酪農王国

2014-1060383この4連休の伊豆は、イモ洗い状態でした。

他県ナンバーの車であふれかえり、夕方ちょっと買い物に出たことがありましたが、その帰りには沼津方面へ向かう長い車の列ができており、もう少し時間が遅れていたら、この渋滞に巻き込まれるところでした。

修善寺あたりでもこんな状態ですから、東名高速や国道一号にたどり着くまでには、一時間、いやもしかしたら二時間ぐらいかかるだろう、さぞかしお疲れだろうな~と我がことのように心配してしまいました。

実はこの連休中の初日の土曜日にも、所要があって小田原まで行ったのですが、このときは午前中だったのにも関わらず、帰りに渋滞に巻き込まれそうだったため、本来は箱根の峠を越えて三島経由で帰ってくるところを熱海経由で伊東まで抜けて帰ってくることにしました。

ところが、この熱海がやはりクセもので、市街に入るとやはりすごい車の量であり、脇道を通って伊東方面へ抜けようとしたところ、にっちもさっちも動かなくなり、結局、熱海市街だけで通り抜けに一時間近くかかってしまいました。

熱海より先も渋滞が予想されたため、結局伊東方面に抜けるのはあきらめ、山の手側を通って函南に抜ける道を選びんでようやくこの渋滞の魔の手から抜け出すことができました。

後で調べるとこの道路は「函南街道」と呼ばれ、正式には熱海函南線、もしくは県道11号と呼ばれる道路で、熱海市を起点とし函南町に至る主要地方道であることがわかりました。

熱海函南線を略して「熱函道路」とも呼ばれているようで、これは「あつかん」かと思いきや「ねっかん」と読むようで、その昔は、別に旧道区間があり、これは熱海峠を越えるルートのため、カーブや急勾配が多く、また冬季には雪の影響があり、円滑な交通に支障も多かったようです。

これを解消するために、県が全長およそ全長1,268mの「鷹ノ巣山トンネル」を建設し、これを抜ける新ルートを整備。この新道区間は、静岡県道路公社の管理運営による有料道路として、普通車の通行料300円が設定されていたようですが、1997年(平成9年)に無料化されたそうです。

途中の熱海峠は、標高617 mもあり、これを下っていくと、右正面には富士山も垣間見ることができ、その下に広がる田方平野のたおやかな眺めとも合いまってなかなかの絶景です。

惜しむらくは車を止めてじっくりこの光景を眺める場所がないことですが、私が気が付かなかっただけで、もしかしたら小さな駐車場ぐらいは整備されていたかもしれません。

この日は少し帰りを急いでいたので、じっくりとこの光景を楽しむ余裕はありませんでしたが、今度もっと天気の良い日などに、また来たいと思わせる場所でした。

この熱函道路の終点である函南町ですが、その言葉の言われを調べると、「函」という字は、その昔、「函嶺」と呼ばれた箱根山から取ったようです。箱根の南にある街、つまり函南というわけです。

太古にはすぐ近くまで海があったことから、箱根山西南麓の緩斜地帯にあたるこの地域には、縄文・弥生時代の遺跡が各所にみられ、古墳としては、静岡県最大規模の「柏谷横穴群」と呼ばれるものもあります。

鎌倉時代以降、この地は「仁田氏」という土豪として治めており、この仁田氏は古くから函南の歴史に関わってきました。とくに有名なエピソードとしては、1180年(治承4年)蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵したき、この仁田家の仁田次郎忠俊、仁田四郎忠常がつき従ったことなどです。

この仁田四郎忠常は1193年(建久4年)に頼朝が催した「富士の巻狩り」において、大猪退治をしたことで有名で、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際にも兄の曾我祐成を討取ったことなどでも後年名を知られるようになりました。

曾我兄弟というのは、頼朝の家臣であった河津祐泰という人の息子たちで、この祐泰は同じく頼朝の寵臣であった工藤祐経に所領争いの結果、射殺されました。兄弟はこれを恨みに思い、長じてからかたき討ちの機会を待っていたとき、ちょうどこの巻き狩りがあることを知り、狩りの最中酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たしたのでした。

