病気とはなにか


最近、右目が妙に痛いなと思って鏡をみると、まぶたの内側になにやら黄色い粒のようなものが見えます。何かなと思っていたのですが、はじめは軽微だったものがだんだんひどくなってきて、赤く腫れるようになってきたのをみて、どうやらこれは「ものもらい」だと気が付きました。

私の郷里の山口や広島では、ものもらいのことを「めぼ」というのですが、関東やその他の地域では馴染みのない方言なので、ここでも「ものもらい」としておきましょう。

ここのところご無沙汰していた症状なのですが、こうした体の異変は、何等かのスピリチュアル的な意味を持つ、とよくいわれるので、これにもどういう意味があるのだろう、と調べてみることにしました。

そこで、タエさんの我が家のスピリチュアル文庫である、「なっちゃん文庫」を漁っていたら、「病気が教えてくれる病気の治し方(柏書房)」、という本が見つかりました。

「なっちゃん文庫」というのは、タエさんの亡きお母さんの残したスピリチュアル関係の書物で、我が家のリビングの壁一面に据えた本棚にある千数百冊にも及ぶ書庫です。

が、あとでタエさんに聞くと、この本は彼女が数年前に買い求めたもののようです。その当時彼女もまた何か体に異変があったのでしょう。我が家では夫婦して何かとこういうものに興味を持ちます。

トアヴァルト・デトレフゼンと、リューディガー・ダールケという二人のドイツ人の共著で、デトレフゼンのほうは、精神医学を学んだあとにリーインカーネーション・セラピーなるものを開発し、これをもとに特殊心理学研究所を設立した、と巻末のプロフィール紹介にありました。

また、ダールケのほうは、ミュンヘン大学で医学を学んだのち、精神療法士及び自然医学医師の資格を取得したお医者さんで、デトレフゼンと12年間共同研究を行った結果、この本を書いています。精神医学に関する医療センターを設立し、講演やセミナーを行うとともにこうした精神医学関連の多数の著書があるようです。

私のものもらいが、どういう意味かをこの本で読んだところ、腑に落ちるところがありましたが、それは後で披露するとして、この本を斜め読みしていったところ、非常に興味深いことが書いてあったので、今日はその中から抜粋しておおまかな内容を皆さんにもお伝えしようと思います。

原本をそのまま引用すると盗用になるのと、わかりにくい部分があるので、多少手を加えていますが、基本的には原文に忠実です。

まず、我々は、病気といえば「さまざまな病気」と病気を複数形で使うことが多いものです。しかし、これは病気という概念に対する誤解のもとになっています。病気とは本来単数形で使うべき言葉です。健康を複数で言わないのと同じです。

健康も病気も、人の心身状態をあらわす概念であり、体の部分や器官をさすものではありません。つまり、体は意識からの情報を受け取り、これを動かすだけであって、体自体が自分だけで病気だとか健康だとかを主張するといったことはありません。

体が主体として行為をすることがないのは、死体を考えればすぐにわかることです。生きた人間の体は、非物質的なもの、つまり意識(魂)と命(精神)のはたらきによって機能します。意識の出す情報が、体に伝えられて動かされ可視化されるわけです。

言い換えれば、意識が示す情報は、非物質的な独立した特性を持っており、体から生じるものに左右されません。体が存在しようがしまいが同じです。

生物の体に生じるできごとは、それに対応する情報が表出されたものです。人の体は限定された存在であるのに対して、意識は無限大です。従って、意識に対応する体の反応は、圧縮された「絵」といってもいいでしょう。

「絵」とは、ギリシャ語のeidolonに相当します。同じくギリシャ語の観念Idoleはさらにこれに近いかもしれません。鼓動と脈拍が一定のリズムに従う、体温が一定に保たれる、ホルモンが分泌される、抗原がつくられる、などの現象は、観念とはいえないものですが、いずれも物質レベルでは説明しがたいものです。

こうした現象(言いかえれば機能)は、意識から発する特定の情報に従って発現されています。そして、こうしたさまざまな体機能がいっしょにはたらいて「調和」していると感じられる状態が、「健康」です。

ある機能がうまくはたらかなくなると、全体の調和がくずれます。この状態を「病気」と呼んでいます。つまり、病気とは調和が乱れることです。それまで保たれていた秩序が崩れることと言ってもよいでしょう。

