北条水軍のこと

2014-4359最近、新たな境地を切り開こうと、近くのめぼしい撮影場所を地図で探しては出かけては写真を撮りまくっています。

伊豆は海あり山あり谷ありで、こうしたプチ撮影旅行の候補地には事欠かないのですが、なんといっても海の好きな私にとっては、自宅からせいぜい1時間以内でかなりあちこちの海岸に行けることはうれしい限りです。

台風が過ぎ去ったあとの先週末も、朝から良いお天気に恵まれたために、ついつい出かけてしまいました。とくに最近お気に入りなのが、ここ修善寺からもわずか15分ほどで行けてしまう、西伊豆の内浦という内湾です。

「三津シーパラダイス」という水棲生物を売りにしたレジャーパークなどもあり、ここから西へ向かい、長井崎を回ったところには西浦というまた小さな湾があり、ここにはかつて豪華客船、「スカンジナビア号」などが係留されていました。

スカンジナビア号については、以前「スカンジナビア」というタイトルでその一生について書きましたが、この地においてホテルとして使われたのち、北欧の事業家に買い取られ、ヨーロッパまで曳航される途中に、紀伊沖で沈没してしまいました。

この西浦に「海のステージ」という喫茶店があります。ここのオーナーさんは、このスカンジナビアが営業していたころからこの店を開いており、何かとこの船(ホテル)の乗組員さんなどとも親しかったと見え、店内には往時のスカンジナビアの写真や装備品などが展示されており、さながらプチ・スカンジナビア博物館といった趣です。

気さくな方で、我々がお茶をしにここに入ったときも、往時のスカンジナビアのことや、ここから真正面に見える富士山の魅力について、とうとうと語ってくださいました。かなりの御年だと思いますが、今後とも頑張って営業していただきたいと思います。

ところで、この喫茶店から、長井崎を回って元の内浦に引き返したところに、マリーナがあり、その隣に海に突き出した小山があります。おそらく海抜30~40mくらいで、元はこうした岬状ではなく、陸と切り離された島だったようです。

地元の人は、この小山を通称で「城山」と呼んでいるそうですが、その名の通り、戦国時代、ここには「長浜城」と呼ばれる海城がありました。その後時代を経て、ここには三井家の別荘が建てられたそうですが、昭和40年代に取り壊され、後は荒れるままにまかされていました。

ところが、昭和60年代に入って、沼津市の教育委員会による詳細分布調査が実施され、ここからは、4つの大きな曲輪(防御陣地)と、山の斜面に削平地を築き、敵を誘い込み高所から掃射する目的で築かれた「腰曲輪」と呼ばれる曲輪が15ほども確認されました。

このほか、曲輪上には土塁跡が確認され、堀として掘削したとみられる場所も6カ所ほど確認され、これらの施設のひとつひとつは小規模であるものの、そこには後北条氏が得意とした直線の連廓方式の城郭形式が見て取れるそうです。

そういえば、これまで何度も訪れたことのある伊豆長岡市にある韮山城もこれと似たような形状をしており、北条氏は山の尾根をうまく使ってこうした細長い陣地を構築するのがうまかったようです。この韮山城は、この城を築城した北条早雲の終の住処でもありました。

その後、この長浜城は、昭和63年には国指定史跡として指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保全整備が着手されました。写真でもわかるように、綺麗に整備されており、曲輪のあった頂上付近からは内浦の湊やお隣のマリーナ越しに富士山も見通せるという位置関係です。

と、こういうことを書くと、現在はあまり人出のないこの地にわんさかと観光客が訪れる、なんてことにもなりかねないので本当はあまり宣伝はしたくないのです。が、国道沿いにあって海越しに富士山が見える場所というのはあまりないので、かなりの穴場といえるのではないでしょうか。ご興味のある方はぜひ一度行ってみてください。

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こうした長浜城など伊豆のあちこちに城を築いた後北条氏は、元は「伊勢氏」を名乗っていました。北条早雲も駿河国へやってきた当初はまだ「伊勢新九郎守時」と名乗っており、北条姓を称していません。

鎌倉幕府を仕切った執権の北条氏と区別するためにのちの世で、「後北条」と呼ばれるようになりましたが、北条姓を名乗るようになったのは早雲が亡くなった以後のことのようです。

この伊勢家というのは、元々は「備中」すなわち、現在の岡山県に在郷の豪族でした。このことは、以前のブログ「早雲の夢」にも書いてありますので、時間があればこちらも読んでみてください。

