南鳥島と幻の島

携帯電話などエレクトロニクス製品の性能向上に必要不可欠な“レアアース”が、小笠原諸島の南鳥島周辺の排他的経済水域で大量に見つかったというニュースが入って来ました。

レアアースは現在、生産量の9割を中国が占めていますが、今回の発見では世界需要の数百年分の埋蔵量あることが分かったといい、東京大学や海洋研究開発機構などの研究グループが、そうしたことを10日付の英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表したものです。

同グループは、既に2013年ころから、同島沖の海底に高濃度のレアアースを含む泥(レアアース泥)があることを発見しており、2015年までに南鳥島沖南250kmの海底、深さ約5600mの25ヶ所から試料を採取して、その資源量を推定していました。

今年までの分析結果から、その量は約1600万トンであると推定されたといいますが、素人にはピンときません。

調べてみると、より具体的には、レアアースのうち、テルビウムという、モーターなどに使う物質の埋蔵量が世界需要の約420年分、また、ユウロピウムなる液晶ディスプレーの発光体に使う物質の埋蔵量は620年分あるということで、これだけあれば、もう中国に頼らなくてもよくなりそうです。

今回の発表では、特殊な装置でふるいにかけレアアース泥を抽出する方法を発明したことにも触れており、この方法によれば、従来の2.6倍の濃度でレアアース泥を採取することができるようになったといいます。

調査した加藤泰浩・東京大教授(地球資源学)は「十分な資源量が海底にあることが分かった。効率的に採取できる可能性も高まり、資源開発の実現に一歩近づいた」と話しており、今後はシェールガスの開発で一躍「資源大国」となったアメリカに次ぎ、日本もまた鉱物資源の輸出大国として名乗りを上げる時代がくるかもしれません。




南鳥島とは

その南鳥島ですが、いったいどこにあるのよ、とうことなのですが、これがまた遠い。位置的には東京からほぼ南西方向に1,800 km離れた日本の最東端にあり、小笠原諸島に属する、とされる島です。一応東京都に属しており、住所は東京都小笠原村になります。

一辺が、約2kmのほぼ正三角形の形をしている平坦な島であり、最高地点の標高は9 mしかありません。島の周囲はサンゴ礁で浅くなっていますが、サンゴ礁の外側はすぐに水深1,000 mの断崖で、島の周囲は深い海に囲まれています。

月平均気温は、2月が21℃、7月28.4℃、年間平均25.6℃°と暑すぎもせず温暖で、しかも降水量は日本国内としてはかなり少なめで快適です。真冬でも気温が10℃を下回ることはなく、過去の最低気温は13.8℃です。

いかにものどかな南洋の島というかんじがしますが、一般市民の定住者はなく、また、島の周辺は潮流が速いので泳ぐのは危険であり、観光目的で行くのには適していないようです。

というか、島全体がほぼ政府機関によって占領?されていて、海上自衛隊の基地があるほか、気象庁の南鳥島気象観測所や、国土交通省の管理所などがあったりして、一般の人が立ち入ることは難しそうです。

各機関の職員が交代で常駐しており、職員の交代、物資の補給のための飛行機が飛来するための1,370 mの滑走路があります。航空自衛隊の輸送機が月に一度、また、海上自衛隊の輸送機が週に一度飛来しますが、所要時間は神奈川県の厚木基地から直行で約3時間半だそうです。

また、島の南側に船の波止場がありますが、浅いサンゴ礁に阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合に停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っています。

近年、上述のような海底資源が発見されたことから、政府もこの島を重要視しており、このため、平成22年度より泊地及び岸壁工事が行われていて、平成34年度を目途に完成が予定されています。

政府はこの南鳥島だけでなく、この近辺のほかの小笠原諸島の開発を急いでいますが、同じ小笠原諸島の沖ノ鳥島で、3年前の2014年3月30日に、「沖ノ鳥島港湾工事事故」という大きな事故があったのをご記憶の方も多いでしょう。

五洋建設が請け負った港湾整備事業で、作業中に桟橋がひっくり返り、作業員16人が投げ出され、事故当日に5人が死亡し、2人が行方不明になりました。この工事は独占的に漁業や海底資源の開発ができる排他的経済水域の維持を目指し、中国も意識した国策工事でした。

今回のレアアースの発見によってこの南鳥島もまたその重要性が一層増しているといえ、今後もさらに、港湾の造成などの開発が進むと思われますが、再び同じような事故が起こらないよう、十分な注意を払ってほしいものです。



南鳥島の歴史

この南鳥島の歴史は古く、地質学的には、約20万年前の「第四紀更新世」という時代に隆起して島となったようです。

もっともも、人の目に触れるようになるのは、はるかにそのあとのことで、記録に残っているのは、明治維新の4年前の1864年(元治元年)のことです。アメリカの船・モーニングスター号がこの島を発見し、「マーカス島」と名付けた、という記録があります。

