スペンサー銃と会津 2


今日は、なぜか「風邪の日」となっているようです。その理由は江戸時代の力士で、この当時としては破竹の63連勝の記録を誇った、第四代横綱の「谷風梶之助」というお相撲さんがで1795年(寛政7年)のこの日に、流感で亡くなったからだそうです。

ただし、この谷風関が実際に亡くなったのは旧暦の1月9日だったようで、西暦では2月27日だったということなのですが、思うに、「○○の日」と呼ぶときは、現在の暦に合わせて決めるべきではないでしょうか。特に季節の移ろいに関係がある記念日のときには、ひと月以上も違っているとまったく無意味になってしまいます。

もっとも「風邪の日」などというありがたくもない日は、誰も気にしていないでしょうから、私としてもそれが1月だろうが2月だろうが一向にかまわないのですが、それにしても、そもそも何のためにこの日を制定したのかという説明自体、何を調べても出てきません。

なのでこれはおそらく、その昔に、厚生省のお役人か医師会か何かが、この日は風邪の日です、ウチへ帰ったら必ず手を洗ってうがいをしましょう、でないと強いお相撲さんでも死んでしまうんですよ~ とかいったキャンペーンを打つためにこの日を制定したのではないかと勝手に邪推してみたりしています。違っているでしょうか。

ま、風邪に気をつけるにこしたことはなく、こういう日を便宜的に設けて、みんなで手を洗ってうがいをしましょう、という呼びかけを小中学校などで広めるのも良いことかもしれません。風邪とはちと違うようですが、ノロウィルスのように伝染性の病気も流行っているようですし……

ちなみに、この「谷風梶之助」さんの63連勝という記録は、1778年の3月場所から1782年2月場所までの足かけ4年で達成されたそうです。が、これは江戸本場所だけの連勝記録であり、谷風関はさらにこのあと行われた京都本場所・大坂本場所でも連勝をしており、1786年までの記録も合わせると、連勝記録は98連勝にもなるそうです。

この当時は一般的に「連勝記録」といえば「江戸本場所」の連勝をさしていたということなので、このため各地を転戦しての98連勝は過去における最多連勝記録となり、地方場所での連勝も含めて「連勝記録」としている現在の大相撲の基準で考えても、この記録はすばらしく、2013年現在でも未だに破られていない「大々記録」ということになるようです。

この谷風関は生前、「土俵上でワシを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と豪語していたそうですが、そのとおりその後、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、44歳であっけなく死んでしまいました。

この谷風関が亡くなったころに江戸で大流行したインフルエンザは、我々が現在「スペイン風邪」と呼んでいるごとく、江戸の町では「御猪狩風」と呼ばれていましたが、谷風関が死んだときからこうした流行性感冒のことを「タニカゼ」と呼ぶようになったといい、その後も江戸で風邪が流行るたびに、これを「谷風」と呼ぶようになったということです。

もっとも現代ではまったく死語になっていますが、万が一今日、白鳳関がインフルエンザで亡くなったら、風邪のことは今後「白鳳風邪」と呼ぶのかもしれません。もっともそれが把瑠都関ならば、「バルト風邪」、琴欧洲なら、「欧州風邪」になり、まるで日本の風邪ではないように聞こえるのですが……

正月早々、縁起の悪いお話はこれくらいにしておきましょう。

さて、昨日、会津藩にスペンサー銃がどうやって流通したかについて書きかけましたが、その補足をしておきましょう。

会津藩への西洋銃の導入にあたっては、会津藩の藩主、松平容保公自らが動き、その配下の家老で梶原平馬(かじわらへいま)という人物が活躍し、その背後にはエドワルド・スネル(エドワード・シュネル)という武器商人がいたと書きました。

松平容保は16才で美濃国高須藩の「松平家」から、会津藩の同名の「松平家」へ養子として入って家督を継ぎますが、その後10年間に時代は大きく動き、容保が26才になった1862年(文久2年)には幕府からの強い要請で「京都守護職」に就任しています。

本人もしかりですが、当初、家老の西郷頼母(たのも)ら家臣は、会津藩が幕末の動乱に巻き込まれていくことをおそれ、この京都守護職就任を断わる姿勢を取りました。

が、この当時の政事総裁職・松平春嶽に、会津藩の藩祖・保科正之が残した家訓「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出されると、容保はこれを断れなくなってしまいます。

そして押し切られる形で就任を決意し、この藩祖の遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、その後幕府滅亡まで運命を共にしました。

京都守護職に就任した容保は、会津藩兵を率いて上洛し朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたり、幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対していきます。

