城山へ登ってきました

別荘地から城山をのぞむ

最近、ほぼ一年ぶりにジョギングを再開しました。昨年の今頃は引越し前の大騒ぎで、ジョギングどころではなく、毎日引っ越し荷物の整理と廃棄物の処理をしていたような気がします。

一年ぶりということで、体がなまっていないかなと思いましたが、最初の一二日ほどはやや筋肉痛が残ったものの、その後は順調でほぼ前と同じ程度の調子で走れるようになりました。

早朝五時半!くらいには起き出し、だいたい30分ほどをかけて、別荘地内を走るのですが、高台にあるだけに、随所で富士山や天城山、田方平野の絶景が見える場所があり、こういう風景に出会ったときは最高の気分です。

こんな早い時間帯にもかかわらず、健康のためか散歩をされている方や犬に散歩をさせている方も多く、それぞれみなさん「おはようございます」と声をかけてくださるのは気持ちのよいもの。

ただ、この別荘地にはご高齢の方も多く、私以外にジョギングをされている方はほとんどいないのがちょっと寂しい感じもします。自分でさえ既に50才を超えているのに、別荘地内では最年少のような錯覚を覚えるのは気のせいでしょうか。

11月に入って上天気の日も多く、最近はこうしたジョギングだけでなく、暑い夏の間は控えていた外出をすることも多くなってきました。先々週には念願だった「城山(じょうやま)」(342m)に登山し、ここからさらに尾根づたいに葛城山(452m)の山頂までトレッキングしてきました。

城山は、その昔の火山の名残で、地下にあったマグマが地上に出て冷え固まり、浸食によって地表に現れることでできた「岩頸(がんけい)」と呼ばれる地形で、別名「溶岩ドーム」ともいいます。すぐ麓には狩野川が流れ、垂直に立ちあがった岩肌はかなり周囲の景観から際立っていて、その特徴的な姿から、この辺のシンボル的存在となっています。

駿豆線の大仁駅から歩いて、そうですね、20分ほどぐらいでしょうか、狩野川大橋を渡ってすぐのところにその登山口があります。

その切りたった岸壁がロッククライミングのスポットになっているほか、狩野川の脇から山頂まで登山道が整備されていることから、これにチャレンジするロッククライマーや一般登山客が多く、このため、登山道の入口付近には乗用車20台ほどを止められる駐車場もあります(無料)。

私もここにクルマを止め、城山山頂をめざしましたが、土曜日の早朝(朝8時ごろ)ということもあり、一般の登山客は一人もいませんでした。ただ、ロッククライミングを楽しむ方々が早くもクルマで乗り付けていて、ナンバーをみると品川や横浜と都内や神奈川から来られる方が多いようでした。

登山道は一本道ですが、途中から頂上へ上る道と、ロッククライミングのための取り付けポイントへ向かう道のふたつに分かれます。私が行ったときには、3人一組の男性グループがちょうどこのポイントに向かっているのを目にしました。

頂上へは健脚の人でなくても、だいたい30~40分くらいで登れるでしょう。辿り着いた城山山頂には畳三畳分ほどの展望台が設けられています。といってもベンチやパーゴラがあるわけではなく、大きな石の間を整地してコンクリートで平らにしてあるだけです。

ここからの展望は東から南にかけての眺めがよく、眼下に狩野川から南の天城山のほうまでの東方約180度を望むことができます。その北側には富士山を望むことができることはできますが、やや樹木が密度濃く茂っていて、その姿が少し見えにくいのが難点です。

城山山頂から大仁方面をのぞむ

この城山には、南北朝時代(1336~1392)に畠山国清という武将によって造られた「金山城」というお城があったそうです。畠山国清は、足利尊氏に従って鎌倉幕府討幕に加わったあと、畿内の和泉、と紀伊の守護になった人ですが、足利政権の執事(管領)と仲違いして中央を追われ、伊豆へ逃げこみました。

