ヨーガは良いか?

2015-8441正月以来の三連休が終り、今日から心身ともに本格始動、という人も多いでしょう。

私は、というと、この連休はなぜか家の中の整理整頓をしており、その余波もあって、今日はやや休みたいな~という気分です。

なぜ正月早々から家内整理かというと、これはかねてよりの課題でした。伊豆へ引越してきてから、以来今年で4年目に入りますが、引越し当初はこのだだっ広い家の勝手がよくわからず、持ち込んだ家具の配置なども適当に決めていました。

そのおかげで日々生活する上においては、あるべきところにあるべきモノがなく、なくても良いところに邪魔な収納物があったりして、結果として家全体の空きスペースをかなり無駄に使っている、という結果になっていました。

例えばこれまで2階の洗面所の脇にはなぜか冷凍庫が置いてありました。一階のキッチンにおける十分なスペースがなかったため、それなら同じ水回りのある2階へということになったわけですが、幅も奥行も結構あるため、他の家具とのバランスを取る上でもネックになっていました。

しかも、この冷凍庫は引越し以来一度も使ったことがなく、文字通り宝の持ち腐れ状態でした。捨てればよさそうなものですが、そこは二人とも貧乏性なところがあり、もしかしたらいつかは使えるかもと思い、そのままにしていたわけです。

そこで、当面はこれを一階の階段下にある倉庫に押し込むこととし、冷凍庫があった場所にはその代りに本箱を持ってきました。洗面所に本箱?と思われるかもしれませんが、薄型のこの箱は収納にはかなり便利であり、その本箱が元あった場所のスペースも空いて、かなり効率よくその部屋が使えるようになりました。

以後、あとはドミノ倒しのように2階にあった家具を移動しまくり、その結果として各部屋とも広大なるスペースを生み出すことに成功しました。いったいどこにこんな空間があったのよ、という変わりようであり、テレビ東京のビフォーアフターを地でいったような気分ともなり、自分でも大いに満足できました。

それにしてもなぜ正月早々……と疑問を持たれる向きもあると思いますが、こうした家具の移動というのは、結構体力も使い、しかも暑い時期の作業は汗もかきやすく億劫になりがちです。

涼しい時期であれば汗をかかないし逆に体も温まり、しかも一年の初めにそうした面倒くさいことをやっておけば、あとの生活も楽になるであろうし、快適に暮らせます。今年は早々から自分にカツを入れていこうと思っており、そうした意味でもやるなら今しかない、本格的に仕事を始める前に終わらせておこう!と思い立ったというわけです。

しかし、家内整理が終わって思っての最大の反省点は、やはり今回も大がかりな「断捨離」はできなかったな……ということ。

前述の冷凍庫もそうですが、今回の模様替えで出たゴミというのはほんの僅かであり、とくに始める前には大量にある書籍類にも手をつけようと思っていたのですが、結局は本棚の移動に伴い、そのままこれも場所から場所へ移しただけで終わってしまいました。

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この断捨離ですが、改めて説明をする必要もないでしょう。4~5年前から流行り始めた言葉で、元は「やましたひでこ」さんという人が書いた「新・片づけ術『断捨離』(マガジンハウス、2009年)」がヒットしたことからブームに火がつきました。

この人は、石川県在住の主婦のようで、早稲田大学文学部に在学中に入門したヨガ道場がきっかけで、ここで断捨離の基礎を学び、その後、それを自身の家内の片付けに応用し、「断捨離」という造語を生み出しました。

そして、46歳だった2001年よりクラターコンサルタントとして断捨離セミナーを全国で開始。クラターとは、clutter、 散乱したモノ、ガラクタのことで、これを片付けるお手伝いをするコンサルタント、ということのようです。

以後、断捨離の第一人者としてその名を知られ、多くの著書も出版していますが、この断捨離を実践する人のことを「ダンシャリアン」と呼ぶそうです。やましたさんがセミナーを開始したのが2001年なので、その道10年以上のプロフェッショナルダンシャリアンということになります。

やましたさん自身、若いころは片付けが苦手で、ずっとモノが減らない状態になっていたんだとか。ヨガの行法を習ってから、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を知りました。

これを応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術として確立したのが「断捨離」です。

やましたさんによれば、

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

ということで、これは単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くといいます。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があり、これはこれでひとつの考え方・価値観ですが、この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなります。