しかし、1867年(慶応3年)に病没した家茂に代わって15代将軍の座についた徳川慶喜が大政奉還を行うと、江戸幕府は消滅すると同時に、京都守護職そのものも廃止になります。

この直後に、鳥羽・伏見の戦いが勃発しましたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は、大政奉還を宣言したその夜、わずかな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、桑名藩主松平定敬、そして会津藩主松平容保と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。

その後会津藩に戻った容保は、今後生じるであろう新政府軍との戦いに備え、京都守護職時代から信頼していた側近で家老の「梶原平馬」に江戸でそのための資金と軍備の調達を命じます。

梶原平馬 (かじわらへいま1842年(天保13年)生)は、会津藩の名家、内藤家に生まれましたが、長じてから、遠祖が源頼朝の側近であった「梶原景時」といわれる同じく会津藩の名家の梶原家に養子入りし、その家督を継ぎます。そして、藩主松平容保に請われ、容保が京都守護職に任ぜられた後はその側近として仕えました。

大政奉還とともに主の容保とともに会津へ帰還する直前の1866年(慶応元年)には若干22才で若き家老となり、その後は会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟の結成を主導するなど、幕末期の会津藩の方向を定めるための中心的な役割を担いました。

幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、前述のとおり江戸へ下り、容保の命により資金と軍備の調達をはじめましたが、そのときに出会ったのが横浜を根拠地としていたスネル兄弟です。

このスネル兄弟は、ドイツ人、オランダ人、あるいはトルコ系ともいわれていますが、出自についての史料はほとんど残っていません。兄はジョン・ヘンリー・スネル(またはシュネル、John Henry Schnell)で、生年は1843年ころではないかと推定されており、だとするとこのころはまだ24~25才の青年です。

一方の弟のエドワルド・スネル(Edward Schnell)は、兄より一つ年下で23才くらいだったようで、こちらは生まれがオランダであったということはわかっているようです。

大政奉還に先立つこと7年前の1860年(万延元年)に幕府がプロシアと通商条約を結ぶと、初代領事としてマックス・フォン・ブラントが日本に赴任してきましたが、兄のヘンリーはその下で書記官を務めるために来日しました。

弟のエドワルドのほうは、スイスの総領事の書記官として来日したという記録があり、来日後の動向には残っている記録が比較的多いようです。

スネル兄弟は、二人というのが一般的な説のようですが、別のある史料ではこの兄弟にはさらに兄か弟がおり、この人物は「コンアート・ガルトネル」と称し、箱館で商人をやっていたのではないかという話もあります。

函館におけるプロシアの領事であったという記録が残っているようで、この人物がスネル兄弟の本当の兄弟かどうかはよくわかりませんが、いずれにせよ、この兄弟?は、その出自といい、人物像がはっきりしません。

1864年(元治元年)にエドワルドは横浜でフランソワ・ペルゴという商人と共にスイス時計の「シュネル&ペルゴ」という輸入商社を設立しますが、エドワルドが武器販売を優先しようとしたことからペルゴと対立してこの商会は解散しました。

その後、大政奉還が行われた1867年(慶応3年)には、このスネル兄弟がそろって馬車乗車中に、沼田藩(現群馬県沼田市)の藩士に襲撃されたという記録があります。

このころ多発していた攘夷主義者による無差別外国人殺戮事件のひとつですが、このとき襲撃者は抜いた刀でエドワルドに斬りかかろうとしましたが、その寸前、兄ヘンリーが拳銃で反撃したため、エドワルドは九死に一生を得ました。

このことが原因かどうかはわかりませんが、おそらく兄弟は江戸にいては命がない、と思ったのでしょう。それぞれの国の書記官としての職を辞し、新潟に移り、ここで弟・エドワルドは「エドワルド・スネル」商会を設立します。

梶原平馬は、藩主の容保に命じられて江戸入りしていたころに、幕府親藩の越後長岡藩家老、河井継之助を仲介としてこのエドワルドと知り合ったようで、これが縁となり、新潟で設立されたスネル商会から、エドワルド・スネル商会からアメリカ製のライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬の購入の約束をとりつけます。

そして、アメリカ国籍船をチャーターし、同年に新潟港からこれらの荷を陸揚げし、会津に運び込んでいます。

実は、会津藩ではこれよりも前に、平馬よりも20才以上も年長の家老「田中土佐」が山本八重(新島八重)の兄、山本覚馬らに外国製の武器の入手を命じています。

これを受けて山本覚馬らは、プロシアの商人「カール・レイマン」に、神戸で元込銃千挺を注文しています。この銃はゲベール銃という旧式銃で、しかも鳥羽・伏見の戦いには納入が間に合わず、さらにはこの銃は戦争のさなか、新政府軍に押収されてしまっていました。