伊勢家は、室町幕府の要職に任じられるほど、身分の高い一族だったことが判明しており、家格も申分が無い一族です。それにもかかわらず「北条」の名字にこだわったのは、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権が名乗ったこの名には、利用して有り余るほどの権威があったからだといわれています。

二代の氏綱が名乗った「左京大夫」、氏康から名乗った受領名「相模守」も、鎌倉北条氏の歴代の執権がこう名乗っていたものを拝借したわけです。以後は後北条氏が滅亡するまで、その大大の当主は左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となりました。

この後北条氏の創建者、のちの北条早雲は駿河の国の当主今川氏に取り入って勢力を伸ばし、当初、沼津市の西方にある「興国寺城」という城を貰ってここを根城にしていました。

そしてここを拠点にして、伊豆の平定に乗りだすとともに、この当時事実上の「堀越公方」として伊豆に君臨していた足利家の御曹司、「茶々丸」の館を急襲してこれを追放しました。

この茶々丸が住む堀越公方の館があったのは、駿豆線の伊豆長岡駅の北西にある「守山」という小高い山の北麓であり、早雲はここから北東へ3キロほど離れた韮山の地に、先述の韮山城を構えました。この地を選んだのは、堀越公方の館にも近く、また伊豆を南北に貫く街道にもほど近い、交通の要衝だったためと考えられます。

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早雲は、興国時からこの韮山後に拠点を移したのち、ここを足がかりとして次々と伊豆の各地の豪族を屈服させ、この地を平定したのちにはさらには、関東に足掛かりを作るべく、小田原を攻略しています。

そして早雲の代には既にこれを手中におさめ、二代・北条氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵(現東京埼玉及び神奈川の一部)から下総(現在の千葉県北部)にまでに広げますが、いざ関東に進出しようとしたところ、鎌倉幕府に重用され、房総半島一帯に勢力を持っていた里見氏と激しく対立するようになりました

これに対し北条氏は、三崎や浦賀といった三浦半島の地を根拠地とする「三浦水軍」を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐するべく奮闘しました。しかし、その一方で、西方からは今川義元亡きあとの駿河に武田信玄の軍勢が侵入してきており、また、駿河の隣国の三河国の岡崎城主、松平元康(徳川家康)もしばしば戦をしかけてきていました。

このころ、甲斐の武田氏は中島の戦いを契機に越後上杉氏との争いを終息させ、織田信長の養女を貰い受けた信玄庶子の勝頼が世子となったため、織田家と今川家は友好的関係を持つようになっていました。このため、もともと織田家と敵対関係にあった今川家は、甲斐武田氏も敵に回すことになり、甲駿関係は著しく悪化していました。

今川氏は、度々三河の家康と戦いますが、そのほとんどに敗れてしまい、さらに武田信玄もこの時とばかりに駿河に進行を始め、とくに駿東と呼ばれていた現静岡市以東の地域は武田氏の手に落ちしまいました。

このため、とくに伊豆や小田原伊東の地を根拠地にしていた北条氏は、伊豆平定によって手名付けた豪族の中から「伊豆水軍」を組織し、これをもって武田や松平からの脅威に備えました。これら三浦水軍や伊豆水軍などの北条氏傘下の一連の水軍は、のちの世では「北条水軍」と呼ばれています。

その伊豆における北条水軍の根拠地のひとつが、この長浜城であり、これが位置する内浦はこの当時は「重須湊(おもすみなと)」と呼ばれていました。現在もこの重須の名は残っており、ここにあるヨットハーバーは、「重須ヨットハウス」、ここにある漁業者専用の岸壁がある一帯は、地図にはその名はありませんが「重須港」と呼称されているようです。

北条氏は、北条水軍の根拠地としての長浜城の陣容を整えつつも、来たる武田氏との決戦に備えて、沼津において戸倉城(現清水町)という城を築いてこれを前線基地とします。

一方の武田方もじわりじわりと東進を始め、やがて北条氏と対峙するようになりますが、この北条氏との最終決戦にあたっては、それまでに平定していた駿東や駿河国の豪族たちが組織していた水軍が大いに役にたちました。

海のない甲斐ではそれまでに水軍がありませんでしたが、北条氏と戦うためにどうしても海からも攻める必要がありました。が、このころには伊丹氏・岡部氏をはじめとする旧今川家の家臣たちが武田家になびくようになっており、彼等が保有していた旧今川水軍を武田氏は自由に使えるようになっていたのです。