そして、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆきます。

やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまいます。

断捨離は、こうした「もったいない」という固定観念や思い込みにとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法だといいます。

やましたさんのこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになり、さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかたや人間関係にも断捨離を実践することをすすめる書物などもなども出版されるようになりました。

ちなみに「断捨離」という言葉は商標登録されているそうなので、この言葉を冠した商品やサービスを出すのはご法度です。が、2010年の流行語にも選ばれたほどであり、普通に現代用語として使われています。いまや断捨離と聞いて何のことだかわからない、という人はほとんどいないのではないでしょうか。

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私もこの教えに従い、断捨離を実行したいと常々思ってはいるのですが、なかなか思うことを実行に移すというのは難しいものです。しかしまあ、かねてより気になっていた家内整理を年初め早々から終わらせることができた、というのは気分的には大きく、これから本格化させる予定の仕事の上でも大きな効果を与えるような気がしています。

ところで、このやましたさんも学んだという、ヨーガというヤツですが、改めてその起源を調べてみました。すると、元々は、古代インド発祥の修行法であり、英音表記の“Yoga”は、「馬にくびきをかける」という意味の動詞のインド語「yuj」から派生した名詞だそうです。

つまり語源的に見ると、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようです。「ヨガ」と呼ばれることも多いようですが、サンスクリット語では「o」は長母音として発音するそうで、「ヨーガ」のほうが正しいようです。

明確な起源は定かではないようですが、紀元前2500~1800年のインダス文明に起源をもつのではないかということが言われており、同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっているそうです。

ヨーガに関する最も古い記述は、紀元前800~500年の「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」という本だそうで、この本は、「真我」と「宇宙」の合体という難しい哲学について書いてある本のようです。

真我というのは、原語では「アートマン」といい、人間の意識の最も深い内側にある「個」の原理のことです。一方、宇宙を支配する原理のことを「梵(ブラフマン)といい、個人を支配する原理である「我(アートマン)」とが同一であることを悟ることを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。

この悟りを得ることは、永遠の至福に到達することだとされており、古代インドにおける究極の悟りとされています。私のような凡人にはよくわかりにくい理屈ですが、自分の心と宇宙を合体させれば幸せになれる、という解釈なのでしょう。

紀元前350年~300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」という書物には、これらについてのより詳しい説明が書いてあるそうで、かつこれがヨーガの最古の説明だとされているものです。

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その後、2~4世紀ごろまでには、「ヨーガ学」なるものが成立し、その理論や実践方法が「パタンジャリ」という学者によってさらに「ヨーガ・スートラ」という本にまとめられました。

この本は、「解脱」への実践方法として体系づけられたもので、解脱とは、煩悩による繋縛から解き放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指します。

そして、どうやらこの辺の理屈が、断捨離につながっていくようです。

このパタンジャリという人は、古代インドの文法学者で、その著書である「ヨーガ・スートラ」は、心身の調和と健康の増進を目的としたヨーガの哲学的根拠であり、世界的にもポピュラーな古典とされているようです。

内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガであり、これは「静的なヨーガ」であり、「ラージャ・ヨーガ」(王様のヨーガ)」と名付けられています。

8つの段階からなっており、これは、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナーヤーマ(調気法、呼吸法を伴ったプラーナ調御)、プラティヤーハーラ(制感、感覚制御)、ダーラナー(精神集中)、ディヤーナ(瞑想、静慮)、サマーディ(三昧)です。

なんだかどんどん難しくなっていきますが、「ヨーガ・スートラ」では、その要諦として、「ヨーガとは心素の働きを止滅することである」と断じています。

「純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」とも書かれているといいますが、余計にわからなくなります。私的な解釈としてはあれこれと色々考えすぎず、心を落ち着けて「考える」ということから自己を解き放てば物事が見えてくる、ということを言っているのではないかと思います。

その後、12~13世紀には、この静的なヨーガに対して、動的なヨーガが出現し、これは「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるようになりました。「力のヨーガ」という意味だそうで、現在世界中に普及している、体を動かすヨーガはこのハタ・ヨーガを基礎としているようです。