梶原平馬がスネル商会から購入した銃はこれよりも新式のものだったようですが、調べてみたところ、この銃の中に後年山本八重が手にすることになるスペンサー銃が含まれていたかどうかは不確かであり、それ以前の問題としてこの780挺すべてがスペンサー銃のような新式銃だったとは考えにくいようです。

アメリカから輸入されたということから、おそらくは、南北戦争時代に最も多く使用された、エンフィールド銃がほとんどではなかったか思われます。

エンフィールド銃とは、フランスで開発されたといわれる前装式銃のマスケット銃の銃身内に螺旋状の刻み、つまりライフリング(施条)を加えて命中精度を高めた「ミニエー銃」の派生系です。

フランスで改良されたミニエー銃にイギリス人が手を加えて完成度をさらに高めたもので、いずれも前装式であることから、これらの元祖マスケット銃、ミニエー銃、エンフィールド銃を総称して「マスケット銃」ということもあります。

幕末の動乱で使われた銃としては、

前装施条銃としてはミニエー銃(仏)・エンフィールド銃(英)
後装施条銃としては、シャスポー銃(仏)・スナイドル銃(英)・スペンサー銃(米)

などが主なものですが、後装施条銃は前装施条銃よりも高価であったため、大量に装備するためには、どうしても安価なエンフィールド銃のほうに食指が動きがちです。

大政奉還のあと、容保は軍備の増強についてはそのすべてをこの平馬に任せていたようです。本来は山本八重の兄で、江戸留学の際に佐久間象山のもとで学び、豊富な西洋知識を持った「山本覚馬」がこの任を担うべきところですが、山本覚馬は鳥羽伏見の戦いのとき、反政府軍の薩摩藩に捕えられ、その後幕府崩壊まで幽閉されてしまっています。

このために山本覚馬に代わって抜擢されたのが梶原平馬と考えられますが、梶原平馬はもともとこうした軍事面での知識には乏しく、西洋式銃器の購入に関しても十分な知識は持ち合わせていなかったと思われます。

梶原平馬は会津軍装備のため、幕府から軍資金のほかに、幕府軍が持っていた大砲や小銃、弾薬をも借りていますが、幕府から借りた軍備の中には、銃と弾が合わず使えないものも多かったといい、これは平馬自身の知識不足もあるでしょうが、幕府軍のほうもそうした知識に疎い人物がこれらの装備を整えたためでしょう。

このスネル商会からは、越後長岡藩の河井継之助も多くの武器を購入しており、こうした装備の中にはスナイドル銃やスペンサー銃などの数百挺の元込め銃と、この当時世界最新鋭の武器であった機関銃である、「ガトリング砲」を2挺などが含まれています。

河井継之助はこうした軍備だけでなく経済的な面での藩運営に関しても抜群の才能があり、長岡藩はわずか14万石という小藩ながら、富国強兵を実現し、その後の新政府軍との戦いにおいてはこうした最新鋭の武器を巧みに駆使して新政府軍の大軍と互角に戦いました。

これに対して幕末の会津藩には残念ながら逸材がおらず、このため、スネル商会に騙された、のかどうかはわかりませんが、少なくとも梶原平馬らが購入した銃のほとんど、もしくはすべてがエンフィールド銃などの旧式銃だったと思われます。おそらくは、スペンサー銃も含まれていなかったのではないでしょうか。

そうすると、このスペンサー銃はどこから出てきたということになるのですが、これについては、うそかまことかわかりませんが、もっともらしい話がひとつあります。

大政奉還に先立つ三年ほどまえに勃発した1864年(元治元年)のいわゆる「蛤御門の変」の際、京都を追放されていた長州藩勢力は、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げました。

このとき、長州藩は最新式の銃を持って会津藩に対峙したため、会津藩はこの鎮圧に苦労しつつも、薩摩藩の助けを得てようやく長州藩の駆逐を果たしました。この戦いをみた容保は、長州藩や薩摩藩が持つ最新式の銃に比べ、貧相な旧式銃しか持たない自藩の装備に愕然としたようです。

ただ、この蛤御門の変の際、山本八重の兄、山本覚馬は自分が藩内で育てた砲兵隊を率いてこれに参戦し、それなりに奮戦したのが容保の目にとまり、これを機に公用人に任ぜられるようになりました。

これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるようになりましたが、この事変により洋式銃の重要さに気づいた松平容保によって最新式銃の調査を命じられ、長崎へも派遣されました。