騒ぎを聞きつけて集まってきた頼朝の配下の武士たちは、兄弟を取り囲みますが、兄弟はここで10人もの敵を斬りつつ応戦したといわれています。しかし最後には力尽き、ついに兄の祐成(すけなり)が四郎忠常に討たれました。

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弟の時致(ときむね)は取り押さえられ、頼朝の面前に差し出されましたが、この弟は腹の据わった男で、この当時既に一大権力者になっていた頼朝を前でも臆せず、とうとうと仇討ちに至った心底を述べたといいます。これに感銘した頼朝も一度は助命を考えたようですが、殺された祐経にも遺児がおりその心情にも憚られました。

また、信義に基づく敵討ちであったとはいえ、この当時は軍事演習の意味もあった巻狩りという一大行事の場を乱し、しかも頼朝の寵臣を殺すという罪を犯した二人の行為は、源家の紀律を乱すものであり、他の家臣たちの手前もあり、減刑は許されませんでした。

結局、頼朝は時致に斬首を申し渡しましたが、その最後のときの様子も堂々としていたそうで、念仏を唱えながら従容と斬られて死んでいったそうです。

このとき斬首をした人物は、どうやら工藤祐経の家の者だったらしく、時致を斬るとき、わざと刃を潰した刀で斬首をしたそうです。このため、一度には首が落ちず、ようやく引きちぎるようにして落ちたといいます。

想像しただけでぞっとしますが、この残酷な処刑にはさすがに頼朝も怒ったといいます。そのときは許したようですが、後日思い返してもやはり腹立たしかったらしく、この人物を捕えるように命じましたが、捕まる前に逃亡していました。

ところが、この人物はさらに後日、時致の霊に悩まされて狂い死んだといい、こうした一連の話は、後年の江戸時代に「曽我物語」としてまとめられました。

江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の間では大人気のヒーロー物として一世を風靡しましたが、潰した刀での斬首といい、狂い死にといい、ちょっと誇張過ぎるように思われるエピソードは、曽我兄弟人気にあやかって後年創作されたものと考えるべきでしょう。

兄の祐成は20歳、弟の時致は19歳だったようで、この二人の首は、小田原の曽我という場所に埋葬され、その場所は「花畑」と呼ばれていたそうです。が、はっきりした場所はわかっていないようで、この敵討ちの話が後年有名になったことから、あちこちにその墓があります。

関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるといいますが、その中で有力とされるものに、小田原でも「曽我の里」と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)があり、ここが彼等の墓としてはもっとも信憑性が高い場所といわれているようです。

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さて、この曽我兄弟を討った仁田四郎ゆかりの函南町のことですが、ここは鎌倉時代から室町時代初期まで、その郷村の多くが。熱海にある伊豆山神社の神領だったそうです。

その後、小田原北条氏の時代になると、北条早雲によって平定されてその傘下の武将たちの所領になっていきましたが、その後秀吉による小田原攻めによって豊臣家の所領となり、
1600年の関ヶ原の戦いまでは、秀吉参加の韮山城主、内藤信成の領地となっていました。

しかし、秀吉もまた家康によって取って代わられたため、内藤信成は駿河府中への転封となり、函南の大部分は旗本領となりました。

その後、宝暦6年(1756年)にその後長く沼津を治めることになる、水野家が沼津に転封され、水野忠友が沼津藩の初代領主として着任。この函南もその大部分が沼津藩に編入されました。

明治に入ってからの廃藩置県では、この地は韮山県に編入されましたが、すぐに今度は足柄県に編入。これらの県がすべて廃止されて、静岡県となった1876年(明治9年)にようやく函南は静岡県に属することになりました。

この函南は、緩やかな山の斜面にある温暖な土地柄であることから、これに着目して牧場として開拓することを思いついた人たちがいました。仁田常種、川口秋平というのがそれで、この二人によって、1881年(明治14年)には「丹那産馬会社」が設立されました。

「丹那」というのは、函南町のど真ん中を走る丹那トンネルの真上にある一帯のことで、その直上は現在、「酪農王国オラッチェ」というレジャー施設を兼ねた牧場となっています。

