ナマズおいし

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ようやく富士が初冠雪しました。

9月のおわりごろから比較的お天気の良い日が続き、毎日のように富士が見えていたのですが、それにしてもいつまでもこの真っ黒な姿のままでいるのだろう、と気を揉んでいたので、なにやらホットしたようなかんじも……

また、何やらずいぶんと待たされていたような気もするわけで、なので、去年より5日早いとのことなのですが、ことさら早い初冠雪とも思いません。平年より11日遅いと聞くと、あっ、なるほどなっ、というかんじです。

これからの富士は、さらに厚化粧になっていくはずですが、同時に季節は進み、秋も深まっていきます。カメラマンとしては、一年で一番創作意欲が沸く季節でもあるわけで、なにかと外出が多くなります。活動的になればなるほど腹も減る、ということで、食欲の秋とはよく言ったものです。

狩野川の清流を眺めながら、ウマいうな丼でも喰いたいな、と思ったりもするのですが、昨今の漁量不足から、高騰が続いており、なかなか気軽に食べる、というわけにもいきません。聞こえてくる巷の鰻屋の値段は2000円後半ならかなり安いほうで、国産ならだいたいが3000円代、高いところなら5000円以上するようです。

うまい!と評判の、三島広小路の桜屋さんのウナ丼が、3000~4000円くらいだそうで、おいしいといわれても、うーん、どうしようかな~と考えこんでしまう値段であり、よほど何かおめでたいことでもなければ足が向きません。

そこへきて、最近、うれしい話題が入ってきました。クロマグロの養殖に成功した近畿大学が、今度は同様に絶滅が危惧されるウナギの代用品となるナマズを開発した、というこのおはなしは、テレビのニュースなどで見知った方も多いでしょう。

東京や大阪などでかば焼きをテスト販売したところ、相次ぎ完売したそうで、食べた人は口々に「ウナギと区別が付かない」と言っているそうです。ナマズを改良したのは、近大農学部水産学科の若手の先生で、ウナギの激減が指摘される中、「ウナギのかば焼きは日本人が大好きな味。何とかできないか」と考えたそうです。

5年がかかりで、ウナギの養殖業者が使っている施設を流用して、ナマズが養殖できるようにしました。ナマズは、世界でもっとも食べられている養殖淡水魚ですが、日本ではあまり受け入れられないのは、その独特の泥臭さです。

その原因は、河川の中にいるバクテリアであるようで、これを除去するために地下水で育てるようにしたところ、まず臭みを消すことができました。さらに、餌にエビなどの甲殻類を多く与えることで、ウナギそっくりの弾力感を得ることに成功しました。

とはいえ、ナマズはウナギよりも少々淡泊な味なのだそうで、このため、調理法としては、そのぽやっとした味を補うために、かば焼きにする場合には、ウナギより甘く濃いタレを使うことにしたそうです。

結果、鰻に勝るとも劣らない?かどうかはわかりませんが、かなり鰻の味に迫ることができたようで、もし、今後も評判が上々のようならば、各地でさらに改良品種を作成した上で、全国販売も視野に入れるとのことです。

気になる値段も、ウナギの半額程度に抑えられる見通しだということで、長いあいだ、ウナギ欠乏症に悩んでいる庶民にとっては朗報になりそうです。

ここ静岡も三島だけでなく浜松などで大量の鰻を消費しており、「うどん県」ならぬ、「ウナギ県」と命名してもいいくらいだと思うのですが、こうしたナマズの導入も含めて、「かば焼き県」として立国していってもいいのではないか、と個人的には思ったりもします。

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ところで、このナマズというヤツですが、ナマズ目ナマズ科に属する種類は、だいたい全世界で100種類ほどもいるそうです。口がでかくて、ヒゲがあり、ぬるっとしている、といった特徴は同じですが、日本をはじめとして、中国・朝鮮半島・台湾など、東アジアの河川や湖沼に生息する種類は、「マナマズ」と呼ぶようです。

日本に生息するマナマズは、正確にはさらに3種の「ナマズ属」に分けられるそうで、北海道と沖縄などの離島を除く全国各地の淡水域に幅広く分布しているのは、やはり「マナマズ」、または「ニホンマナマズ」と呼ばれており、これは中国など他の東アジアに広域に生息するのとほぼ同じです。

ニホンナマズという呼称は、2005年に特定外来生物に指定されたアメリカナマズと区別して、こう呼ばれるようになったものです。

これに対して、他の2種は、ビワコオオナマズ、イワトコナマズという種類であり、これは琵琶湖とその関連水系のみに生息する日本固有種です。

といっても、素人が見てもおそらくはほとんど見分けがつかないだろうと思われます。とはいえ、ビワコオオナマズはやや大きく、イワトコナマズとともに琵琶湖周辺の機内にだけ生息する種類です。そして、その他の地域で普段我々が目にするのは、たいてい「マナマズ」ということになるようです。