この調査の際、覚馬は7連発スペンサー銃を入手し、このうちの一挺を会津にいる妹の八重へ送ったのではないかといわれています。実はちょうどこのころ、八重は最初の夫の川崎尚之助と結婚しており、この銃はその結婚祝いの意味もあったとも伝えられています。

しかし、このスペンサー銃は最新式でしたが、このとき入手した弾丸は限られていました。この時期国内ではまだそうした最新銃の弾丸の製造は行われておらず、無論、会津国内でもそうした最新技術が導入されていようはずもありません。

覚馬が八重に多量の弾丸を送ったという記録もないようですから、おそらくは会津戦争の
さなか、持ち弾を打ち尽くした八重は、このころは既に国内生産されていたとみられる旧式のゲベール銃やエンフィールド銃の弾などを流用したのではないかと思われます。

無論、旧式銃の弾は「リムファイアカートリッジ」などの専用弾倉には収まりませんから、単発でこれらの弾を発射したことでしょう。

このように、NHKの番宣を見ていると、山本八重がスペンサー銃を撃った、という事実だけが妙に誇大に放映されていますが、会津藩の実情としての軍備は新政府軍に比べればかなりお寂しいものだったようです。

スペンサー銃を持っていたのはもしかしたら八重一人だったかもしれず、番組を見る側からすれば会津藩兵も最新式銃で新政府軍を苦しめた、という話ならば面白いのですが、現実はそう単純ではありません。

ただ、八重はこの希少な最新銃を使って、幕府軍に夜襲をかけた、というお話もあるようなので、このあたりの事実関係は、また調べてこのブログでもご紹介しましょう。

今日はまだ、風邪も完全に癒えていないのでこれくらいにしたいと思います。スネル兄弟のその後についての記述もまた、次回以降にさせてください。

会津のこと


今年のNHK大河ドラマは、「八重の桜」ということで、津波大震災や原発事故で大きな被害を受けた福島県がその前半の舞台となります。

NHKとしては、当初はまったく別の作品を計画していたものの、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生したことを受け、内部で東北復興を支援する内容にすべきだとの意見が上がり方針を転換したということで、その英断にはエールを送りたいところです。

歴史好きな私としても今年は、この物語にまつわる話を時々取り上げていこうと思っていますが、そもそもこの物語の舞台となる「会津」という土地がどういう歴史を持っているのかよくわかっていなかったので、今日はそのことをまとめておこうと思います。

まず、会津と呼ばれる地方の場所ですが、これは福島県の西部に当たる地域のことをさします。福島県には、「奥羽山脈」と「阿武隈高地」の2つの尾根線が南北に走っていますが、この二つの山塊のおおむね真ん中は「中通り」と呼ばれ、奥羽山脈の西側の地帯は「会津」、そして阿武隈高地の東側の海側地方は「浜通り」とそれぞれ呼ばれています。

一番山側にある「会津」の東は奥羽山脈ですが、その西側にも「越後山脈」があり、さらにその南は「下野山地」、北には「飯豊山地」と四方は山に囲まれており、これらの山々に囲まれた低い地形は「会津盆地」と呼ばれています。

この地方の中心地は会津若松市であり、後年、会津城が設けられ、討幕軍との激しい戦いの末、有名な白虎隊などが全滅する幕末の争乱の激戦地にもなりました。

「古事記」によれば、この「会津」は古くは「相津」と呼ばれていたようで、崇神天皇の時代、天皇直属の将軍である、大毘古命(おおびこのみこと)と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)という親子が東北諸国平定の任務を受け、この地で「合流」したため、「相津」と呼ばれるようになったといいます。

その後、7世紀半ばころの律令制度下で東北に「陸奥国」が設置され、この地方は、その中の郡の一つとして「会津郡」と称されるようになりました。8世紀にこの陸奥国が3分割されると、会津郡はこのうちの一つの「石背国」に属しましたが、わずか数年で陸奥国に再統合され、その後明治初年まで陸奥国に属することになります。

平安時代には会津郡はさらに会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡の四つの郡に分かれましたが、後々までこれらの郡を合わせて「会津四郡」と呼ばれました。

現在のこの地方は、南会津郡および会津若松市の大部分に相当しますが、「会津」という地名が行政区画として画定されているわけではなく、このため「会津」という呼称はこの古き会津四郡一帯をさす古いネーミングにすぎず、近年この地方をさすときは「会津地方」というようなあいまいな表現で呼ばれることが多いようです。