この仁田常種という人は、上で書いた源頼朝の家臣の仁田志郎忠常を遠祖とする人らしく、この人の子供で、明治4年(1871年)生まれの「仁田大八郎」は、この仁田忠常から数えて三十七代目となる仁田家の当主です。

東京帝国大学卒の俊才だったようで、25歳のとき、この当時の仁田村に、「仁田信用組合」を設立して組合長となり、41歳で静岡県信連会長、52歳のときには産業組合中央会静岡支部会長などを歴任しながら、酪農王国としての函南町の礎を築きました。

1932年(昭和7年)、61歳のときには、帝国議会衆議院議員にもなり、1945年(昭和20年)に75歳で死去するまで、「人のために尽くすことは無駄にはならない」という考えの下、私財を投じて、この地域の発展に尽しました。

衆議院議員時代に、鳩山一郎との親交を深め、度々自宅に招いていたそうで、鳩山一郎が仁田大八郎にあてた「為仁田老兄」の書と二人が背広姿で撮った貴重な写真が現存するそうです。

「田方農林学校」という農学校も創立しており、伊豆箱根鉄道の前身となる駿豆電気株式会社の発起人も務め、現在も伊豆箱根鉄道にある「伊豆仁田駅」を開業させたのもこの人です。

伊豆に来るとたいていのスーパーにおいてある「丹那牛乳」という牛乳を作る組合を組織したのもこの人です。おそらくは神奈川を中心とする関東地方西部の町々にも浸透しているブランド名であり、私も多摩地区に住んでいたころこの丹那牛乳の1リットルパックをよく目にしました。

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もっとも、この丹那牛乳という名称は、上述の仁田常種のパートナー、川口秋平が付けたブランド名のようです。川口家は、代々丹那の地で名主を勤めてきた名家であり、この家の31代目の当主でした。上でも紹介したとおり、仁田常種とパートナーを組み、伊豆産馬会社を興しました。

伊豆半島で乳業を始めたのは、修善寺の植田七郎という人が明治3年にが始めたのが最初といわれていますが、仁田大八郎と川口秋平の二人は、明治21年に初めてこの伊豆産馬会社の農場で搾乳業に成功しています。

その後明治32年に、常種と協力してアメリカからホルスタインを輸入し、従来の雑種乳牛から本格的なホルスタイン種一色の改良を計り、村人にもその技術を貸与して酪農を推奨しつつ、事業を拡大していきました。

仁田と川口が売り出した牛乳は、当初「三島牛乳」と言っていたようですが、この牛乳販売事業は経営が安定せず、明治29年に製造をやめ、明治34年には廃業に至りました。二人はどうやらこれを契機に別々の道を歩み始めたようです。

二人で始め、失敗に終わった牛乳事業でしたが、その後川口秋平はこれを再興し、大正末期に「伊豆畜産購買販売利用組合」を設立し、自分の出身地にちなんで改めてブランド名を「丹那牛乳」としました。

そして、それまで腐りやすいため地元でしか需要がなく「農乳」と言われていた牛乳を沼津や小田原などの市街地にも配達する組織を固めるなど、「市乳」化を進め、やがては東京への市乳販売の途を開きました。

こうして川口が再開した酪農事業は牛乳販売を中心として順調に推移していきましたが、この事業は、意外な方向に向かっていきました。大正7年(1918年)に建設が始まった東海道線の、丹那トンネルがその事業に大きな影響を与えたためです。

1918年(大正7年)3月21日、熱海町の梅園付近の坑口予定地で起工式が行われた丹那トンネルは、排煙効果の高い、また脱線事故等に際しての復旧作業を考慮し複線型をオーストリア式で掘削するという当時の日本鉄道技術では画期的な工事でした。

当初は、第一次世界大戦による好景気により電力価格が高騰したことで電力供給の合意に至らず、電気式の掘削機械が使えなかったため、工事はカンテラ照明にツルハシを使用した原始的な手掘りで開始されました。

建設現場に電力供給が行われるようになったのは、1921年(大正10年)に三島口に火力発電所が建設されてからであり、照明が電灯に切り替えられたほか、牛馬に頼っていた余土輸送にも電気機関車が利用されることとなり、トンネル掘削は急ピッチで進みました。

