空海のいない風景


沖縄が梅雨に入ったそうです。関東甲信越地方が梅雨に入るのはだいたい毎年約一カ月後。もうすぐまたあの雨の季節か~とも思いますが、この自然豊かな修善寺にいれば、雨音を聞いて過ごす日々もまた楽しかな……です。去年の今ごろにも同じことを書いたような気がします。

さて、先日、奥の院へ行こうとタエさんと散歩がてら出かけたものの、その道のりのあまりの遠さに断念したことを書きました。悔しかったので、そのリベンジにと今度はクルマで出かけてきました。

修禅寺の奥の院(正覚院)は、791年(延暦10年)に弘法大師こと空海が修行をしたという山奥にあるお寺で、「奥の院」の名の通り、ふもとの修禅寺からは5kmほど東へ離れた山の中にあります。

修禅寺の温泉街からのその導路は、湯船川沿いにあって別名「いろは道」といい、周囲をひなびた田園風景が広がる小道を春ならば新緑、秋ならば彼岸花やコスモスを眺めながら歩くことができます。

先日は、これをタエさんと途中までのんびりと40分以上もかけて歩きましたが、今回はクルマなので、温泉街から10分ほどで「奥の院」の看板を見つけることができました。

入口には山門などは特になく、お寺なのに、なぜか石鳥居があります。ただ、通常の鳥居ではなく、一番上の梁がない独特のものです。その昔の修禅寺の宗派は真言宗(現在は曹洞宗)なので、密教ではこうした聖地で普通に架ける形式なのかもしれません。

鳥居越しには、その向こうにかなり急な石段見えます。50段ほど登ると、そこには真正面に小さな滝のある広場があり、右手には、大師が修行したといわれる修行石があります。傍らに「弘法大師降魔壇」(こうまだん)という石標とたくさんの石仏が建てられています。

この滝を囲む岩壁の辺り一帯が「奥の院」と呼ばれている場所であり、「奥の院」とは、そもそも寺社の本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭られている場所です。その通り、その昔この場所には、江戸末期に建てられた護摩堂があったとうことですが、昭和36年に台風で倒壊し今では礎石のみになっています。

空海がここで修業をしたときには、まだ18歳だったといい、ここには「馳籠の窟(かりごめのいわや)」という岩洞があったそうです。今はもう岩孔は埋まってしまっているようです。

この洞窟があったとされる岩壁に上から流れ落ちる滝は「阿吽の滝」と呼ばれています。現在は滝に打たれて修業をする、というほどの水量はありませんが、空海が修業したという1300年ほど昔はもっと水量があったのかもしれません。

水の量が今よりも多かったころにはおそらく、修験道の場所としてにぎわったのでしょうが、現在は修験者もあまり入っていないようで、観光客もあまり訪れるところではありません。我々が行ったときにも、老夫婦が二人とハイカーらしい年配の女性が一人いらっしゃるだけでした。

さらにこの場所から、山奥へ分け入ったところには、空海が別の修験場所として良く使っていたという場所があり、空海がこの土地を去るときに「手植え」したという桂の大木があるそうです。

事実だとすると、空海の時代より既に1000年以上経っていることから、それだけの樹齢になるはずで、実際にもかなり大きな木のようです。が、この日の気分は「楽して見物」だったので、我々二人は無論、ここまでは行っていません。また、お天気の良い日に、ハイキングがてら行ってみたいと思います。

空海はこの山奥に分け入った奥の院を気に入り、修行の適地と考えて選んだということですが、実際に座禅を組んでみると、この地にあったたくさんの天魔やら地の妖怪が現れ、修行の邪魔をしたそうです。また、この妖怪たちは、空海だけでなく、地元の住民の前にもたびたび現れて悪さをしたということです。

このため、これを退治しようと空海が「大般若波羅蜜多経」という仏教の基礎的教義が書かれている経典を空中に向かって指でシャシャシャーッと書いたところ、金色の経文が突如中空に現れ、そこら中にいた魔物たちは、たちまちその功徳に魔力を押し込められ、馳籠の窟に向かって吸い込まれていったとか……。

……無論言い伝えにすぎず、本当にそんなことがあったのかどうかはわかりません。ただ、私は霊感のあるほうなので、タエさんに聞かれるまま、周囲の「気」をそれとなく感じてみました。

すると……とくに悪い気はないようであり、とはいえ、特段良い気が流れているわけでもなく、むしろまるで「気が感じられない」という不思議な空間でした。

普通は森のにおいやら水の臭いなどのその場特有の環境がその空間を形造っているものなのですが、まるでそういう五感を刺激するようなものがなく、ただ単に景色が見えるだけ……というのでしょうか、今まで経験のしたことのないかんじです。

以前、京都の鞍馬寺に行ったときには、境内一帯に紛れもないパワーを感じたのですが、ここはそういうかんじでもなく、なにやら異次元空間のようなかんじ。これをパワーというのかどうか、また空海が実際にここで修業したためにそういう気ができたのかどうかはわかりませんが、何等かの不思議な力を持っている場所のようです。

