モリソン号事件とその余波

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1837年8月12日(天保8年7月12日)未明、アメリカ合衆国の商船、「モリソン(Morrison)号」が日本に近づきつつありました。

その後、浦賀沖に現れたこの船に対し、浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。この船には日本人漂流民の7人が乗っており、彼等の送還と引き換えに日本に通商・布教を要求しようと来航していたのでした。

そうした事実とともに、実はこのときモリソン号は非武装であり、しかも当時はイギリス軍艦と勘違いされていたことが1年後にオランダ商館を通じてわかり、このため国籍もわからずに幕府が断行したこの蛮行に対する論議が沸き起こるとともに、一部からは著しい批判が浴びせられるようになりました。

この事件は、のちにこうした幕府への批判をまとめた論文、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英らが、幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという「蛮社の獄」につながっていきます。

江戸時代末期までには日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていましたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースでした。彼らは遭難後の当初、外国船に救助された後マカオに送られましたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図しました。

この際に使用された船がモリソン号です。浦賀で打ち払われた同船は、その後薩摩に向かい、ここでは薩摩山川港に一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉しました。が、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられただけで船に帰されました。

しかし、さらに沖合に停泊しようとしたため、薩摩藩は空砲で威嚇射撃をしました。このため、キングらはついに日本との交渉を断念してマカオに帰港しました。

モリソン号は商船とはいえ元々は砲を搭載していました。しかし、浦賀や薩摩では平和裏に交渉を進めようとこの武装を撤去していました。そんなことも知らずに一方的な砲撃を行った日本側は打ち払いには成功したと思いこみましたが、一方でこの一件は日本の防備の脆弱性・警備体制の甘さもあらわにしました。

浦賀で打った大砲のほとんどはモリソン号には届かず、しかも指揮系統もバラバラで、突然現れた異国船に対して奉行所の面々はうろたえるばかりでした。この事情は薩摩も同じでしたが、薩摩藩はこれを良い経験として、その後沿岸防備にかなりの力を注ぐようになりました。

翌天保9年(1838年)7月、長崎のオランダ商館がこのモリソン号渡来のいきさつについて報告しました。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきていたことを知りました。また、その後、モリソン号はイギリス船ではなく、アメリカの船だということも知りました。

老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけましたが、7~8月に提出された諸役人の表情結果は、「通商は論外」というものであり、その旨が長崎奉行に通達されました。

また、この幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものでした。が、なぜか、評定所の議論のうち、もっとも強硬であり却下された、漂流民の送還は一切ままならぬ、しかも外国船は徹底的に打ち払うべき、という意見のみが表に流れました。

この知らせを聞いた、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとする尚歯会には、漂流民送還の意図は伝わらず、また幕府の意向は異国船の国籍を無視した分別のない打ち払いにあると誤解してしまいました。

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会です。構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成されたものでした。

尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたりました。一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていました。

この報せを聞いたこの尚歯会の主要メンバーのうち、高野長英は、打ち払いに婉曲に反対する書を匿名で書きあげ発表しましたが、これが「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」です。また、渡辺崋山も「慎機論」を書き、幕府の海防政策を批判しました。

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しかし、これが幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵を刺激しました。鳥居は、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りに当たっており、蘭学者の渋川敬直、漢学者の後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれていました。

これより1年ほど前、鳥居は、江戸湾測量を巡って尚歯会メンバーであった幕臣で伊豆韮山代官、江川英龍と対立し、このことを遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになっていました。そして、これが翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となりました。

鳥居が水野から拝領していた業務、「目付」とは、現在でいえば秘密警察のような職分も含んでおり、彼は高野が匿名で書いた「戊戌夢物語」の作者の探索を始めるとともに、「慎機論」渡辺崋山の近辺について内偵を始めました。

一連の調査の結果、鳥居は「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうと判断するとともに、さらに崋山がこのころ小笠原諸島に渡り、単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出しました。

このころ、小笠原諸島にはイギリス船が上陸してこの島の領有を宣言しており、これが伝わった江戸では蘭学者たちの間で話題となっていました。が、無論のこと崋山には渡島の計画などはなく、これは鳥井のでっちあげでした。

これによって、小笠原渡航計画に携わったとする高野長英と渡辺崋山以下の12名のメンバーに出頭命令が下されました。このうちの尚歯会のメンバー、小関三英(出羽国庄内出身、幕府天文方翻訳係)は、ちょうどこのころキリストの伝記を翻訳していたこともあり、その罪をも問われると思い込み、自宅で自殺しました。

高野長英は一時身を隠していましたが、のちに自首して出ました。これにより、尚歯会メンバー11名全員が逮捕され、長英ほか10名は小伝馬町の獄に入れられ、崋山は禁固(蟄居)となりました。のちにこのうち4人が吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられます。