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さらに武田氏は、この当時軍船を作らせては日本一と言われていた伊勢国から向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れ、旧今川水軍と合わせて強力な水軍を組織しました。ちなみに静岡県内のこれら武田水軍の城としては、江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)などが知られています。

これに対して北条側は、重須の長浜城や下田の下田城を拠点として水軍を組織していました。1579年には、この北条水軍の統括者として、熊野からわざわざ海賊の梶原景宗(梶原備前守景宗)を招いて任命し、その本拠として長浜城を与え、合わせて下田の整備も進めて武田との決戦に備えます。

この北条水軍は、北条早雲が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見・くもみ)、松下氏(三津・みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。これに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍も合わせ、これら各軍の総大将として長浜城の梶原景宗が指揮を執ることになりました。

翌1580年、ついに武田水軍・北条水軍による決戦の火ぶたが落とされ、駿河湾海戦が勃発します。

北条水軍は、梶原備前守と、子の梶原兵部大輔を先方として、清水越前、友永佐兵衛尉、山角治部少輔、松下三郎左衛門、山本信濃守などの船大将が、重須の浦に大船を多数停泊させて待ち構えていました。

これに対して、武田方は、3隻の関船を未明に重須の浦に接近させ、鉄砲を撃って浦に放火を始めます。北条側はすぐさま10隻ほどの安宅船を出撃させたところ、武田水軍は浮島ヶ原方面(現・狩野川河口付近)に退却しはじめました。これを北条水軍は追いかけますが、そのとき、狩野川河口からは2隻の関船が現れました。

こうして、この海戦は、狩野川河口付近の海域に集結した武田方の関船5隻と、北条側の安宅船10隻が対峙する形となりましたが、敵を上回る戦力を持つ北条水軍は、武田の関船を包囲する作戦に出ました。

しかし、浮島ヶ原には武田軍の陸上部隊が迫りつつあったため、これを牽制するため、10隻のうち2隻を狩野川河口に配置し、残りの8隻で沖に出て武田船を大きく包囲し、大砲や鉄砲で激しく武田の関船を攻撃し始めました。ところが、速度が速い武田の関船は巧みに北条水軍の攻撃をかわしつつ、敵の安宅船に鉄砲や弓矢を撃ちかけます。

この安宅船というのは、この当時において最大の軍船といわれ、大きなものでは長さ30mほどもありました。推進には主に帆を用いましたが、戦闘時にはマストを倒して艪だけで航行しました。このため艪の数は多いもので150挺以上に及び、これに200人くらいの漕ぎ手が取付いて、船を動かしました。

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大きいとはいえ、艪によって運転されるため、ある程度は小回りが利きました。が、一方の関船ほどではありません。関船の艪の数は40~80挺と安宅船の半分以下で、また安宅船の船首が角ばって水中抵抗の大きな構造だったのに対し、関船は一本水押しの尖った船首を持ち、船体の縦横比も安宅船よりも細長く、高速航行に適していました。

武田水軍は、この高速性を生かし、北条側の安宅船からの砲火を避けつつ、逆にさんざん矢や鉄砲を撃ちこみます。しかし、このころの安宅船には、こうした火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られていたと考えられ、このため、武田の関船による攻撃にもびくともしませんでした。

このため、狩野川河口右岸に広がる千本松原に陣を敷いていた武田勝頼率いる武田軍は、腰が浸かる深さまで海に入り、鉄砲を北条水軍に向けてまで支援攻撃をしたといいます。

この激戦はその後も続きましたが、形勢有利だった北条側も高速で逃げ回る武田の関船に致命的なダメージを与えることができず、また、武田側も北条水軍の安宅船を攻めあぐねました。結局そのまま夜になり、両軍とも夜目が利かなくなったため船を引き揚げ、この海戦には決着がつきませんでした。

はっきりとした史料は残っていないようですが、両軍ともこれで懲りたのか、この後二次、三次と再び海戦が行われることはなかったようです。

しかし、のちに武田氏の戦略・戦術を残すために記された軍学書、「甲陽軍鑑」によれば、駿河国持船城主として武田水軍の一翼を担っていた向井正綱の活躍により北条水軍は逃げ始め、北条の安宅船を奪った、とも書いてあるようです。

が、この本は武田の家臣であった人々の子孫が編纂したものであり、その内容をそのまま信用するわけにはいきません。

その後武田家は長篠の戦いで信長に敗れて衰退し、1582年、天目山(甲州市大和町)の戦いで勝頼が自害して滅亡しました。

こうして武田の脅威は伊豆からは消え去りましたが、これから8年後の1590年、こんどは豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態に置かれました。このときは、長浜城を主城とする北条水軍の頭領は引き続き梶原景宗が担当し、下田城の北条水軍は伊豆衆筆頭の清水康英が担当しました。