おそらく、上述の近大が開発している養殖ナマズも、このマナマズなのでしょう。雑食性であり、日本古来からいる在来魚としては数少ない大型の肉食魚でもあります。貪欲な食性を特徴としますが、どんなものを食っているかといえば、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しています。

ナマズを捕食するほどの生物は、ほとんど水中にはいないと考えられることから、日本の淡水域の生態系では、食物連鎖の上位に位置するとみられます。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、長い口ヒゲを持ちますが、このヒゲは感覚器として発達しており、これを利用して餌を探します。

この口ヒゲは、2本しか持っていない、と思っている人も多いでしょうが、上顎と下顎に1対ずつ計4本あります。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもっていますが、成長につれて消失します。

頭は上下につぶれたように平べったく、鱗がなくて体表はぬるぬるとした粘液で覆われています。近くによってよく観察すればわかりますが、斑紋があり、この紋や体色は、個体によってさまざまであり、かなりバラエティに富んでいます。

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。全国に生息していますが、平均的には5~6月が繁殖期であり、水田や湖岸など浅い水域にある水草や水底に産卵します。たった2~3日で孵化し、仔魚は孵化の翌日にはミジンコなどの餌をとるようになります。

また、雄は2年、雌は3年程度で性成熟に達するといい、かなり繁殖力は強い種と言えます。全長60cm程度にまで成長しますが、一般に雌の方がやや大きいといいます。調べてみたのですが、かば焼きにするのは♂♀どちらがおいしいのかどうかまではよくわかりません。どちらもあまり差がないのかもしれませんが……

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上の近畿大の養殖の成功によって一躍脚光を浴びるようになったナマズですが、実は古代から食用魚として漁獲されています。ナマズ食の歴史は古く、平安時代末期の著作「今昔物語」には既に調理をして食した、といった記述があるほか、江戸時代にも商取引が行われていたようです。

マナマズはウナギと同じく、白身を持つため、かば焼きのほか、天ぷらにして食されたほか、たたき・刺身などの生食でもいけるようです。ただし、寄生虫がいる場合があります。顎口虫症といって、顎口虫(がくこうちゅう)という寄生虫がいるナマズを生食をした場合、からだに浮腫み(むくみ)ができたり、場合によっては心筋梗塞を起こすといいます。

とはいえ、まずしい農村部などでは貴重なタンパク源であり、江戸時代よりも前から自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたようです。現在でも、琵琶湖周辺の滋賀県や京都府、濃尾平野、埼玉県南東部など特定の地域で、漁業対象種として捕獲が行われているそうです。

ナマズを釣りの対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられます。これは小型のカエルなどを釣り餌として片足から吊り下げる形で釣り針に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘うという釣り方です。ハツやササミといった肉類などでもわりと簡単に釣れます。

私の子供のころ、食用にもなるウシガエルを同様の方法でよく釣っていましたが、極めて簡単に釣れ、ぽか~んていたのを覚えています。ルアーの疑似餌でも釣れるようなので、今度一度試してはいかがでしょうか。釣ったあとに実際に食するかどうかはお任せしますが。

群馬県の邑楽郡(おうらぐん)板倉町にある雷電神社への参道には、複数県の「ナマズ茶屋」があり、てんぷらや「たたき揚げ」と称する揚げ物、洗いや刺身などが頂けるようです。また、鳥取の吉岡温泉でも同様のナマズ料理が食えるほか、埼玉の吉川でも市が率先してナマズ料理をアピールしており、「なまずの里よしかわ」を売りにしているようです。

さらに、茨城県東部、霞ヶ浦の東側にある行方市周辺では、外来種である、アメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)のハンバーガーを「行方バーガー」として販売しているそうで、ご当地グルメとして有名になりつつあるようです。

とはいえ、その他の県で、ナマズを食するという話はあまり聞いたことがなく、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えません。上述の3種のうち、一番一般的なマナマズを筆頭に、やはり臭さが敬遠されるためであり、これを使ってナマズ料理を提供しているところは、綺麗な水の池などで長い間飼育してから捌いたりしているようです。

ただし、まあなんとか食せるレベルにはあるようです。岩礁域に暮らすイワトコナマズが、泥臭さが少なく最も美味だそうで、マナマズはこれに次いで味が良いとされるようです。一方、ビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはないといいます。

こうしたナマズの食味や利用に関しては江戸時代にも研究されていますが、やはりあまり評判はよろしくなく、「本草学」すなわち、現在の薬学に関する著述、「本朝食鑑(1697年)」によれば、ナマズは、膾(なます)やカマボコくらいにしか利用できない、と書いてあるそうです。

また、シーボルトが記した「日本動物誌(1850年)」にも、この当時のナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられると書いてあるといいます。

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このように、ウナギといえば、一応食えはするものの、それほどウマいもんじゃないよ、というのが古くからの一般認識のようです。とはいえ、繁殖力が強く、どこの川に行ってもいるので、日本人にとっては非常に身近な魚ではあるわけです。