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ところが、この丹那トンネルは、丹那盆地という窪地の下を通ることから、その地質的構造上、大量の湧水が噴き出すという問題がありました。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生することもありました。

この湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられ、水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15kmに達し、排水量は6億立方メートルにも達しました。この量は、箱根芦ノ湖の貯水量の3倍ともされる膨大なものでした。

このため、トンネルの真上に当たり、周囲よりも50~100mも低い函南村の丹那盆地では、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になりました。住民の抗議運動も過激化したため鉄道省は丹那盆地の渇水対策として、貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等にも追われることとなりました。

トンネルが開通する5か月前の1934年(昭和9年)7月には、丹那トンネルの工事を原因とする深刻な農業用水の不足に悩む農民が、比較的水の豊富だった隣の地区を襲撃するといった事件もあり、この当時の村長がその調整のための疲労で辞職する、といったこともありました。

この事件は、「水騒擾事件」とよばれ、それ以降村長不在という異常事態にまで発展したため、静岡県が介入。丹那トンネル開通後二年経った昭和11年4月になってようやく事態は収束しました。

この丹那トンネル工事による湧水問題により、函南の農業は、大きな変換点を迎えることとなりました。完成した丹那トンネルからは現在でも大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われました。

このため湿田が乾田となり、底なし田の後が宅地となり、7カ所あったワサビ沢もすべて消失してしまいました。このため、それまで主体であった水田農業をやめてしまう農家があいつぎ、これに変わって新たに彼らが取り組むようになったのが、仁田と川口が長年取り組んできた酪農でした。

こうして結果的に、丹那トンネルの補償金の多くが酪農開発に回るようになり、函南はその後「酪農の函南」として発展していくことになりました。

それまでも行っていた牛乳事業においては、昭和30年、国庫補助金8万円、県補助金8万円を受け、集団飲用牛乳施設として函南東部農業協同組合、丹那牛乳処理工場が完成し、「丹那牛乳」の本格的な製造、販売が開始されました。

その後も事業は順調に発展し、昭和33年には、学校給食牛乳を開始し、昭和35年には、優良工場として県食品衛生協会長賞受賞。昭和51年にはさらに優良施設工場として厚生大臣賞受賞しました。

ちょうどこのころ、丹那牛乳だけでなく、日本の牛乳業界には大きな技術革新がありました。牛乳は腐敗しやすく保存が困難だった事から長年に渡り各農家の小規模な生産に頼っているのが現状であり、市乳の販売による業務拡大を狙う丹那牛乳もまた、その市場の拡大に悩んでいました。

ところが、ちょうどこのころ風味を損なわない低温殺菌法(パスチャライゼーション)という殺菌法が実用化されたことによりこの様相は一変しました。

パスチャライゼーション(Pasteurization)という名前は、実は、ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされるルイ・パスツールにちなんでいます。

1866年にこの微生物学の祖であるパスツールらは、ワインの殺菌法として、それまでの主流であった高温殺菌法に変わる殺菌法として低温殺菌法を発明しました。

パスチャライゼーションは、微生物を完全に死滅させることではなく、害のない程度にまで減少させることを目的としています。従って一部の耐熱菌は残存しうるため、一般に消費期限を高温殺菌品より短く設定されるものの、この方法を用いると、素材の風味を損なわず、ワインや酒に含まれるアルコール分を飛ばさずに殺菌を行うことが可能となります。

高温殺菌法と比較して、熱変性などによる品質・風味の変化が抑えられるという大きな利点があり、この技術がさらに牛乳の市場を増やすために役立ったのです。

ところが実は日本では、パスツールに先立つこと300年も前の1560年頃に日本酒において同じ方法が経験的に生み出され、以来、「火入れ」として行われてきていたそうで、このことはあまり知られておらず、川口らも知らなかったようです。

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とまれ、こうした新技術が牛乳にも応用され、牛乳の風味を損なうことなく、大規模に生産され、丹那牛乳は東京などの大都市にも出荷可能となったのです。

昭和57年8月にこの低温殺菌牛乳製造販売開始し、以来、東京では明治屋・京王ストア・などでも扱われるようになり、神奈川県でも東急百貨店やロビンソン百貨店、サンジェルマンなどが丹那牛乳を置くようになりました。