そしてこの地で一旗揚げて中央と対抗しようとしますが、地元伊豆の武士たちからも嫌われ、総スカンを食らい、逆に攻め滅ぼされてしまった、という、あわれといえばあわれな武将です。

私がみたところ、その金山城の跡らしいものは頂上付近には見受けられませんでしたが、他の山中には堀切や土塁の跡が残っているそうです。頂上付近はこの当時見張台として使用されていたそうで、その後戦国時代にも北条早雲の後北条氏がここを城として使用したということです。

城山山頂から天城山方面をのぞむ

私もそうですが、ハイカーの中にはここからさらに西北側にそびえる葛城山を目指し、さらにその西側の発端丈山(ほったんじょうやま)(410m)に登り、その直下の駿河湾に抜ける長距離ルートを歩く人も多いようです。

登山道はよく整備されていて、城山~葛城山~発端丈山間は、それほどヘビーな登山靴を履いていなくても大丈夫です。軽登山靴で十分でしょう。私はこの当日かなり軽装で、履いていた靴はジョギングシューズでしたが、靴表が柔らかいので後半は足先が痛くなりました。登山道が良いとはいえ、私のマネはしないほうがいいと思います。

道案内の看板も主要分岐点などには立てられています。が、案内の表示がわかりにくい箇所が何ヶ所かあったと思うので、現地で出くわした分岐では地図としっかりとにらめっこして先へ進むことをお勧めします。

城山から葛城山までは快適な尾根道が続きます。途中、富士山がよくみえる絶景ポイントが何ヶ所かあります。ずっと登りではなく、いったん下り、一度ふもとから来る林道沿いに進む区間がありますが、この区間からの富士山はなかなかの眺めです。

この林道の途中からさらに葛城山山頂を目指しますが、これは結構急坂で、頂上へ着くころにはたいがいの人が大汗をかくことでしょう。

城山から葛城山山頂までの行程ですが、だいたい一時間半くらいと考えればいいと思います。健脚の人なら一時間で行けるかも。私は写真を撮りとり行きましたので、二時間弱かかりました。

葛城山には、ちょうど去年の今頃に登ったことがあり、このときにもブログで紹介したような記憶があります。山頂部一帯が、「伊豆の国パノラマパーク」という公園になっていて、山の北側の麓から山頂まではロープウェイが運行されています。

山頂からの富士山や天城山の眺めは絶景です。ふもとから見てもわかるとおり、周囲にはその視界を妨げるような高い山は全くみあたらず、非常によく目立つ山塊です。頂上付近には茶屋やお土産物屋さん、簡単なアスレチックなども置かれており、伊豆長岡テレビ中継局も設置されていて、このための大きなアンテナが立っています。

パラグライダーのためのテイクオフポイントも設けられているそうで、これがどこにあるのか確認しませんでしたが、そういえば少し前、葛城山の北側で気持ちよさそうに泳いでいるパラグライダーを確認しました。

この葛城山も昔は火山でした。といっても、城山のような陸上の火山ではなく、海底火山だったようで、およそ1千万〜200万年前に、噴火した海底火山がその噴出物とともに隆起してできた山だそうで、伊豆半島でも3番目に古い地質なのだそうです。

その昔、フィリピン海プレートに乗っかっていた伊豆半島が、本州側のプレートの衝突したときにぶつかって隆起したのが葛城山で、その後浸食が進んで、葛城山やその西北に連なる発端丈山などをはじめとする静浦山地ができました。

山頂にある「パノラマパーク」内には平安時代よりその名が確認されている葛城神社や、鎌倉時代より置かれていたと言われる地蔵尊などがあり、葛城山は古くから人々に信仰されていた山のようです。

今年の7月ころに書いた「伊豆の王国」という記事の中で、その昔この伊豆半島の中央部には「葛城氏」とう豪族の長を王にいただく、「伊都の国」という王国があったらしいということを書きました。

