箱根の坂を下れば

2014-1060080先週から、地区内の草刈、組合の理事会、自治会の秋祭り、仕入れのための横浜行き……と盛りだくさんのイベントが続き、嵐のような日々でしたが、今日はようやく少し落ち着いています。

ただ、今日は昨日ほど天気がよくなく、疲労も溜まっているかんじで、気分的にもあまりぱっとしません。こんな日は、仕事などせずに、ゆっくりすればいいのに、と自分でも思うのですが、気がつけば机に向かっています。

気分転換にどこかにぶらりと出かけたいのですが、この天気ではあまりスカッとした気分にはなれそうもなく、今のところは気乗りしません。朝方の天気予報では、晴れ間も出るといっていたのですが、いまのところ天気はよくありません。が、夕方回復したら、少し散歩でもしてみようかと思っています。

昨日の横浜行というのは、商売道具の額縁を買うためのIKEAへのドライブだったのですが、その途中に箱根の峠を越えました。標高1438mの神山を頂点とするこの箱根山は約40万年前に噴火が始まり、何度もこれを繰り返して、約25万年前に標高2,700m にも達する富士山型の成層火山になりました。

しかし、これはいわば巨大なミルフィーユケーキのようなものであり、その中身はスカスカでした。このため、その重みに耐えかね、空洞化したその山塊が約18万年前にドカンと陥没して巨大なカルデラが誕生しました。このとき周りに取り残されたのがいわゆる箱根外輪山であり、また中心部には元の成層火山の名残が残りました。

この中央部分は「中央火口丘」とも呼ばれ、現在では神山のほか、冠ヶ岳 (1409m)、箱根駒ヶ岳 (1356m)、上二子山 (1091m)、下二子山 (1065m)、早雲山 (1153m)などの峰々の集合体となっています。

昨日通過したこれらの山々はいずれも今、紅葉がまっさかりといったところであり、おそらくは今週末あたりからピークを迎えるのではないかと思われます。なので、この秋紅葉狩りをまだしていない人で、箱根を見てみたいという人はそろそろ急いだほうが良いかもしれません。

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この箱根を舞台・背景とした作品は過去にたくさん作られていますが、その中に司馬遼太郎さんの長編歴史小説で「箱根の坂」というものがあります。1982年(昭和57年)~83年に読売新聞に連載されていたもので、1984年に講談社から単行本として出版されました。

箱根の坂を越えて小田原城を攻略し、後北条氏の祖となり戦国時代の火蓋を切った北条早雲の生涯を描いたもので、このころ既に大学を卒業して社会人になっていた私は、司馬ファンでもあったことから、出版されるとすぐに購入してこれを読んでみました。

あらすじとしては、若いころにはまだ伊勢新九郎と称していた後の北条早雲は、見た目は凡庸な男で、日々仕事としていた鞍作りに精を出し、それ以上を望まず平穏な人生を願っていました。しかし、鞍を売るために日本各地を歩き回るうちに、時代の変化を敏感に嗅ぎ取り、いずれは戦乱の世の中になるに違いないと考えはじめます。

そして生来の機略を生かし、そのころ三河の領主だった今川氏に取り入って家来となり、ここで手柄を立てて小規模ながら領主となります。税を抑えるなどして民衆の信頼を得ますが、時代はやはり彼が見立てたとおり戦国の世、そして下剋上の世へと移り変わっていき、その中で彼もまた今川氏と協力しながら他国を切り取っていきます。

そして、関東に進出すべく小田原を攻めるのですが、そのとき通らなければならない大きなが壁が箱根であり、ここからは関東平野が一望に見て取れます。そしてこの峠に立ち、ここから関東制覇のための野望を誓うわけですが、この物語ではこのように箱根峠が象徴的にクローズアップされています。

で、この小説が面白かったか、と聞かれると、正直なところ、司馬さんの若いころの作品ほど、物語の展開に弾むような面白さがなく、やたらに理屈が多すぎて、物語に入り込んでいけない、というところがあったように思います。

司馬さん最晩年の作品のためか、「元気がない」といったかんじで、この作品のあとがきで「早雲が箱根の坂を越えたときは、作者も一緒に疲れた」と語っているように、ご本人もこれを書いた当時精力的に書くためのエネルギーを既に失いかけていたことをうかがわせます。