しかしその後放置され、1879年(明治12年)になって、静岡県の斉藤清左衛門なる人物が初めて日本人として南鳥島を訪れた、とされ、さらにその4年後の1883年(明治16年)にも、高知県人の信崎常太郎という人が、英国船に乗ってこの島に上陸したという記録があります。

本格的に人が住むようになったのは、1896年(明治29年)のことであり、「水谷新六」という人がそのリーダーです。水谷は、三重県桑名市の出身ですが、明治16年に小笠原の父島に渡って雑貨商を営むようになり、サイパンやトラック諸島、ポナペ島などのミクロネシアの島々と盛んに交易を行うようになりました。

このころから水谷は、かつてイギリス船が発見したという「グランパス島」という島を探すようになり、南洋貿易の傍ら、何度かこの島の存在を確かめるべく、探検を繰り返していました。

明治29年にも同様に探検に出ましたが、発見することができずに帰港する途中、一つの島へとたどりつきました。残念ながらこの島は、グランパス島ではなく、南鳥島だったわけですが、このころすでに無人島ではなく、サイパン島の住民が数名住みついていたようです。しかし、領有権は、どの国もまだはっきりと主張していませんでした。

この島には、当時アホウドリなど大量の海鳥が住みついており、そこで水谷は、島を開拓して羽毛採集事業を企てようと、母島から労働者をこの島に移住させました。当初、男女都合、23名が母島から移住したといい、この島を「発見」した水谷は、最初にできた集落に自分の名字「水谷」をつけたそうです。

一方、水谷から島の発見を聞いた明治政府は、このころ既に小笠原諸島の重要性に気づき始めており、1898年(明治31年)7月24日に正式にこの島を「南鳥島」と命名し、東京府小笠原支庁に編入しました。

その後、1902年(明治35年)になって、米国の帆船船長・ローズヒルが、アメリカ政府の許可を得て、この島に入植しようとしますが、それを察知した政府も軍艦笠置を派遣し、先に上陸して牽制しました。

その後、大正年間までには、アホウドリの糞を肥料にすることが事業化されるなどして、島は相当の活気を呈し、トロッコ用のレールも敷設され、住民も最大で50人が居住するなど増加しました。

しかし、昭和に入ってからは、アホウドリも採り尽くされ、急激に事業も衰微して、5人の男子が漁労に従事する程度となり、1933年(昭和8年)にはついに全島民が撤収し、無人島になりました。

戦中は、日本海軍が気象観測所を開設するとともに、前線基地も構築され、島は要塞化されましたが、1942年(昭和17年)3月4日、ウィリアム・ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受けました。

さらに空襲は何度も続きましたが、上陸・戦闘は起きず、そのまま終戦を迎えると、島はアメリカ軍によって占領され、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカの施政権下に入りました。

それから16年間は、米軍委託により日本の中央気象台が測候所を建て、気象観測員だけが住む島になっていましたが、1968年(昭和43年)6月26日 アメリカより返還されました。こうして、東京都小笠原村に属するようになると、海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が派遣され、以後、上述のとおり自衛隊によって管理されるようになりました。

その後、2009年(平成21年)には、 環境省が南鳥島を鳥獣保護区に指定するなど、主に環境保全の視点から島が維持管理されるようになりましたが、近年の中国の進出などによって資源面での重要性も認識されるようになり、そうした調査の一環でレアアースなどの貴重資源が見つかったわけです。



幻の島

この南鳥島に限らず、南太平洋に散らばる島々というのは、アメリカ、イギリス、そして日本と、各国が領土の拡大を狙って血眼になって探していた対象であり、過去には、その領有をめぐってたびたび紛争なども起こっています。

しかしその都度、日本政府は日英を退け、なんとかその主権を守ってきた経緯があり、それゆえに現在も「小笠原諸島」というまとまった群島としての領有が成立しているわけです。その中で今回のような希少資源が見つかったわけであり、領有を主張してきた政府関係者には先見の明があった、といえるでしょう。

ただ、いかんせんだだっ広い太平洋の中に散らばった島々であり、現在のように人工衛星や航空機などによって、簡単にみつける、というわけにはいきません。点と点を結びつけるのが比較的容易になった現在と比べ、その昔は船しかこれらを繋ぐ手立てはなかったわけであり、発見したあとも、その管理は容易なものではありませんでした。

そんな中において、実際にはありもしない島を領地として認定した例もあり、そのひとつに「中ノ鳥島」があります。

沖ノ鳥島や南鳥島、といった同じようなネーミングの島もあり、いかにもありそうな島名ですが、実際には存在が確認されておらず、にもかかわらず、かつては日本国の領土として海図などにも記載されていました。