現在、静岡県内には38店、神奈川県にも2店の販売店を有し、学校給食用としては、三島市・沼津市を初めとてして、伊豆のほぼすべての小学校に出荷しています。

かつて丹那トンネルの掘削によって水が失われてしまった丹那盆地は、現在「酪農王国オラッチェ」という酪農をテーマとした観光施設に生まれ変わりました。

ORATCHE(オラッチェ)の意味は、オランダ語か何かと思ったら、Organic(有機農業)、Refresh(心身の疲れを癒す)、Agriculture(農業)、Tanna(丹那)、Comfortable(心地よい)、Healthy(健康)、Ecology(地球環境)、のそれぞれの頭文字を取った造語だそうです。

安心・安全で新鮮な地元の食材にこだわった乳製品や地ビールなどを製造しており、予約をすれば製造工程を見学することができるそうで、また、乳食品の手作り体験やレストランでの食事も楽しめるようです。朝採り新鮮野菜市も行われているということで、我が家からは少々距離はあるのですが、今度もう一度ここへ行ってみたいと思っています。

ところで、熱海~函南間を貫くトンネルは、函南村の下を通ることから、本来なら「函南トンネル」と呼ばれるべきものでした。

これをそうせず、「丹那トンネル」と命名したのは、トンネルの測量隊が丹那盆地に滞在した際に、丹那の有力者であった川口秋平が手厚くもてなしたからだそうです。

鉄道の関係者は、その感謝の念から「丹那トンネル」という名称を発案し、またここに発見された断層にも丹那の名が与えられました。

牛乳のほうもまた函南牛乳とはされず、丹那牛乳と呼ばれていますが、これだけは命名者が丹那の有力者川口周平だったからです。

この丹那牛乳ですが、なかなかおいしいと思います。丹那牛乳の大きな特徴は「酪農家と工場が近いこと」だそうで、一番の売れ筋、「丹那3.6牛乳」の場合でも、一番遠い酪農家で片道2時間の距離だそうです。

搾られたばかりの生乳は栄養成分が多いゆえに、時間が経つにつれ細菌が増え、酸化し、風味が劣化してしまいます。丹那牛乳では非常に短時間で、生乳を酪農家から工場に運ぶことができるので、雑菌が少ない良質な生乳を加工できるといいます。

パックに印字されている賞味期限は加工された時点からの期限になります。その前の、搾られてから加工されるまでにかかる時間こそが、牛乳の鮮度とおいしさを決定付ける重要な要素です。

だから丹那牛乳はおいしいのだと、ホムペにも書いてありました。関東に住んでいるのにまだ一度もこれを飲んだことのないという貴兄もまた、いちどこの美味しい牛乳を飲んでみてください。そして、伊豆へお越しの際には、酪農王国にも立ち寄ってみてください。

伊豆の七不思議

今日も良い天気です。日中は30度をまだ超えていますが、日没後は急激に温度が下がり、昨夜は夜の9時ごろには23度まで下がっていました。山の上はもう秋というかんじです。そういえば、最近、夏の終わりに鳴きはじめるというツクツクボウシが良く鳴くようになりました。夏の峠はもう越したということなのでしょう。

さて、今日は、昨日ちょっと触れた「伊豆の七不思議」について、書いておこうと思います。よくほかのブログでも取り上げられているので、ちょっと陳腐かな、とも思ったのですが、やっぱ興味はありますよね。

で、いったい誰が考えたのか?という観点からこの伊豆の七不思議を調べてみたのですが、どうもよくわかりません。おそらくは県かどこかの市町村の観光課あたりが考えたのではないかとも思ったのですが、その内容をみると、かなり古式ゆかしいもので、この中のいくつかは江戸時代からの伝承ということです。

なので、初めから七つあったかどうかは別として、それぞれのお話は、かなり昔から伝えられてきたベースがあり、それを誰かがアレンジして、伊豆の不思議物語としてとりまとめたのではないでしょうか。そしてそれを、どこかの観光協会が、ちゃっかりと伊豆の宣伝のために広めたのかもしれません。