このためか、「竜馬がゆく」「関ヶ原」「坂の上の雲」のような若い頃に書かれた作品ほどの勢いが感じられないのが残念で、であるがためか、私もまた長い間この小説の主人公である北条早雲という人にはあまり興味が沸きませんでした。

ところが、ここ伊豆に越してきてからというもの、あちこちに出かけるたびに出くわす事物には北条早雲にゆかりのあるものばかりであり、例えばここからすぐ近くにある韮山には早雲が晩年まで本拠地としていた居城がありますし、今これを書いている窓の外遠くに見える城山(じょうやま)も早雲が拠点のひとつにしていた城があったようです。

史実によれば、伊豆に拠点を持った早雲は、明応4年(1495年)に箱根の山を越え、小田原の大森藤頼を討ち、藤頼の居城である小田原城を奪取しました。

大森氏は、室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方に代々仕えた一族で、もともとこの地にあった土肥氏を滅ぼして相模・伊豆に勢力を広げ繁栄していました。

小田原城を築城したのは、藤頼の祖父の大森頼春で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」が応永23年(1416年)発生した際、この乱を鎮圧した功により、箱根山一帯の支配権を与えられました。そして応永24年(1417年)頃、前領主土肥氏の拠点があった小田原に築いたのが小田原城です。

伊豆からこの小田原に至るためには熱海峠を越えて湯河原経由で向かう道が現在はありますが、この当時は険しい山道であり、このころ既に三島から、箱根カルデラを縦貫する箱根路が開かれており、こちらの方が早道でした。

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早雲は家来をこの箱根道を通って小田原に派遣し、大森藤頼にたびたび進物を贈るようになりましたが、この懐柔策により、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになりました。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しますが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れます。そしてその夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。

このとき、おびえた小田原城の人々は数万の兵が攻め寄せてきたと大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出したため、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語といえますが、後世に早雲の子孫である後北条氏の一族が編纂した「北条記」による記述であり、どこまで真実か分かりません。

実は、この早雲が小田原を攻めた1495年には明応地震が起こっており、これは南海トラフ沿いに起きた巨大地震であり、このとき発生した津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、駿河湾沿岸では10m近い津波が押し寄せました。

伊豆半島の東側や小田原においても局所的に大規模な津波が襲来していたと考えられ、早雲はこの津波に乗じて小田原城を攻めた、という話もあるようです。

これから6年のちの明応10年(1501年)の記録文書には、早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点ではもう早雲は小田原城を出城代わりに使って関東制覇を開始していたと考えられています。

が、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城としており、小田原城を後北条氏の本城とするのは、早雲の嫡男の氏綱の時代からです。

その後、早雲に追い出された元の小田原城主であった藤頼は、縁戚で三浦半島を拠点とする三浦義同の支援を受けて大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦いましたが、明応7年(1498年)に敗れて自殺したといわれています。

実はこの真田城で自殺したのは藤頼ではなく別人であり、その後も藤頼が生きていたと言う説もあるようで、大森氏の菩提寺であった静岡県小山町の乗光寺の記録では文亀3年(1503年)没とあり、これより更に5年後です。真偽のほどはわかりませんが、いずれにせよ、北条氏の台頭により小田原一帯の相模において大森氏は駆逐されました。

しかし、一族の末裔が後北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続したという記録もあり、確認はしていませんが、東京大田区の大森は、その旗本の大森家由来の土地かもしれません。

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こうして滅びた大森氏から小田原城を引き継いだ早雲ですが、その後さらに改築が重ねられ、3代当主北条氏康の時代までには難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。その後の秀吉による小田原攻めの際にもかなり長い間持ちこたえましたが、その最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。

現在の小田原高校のある八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後に秀吉によって築城される大坂城の惣構を凌いでいたそうです

しかし、その後この豊臣家を滅ぼした徳川家康は、1614年(慶長19年)、自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを取り壊し、撤去させています。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたためといわれています。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心にこの当時の遺構が残っています。

北条氏没落後、江戸時代にこの城の城主として家康に任命されたのは、大久保忠世(ただよ)でした。徳川十六神将の1人に数えられる猛将で、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられました。

天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられましたが、その後の徳川の世でも引き続き小田原の領主であることを安堵されました。