その都は葛城山の東側にある、田京(伊豆の国市大仁田京)という場所にあったのではないかといわれており、この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったのではないかという説があるのです。

古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうで、これに出てくる「葛城」とは「葛城山」のことではないかという人もいます。

「掖上宮」というのは宮城のことだそうで、この説をもとにすると「御眞津日子詞惠志泥命」という「伊豆の王」がかつて葛城という場所に住んでおり、この「葛城」こそが葛城山だとすると、古くは葛城山の山頂にその「伊豆の王」の何等かの拠点があり、その宮城は田京にあったのではないか、と解釈できるというのです。

その「拠点」とは何だったのだかはわかりませんが、もしかしたらピラミッドや大きな古墳のようなものだったのかもしれません。だとすると葛城山はその昔の大きな古墳跡なのでしょうか???

伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、京都や奈良にあるのと同じ地名がたくさんあります。この地名もこのころ、畿内からやってきた京都や奈良のお公家さんが伊豆王国を建設したときの名残と考えると、なかなか楽しくなります。

しかも、この伊豆王国は、かつての邪馬台国に匹敵するような王国ではなかったかという説もあり、そういうふうに考えるとますますワクワクしてきます。

葛城山山頂から沼津方面をのぞむ

さて、この日の葛城山の山頂は、そんなことは全く知らない観光客さんばかりであふれておりました。こちらは汗をかきかき、どろどろで登ってきたのですが、頂上にはハイヒールを履いて愛犬連れで登ってこられるような人も大勢いて、自分とのギャップを感じてしまいました。閑静な山道からいきなり大勢の人で賑わう山頂に出たせいもあります。

この日頂上からの富士山の眺めは絶好でした。みなさんも機会あれば行ってみてください。これからの季節はおすすめです。

帰路は、頂上から一気に下るだけなので楽でした。が、途中の分岐で案内表示を勘違いしてしまい、一本道を間違えてしまいました。誤って駿河湾側に降りる発端丈山のルートに入ってしまったのですが、途中で気づいて引き返すことができました。

城山まで降りてきたとき、その岸壁に張り付いている若者二人を目撃しました。おそろしい眺めです。人間技ではありません。どうしてあんなところをしかもあんな細いロープを頼りに登れるのでしょうか……

今回の登山では発端丈山へは登りませんでしたが、次回、今度はこちらにもアプローチし、「沼津アルプス」と呼ばれている登山ルートにもチャレンジしてみたいと思います。機会あらばまたそのレポートなども掲載しましょう。

スポーツの秋です。みなさんもこぞって山登りにチャレンジしてみてください。

洞爺丸

今日9月26日は、54年前の1958年に「狩野川台風」が伊豆地方に豪雨をもたらした日です。狩野川流域だけで死者・不明者853名、静岡県全体での死者・行方不明者は1046人、他県も含めた全体では、死者・行方不明者数1269名を出す大災害になりました。

ところが、これを上回る規模の犠牲者を出したのが、この翌年に来襲した伊勢湾台風で、1959年(昭和34年)の同じ日、9月26日に、和歌山県南端の潮岬に上陸し、死者4697人・行方不明者401人、合計5098人の犠牲者を出しており、犠牲者の数を基準とするならば、史上最悪の台風ということになります。

伊勢湾台風は、同じく大きな被害を出した、室戸台風(昭和9年、高知県室戸岬上陸、死者2702人、不明334人、計3036人)、枕崎台風(昭和20年、鹿児島県枕崎上陸、死者2473人、行方不明者1283人、計3756人)と合わせて「昭和の三大台風」と呼ばれています。

それぞれ、9月21日、9月17日に発生しており、改めて9月はやっぱ台風が多いわーと唸ってしまいます。

しかし、気象庁の統計データによると、1951年以降、昨年2011年までの合計では、8月の台風発生回数は8月がもっとも多くて340回、9月はこれに次いで301回となっています(7月は232回、10月、228回)。

