

千鶴子は、病状が悪化するにつれ日本語を喋るようになり、死の床で、長男の尹基に「梅干しが食べたい」と言ったといいます。キムチを食べ、ハングルを使って生きてきた母の最後の言葉に尹基は大きなショックを受けたといい、このことが後に、「キムチと梅干が食べられる」在日韓国老人ホ-ムを作るきっかけとなりました。

10月31日。この日は彼女の56歳の誕生日であり、園内はそのお祝いの準備で賑わっていたといいます。園内の講堂にベッドのまま運び込まれた千鶴子に対し、病が治るようにとの祈念の礼拝がなされることになりました。が、牧師が眠り続ける彼女の頭に手を置いたとき、まるでその時を待っていたかのように、彼女の息は止まったといいます。

11月2日には、木浦死で市民葬が営まれました。彼女が入った棺にはおよそ20人の園出身者たちがへばりつくように寄り添い、その後霊柩車に乗せられ、長らく親しんだ共生園を後にしました。葬儀会場となった駅前広場には、およそ3万人の人々で埋め尽くされたといいます。

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56歳で亡くなるまでに3千名余りの韓国孤児を育て上げ、その民族を越えた人間愛は、その後「韓国孤児の母」と敬われるようになりました。その後彼女の遺志を継ぎ、共生福祉財団が発足。現在、韓国では、共生園系列の9施設において、約450名の子どもや障害者が温かいケアの下で生活を送っています。

孤児たちを助け続けたいという千鶴子の思いはまた、長男の尹基(ユン・キ)に引き継がれ、日本では彼が理事長となって在日韓国老人ホームを作る会、社会福祉法人「こころの家族」が発足。祖国を離れたお年寄りにふるさとのぬくもりを感じせる老人ホームを建設するという、画期的な試みは今も続けられています。

今年3月には港区赤坂のサントリーホール大ホールで、韓国出身のピアニスト・白建宇(クンウー・パイク)のピアノリサイタルも行われ、リサイタルには尹基も参加しました。日韓国交正常化50周年を記念する、という意味もあるリサイタルでもありました。

田内千鶴子の生涯は映画にもなり、1995年に「愛の黙示録」として公開され、その名を広く知られることになりました。また、千鶴子の生まれ故郷である高知県にはその偉業を称える記念碑が建てられました。

日本で生まれ、韓国で亡くなったため、生没同日ではありますが、同じ国で亡くなる、ということは実現しなかったことになります。その死に瀕しては、さぞかし日本への郷愁の思いに駆られたことと想像されます。

生没同日で没した人の多くも生まれ育った土地で死ぬ、というケースは少ないと思いますが、誕生日に死に、しかもそこが生まれた場所であったとするならば、原点回帰を果たせたという意味ではパーフェクトです。最高の形といえるかもしれません。

私自身もまだ生まれた愛媛の生地・大洲を見ていません。誕生日に死ねるかどうかはわかりませんが、せめてその前に一度はここを見てみたいと思います。

みなさんはいかがでしょうか。もうすぐ誕生日を迎えるという方、原点確認の意味で、生まれ育った場所をもう一度見ておいてはいかがでしょうか?

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