ところが、子の2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、大久保氏は一度改易の憂き目にあっています。その後、城代が置かれ、城主不在の時もありましたが、その後阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏が領主となり、その後再興された大久保氏が再び入封されました。

江戸期の中後期の小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であり、その城下町・小田原宿は東海道の沿線ということもあり、箱根の山越えのための前線基地として栄え、東海道五十三次中最大の規模を誇りました。

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その中心である小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。

明治時代の解体は、1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて行われ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。また1901年(明治34年)には、旧城内に小田原御用邸が設置され、皇族の別荘として使われるようになりました。

ところが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、この御用邸は大破し、その後廃止され、このとき現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊しましたが、12年後の1935年(昭和10年)にその一部が復興されました。

1950年(昭和25年)関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始し、と同時に小田原城址は小田原城址公園として整備され、1960年(昭和35年)には天守が鉄筋コンクリート構造によって復元されました。

現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、2006年(平成18年)に日本100名城(23番)に選定されたのをきっかけに、城址の完全復興を目指すようになりました。手始めにそれまでも行われていた東西南北の各所の門の復元ほかの修復が進められており、現在では八幡山にあった古い曲輪の復元なども計画しているようです。

昨年2013年には天守の木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立されています。RC構造を取り壊して木造とするのは相当難しそうですが、昨今旧来の木造城郭を復活させようとする動きが全国的にもあり、小田原城ももしかしたら将来的には元のままのものが復元されるかもしれません。

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一方の小田原の城下町のほうは、一時期は東京のベッドタウン化したとも言われ時代もありましたが、長期不況で人口動態が減少に転じ、一時は20万人を超えた人口も20万を割り込みました。

ただ、市が新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施した結果、少しずつ持ち直しており、駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいます。

小田原といえば、ちょうちんとかまぼこであり、このほかにも梅、オシツケ等の特産地として全国的に有名です。最近では小田原バーガーや小田原どん、スミヤキ、オリーブを売り出すなど、各種の観光開発も進んでおり、城址の再整備とともに、観光立地を目指して町の中央部を中心として美化も進んでいます。

今回は小田原の中心部には足を踏み入れませでしたが、ちょっと前に用事があって出かけたときには、街中の区画整理がずいぶんと進み、垢抜けたいい街になったな、という印象を持ちました。

小田原城は、市の南東部の海岸から500mほど内陸にありますが、その天守閣の内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっており、その標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができ、必見です。

ただ、来年7月から再来年の3月まで天守閣の耐震工事が行われるため、ここへは入館できなくなるため、注意が必要です。

秋の日の一日、箱根の山への紅葉狩りの前後にぜひ小田原にも一度立ち寄ってはいかがでしょうか。

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それからの早雲

8月の初めのころ、「早雲の夢」というタイトルで、ここ伊豆や小田原を中心に活躍した戦国武将の北条早雲の前半生について書きました(早雲の夢)。

が、その後、暑さに負けてしまい、その後半部分を書きかけてやめてしまっていたので、今日改めてその続きを書いておきたいと思います。

とはいえ、前回書いてからかなり経っているので、早雲の前半生の概略から入っていくことにしましょう。

北条早雲は、彼が死してからこう呼ばれるようになった名前です。元の名前は、伊勢盛時(いせ もりとき)といいます。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖です。伊勢宗瑞とも呼ばれますが、これは早雲が晩年出家したときの名前です。

北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動はここ静岡を初めとし、坂東と呼ばれた関東地方、ひいては日本全国を戦国時代に突入させた人物として歴史にその名を刻まれています。

が、駿河や関東の出身ではなく、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた西国の伊勢氏を出自とする考えが主流です。

最近の研究では、この伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現岡山県井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって300貫ほどの荏原荘の半分を領する領主であることがほぼ確定しています。

ちなみに、後年早雲が切り取ることとなる「坂東」という場所は奈良時代以来ずっとこの名で呼ばれてきた国々であり、14世紀中期に室町幕府が成立し、鎌倉に鎌倉公方(鎌倉府)が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国である相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国が正式にこう呼ばれるようになったものです。

その後戦国期に入るとさらに伊豆国・甲斐国を加えた10か国が「関東」と認識されるようになりましたが、ここではそれ以前の物語ということで、伊豆と甲斐を除いた地域を関東として記述するとともに、「関東管領」などの用語もあることでもあり、坂東・関東入り乱れるとややこしいので、以下ではすべて「関東」に統一して記述していきます。