視点をさらに変えれば、健康とはバランスを生み出すことでもあります。調和の乱れは意識の情報レベルで起こるもので、これが体に現れるのです。言い換えれば、体は意識内の変化や動きを描写し、実現する場所であるともいえます。そのため、意識内でバランスがくずれると、それが症状となってからだにあらわれるのです。

体が病気である、というのは誤解を招きやすい表現です。病気なのは意識と体が一緒になった一個の人間全体です。悲劇が上演される場合、悲惨なのは、舞台ではなく、劇そのものである、というのと同じです。

ただし、病気は症状となって体に出ます。症状はさまざまですが、どれも病気が表出されたものです。病気はかならず人の意識の中で起こります。つまり、意識がなければ体が存在しないように、意識がなければ病気になることもありません。

従って、病気=「意識レベル」と症状=「体レベル」は別々の概念として区別すべきです。ここが今日のブログで述べたいことの最も大事な点であり、ひとつのポイントです。

これを理解することによって、体に起こるできごとを分析するという従来の馴染のある方法から、精神レベルを観察することで病気を治していくという新しい方法に移行することができます。

演劇批評家に例えるなら、舞台装置、小道具、俳優などを分析したり、替えたりすることによって改善するのではなく、劇そのものを対象とするわけです。

人は、ある症状が体にあらわれると、多少の差はあれ、注意がそちらに向けられ、それまでの生の営みが中断されます。症状は、注意やエネルギーを引き寄せ、それまでの状態に疑問を投げかけるシグナルです。生の営みを中断されるのはわずらわしいので、邪魔者を追い払おうという願いが最優先になります。

邪魔されるのはいやなので、症状と闘います。この闘うということは、症状に取り組み、症状に気持ちを向けることです。つまり、このようにして症状はそれが存在する目的を達するわけです。

病気と症状のちがいをひとたび理解すれば、病気とつきあう基本的態度が変わっていくでしょう。症状を仇敵とみなしてやっつけるのはやめ、逆にパートナーとして、病気の状態から脱する手伝いをしてもらえばいいのです。

そうすれば症状は先生となって、自己を認識し、開発するのを助けてくれるようになります。ただし、この規則を軽視すると、症状は容赦なくあなたに襲いかかります。病気の目標はただひとつ、人を健康にすることです。

健康になるために欠けているものを示してくれるのが症状です。それを理解するためには「症状の言語」を知っていなければなりません。この言語は、「精神身体学」ともいえるもので、心と体の関係を熟知しています。これは、実は大昔からあるものですが、残念ながら時とともに我々の記憶からは忘れられてしまっています。

われわれは、この症状の言語を再習得しなければなりません。言語の深い意味に耳を傾ければ、症状の語ることが理解できるようになるでしょう。症状は緊密なパートナーであり、また自分の一部であるので、重要なことをたくさん教えてくれるのです。

しかし、その教えてくれた内容は、正直すぎて耐えがたいこともあるかもしれません。親友ならば言わないようなことも、症状はストレートに伝えるからです。症状の言語が忘れ去られてしまったのも、おそらくは率直すぎて疎まれたからに違いありません。

しかし、耳をふさいでも症状が消えるわけではありません。なんらかの形でわずらわされ続けることになります。逆に症状に耳を傾けてコミュニケーションをとれば、またとない先生になって健康に導いてくれ、自分に欠けているものは何か、知らせてくれるのです。

健康と病気の関係を理解する上で、もうひとつ重要なポイントがあります。

それは、「両極性」ということです。これは両極として対立し合いつつも、他を自己のあり方の条件とし合っている性質です。人間にとっては病気と健康は対極的なものであり、この二つの両極性は、人間存在の中心的テーマともいえます。

ところが、現代医学は病気を、「健康な状態」を乱す嫌なものとみなし、なるべく早く退治しようとするばかりか、病気をできるだけ予防して根絶しようと試みます。しかし、病気とは、ただ単に自然の機能が乱されたものではありません。

病気は、改革のための統合防御システムの一部であり、人間は病気をしめ出すことはできません。なぜなら、健康は対極にある病気を必要としているからです。

人は健康と病気という両極性の一部です。その限りにおいて、罪や病気や死にかかわりつづけることになります。大事なのは、ここでの罪というのは、罰という意味ではありません。この世に生まれてきたこと自体が罪であり、これは言い換えればカルマです。

カルマは「宿命」です。過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくるのです。人はその一生をこれと向き合って生きていかなくてはならないのです。