上陸数についても、9月は56回なのに対して、8月は62回(7月28回、10月14回)なので、統計データだけみると9月が一番台風が多い、というのは間違いで、8月のほうが多いということになります。

しかし、昭和に死者・行方不明者数が1000人を超えたものと、平成になってから死者・行方不明者数が40人を超えた11個の台風は、ひとつを除いてすべて9月に来襲しており、これにより9月に訪れた台風は大きな被害をもたらす傾向があるということがわかります。

気象庁によれば、9月のこの頃には日本列島付近に秋雨前線があり、台風の東側を廻って前線に流れ込む湿った空気が前線の活動を活発化させて大雨を降らせる場合があることが多いためではないか、ということです。

2012年の9月26日の今日現在も、日本の南海には二つの台風が発生していて、日本への上陸をうかがっているようにもみえます。9月ももうすぐ終わりですが、台風とそれに伴う大雨にはくれぐれも注意しましょう。

洞爺丸事故

ところで、今日9月26日は、狩野川台風、伊勢湾台風とふたつの台風による大災害がもたらされた日であるとともに、1954年の同日にも、大きな事故が発生しています。「洞爺丸事故」というのがそれで、こちらは多分に人為ミスの可能姓が高いものの、同じく台風が原因となった海難事故なので、ある意味「災害」といってもよいかもしれません。

死者・行方不明者あわせて1155人の命が奪われており、日本海難史上最大の惨事といわれています。

洞爺丸(とうやまる)は、青森と函館を結ぶいわゆる「青函連絡船」です。戦後、国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻で、空襲による造船施設の破壊や戦後の資材不足といった非常に困難な状況のもとで、当時としては異例の速いペースで建造された船であり、日本造船界の戦後復興期を象徴する船舶ともいえます。

総トン数は旧型の青函連絡船、翔鳳丸型3400トン級から3800トン級へと大型化され、厳しい建造事情が想起されないほどの充実した設備(特に1等・2等部分)を誇り、旅客定員も1128人と翔鳳丸型の895人から大幅に増えました。

1947年に竣工したときの試運転最大速力は17.46ノットと、翔鳳丸の16.95ノットを若干上回ってはいたものの、函館-青森間の所要時間は翔鳳丸型とあまり変わらず、4時間30分でした。

戦時中は、迷彩塗装を施されていた青函連絡船ですが、洞爺丸型は船体上部を真っ白に塗装された優美な船でした。この当時としては快適な船旅ができるということで利用客からも非常に好評で、鈍足で激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えてきた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された船内でくつろぐことができたといいます。

竣工後3年経った1950年には、姉妹船として建造された渡島丸と共に、日本の商船で初めてレーダーを装備し、また、1954年8月の北海道国体に際して行われた昭和天皇北海道行幸ではお召し船となるなど、「海峡の女王」と呼ばれ、青函航路のフラッグ・シップとして親しまれました。

しかし、昭和天皇のお召し船となってから僅か一か月余り後の1954年(昭和29年)9月26日、上り4便として遅れること約4時間で函館を出航した洞爺丸は、函館港出港直後から台風15号によって引き起こされた強風と高波を受けます。このため船長は前途の航行が困難と判断し、函館港外に錨泊し、これをやりすごそうとしました。

ところが、車輌甲板からの浸水により発電機および主機関が停止したことによって操船不能となって流され、七重浜沖で転覆・沈没。多くの犠牲者を出すことになるのです。

台風15号

1954年9月26日未明、九州南部に上陸していた台風第15号(1958年に洞爺丸台風と命名)は、15時時点で青森県西方約100キロメートルにあって、中心気圧968ミリバールの中型台風でした。しかし、時速110kmと早い速度で北東に進んでおり、その後17時ころ渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていました。