その外観がまず極めてユニークです。その独特な姿もあって古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきました。また、日本では、地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られており、地面の下は巨大な大ナマズがおり、これが暴れることによって大地震が発生するという迷信は古くから信じられてきました。

ナマズが地震の源であるとする説は、江戸時代中期にはすでに民衆の間に広まっていましたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていないようです。ただ、「日本書紀(720年に完成)」には、すでにナマズと地震の関係について触れた記述があるそうで、1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状にもそうした表現があります。

この書面で秀吉は、「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示をしているそうです。しかし、おそらくナマズが地震を起こすと多くの人々が信じるようになったのは、江戸時代の安政年間に頻発した地震のころからだと思われます。

「安政見聞録」という書物には安政大地震前にナマズが騒いでいたことの記述があり、これ以後の江戸後期にはこの地震による社会不穏を背景として、鯰絵や妖怪などを描いた浮世絵も流通するようになりました。

この「安政見聞録」は、1855年11月11日(安政2年10月2日)の夜10時頃に発生した地震の様子を記録した書物で、この地震の翌年の安政3年に刊行されました。著者は服部保徳、挿絵は一梅斎芳晴(歌川芳春)によって描かれ、地震時の教訓を多く盛り込んだ内容になっているといいます。

この服部保徳という人物が、どういう人物かはよくわかりませんが、忍者ハットリ君のモデルといわれる服部半蔵の一族なのかもしれません。歌川芳春は、この当時の人気絵師ですから、そうした絵師を使った自費出版をできた、というのはそれなりの権力とカネを持っていたのでしょう。

挿話は全部で 17 編に及んでおり、自分の子孫に対して、この本によって地震での教訓から多くを学び、忠孝義に励め、といった少々教訓くさい内容となっているそうです。

この「安政の大地震」ですが、多くの人は、これは一回っきり起こった者だと思っていると思いますが、実は、これは江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の総称です。

現在では、このうち、とくに1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多くなっていますが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である「安政東海地震」および「安政南海地震」も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めたのが「安政の大地震」です。

時系列的にみると、一番最初に起こったのは、1854年7月9日の「伊賀上野地震」であり、次いで「安政東海地震(1854年12月23日)」であり、その約32時間後に発生したのが、「安政南海地震(1854年12月24日)」です。さらに、安政南海地震の2日後には豊予海峡で「豊予海峡地震」が発生しています(1854年12月26日)。

そして、その翌年に起こったのが、一連の地震の中では最大の安政江戸地震(1855年11月11日)になります。この翌年には、東北八戸で安政八戸沖地震(1856年8月23日)が起こり、3年後には、越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)でも大地震が発生しており、これが飛越地震(1858年4月9日)となります。

伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、発生したのが、嘉永7年=安政元年であったことから、本来は「嘉永の大地震」と呼ぶべきですが、同じ年に安政に改元されたため、安政江戸地震と、その3年後に発生した飛越地震も含め、ひとくくりにして安政の大地震と呼ぶようになったものです。

これら一連の地震は、南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として江戸時代に発生したものですが、この南海トラフ付近では、これに先立つ250年ほど前に起こった慶長9年(1605年)には「慶長地震」が起こっており、また150年ほど前の宝永4年(1707年)には「宝永地震」も起こっており、地震の巣窟といわれています。

2015年の現在は、この一連の安政大地震から、ちょうど150年あまりが経つ時期であり、同様に南海トラフにおける地震の発生が危ぶまれているわけです。

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実は、この安政の大地震は、幕末の動乱にも大きな影響を与えた、ということもいわれているようです。安政の大地震における一連の最初の地震が起こった、1854年の前年の1853年(嘉永6年)には、6月に黒船が来航しており、また同年8月にはロシアのディアナ号が来航するなど、ちょうどいわゆる幕末の動乱が始まった時期と重なります。

これら一連の外国船の来訪により、江戸幕府は相次いで開港を迫られところとなり、時代は急転直下の勢いで回転していきますが、「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で旧幕府と新勢力の争いに呼応するかの如く連発した大地震であった、ということは間違いなくいえるわけです。

ディアナ号で来航したプチャーチンは、来日したその翌年にこの「嘉永の大地震」に遭遇していますが、その直前の前年、来日してすぐの11月1日には下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し、下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていたといいます。

安政の大地震のうち、二番目に起こった「安政東海地震」では、巨大な津波が発生しました。房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、下田から熊野灘までが特に著しい津波に襲われました。とくに、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われており、引き潮から始まった駿河湾西側や遠州灘よりもさらに大きな被害を出しました。

伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来した津波では、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であったといい、ロシア軍艦ディアナ号の記録では、下田において地震動の後、15~20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波の高さは、5~6mあったとされます。

ディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航されました。しかしその途中、暴風雨も重なり流されて11月27日の夜、田子の浦沖で座礁し、漁船でけん引中、12月2日の昼過ぎに沈没しました。