この基本的な事実を認めれば、マイナスなイメージはなくなります。が、その反対に、真実を知ろうとせずに、悪いと決めつけてやっつけようとすれば、病気は怖い敵となります。

自分に欠けているものを意識に取り込めば、症状はなくなります。治癒は、意識の拡張・成熟と結びついているため、症状の性質を知ることで、痛みやキズといった物質的存在のしがらみから自由になることができます。

また、必ずしも病気とは限らず、人は自分が嫌なモノ、拒んだものとは結局、最も深くかかわることになります。自分のなかに統合しなかった本質を外部に見いだすと、気になるものです。

そして選択された性質、つまり自分が好んだモノは、反対のものを外に追い払ってしまいます。追い出されたもの、つまり、自分の性質と認めたくないものは、「影」となります。そしてこの影こそが人を病気にするのです。




しかし、一方では影と出会わない限りは、健康になることができません。これが、病気と健康を理解する二番目の重要なポイントです。

病気の症状はすべて、物質化した影です。つまり、意識のなかで体験したくないものを症状で体験するわけです。意識のなかで特定の性質を拒むと、その性質は体におりて症状として出てきます。そのため、結局その性質を体験して実現することになります。

このようにして病気の症状が現れ、これを治癒していくことで人は健康になっていくのです。

つまりは、人は両極性を見極めながら生きている、ということなります。それらは実は対極にあるのではなく、一つのものの別のあらわれ方です。病気と健康はもともとは同じものですが、病気を知らせるために健康があり、このふたつが両極性として存在しているのです。

つまり病気から回復して健康になる「治癒」とは両極性の克服ともいえます。

この健康と病気は互いに依存しあっています。対極がたがいに依存しあっているということは、両極性には、ふたつの単一性が存在するということを意味します。しかし、片方の極、すなわち片方の単一性取り去れば、両極性というものは無くなってしまいます。

また、この二つの極は同時にひとつのものとして知覚することができません。病気と健康を同時に享受することには矛盾があります。このため、ふたつの極に分けて交互に知覚するほかなく、健康でいるか、病気でいるか、どちらかでいるという状態が普通です。

ここの議論は非常にわかりにくいでしょう。しかし、両極性の問題は人間存在の中心的なテーマなので、これを正しく理解することで、病気と健康という二極性も理解できてきます。

もっとわかりやすく説明しましょう。

人は、「自分」と言うことによって、自分でないものと自分のあいだに線を引いています。このために、両極性に縛られます。なぜなら、自我は人を、自我と他我、内と外、男と女、善と悪、正と誤、などに分裂した世界に結びつけているからです。

このため、単一性や完全性を感じたり想像したりすることができません。両極性に縛られた意識は、すべてをふたつの相反するものに分けます。ところが、反対の者同士は両立しないので、片方を肯定して、もう一つを否定することになります。

片方を否定するということは、片方を除外することを意味します。こうして人は確実に不健康になっていきます。なぜならこうしたものを退けて両極性に欠けた状態こそが病気だからです。欠けたもののない状態、つまり両極性が常に両立し、その両極をうまくコントロールしている状態が健康です。

病気とは何かを知りたいと思った時、新しい見地でこの問題にアプローチするためには、世界をこのように両極的に見ることがポイントになります。反対側の極も同時に見ることを学ぶのです。こうした二極性の観点から、病気と症状を解釈し、紐解いていけるわけです。

さて、ここで具体的な例をあげてみましょう。

例えば、感染症をとりあげてみましょう。感染症は、人体に最も頻繁にあらわれる病気です。急性の症状はだいたいが「炎症」で、風邪、肺炎、コレラ、天然痘などがあります。この「炎症」という言葉には、「燃え上がる火花」という意味が含まれており、英語では“inframmation“といいます。

この言葉は、かつてヨーロッパの歴史の中で起こった数多くの戦争を連想させます。未解決の紛争が燃え上がる、導火線に火がつけられ、燃え上がる松明が家々に投げ込まれる、などなど火種には事欠かないので、あちこちで暴発・爆発が起こります。

群衆が押し寄せ、堰き止められてたまったものが一挙に吐き出される……といった情景が目に浮かぶのではないでしょうか。

これは、戦争ばかりではなく、体にもみられることです。感染症にかかってできた小さな吹き出物や膿瘍から膿が出るのがそれです。これを精神レベルに置き換えると、人が爆発するという場合、これは膿瘍などでなく、心の中の葛藤から自由になろうとする、感情的な反応です。