ただ、史料によれば791年(延暦10年)にこの地で修業を始めたという18歳の空海(この当時の幼名は佐伯真魚(まな)でしたが)は、実際にはその2年ほど前から3年間にわたって、空海の母方のおじにあたる阿刀大足(あとのおおたり)の弟子として京で学んでいるはずです。そして、この年には官僚候補生を育成する大学寮に入っています。

この大学寮では勉学に限界を感じ、その後、吉野の金峯山や郷里の四国の石鎚山など修験道の聖地で修行をするなどしていますが、それ以外に畿内を離れてどこかにいたという記録はなく、従って18歳のときに、京都からも遠く離れた伊豆で修行をしているというのは、いかにも無理があります。

麓にある、修禅寺もまた、空海が2年間の唐での留学を終えて帰国したとされる806年(大同元年)の翌年にあたる807年(大同2年)に創建したと伝えられています。

しかし、福岡の大宰府に帰着した空海は、20年の予定留学期間をたった2年で切り上げ帰国したため、当時の規定により闕期(けつご)という罪を与えられています。

「闕」とは「欠ける」という意味であり、朝廷の命をもって20年間の勉学機関を与えたのに、勝手にそれを破って帰国したのは許しがたい、というわけですが、重罪というわけではなく、単に謹慎という程度の罪だったでしょう。

とはいえ、帰国した空海にはすぐには入京の許しが出ず、このため数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたといい、大同2年より2年ほどの間、つまり809年までは大宰府にある観世音寺に止住させられています。

この間、空海は唐から持ち帰った経典や曼荼羅などの整理に追われていたはずであり、また個人の法要も引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたといいますから、そんな多忙な合間を縫って、伊豆くんだりまでやってきてお寺を創建できるはずがありません。

ここ修善寺にはこのほかにも空海ゆかりとされるお寺があります。修禅寺から5kmほど行った発端丈山という山の中腹にある、高野山真言宗の「益山寺(ますやまでら)」というのがそれです。このお寺もまた、806年(延暦25年)の創建とされ、空海が創建し、本尊の千手千眼観音菩薩を刻んだとされています。

しかし、806年は空海が唐から帰って大宰府に帰着した年であり、これもまたありえない話です。ただ、益山寺にも伊豆でも屈指の巨樹(樹齢約860年の楓と400年の銀杏)があるということであり、修善寺同様、この地に古くからある由緒正しい?お寺であることには間違いありません。

空海はその後許され、809年(大同4年)に入京。京都市右京区にあった高雄山寺(後の神護寺)に入りました。その後、嵯峨天皇の命などにより鎮護国家のための大祈祷などを行い、現長岡京市にある乙訓寺の別当などを務めながら、新教団設立の準備を進め、812年(弘仁3年)、高雄山寺にて「金剛界結縁灌頂」を開壇。

この儀式は仏の世界を表す曼荼羅に向かってお経をあげるものだそうで、仏と縁を結ぶ、すなわち「結縁」することで信者の心の中の仏心と智慧を導き開くというものらしいです。

このときの入壇者には、空海と並ぶ高僧として名高い最澄も含まれており、その弟子の円澄、光定、泰範のほか190名にものぼったといい、この時点で空海は日本の仏教界の頂点に上り詰めまたといってよいでしょう。

その6年後の、815年(弘仁6年)には、現福島県の会津や現栃木県の下野(しもつけ)などに在住の東国の有力僧侶の元へ弟子を派遣し、密教経典の書写を依頼したという記録が残っており、もしかするとこのころ、伊豆などの東方在住の僧侶などにも写経依頼を行っていたかもしれません。

ただ、いずれにせよ、修善寺や奥の院、益山寺の創建年とはかなりのずれがあり、しかも空海自らがこの地に足を運んだという記録はありません。

その後、空海は816年(弘仁7年)に、現在までの高野山真言宗のメッカとなっている高野山を修禅の道場として下賜してもらうことを朝廷に依頼し、同年この下賜の旨の勅許をえています。翌817年、弟子の泰範や実恵らを派遣して高野山の開創に着手し、818年(弘仁9年)には、空海自らが勅許後はじめて高野山に登りました。

819年(弘仁10年)には七里四方に結界を結び、この高野山の地に伽藍建立に着手。完成した伽藍の中で、その後の日本における仏教界のバイブルともいうべき「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などの有名仏典を立て続けに執筆しています。

その二年後の821年(弘仁12年)ころには生国である讃岐の国(現香川県)に帰り、かの有名な、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮しています。空海の日本国内での修業地は畿内のほかには、四国内が多かったようであり、とくに生地の讃岐には頻繁に帰っており、「地元」の名士として人々のために色々尽したようです。

この満濃池の堤防も、水不足に悩む地元の農民のために空海が指導して造られたものといわれています。アーチ型の堤防はこの当時の最新工法であり、現在でも通用する技術です。

