沼津みなと ~沼津市

昨日は、一日中曇り空であまり秋らしくないお天気でした。にも関わらず一日中富士山はよく見えていて、あいかわらず「夏山」のままだなぁと思っていたら、今朝起きてみると、頂上付近が白くなっています。

待ちに待ったというか、久々の雪です。まだまだ真っ白になるというまではいきませんが、今後はこの雪も溶けることもなく、いま降った雪の上にまた重なりあってより白さを増していくに違いありません。

先日の金曜日、稲取の細野高原へ行こうかなと思ったのですが、この日もあまり天気がよくなく断念。それなら、ということで、180度方向を変え、これまで行ったことのなかった「沼津港」へ行ってみることにしました。

私が学生のころにはなかったと思うのですが、最近、沼津港の東側、狩野川との間には寿司や海鮮料理等の飲食店が軒を連ねてにぎやかになっている、とガイドブックを読み知っていたからです。

また、狩野川河口には、狩野川へ遡上する津波を防ぐ目的で造られた水門、「びゅうお」もあると聞き、前から気にはなっていたので、この機会に行ってみようと思いたったわけ。

その飲食店街やびゅうおの話題はあとに譲るとして、その沼津港の歴史とやらはどうなのかな、とまたぞろ気になってしまったので調べてみました。

このブログを読んでいただいている方々の中には、私の歴史モノの長い文章を読むのにうんざり、という方も多いとも思うのです。が、まあそこが暇つぶしにもいいんだよ、と言ってくださる奇特な方もいらっしゃるとも思うので、勝手ながらこういう「神様」を優先することにして続けたいと思います。

で、いろいろ調べてみると、面白いことがわかりました。この沼津港、もともと水産物などを扱う港として発展したのではなく、いまや東海道線の一部になっている、沼津~富士川東岸間や沼津~熱海間の「東海道線」の建設資材を揚げ降ろしするための「基地」として整備されたもので、現在のように水産物で賑わう沼津港はそのあとに整備されたものなのだそうです。

事の発端は、明治20年代のこと。この当時、朝鮮半島を我が国のものにしようと考えていた日本は、同じく朝鮮を属国と考えていた「清」との関係を悪化させつありました。今、中国との間で問題になっている尖閣諸島を日本の領土として公に示すための「国標」を建てようとしていたころのことです。

政府は清国との開戦をにらみつつ、朝鮮方面への進出のためには東京から迅速に人やモノを西へ面に移動させる必要性を強く感じており、このため東海道か中仙道(埼玉~群馬~長野~岐阜~関西)に鉄道を敷設しようと考えました。

しかし、この中仙道ルートはかなりの山道になるため、とりあえずこれは後回しにすることを決定。東海道も箱根の山をどう越えるかが問題となりましたが、ともかく、箱根から西側に線路を造っていこう、ということになりました。

この箱根山をどうやって超えるかという問題は、その後箱根山の北を大きく迂回するという形の「御殿場線」によって解消され、これにより、東京から小田原~御殿場~沼津という初期の東海道線ルートが確立されることになります。

この御殿場線はその後昭和になって、熱海と函南の間にある「丹那山」をぶち抜く「丹那山トンネル」が完成することでお役御免になります。丹那トンネルが完成する昭和初期までは、御殿場線が東海道線の一部でしたが、その完成により東海道線は、小田原から熱海を経由して丹那トンネルを抜け、沼津に至るルートに切り替えられたのです。

で明治政府は、当初は東海道線だったこの御殿場ルートは比較的東京に近いので徐々に横浜あたりから延伸していけばよいと考えましたが、御殿場から先のルートもこれと並行して建設を進めるためには、山越えで資材を運ばなければなりません。

しかし、必要となる鉄道建設資機材一式を横浜港から、今の沼津港のかなり南側にあった「江浦港」まで船舶輸送すれば、ここから比較的容易に建設現場まで資材を運べると考え直しました。

江浦港は、現在の「ヤマハマリーナ沼津」があるあたりにあった港で、地形的には内陸の大仁や長岡にも近いため、その昔は内陸からの物資が陸路で運びこまれ、ここから船で江戸や関西にその物資が運び出されていました。江浦港よりもさらに南側にある三津港や土肥港とともに、古くは西伊豆の三大港としてにぎわっていたようです。

なぜ直接沼津港に着岸しなかったかというと、江浦港は比較的水深が深く大型船が着岸できましたが、この当時、蛇松(じゃまつ)と呼ばれていた現在の沼津港付近は狩野川の河口付近にあり、狩野川から流れ出る砂で海が埋まっていたため、あまり大きな船が着岸できなかったためです。

このため、横浜から運ばれた物資は江浦港でいったん降ろされ、ここから艀(はしけ)に積換えられて、より東海道線に近い今の沼津港、この当時「蛇松(じゃまつ)港」と呼ばれていた小さな漁港に陸揚されました。この「蛇松」という地名は、狩野川河口付近に生えていた「蛇のように曲がりくねった松=蛇松」にちなんでいるそうです。

