メーソンと自由の女神

2014-2893梅雨の晴れ間が続いています。外へ出ると暑いのは暑いのですが、日陰に入ると心地良いそよ風が頬を撫でます。

この上天気に誘われて、先週末からは、伊豆西部を中心に撮影行脚三昧だったのですが、その反動もあって昨日の午後あたりからは少々疲れが出て、ぐったりしておりました。

お天気が良いからと精力的に動くのもいいのですが、そろそろ齢も考えんといかんかな、とか、妙に年寄臭いことを考えてしまう、今日このごろです。

さて、1885年の今日あった出来事を調べてみると、自由の女神像がフランスからニューヨークに届いた、という事実があったようです。

私は若いころ、アメリカのあちこちを旅して回ったことがあり、仕事でも行ったことがあるのですが、なぜかニューヨークだけにはご縁がなく、一度も行ったことがありません。

その昔のニューヨークはまだまだ人種間対立などがあって治安も悪く、犯罪の巣窟とまで言われた時代がありましたが、1990年代までには人種問題もかなり緩和され、犯罪率は劇的に下落していました。

が、私が頻繁にアメリカを訪れていたころにはまだ少々治安に問題があり、ここに行くのがためらわれた、というのがこれまで行ったことのない主な理由です。2001年9月11日には、同時多発テロ事件もあり、ワールドトレードセンターの倒壊で、3000人近くの人が命を落としたことなども思いおこされ、何かと怖い街というイメージがあります。

とはいえ、この同時多発テロは、このことをきっかけに、逆にニューヨークの治安をよくし、その後この街の安全性は飛躍的に高くなってきているようです。

ワールドトレードセンタビルの跡地には、新しいオフィスタワーが建設されており、この地区には、記念博物館も建てられる予定であるそうで、こうした「復興」ムードと安全性の高まりを背景にアジアやラテンアメリカからの新しい移民の波が訪れており、シリコン・アリーのような新しい産業部門も興り、街は活気づいているといいます。

シリコン・アリーというのは、インターネット上の新たなアプリケーションサービス・プロバイダー(ASP)を核としたネットビジネス産業をさします。世界的なインターネット利用者の急増に伴い、電子商取引、音楽配信、ソフトウェア流通 などインターネットを利用した様々なアプリケーションサービスが増えています。

今後、インターネット接続の次のステップとなるインターネット応用フェーズでの事業展開には、ビジネスや生活シーンあらゆる局面において国際性が要求されますが、ニューヨークはその基盤となるすべてが整っている街、というわけです。

こうしたこともあってアメリカ国内でも多くの人がニューヨークを目指しており、ニューヨークの人口は、2000年の国勢調査で史上最高に達した以降も増え続けているようです。

自由の女神像は、そんなニューヨークの象徴として、アメリカ合衆国の独立100周年にあたる1886年に完成して以降、世界各地からやってくる移民にとっては、新天地を象徴するものであり続けてきました。

そもそもは、この独立運動を支援していたフランス人達の募金によって、ニューヨーク市に贈呈されたもので、フランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエという人が南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し、両国の友情の証となりうるモニュメントを寄贈しようと提案し、これに対しては多く人が賛同し、多額の寄付が寄せられました。

その設計の依頼は、1874年にラブライエからフランスの彫刻家である、フレデリク・バルトルディに対してなされました。

このバルトルディという人は、自由の女神像以外にはあまり、世界的に有名な作品はあまり多くないようで、日本でもほとんど知られていません。

フランスでもあまり知っている人は多くないと思われますが、その代表作といわれるのは、フランスの中央高地の都市、クレルモン=フェランの中央広場に置かれているフランスの伝承の英雄「ウェルキンゲトリクス」の銅像、あるいは、フランス南東部、リヨン市内西部に位置する「リヨン歴史地区」にあるテロー広場の彫刻の噴水などです。

このほか、自由の女神の構造的な部分の設計にはエッフェル塔で知られるギュスターブ・エッフェルも関わったそうで、像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵「民衆を導く自由の女神」をモデルにしたものだといわれています。

が、バルトルディはフランスの象徴ともいわれる「マリアンヌ」をイメージしたのではないか、ということもいわれているそうです。これは実在の人物ではなく、フランス共和国を象徴する女性像のことで、フランス共和国の擬人化されたイメージです。

フランス革命の際には、「サン・キュロット」とよばれる手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの貧困層が革命の推進力となりましたが、サン・キュロットとは「キュロットをはかないひと」という意味で、キュロットとは当時貴族の一般的なボトムスであった半ズボンのことです。