日本最大の農業用ため池であり、今でも現役の農業用灌漑池として使われています。周囲約20km、貯水量1,540万tを誇り、2000年(平成12年)にはその一部構造の「満濃池樋門」が国の登録有形文化財(建造物)に登録され、2005年には、ダム湖百選にも選定されています。

823年(弘仁14年)に空海は朝廷から東寺を賜って真言密教の道場とし、ここに現在に至るまでの真言宗の系譜の礎がほぼ確立されました。そしてこれよりのちは、それまでにあった天台宗の密教を「台密」、対してこの新しい東寺の密教を「東密」と呼ぶようになりました。

「密教」というのは、その名の通り、もともとは「秘密の教え」を意味する用語です。インドを発祥の地とし、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部の中国などにかけて信仰されてきた仏教の分派、これを「大乗仏教」といいますが、その中の「秘密教」のひとつとして布教されてきました。

現在、日本の伝統的な密教の宗派としては、空海が唐で学んで持ち帰り、「真言密教」として体系付けた「真言宗」と、同じく唐で学んで帰ってきた最澄によって創始され、その弟子の円仁、円珍、安然らによって完成された「日本密教(日本天台宗)」のふたつがあります。

真言宗のほうは、即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしており、「密教専修」つまり、唐から持ち帰ったオリジナルの秘密教に忠実であるのに対し、天台宗ではこれに日本の古来からの仏教テーマを加えた、天台・密教・戒律・禅の四つのテーマを根本としている点などが異なっています。

この密教を日本の公の場において初めて紹介したのは、空海よりも先に唐へ留学して帰国した最澄でした。

しかし、最澄は、密教についてはあまり深い勉強を積むことができず、このため、唐から持ち帰った密教を天台教学とうまく融合させて完成度の高いものにすることができませんでした。これがこうした教義には目の肥えていたこの当時の皇族や貴族の興味を惹きつけることができなかった理由のひとつです。

彼らはあの世での浄化を説く天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教や、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せており、こうしたところに、唐における密教の拠点であった青龍寺で本格的に密教を修業した空海が帰国したのです。

前述のとおり、空海は20年の留学の予定をかなり早めて帰国したため朝廷の不興を買って大宰府に留め置かれました。ところが、その後入京が実現したのは、空海が登場するまでは仏教界における最大の実力者であったこの最澄の尽力や支援があったからだといわれています。

その後、2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、その最新かつ深い知識を持ち帰った空海のほうを最澄が敬い、本来は自らが先輩ながら空海に対しては弟子としての礼を取っていました。

しかし、やがてその教義の違いもあり、その仲は壊れていきました。

本場中国の密教を持ち帰り、そのきらびやかな世界に魅了された皇族や貴族の人気は空海に集中したため、これを最澄が嫉妬したともいわれ、また、最澄の愛弟子の泰範が師匠を捨てて空海の下へ走ったことなどから、二人は徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には完全に訣別しています。

この訣別に関しては、空海が唐から持ち帰って経典を借覧させてくれと要請したのに対し、空海が秘密だからと、これを拒絶した、というまことしやかな話も残っているようです。

空海が朝廷から東寺を下賜され、ここを真言密教の道場として真言宗が確立されたのちは、最澄の主唱する天台密教を台密、空海の東寺の密教を東密と呼ぶようになったのは前述のとおりです。

これらの日本の密教は、その後霊山を神として神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなりました。現在神の山として崇められている富士山もその昔は仏の山であったことを以前このブログでも書きましたが、これもまた空海らが持ち込んだ密教の影響といえます。

現在でも富士山周辺にある寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には、この台密と東密の両方の要素や浄土信仰の影響が認められるということです。

真言密教を確立した空海は、その後、828年(天長5年)には、東寺の東にあった藤原三守(ただのり)というお公家さんの私邸を譲り受け、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しています。

この当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったにも関わらず、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったといい、空海という人は教育の分野においても開明的な人だったことがわかります。

しかし、831年(天長8年)には、病(悪瘡)を得たといわれ、その後は一線から退いて高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。が、ときおり宮中の重要な儀式には参加していました。

そのひとつに、後七日御修法(ごしちにちみしほ)と呼ばれるものがあり、これは国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)などを祈る行事です。

835年(承和2年)に空海がこの行事を行って以降、毎年宮中の恒例行事として正月に行われるようになり、この御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、場所を宮中から東寺に移して、現在でも毎年行われているということです。

しかし、この行事が正月に行われたあとおよそ二か月後の3月には高野山で弟子達に遺告を与えており、そしてこの月21日に入滅。享年は60歳だったと記録されています。

空海の十大弟子の一人だった真済(しんぜい)が書き記した「空海僧都伝」によると、死因は「病死」とだけ書かれており、「続日本後紀」によれば遺体は火葬された(荼毘に付された)と書かれています。

その死の4年前には既に病を得ていた空海ですが、その晩年は文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化することに傾力していたようです。