しかし、台風は予想と異なり、渡島半島を通過せず日本海側を進んで北海道北西岸に接近。しかも速度を大きく落とします。このため、南西に向けて開口した函館湾は、台風の危険半円内にすっぽり入ったまま長時間を過ごすことになり、暴風と巨大な波が長い時間をかけて繰り返し来襲することになりました。

ところが、この台風が北海道地方に襲来する前、函館地方にはしばしの晴れ間が訪れ、これはまるで台風の目が訪れたときのようでした。台風のど真ん中、すなわち台風の目に入ったときは、風や雨もやみ、晴れ間が出るというのはご存知だと思います。

晴れ間と思われたこの天気の好転は、実は台風の東側にあった閉塞前線の通過によるものでした。通常、閉塞前線が通過したあとには高気圧が入り、晴れ間が長く続きます。

しかしこの場合、閉塞前線のあとには台風が控えており、晴れ間が生じたのは閉塞前線が通過した直後のほんのひとときの間のことでした。洞爺丸の船長は、これを天候の回復のきざしと勘違いし、船を出航させてしまいますが、この判断ミスがそのあとの大参事を起こすことになろうとは、このとき予想だにしませんでした、。

この時代にはまだ気象衛星はなく、洞爺丸が搭載していたレーダーは気象用ではなく、気象レーダーはようやく一部で運用に達した段階でした。気象レーダーの不足を補うために飛ばされる気象観測機の運営も米軍任せであり、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは困難なことでした。

出航

その日の11時過ぎ、午前中に青森からの下り3便として運航を終えていた洞爺丸は、函館の鉄道桟橋第1岸に到着し、折り返し14時40分出航の上り4便となる予定でした。洞爺丸の船長の「近藤平市」船長は、このように晴れ間も見える気象条件だったことから、当初は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着することができると見通しを立てていました。

しかし、12時40分頃に、青森へ向かっていた渡島丸という貨物船から、海峡中央では、風速25メートルの風が吹き、波、うねりとも高く、船の傾斜の激しく、その航行はかなり「難航中」という通報が入ります。

このとき、洞爺丸よりも先に出航していた、別の青函連絡船の第六青函丸と第十一青函丸も、この通報を聞いて津軽海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返してきました。

このため、第十一青函丸に乗船していた米軍軍人・軍属などの乗客と車両は、後続の洞爺丸へ移乗させようということになりましたが、波が高かったため着岸に時間がかかり、その後の移乗作業にも手間取ってしまいます。また悪いことに、この日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋を動かすことができず、このため洞爺丸も15時10分には、台風接近を恐れて運航を中止することに決定しました。

この停電はわずか2分間のことだったそうで、もし、停電がなく可動橋が上がっていたら、洞爺丸は移乗作業が終わりしだい出航し、その後無事に青森に到着していたであろうといわれています。

一旦出航を見合わせた洞爺丸ですが、17時頃、函館港では土砂降りの雨がひとしきり降ったあと、急に風が収まり晴れ間ものぞいてきました。

函館海洋気象台の観測では、台風の気圧は983.3ミリバールと中央気象台が発表した気圧よりも小さくなっており、また、風速も、15時に19.4メートルだったものが、17時には17.3メートル、18時にはさらに13.7メートルに弱まっているとのことでした。

これらのことから、近藤平市船長は台風の速度から見て天候の回復は早いだろうと考え、晴れ間が見えているなどの現在の気象状況を検討した結果、海峡は台風の目に入っていると判断。これまでの経験から、気象判断に絶対の自信を持っていた船長は出航を決断し、17時40分頃、出航時刻を18時30分とすると発表します。

18時25分頃、洞爺丸は可動橋をあげ、ちょうど青森から来た石狩丸が着岸、係留し終わるのを見届けて離岸。18時39分、青森に向けて4時間遅れで出航します。乗員乗客は合わせて1337人でした。