このサン・キュロットたちを代表するイメージとして、マリアンヌという偶像が創出されたわけですが、しかし、バルトルディが自由の女神のデザインを作った当時はまだ、このマリアンヌの具体的なイメージはフランス国内で定まっていませんでした。

マリアンヌといえばなんとなく女性というイメージですが、サンキュロットの代表としてのマリアンヌは当初は性別すらはっきりときまっていなかったようで、無論、どういった顔をしているかということもイメージされておらず、マリアンヌの顔の具体的なイメージ像は最近になってようやく作られました。

「フランスの顔」とも言える美しい女性の著名人の顔を合成してつくられたそうで、それらの中には、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴといった女優さんや、このほかの有名歌手やファッションモデルさんが含まれています。

その顔は、パリの共和国広場に設置されているマリアンヌ像でみることができ、この像は右手高くかかげて手に月桂樹の枝を持ち、頭にも月桂樹の冠のようなものをかぶっていて、逆にニューヨークの自由の女神をモデルに創作されたことがわかります。

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しかし、バルトルディが自由の女神のデザインをしたときにはまだ、こうしたイメージは固まっておらず、このため、彼は自分の母親をモデルにしたといわれています。ウィキペディアなどに掲載されているバルトルディの顔写真をみると、なるほどその目元などが自由の女神の顔は彼に似ているようです。

ところが、です。このバルトルディは、フリーメイソンのメンバーだったそうで、自由の女神のモデルは、実はフリーメイソンが崇拝している魔女、メデューサがではなかったかとする説もあるようです。

メドゥーサというのは、ギリシア神話に登場する怪物だということは多くの人が知っているでしょう。

元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンと交わった際、その場所が美の女神アテーナーの神殿であったことからアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまいます。この怪物は石のように輝く目を持ち、見たものを恐怖で石のように硬直させてしまいますが、ペルセウスによって首を切り落とされ退治されてしまいます。

もともとは、メドゥーサが「自分の髪はアテーナーの髪より美しい」と自慢したことが、アテーナーの怒りを買ったともいわれており、その美貌は身の毛のよだつような醜さに変えられ、讃えられるほどの美しい髪はその一本一本を蛇に変えられてしまいました。

しかし、この蛇の髪の毛が、自由の女神のあのとげとげの王冠の元デザインだ、というのは少々無理があるので、やはりそのモデルはバルトルディの母親だったか、あるいはドラクロアの絵からモチーフを得たというのが正しいのかもしれません。

ところが、このドラクロアの描いた自由の女神をみると、たしかに右手をあげてそこに旗を持っている姿は確かに似ているのは似ているのですが、ほかには着ている衣装がちょっと似ているくらいであり、モデルというには少々違うのではないかな、という気がします。

一方では、同じくギリシア神話には、ヘカテーという女神がおり、自由の女神像はどちらかといえばこちらに似ています。このヘカテーは「死の女神」と呼ばれ、他にも「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれており、いずれにせよあまりいいイメージの女神ではありません。

「三相一体」といわれ3つの体を持ち、頭も三つあって、それぞれの方向に睨みを利かせた姿でよく現されますが、現存するギリシャ彫刻などを見ると、その姿は自由の女神とそっくりです。同じくとげとげがついた冠をかぶっており、その表情は死の女神だけに少々こわもてですが、これが自由の女神のモデルといわれるとなるほど、とうなづけそうです。

ギリシャ神話では、松明を持って地獄の猛犬を連れ、夜の十字路や三叉路などに現われるそうで、この十字路や三叉路というのは、二つの道が交わる場所であり、これはすなわちあの世とこの世が交わる場所です。

ヘカテーが、三つの体を持つのも、その力が天上、地上、地下の三世界に及ぶことを表しており、これはまた、新月、半月、満月という「月の三相」を意味します。または処女、婦人、老婆という女性の三相や、過去、現在、未来という時の三相を表しているといいます。

中世には、魔術の女神として黒魔術の本尊ともされ、密かに魔女や魔術師達によって崇拝されたといいますから、フリーメーソンのメンバーであったバルトルディは、むしろこちらをモデルとして選んだのではないかと想像されます。

さて、自由の女神のモデルが、ドラクロアの絵なのかメドゥーサなのか、あるいは、ヘカテーなのか、はたまたバルトルディの母親だったのか、については諸説あるものの、ともかくバルトルディがデザインしたものは、最初にその頭部だけがフランスで造られました。

この像を作るためには、資金集めのため「記念像建造キャンペーン」が代々的に催され、ここで得られた寄付と、宝くじによる収入なども合わせて約40万ドルの資金が集まり1878年にパリで開かれた万国博覧会のために製作が進められ、1884年になってようやくその完成を見ました。