とくに834年(承和元年)の12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法の準備に心血を注ぎ、その修法を書き残すとともに、また自らが開いた金剛峯寺を定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)にするための運動も行うなどの密度の濃い活動を行っていました。

死後、荼毘に付されたということなのですが、すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入り、即身仏になったという話もあり、その死のあたりから、色々な伝説が残されるようになります。

修禅寺のような古寺の開基や、奥の院での若きころの修業といった伝承などもそのひとつですが、このほかにも、その修業の際にいろんな「奇跡」を各地で起こしたことになっていき、手にもった鉾で地面を叩いたところ湯が湧き出したという類のいわゆる、「開湯伝説」などもそうしたものです。

その内容は温泉地により異なり、また温泉によっては複数の伝説が存在する温泉もあり、歴史が古い温泉では、必ずしも空海がその開祖というわけではありませんが、たいていは、こうした開湯伝説が存在します。

修禅寺温泉も空海が開祖となっている温泉のひとつなのですが、これ以外にも「弘法大師作」なる温泉は日本各地にあり、最北の山形県のあつみ温泉から一番南では熊本県に杖立温泉があり、その総数は二十有余にもなります。

空海と同じように温泉を発見したとされる数で多いのが「行基」です。空海よりも85年ほども前の749年(天平21年)に亡くなっており、彼が活躍した時代はまだ奈良時代といわれる時代です。

このころはまだ僧侶は国家機関のエージェントであると朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代であり、この禁を破って畿内を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、このことにより人々より篤く崇敬されました。

また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等を設立したといわれ、数々の社会事業を各地で成し遂げています。

この点、満濃池などを民衆のために造り、教育機関や多くの寺を建立するなどの数多くの公共事業を手掛け、その徳によって民衆に愛された空海とよく似ています。

東大寺大仏造立にも関わったともいわれ、この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされており、その作成のために日本全国を歩き回り、その際に橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったようです。全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在しており、彼によって開かれたとされる温泉が多いのもうなずけます。

空海が開祖であるとされるものほど多くはありませんが、それでも全国で18ほど行基が見つけたとされる温泉場があり、その中にはかの有名な草津温泉(群馬県)や、石川県の山代温泉、山中温泉なども含まれます。

おそらくは生涯、畿内から東へはほとんど行ったことがないと考えられる空海に比べると、全国を歩き回っているだけにずっと信憑性が高く、だからといってその価値がより高いというわけでもないのですが、我が修善寺温泉のように、「ありっこない」伝承をもとに弘法大師が見つけた、と開き直っているよりは少しマシな感じがします。

ただ、空海(弘法大師)による開湯伝説の場合、彼が開いた高野山からやがて「高野聖」と呼ばれた修行僧が諸地方に出向いており、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行ったこれらの僧侶たちが、それぞれの地で温泉を開いたのではないかとも考えられています。

僧侶とはいいながら、いわゆる山師的な坊主たちが、温泉を探り当てて儲けようとした際に教祖たる空海の名を借用したと思われ、このため、まるっきり空海とは関係ないとばかりもいえません。

また、仏教の教えの中には人身の健康にも通じている部分もあり、このため高野聖などの僧侶の中には、医薬にも精通していた者が多く、湯治の場として温泉を勧めた僧もいたといいます。

そして、温泉により傷や病が癒えたことで、御利益があったとみなされるようになり、温泉信仰と仏教信仰が直結するようになった、つまりは信仰色が強い湯治場などでは、これをみつけた僧侶がここでその効用を勧めて檀家を多く持つようになり、彼らによってお寺が勧進されたところも多かったのだと思われます。

修善寺温泉にも修禅寺があり、温泉とこのお寺さんの関係が密接であることからその典型例といっても良いでしょう。

温泉の効能や効果を世に広く謳うためには、温泉療養に関連性の強い、著名な僧侶を引き合いに出すと良い宣伝になります。とりわけその中でも高名な空海や行基のような庶民に人気のあった人物を引き合いに出せば、その宣伝効果もより高くなるというわけです。

僧侶ばかりではなく、ほかにも平安時代の武将、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が発見したという温泉も多く、これも全国に10湯ほどのものがあります。

さらには、鳥や獣によって温泉が見つかったというのも多いようです。調べてみると、下呂温泉や、山中温泉、道後温泉などのシラサギ、城崎温泉(きのさきおんせん)のコウノトリや、山口の湯田温泉の白キツネなどがあります。

このほかにも、三朝温泉(みささおんせん)の白狼などといったものもあり、鹿(山鹿温泉など)と猿(俵山温泉など)は全国どこにもいる動物のためか、至るところにこれらの動物がみつけたという温泉があります。

動物が湯に浸かっているのを見た古人が温泉であることを発見したものとしては、「白い」動物にちなむものが多いようで、中には、「お告げ」に近い伝説もあり、白い動物が多いのも温泉信仰と直結させやすいためである場合が多いようです。

しかし、動物が発見したという部分自体がまったくのフィクションの場合も数多くあるようで、実際は鳥獣たちが発見したのではなく、それが温泉だと発見したのはそれを目撃した猟師や樵夫(きこり)などである場合のほうが多いのではないでしょうか。