応仁元年(1467年)に全国の武将たちを二分する形で応仁の乱が上方で起こり、今の静岡県の豪族、駿河守護今川義忠もまた上洛して東軍に加わりました。同じ東軍に加わっていた伊勢家はその縁で今川家と交わるようになり、早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠のところへ嫁いでくることになりました。

ところが、文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしてしまいます。

残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなりました。

今川氏の家督争いが始まったことを知った早雲は駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めました。竜王丸の母は早雲の姉(または妹)の北川殿であり、竜王丸は北条早雲の甥にあたることとになり、当然といえば当然の行動です。

同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を殺し、このとき龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して「今川氏親」を名乗り正式に今川家当主となりました。

早雲と氏親は叔父甥という関係ながらも、同じ家内にあっては主従という関係です。かつ年も離れていたわけですが、この出来事によって深い絆が生まれるようになり、その後生涯に渡ってこの二人は助け合いながら戦国の世を切り開いていくことになります。

こうして早雲はこの戦いの功により、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられるとともに、まだ若い氏親を補佐して、今川家の事実上の執権となります。

明応2年(1493年)4月、早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃しました。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国で戦国期が始まったと考えられています。

茶々丸についてはこのブログでも何度も書いてきました。

その父は足利将軍家の一族で室町幕府6代将軍足利義教の次男であった足利政知の子です。政知は坂東平定のために足利幕府から鎌倉府へ派遣されましたが、幕府と敵対状態にあった古河公方の足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、伊豆の韮山に居を構え、堀越公方と呼ばれるようになっていました。

茶々丸はこの政知の嫡男でしたが、幼いころから素行不良で、このため父の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされていました。一説には、潤童子の実母(茶々丸にとっては継母)の円満院が政知に讒言したため、父に疎まれていたという説もあります。

執事の上杉政憲は政知による茶々丸の廃嫡を諌めましたが聞き入れられず、自害させられたといいます。ですから、悪者のように言われることの多い茶々丸ですが、最初のころは案外と家来の受けはよく、公方の嫡男としては優れた資質を持っていたのかもしれません。

しかし、茶々丸の評判を著しく落としたのは、延徳3年(1491年)4月の政知死後のとき、7月に牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺したことです。これにより事実上の堀越公方になりあがりましたが、当然世間体受けする出来事ではありません。

父の死によって継母の円満院に虐待されたためとも伝えられていますが、真偽のほどはわかりません。

ところが、その後はさらにいけません。まだ若かったためか、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅するなどしたことから、旧臣の支持を一気に失い、この内紛は伊豆全土に波及していきました。

早雲はこの混乱をみて、茶々丸を伊豆から除き、今川家の覇権をこの地に伸ばそうと考え、明応2年(1493年)に伊豆へ乱入しました。このころ茶々丸は潤童子や円満院を殺した反逆者と見なされ、伊豆国内では求心力が著しく低下していたようです。

早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中を通って甲府に逃亡しました。早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めます。そして高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告しました。

また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施したため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民たちは次々と早雲に従っていきます。

一方では抵抗する下田の関戸吉信の居城である深根城を落とし、その配下を皆殺しにするなど、武威を持って力をみせつけています。しかし、それまでのこまごまと規定が多く重い税制を廃してより単純な四公六民の租税に改めるなどの改革も行っており、メリハリをつけたその采配に領民や部下たちは次々に服従を示していきました。

このため、伊豆一国はわずか30日ほどで平定されたといいます。

堀越御所から逃亡した茶々丸は、その後も武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗しました。

早雲はこれに手を焼きましたが、手なづけた伊豆の国人を味方につけて、茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)になって茶々丸が下田の深根城に逃げ込んだとき、ここを再度落として茶々丸を誅し、ようやく全伊豆の平定に成功しました。明応2年(1493年)の伊豆討ち入りから5年後のことでした。

このように伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃からは今川氏の兵を指揮して遠江(とおとうみ・静岡県西部)へ侵攻し、中遠(静岡県中部)の武将たちに示威行動を起こしています。しかし、結局早雲の生きている間には遠江の完全統治は実現しませんでした。