その後崋山は、翌年に母国の三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)に護送され、当地で暮らし始めましたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)に自刃しました。享年49。

長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄しました。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも硝酸で顔を焼いて人相を変え、蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しました。が、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。享年47。

こうして長英の死をもって蛮社の獄は終結しましたが、そのわずか3年後の1853年に、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、これを契機に幕末の動乱が始まりました。

いわばこの蛮社の獄は、その前哨戦ともいえるものです。幕府を批判してなすすべもなく死した彼等は哀れでしたが、その行為はその後弱体化していくことになる幕府に対して最初に与えられたインパクトといえるものであり、その後この事件をきっかけに多くの志士が生まれていったことを考えると、けっして犬死にではなかった、といえるでしょう。

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このように、モリソン号事件というのは、日本が幕末の動乱に入っていくためのちょうど入口付近で起きた事件といえ、その歴史的な意義は大きいものでした。

ところで、このモリソン号に乗船していた7人の日本人漂流民とは誰かと言えば、これは尾張国から江戸に向けて出航し、途中遠州沖で暴風に遭い難破した宝順丸に乗っていて助かった音吉・岩吉・久吉の3名と、天草を出航し長崎へ向かう途中嵐に遭った船員、庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の4名でした。

後者の4人は、肥後国玉名郡坂下の出身で、天保5年(1834年)に庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かう途中、嵐に遭ってルソン島へ漂流しました。

その後現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移り、ここで同じくアメリカ船に漂流していたところを救われた音吉ら3名と合流しました。そして彼等とともに帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かいました。

が、前述のとおり、異国船打払令によって撤退を余儀なくされた上、続く薩摩でも幕府が受け入れを拒否したため、結局帰国は叶わず、その後4人はマカオで余生を送り、嘉永ころ(1848年から1854年)までには没したようです。

一方、音吉ら3人が乗っていた宝順丸は、庄蔵らより2年早い、1832年(天保3年)10月、米や陶器を積み、船頭樋口重右衛門以下13名を乗せて尾張国知多郡小野浦から鳥羽経由で江戸に向かっていました。

が、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流しました。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、残りの乗組員は壊血病などで亡くなり、生存者は3名になっていました。

彼等が漂着したのは、アメリカ太平洋岸、ワシントン州、シアトルの西にあるオリンピック半島の先端にある、フラッタリー岬付近でした。彼らを助けたのは、現地のアメリカ・インディアン、マカー族でしたが、しかし、インディアンたちは彼らを善意で助けたわけではなく、後に奴隷としてこき使いました。

さらにはイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得ました。このイギリス船は最初、現・米国オレゴン州中西部にあった、「アストリア砦」に彼等3人を送りつけました。アストリア砦は1811年に北西部毛皮貿易の主要拠点として設置されたもので、事実上、これがアメリカ合衆国にとって最初の太平洋沿岸部入植地となりました。

アストリア砦は「アストリア」という町の中心でもあり、その後アメリカ合衆国がアメリカ大陸の開拓における領土権を確立していく上でここは極めて重要な拠点となりました。

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ここに送られた音吉ら3人は、少年時代のラナルド・マクドナルドと出会っています。少々脱線しますが、このマクドナルドについては、幕末日本において日本人がいかに英語を習得したか、ということと関係が深いので、少し触れておきましょう。

彼は、毛皮商だったスコットランド人のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンチヌーク族の部族長の娘の間に生まれた混血で、母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていました。

開拓時代であったこのころのアメリカでは、事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることはしばしば行われていました。このころラナルドはエジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けていましたが、このとき漂流民の音吉らと出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは彼等と同じ日本人だと教えられました。

無論、たわいもないジョークでしたが、これを信じたマクドナルドは日本にあこがれるようになります。1834年にレッドリバー(現・カナダのマニトバ州南部のウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになりました。

が、ここでの学風が肌に合わず出奔。あこがれていた日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となりました。

日本行きを決心した理由を本人はのちに、いくつか書き記していますが、自分の肌が有色であり、そのため差別を経験していたこと、容貌が日本人と似ていたことから日本語や日本の事情を学びたかったこと、鎖国によって謎の王国とされていた日本の神秘のベールが冒険心を掻き立てたことなどを挙げています。

また、インディアンの血が理由で好きな女性との結婚がかなわなかった失恋事件もきっかけとしており、さらに西洋人の血の入った自らを、権力を持ち植民地主義に走る支配層側、日本人をアメリカにおけるインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていました。

捕鯨船員になったラナルドは、船が日本近海に来た1848年6月、単身ボートで日本に上陸を試みました。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得しましたが、マクドナルドは応じませんでした。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えてくれました。