下田の町では、昼過ぎまでに7~8回も押し寄せ、多数の家屋を流出させたため、壊滅的な状態となりました。しかし、津波で荒廃したあとの再建は早く、下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となりました。津波の翌年の1856年には、早くもハリスが着任してきており、開国に向けての幕府との交渉にあたりました。

ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされます。

この安政東海地震による津波被害以後に頻発した安政年間の地震のあいまあいまでは、ほかにも歴史的な出来事が数多く起こっています。

そもそも、元号を嘉永から安政に変えたのも、こうした地震などの一連の災害のためであったといわれており、このほかにも1854年には、内裏(宮城における天皇の私的区域)が炎上する、という事故もありました。

しかし、改元しても天変地異は続き、改元してすぐの、1855年2月7日(安政元年12月21日)には日露和親条約締結が結ばれましたが、その直後の2月26日に飛越地震が起きています。また、ハリスが下田に総領事として着任した18566年8月21日の二日後に安政八戸沖地震がおきました。

そのハリスが、下田御用所におい幕府側との通貨交換率などの交渉をしている間にも、江戸や駿河、芸予などでも小規模な地震が続いており、吉田松陰が萩で松下村塾を開いた1857年の末から4ヵ月後に起こったのが飛越地震です。

しかし、この飛越地震を最後に、安政年間の地震は徐々に沈静化が進みます。その後、1858年7月29日には、日米修好通商条約が締結され、これに続く蘭、露、英、仏と五カ国条約も締結されました。1858年10月には安政の大獄がはじまりますが、1860年3月の 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)で安政年間は終了します。

そして、安政以後の1867年11月の(慶応3年10月)の大政奉還、1868年4(慶応4年3月)の 勝・西郷会談(江戸無血開城)と続いていくことになります。

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こうした幕末という一番物騒な時期に巨大な地震が重なったということは、当然のことながら人々への心理へも影響を与えました。大地震などの災害が、天罰として世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が広まり、安政江戸地震直後にはおびただしい数の瓦版や「鯰絵(うなぎえ)」が巷に出回りました。

これは、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)であり、大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいています。鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の祭神である武甕槌大神(タケミカヅチオオノカミ)が要石によって大鯰を封じ込めるという言い伝えに基づいている、というのが定説です。

鯰絵の種類は確認されているだけで250点を越え、実際はそれを大きく上回る点数の鯰絵が発行されたと考えられています。当時の書籍や浮世絵は幕府の検閲を受けていましたが、鯰絵はほぼすべてが無届けの不法出版であり、取締まり逃れのため作者や画工の署名が無いものがほとんどでした。

地震の発生直後から出版が始められた鯰絵は身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まり、流行が収束するまでのおよそ2ヶ月の間に多数の作品が作られたとされます。

鯰絵には多種多彩な構図が用いられましたが、大鯰を懲らしめる庶民の姿を描いた合戦図の形式、あるいは両者の対立を描いたものが特に知られています。上のタケミカヅチオオノカミがナマズと対決する役柄として鯰絵にもしばしば登場しているほか、ナマズが地震を起こしたことを謝罪したり、震災復興を手伝ったりするユニークなパターンもあります。

いわゆる「世直し鯰」の構図としてもさまざまな作品が作られましたが、これらは幕末の動乱と地震の関連性をうかがわせるものであり、両者によって多くの人々の不安が掻き立てられていたことを示すものです。鯰絵の中には「世直し鯰の情」として被災者を助ける様子を描いたもの、大工や庶民に小判、銭あるいは米俵を投げ与えるものなどもあります。

このほか、江戸などでは地震による倒壊家屋が多かったため、地震後の復興景気により大工や木材商が莫大な利益を上げたことを風刺し、これらの職人や商人がナマズに感謝する姿を題材にしたものもありました。

このような地震により損をした者、得をした者の対比は多くのバリエーションで描かれ、「三人生酔」、すなわち、笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三者の姿を通じて立場の違いを表す、などの手法によって人々の喜怒哀楽が表現されました。

なお、鯰絵と同じく大量に発行された瓦版には地震によって混乱した情報を、市民らにもたらす、といった役割もありました。瓦版の中に、国元の縁者に自身や親子兄弟の安否を刷り込み知らせるものも多くありました。

また、京都・大坂・江戸の三都に店舗を抱える大商人らもまた、相次ぐ地震で経済網が寸断され、情報を失いました。このため、飛脚屋を雇って情報を収集させ、被害情報を一枚摺にして発行しました。無論、自分たちのための情報収集だったわけですが、こうした情報は一般庶民にも役立ちました。

地震の後に流布した鯰絵はさまざまなモチーフで描かれましたが、これらは必ずしもオリジナルの画題・構図で描かれたわけではなく、地震以前に知られていた浮世絵や民画をパロディ化したもので、当時流行していた世俗の文化を取り入れたとみられるものが多数あります。