ただ、こうした動物の中には、本能的に水浴びなどをすることで、体の汚れを落とし、疲れを癒す習性をもつものがあり、鳥などはその代表例です。自然に湧出したいで湯もまた、その一環として利用されていたに過ぎず、実際に浸かってみて、あぁ~いい塩梅だ~と鳥が思うわけはありません。

が、あえてシラサギが入っていたよ!きっと効能があるに違いないよ!とそれを敢えて喧伝することで、温泉の効能は説得しやすくなり、また親しみやすさもより増していきます。

その証拠に、こうした鳥や獣が発見したという伝説では、決まって「外傷を癒した」という文句だけが印象づけられています。

鹿や猿が胃腸病や関節痛を治した、なんてのは、目で見て実際に確認できるわけはなく、本当に動物がそれを癒しているかも分かりませんが、外傷が治ったというのであれば、これはもしかしたらホントかもしれない、と誰もが思い、治療に効くと説得しやすいというわけです。

もしも本当に鳥や獣がいで湯に浸かっていたとしても、それは必ずしも外傷の治療とは限らず、前述のように単に体の汚れを落としたいという本能だったのかもしれません。たまたま水場としていたのが温泉水だったにすぎないなどというのも多いと考えられます……

……さてさて、何を書いているのかよくわからなくなってきました。「開湯伝説」というものには根拠がないものが多い、ということを書きたかったのかもしれませんが、それを否定したところで、私には一文の得にもなりませんので、奥の院や修禅寺温泉を空海が開いたかどうかについての議論はここらでやめるとしましょう。

ただ、最後に一つだけ観光情報を付け加えておきましょう。

この奥の院では毎年12月の冬至のころ、22日前後に、一年の厄を払い新年の幸せを祈る「星まつり」が行われるそうです。

修禅寺からお坊さんがやってきて、護摩を焚き、この煙に当ると家内安全の願いが叶うとされており、この「星まつり」もまた、本来は真言密教に伝わる行事だそうです。奥の院、すなわち正覚院は500年前に修禅寺とともに曹洞宗に改宗されていますが、弘法大師の偉業を伝える儀式として宗派を越え、現在に受け継がれているということです。

ちなみに益山寺では修善寺奥の院より少し遅れて1月の第3土・日曜に「星祭」と名前は少し違いますが、やはり星のお祭りをやるようです。

弘法大師が開祖したかどうかはどうでもよいこと。家内安全の願いがかなうなら、こうしたお祭りにもまた出かけてみようかという気にもなります。年末年始のころ、また奥の院に行くことがあれば、またその様子をレポートしてみましょう。

総括!

一年前の今日、我々はここ修善寺に引っ越してきました。あれからもう一年…… 長かったような、短かったような……とは、よく使われるフレーズですが、実際のところは、その中間……といったところでしょうか。

過ぎ去った一年で細かいところは思い出すものの、断片的な記憶が多く、じゃあその間に何をしていたか、というところが抜け落ちているのは何故でしょう。

齢を重ねた……というところがその理由の最たるものなのかもしれません。歳をとると細かいことをあまり気にしなくなるといいますから。

が、逆に細かいことを覚えていられなくなってるんだろう、といわれると、汗……というかんじです。そういえば最近、固有名詞が覚えられなくて……というか、覚えるのが面倒くさくて、テレビに出てくる女優さんとかで似たようなタイプのお顔をみると、みんな同じ名前しか思い浮かびません。

新垣結衣さんと戸田恵梨香さんが、どうしても同じにみえてしかたがなかったのですが、最近ようやく見分けがつくようになり、これを言い当てると、タエさんから、ハイ、よくできました~といわれます。

深田恭子さんと田中麗奈さんの見分けがつくようになったのもごく最近ですし……

もしかしたら、人やらモノやらの見分けがつかなくなるという、あの病気か!?とも思うのですが、こうしてブログもちゃんと書いていられるし、とりあえずここがどこだかであるかも認知しているつもりなので、今のところは大丈夫でしょう……たぶん……

さて、引越し一周年ということなのですが、今日は奇しくも東日本大震災があったその日です。なのであまりおちゃらけたことばかりを書いているわけにもいきません。今も苦しんでいらっしゃる方が大勢いることを考えると、こうして伊豆に落ちていていられること自体を感謝しなければなりません。

とはいえ、今日はあまり重い記事を書きたくはないので、この一年を振り返っての総括ということで、ここ修善寺という場所がどういうところなのか、もう一度検証してみようと思います。

立地

まず立地です。三島まで東京から高速で約二時間。三島からは約30分ですから、二時間半で都内へ出ることができる、という立地はけっして僻地……という感覚はありません。駿豆線を使えば主要幹線である東海道線まで30分で行けますし、三島には新幹線も止まります。