内容としては坐法(アーサナ)や調気法(プラーナーヤーマ)を重視しており、テレビの「ヨーガ講座」などで取り上げられているのは主にこれらです。

インドではこれらのヨーガに対して、科学的な研究を行っており、1920年代には、インドマハーラーシュトラ州ロナワラ市に、「カイヴァルヤダーマ・ヨーガ研究所」という研究所が開設されました。

インド政府はその後、8校の“ヨーガと自然療法医科大学”をはじめ30校を超える大学にヨーガ学科を設置してきており、その内の1つであるスワミ・ヴィヴェーカナンダ研究財団の教育部門には大学院大学もあり、ここで修士号・博士号をも取得できるそうです。

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このヨーガを日本に伝えたのは、大同元年(806年)に唐への留学から帰国したのち真言宗を広めた「空海(のちの弘法大師)」です。日本では瑜伽(ゆが)として紹介しました。

東京の世田谷区に東急田園都市線の用賀駅を中心とした「用賀」という場所がありますが、これはこの地にある「眞福寺」という真言宗のお寺の山号が「瑜伽」であり、これが「用賀」に転じたのだそうです。

このように瑜伽は、その後も日本の仏教界に定着し、空海が開いた真言宗だけでなく、天台宗などにもその作法が伝わり、これらは「護摩」などとして現在にも伝わっています。

護摩というのは、炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れるというものです。火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうというものであり、近年では、真言宗や天台宗の流派には属さない寺社でも「お火焚き」「火祭り」などの別称を用いて実施されているものです。

このほか、「阿字観」とういものもあります。これは「阿」という梵字(ぼんじ)を軸装したものを目の前に掲げて、観想(瞑想)するというもので、「阿」という字を観するので「阿字観」と呼ぶわけです。この作法を修すると、一切の煩悩を除くことになるといい、「阿」とうい文字は、万物の不生不滅の原理の意味だとされているものです。

護摩ほどポピュラーではありませんが、真言宗や天台宗のお寺では今でも阿字観に参加しませんか、と座禅と同じような感覚での修養を勧めているところもあります。この禅宗に伝わっている「座禅」もまた、ヨーガ・スートラ記述されているもので、語源は「ディヤーナ」といいます。

このように、現在我々はインド発祥とは意識していませんが、巷で流行している健康法の中には、昭和に入ってから元々はヨーガだったものが、名を変えて広く普及するようになったものも多いようです。ひところ世間を大いに騒がせたオウム真理教もまた、伝統的ヨーガを導入した新興宗教団体だったことは記憶に新しいところです。

しかし、一連の事件によって多くの罪を犯したため、そのあおりを受けてヨーガ自体も一時下火になった時代もありました。ところが、2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとして上述のハタ・ヨーガがテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えてきました。

フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なっているところもあります。ただ、この流行は日本で自発的に起こったものではなく、アメリカ、特にニューヨークで流行ったり、ハリウッドの有名人が実践しているということで日本人もこれを真似するようになったものです。

現在でもハタ・ヨーガはアメリカで大人気であり、あちらでは、ヨーガを習う人の数は1,650万人を超えているといいます。無論、日本での人気も続いているようで、芸能人の中にはこれを実践してダイエットに成功した、という人もいて、このためさらにブームに拍車をかけているようです。

“ハタ”はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉です。教義の上では、「太陽」を意味する“ハ”と、「月」を意味する“タ”という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派です。

元々は悟りに至るための補助的技法として取り入れられたものです。従って「霊性」を磨くために修行に取り入れるならば、非常に有効ですが、生半可の理解でこれを習得しても効果は得られません。肉体的操作ばかりに重きがおかれるばかりで精神の修養にはまったく効果がないようであり、元々のハタ・ヨーガの可能性を極端に狭める結果になります。

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新年を始めるのにあたって、このハタ・ヨーガを始めるのも良いかもしれません。しかし、私的には、同じヨーガ発祥の健康法としては座禅のほうに興味があります。

その昔、実践していたこともあり、その時は技術士の試験を受けるための精神修養を行うつもりで始めたのですが、直後に試験にも受かり、大いに効果があったように感じています。

その後子育てやら仕事にも追われ、膝を組む機会も減ってしまっていますが、今年このような形で家内を整理でき、落ち着いたスペースができたこともあり、再び座禅を組んでみようか、という気になってきました。