沈没

ところが、出航して間もなく、南南西からの風が急に著しく強くなったため、船長は危険を感じはじめます。18時55分頃には、函館港の防波堤の西側の出入口を通過して、風下に船が流されはじめたため、投錨し仮泊することを決意。そして、西向きに針路をとったのち、19時01分、天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上に投錨し、仮泊を開始しました。

ところが、このころには函館気象台の観測結果を上回る、平均40メートル、瞬間50メートルを超える南西方向からの暴風が吹きはじめ、合わせて猛烈な波浪のために、船は錨を引きずったまま、流され始めます。

激しい波浪のため、船尾の車両搭載口からは、海水が浸入するようになり、この海水が車輌甲板に溜りはじめます。この車輌甲板とその下にある船の機関部との間にある隔壁は水密が不完全な構造だったため、やがて車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこりはじめます。すぐに蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になるほど海水があふれかえる事態になり、洞爺丸はその心臓部の機能を徐々に失い始めます。

出航後、2時間になろうとする20時30分頃までには、開口部から機関室や缶室などへの浸水はさらに進み、発電機は次々に運転不能となるとともに、船底に溜まった海水の排水ポンプも停止し、21時50分頃にはついに左側の機関が停止。さらにその五分後には、右側の機関も停止して、洞爺丸は完全に運行不能に陥りました。

すべての機関の停止によって操船の自由を失ったため、近藤船長は洞爺丸の沈没を避けるため、函館港の北側にある遠浅の砂浜、七重浜へ船を座礁させることに決め、22時12分ころ、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じます。

22時15分、船長は旅客に救命胴衣を着用するよう指示。その直後の同26分頃、洞爺丸は風にあおられて、函館港の北側にある第三防波堤の灯柱付近に、3回ほど接触し、これが原因で船体を右舷に45度傾斜させます。

この接触の衝撃によって、乗組員は船は座礁したと勘違いし、転覆の危険は回避されたと考え、青函局に座礁の報告を無線で連絡。乗客にもその旨アナウンスしましたが、実際には船は波浪に翻弄されていただけで、その後もさらに右傾斜を増していきます。

座礁の報告を受けた青函局は救難本部の設置を決定し、150トンほどの船を4隻現場に向わせようとしますが、波浪が激しく断念。

そのころ、洞爺丸では浸水が激しく、そのことを無線連絡する余裕もなく、22時39分に通信士はやむなくSOSだけを発信。ところが、青函局の関係者は、このSOSも座礁したことを知らせるものであると理解し、このとき、洞爺丸が沈没の危機に瀕しているとは考えてもいませんでした。

22時43分頃、海岸まであと数百メートルの地点で、洞爺丸が引きづっていた左舷の碇鎖が破断。波と風に翻弄されていた洞爺丸のアンカーの役割をしていた唯一の生命線が切断されることで、洞爺丸は完全に復原力を失います。そしてこの直後に大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車や車両は轟音とともに横転。

しかし、機関停止していたボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続けており、船内は沈没5分前まで点燈していたといいます。

22時45分頃、ついに洞爺丸は、函館港の防波堤灯台付近の地点で、右舷側に約135度傾斜した状態で沈没していき、最後には船体がほぼ180度裏返った状態となり、海底に煙突が刺さった状態になります。

そして、この沈没により、乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となりました。ほとんどが溺死であったと考えられています。犠牲者の中には、北海道遊説の帰途に遭難した冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員や元宝塚女優の佐保美代子などの著名人が含まれていました。船長の近藤平市もこのとき殉職しています。

乗客の多くは沈没の際に溺死し、その多くが七重浜に打ち上げられましたが、そのうちの、数十人は自力で浜に泳ぎ着いたり、波に運ばれて奇跡的に生きて七重浜に打ち上げられました。しかし、9月下旬の北海道といえば海水温は零度に近く、浜に打ちあげられていた時点では生きていた人も、すぐに力尽きて亡くなったといいます。当局の勘違いにより、救助の初動体制をとるのが遅れたことも災いとなりました。