その七つの不思議とは、以下のとおりです。

大瀬明神の神池(沼津市)
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
函南のこだま石(田方郡函南町)

その所在をみると、東西南北にちりばめられていて、なかなかバランスが良いです。もし、これを全部行くとすると、ほぼ伊豆を一周できますので、やはりどこかの観光協会の陰謀かも。この中に独鈷の湯が入っているのがくさいですね。案外と修善寺の観光協会さんあたりが、まず独鈷の湯を最初の不思議に決めて、あとは面白そうなのを加えて無理やり名七つにしたのかもしれません。

ま、営業妨害?になるかもしれないので、邪推はこれくらいにして、それぞれの不思議について、書いていきましょう。

大瀬明神の神池(沼津市)

これは、昨日触れたばかりです。が、おさらいをしておくと、沼津市内から直線距離でおよそ15kmほど南西にある大瀬崎には、引手力命神社と呼ばれる神社があり、この神社を含む半島の先端部分は神社の境内地とされていて、ここにはビャクシンの樹林(天然記念物)と、これに囲まれた「神池」と呼ばれる、直径が100メートルほどの淡水池があります。この神池が、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされているのです。

このビャクシンの樹林は、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかないので、海が荒れた日にはこれを飛び越して海水が吹き込みます。にもかかわらず淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数生息しているところが、不思議とされているゆえんです。

駿河湾を挟んで北方およそ50キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われていて、何故淡水池であるかは明らかにされていないそうです。

古くから池を調べたり魚や動植物を獲ったりする者には祟り(たたり)があるとされ、また、池の中がもしかなり珍しい環境である場合には、下手に調査をするととり返しのつかない環境破壊を招いてしまう可能性があることから、これまでも詳しい調査はされていないんだそうです。

人の手が入っていない、となると確かに神秘的な湖です。七不思議に入っているのもうなずけます。

堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)

堂ヶ島のゆるぎ橋(どうがしまのゆるぎばし)は、静岡県賀茂郡西伊豆町の堂ヶ島に伝わる、民話的伝承です。これについては由来を書いた石碑だけがその場所に残っているだけです。

天平年間、の堂ヶ島に紀伊国熊野から来たという海賊の一団がいました。海賊の頭目の名は「墨丸」といい、たくさんの手下を従え、沖を行く船を襲い、村々の略奪をするという悪いヤツでした。

このころ、伊豆の海沿いの村々では都へのみつぎものとして、特産の鰹節や砂金を収めていました。ある年、ある村で、その貢物の荷支度も終え、祝いの宴も終わってほとんどの村の人々が家路につくころ、墨丸が率いる海賊たちが砂金目当てに押し入って来ました。

村人たちは必死に応戦したものの、最後には砂金を奪い取られてしまいます。砂金を手にして意気揚々とアジトへ帰ろうとする海賊たちが、その村の薬師堂の前の橋に差し掛かったときのことです。橋がまるで地震のように大揺れにゆれ、海賊たちは一向に反対岸に渡ることができなくなりました。

そして海賊たちは、しまいには橋の下の流れに、次から次へともんどり打って落ちていきました。大将の墨丸も最後までが大事そうに砂金の袋を抱えていましたが、この墨丸の前だけには、なんと、仁王さまが現れ、墨丸をつまみあげると、そのままお堂の薬師如来さまのところまで連れて行き、その前に差し出したのです。

薬師如来さまは墨丸に罰を与えると思いきや、とつとつと人の道を説かれはじめました。それによって心を打たれた墨丸は、それまでの悪行を悔い、以後この薬師堂の守護に尽くすようになります。そして、このあと、この薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになったといいます。

このゆるぎ橋ですが、月経になった女性が渡るとゆれるともいい、また、橋から削った木片を焚きその火を見せると夜尿が治るとも伝えられているそうです。

この橋や薬師堂が本当にあったのかどうかはわかりません。言い伝えによると、その後風雨に曝された末、橋も薬師堂もなくなってしまい、現在では、由来を書いた石碑だけがその場所に残っているということです。

石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)