戦国時代

戦国時代、会津地方は後の会津若松である「黒川」を本拠とする戦国大名の蘆名(あしな)家の領国でしたが、この蘆名家では後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛が絶えませんでした。そうした状況につけこまれ、隣国の出羽国(現秋田・山形県)の伊達政宗に攻め込まれ敗れ、16世紀後半に蘆名家は滅亡して、会津は政宗の支配下に入りました。

1590年(天正18年)に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、同年会津に入り、東北の諸国を討伐するいわゆる「奥州仕置」を始めようとしていました。このころ、政宗は秀吉と戦うかどうかを決めかねていましたが、結局のところ秀吉に恭順を示すことに決めてその配下に入りました。

そして小田原征伐にも参陣していましたが、その戦で不備があったという難癖を秀吉につけられ、政宗の配下にあった会津地方やその周辺地域は没収されてしまいます。

秀吉はこの奥州仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて京都に帰りますが、その際、政宗に変わる会津の名代として、かわいがっていた部下の一人、「蒲生氏郷」を42万石で入封させることにします。氏郷はその後、検地と加増で92万石を領有する大大名となりますが、のちの幕府きっての強国といわれた会津の基礎を作ったのは、この蒲生氏郷です。

この蒲生家はその後徳川家とも縁戚を結び、江戸時代まで存続していきますが、後年、数ある幕府譜代の大名家の中にあって、最強の佐幕藩と呼ばれた会津藩の運命はこの蒲生氏郷の入封のときに定まったといってもまちがいではないでしょう。

氏郷は秀吉に仕える前には織田信長にもかわいがられており、その非凡な才能を評価された信長の次女で、美人で有名だった「冬姫」を正室に迎える事を許されています。信長没後は秀吉に従い、伊勢松坂に12万石の所領を得ており、秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入封させることにしたのです。

会津に入封ののち、氏郷はそのむかし「黒川」と呼んでいた地を「若松」と改め、故郷の近江から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設にとりかかりました。そして武家屋敷を分離させた町割やそこに古くからあった黒川城を改築し、新たに7層の天守閣を持つ「会津若松城」を建造し、その後の会津藩の基礎となる基盤づくりに取り掛かりはじめました。

しかし、氏郷は小田原征伐からわずか5年後の1595年(文禄4年)に没し、これに代わって冬姫との間に設けられていた嫡男の「蒲生秀行」がわずか13歳で跡を継ぐことになります。

蒲生家を東北の要諦に据えようと考えていた秀吉は、この跡継ぎがあまりにも若く不安になったため、このころはまだ秀吉の配下にあった徳川家康の娘、振姫(のちの正清院)をこの秀行の正室に嫁がせ、その基盤の維持を図ろうとします。

しかし、秀吉の不安は的中し、主が若かったことが祟ってその後蒲生家中では内紛が絶えず、重臣間のいさかいが頻繁に起こるようになりました。このため、1598年(慶長3年)、ついに秀吉は蒲生家を見限り、家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封し、会津から追い出してしまいました。

しかも秀行の母、すなわち織田信長の娘の冬姫はその美貌が天下に鳴り響くほどの美人たったため、スケベで有名だった秀吉はこれを自分の側室にしようとします。ところが、冬姫は貞操の固い人物で、これを拒み、尼になって貞節を守ったといわれています。

秀行が減封の上放逐されたのは、冬姫が秀吉のことを拒んだためとも言われていますが、蒲生秀行が家康の娘である振姫をめとっていたため、家康のライバルで秀吉の名代だった石田三成は蒲生家を家康のシンパと考え、重臣間の諍いを口実に蒲生家の減封を秀吉に進言した結果であるとする説もあるようです。

上杉家の時代

こうして、蒲生家は会津から追い出されてしまいましたが、これに代わって会津に入封したのは、越後春日山を領国とする「上杉景勝」でした。

上杉景勝といえば、2009年の大河ドラマ「天地人」の主要登場人物のひとりで、戦国時代に「軍神」とまで言われた上杉謙信を家祖とする上杉家に養子として入った後、当主にまで上りつめ、後年高名を馳せた家老の直江兼続(なおえかねつぐ)とともに越後に強国を作り上げたことで有名な人物です。

上杉家に与えられた領地は、蒲生家の旧領である会津郡と出羽庄内に佐渡を加えた120万石という広い土地でしたが、この転地は上杉家にとって必ずしも喜ばしいものではありませんでした。

各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであり、常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、さらに蒲生氏に代わって東北諸大名と関東を治める家康の監視と牽制という重大な使命が科せられたのです。そして結果的にはこれが原因で後年上杉家は家康と対立するようになります。