葛藤に対して目を閉じて感じないようにすれば、葛藤は存在しないと思い込む傾向にある人が圧倒的に多いようです。子供が目を閉じれば怖いものはなくなると信じているのとなんら変わりありません。

ところが、見ようが見まいが葛藤は存在します。意識内の葛藤を認められず、少しずつ消化して解決していこうとしない場合、葛藤は体に降りて炎症となるのです。

感染症にかかったら、人生の葛藤で見落としたものがないか、避けている葛藤はないか、葛藤があるのに認めようとしない、それは何か、を自問してみましょう。

次の例としてアレルギーを考えてみることにしましょう。これは「抵抗」です。抵抗とはなかに入れないことであり、抵抗の対極は愛です。愛はさまざまな角度、さまざまなレベルで定義できますが、愛のあらゆる形はなかへ入れるという行為になります。受け入れるということです。

他方、アレルギーとは、異物に対する過剰反応のことです。体の免疫機構はアレルギー抗原に対して抗体を形成します。体内に侵入した危険な異物から体を守る大事なはたらきが、アレルギーの人の体はこれをやりすぎてしまいます。

アレルギーを持つ人は、武装を固めて、敵のイメージを新しい領域へと次第に広げていきます。ひとつ、またひとつと敵を増やしていき、敵に対抗するためには、まずます武装を強化します。武装を許可すれば、もちろん攻撃性が高くなります。

つまり、アレルギーとは、心から抑圧されて体におりてきた抵抗と攻撃性の高まりです。アレルギー体質の人は、自分のなかにある攻撃性に気付かないため、これを抑えることができないのです。

アレルギーが治るのは、敵に回した領域と意識的に取り組み、これを意識の中に取り入れて同化したときです。アレルギー患者は、敵と和解して愛することを学ぶべきなのです。

さて、今のような寒い時期は風邪をひきやすいので、次にこの風邪についても考えてみましょう。

風邪は呼吸器官を激しく消耗させます。風邪もインフルエンザも急性の炎症なので、体内で葛藤を消化しているわけです。従って、風邪をひいた場合は、精神レベルでこの炎症の起こっている場所や領域を調べればよいということになります。

風邪をひくのは、なにかが鼻もちならない危機的状況のときです。危機的状況といっても、命が危険にさらされるようなものではなく、日ごろよくある状況で、大騒ぎするほどではないけれど心の重荷になってしばらくそこから逃げたくなる、そんな状況をさします。

ただし、それを自分に認める心の準備がまだないので、体に症状として現れます。そして風邪をひくことによって意識せずにその隠された願いを実現することができます。

例えば風邪をひいて休むことができれば、誰もが状況を理解してくれます。風邪さえひきさえすえば、やっかいな状況から距離を置いて自分をいたわることができます。そして繊細な心を体レベルの症状で展開することができるのです。

頭が痛い、目に涙がたまる、体の節々が痛む、いらいらする。全般的に感じやすくなります。人から近寄られたり触れられたりするのを極端にいやがり、鼻がつまってコミュニケーションができなくなります。くしゃみによってさらに守りを固め。やがては喉が荒れて、コミュニケーションンの媒介としての言葉も制限されていく……

こうした風邪の症状に対応するためには、背負った問題を化膿した粘液として体外に出そうと試みればうまくいきます。これが功を奏してたくさんの問題から解放されれば、まず気が楽になります。あらゆる通り道をふさいでいるねばっこい粘液が再びさらさらと流し出す。こうして風邪は流動的になって、小さな進歩の訪れを告げます。

ある自然療法では、風邪は体から毒を洗い流す健康な洗浄作用とみなされています。精神レベルでも毒は問題であり、これが排出されることで、体も心も元気になって危機を脱するのです。

ただし風邪は誰でも何度もひきます。風邪をひかないでいられるのは次に何かが鼻持ちならなくなることが起きるまでのひとときです……

最後の例として、現在の私のテーマである、ものもらいについて考えてみましょう。これは、感覚器官である「目」の病気です。目や耳、口といった感覚器官は外と中をつなぐいわば入口です。この心の窓を通して結局は自分自身を見ることになります。私たちは感覚器官を通して外界を体験し、それが実際に存在すると信じています。