一方豊臣方は、九鬼嘉隆などを初めとする「豊臣水軍」を組織し、清水港に集結してここを本拠としました。これを知った梶原景宗率いる北条水軍は、ここから西伊豆方面へ進撃しようとする動きを見せる豊臣水軍の進路を妨害すべく、西伊豆の安良里港(現西伊豆町)へ水軍を進め、迎え撃つ体制を取りました。

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しかし、秀吉は、織田信長が毛利水軍・村上水軍に対抗するために九鬼嘉隆に命じて建造させた大型の安宅船、「鉄甲船」を初めてとして、多数の重厚な安宅船を有していました。案の定、海戦が始まると、梶原景宗率いる北条水軍は、豊臣水軍の強大な戦力にはまったく歯が立たず、あっけなく潰えてしまいました。

長浜城もこのとき、豊臣の大軍に包囲され、落城したと考えられ、安良里に集結していた北条水軍もまた蹴散らされたようです。そして、九鬼嘉隆・長宗我部元親・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団はさらに南進し、1590年2月ついに下田城を取り囲みます。

ここを最後の砦と考え、時間をかけて準備をしていた北条水軍ですが、この強大な豊臣軍勢を相手にとても進んで海に出ることはできません。

ここの守備隊長を任されていた伊豆衆の清水康英は、海戦に関しては戦上手で知られており、度々小隊を出撃させては、豊臣水軍を苦しめましたが、終いには日に日に増えていく豊臣側の水軍に完全に包囲され、とうとう城の外へは一歩も出ることができなくなりました。

康英は手兵600余になるまで戦い、その後約50日にわたって籠城しましたが、最後には力尽きて降伏し、こうして下田城も開城に至りました。

長浜、下田と駿河湾における北条水軍の拠点を落とした豊臣勢は、さらに伊豆の東海岸における北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ、やがて小田原へと迫ったのでした。

その後、北条氏の総本山でもあったこの小田原城も豊臣勢によって攻め落されます。その開城に際しては、隠居の北条氏政及び氏照は切腹。当主の氏直は助命されて高野山に流されました。意気消沈の氏直は小田原攻めの翌年の1591年には疱瘡に罹り、数え30の若さで死去。これをもって後北条氏はほぼ滅亡しました。

しかし、後北条氏の子孫はその後も細々ながら江戸時代を生き残りました。氏直には子がなかったことから家督は叔父の氏規が継ぎ、後に許されて河内国狭山で7000石を拝領、またその子氏盛も下野国内で4000石を拝領しました。

この氏盛が氏規の死後その遺領を併せて1万1000石の大名となり、畿内の河内の地に狭山藩を立藩。国持大名にこそはなれなかったものの、これが江戸時代を通じて存続した最後の北条氏となりました。

一方、北条氏という頭領を失った伊豆では、下田城落城後、北条水軍の大部分が伊豆の地で帰農し、戦国期の文書を代々に伝えながら地元の指導者となって江戸時代を生き抜いたといいます。

その後下田城跡は一時、下田奉行所が置かれるなどして幕府の直轄地となり、後に宮内省の御料林となって開発の手から免れてきました。そしてこの地は、戦国時代~幕末~大戦と、時代を分ける混乱期に常に軍事拠点として重要視されてきました。

一方の長浜城は、水軍基地としての機能を失い、韮山城とともに廃城となったものと考えられています。ただ、北条水軍がここを落として安良里港へ向かったあと、長浜城の城代となったのは、在地土豪の大川兵庫という武将を中心とする地元住民だったとされており、その後、この大川兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄えたといいます。

私が長浜城を訪れたこの日は、台風一過のことでもあり、地元の漁師さんたちはお休みを取っていたのか、出漁に出るような雰囲気はありませんでした。船の上でのんびりと昼寝をしている漁師さんもいましたが、今にして思えば、こうした人達もまた北条水軍の末裔だったかもしれません……

さて、今日は朝からお天気がよく、今日も今日とて撮影に出たいところでしたが、我慢して今日のこのブログを書いておりました。天気予報によればしばらくこの上天気が続くようであり、もしかしたら梅雨明けも間近いのかもしれません。