麓の温泉街にある修禅寺はその名の通り禅寺であり、週に一回程度一般向けの座禅会も開催しているようです。こちらに参加してみるのもいいかもしれません。

しかし無論のこと、座禅をするには何も必要なく、どこでもいつでもできます。自宅でもできるわけであり、その際は、富士山の方向を向いて、静かに時を過ごす、というのもいいかもしれません。

みなさんもひとつどうでしょう。身の回りで断捨離を実践し、清涼で落ち着いたスペースを作ってそこで座禅を組んでみる、というのはなかなかよさげです。

身辺の整理のみならず、心の中もリフレッシュして新しい一年にチャレンジしてみる、というのは今年一年の初めにたてる抱負としてもなかなか良いアイデアだと思いますが、いかがでしょうか。

2015-8448下田・爪木崎にて

風邪をひいたら……

2014-7909年末でいろいろ新年の準備をしなければならないというのに、風邪をひいてしまい、日曜日の夕方から寝込んでいました。

症状としてはそれほどひどくはないのですが、微熱があって食欲がなく、体のあちこちが痛む、といった典型的なそれです。

ひどくなる前に、広島の知り合いから送ってきた生ガキを大量に食したので、すわノロウィルスか、とも思ったのですが、普通の風邪のようで、不幸中の幸いとはこのことかと思っている次第。

やれやれそれならそれで、布団の中でじっくり考え事でもしようかな、と思っていたものの、熱のためか思考がまとまらず、同じことを何度も何度も反芻して考えるだけで、結論めいたものは何一つ得られず、結局横になっているだけの一日となりました。

今日はだいぶ回復した感があるので、こうしてブログでも更新しようかという気にはなっているのですが、何をテーマに書こうとか目的意識などなく、ただ単に指を動かして目で文字を追っているだけ、といった風情です。

最近、風邪らしい風邪をひいたことがなく、ひいたとしても軽い症状で済んでいました。我が家には温泉が出るのですが、以前から温泉に浸かっていると風邪をひかない、とはよく人に言われていたことです。今の今まであまりひどい感冒にかからなかったことは、この温泉入浴と無縁ではないでしょう。

では、これほど重い症状だったのは…と思い起こしてみると、記憶にあるのは、一昨年の正月のこと。ですから、およそ2年ぶりの病気といえば病気になるわけです。そのころは何をしていたかな~と考えているのですが、よく思い出しません。が、何やら仕事の方向性や何かのことで色々悩んでいたような気がします。

以前、このブログでも紹介したことのある、「病気が教えてくれる病気の治し方(トアヴァルト・デトレフゼンと、リューディガー・ダールケ共著、柏書房)」という本では、こうした病気については、すべてスピリチュアル的な意味がある、という観点から理論展開をしています。

今日はあまり元気がないので、詳しいことはこの本を読んでいただくとして、この本には、生きた人間の体は、非物質的なもの、つまり意識と精神のはたらきによって機能しており、意識や精神の醸し出す情報が、物質的な肉体に伝えられて動かされ可視化される、といったことが書かれています。

従って病気もまた意識という「魂」と精神という「命」によって示された何等かのメッセージだというわけです。

そこで、今の私のテーマである、この風邪についてのこの本における記述について、もう一度まとめてみましょう。

風邪は呼吸器官を激しく消耗させる病気です。風邪といっても色々な種類があるようですが、一般的にはウイルスの感染による上気道(鼻やのど)が炎症を発した状態のことです。のどのいがいがや痛み、くしゃみ鼻水、鼻づまりなどの局部症状とともに、しばしば発熱、倦怠感、頭痛など全身症状をひきおこします。

もともと、ウィルスによって体の健全な組織が攻撃されているため、体内の細胞たちが抗体を作ってこれをやっつけようとしているわけですが、これをスピリチュアル的に考えると、我々の魂はウィルスというものに形を変えた精神障害に対して「葛藤」し、これを「消化」している状況になります。

従って、風邪をひいた場合は、精神レベルで何かの問題があってその症状を発しているのであって、その炎症の起こっている場所や領域を調べれば、なぜその風邪をひいたのかがわかる、ということになります。

例えば、風邪をひくとたいてい、くしゃみや鼻水など、たいていといっていいほど「鼻」に症状が出ます。「病気が教えてくれる病気の治し方」によれば、これはつまり、なにかが「鼻もちならない」危機的状況のときと考えることができるといいます。