石廊崎権現の帆柱とは、伊豆半島の最南端の石廊崎灯台の先にある、石室神社に江戸時代から伝わる伝説です。この神社、海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に社殿が建てられていて、その基礎には、千石船の帆柱が使われているということです。

その昔、播州(現兵庫県)の濱田港から塩を運んでいた千石船が、ある日石廊崎の沖で嵐に遭います。船の船頭は、もし無事に帰れたら、その船の帆柱を石廊崎の権現様(石廊権現)に奉納するから、と誓って祈ったところ、なんとか嵐を切り抜け、無事に江戸に到着することができました。

そして江戸を発ち播州へ帰るその途中のこと。帆柱奉納のことをすっかり忘れていた船頭を乗せた船は、なぜか石廊崎の沖で船が進まなくなってしまいます。しかも天候が急変して暴風雨になり、船が沈みそうになってしまいました。

往路で誓いを立てたことを思い出した船頭は、あわてて千石船の帆柱を斧で切り倒したところ、不思議なことにその帆柱は、ひとりでに波に乗り、石廊権現の社殿の真下の断崖絶壁をこえ、社殿にまるで供えたかのように打ち上げられたそうです。

そして、これと同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたといいます。

その帆柱?は、社殿の基礎として今も実際に残っているそうです。材質は檜で長さは約12メートルもあり、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができようになっているとか。

この話は、ちょっとうさんくさいですね。30mもの断崖を帆柱が登ったというのはちょっと信じがたいですし。石廊崎を回って江戸へ行き来していた船主たちがその航海の安全を祈願して、神社に帆柱を奉納した、というのが本当のところで、伝説のほうはそのあと面白おかしく地元の人が語り伝えたのではないでしょうか。

手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)

手石の阿弥陀三尊(ていしのあみださんぞん)は、下田から石廊崎へ向かう途中の手石港の近くにある洞窟にまつわる、江戸時代から伝わるという伝説です。この洞窟、弥陀窟(あみだくつ)とも、弥陀岩屋、弥陀ノ岩屋とも呼ばれており、1934年(昭和9年)に「手石の弥陀ノ岩屋」の名称で国の天然記念物に指定されています。

その昔、手石の近くに七兵衛という漁師がいました。妻を亡くし、3人の子供を抱えて貧しい暮らしを送っていましたが、あるとき、末の子の三平が重い病気にかかります。近くの寺に願を掛け朝夕お祈りをしていると、ある日七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にある鮑を取って食べさせよ」と告げました。

七兵衛が小船で洞窟に漕ぎ入ると、奥から金色の光と共に三体の仏様が現れました。目も眩んだ七兵衛が思わず船底にひれ伏し、おそるおそる目を上げると、船の中にはたくさんの鮑(あわび)が投げ込まれていたといいます。これを持ち帰り、三平に食べさせたところ、病気はやがて回復したといいます。そして、この洞窟での霊験が人々の口から口へと伝わり、やがては広く日本全国に知られるところとなったといいます。

この伝説は洞窟の中で起きるある自然現象が伝説化したのではないか、という説があります。それは、大潮で波の静かな晴天の日の正午頃、この洞窟の奥のほうに小舟で入りこむと、その天井に鳩穴という小さな縦穴が空いていて、ここから洞内に差し込む日光が、洞内の暗部を照らすのだそうです。

この日光があたかも暗闇の中に光る金色の阿弥陀像のように見えたのではないか、とする説で、もっともらしい話ではあります。それにしても、実際にどんなふうに見えるのか見てみたいものですね。

河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)

伊豆の七不思議の五つ目は、河津の鳥精進酒精進(とりしゅじんさけしょうじん)です。東伊豆の河津町、田中というところにある杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ、またの名を河津来宮神社)の氏子に伝えられてきた「風習」だそうです。

昔、河津の郷に杉桙別命(すぎほこわけのみこと)という武勇に優れた男の神様がいました。ある日のこと、命が酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、そこに野火が起こりあっという間に周りを囲まれてしまいました。

と、そこにたくさんの小鳥が飛んできて河津川から水を運び火を消しはじめ、このおかげで、杉桙別命は難を逃れることができました。このことがあってから、杉桙別命は、酒を慎むようになり、村人にも一層、」慕われるようになったということです。