さらにもうすぐ夏休み。伊豆にも多くの観光客が訪れると思いますが、そうしたお客さんの中に、もしこのブログを読んだ方がいれば、ぜひ長浜にも立ち寄ってみてください。

一応城跡の直下には無料の駐車場もありますが、広大なスペースではありませんので、一度にたくさんの人が訪れるとたちまち満杯になってしまいます。地元の漁師さんたちも利用しているスペースのようなので、くれぐれもご配慮を。

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スカンジナビア

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少し暑さが和らいできたかな、というかんじはするのですが、依然、日々の日中最高気温は30度越えを繰り返しています。しかも本州のど真ん中に前線が居座っているためか、湿った空気が入ってきて、伊豆半島はどんよりした空気感です。

しかし、今日は朝から富士山が良く見えており、この時期としてはまずまずの眺望コンディションといえるでしょう。

しかし、そんな富士山への入山ももうすぐ閉鎖になるはずであり、今頃はその前に登ってしまおうという登山客でごった返しているに違いありません。

この富士山が見える場所ですが、伊豆半島の中ではどこが最南端だろうかと調べてみたところ、どうやらこれは天城連山の万三郎岳あたりのようです。これより南側の河津や下田方面まで行くと逆に天城山が邪魔になって富士山の眺望は得られません。

また、伊豆半島の西側の海岸沿いでは、黄金崎あたりが南端のようで、これより南側ではここから南東に回り込む海岸線のため、やはり富士山は見えなくなります。

それではこの西海岸のどこが一番富士山がきれいにみえるかというと、これはおそらく沼津市南端にあたる三津(みと)港あたりから、大瀬崎(おせざき)あたりまでの海岸線でしょう。この区間ではちょうど、東西に県道が伸びる形になっており、各所で駿河湾越しに左右シンメトリーの美しい富士山をみることができます。

この三津港から西に1kmほど行ったところに、西浦木負(にしうらきしょう)という場所がありますが、ここからの富士山の眺めも抜群で、少し湾奥にあるため、波も静かであり、美しい富士山の撮影をすることができます。

実は私はこの場所には学生時代以来、行ったことがありません。なので記憶をたどってのことなのですが、ネットなどで調べたところ、その景観を妨げるような建物などは現在までも建設されておらず、昔のままの美しい入り江がそのまま残っているようです。

じゃあ、学生時代にここに何をしに行ったのよ、ということなのですが、これは実は一隻の船を見るためでした。

正確には船というよりも、係留されたままホテルとして使われていたものであり、その名を「スカンジナビア号」といいました。旧西部グループの土地開発ディベロッパー、「コクド」の傘下にあった伊豆箱根鉄道が所有・管理していたもので、ホテル兼レストラン「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用されていたものです。

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スカンジナビア号は、1927年建造のヨット型クルーズ客船であり、当初クルーズ客船「ステラ・ポラリス(Stella Polaris、北極星の意)」として運営されていました。

1926年11月、スウェーデン南西部のヨーテボリ造船所にて建造され、翌1927年2月23日に進水。その3日後の2月26日の処女航海の目的地はイギリスのロンドンであったといいます。

その優雅な姿から「七つの海の白い女王」と呼ばれ、その後は富裕層を対象にしたクルーズ事業向け客船として世界中を航海し、流線型の美しい船型は世界中の人達から絶賛されていました。

その後沼津に曳航されてホテルとして使われるようになったわけですが、そのころまだ学生だった私が、こんな豪華ホテルに泊まれるわけはありません。

しかし、私はこのころからもう既に大の船好きであり、見るだけならタダというわけで、一度ぜひその姿だけでも拝んでおきたいと思い、友達の車に便乗してわざわざ沼津市内から見学に出かけたのでした。

初めてみたその姿は噂通り美しく、富士山をバックに西浦に優雅に浮かぶその姿は、確かに貴婦人といえるほどのものでした。無論、中には入れませんでしたが、あとでカフェ利用だけなら一時乗船もできたと聞き、それならばお茶だけでもしておけばよかったと悔いたものです。が、後の祭りです。

進水後はクルーズ船として世界中を旅してまわったステラ・ポラリスですが、その後、第二次世界大戦が勃発すると、1940年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツによるノルウェー侵略により、ドイツ軍に接収されていた時代があります。