また、料金は高めで本数は少ないものの、ここからは修善寺駅までバスも出ていて、万一クルマを運転できなくなっても、一応暮らしていくことはできそうです。

近隣にある大きな町は、三島、沼津、伊東ですが、三島・沼津はほぼ同じ都市圏といってよく、東京で言うと、八王子と町田といったところ。

無論、市域の広さはぜんぜん違いますが、それぞれの商圏が競合を避けるために、似たような街づくりになるのを避ける傾向にあり、このため、三島と沼津それぞれで様々なバリエーションの異なった種類の店舗があるということは利用者にとってはありがたいことです。

この点、静岡中部にある、旧静岡市と清水市も似たような傾向があり、さらに西端の浜松もそのすぐ西にある豊橋と切磋琢磨しながらそれぞれ独自の商圏を確立しています。さらに東に目を向けると、熱海と小田原がありますが、この両者の形態もこれにやや近いのではないでしょうか。

こうした東海道沿いの中規模都市へ行くためにはそれなりに時間はかかるものの、ちょっとお買いものを楽しみたいとか、ちょっと気分を変えたいときには、そこへ行けばいいさ、というお手軽な距離にあります。

ただ、六本木や西麻布といったおしゃれな街……ということになるとなかなかこれに該当するものがなく、また新宿や日本橋のようにありとあらゆるものがそこで手に入るという場所が近くにないのはやはり、不便といえば不便。

例えば私の場合は写真をやるので、そのための特殊な必要機材が必要になる場合もあるのですが、ちょっとそれを買いに行って……というのができず、ネットで取り寄せるにも時間がかかるので、しかたなく別のもので間に合わせ……ということが、これまでにも何回かありました。

が、まあそれも時間をかけて取り寄せれば済む話であるし、また本当にどうしても必要ならば一番近い大都市である横浜までは2時間もあれば行くことができます。

それを考えると、ここ伊豆に引っ越してくる前の候補地であった、飯田や伊那といった長野県ではそうはいきません。名古屋まで3時間以上、東京となると4時間は覚悟しなくてはならないでしょう。

以上から、交通の便、立地という点では、ここ修善寺を選んだのはまずまずといってよいのではないかと思っています。

気候

次いで気候。これは人それぞれでしょう。雪が好きな人はもっと寒い東北方面へ行くでしょうし、海が好きな人は瀬戸内海や九州へ、山の好きな人は長野や山梨、広い大地を望む人は北海道と、選択肢はゴマンとあります。

我々が伊豆を選んだ理由は気候とかではなく、広島の霊能者Sさんのアドバイスによるものだったというのは、このブログの初期のころのものにも書きました。当初長野や山梨などの「夏が涼しいところ」への移住を考えており、最終的には伊那に決めかけていた我々に、そこはやめた方が良い、南西方向がいいだろう、と言ってくれたのがSさんでした。

そもそもは二人とも暑い夏が苦手で、できるだけ涼しいところということで移住先を探していたのですが、結果としては、Sさんのアドバイスに従い、雪などにはほとんど縁のなさそうな、夏もけっして涼しくないのではないかと思われる地域を選ぶことになりました。

が、所詮は温暖といわれる静岡です。けっしてそれほど涼しくはないだろう、という予想でしたが、その予想は大幅に裏切られ、実際には猛暑と言われた昨年でさえ、ここへ来てからはクーラーをつけることがほとんどなく、これは本当にありがたい誤算でした。

結果としては、Sさんのアドバイスが正しかったわけであり、これには今でも本当に感謝しています。

確かに日中は暑い日も多いのは確かなのですが、伊豆にあっても標高200mを超えるこの場所では気温が30°を超えることはほとんどなく、また夕方から夜にかけては急激に気温が下がり、真夏でも朝方などは毛布がなくては寝れないこともあるほどです。

ここに落ち着く前にみた伊豆の別の物件の中にはそれほど標高も高くないところもあり、こうした場所を選んでいたらこの評価もまた別のものになっていたかもしれません。

逆にもっと涼しそうなところもあり、それは例えば伊豆中南部に位置する天城高原などですが、ここは逆に冬の寒さもさることながら、雨が多く、おそらくはここに住んでいたら湿気対策が大変ではなかったかと思われます。加えて天城は交通の便が悪く、前述のような東海道筋の都市へ出るのは一日がかりになります。

そこに生活する、ということを考えたとき、交通の便と気候はもっとも重要な要素だと思います。これらの点から考えるとこの要素を満たすのは、伊東もしくは修善寺から伊東にかけての伊豆スカイライン周辺、あとは函南町あたりにかけての一帯ではないでしょうか。

そして気候と交通という二大要素を考えた上での伊豆でのベストポジションはやはり修善寺だと思います。

生活の便と環境

生活の便ということを考えたときに、日常の買い物をどこでするか、ということも大切なポイントです。この点、三島や沼津を除けば、大仁は伊豆の中でももっとも便利な町です。町自体はそれほど大きいわけではないのですが、大型のモールやスーパーが何軒もあり、またホームセンターもふたつあります。