また今川氏はもともとは駿河や遠江国の守護でしたが、応仁の乱以降、もともと奥羽を本拠とする斯波氏に領地を分断されてこの地の多くを奪われており、今川氏と斯波氏は各地で領土を争う形となっていました。

しかし、この早雲の活動により駿河の国全土へ今川の名が知れわたるようになり、完全なる統治はされてはいないものの、この地で面と向かって今川家へ楯突いてくる豪族はいなくなりました。こうして背後を固めた早雲と氏親はさらに連携して領国を拡大していくことになります。

小田原城奪取

二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が「北条記」に書かれているそうです。二本の杉とは代々足利将軍家から関東管領の職を拝領してきた山内上杉家と扇谷上杉家のことで、鼠とは子の年生まれの早雲のことでした。

早雲が駿河の国の平定に奔走していた明応3年(1494年)、関東では、長年この関東管領を交互に拝していた山内上杉家と扇谷上杉家という二者の内部抗争が激化し(長享の乱)、このとき扇谷家の上杉定正は駿河の早雲に援軍を依頼してきました。

これを受けて早雲は関東に出兵。定正と早雲は荒川で山内家当主で、このときの関東管領上杉顕定の軍と対峙します。ところが、早雲を呼んだ定正は不運にも荒川渡河中に落馬して突然死んでしまいます。このため、依頼主を失うことで出兵の意味を失ってしまった早雲はやむをえず伊豆へ兵を返しました。

さらに、扇谷家は相模(現神奈川県)の三浦氏と大森氏からいつも厚い支援を得ていたのですが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われました。

この結果、関東における勢力バランスが崩れ、その形勢は次第に山内上杉家のほうへ傾いていくとともに、相模など南部地方に力を持っていた扇谷上杉家の勢力に陰りがみえてきました。

一方の早雲はこのころまだ甲斐に逃げ込んで抵抗を続けていた茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、茶々丸を擁護していた甲斐守護武田信縄と戦っています。

そして同年9月には、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取しました。大森氏は上述のとおり早雲を頼りにしていた上杉扇谷と友好関係にあった武将です。これを討ち取ったことなどから、この頃から既に早雲は、相模を足掛かりとして関東に進出し、そろそろ戦国の世を切り取ろうと考え始めていたことがわかります。

「北条記」によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになったといい、早雲はただ力任せの武将ではなく、策略などの智謀においても優れていたことがうかがわれます。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しました。ところが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れていました。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちます。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。

典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあります。この話もかなり芝居がかっており、実際にはそんなに簡単なものではなかったと思われます。

ちなみに、早雲はこの小田原攻めで扇谷上杉方の大森氏をだまし討ちにしたことになっていますが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏に寝返ったこと原因だったと考えられているそうです。

が、とにもかくにも早雲はこうして小田原という関東南部に拠点を持つことになり、関東攻略の足掛かりを作ることに成功しました。

こうして小田原城は後に後北条氏の本城となりますが、この後も早雲は終生、伊豆韮山城を居城としています。よほど伊豆の地が好きだったのでしょう。あるいは、周囲を敵に囲まれたこの時代にあって、背後は奥深い天城山であるこの地のほうが、平地である小田原よりも身を守るのに適していると考えていたのかもしれません。

このように早雲は伊豆韮山を拠点としながら、近隣の土地を切り取って関東攻略の機会を探っていましたが、今川氏の武将としての活動も忘れてはおらず、文亀年間(1501~1504年)には現愛知県東部の三河にまで進軍し、今川家の領地を広げようとしています。

しかし、1501年9月には、現岡崎市にあった岩付(岩津)城下で松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わってしまいました。このころ東国への進出は順調でしたが、西国にはいまだ火種を抱えているといった状況だったようです。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、さらに関東攻略のために動き出します。ただ、このころ深根城に追い込んだ茶々丸は既に死んでおり、それまでのように将軍家の逆賊を討伐するために彼を追って関東に進出するのだといった、世間への表だった名目は失っていました。

このため、この後の関東における軍事行動においては、各地の豪族の同意を得られず、関東制覇の道は険しい状況でした。

更に、早雲によって伊豆・西相模を切り取られた上杉山内家の顕定の抗反も始まり、これまでは扇谷家と親しい早雲や氏親らにどちらかといえば好意的だった、細川政元と11代将軍足利義澄が山内家に急速に接近しはじめたため、氏親・早雲の関東での政治的な立場が弱くなっていました。