彼が最初に上陸したのは北海道の焼尻島でした。ここで二夜を明かしましたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで利尻島に上陸します。このとき、不法入国では処刑されてしまうかもしれない、とも思いましたが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったといいます。

そして、ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、日本人に発見され、密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られました。

そこから長崎に送られ、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間、崇福寺という寺の末寺で、長崎諏訪神社近くの大悲庵(現在は跡地のみ)に収監されて過ごしました。

この間、マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにしました。

この14名の通詞たちは、のちペリーの艦隊が来航したとき、通訳をつとめる「森山多吉郎」を筆頭に、その後の幕末の動乱で活躍しました。それまではオランダ語などを経由せず、直接的に英語を教える教師はいなかったので、このマクドナルドこそが、ネイティブ・スピーカーとしては日本で最初の英語教師だった、ということになります。

教えた期間はわずかでしたが、生徒のなかでもひときわ熱心であったのは、英語がもともと話せ、通訳も務めていた森山多吉郎(のちに森山栄之助と改名)であり、素養があったために覚えもはやく、おどろくほどの習得能力を示したといいます。

日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていましたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものでした。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝えるというシンプルなものでした。

マクドナルドもまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっています。また、彼は日本人生徒がLとRの区別に苦労していることに関しても言及しています。

マクドナルドは、翌年4月、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻りました。日本における彼の態度は恭順そのものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧でした。また、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だったといいます。

帰国後は日本の情報を米国に伝えました。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えました。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていませんが、現在のアメリカでは、日米関係における歴史上の重要人物として、研究書や関連書籍が多く公刊されています。

その後、日本から帰国したのちは、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海しました。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをしました。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・アメリカワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなりました。享年70歳。

死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったといい、この「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれました。ワシントン州フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されています。

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さて、途中からマクドナルドの話に行ってしまいましたが、少し元に戻しましょう。アストリア砦を訪れ、まだ幼かったマクドナルドに出会った音吉ら3人は、その後、アメリカからイギリス・ロンドンへ連れて行かれました。しかし、なぜロンドンだったのか?

彼等を救助したイギリス船は、ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company, HBC)という会社の持ち船で、この会社は、米大陸(特に現在のカナダ)におけるビーバーなどの毛皮交易のため1670年5月に設立されたイングランドの勅許会社・国策会社でした。現在もカナダで小売業を中心として存続しており、北米大陸最古の企業でもあります。

このハドソン湾会社のアストリア砦における責任者は、ジョン·マクローリンという人物でした。彼は、救助した3人の漂流者が日本との交易を実現させるために有効と考え、その計画をイギリス国王に了承してもらうため、3人をロンドンに行かせることにしたのです。

こうして3人の運命はさらに数奇なものとなっていきます。オレゴンを出航した彼等の乗船・イーグル号は、南米マゼラン海峡を通って大西洋に入り、ロンドンへ向かいました。この当時はまだ北米の北を回る北西航路は開拓されておらず、またパナマ運河も完成していなかったため(1914年完成)、これがヨーロッパへの一番の近道でした。

1835年初頭、数ヵ月もかかってロンドンに着いた彼らは、テムズ川で10日間の船上にとどまっていました。が、許されて1日ロンドン見学を行っており、彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人でした。

なお、日本人として最初に世界一周をした仙台藩の若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航していますが(享和3年(1803年))、このときは上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となります。

しかし、結局、英国政府はハドソン湾会社が提案する日本との交易計画を却下しました。理由はよくわかりませんが、イギリスはこのときより27年遡る1808年に長崎に侵入し、オランダ商館員2人を人質にとるなどのトラブルを起こしています。このころイギリスはナポレオン戦争の余波でオランダと交戦関係にあり、彼等の船を追ってのことでした。

いわゆる「フェートン号事件」という事件であり、この事件は結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決しました。しかし、その後日本は貝のように固く殻を閉じて外国船との交易を拒否し続けるようになり、一方のイギリスも、腫物に触るように日本には近づかなくなっていました。

このため、音吉ら3人の漂流者の扱いについても、イギリス政府は一切関与しないという方針がハドソン湾会社に伝えられたのでしょう。同社としても政府の指示に逆らうわけはいかず、これに従うことにしましたが、日本人漂流民については独自の判断で彼等を帰国させることにしました。

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こうしてゼネラル・パーマー号に乗船した音吉ら3人は、今度はアフリカ南端、喜望峰経由で極東に向かいました。1835年12月、パーマー号はマカオに着き、ここで一旦、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられましたが、このとき彼等はギュッラフと協力し、世界で最初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させています。