しかし、実はそんなものは存在しません。外界と自己は一体、ひとつのものです。と、一言でいってもわかりにくいので少しづつ説明していくことにしましょう。

例として鉄の棒をイメージしてみてください。黒い色を見、金属の冷たさを感じ、独特の臭いを嗅ぎ、触ると固いものです。

熱すると色が変わって赤く焼け、熱を発します。このとき叩けば変形します。これは何が起こったかといえば、鉄にエネルギーを加えたために、素粒子の動きが早まったためです。このために我々の感覚が変わり、「赤い」「熱い」「柔軟」と感じられるようになったのです。

つまり、素粒子の相互作用と振動数の変化を我々は感覚器官で感じ取っているわけです。素粒子は感覚器官の特定レセプターに届いて刺激を与えます。刺激は化学電気のインパルスを介して神経組織から脳へと伝わり、「赤い」「熱い」「においがある」などと表現され、脳の中で複雑な絵となります。

素粒子を感じ取ることで、複雑な感覚モデルがアウトプットされるわけです。ところが、こうした素粒子の情報が処理され、意識が複雑な絵が外界に存在することを認識すること自体が実は錯覚です

外にあるのは実は素粒子だけなのですが、悲しいかなこの素粒子というものを私たちは直接見ることができません。「感覚」は素粒子あってのものなのですが、これを直接感じ取ることはできないのです。つまり、まわりにあるのは我々が絵と思っている主観的な「像」でしかないわけです。

また、あなたの隣人(実はこれも本来は素粒子の塊ですが)が鉄の塊の状態を同じ言葉で形容すれば、自分と同じものを見ていると思ってしまいます。が、実際には二人の人間が同じものを見ているかどうかは判断できません。実は別々のものを見てそれぞれが鉄のようなものと認識しているだけかもしれないのです。

今見えている像は、確かに夢のように鮮やかですが、それも夢見ているだけで、ひとたび白昼夢から目覚めると、真実だと信じて疑わなかった世界ががらがらと崩れてなくなってしまうかもしれません。そして人はすべては真実を覆い隠す幻想だと知っておののきます……




この考え方に反論する人も多いでしょう。周囲の世界は、素粒子なるものとして現実に存在するではないか、という反論はあってしかりです。

しかし、よくよく考えればこの考え方もまたまやかしに過ぎません。素粒子レベルでは自我と他我、内と外の境というものは存在しないからです。ある素粒子が自分に属しているのか、それとも外界の一部かを知ることはできません。素粒子レベルではすべてがひとつで境界というものは存在しないのです。

つまり、我々が「自我」として認識しているものは、人(自分)が勝手につくった境界であり、意識内にしか存在しません。この自我を手放して、実はすべてがひとつという状態しかないことを認識すれば、この境界はなくなります。すなわち、「孤独」というものも存在しなくなります。

感覚器官は、心の窓です。この窓を通して自分自身を見るためのものであり、周囲の世界とか外界とか呼ぶものは、例えていえば自分の心を写す「鏡」です。この鏡のおかげで、自分自身を見つめ、認識することができます。映し出される像がない場合は、それを見せてくれます。見たいと思った自分を見せてくれるのです。

こう考えると、一見自己とは切り離された存在である「周囲の世界」は、自己認識を助けてくれるすぐれた補助材であることがわかります。そして、その補助材を見せてくれるものこそが、「感覚器官」なのです。

ところが、この鏡には自分の嫌な影の部分も映し出されるため、こうした像を見るのはからならずしも心地よいとはいえません。このため、時に外界を自分から切り離して、「これは自分とはまったく関係がないんだ」と言い切ろうとします。

これは大変危険なことです。自分の姿を外界に投影させておきながら、その映像は独立したものだと信じてしまう。このため、映像をふたたび受け止めようとしません。つまりは、自分のことを顧みなくなり、例えば他人の世話ばかりやこうとするようになります。自己というものの喪失です。この状態は病気であるといえます。

自己を認識するためには外界の投影が必要なはずですが、健康になるためには投影をふたたび自分の中に採りいれなくてはなりません。そしてこの行為こそが「感じ取る」ということです。

「感じ取る」ということは、真実を認識するということでもあります。感じ取ったもののなかに自分自身を見出せばいいのです。これを忘れると、心の窓、つまり感覚器官が徐々ににぶるので、感覚を内部に向けるほかなくなります。