仮に存在していたならば、南鳥島よりも東にある日本最東端の島だったはずであり、その経緯度は、北緯30度05分 東経154度02分であり、これは、南鳥島よりもさらに900kmほども南東にあたります。

位置的には、東京とハワイのほぼ中間といってもいいほどの場所であり、これを発見したとされるのが、実業家で衆議院議員だった山田禎三郎という人物です。

1907年(明治40年)8月、山田禎三郎が、東京府小笠原島から560哩の位置に島嶼を発見、上陸して探検、測量まで試みたとされますが、実は、これより以前に、日本の南東海上には、未確定ながら「ガンジス島」なる島があるとの情報がありました。

当時の海軍省水路部が記した「日本水路誌」にも、北緯30度47分 東経154度15分に島があるとされており、山田は、自分が発見した、と主張するこの島を「ガンジス島」と考えました。そして、翌年の1908年(明治41年)5月に小笠原庁へ、島の地図を添えて発見の報告を行いました。

この報告を基に、この当時の東京府知事・阿部浩は、内務大臣・原敬に「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」を提出しており、その中には、発見された島の具体的な内容も記されていました。

それによればこの島は、外周1里25町(約6.67km)、面積64万3700坪(約2.13km2)、でサンゴ礁に囲まれて灌木と思われる植生もあり、また、島には鳥の糞が積もってできる燐鉱石で覆われている、とされていました。これは当時、火薬原料や肥料として重要視されるもので、日露戦争後も国土拡大を図ろうとしていた日本政府としは重要な資源でした。

山田は衆議院議員としての立場を利用してこの島を開発するため日本による領有を訴えますが、これを受けて1908年(明治41年)7月22日に閣議決定によって「中ノ鳥島」と命名されることが決まり、ここにこの島は正式に日本領に編入されるところとなりました。




疑惑の中で

ところがその後、日本政府が何度かこの島を探したものの、再び発見することができないまま時が過ぎました。時は明治から大正に入る過渡期であり、政府もそんな小さな島に関わっていられない、といった理由だったのでしょう。

大正時代に入ってからも、周辺海域が大規模に探索されましたが発見できず、こうした中、実はこの島は幻で、存在しないのではないか、という疑惑が関係者の間で持たれるようになり、ついには「存在しない」という確固たる共通認識が持たれるようになりました。

こうして、1943年(昭和18年)には、海軍水路告示により日本海軍の機密水路図誌から削除され、戦後の1946年(昭和21年)の官報でも近隣暗礁含めて不存在とされたことで、ついに中ノ鳥島は一般の水路図誌からも削除されることとなりました。

以後、政府関係書類の中にあった中ノ鳥島の記述は順次削除されていきましたが、改正されていない水路図や地図は依然として民間で流通しており、1953年に出版された「高等新地図(地勢社)」にも描かれたほか、新規発行の地図にも記載されたことがあります。

公式に中ノ鳥島は存在しない、という発表がなされたわけではありませんが、こうしてその後この島に関する論議は縮小していき、やがてはまったく話題にあがることはなくなりました。

ただ、実際に島があったものが水没したのか、元々存在せずに山田が他の島と勘違いし、あるいはでっち上げたのか、といった疑問だけは残りました。山田禎三郎が本当に探検したかも疑う余地があり、仮に島の存在が虚偽だったとすると、彼がこれほど壮大なほら話を打ち上げた理由が謎となります。

なぜ、山田が嘘をついてまでこのような幻の島を「発見」したか、については諸説ありますが、そのひとつは、この島に多数生息しているとされた、アホウドリを巡る開発事業における資金を調達したかったからだ、というものです。

中ノ鳥島の発見報告書には「高純度の燐鉱石が大量に存在する」とあり、また、羽毛を取ることのできる「アホウドリが多数生息している」という記述があります。これらは当時商品価値の高いものであり、実際に山田は、自分の名義でこれらを発掘する事業を実行する許可を政府に求めています。

この当時、沖縄に近い、沖大東島(ラサ島)においても燐鉱石が採掘され、開発者に莫大な利益をもたらしていた、ということもあり、同様な島が見つかれば、当然それは「儲かる島」ということになります。

しかし、こうした絶海の孤島を開発するためには多額の初期投資が必要であり、このため「島の開発資金を集めるという名目で詐欺話を企てた」というのが山田虚偽説の根拠です。話に信憑性を持たせないと投資家が資金を出すことはないので、国に申し出て国土として認定を受けたと考えることができます。

つまり、山田はとんでもない山師だった、ということになりますが、山田の出自をみるとそうしたこともやりかねない人物であることがわかります。

彼は、衆議院議員になる前、師範学校の校長を経たあと新聞記者、出版会社などに属しており、この出版社・帝国書籍の取締役時代には、学校への自社の教科書採用をめぐる贈収賄事件である「教科書疑獄事件」に連座して、逮捕は免れたたものの、留守宅が家宅捜索を受けるなどしています。