ここでの生活は1年以上に及びましたが、1837年3月になって、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人もマカオに到着し、こうして異国で同胞たち7人が対面することになりました。

同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発して那覇までやってきました。そしてここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かいました。7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、予期せぬ砲撃にさらされます。

前述のとおり、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっており、モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されました。またその後向かった薩摩山川港では、一旦夢にまで見た日本上陸を果たしましたが、その後幕府が受け入れを拒否したため、帰国は叶いませんでした。

結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻りました。そして彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられました。

その後、肥後の国出身の4人と、尾張国出身の岩吉・久吉の2人は、マカオで余生を送り、ここで没したようです。しかし、音吉だけは、その後上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍しました。その後、同じ上海でデント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)という貿易会社に勤めました。

同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしています。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれましたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界しています。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っています。

その後、音吉は、1849年(嘉永2年)に、イギリスの軍艦マリナー号で再び浦賀へ帰ってきました。しかし、日本は相変わらず鎖国中であったため入港できず、浦賀沖の測量だけをして帰国しています。この時、音吉は通訳として乗船していましたが、表向きは中国人「林阿多」と名乗っていました。

1853年には、アメリカのペリーらがはじめて上陸を果たし、黒船来航として騒がれました。このとき、ペリー艦隊には日本人漂流民(仙太郎ら11名、安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)の栄力丸船員)が乗船していましたが、このとき彼等もまた帰国はかなわず、その後上海に送られ、ここに住んでいた音吉の援助を受けています。

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その後、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、音吉は、再度来日し通訳を務めました。また、この時に福沢諭吉などと出会っています。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがありましたが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っています。

その後、マレー人と再婚しましたが、彼女もまたデント商会の社員でした。この2度目の妻との間には、一男二女をもうけました。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつありました。このため、1862年(文久2年)、音吉は上海を離れてシンガポールへ移住しました。

このとき、このシンガポールで、かつてマクドナルドが英語を教えた森山栄之助らに会っています。幕府の文久遣欧使節通訳として同行していたもので、この使節団には福沢諭吉も参加しており、ひさびさの再会を果たしました。音吉はこのとき、清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福沢の著した「西航記」に残っています。

その後、1864年、音吉は日本人として初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールで病死しました。享年49。日本の元号が「明治」になる1年前でした。

こうして日本の鎖国政策により祖国に戻ることを余儀なくされた音吉ですが、彼自身は、日本が武威をもって自らの政策を貫いた姿勢を支持しており、その後、ペリーによる黒船来航後、武力を背景にしてアメリカが開国を迫り、これを幕府が受け入れたときは、これを「外国に屈した」と感じて憤慨したといいます。

彼自身の帰国はかないませんでしたが、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚、「山本音吉」を名乗りました。

しかし、念願の帰化は出来なかったようです。その頃の日本は、近代国家を目指して法整備が急ピッチで進められていたものの、帰化や国籍に関する法律はまだ無かったためです。国籍法が出来るのは1899年(明治32年)のことです。山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で死去しています。

音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されていますが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航しました。しかし2004年になってようやく墓が発見され、遺骨の発掘に成功します。

遺骨は荼毘に付されてシンガポール日本人墓地公園に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長の斉藤宏一らの手によって、祖国日本に戻ることになりました。漂流から実に173年ぶりのことであり、この遺骨は現在、美浜町内にある音吉の家の墓に納められるとともに、「良参寺」という寺の宝順丸乗組員の墓に収められています。

ちなみに、音吉の最初の妻は、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人であったといいます。また、2番目の妻は、上海で同僚だったドイツ人とマレー人の混血のシンガポール人でした。この後妻との間には息子と3人の娘がおり、このうちの一人の娘の子孫が美浜町で現在も旅館を経営しているそうです。

音吉の出身地である美浜町では、音吉の功績を広く世界に知らせ、町の活性化を図ろうとした町おこしが行われ、1961年には音吉、岩吉、久吉ら3人の頌徳記念碑が美浜町に立てられました。以来同町と日本聖書協会は毎年、聖書和訳頌徳碑記念式典を行っています。

同年行われた第1回目の式典には、当時のドイツ大使夫妻や愛知県知事、名古屋鉄道社長ら300人が参列しました。1992年には「にっぽん音吉トライアスロン in 知多美浜」が初開催され、音吉の顕彰事業が本格化しました。

音吉の人生を描いた音楽劇「にっぽん音吉物語」が翌年に同町で初公演され、以後シンガポールやアメリカ(ワシントン州、ハワイ州)、イギリス(ロンドン、バンガー)など音吉ゆかりの地でも公演されるといいます。

2012年には、音吉の生涯をモチーフにしたハリウッド映画が公開される、と発表されました。が、現在までのところ実現していないようです。

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