そして、この蛇松から現在の東海道線沼津駅の間には鉄道が真っ先に建設され、東京横浜間の鉄道開業時に使われた第5号蒸気機関車が運び込まれました。これを現地で組立後、明治20年(1887年)に運転を開始。このとき「陸蒸気(おかじょうき)」なる物を一目観ようとしたため、蛇松の桟橋は現地沼津の住民たちで大賑わいだったといいます。

この5号蒸気機関車は、その後、1906年(明治39年)まで使われ、そのあと160型160号というよりパワフルな蒸気機関車が導入されました。この蒸気機関車はさらに1911年(明治44年)まで使われ、その後九州の「島原鉄道」に払い下げられ、1955年(昭和30年)に廃車になったあとも解体されず昭和30年代後半まで現存していたそうです。

この辺のお話は鉄道ファンにはたまらないお話でしょう。ファンならずともどんな機関車だったのか、みてみたいものです。また機会あらば調べてみましょう。

この鉄道路線は、現JR沼津駅の東のほうから緩いカーブを描きながら、沼津港方面へ南下するように建設され、蛇松港にターミナルがあったことから、「蛇松線」と呼ばれるようになります。

その後、蛇松港より北側に、より水深の深い「新沼津港(現在の沼津港)」が建設されたため、この線路も新沼津港方向へと付け替えられるなど若干のルート変更がありましたが、蛇松線はその後、昭和49年までのおよそ90年間、建設資材・農水産物・石油等の貨物輸送に活躍しました。

こうして、沼津港(蛇松港)から東海道線の沼津駅までの資機材輸送ルートが確立したため、蛇松港へ陸揚げされた鉄道建設物資が、東海道線の建設現場にピストン輸送されるようになり、建設は急ピッチに進行。こうして沼津から東側の国府津までの鉄道路線と静岡までの路線の両方が1887年(明治22年)までには完成ました。

しかし、この区間の東海道線の開通の結果、蛇松線は資機材輸送線としての役割を終えることになり、その後一時期は使用実績もないまま遊休施設化し、半ば放置状態が続いていました。

ところが1898年(明治31年)になって、「兵陽運送」という会社がこの路線での貨物輸送を願い出たため、逓信省鉄道作業局は審査の結果これを許可。

1899年(明治32年)から鉄道の運転が再開され、海路を経由して蛇松港に陸揚された石油、石炭、及び、木材等々が沼津や御殿場、富士方面へ運ばれるようになり、その路線は「蛇松線」その終点部は「蛇松駅」と命名されました。

1934年(昭和9年)に完成する丹那トンネル建設では、その西口工事現場で使用する建設機材や資材を輸送するために、この蛇松線が大変活躍したといい、その存在がなければトンネルの完成は難しかっただろうといわれています。

その後、狩野川河口付近には、1933年(昭和8年)に前述の新しい港が建設され、これを「沼津港」と命名。その後、太平洋戦争終結後の1947年(昭和22年)からは、蛇松線は「沼津港線」、蛇松駅は「沼津港駅」に改称されました。

しかしこのころから、トラックなどの別の陸上輸送手段による物資の輸送量が増えるようになり、このため沼津港線輸送量は年々低下の一途をたどっていきます。また沼津港線が国道1号線と直角に交差していることから、交通事故も増えるようになってきたことから、廃止が決定。

1974年(昭和49年)の8月31日、DE11型ディーゼル機関車が旧型客車2両を牽引して沼津駅~沼津港間を臨時列車が運転されたのを最後に、その長い歴史の幕を閉じました。

路線廃止後しばらくは沼津駅側線扱として施設自体は残存していたようですがが、1976年(昭和51年)に沼津市に払下げられ、整備後現在は地元の生活道路として使われるとともにその一部は「蛇松緑道(じゃまつりょくどう)」と命名され遊歩道となっているということです。

狩野川河口に造られた沼津港のほうは、港湾管理者を静岡県とし、その後、特定地域振興重要港湾に指定されるなど、静岡県でも有数の港となりました。

元の「蛇松港」は、現狩野川河口から2kmほども遡った永代橋付近の右岸側にありましたが、新しい港は狩野川河口のすぐ右岸側を深く掘り下げられ、1933年(昭和8年)4月、現在の内港が完成。その後船舶需要の増加に伴い、1970年(昭和45年)には外港が作られました。現在、水揚げ量に関しては、静岡県では2位だそうで、全国でも15~20位の漁獲量を誇ります。

この沼津港のすぐ脇の狩野川河口には、2004年(平成16年)9月26日に展望施設を備えた大型水門、「びゅうお」が造られました。水門扉の重量470トン、高さ32メートルもある巨大な水門で、東海地震の発生時には津波被害を防ぐために自動的に自身を感知、ゲートが閉められるといいます。

水門の上は展望台になっていて、「びゅうお」の名称も展望を意味する“View“と「魚(うお)」を合わせたものとか。あんちょくなネーミングだなーと思うのですが、地元ではこの名前で定着しているようで、まあ、文句を言う筋合いもないか。