この伝説から、河津では命が災難にあったという12月18日から12月24日の間、

鳥を食べない
卵も食べない
お酒を飲まない

という「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」が守られているそうで、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられているということです。

これは、まあ伝説ですね。が、その伝説に由来する禁則が今も守られているというのは驚きです。鳥と卵ということは、親子丼は絶対ダメですね。個人的には、一週間もサケを飲めないというのはつらい。この神社の氏子には、絶対なりたくありません。

独鈷の湯(伊豆市修善寺)

出ました! 修善寺です。独鈷の湯は、前にこのブログでも取り上げました。修善寺温泉内を流れる桂川の中にある温泉で、伊豆最古の温泉ともいわれるものです。

川の中に、土台として大きな石を積み上げ、そこに浴槽を設けて湯を楽しめるようにしたもので、かつては入浴することができたましたが、現在は河川法に抵触するということで、入浴は禁止されています。

この温泉には、弘法大師が807年(大同2年)に修善寺を訪れたときの伝説が残っています。桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた、というのです。

大師は、温泉がわき出ると、これが病気に効くことを父子に説き、これによってその父は長年患っていた病気を完治させることができた、と伝わっていて、この話が広がったために修善寺温泉の湯治療養が有名になり、現在の修善寺温泉郷ができたとされています。

この独鈷の湯ですが、もともとはもっと上流にあったそうで、大雨のときに川の流れを堰止めないようにということで、現在の川幅の広い場所に移されたとか。

前にも書きましたが、温泉ひとつで川の水が堰き止められるわけもなく、アホな役人の考えそうなことです。たぶん、ここで認めればほかでも認めなければいけなくなるから、とかいうのが役人の言い分でしょう。さすがに大雨で増水しているときの入浴は、あぶないのでやめたほうが良いとしても、常時は入れるようにすれば観光客も増えて良いと思うのですが、どんなもんでしょう。

函南のこだま石(田方郡函南町)

最後になりました。函南のこだま石は、伊豆北部、函南町の平井という山の中にある大きな岩にまつわる伝説です。どこにあるんだろうな、といろいろ調べてみたところ、どうやら新幹線の新丹那トンネルのすぐ南側あたりにあるようです。新丹那トンネルのそばに「酪農王国オラッチェ」という農場がありますが、その南西約2kmの山の中らしい。

昔、平井の村に、「おらく」という母親が息子の「与一」と二人で暮らしていました。夫は戦に駆り出されて行方知れずになっており、大変貧しい暮らしをしていましたが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、ふたりして峠を越えた熱海の湯治場へ商いに出かけるようになったといいます。

この熱海へ行く途中の峠には、大きな岩があり、商いに出かけるたびにこの岩のそばで休みながら語らうのが二人の習慣でした。商いのほうはなんとか軌道に乗り、母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃のこと、おらくは病を得て帰らぬ人となってしまいました。

与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい、声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と懐かしい母の声がこだましてきたといいます。そして、来る日も来る日も懐かしい母の声を聞きに行く与一に村人は心を打たれ、この岩を「こだま石」と呼ぶようになったそうです。

これは、悲しいお話ですね~。ちょっとほろりとさせられます。伝説には違いないのですが、ほんとうにあってもよさげな話ではあります。二人の魂は救われたでしょうか。

さて、以上で、伊豆の七不思議のお話は終わりです。いかがだったでしょうか。私はなかなか面白いと思いましたが、実際に観光に寄与しそうなのは、大瀬明神の神池と、石廊崎権現の帆柱、手石の阿弥陀三尊、そして独鈷の湯くらいでしょうか。

残る三つがいまひとつインパクトに欠けるのが難点なので、観光地としてもう少し話を盛り上げるためには、いまひとつ工夫が必要でしょう。

ゆるぎ橋では、実際に女性が渡ると揺れる橋をつくるとか、河津では、鳥と卵と酒を使ったB級グルメを作って町おこしにしてはどうでしょう。こだま石については、石の中にセンサーでも組み込んで、心無い人が呼びかけると、「アホー」「アホー」と答えるようにするとかはどうでしょう。

夏は続きます。頭を冷やして良いアイデアを考えましょう。