鯰絵の前身と言える絵画の一つに「大津絵」があり、これは琵琶湖のほとりの大津宿を中心に描かれた民俗絵画です。

大津絵の中でも最も有名なのは、室町時代の画僧如拙により描かれた国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず・鮎は鯰の古字)があり、これはつるつるの瓢箪でぬめるナマズを押さえつけるにはどうするかという禅問答をモチーフとした絵です。大津絵ではこのほかにも猿が瓢箪で鯰を押さえようとする滑稽図などがあります。

鰻絵と合体したこうした古くからの描画手法は、その後さまざまな分野に影響を与え、地震の被害状況や復興の様子を各地に伝える瓦版の中でも描かれ、その後の日本文化に大きな影響を与えました。明治以後に流行した「錦絵」にも多大な影響を与えており、鰻絵をベースに幕末に創作された、「はしか絵」、「あわて絵」などがその原型といわれます。

「はしか絵」は疱瘡絵とも呼ばれるもので、幕末に江戸で麻疹が広まった際に描かれた一連のはしか絵では、ナマズを打ち据える民衆を描いた鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本です。

これをもとにさらに別のバリエーションも創られ、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれるものも刷られるようになり、また、1863年(文久3年)の生麦事件から薩英戦争に至るまでには、この当時の江戸における混乱を描いた「あわて絵」が流行しました。

この年、横浜ではイギリス軍による幕府への威嚇砲撃があり、本格攻撃を恐れた庶民が江戸から郊外へと一斉に避難する騒ぎがありました。この様子を滑稽に描いたのが「あわて絵」であり、はしか絵と同じく鯰絵の構図を多く用いています。

その後、こうした「はしか絵」「あわて絵」で培われた技法は、明治になって「開化絵」や「新聞錦絵」に引き継がれ、さらには日清戦争や日露戦争以後の「戦争絵」として受け継がれました。しかし、明治の終わりごろまでには、活版印刷などの新技術の導入などの時勢の流れに逆らえず、衰退していきました。

しかし、こうした浮世絵にルーツを発した鰻絵ほかの日本の伝統の版画による「風刺画」の描写手法は、欧米のいわゆるポップカルチャーにおける「風刺漫画」に比べてはるかに高いレベルにあり、現在でも美術品として高く評価されています。

さて、長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。

地震とナマズの関係は、これまで書いてきたように俗信とされてきたわけですが、最近の研究では、一般に魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており電場の変化にも敏感であることなどがわかってきているそうです。

なので、本当に地震予知能力があるのかもしれず、それが確認されれば、一家に一匹といった「愛玩ナマズ」なども流行るかもしれません。

ちなみにナマズは、飼いやすいそうで、直射日光を避け、静かで安定した場所に設置した水槽ではよく育つそうです。ただ、与える餌にもよりますが、肉食性で糞の量も多いため、性能の良い濾過装置を用意したほうがいいとのことで、このほか、塩素を含んだ通常の水道水では炎症が起こすことがあるといいます。

飼育水のカルキ抜きは必須だとのことで、やはりきれいな沢水などで育てるのがいいようです。また、夜行性であるということをお忘れなく。ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる必要があるそうです。

そうして大事に育てたナマズは、やはりきっと美味に違いありません。

秋の日にその蒲焼を食べることを夢見て、あなたも一匹とはいわず、飼ってみてはいかがでしょうか。

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笑い三年泣き四月

2015-06545月になりました。

ウソです。

ということでエープリルフールです。これでひとつウソをついたので、もう今日は嘘をつくのはやめようと思います。

これもウソです。

というわけで、我々は意識しているしていないに関わらず、たいして罪悪感もなく、むしろ面白がってよくウソをつきます。

基本的に、嘘は悪いこと、とされますが、嘘の中には許容されるものも多いようです。しかし、どのような嘘が許容されるかは、時と場合によるでしょう。「嘘も方便」ということわざもあり、人を救ったり、処世術のためならばよかろうというのが一般的です。

また、人を喜ばせるためのウソも良しということで、イギリスやアメリカなどでは、他人を喜ばせるための嘘は「white lie」といい、これは「良い嘘」というほどの意味です。

さらに、人とのコミュニケーションの中で、嘘はこれを円滑にする効果がある場合もあります。例えば夫婦や恋人との会話の中で、「私を気づかって、朝音をたてないように出っていってくれたでしょう」、「いや、そんなことないよ、ドアが痛まないように静かに閉めていっただけさ」といった具合です。

これはもちろんウソなわけですが、ウソをつかれた女性が男性をうっとうしいと思うかといえばそうではなく、奥ゆかしくて男気のある、そしてユーモアのある男性だと思い、より好きになったりするわけです。

が、実際にはパチンコに出掛けるのをとがめられるのが嫌で、そっと出かけていったのにすぎなかったりもします。

このほかにも、大多数の人は、ある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っています。なので、一応、この程度のウソならば精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

が、その範囲を超えて、あえて積極的にウソをつき、相手を笑わせるというのは、ジョークの範疇に入ってきます。聞き手や読み手を笑わせたり、ユーモアを感じさせる小咄などのことであり、日本語では冗句と当て字されることもあります。