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そのときの写真が残っているのですが、頭部と肩のやや上のほうの部分だけが台座に載ったもので、その台座の部分にはトンネル状の入口が設けられ、現在ニューヨークにあるものと同様、頭部の中に階段が作られていて、冠の部分に相当する一番上まで上がると、そこに窓があって、外を見渡せる、というものでした。

現在ニューヨークに設置されているものも、頭部の冠部分は展望台になっており、まったく同じものだということがわかります。その後、パリ万博は終了しましたが、このとき首の部分はいったん解体されました。

首から下の部分は万博には間に合いませんでしたが、その後こちらも部分部分で製作されました。ただし、その後アメリカに搬送されることが決まっていたために組立ては行われず、仮組みで完成され、これでバルトルディがデザインした頭部から足元までの全体ができました。

そして、214個のパーツに分解された女神像はフランス海軍の軍用輸送船を用いてアメリカに運びこまれ、ニューヨークで再度組み立てられることになりました。ところが女神の本体は到着したものの、到着した当時、この像にはまだ台座の部分がありませんでした。

しかも、本体の組み立てのための足場の調達にも事欠き、台座製作のための資金も足りず、このため、台座の部分は改めてアメリカで寄付を募ろうということになりました。

この建設資金集めのキャンペーンは、「ニューヨーク・ワールド」紙社主だった、ジョセフ・ピューリッツァーが音頭をとって行なわれ、この結果、多くのアメリカ国民からの寄付が集められました。

この台座部分の設計はアメリカの建築家、リチャード・ハントによって行われ、その設計図をもとにおよそ1年かけて台座が完成。そしてその上にフランスから持ち込んだパーツを組み立てていき、最終的に自由の女神像の除幕式が行われたのが、1886年10月28日でした。

当日はあいにくの雨でしたが、この当時の大統領、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトルディが除幕したそうです。

この女神像が置かれることになったリバティ島は、この当時はベドロー島と呼ばれていたそうです。ニューヨーク中心部を流れるハドソン川の河口部に近い部分のど真ん中にあり、左岸側のロウワーマンハッタンやブルックリンや、右岸側のジャージーシティー側からも大変よく見える位置です。

像の内部は空洞ですが、その外部は銅製で、緑青(りょくしょう)化しているため、緑色に見えます。像の頭の部分までの高さは約34メートル、台座からたいまつ(トーチ)までの高さは約46メートル、台座の高さは47メートルであり、台座部分も含めた全体の高さは93メートルにもなります。また、総重量は225トンもあるそうです。

右手には炎がメラメラ燃えるたいまつを空高く掲げ、この炎の部分は純金でコーティングされています。また、左手に持っている本のようなものはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命勃発の日である「1789年7月14日」と、ローマ数字で刻印された銘板です。

さらに足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけており、これは全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴しています。女神がかぶっている冠には7つの突起がありますが、これは、7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味を持つといいます。

あらためて、ギリシャに残っているヘカテー像の頭にあるとげとげをみると、5本しかないようで、バルトルディがこれをモデルにしたとすれば、あとの2本の追加は彼の創作ということになります。

台座部分にはエレベータが設置されていて、エレベータの最上階は10階です。10階からは像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていましたが、2009年7月4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開されました。

ただ、再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240人までと制限されたほか、入場には予約が必要となったそうです。

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この台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっており、エマ・ラザラスという詩人が書いた「新しい巨像」という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。

このエマ・ラザラスという人はあまり著名な人ではありませんが、ドイツ系ユダヤ人であり、19世紀末のロシアにおけるユダヤ人迫害から脱し、難民を受け入れるアメリカへやってきたようです。

詩の内容は、「あなたの国の貧困や疲労で息苦しい人たちを私のところに連れてきなさい。
私は黄金の扉のそばでランプを掲げています」といったもので、アメリカを訪れる移民たちの歓迎の光としてランプをとりあげ、これを象徴としたものです。

実際には自由の女神は、ランプではなくたいまつを掲げていますが、実はこの松明の中には灯台のランプが仕込まれる予定だったそうです。しかし、ランプの光が雲に反射して逆に船舶運航の妨げになるということでこの計画は中止になりました。

灯台として使われる予定だったという証拠に、女神像は南側のハドソン川河口にあるニューヨーク港を向いています。

ところで、この女神像の造作は、前述のとおりフランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエがアメリカとフランスの友情の証となりうるモニュメントを寄贈したという「美談」で語られることが多いようですが、実際には、フランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物なのだということもいわれています。

その証拠に、この自由像をデザインしたのもフリーメーソンのメンバーだったバルトルディであり、また台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。