食事どころもいわゆるファミリーレストランの主要なものが林立しており、このほかブックオフや、洋服の青山といった、都内の中堅都市の中心部で見られるような店舗のほとんどがこの大仁に集中しています。

伊豆のあちこちにある別荘地の人達も、平時の買い物はだいたい大仁まで出かけてきて済ませるようです。

もっとも我々も、これら大仁にある施設すべてを日常的にすべて利用しているかというとそうではなく、それぞれに行くのはごくたまに、です。

が、こうした便利な施設がすぐ近くにあるというのは住んでいて安心感があります。日常生活を送るのに必要なものがすぐに手に入るというのは、実はとても大切なことです。長野や山梨の山奥、伊豆の山奥ではそうはいきません。

ただ、住宅環境ということになると、ここは多少評価を下げざるを得ません。大仁や修善寺という比較的大きな町に近い分、この別荘地にも密集というほどのことはないにせよ、それなりの住宅がひしめいて建っているからです。これは交通の便や生活の便のよさとは裏腹のデメリットでもあります。

別荘地というと、軽井沢のように林間にぽつぽつと住宅が建っているようなイメージを持つ人も多いと思いますし、そうしたところを希望する人が多いと思いますが、ここは建蔽率40%、容積率60%のれっきとした都市計画区域内にあり、一定規模以上の住宅は建てることができません。

それでも一軒一軒の敷地はそれなりに広いため、沼津や三島の市内のように住宅がひしめいている、ということはありません。ある程度お互いのプライバシーを保つことのできるややゆったりした住宅地、といったところでしょうか。

もう少しゆったりとしたカントリーライフを期待していたのは確かで、海でも見えれば最高なのですが、残念ながら標高が高いとはいえ、海は見えません。が、その代りに、日々刻々と姿を変える富士山が常に目の前にあり、箱根駒ヶ岳や遠くは南アルプスまで望めるという立地はそうそうありません。

別荘地内には時折、鹿やイノシシが出没するくらいであり、自宅から5分も歩けば森林地帯というこも、ここが紛れもなく都会ではないことの証明です。

特筆すべきは夜空のきれいなこと。これも近くに大きな町がなく、周辺に灯りが少ないためですが、この夜空の美しさを今年はもう少し満喫したいところです。具体的には天体望遠鏡が欲しいのですが、それはまだ先のことかもしれません。

ところが、別荘地というのは古今東西どこでもそうですが、こと人間ということになると、ここはやはり高齢者の巣窟です。私もその予備軍には違いなく、あと20年もすれば間違いなくそのお仲間ですが、近隣を見渡すと、やはりご高齢の方が多く、自治会などの地域の集まりがあったりすると、それがすぐにわかります。

とはいえ、若い人がまったくいないかというとそんなこともなく、すぐ麓にある小学校や中学校にここから通う小中学生もちらほらみかけることもありますが、やはり少数派であり、日常生活で子供の姿をみることは極めてまれです。

だからといってそれが何も悪いということではないのですが、もしここに震災や台風などの災害が起こったときに、共助できる地域体制が整っているかいうことを考えるとはなはだ心もとないかんじです。

町ぐるみで何かを達成するという場所ではないことは確かで、その点、自治組織が色々な取り組みをしている東伊豆の別荘地がうらやましく思えることもあります。とはいえ、ここへ来てまで一年。この別荘地のすべての人を見知ったわけではありません。今年、これから出会う人々に期待したいと思います。

災害

災害という点に目を転じてみると、さすがに地震に対しては不安になります。地震の巣窟といわれる駿河トラフが静岡沿岸には長々と横たわっており、東海・東南海地震の襲来は時間の問題ではないかといわれています。

しかし、こうした大震災の想定範囲をみてみると、最も震度の大きい範囲などでは伊豆半島はギリギリはずれており、被害の大きいだろうと考えられているのは、すぐ南側に地震の巣があって、これに面している沼津や清水、静岡です。

伊豆の被害が相対的に低いと考えられているのは、その地盤が強固なためです。都内においても八王子などの山岳地帯は比較的地盤が固く、東京でも地震を避けて住むならばできるだけ東京西部にした方が良いといわれるのはそのためです。

伊豆半島はもともと、もっと南にあった火山島がどんぶらこドンブラコと北へ移動してきて、どーんと本州にぶつかってできた半島であり、このときのぶつかった衝撃で地殻が盛り上がり、その後火山のマグマが冷え切ってできた岩体ともあいまってできた非常に強固な岩盤が地下にあります。

だからといって地震の被害をすべからくまぬがれるかといと、そうはイカのなんとかなのですが、それでも静岡の他の地域よりは安全だと思います。

富士山の噴火も気になるところですが、過去の直近で宝永山が噴火したときの噴煙のほとんどは、西風に乗って東、もしくは北東方面に流れており、このため火山灰や火山弾の被害は富士山東部から東北部にかけての場所に集中しました。