生存者はわずか159名で、この多くは救難船によって救助された人たちでした。

事故に巻き込まれた当事者以外にも「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死したということです。ところが、この娘たちは洞爺丸に乗っておらず、その娘の夫から乗船せず無事であるという旨の電報が、そのあとに父親に届いたという悲しいお話も残っています。

洞爺丸以外の被害

この洞爺丸の事故が起こったときには、洞爺丸以外の船も大きな被害を受けています。当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、その多くが係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となりましたが、なんとか沈没は免れました。

しかし、台風襲来時に出航しようか港へ帰ろうかと躊躇していた船や、港外に停泊していた船が被害にあい、これらの船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没しました。しかもその5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船でした。

そのうちの一隻は洞爺丸に船客や車両を移乗させた、あの第十一青函丸(2851トン)でした。洞爺丸に客を移乗させたあと、港外で停泊していたところ、高波によって翻弄され大きく船体を破損。浸水が始まったころの19時57分に「停電に付き、後で交信を受ける」との通信をしたあと、波浪による船体破断のため沈没。乗員90名が全員亡くなりました。

また、北見丸(2928トン)も函館港外で22時35分ころ転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名が殉職しましたが、6名が生還しました。

このほかにも、日高丸(2932トン)が23時40分ころ転覆沈没、乗員56名殉職、生存者20名。十勝丸(2912トン)、23時43分、転覆沈没、乗員59名殉職、生存者17名など、洞爺丸を含め、一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1430人にも上りました。

戦争による沈没を除けば、こうした海難事故による犠牲者数は1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故でした。

審判と反省

この事故が、「人災」であるかどうかについては、1954年に「海難審判」として審議が始まり、1955年9月には、洞爺丸について函館地方海難審判庁から裁決が言い渡されました。

主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、その当時、国鉄総裁だった十河信二(そごうしんじ)にその旨が「勧告」されるにとどまりました。気象台と青函鉄道管理局長については勧告が見送られました。

ちなみに、十河信二はその後、「新幹線の父」として新幹線開発計画を推進した立役者として名を知られるようになる人です。

十河信二総裁は罪に問われませんでしたが、それでも、国鉄はこの内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴しました。しかし、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定しました。

その後、この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、などなどが行われるようになり、主機関であったボイラーにも浸水後すぐに機能を停止しないような改良がくわえられるとともに、蒸気機関からディーゼル機関への転換が促されるようになりました。

青函連絡船の運航についても、出航判断等それまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になります。また、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等が申し合わされるようになったといいます。

こうした改善の結果、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはありませんでした。そして、この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていくのです。

逸話

その後、洞爺丸の船体は後日引き揚げられましたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体されました。犠牲者の多くが打ちあげられた函館港北側の七重浜には、洞爺丸慰霊碑が作られ、そこには、「台風海難者慰霊之碑」と記されています。

亡くなった人の遺体の中には、明らかに自殺をほのめかす遺書を携えた遺体があり、この人が本当に投身自殺で死亡したのか、事故で死亡したのかが問題となったそうです。最終的には事故で死亡したと判断されたそうですが、このことを題材にしたと思われる推理小説が、水上勉の「飢餓海峡」です。

1965年には映画化され、またその後何度もテレビドラマにもなり、舞台でも上演されたことのある名作です。私も若いころ、この水上勉さんの原作を読み、映画も見ましたが、人間の性(さが)とは、こんなにも空しく悲しいものかと考えさせられるストーリーで、強い印象を覚えました。

ここでそのストーリーの概要を書いてもいいのですが、まだ読んだことがない人も多いかと思いますのでやめておきます。今日の項を目にしてご興味を持たれた方はぜひ原作を読んでみてください。なかなか面白いと思いますよ。

さて、今日は台風の話を発端にこんなにも引っ張ってしまいました。今日は良いお天気みたいですね。このあと、台風が来なければいいのですが……