「この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。

グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。」

このフリーメーソンという組織については、謎が多く、この紙面を借りてそのすべてを描き出すことは不可能です。かつその起源についても諸説が存在していて、説明しようとすると煩雑この上ないのですが、いずれの説でも言えることは、300年以上前から欧州にフリーメーソンの支部が存在しており、かなり古い組織であることは間違いないようです。

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一般的に言われている「フリーメーソン」という言葉は略称で正式名称はフリー・アンド・アクセプテッド・メーソンであり、「メーソン」とは「集団としてのフリーメーソンリーに属する構成員」のことを指します。

フリーメーソンは世界各国に会員が600万人以上いると言われており、フリーメーソンに加入するにはフリーメーソン関係者の紹介やフリーメーソンの審査を通過する必要があるようです。

世界中にいるフリーメーソンのリーダーは、会員を管理するために「ロッジ」と呼ばれる支部を世界中に設置しており、さらに、ロッジの上にはグランドロッジがあり、グランドロッジが各地のロッジを管理しています。

フリーメーソンの存在において特に重要なことは、フリーメーソンの歴代会員には歴史上の重要人物が勢揃いしているという点です。アメリカの建国の父である初代のジョージ・ワシントンをはじめ、米国大統領にはメーソンのメンバーは少なくありません。

リンカーンもセオドア・ルーズベルトもフランクリン・ルーズベルトもトルーマンも、最近ではフォードもそうだったといわれており、確認されているだけで、歴代の米国大統領のうち、15人がメーソンだそうです。

アメリカだけでなく、ヨーロッパでも多く、イギリスでは、古くはジョージ4世やエドワード7世、アーサー・コナン・ドイル、ウィンストン・チャーチルなどがおり、このほかウィーン古典派三大巨匠の一人であるモーツァルトなどなど、歴史に詳しい人なら驚くようなメンツが揃っています。

このように多くの著名人が会員となった背景には、フリーメーソンの秘匿性というメリットがあったからだと推測されます。元々はフリーメーソンは宗教的な秘密集会場だったようで、情報の秘匿は徹底していました。このため、時代時代の権力者が秘密の相談や会議をする際にフリーメーソンを利用していたと言われています。

フリーメーソンの会員にはこうした権力者や上流階級や貴族階級の人だけでなく、フリーメーソンに集まっているこうした人達と繋がりを持ちたいがゆえに入会した人も多いようで、いずれもフリーメーソンの秘匿性を利用しようとした人が次々に集い、やがては大きな組織に発展していったようです。

日本でも、戦後の一時期、首相をつとめたこともある皇族の東久邇宮さんがそうだったといわれており、自民党初代総裁の鳩山一郎元首相も会員でした。ほかにも元幕臣で明治時代初期の啓蒙思想家の西周(にしあまね)や、ピューリッツァー賞受賞の写真家、沢田恭一もメーソンだったそうです。

アメリカ独立と建国の歴史そのものが、フリーメーソンリーにサポートされてきたといわれており、だとすれば歴代の大統領の多くがフリーメーソン出身であるということにも何ら不思議はなく、このようにみると、アメリカの象徴そのものである自由の女神がフランスのフリーメーソンによって贈られたというのもまた不思議ではありません。

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自由の女神は、1984年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

世界遺産センター公表の登録基準である、「人類の創造的才能を表現する傑作」「 顕著で普遍的な意義を有する芸術的作品」といった基準に該当したためですが、フリーメーソンのような秘密結社が関わってできたものを世界遺産に登録してしまって本当にそれでいいのだろうか、とちょっと考えてしまいます。

自由の女神の話題はともかく、このフリーメーソンについては、もう少し書いてみたい気がしたのですが、今日はもうだいぶ紙面が進んだので、またの機会に譲りたいと思います。

さて、天気は今週半ばから次第に下り坂のようで、今朝まで見えていた富士山も今は厚い雲に覆われてきました。空気も少し湿ってきたような気さえします。

いまのところ空梅雨の予報はないようなので、これからまた雨の季節に戻っていくのでしょう。昨日負けてしまったサッカー日本代表のギリシャ戦での奮起も期待したいところですが、私としては、9連敗で2位に陥落してしまった広島カープの動向が気になります。

来週のいまごろまでには、サッカーも野球もその行方がかなりはっきりしているでしょう。が、スポーツは観戦するばかりではなく、自分でもやるもの。必ずしも純粋なスポーツとはいえませんが、私も最近遠ざかっているジョギングやサイクリングでも再開して体力をつけ、この後にくる暑い夏に備えることにしましょう。

皆さんはいかがでしょうか。最近スポーツしてますか?

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