その後の混乱を予測させるように、上杉家が会津へ入封してから間もなく秀吉が死去します。そして次の覇権を狙って徳川家康が動き始めましたが、豊臣家五奉行の石田三成はこれに対抗しようと上杉家の家老である直江兼続に接近します。

その結果、直江兼続と景勝は光成と盟約を結んで家康に対抗することを決め、1599年(慶長4年)には、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強をはじめました。そしてその翌年には若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点の神指村に神指城(こうざしじょう)の築城を開始しました。

この軍備増強は、隣国越後の堀秀治や出羽の最上義光らの耳目に入ることになり、彼らと同盟を結んでいた家康に報告され、これを受けてやがて家康は諸大名を集めて会津征伐を開始しました。

上杉家の移封

景勝らは、神指城の新築や古い白河城の修築などを急いでいましたが、それらの完成を待たずして、下野国の小山(現栃木県小山市)で、石田三成の配下の武将たちが反家康の反旗を翻し挙兵をはかりました。これを知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残しつつ、ただちに会津に向かっての進軍を開始しました。

これに対して直江兼続の率いる上杉軍は、回り込んで家康を遊撃しようとしましたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らが家康に味方することに決め、戦闘を挑んできたため、これを断念せざるをえなくなります。そして、身動きがとれないでいる状況が続いているうちに、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅してしまいます。

家康ら率いる東軍の圧勝に終わった関ヶ原の戦い以降、景勝は家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも1601年(慶長6年)に家康の息子の結城秀康に伴われて伏見城に伺候。

家康に恭順を示して謝罪した結果、家康は上杉家の存続を許しましたが、会津など90万石の所領は没収され、こうして上杉家は出羽米沢30万石へ減封されてしまいました。こうして会津はふたたびその主が変わることになりました。

蒲生家の再来

1601年(慶長6年)、上杉景勝に代わり、関ヶ原の戦いで東軍に与した元会津領主の蒲生秀行が再びこの地に60万石の上で入封しました。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、このことは関ヶ原での戦功というよりも、秀行の正室振姫が家康の娘であったことが大きかったのではないかといわれています。

こうして会津は再び蒲生家が治める土地となりましたが、かつて宇都宮に移封された原因が家臣による内紛であったように、その体質は変わっておらず、秀行が執政をとるようになったあとも、重臣であった岡重政とその他の家臣との間で内紛が再燃するようになります。

1611年(慶長16年)、マグニチュード7ともいわれる激しい地震が会津を襲いました。若松城天守閣の石垣が崩れ、天守閣は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、山崩れのために23の村が没するなど、死者は3700名にものぼる大災害となりました。

こうした中、領主の秀行はそれまでの家中内紛のための心労に加え、この地震のダメージが重なったためか、この地震の翌年に30歳の若さで死んでしまいます。跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の「蒲生忠郷」でした。

忠郷はわずか10才だったため、その家臣が執政を行うようになり、お家取り潰しを避けるために徳川幕府とのパイプを強くしようと画策をはじめます。そうした一環で1624年(寛永元年)には、忠郷にとっては従弟にあたる将軍家光や、隠居後、大御所」となった秀忠を江戸屋敷に招きもてなしをおこなったりしています。

このように、会津蒲生家は内政に不安をかかえつつも、徳川幕府との良好な関係を保つ努力を続けながら戦国時代に疲弊した領土の復興を図り、なおかつ会津領内の各所にあった金山開発を行った結果、次第に蒲生家の財政は上向くようになりました。

この当時金山から採掘された金は280万両にも相当するといわれ、この豊かな資金によって支えられた財政によって蒲生家はその全盛期を迎えました。

しかし蒲生忠郷もまた、1627年(寛永4年)に25歳で若くして急死し、忠郷には子がいなかったことから、またしても会津蒲生家は改易の憂き目を見ることになります。忠郷の母は徳川家康の娘であっため、お取り潰しにこそなりませんでしたが、忠郷の弟で出羽上山藩主だった「忠知」を当主として、蒲生家は再び移封されることになりました。

移封先は、東北から遥かに遠い伊予松山で、石高は24万石となり、大幅な減封を伴う移封でした。しかもこの忠知もこの7年後には子が無いまま30歳で急死しており、その後伊予松山藩は、徳川家直系の松平家によって治められるようになり、その後の会津藩の礎を築いた蒲生家はここに事実上断絶しました。

加藤家の時代

1627年(寛永4年)、蒲生忠知と入れ替わりで伊予松山を治めていた「加藤嘉明(よしあき)」が倍に加増されて40万石で入封してきました。加藤嘉明は豊臣秀吉の下では、賤ヶ岳七本槍の1人に数えられほどの猛者であり、朝鮮出兵でも水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将でした。