しかし戦時下でも戦災には巻き込まれることもなく、戦後の1945年、ノルウェーの元の所有者であるベルゲンライン社に無事に返還されました。

ただ、接収されていたときのドイツ人の扱いは荒く、Uボート乗組員などが憂さ晴らしなどのために船内をかなり荒らしたそうです。従ってこの間の船体の整備も必ずしも良好でなく、調度品などには相当なダメージを受けたため、戦後の1946年、故郷ノルウェーの建造されたヨーテボリ港に回航され、大規模な修復が施されました。

この時、船歴は既に20年を経過しており、構造的にもやや古い技術で造られた船であったため、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われました。

1947年、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、このころはまだ第二次世界大戦後の混乱が続く中でしたが、いち早くクルーズ船としての営業を開始しました。

この頃は既に航空機時代となっており、飛行機との競争で独自色を出す必要が出てきたクルーズ専用船にとって、この改修されたステラ・ポラリスは先駆的な手本となりました。

後に建造されることになる数々の豪華客船、例えばクイーン・メリー号(1936~1967)やクイーン・エリザベス号(1969~ 2004)、ユナイテッド・ステーツ号(1952~1969)などの内装や設備は、このステラ・ポリスを参考にして決められたともいわれています。

1959年、船歴も30年を超えたステラ・ポリスは、同じスウェーデンの船会社クリッパーライン社に売却されましたが、このときは船体構造などの近代化は行われず、むしろベルゲンライン社が保有していた時代の良さを残す形の修復が行われただけでした。

こうして修復されたとはいえ、むしろレトロな雰囲気を残したステラ・ポリスのクルーズ船としての運用は好調であり、その後も20年以上にわたって、世界中の海で活躍しました。

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ところが、このころになると世界的にも二次大戦の痛手もおさまり、こうした客船を利用してのんびりとした船旅をしたいという向きも増えてきたことから、増える一方の船客の安全を守るため、従来あったSOLAS条約をより強化しようという動きが出てきました。

SOLAS条約とは、「海上における人命の安全のための国際条約」の通称であり、1912年のタイタニック号海難事故を契機として、当初は船舶の安全確保のため救命艇や無線装置の装備等の規則だけを定めるため、1914年に締結された条約です。

しかし、第一次世界大戦の影響ですぐには発効には至らず、その後こうした付属施設の規則を定めるだけでなく、船体構造などに対する新たな安全規制を追加するなどの修正を加えたのち、1933年に発効されました。

そして、戦後の1948年、1960年再度修正された上、1974年に再度改定されることになり、このときの改定内容は船体の復元性や機関構造、電気設備などに及び、また防火対策などについても厳しい規制が加えられることになりました。

この改正は、既に船歴も40年以上ともなるステラ・ポラリスにとっては致命的なものであり、大規模な改修を行って存続させるか、就航終了させるかが迫られる厳しい宣告となりました。

この結果、改定条約施行まではある程度の猶予期間はあったものの、結局これを機に豪華客船としてのステラ・ポラリスの歴史は終わることになります。

こうして1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるよりも売却の道を選択しました。

ちょうどこのころ、日本は高度経済成長を迎えており、そんななか、ホテル事業などを核に快進撃を続ける西武グループなどのレジャー産業企業は絶好調でした。そしてこの西部グループ全体のリゾート開発を一手に握っていたのが、国土開発(コクド)でした。

このため、ステラ・ポラリスの売却の話が出るや否やその買収にも手をあげ、グループの傘下企業の伊豆箱根鉄道を通じて、これを沿線リゾート開発事業として使う「ホテルシップ構想」を表明しました。

クリッパーライン社との交渉の結果、その買収価格は5億円と決まり、こうしてステラ・ポリスの日本への売却が正式に決定されました。ただし、契約条項に「ステラ・ポラリスとしての継続使用は認めない」という内容が含まれており、これはすなわち外洋を航行する客船としての利用はできないという意味でした。

このため、買収後の名称も「スカンジナビア」と変更され、正式名称は「フローティングホテル・スカンジナビア」と呼ぶようになったのでした。

やがて外洋客船としての艤装は解体され、日本に曳航されてきて沼津市西浦木負沖に投碇。そして「海上ホテル」としての内装に手が加えられた結果、1970年7月25日から営業が開始されました。

実は当初、この西浦木負の地では、スカンジナビア号を中心として水族館などを併設したテーマパークを建設する構想がありました。

しかし、停泊地周辺の用地の買収難航などによりこの計画は頓挫し、現在も三津港すぐ脇にある三津天然水族館、現在の「三津シーパラダイス」から長井崎を挟んで2kmほども離れた西浦木負に開業することになったのでした。