火砕流などが及んだ範囲も沼津のあたりが南縁であり、長岡や韮山にまで被害は及んでいません。ある程度の火山灰は降るでしょうが、ここ修善寺まで熱気を持った灰が及んで火災などが発生するということはまず考えにくいでしょう。

ということで、災害に関しては地震や富士山の噴火については、まあなんとか大丈夫というレベルにあるといえるのではないでしょうか。

ただ、問題は風です。住んでみてわかったのですが、ここはおそろしく風の強いところです。とくに秋から冬にかけての風はすさまじく、空は真っ青な良いお天気なのに、風だけは台風なみのものが吹きます。

最初は、ここが山の上だからなのかなと思っていたのですが、どうやらすぐ麓の大仁や修善寺温泉街などでもかなりの風が吹くらしく、修善寺温泉街の南の端っこにあるバス停に「うなり石」という名前がつけられているのは、昔から巨大な石を揺らすほどの強い風がふくためです。

以前、学生のころに沼津に住んでいたときにもこの風の強さは感じていました。これを科学的に説明してくれているサイトもあるのではないかと思いますが、なかなかうまいこと書いているものがみつかりません。

が、私が察するには、箱根から伊豆半島につらなる山岳地帯は、西からの風を堰き止める壁のような役割をしているはずです。ここに風が吹き溜まり、これが東へ抜けようにも山があるために抜けきれず、このため、その西側の町では風が強まるのではないのでしょうか。

そしてこの山の上の別荘地はといえば、ここらあたりにちょうどその風が抜ける通り道があり、ここを求めて風が集中するため、いつも強風が吹き荒れている……というのが私の推測です。

推測ですが、おそらくあたっているでしょう。……ということは、この地の最大の弱点は台風などによる風害ということになるかと思います。ここに住むようになってから、近隣の人からここで過去に大きな風害があったという話を聞いたことはまだありませんが、風が強いというのはみなさんやはり口にされます。

災害というのはいつも思いがけないときにやってくるもの。いつ何時竜巻でも起こって屋根ごと吹きとばさされる可能性がないとはいえません。いくら気を付けても、災害はいつ何時やってくるかもわからず、先日のロシアの隕石のようなものがここに降ってこないとも限りません。

心配しすぎてもしょうがないとは思うのですが、今年から二年目を迎え、こうした想定される災害の予兆だけには常に気を配り、事前準備を心掛けていきたいと思います。

そして自然

さて、長々と書いてきましたが、最後にここに住み始めて最もよかったと思うこと、それはやはりすぐれた自然や景勝地に囲まれていることでしょう。

すぐ近くには修善寺虹の郷や修善寺自然公園といった伊豆の環境をうまく生かした公園施設があり、さらに山の上かとおもいきや、ほんの20分ほどもクルマを走らせれば海に出ることもできます。

同じく車で20分ほどで行くことのできる達磨山はここへ移ってきてから最も気に入っている場所のひとつであり、ここからは富士山はもとより、眼下には青く広がる駿河湾、その先には青々と横たわる南アルプスを望むことができます。

まだ踏破していませんが、南へ行けば伊豆最高峰の天城山もあり、その周辺には浄蓮の滝や河津七滝などの景勝地、さらに天城山の東側に広がる伊豆高原から細野高原に至る一帯は、日本でも有数なリゾート地であるとともに、多くのレジャースポットが点在する一大観光地でもあります。

さらに、伊豆最南端の町、下田。アジサイがあり、水仙が咲き誇り、なおかつ歴史的にも重要な史跡も数多くあるこの町には、まだまだ何度でも足を運びたいものです。

すぐ北にある街、韮山にも頼朝や北条早雲ゆかりの史跡が多く、こられの場所にもまだまだ行っていない魅力的な場所がたくさんあります。

こうした場所場所へすべて1~2時間もかければ行けるという、この修善寺の立地は、まさに伊豆観光の中心地と言っても過言ではなく、事実多くの鉄道会社やバス会社がここを拠点にしています。

ここへ移住してきてまだ、あまり行っていない西伊豆から、南伊豆にかけての場所もまた魅力です。アクセスが悪いために観光客もあまり行かない場所であり、それだからこそ、手つかずの自然もまだまだたくさん残っているに違いありません。

今年も、こうした自然や景勝地を訪ね歩き、またたくさん良い写真を撮って、またこのブログで紹介していきたいと思います。乞うご期待……です。

さて、河津桜はもうそろそろ終わりですが、これからはソメイ吉野が本番です。伊豆各地へこれを見るための行脚が今から楽しみです。

皆さんの町の桜もそろそろピンクに染まってきたのではないでしょうか。地元の桜も良いですが、今年はぜひ伊豆の桜も見に来てください。

そしてそれがきっかけになってみなさんも伊豆暮らしをしたくなるかもしれません。その時はこのブログも少しは役に立つかもしれませんね。

そうではなく、今実際に移住先を探している方々の参考にもなれば幸いです。すぐ近くへ越してこられたらぜひお声掛けください。ぜひ、一度お花見をご一緒しましょう。