展望台へ登るのはタダではなく、100円払います。安いといえば安いのですが、どうせならタダにすればいいのに……。

入口受付脇にあるエレベーターに乗って水門上部へ。ここは総ガラス張りになっていて、なかなかの壮観です。この日は残念ながら天気がいまいちで、富士山は見えませんでしたが、西へ広がる駿河湾とその真下に見える沼津港外港、そこから北へ黒々と続く松原はなかなかの美観です。

水門を真ん中にしてその周りを「ロ」の字で囲うようにして回廊が設けられており、そのすべてがガラス張りというのはなかなか気持ちの良いもの。水門の周りにはトンビがたくさん飛び交っていて、この日は風が比較的強かったので、その風に乗って空を「泳ぐ」姿は気持ちよさそう。

トンビが飛び交う先には、大瀬崎(おせざき)も見え、それに連なる水平線の手前には太陽の日を浴びてきらきら光る海が。夕日が落ちるころに来たら、きっとロマンチックでしょう。

このびゅうおのすぐ下には、「沼津港市場」があり、ここでは早朝からセリが行われ多くの水産関係者で賑わうようです。我々が行ったのは夕刻近くだったので、あまりその関係の方はいませんでしたが、しかし水産物を運んでいると思われるトラックが観光客の間を縫うようにして出入りし、結構な交通量でした。

その市場の周辺は、海鮮料理や寿司、干物の販売店などが軒を連ねており、これ目当ての大型観光バスも入ってきていて、かなりのにぎわいです。

この一角は、2007年(平成19年)11月に、国土交通省局の「みなとオアシス制度」に登録されたとかで、市場やトラックヤードなども併設された「INO(イーノ)」という大型の水産複合施設のほか、そのすぐそばには「沼津みなと新鮮館」というショッピングモールなどもあります。

このINOや新鮮館ですが、第三セクターの運営かな?と思ったらそうではなく、INOのほうは、「沼津魚市場株式会社」という会社組織が、新鮮館のほうは、沼津魚仲買商協同組合という組合組織が運営しているようで、純粋な商業施設みたいですね。

この二つ以外にも、海鮮料理や寿司、干物店などなどの小さなお店が集まった区画があって、こちらは「ぬまづみなと商店街協同組合」に加盟されているお店屋さんが出店している区画です。上述の大型施設と競合しないのかな、とも思うのですが、いずれもかなりの観光客が寄っていて活気があるところをみると、それなりに儲かっているんでしょう。

どこかで、こんな景色をみたよな~と考えていて思い立ったのですが、しばらくたって思いついたのが秋葉原。彼の地でも同じような電気屋さんがたくさん寄り合っていて、それで儲かるのかな~とよく思うのですが、たくさんのお店が集まることで、それなりの集客効果を上げ、全体がうるおうというしくみは、この沼津港の飲食店街も同じなのでしょう。

これはこれでよいのでしょうが、私的にいえばもう少し「洋風」のお店もあっても良いのではないか……と。どこのお店もが「海鮮」を売りにしていて、新鮮な魚や干物を食べさせてくれるのはいいのですが、若いカップルが行って、海を見ながらちょっとおしゃれにお食事をして、という雰囲気のお店はほとんど皆無でした。

どうせなら、シーフードを売りにするフレンチやイタリアンのレストランなどもできればいいのに。中華料理くらいはもしかしたら、1~2軒あったかもしれません(未確認)が、こちらも海鮮を売りにする本格中華のおいしいお店が欲しいところです。あと、喫茶スペースももう少し欲しいかな~。

なので、これを読んでいる関係者の方。ぜひともそちらのほうも考えてみてください。

この沼津港から西北方面にはずっと砂浜が広がっていて、これは千本浜と呼ばれ、その背後には「千本松原」と呼ばれる松林が続きます。沼津港の喧騒をあとにして、その日最後に行ったのは、この千本松原の中心にある「千本浜公園」というところ。

何があるというわけでもないのですが、「玉砂利」を敷き詰めたような広い浜に出ると、そこからは眼前に駿河湾が広がり、天気が良ければ富士山も見えるはずです。「びゅうお」からの眺めと同じといえば同じなのですが、すぐ目の前には岸に押し寄せる波がしぶきをあげ、いたるところに流木がころがっていて、「手元」に海があるというところがいいところ。

市民の休息の場として定着しているようで、何に使うのか、この流木を集めて回るひとやら、あちこちで海をみながらボーっとしている人、犬を散歩させている人、クルマの中で爆睡している人などなど、のどかなのどかな環境です。

私も護岸に腰掛け、ぼんやりと海を眺めたり、写真をとったりしていましたが、この間、タエさんは浜辺での「石収集」にご専念。ハート型の石とか変わった形の流木とかをたんまり集めていました。

自宅からクルマで一時間もかからないでこうした海に来れるというのも伊豆へ来たからこそ実現できること。そのありがたみを感じつつ、沼津でのショートトリップを終え、この日は帰宅。

そろそろ秋も本番になってきました。次は海ではなく、山をめざしましょう。そろそろ紅葉もきれいになってきているはず。秋深まる伊豆でまたそんな素敵な風景をみかけたらご報告したいと思います。