このため、テーマパークとしての水族館との連携を図るため、この距離を遊覧船を就航させることで補いましたが、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなりました。

しかし、この頃の西部グループは絶好調であり、ホテル業界の旗手とまでもいわれた、グループ傘下の「プリンスホテル」が持つサービステクニックなどを最大限に生かした経営が行われました。またレストラン部門も充実させることなどにもよって好評を博し、やがて数多くの利用客に親しまれるようになりました。

その後、伊豆といえば、まず「三津」へといわれるほどリゾート地としての人気を長年にわたり維持しましたが、その評価については、この項の冒頭でも述べたように、その背景に富士山を擁する美しい風景があったこととは切り離して考えることはできないでしょう。

無論、スカンジナビア号の気品ある姿と内装の素晴らしさも評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力に対しても大きな賞賛の声があったことは間違いありません。バブルピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用があったといい、この年だけで約10億3000万円の売り上げを記録したといいます。

しかし、その後1990年代の後半になると、バブル景気は休息にしぼんでいき、1999年のバブル終了後には、消費低迷やリゾート不況が襲ってきます。その影響下にあって、王国とまで言われた西部グループもまた斜陽化していき、旗艦であったプリンスホテルでさえも人員削減をはじめとしたリストラなどの経費節減を実施するようになりました。

スカンジナビア号もまた客室稼働率が著しく低下するようになり、こうした結果ついにホテル部門を継続することができないほど業績が悪化。ついには営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストランのみを専業とする業態への変更を余儀なくされるようになりました。

2005年、このころには「コクド」へと名称変更していた国土開発をはじめとした西武鉄道グループの事業再編が始まり、この中ではスカンジナビアも事業見直しの対象となりました。

この際、建造後70年以上をも経過し、老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストが問題視され、不採算事業であるとされたため、ついにはレストラン部門も閉鎖し、船体そのものを売却する方針が発表されます。

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このとき、スカンジナビアが西浦にやってきて既に35年が経過しており、地域住民にとってはスカンジナビア号の雄姿は西浦の景色の一部にほかならないものとなっていました。

このため、「海洋文化財としてこのまま地元に残すべき」などといった声も多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名活動まで行われ、その結果は所有者の伊豆箱根鉄道へ持参されて陳情が繰り返されるなどの保存運動が行われました。

しかし、伊豆箱根鉄道は、2005年3月31日をもってレストラン営業を終了することを宣言。そして、海洋クルーズ運航事業を行う、イギリスの「ランティー社(イギリス領ヴァージン諸島が本拠)」との間にその船体の売買交渉が持たれるに至りました。

この交渉は2006年まで継続されましたが、売買価格で折り合いがつかなかったためか、結局売却は成立しませんでした。しかし、ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、今度はスウェーデンが本社の「ペトロ・ファースト社」との売買交渉が浮上し、その結果として、正式に同社へのスカンジナビア号の譲渡が決定されました。

その売却価格については明らかにされておらず、スカンジナビア号の保存陳情を行っていた団体が伊豆箱根鉄道に対して公開質問を行い、いくらで売却したのかを明らかにしようとする動きなどもあったようですが、結局、西武グループ側はこれを公表していません。

いずれにせよ、スウェーデン側への売却が決まり、こうしてスカンジナビアはその生涯のほぼ半分もの期間を過ごした沼津の地を離れることとなりました。

2006年8月31日、伊豆箱根鉄道社長のほか、沼津市長らも参加して出航式が行われました。スカンジナビアは自力では航行できるような状態ではなかったため、その船出は別の船によって曳航される形でした。

この後、9月7日ころに上海に寄港し、ここで改修工事が加えられたのち、故郷であるスウェーデンに帰り、再びホテル兼レストランとして営業する予定だったといいます。

ところが、沼津港を出た翌日の9月1日の夜間21時ごろ、和歌山県沖を曳航中の船体に浸水が発生し、徐々に左傾しはじめました。このため、同日23時30分頃にはいったん状態確認のため、近くの串本町潮岬西側の入江に退避しました。

しかしその後も傾斜はおさまらずさらに浸水が増し、船体は沈み始めました。このとき、ここで座礁してしまえば、後の引き上げも可能だったと思われますが、なぜか曳航者はスカンジナビアの沖出しを決行しました。おそらくは入江内の浅瀬での着底は、油の流出などによりその後漁業関係者による訴追を免れないと考えたのでしょう。