徳川幕府の大御所秀忠は、加藤嘉明同様、秀吉時代からの勇将で秀忠の信頼も篤かった「藤堂高虎」を蒲生忠知の後釜として選ぼうと考えていましたが、高虎は老齢であることを理由にこれを辞退し、嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたようです。

この話にはひとつ逸話があります。実は加藤嘉明と藤堂高虎は、若いころから功を競って仲が悪く、戦場でもいつも一番槍を競うライバル同士でした。加藤嘉明は、もし国変えがなければ伊予20万石の領主のままで終わるはずで、これは30万石の領主であった藤堂高虎よりも低い石高であり、世間体でいえば「格下」でした。

出世競争では、高虎の後塵を拝した格好となっていたわけであり、嘉明としてはじくじたる思いを持っていたに違いありません。それが思いがけなく、40万石の太守になったわけであり、これで長年のライバルの高虎よりも首ひとつ抜きん出たと喜んだのは言うまでもありません。

しかし、ライバルである加藤嘉明をなぜ高虎は推挙したのでしょうか。その理由を秀忠に質された高虎は「過去の遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」答えたといいます。

のちにこれを聞いた嘉明は、自分の小ささを嘆き、そして高虎に感謝を述べる場をしつらえて長年の無礼を詫びて和解したといいい、この話はその後も美談として語り継がれたということです。

実際のところの高虎の心境はどういうものだったのか推しはかることはできませんが、このころには信長や秀吉時代の友人は既にみな戦死しており、老いさらばえた身には昔ながらのライバルもまた古い友人に映ったのかもしれず、その散り花として恩を贈るのもよし、と考えたのかもしれません。

ただし、所領が倍増されたとはいえ、嘉明もまた65歳の高齢だったそうで、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれています。悪意を持ってみるならば、永遠のライバルに最後の一矢を報いたと考えることもできますが、事実は永遠に歴史の闇の中です。

こうして思いもかけず、会津藩の領主となった嘉明は、その後積極的に藩内の整備を行ないはじめ、陸奥の国と会津若松を結ぶ「白河街道」などもこのときに整備されました。

蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村は、「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名するなど、かつての蒲生色を払拭する改革に励みましたが、その整備の道半ばで1631年(寛永8年)に68才で死去しました。

第2代藩主はこのとき39才になっていた嫡子の「明成」が継ぎました。しかしこの二代藩主の時代には、江戸城の堀の開削を幕府から命ぜられ、このための普請費用が嵩み、また蒲生秀行時代に起こった大地震で傾いていたままであった若松城の天守閣を5層へ改める工事などのため、多額の出費が相次ぎました。

このため、加藤家の財政は逼迫し、その穴を埋めるべく領民にかける年貢を厳しく取り立てたため、1642年(寛永19年)から翌年にかけて藩内を激しい飢饉が襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動がおきました。

また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老との対立をしばしば引き起こしていました。1639年(寛永16年)、反対派の旗手で家老であった「堀主水」が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼いたうえ、関所を突破して領外へ出奔するという大事件が勃発しました。

このとき、激怒した明成は血眼になって主水を追ったといい、この御家騒動は、のちに「会津騒動」と呼ばれるようになりました。

藩主の顔に泥を塗った格好で会津から逃げ出した堀主水は、その後高野山に逃げ込んだため、明成は幕府に主水の身柄引き渡しを求めました。一方の主水はやがて高野山を下り江戸に出て、領主の明成が城の無断改築や関所の勝手な新設などを行ったとして逆にその悪行を幕府に訴え出ました。

この事件に対し、将軍家光は自らが裁断を行い、結論として領主である明成にも非があることを認めましたが、それを諌めなかった主水にも非があり、自らの生命をもって主を諌める「諫死」すらせず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れている、としました。

この結果、主水の身柄は明成に引き渡されることになり、会津に引き戻された末、激しい拷問が加えられたあげく殺害されてしまいました。

1643年(寛永20年、)加藤明成は、この騒動を引き起こした責任は領主の自分にあるとして幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としました。しかし、明成が自ら改易を申し出たことなどを評価し、その嫡子である明友に石見吉永藩(現島根県太田市)の1万石を与えて家の存続は許されました。

会津松平家の時代

こうして1643年(寛永20年)、加藤家が改易されたあとの会津には、出羽山形藩より3万石加増の23万石で「保科正之」が入封しました。保科正之は、第3代将軍家光の異母弟にあたり、いわば徳川家の嫡流筋にあたる人物です。