「悪ふざけ」と違うのは、これはある程度悪意を持って相手にしかけるものであり、道徳的に問題視されることも多いわけで、相手に好意をもって言うジョークとはおのずから性質が違います。

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ジョークにもいろいろあって、ユーモア、駄洒落、風刺などさまざまですが、その結果得られるのはやはり「笑い」です。

人を笑わせる、といことは楽しいもので、ジョークを仕掛けられた相手も楽しくなります。

では、なぜ楽しくなるのか。これは、笑いによって自律神経に刺激が与えられるからだ、と説明されているようです。自律神経は、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されていて、交感神経というのは、「闘争と逃走の神経(Fight and Flight)」などとも呼ばれるように、激しい活動を行っている時に活性化します。

一方、副交感神経は、安静時に重要となる消化管の機能を司ったり、心拍数を減少させ、血圧を下げて皮膚と胃腸への血液を戻したり、といった役割があり、安らぎ・安心を感じた状態のときに優位で、副交感神経が優位な状態が続くとストレスが解消されます。

笑いによってこれら二つからなる自律神経に刺激が与えられると、交感神経と副交感神経のバランスの状態が代り、副交感神経が優位の状態になります。この結果、より安心できる、安らぎを感じる、といった状態になり、これが「楽しい」と感じられるわけです。

一方、怒りや恐怖を感じたときなどの異常な事態の時には交感神経が優位になります。したがってその状態が長く続くとストレスの原因になります。

また、笑うことで全身の内臓や筋肉を活性化させたり、エンドルフィンという神経伝達物質が血液中に大量に分泌されるそうです。

これはモルヒネ同様の作用を示す物質ということで、多幸感をもたらすと考えられており、そのため「脳内麻薬」とまで呼ばれます。麻薬、といわれるとついつい中毒になるのでは、と考えてしまいますが、確かに「笑い上戸」のことばもあるように、笑いにはそうしたところがあります。

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とはいえ、薬害のある本物の麻薬とは異なり、一般的には医学的にみても笑いは体に良いものだとされているようです。従って人々の笑いを誘うような巧妙なジョークは、社会的にも認められやすく、それゆえに、エイプリルフールが認められているのであり、このほかにも喜劇や、落語、漫才、コントといったものが職業として成立するわけです。

彼等にしてみれば年から年中がエイプリルフールのようなものであり、いかに多数の笑いを取るか、ということが命題です。日本では、1980年代に前半に「漫才ブーム」が起こり、多数のお笑い芸人さんが生まれました。

この漫才ブームに火をつけたテレビ番組は「花王名人劇場」(関西テレビ)・「THE MANZAI」(フジテレビ)などだといわれており、その後「お笑いスター誕生!!」といったお笑い界のホープを探し出す番組などが増え、さらにはお笑い界のチャンピオンを決める、「M-1グランプリ」といった番組が次々とできて、人気を博しました。

この1980年代初頭のブームを第一次お笑いブームとするならば、その後、第二、第三のブームが続いており、現在はその4番目か5番目かのブームとされるようです。

こうした数々のブームの中からは、その後バラエティなどでも活躍する大物タレントが多数輩出され、さらにお笑い界は、演劇界とも結びついて、俳優女優として活躍する芸人も多数でるようになりました。

映画監督としても有名になったビートたけしさんや、とんねるず、タモリ、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子などなどと枚挙のいとまがありませんが、彼らに憧れて、お笑いの世界に入る若者も後を絶たず、大学を卒業してまっしぐらに吉本興業の門をたたく人もいるようです。

漫才ブームが後世に残した影響は計り知れないといえ、まさにお笑い恐るべしです。私自身は、あまりお笑い番組は見ないほうなのですが、お付き合いでごくたまに見ることもあり、そうした場合はやはり笑ってしまい、楽しい気分になれます。

が、夢中になってそうした番組ばかり見たくなるか、といえばそうでもなく、ましてや自分で漫談やコントをやってみようとは思いません。

強いて言えば落語なら少しやってみたいかな、という気もしますが、何にせよ、人から笑いを取るというのは、なかなか容易なことではなく、一朝一夕にその技術は実に付きません。

「笑い三年泣き三月」というのは、義太夫節の稽古で、笑い方のほうが泣き方よりずっと難しい、とされたことから生まれたことわざですが、芸事の世界では、笑わせるのも泣かせるのと同じくらい難しいようです。

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こうした漫才や落語は、玄人の域に達したものは社会的にも「芸術」とみなされるほど高尚なものでもあります。先日亡くなった三代目桂米朝さんは、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章を受章しています。

また、漫才も古くは「萬歳」と呼ばれた古典芸能であり、加賀、越前、三河、尾張などに伝わる各萬歳は、国の指定重要無形民俗文化財に指定されているものです。

こうした笑いの「源流」を辿ってみると、一番古いのは、「古事記」に記されている、アマテラスオオミカミの岩戸隠れのエピソードが、日本で最古の笑いだといわれます。

太陽の神アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱暴狼藉に腹を立て、岩の洞窟である天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまい、そのため世界が真っ暗になり災いが起こりました。