細川政元は、足利氏の庶流の細川氏当主で、このころ京都では将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれていた権力者でした。幕政を牛耳り、その後も勢力を拡げましたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれてその後家臣に暗殺されています。

細川政元が上杉顕定に接近したのは、将軍家側にはこのころ関東で勢力を伸ばしつつあった早雲らを彼によって牽制する目的があったと思われ、また早雲らと親密な扇谷上杉家よりも大内上杉家のほうが関東を意のままにするためには都合が良いと思ったからでしょう。

このため早雲と氏親は、今度は前将軍であった足利義稙とその後ろ盾であった山口の大内政弘に近づき、彼等の威光を背景として相模の豪族たちを手名付けていこうとしました。

こうして、細川政元と現将軍をバックとする山内上杉家ラインと扇谷山内家と前将軍を後ろ盾とする早雲・今川氏親という二つの勢力が対峙するという構図が生まれ、時間が過ぎていきました。

が、永正元年(1504年)、ついに両者の間で衝突が起こりました。扇谷定正の甥で扇谷家当主となっていた上杉朝良と山内上杉家との間に戦闘が勃発し、当然のことながら早雲は上杉朝良に味方することになります。

この戦いは、「武蔵立河原の戦い」と呼ばれており、武蔵立河原とは、現在の東京都立川市のあたりです。この戦いで氏親と共に出陣した早雲は、山内顕定に勝利し、この成果はその後の関東進出のための大きな契機となりました。

ところが、この敗戦を受けて、上杉顕定は反撃に出ます。今度は弟で越後守護であった上杉房能と同守護代長尾能景の応援を受けて相模へ乱入し、扇谷家の諸城を攻略し始めたため、翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた上杉朝良は降伏してしまいます。

この戦いで上杉扇谷誌は上杉山内家に屈服した形となり、長年争ってきた両家の抗争は終わりを告げた形となりました。上杉家はその内部事情はともかく、表面上はひとつに統一された格好になったわけです。

このことにより、早雲はこの後、「上杉家」としてひとつに結託した山内家、扇谷家の両上杉家と敵対していくことになります。

これ以降は早雲は今川氏の武将としての活動はほとんどやめ、駿河国周辺の抗争は氏親に任せ、相模から関東中央部への進出に集中するようになります。そしてその後の戦いに備えて力を蓄えるため、永正3年(1506年)には相模で検地を初めて実施し、その支配力の強化を図っています。

永正4年(1507年)、前述のとおり、京都で管領の細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺されるという事件が勃発しました(永正の錯乱)。これは上杉家をバックアップしていた強大な権力者の没落ということで、早雲には大きな追い風となります。

同年には、越後守護の上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺されるという事件が起きており、この混乱に乗じて早雲は為景や元山内上杉家の家臣の長尾景春と結び、上杉顕定を筆頭とする関東上杉家への牽制を開始します。

長尾家は、代々山内上杉家の家宰の家柄で、景春の父の景信は上杉家の筆頭家老でしたが、父の死後、この家宰の地位を叔父の忠景が継ぐことになり、この叔父の後援者であった山内上杉家当主・上杉顕定に対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになっていました。

早雲は、越後と関東に地場を持っていた上杉家における内紛をうまく利用しようとしたわけです。

永正6年7月、関東管領であった顕定はこの越後の動乱を抑えるべく、大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は上杉扇谷家の上杉朝良の本拠地である江戸城に迫りました。

上杉朝良は早雲のかつての盟友ですが、このころには扇谷家は山内家に服従の立場ですから、このときはもう敵です。この早雲の進撃に対して上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模などの各地で戦いを繰り広げました。

早雲は権現山城(横浜市)の上田政盛を扇谷家から離反させるなどの調略を裏で行い、攻勢に出ようとしましたが、同年7月になって上杉山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出てきたため、権現山城は落城。

一方では、三浦半島に拠点を置く扇谷家の配下の三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫ってきました。この小競り合いでは早雲は手痛い敗北を喫してしまいましたが、このとき早雲は、扇谷家となんとか和睦をしてこの窮地を切り抜けました。

ところが同年6月に、長年早雲と争ってきた仇敵の上杉顕定が、越後に出陣したのち、長尾為景の逆襲を受けて敗死するという事件がおこります。さらに彼のその死後、2人の養子である顕実と憲房との間に家督相続の争いが発生し、上杉家内部には大混乱がはじまりました。