母は第2代将軍秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣の娘であり、秀忠の4男として生まれ、養母はは武田信玄の次女だったそうです。6才のとき、この養母の縁で、旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育されるようになったため、その後死ぬまでこの保科姓を名乗るようになりました。

2代将軍秀忠の死後、第3代将軍となった家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がり、1636年(寛永13年)に出羽山形藩20万石を与えました。

そしてそれよりもさらに大身の会津藩23万石を与えられた理由は、過去に度重なる不祥事による改易が相次いだこの藩を安定させるためには、その領主として「身内」を派遣し、ほぼ直轄領ともいえるような処遇を施すしかないと家光が判断したためでしょう。

こうして、以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めることになっていきます。この後年の1651年(慶安4年)、将軍家光は死に臨んでの枕頭に、この松平会津藩、初代藩主の正之を呼び寄せ、「肥後(正之の拝領名)よ、宗家(徳川家のこと)を頼みおく」と言い残して死んだと伝えられています。

これに感銘した正之は1668年(寛文8年)に「会津家訓十五箇条」を定め、この第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、万一藩主が裏切るようなことがあっても家臣はこれに従ってはならない」とまで記し、以降、歴代の藩主と藩士は共にこれを忠実に守っていきます。

幕末の藩主となった松平容保(かたもり)もこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦うことになりました。

以後会津藩は、後年「保科家」が「松平家」に改姓されるまで、「会津保科家」として支配されるようになります。当初23万石だった石高も、その後保科正之らが善政を敷き殖産に励んだため、後年会津松平家になったあとは隆盛を極め、幕末までに内高は40万石を突破したといいます。

この石高は表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多かったといわれ、この財政を背景として軍備も増強され、幕府諸般きっての軍事力を持つようになりました。

保科正之が会津藩主となったあとまもなく将軍家光は没しますが、その嫡子で11歳であった「家綱」が第4代将軍になると、正之は将軍の「叔父」として後見役を務めるようになりました。

そして、幕府の大老としての役目を果たすため江戸に赴いて幕政を統括したため、会津藩主になったとはいえ、その領国に帰国したのは1647年(正保4年)と晩年の数年間のみであったといいます。

この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮していますが、藩政でもその辣腕をふるい、正之の時代だけで、後年譜代藩切っての強国といわれるようになった会津藩の藩政はほぼ確立されました。

なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲っており、この時点で「徳川一門」として認められており、幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていました。

しかし、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやってこれを辞退したといい、こうした事実からも徳のある人物であったことがうかがわれます。

正之は、その藩政において、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを制限し、とくに漆木を許可なくしては伐採できない樹木としてその付加価値性を高めるなど、産業の育成と振興に勤めました。

また、1655年(明暦元年)には、飢饉のときに貧農・窮民を救済するための仕組みをつくり、1660年(万治3年)には、百姓の地位を確約する政策なども打ち出しました。また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給しており、これは日本の年金制度の始まりとされています。

もっとも、この時代、90年以上生きる人はほとんどいなかったと思われますから、こうした制度を定めたのは、多分に「人気取り」の気分があったためかもしれません。

とはいえ、経済対策としても、相場による米買上制を始め、升と秤などの計量法の統一を行うなどの斬新な改革を進め、また、藩士に対しては殉死を禁じ、朱子学を藩学として奨励し、「好学尚武」の藩風を作り上げました。

こうした数々の業績を上げた保科正之は、同時代の水戸藩主「徳川光圀」、岡山藩主「池田光政」と並び江戸初期の三名君と賞されており、今もなお高い評価を得て賞賛されています。

そんな正之も1669年(寛文9年)には、嫡男の正経に家督を譲って隠居し、それから3年後の1672年(寛文12年)、江戸三田の藩邸で死去しました。享年61歳でした。

正之の没後、藩主の座は子の正経、そしてその次は弟の正容が継ぎました。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生しました。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになり、家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いました。

こうしてその後の江戸年間において会津藩は時に財政危機などにも瀕しながらも、その都度名君、名宰相が登場して藩政を立て直し、幕末に続いていきました。

こららの会津藩の江戸時代の藩政の状況や、幕末最後の藩主となった松平容保のことなどについては、また次の機会に書いていこうと思います。

さて、明日日曜からは、いよいよ「八重の桜」の放映が始まります。低視聴率だった「平清盛」のあとを受け、どんな評価を得ることになるかも楽しみです。

私は別にNHKの回し者ではありませんが、東北を応援するためにこの番組を制作したというNHKに敬意を表し、応援したいと思います。みなさんも歴史好きであるなしはともかく、ぜひご覧になってください。このブログでもできるだけその背景フォローをしていきたいと思います。