危機的状況といっても、命が危険にさらされるようなものではなく、日ごろよくある状況で、大騒ぎするほどではないけれど心の重荷になってしばらくそこから逃げたくなる、そんな状況をさします。

ただし、それを自分に認める心の準備がまだないので、まずは体に症状として現れます。そして風邪をひくことによって意識せずにその隠された願い~現実からの逃避~を実現することができます。

例えば風邪をひいて休むことができれば、誰もが状況を理解してくれます。風邪さえひきさえすれば、やっかいな状況から距離を置いて自分をいたわることもできます。そして繊細になってしまっている心の状態を、体レベルで表現することで外部に示すことができるわけです。

このほか、風邪の症状としては、頭が痛い、目に涙がたまる、体の節々が痛む、いらいらするといったことがあり、全般的に「感じやすく」なります。このため、人から近寄られたり触れられたりするのを極端にいやがり、鼻がつまってコミュニケーションができなくなります。

自分で意識する、しないは別として、くしゃみによってさらに守りを固めるところとなり、やがては喉が荒れて、コミュニケーションの媒介として言葉を話すことも制限されていき、とどのつまりは孤立します。孤立してしまえば、何人からも妨げられることもなく、ひとりの世界の中で、今抱えている問題をじっくり考えることもできようわけです。

しかし、いつまでも自分の殻に閉じこもってばかりいても、問題は解決しません。新たな自分を見つめ直し、風邪を治して新たな方向性をみつけていかなくてはなりません。

こうした風邪の症状に対応するためには、まずは、背負った問題を化膿した粘液として体外に出そうと試みればうまくいきます。「鼻持ちならない状況」を起こした原因を考え、それが自分に起因するならばこれを修正し、他人が引き起こした状態ならばその人との和解を考えます。

自分が引き起こした問題であり、自己責任として処理する場合も多いでしょう。そこは謙虚に自分を見つめ直し、それが功を奏してひとつひとつ問題解決の糸口がみつかり、がんじがらめになった課題のしがらみから解放されれば、まず気が楽になります。

あらゆる通り道をふさいでいるねばっこい粘液が再びさらさらと流し出す、というイメージを持つことが大事です。こうして「鼻持ちならない」状況を起こした風邪は流動的になり、やがて小さな進歩の訪れを告げます。

風邪がすっかり治っているころには、なぜあんなに悩んでいたのだろうか、とウソのように問題は解決しているでしょう。私もよくあるのですが、風邪をひく前とそれが治ったああとでは精神状態がガラッ変わっていることがあります。

しかし、もし風邪が治らず、長続きするようならば、何も問題解決の糸口が見えていないのかもしれません。

ただ、ある自然療法では、風邪は体から毒を洗い流す健康な洗浄作用とみなされているそうです。精神レベルでも毒は問題であり、これが排出されることで、体も心も元気になって危機を脱するのです。

従って、風邪もなかなか治らず、何も問題も解決されていない、と嘆かずとも、少なくとも体の中からある種の毒は抜けつつあるはずです。そして時間がかかってもやがてはその毒気は抜けるはずであり、リフレッシュしたその心と体で新たな一歩を踏み出しましょう。そうすればきっと道は開けるはずです。

こうしたことを踏まえ、今回の自分の風邪は何だったのかな、と自問してみるのですが、ひとつはやはり忙しさから逃げたい、逃げ出したい、はあったように思います。またなんでもかんでも自分ひとりでしょい込みがちな性格から出た閉塞感、という側面もあるように思います。

そして、しばし体を横たえ、ぼんやりとした頭の中でこれらの問題の対処方法を考えていたら、少し風邪もやわらいだような気がします。

なので、皆さんもいかがでしょう。年末年始、人ごみの多いところへ出かけることも多くなると思いますが、そこで貰った風邪は必ずしも単なるインフルエンザではなく、自分の精神状態から出たものだ、と考えるとまた対処方法が違ってくるのではないでしょうか。

ただし風邪は誰でも何度もひきます。風邪をひかないでいられるのは次に何かが鼻持ちならなくなることが起きるまでのひとときです。

次の風邪をひかないよう、つねに自分のこころとからだを見張って問題の根っこは常日頃摘み取っておきましょう。