そこで神々はアマテラスオオミカミをおびき出す為に岩戸の外で大宴会を行い、女神アメノウズメは着衣を脱いで全裸でこっけいな踊りを披露したところ、これを見て八百万の神々が一斉に大笑いした、という例のはなしです。

その笑い声が気になったアマテラスオオミカミが、岩戸を少しだけ開けて様子をうかがった所、神々の連携プレーで外に連れ出され、再び世界に光が戻った、めでたしめでたし、というわけです。この神々を笑わせた芸能の女神アメノウズメは日本最古の踊り子と言え、また最古の芸能人ということもいえます。

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このように、古代社会においては「芸能」というものは、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったわけで、「竹取物語」、「今昔物語」などにも、こうした、おかしみのある話が多数納められています。

その後、これらは物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能として発達していきましたが、それらの中から出てきたものが、能や歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)といったものです。

江戸時代までには、武士の世界で、面白い話を主人などにする「御伽衆」なる職業が成立し、こうした話芸に秀でた人々がまとめた講釈話が庶民に広がり、講談や落語の源流となったと言われています。

滑稽な話を集めた「笑話集」的なものも多数発刊されるようになり、「醒睡笑(せいすいしょう)」「昨日は今日の物語」「浮世風呂」などがヒットしましたが、後世で最も有名なのは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などでしょう。

「エレキテル」で有名な平賀源内も、「笑府」というお笑い本の抄訳「刪笑府」を出版しているぐらいで、そのほかいわゆる「小咄(こばなし)」といわれるようなショートショートコントの原案も、元はこうした和漢の笑話本の翻案に由来しているものが多いとされています。

また、江戸時代初期にはじまって盛んになった「滑稽噺」は、上方では「軽口噺」とも呼ばれ、特に「落ち」が特徴的だったので江戸中期には「落し噺」と呼ばれるようになりました。明治に入って「おとしばなし」を「落語」と書くようになり、明治中期以降はこれを「らくご」と呼ぶようになりました。

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このように、日本における「笑い」は、芸能と結びついて独特の文化の源流となってきましたが、世界的にみると、こうした笑いを「芸術」にまで昇華させたものというのはほとんど例をみません。

「喜劇」はあるいは日本の「狂言」に近いものかもしれませんが、各国でこれを独自の文化としたものは少なく、フランスやイギリスで「スケッチ・コメディー」と呼ばれる笑いを題材にした寸劇が流行した時期があったぐらいです。

演劇のジャンルのひとつであり、19世紀の中ごろからイギリスで発達した文化ですが、そもそも本劇の合間に、酒を飲んだ観客が囃し立て劇場内を盛り上げるためのようなものだったようです。

ところが、その後酒を販売することを禁止する「劇場法」というものが制定されたため劇場では演じることができなくなり、ミュージックホールのような大衆酒場も兼ねたところで、演じられるようになりました。

が、師匠が弟子をとってその技術を伝承していくような類のものではないようであり、ましてや国が認定して賞を与えるようなものではなく、どちらかといえば大道人芸に近いものだったようです。

このほか、「笑劇」というのがあり、これも「道化芝居」ともいわれるもので、観客を楽しませることを目的とした、演劇または喜劇の1形態ではあります。が、これはヴォードヴィルと並んで最も低級なものとされています。

ヴォードヴィル(vaudeville)は、日本語ではボードビルともいい、これは、17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式です。その後アメリカにも伝わり、舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスを指すことばとなりましたが、本場フランスと区別するために、「アメリカン・ヴォードビル」と呼ばれるようになりました。

イギリスでは、これがミュージック・ホールで演じられ、上述のように「笑劇」と称されました。イギリス英語では“farce(ファース)”がこれに該当します。

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このヴォードヴィルやファースは、実はその後の映画界において重要な役割を持つようになりました。

発明王として有名な、トーマス・エジソンは動画撮影機「キネトグラフ」を発明した、といわれていますが、これは実は部下のウィリアム・ディックソンの発明です。

しかし、自らはこの映画のプロデューサーとして活躍し、1893年には、自分の研究所の敷地内にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア」を設立し、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作しはじめました。そして1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作しています。

ヴォードヴィルやファースの演芸場は、もともとはこうした映画を観客に見せるための前座でしたが、エジソンは、自らが製作した映画の題材のいくつかにヴォードヴィルの見せ物を取り上げています。

その後、映画はエジソン以外の企業家によっても造られるようになり、その中でもヴォードヴィルは、映画の主題として扱われるようになりました。そして、初期サイレント映画の中でもとくにもてはやされるようになっていきます。

このサイレント映画は、映画の歴史の中で重要な位置を占めており、その理由はチャーリー・チャップリンやバスター・キートン、ローレル&ハーディ、マルクス兄弟、ジミー・デュランテといった、その後の映画界を代表する役者たちを登場させたからです。