感覚がきちんと機能しなくなると、内部に目を向け耳を傾けるようになります。いやでも自分自身を省みることになるのです。

自分と外界との境がわからなくなったら、感覚器官のチューンナップをしましょう。

自分を常にみつめ、内省がいつでもできるようにするためには瞑想法を試すという手もあります。手や目や耳や口を閉じ、相当する内部の感覚について沈思します。何度か練習しているうちに味覚や色や音となってあらわれます。そして「感じ取る」という感覚が戻ってくるでしょう。

さて、目です。目は感覚器官の代表ともいえるでしょう。印象を取り入れるとともに、感情や気分を伝える役割もはたします。そのため、私たちは相手の目から心を読み取ろうとします。目は心の鏡です。涙を出して心の状態を外に知らせることもあります。

目からその人の性格や個性を読み取ることもできます。目が内部のものを外に出す器官であることは、危険な目つき、人を惹きつける目つき、などからわかります。

視線を投げる、これは目が能動的になることも示します。目がないといえば、大好きという意味です。すなわち、夢中になると現実が見えなくなります。恋は盲目と言いますが、恋していると自分の姿が見えないものです。愛するものは目に入れてもいたくありません。

目の障害で多いのが近視と遠視です。近視は主観性を示します。何もかも自分のメガネを通してみる、つまり主観的に観るので、なにかが話題になるたびに自分のことを指摘されていると思ってしまいます。自分の鼻先しか見えず、自己を認識することができない状態に陥ります。

私たちは見たものを自分に結びつけて、そこから自分を知るように努めるべきですが、自分を見つめすぎ、主観性から脱却することができなければ逆効果になってしまいます。従って近視になった人は、客観性を養うことで再び視力が養われてくる……かもしれません。

しかし多くの人は、一生自分を客観視できず自分しか顧みないで過ごすため、視力が回復することはありません。

熟年の人は、たいてい遠視になります。この年齢になると人生経験に基づいて見識や遠望を磨いてきているはずです。が、それができていないから遠視になります。意固地になり、遠い将来を見据えることができなくなります。遠望を遠視という体レベルだけでしか体現できていないわけです。

このほか目の病気を持っている人は、次の質問に答えてみましょう。

見たくないものは何か?
主観性が強くて自己認識ができないのではないか?
できごとのなかに自分自身をみているか?
見たものを見解の形成に利用しているか?
ものごとの輪郭をはっきり見ることに不安を感じていないか?
ものごとをありのままに見ているか?
目を背けたいのは自分の姿のどの部分か?

さて、私のものもらいは、どれに該当するのでしょうか。よくよく考えてみれば、ものもらいは、炎症のひとつでもあります、従って目の病気というよりも上述のように心に何等かの葛藤があるのかもしれない……と思ったらはっとするものがありました。

ただ、目にできた炎症ということで、上の中にも答えがあるのに違いありません。沈思してみると、この中にも該当がありそうです。がここではそれが何かは披露しません。私自身の問題ですから、自分でしか解決できないからです。

それでも知りたい?ご想像におまかせします。



さて、ここまで述べてきたように、あなたの病気の症状は、あなたが意識化していないことを意識化できるようにいつもさまざまなメッセージを送ってくれているものです。

現在、神経痛やアレルギー、皮膚等の各症状はほとんどといっていいほど原因がよくわかっていません。わたしたちが何より知りたいのは、こうした医学だけでは解明できていない病気の原因であり、なぜそうなったかではないでしょうか。

上であげた風邪の例でも実感できることです。なぜ、風邪をひいたのか、いつのまにやら咳き込んでいるが、どこでもらったかわからない。しかしよくよく考えてみると、風邪を引いた理由が分かるような気がする。何かの現実逃避をしたかったのかもしれない……

こうして考えてくると、からだのどこかに不調を感じているその時にはあまりにも自分自身の本当の声や感情を押し込んでいるため、自分でもわからなくなっていることが多いものです。が、その原因を精神レベルでよくよく考えて紐解いてみると、案外とその症状の改善につながっていく道筋が見つかるのではないでしょうか。

「もしあなたが健康を望むのなら、あなたは病気の原因を取り除くための心の準備ができていなくてはならない。その時、はじめて、私はあなたを助けることができる」というのはピポクラテスの言葉です。

古来、多くの賢人が、自身の顕在意識より体の方が正直であり、これが実は心の病いをも表しているという意味のことを述べています。

「心の準備ができていなくてはならない」というのも、深い意味がそこにはあるように思います。病気というのは、自分たちの心から来ているものだと気づくことで、それを治すための準備を行い、その上でじっくりとこれに取り組むことで、自分自身を助けることができるのです。