これより以前の50年ほど前、鎌倉公方であった足利成氏が幕府に叛いて反乱を起こすという事件がありましたが、このとき将軍家の命を受けた早雲の主君家の今川は成氏の陣取る鎌倉を攻めてここを取り返しました。

このときから成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、このころから古河公方は幕府方の関東管領である上杉氏と激しく戦うようになっていました。

上杉家で家督相続の混乱が生じていたちょうどこのころ、この古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こっており(永正の乱)、ようするに関東はぐちゃぐちゃの状態になっていました。

無論、この状況は関東制覇を目論む早雲にとっては願ったりかなったりの状況でした。しかし、関東へ進出するためには、三浦半島に拠点を置く扇谷家の配下の三浦氏をなんとかして除かなければなりません。

三浦氏は相模三浦氏ともいい、伊豆で源頼朝が挙兵をしたころからこれに賛同し、鎌倉幕府創立の功臣としてその後この地で絶大なる勢力を有していた名族です。が、その嫡流は執権の北条氏に滅ぼされていました。しかし、その傍流は相模の豪族として続き、とくに三浦半島を中心として大きな力を持っていました。

この頃の三浦氏は扇谷家に属し、当主は三浦義同(道寸)という人物で、相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城(または三崎城・現三浦市)を子の義意が守っていました。早雲の相模平定、ひいては関東進出のためには、どうしても滅ぼさなければならない相手です。

しかし、早雲はかつて三浦義同に小田原で敗れてしまっていました。しかし、この敗戦から徐々に体勢を立て直し、永正9年(1512年)8月には三浦義同の守る岡崎城を攻略し、義同を敗走させることができました。義同は現逗子市にある住吉城という小城に逃げ込みましたが、勢いに乗る早雲によってここも落とされ、ついには息子の義意の守る三崎城に逃げ込みました。

こうしてついに早雲は鎌倉に入ることに成功し、南関東の相模の支配権をほぼ掌握することになります。しかし、まだ三浦氏を完全に滅亡させなければ関東へは進出できません。

この戦い後、上杉朝良の甥の扇谷朝興が三崎城に逃げ込んだ三浦義同を救援するために江戸城から駆けつけましたが、早雲はこれを撃破しています。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築きました。

義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えましたがが、次第に圧迫され、その後は三浦半島に封じ込められて出て来れなくなってしまいます。上杉家や扇谷家も関東から次々と救援の兵を送りますが、早雲によってことごとく撃退されたため、三浦親子は完全に孤立した状態となりました。

永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めてきましたが、早雲はこれを打ち破り、その勢いを買って義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せます。三崎城は堅城で、なかなか落とすのには苦労しましたが、激戦の末にとうとう落城し、このとき義同・義意父子は討ち死に、ここに名族三浦氏はついに滅びました。

こうして早雲はついに相模全域を平定し、この地を完全掌握するとともに、悲願であった関東進出に乗り出します。

まず、早雲は上総(現房総半島北部)の真里谷武田氏を支援するため、房総半島に渡りました。そして、ここを拠点として、翌永正14年(1517年)まで関東各地を転戦しはじめました。

しかし、この頃にはもうすでに早雲は最晩年でした。享年は64または88と諸説ありますが、その寿命が尽きる前年の永正15年(1518年)には、何等かの病を得ていたためか、家督を嫡男氏綱に譲っています。

そして、翌永正16年(1519年)に死去しました。家督を継いだ嫡男の氏綱は2年後に菩提寺として神奈川県箱根町に早雲寺を創建させました。

この早雲の年齢については諸説あると書きましたが、江戸時代のころから、永享4年(1432年)生まれで、享年88と信じられてきました。

しかし、これは当時としては非常に長命です。もしこれが本当だとすると、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのは60歳を過ぎてからとなり、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っていたことになります。

このため、この享年88歳説に疑問を呈する研究者も多く、これらの研究者のひとりが、この説は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことなどを明らかにしました。

このため、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとする意見が出るようになり、これだと享年は64歳ということになります。