日付が変わって2日となった午前1時30分頃、再び沖合に舳先を向けて沖出しさせていたところ、この間にさらに傾斜がひどくなります。そして徐々にひどくなる浸水の状況を改善させることもできず、午前2時頃、ついに和歌山県潮岬沖約3kmほどの場所でスカンジナビア号は沈没しました。

のちに調査が行われ、水没地点が確認されたところ、この位置の水深は72m程度だったといい、この水深にある船を現在のサルベージ技術で引上げることはけっして不可能ではないと思われます。

しかし、36年間にも及ぶ係留で船体は傷み、強度はほとんどなかったともいわれ、沈没の原因となった浸水もこの老朽化が原因と考えられました。このため、その後の引き上げもついに断念されるに至ります。

Skandinavia20060831曳航され海上を進むスカンジナビア号 (2006年8月31日)

沈没原因については本当に浸水だけが原因だったかどうかなど未だにいろいろ取沙汰されているようですが、かなり老朽化していたことは間違いなく、「沈没は想定の範囲内」であったという指摘もあります。「曳航ではなく台船に積載して運搬する方法もあったのではなかったか」という意見も後に出たようです。

その後の調査で音波探査なども行われ、その結果スカンジナビア号は大きな損傷もなく着底したことがわかっています。海上に浮かんでいるのと同じ状態で着底しており、その姿が三次元の画像で記録などもされています。船尾より沈没したようで、砂の上に船体を引きずったようなくぼみ跡も確認されています。

買い手の「ペトロ・ファースト社」もその後浮上させることを検討したようですが、この沈没地点は、最大で4ノットにも及ぶ黒潮が流れており、台船の固定が難しいなどの理由も浮上し、結局引きあげは実現しませんでした。

水深70mというのはダイビング可能な水深を大幅に超えており、このためその後も沈没したスカンジナビアを直接撮影した映像などはないようです。

貴重な貴金属とかが積まれていたならば、その回収のために引き上げをしようという動きもあったでしょうが、船内にはサルベージ費用をまかなえるほどの貴重なものは残っていなかったようです。

ただ、船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたそうです。
このガラス彫刻は、スウェーデン国王の歴史を彫り込んだ物だったそうで、スウェーデンでも有数のガラス工房で製作され、その作業には有名な彫刻家も参画し、一枚のレリーフを完成させるには、数人のクラフトマンが数ヵ月の時間を費やしたといいます。

また、船内のダイニングにあったスカイライト(天窓)などにも、こうしたガラス彫刻が施されていたそうで、この彫刻を行ったのもノルウェーの高名な彫刻家であり、このスカンジナビアにあったガラス彫刻はそうした彫刻家の最後の作品とも言われているといいます。

これらの美しい船内装飾品もさることながら、その美しい船体そのものが永遠に失われてしまったことはかえすがえすも残念なことです。

実は私はこの船が既に失われていることは知らず、昨年までの伊豆への転居が決まった時には、ここを再訪するのを楽しみしていました。

風の便りに、ホテルやレストランの営業は停止していると聞いて知っていましたが、ボロボロになりながらも船体だけはまだ係留されているとばかり思っていましたが、まさか海の藻屑と消えていたとは……

2005年のレストラン閉鎖前には、北欧料理のバイキング形式での提供する「グリル北欧」というレストランの運営がまだ行われていたそうです。隣接する三津シーパラダイスでは、「ドルフィンウエディング」と称して、イルカ達とともに結婚式を行い、スカンジナビア号船上でウェディングパーティを開催する企画まであったそうです。

広い船内スペースを活用したパーティなどのイベントもまだ行われていたといい、そうしたことももうできなくなってしまったとは本当に残念です。

せめて何かの名残は残っていないのかな、と改めて調べてみたところ、かつてスカンジナビアを係留していた桟橋は残されているらしく、現在、さらにその近くには資料館らしいものが作られているとか。

資料館とはいいながら、レストラン兼喫茶も兼ねており、こちらのほうがメインのようですが、スカンジナビア号をいまだに懐かしむ人達が良く利用しているといいます。

何分私も行ったことがないので、この資料館がどんな形態なのかよくわかりませんが、写真や航海日誌など貴重でもうどこへ行っても手に入らない品々が展示されているといいます。

自宅からはそう遠くないので、富士山の撮影もかねて、天気の良い日にでもまた行ってみたいと思います。

美しい船は失われてしまいましたが、その背景の駿河湾上に浮かぶ富士山は健在でしょう。ぜひおよそ40年ぶりとなるその景色を再び見てみたいものです。

夕暮れの黄金崎01