こうした1910年代から20年代のサイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入りました。

観客を笑わせること及び観客の笑いを引き出すことを主目的としたこうした喜劇映画の中でも、特に体を張ったコメディ映画のことスラップスティック・サイレント・コメディといい、日本では「ドタバタ喜劇」と訳されるこれらの映画は、次々に大ヒットしました。

そして彼らはヴォードヴィルの伝統をトーキーの時代になっても続けていきましたが、その後あまりにも映画という産業がビックになったため、ヴォードヴィルそのものに出演する役者はいなくなり、結果的には映画がその形態を衰滅させる、という皮肉な結果になりました。

このように、欧米における「笑い」を題材とする産業の発達は、日本とは全くといっていいほど違う発展を遂げてきたわけです。

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この映画は今や日本にも浸透し、数々の喜劇映画なども作られていますが、同じ大衆演芸の笑いを源流とする能や歌舞伎と違って、どこか軽薄な感じがするのは、その歴史が浅いからでしょう。

スケッチ・コメディーの発祥から160年ほど、またエジソンらのキネトグラフの発明からは120年ほどしか経っておらず、日本の能や狂言の起源といわれる、散楽や猿学は既に平安時代からあるといわれています。だとすると、1000年以上のお笑いの歴史があることになります。

ヨーロッパでも昔は古代の日本のような原始的な大衆芸能があり、その中で扱われたお笑いがあったはずなのですが、それが日本のように芸能として育まれなかったのは、やはり多数の国が隣接し、戦争と併合・分離を繰り返すことで、ひとつの文化として育てることができなかった、ということが挙げられるでしょう。

一方、中国やインドといったアジア諸国も、ヨーロッパほどではないにせよ、やはり隣国と接する機会が多く、ヨーロッパと同じく独自の芸能文化が育まれにくかったでしょう。もっとも中国には京劇といった伝統芸能があるようですが、これも発祥はせいぜい18世紀のころのようです。

日本は島国であり、一つの文化が他国の文化と交わることもなく独自化し、またその中で枝分かれして成長し熟成する時間が長かっただけ、その内容が濃くなったということは当然といえるでしょう。

しかし、現在のように欧米はもとより、仲の悪い中国や韓国との関係もそれなりに保っている中で、従来のような独自文化がそのまま維持されるとは限らず、時間を経て変わっていく可能性は大です。

例えば、歌舞伎にすれば、「スーパー歌舞伎」に代表されるように、より現代人には馴染みやすく、また外国人にも楽しめるようなものに変わってきており、変化することで進化する、ということを実践しているように思われます。

落語や漫才もしかりであり、最近は英訳されたものがあちらの人には結構受けたりするだけでなく、欧米人で落語家をめざす人なども出てきているようで、いまや伝統的な日本のお笑いもグローバル化しつつある時代といえるようです。

世界中が日本の文化で笑う、という時代もくるかもしれず、そうだとすると我々の責任は重大です。世界を笑いのるつぼの中に落とし込むことは、平和にもつながるからです。

冒頭で、笑いは医学的にみて色々なメリットがあることを書きましたが、このほかにも笑いには免疫系の「NK細胞」の活性を高めるなどの健康増進作用があると言われており、日本のお笑いは医学にも貢献しそうです。

このNK細胞というのは、癌を抑える効果があるとされる細胞で、「ナチュラルキラー細胞」とも呼ばれ、ガンの予防と治療の効果があるとされるものです。

上でも笑うと自律神経のうちの副交換神経が交感神経が活発になりと書きましたが、この二つの神経の頻繁な切り替えが起こると、その脳への刺激により、免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

このホルモンのことを、「神経ペプチド」といいますが、NK細胞はこの神経ペプチドを受け取ることによって活性化されるのです。

つまり、笑いは癌をやっつけてくれる、というわけで、癌撲滅のためのひとつの手段にもなりうる可能性を秘めているわけです。このほか、笑いは糖尿病の治療にも有効との研究もあるようです。

さすれば、全国にある癌の研究センターなどでも「お笑い研究室」なるものを作って研究をスタートさせればいいのでは、と私などは思うのですが、今のところその動きはなさそうです。

今日4月1日にそうした研究所ができた、とするウソが出回れば面白いのに、と思ったりもするのですが、どこかの新聞社かテレビ局がこのブログを読まないでしょうか。

そんなかんなで、もう4月です。一年の4分の1が過ぎたことに唖然としている人も多いと思いますが、私も同じです。

今年の初めに計画立てたことを現実にしようと思えば、まだまだ頑張らなくてはならず、とても笑ってばかりはいられません。

が、そんな中でもスマイル、スマイル、と毎日を過ごしましょう。笑う門には福来るといいます。しかし、「笑い三年泣き三月」のことわざにもあるように、実は笑うというものは意外にも難しいものです。

福を呼び寄せるためにも、今年はぜひいつでもどこでも笑える技術を身に着けることにしましょう。

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