が、この説については未だ検討中の段階だそうで、依然として昔のままの享年88説を採る研究者もいるようです。

早雲以外の歴史上の武将で長生きした人の中には、戦国時代の武将で出雲守護代だった尼子経久のように享年が84であったことがはっきりわかっている人もおり、また武田信玄の父、武田信虎(享年81)なども80代まで生きています。

さらに肥前熊本の戦国大名、龍造寺家兼のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例もあるため、早雲が88歳で死んだというのもあながちありえない話ではないかもしれません。

ところで、早雲の盟友であった、今川氏親は、支援していた足利義稙が周防国の大内義興の支援を得て第12代将軍に復帰すると、早雲の死去する6年前の永正10年(1513年)に、正式に幕府と将軍家から現浜松を中心とする静岡西部の遠江(とおとうみ)守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得ました。

ところが隣国の尾張守護の斯波義達は今川家に反抗的であり、このため斯波氏との間にしばしば戦闘が勃発し、さらに引馬城(現在の浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、斯波義達に加勢したため戦闘はさらに激しさを増しました。

しかし、氏親は出陣して引馬城を包囲して、水攻めによって引馬城を降伏させ、このとき貞綱は討ち死にしました。さらに斯波義達とも刃を交えた結果義達は敗走し、のちに出家して降伏。これにより、遠江は氏親によって完全に平定されました。

また、甲斐の武田信虎と争い、のちに甲駿同盟が成立するまで、たびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立を続けました。が、その一方では氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために早雲の立案による検地を実施し、また現・静岡県静岡市葵区にあった安倍金山を開発して財力を増しました。

しかし、早雲の死から7年後の大永6年(1526年)、氏親もまた駿府の今川館で息を引き取りました。氏親の葬儀は今も葵区に残る増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加して盛大に執り行われたといいます。

氏親の奥さんは、公家出身の寿桂尼と言う人で、こうした都人との結婚によって京とのつながりが強まったことで、京の文化が駿府に取り入れられるようになりました。氏親自身も和歌と連歌を特に好んだといいます。

これまで記述してきたように、早雲は領国支配の強化を積極的に進め、関東地方に進出してここを動乱の渦に巻き込むことで、日本を戦国時代に突入させた大名であり、野心的かつ好戦的な人物と目されることも多いようです。

しかし、その一方では、のちに「早雲寺殿廿一箇条」という家法を定めるなどして一族を厳しく統制し、また領土の整備においても「分国法」という規律を作り、これはその後の江戸時代にまで残る法律の祖形となりました。

分国法とは、そもそも何もこうした領地に関する規定のなかった戦国時代において、戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法令です。

分国とは中世における一国単位の知行権、すなわち領主が行使した所領支配権を指す語であり、分国法はその支配のためのルールといえ、これにより、領国内を統治するために基本的な法令の基礎が形づくられました。この法律はその後各地の守護大名に真似され、戦国期を経て一国単位の領国化が進む中、日本各地において分国支配が形成されていきました。

各分国の大名は、領国内の武士・領民を規制するために分国法を定め、これが規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがあり、これらはいずれも江戸時代にまで残る基本的な国づくりの仕組みの祖となりました。

ちなみに、早雲の盟友だった今川氏親は、晩年は中風にかかって寝たきりになり、その妻の寿桂尼が政治を補佐していましたが、その死の2ヶ月前に遠江国の分国法である「今川仮名目録」を急いで制定しています。その制定が急がれたのは、嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的もあったためともいわれています。

早雲も自らの所領で分国法を制定し、永正3年(1506年)に小田原周辺で行った検地はこの法によるものであり、さらにその後はこの分国法に基づいて在地領主に土地面積・年貢量を申告させています。早雲が行った検地は、戦国大名による検地としては最古の事例とされています。

なお、早雲は死の前年から伊勢氏の印判として、虎の印判状を用いるようになっており、これは後年の後北条氏においても継承されています。

印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられましたが、このしきたりもまた、分国法の一部であり、江戸時代まで受け継がれていったもののひとつです。

さて、早雲の死後、その志を継いだ嫡男の氏綱は、北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大し、以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになります。

そのことについても今日も引き続き書いて行こうかと思いましたが、さらにまた長くなりそうなので、ここいらでやめておきましょう。

明日は雨模様の天気が回復し、好天が戻ってきそうです。そろそろ伊豆の紅葉も深まりつつあります。みなさんも伊豆へお越しください。