また、1912年の第11回衆議院議員総選挙に同県郡部選挙区から当選を果たしましたが、その後も事業の失敗により1年足らずで辞職し、株券の偽造により投獄されたこともあり、こうしたことからも、かなりいわくつきの人物であったことがわかります。

一方では別の見方もできます。衆議院議員としての名声がある彼を、別の詐欺話が担ぎ出し、信憑性を持たせるため、ありもしない島の存在をでっちあげさせた、という見方です。教師あがりの実業家が、実際に探検航海に出たとは考えにくく、実際に海に出たかどうかは別ですが、この詐欺師が海運関係者か何かだったという可能性はあります。

当時の「大阪朝日新聞」によれば、山田は島開発のために組合を設立して国から燐鉱採掘権を得ましたが、組合員の一人にその権利を独り占めにされ、その人物も別件で投獄されて採掘権もやがて期限切れとなった、と書かれています。

本人だけでなく、その周囲の人間にもいかがわしい臭いがふんぷんするわけであり、こうした一連の事実をみていくと、島の存在はやはり架空のものであったのではないか、と思わざるを得ません。

存在の可能性

しかし、その一方で、実際には中ノ鳥島があり、何等かの地殻変動で、海の中に没したのではないか、とする説もあります。最近では、同じ小笠原諸島の西ノ島が、突如噴火を始めてだんだんと面積を拡大しつつある例がありますが、逆に伊豆諸島南部の明神礁のように、自らの爆発で消滅したり波浪に浸食されたりして島が消滅する例もあるわけです。

ただ、幻の島、中ノ島もこうした火山活動によって消滅した、とする説については否定的な見解が多いようです。というのも、もし仮に島があったとすれば、その周囲の海域の水深はおよそ5,000mであり、その海底から海面まで、5000m超の山塊があり、水面上に顔を出したその頂が島として認識されていた、ということになります。

しかし、明治末期以降の数十年という短期間でそうして山塊が崩壊して水没したとすれば、大規模な地殻変動が起こった末のことに違いなく、その場合はおそらく、大津波が日本列島を含めた太平洋沿岸まで到達すると思われます。しかし、そんな記録は皆無であり、中ノ鳥島自体がそうした地殻変動で消えてしまったという説は説得力に欠けます。

さらには、火山活動が活発で、水没と突出を繰り返しているような島ならば、アホウドリなどの海鳥が住みつくわけもなく、また中ノ鳥島で確認された、という潅木のような植生も存在しえないわけで、こうしたことからも、火山活動による消滅説は否定的な見解が多いわけです。

実は、日本近海の太平洋海域はこの手の「幽霊島の宝庫」といわれており、このほかにも南鳥島の南西約400kmに、「ロス・ジャルディン諸島」という島々があったとされたことがあります。

アメリカ海軍によって16世紀に発見報告があって以来400年以上にわたって海図に掲載され続けましたが、その後も発見されることはなく、最終的に不存在とされたのは、中ノ鳥島の不存在が確定したよりも更に後年の1972年のことでした。

広い太平洋のこと、たとえ人工衛星による探索技術が進んだとしても、浪間に見え隠れする岩礁のような島を見つけることは現在もかなり難しいことであるのは確かです。存在しえない、とされた島においても、それが確実である、とされるまでには、それなりの時間と手間がかかる、ということなのでしょう。

くだんの中ノ鳥島についても、戦後すぐにその存在が全否定され、海図からも削除されたわけですが、本当に存在しないのか、というところは正式に文書化されていないらしく、1998年(平成10年)4月7日には、参議院総務委員会で島の存在についての質問が出されたことがあります。

自民党の村岡兼造・内閣官房長官がこのとき、その質問に答えていますが、その答弁は、昭和21年の官報に「中ノ鳥島不存在、「精測ノ結果存在シテイナイコトガ認メラレタ」という記述がある、というものであり、「中ノ鳥島の存在は現在(・ ・)確認されておりません。」と述べるにとどまりました。

それ以外の資料があるのかないのか、この文書については裏付けがあるのかどうかについては、結局うやむやなまま、この答弁は終わってしまったようですが、本当にそうなのか?という疑念をついつい持たざるをえません。

というのも、モリカケ問題やイラクの日報問題も含め、最近の国会答弁では、ないといわれたものがあとから出てくるのが常だからです。もしかしたら、隠されている文書があり、「実は中ノ鳥島はあった!」とされる日がいつかくるのかもしれません。

実は島は存在し、そこには自衛隊の秘密基地が作られていて…などと妄想が膨らみますが、もしそうした事実があったとしたなら、そのときこそ、安倍自民党政権の終わりの日に違いありません。