投げたらあかん

2016-0031北朝鮮がついに弾道ミサイルと目されるものを打ち上げました。

彼の国は「これは弾道ミサイルではなく宇宙ロケットだから問題ない」と言っているようですが、その行為は世界中から非難されています。

なぜかといえば、国連安全保障理事会はこれまでに何度も北朝鮮に「弾道ミサイル計画に関連するすべての活動の停止」を求めてきたためです。北朝鮮が核実験などで周辺地域の平和を脅かしていることを国際社会は非難しており、ましてや他国を直接的に攻撃できる弾道ミサイルを打ち上げるのはとんでもないことだというわけです。

この弾道ミサイルを北朝鮮は衛星の打ち上げのためだと言っているようですが、たとえ衛星の打ち上げであっても弾道ミサイルに関連する活動であることは明らかです。国際社会から実験はダメだよと言われているものは、弾道ミサイルでも宇宙ロケットでもダメなわけで、その行為自体が避難されているのです。

それにしても、弾道ミサイルとロケットは何が違うのでしょうか。

よく言われるのはミサイルは先端に爆弾が搭載されているけれども、ロケットはそうではなく人工衛星などが搭載されている、ということです。

これは間違いではありません。が、そもそもロケットというのは、重量物を大気圏外に打ち上げる技術のことであり、弾道ミサイルもまたロケットという推進装置を用いているので、ロケットの一種に違いはありません。

ただ、その利用が平和目的ではないため、普通のロケットとは区別してミサイル、と言っているわけです。従って、世界的な通念としては武器であり、宇宙の平和利用のためのロケットとは別物と考えられています。

また、弾道ミサイルとロケットにはそれを飛ばす飛行ルートにも違いがあります。弾道ミサイルは、爆弾を「ボールを投げるように敵地へ落とす」ものですが、宇宙ロケットは人工衛星を「ボールを投げるように、地球の丸みに沿った軌道へ落とす」ものです。やっていることはほとんど同じですが、目標とするところが違うわけです。

ほかにも違いがあり、ひとつは、飛ばし方です。ボールを投げるとき、遠くへ投げるには高く山なりに投げますが、速く投げるには低くまっすぐに投げます。同様に、長距離の弾道ミサイルも遠くへ飛ばすために高度数千kmもの高さまで打ち上げます。これに対して、宇宙ロケットは遠くへ飛ばす必要がないため、できるだけ素早く大気圏外へ打ち上げます。

宇宙ロケットは、このあと高度数百kmで水平に加速することになりますが、弾道ミサイルはさらに高高度まで達したあと、ようやく落下を始めて遠くの目標物に達します。つまり、意外なことに、宇宙まで達したあとは宇宙ロケットより弾道ミサイルの方がより高く飛ぶということになります。

このように宇宙ロケットと弾道ミサイルはどこへ飛ばすか、またその目的により飛ばし方も違うということになりますが、基本的な原理は燃料に火をつけて推進力を得るということであり、構造的にはほとんど同じです。実際に、初期の宇宙ロケットは弾道ミサイルと同じものが使われていました。

ただ、弾道ミサイルの場合、高高度まで打ち上げるためには、初速が足りないので、通常の宇宙ロケットの上にさらに上段ロケットを追加して加速します。この段数が多いというのも弾道ミサイルと宇宙ロケットの違いになります。ただ、下段は全く同じものでも構わないわけであり、弾道ミサイルを宇宙ロケットとして使うことはよくあることです。

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従って北朝鮮の弾道ミサイルを宇宙ロケットと呼ぶことは、宇宙開発の常識から言えば少しもおかしくないことであるわけです。しかしだからといって、日本人宇宙飛行士も利用しているソユーズ宇宙船を、あれは事実上弾道ミサイルだ、などと言ったりはしません。

それでも、北朝鮮の打ち上げたものはロケットではなく弾道ミサイルだと非難されているのは、国連安保理違反であるためです。現時点では、昨日打ち上げられて宇宙に達したものが本当に人工衛星だったか確認されていないようですが、たとえそうであっても国際的には「弾道ミサイル関連活動」であるわけです。

それでは、日本の宇宙ロケッも弾道ミサイルとして使えるのではないか、というとこれは可能です。日本の宇宙ロケット技術で弾道ミサイルを作ることは難しくはありません。液体水素を使う日本のHⅡロケットは兵器として使いにくいもののようですが、固体燃料ロケットの技術も日本にはあります。

弾道ミサイル固有の技術は開発しなければなりませんが、弾道ミサイル自体は半世紀も前から作られているわけで、日本の技術力をもってすればその開発は難しくないでしょう。そうした意味においては、日本の宇宙ロケット技術も弾道ミサイル技術と言えなくはないわけであり、このため情報が流出しないよう細心の注意が払われています。

日本が宇宙ロケットを打ち上げても弾道ミサイルを打ち上げたと非難されないのは、そうした秘密漏洩の対策がしっかりしていることが国際的によく知られているとともに、北朝鮮と違って日本には核兵器を保有する意図がなく、宇宙ロケットの技術で弾道ミサイルを開発するつもりがないと、国際社会から信頼を得ているためです。

ところで、この「ミサイル」の原義は何か名と調べてみたところ、これはラテン語の動詞 mittere(投げる)から派生したもののようです。その名詞形は missileであり、これは「投げられるもの」ということになり、ローマ時代では“ミッシレ”と呼ばれていたようです。

正式な軍事用語として「ミサイル」という用語が登場するのは、1947年にアメリカ空軍が発足した際に航空兵器全般の正式な命名規則を制定し、それまでは定まった名称がなかった誘導ロケット系や飛行爆弾系の兵器をあらたな定義である「ミサイル」に一括分類したときです。

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一方、ロケットの語源は、1379年にイタリアの芸術家兼技術者であるムラトーリ(Muratori)が西欧で初めて火薬推進式のロケットを作り、それを形状にちなんで「ロッケッタ(Rocchetta:小さな糸巻棒)」と名づけたことによります。

1792年にはインドにあったマイソール王国の支配者スルタンによって対英国、東インド会社との戦い、マイソール戦争で初めて鉄製のロケットが使用されました。戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにウィリアム・コングリーヴという人が中心となり、コングリーヴ・ロケットを開発しました。

この兵器は現在のロケットとは外見や制御の仕組みがかなり異なり、巨大なロケット花火のようなものであったようです。弾頭は黒色火薬が1kgから10kg用いられており、言ってみれば火矢のようなものです。初期には事故が多発していたようですが、それでも3kmという当時としては長大な射程を持ちました。

イギリス軍はナポレオン戦争や米英戦争でこれを用いており、1814年のボルティモアの戦いでは英国艦エレバスから、陸のフォートマクヘンリーにむけてロケットが発射されました。これを観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーが作曲したのがのちのアメリカ国家であり、この歌の歌詞には「rocket」の語が登場します。

ミサイルにせよロケットにせよ、こうした「飛び道具」は人類が太古から利用してきました。手持ちの道具の先端部が届く限られた範囲にしか届かないのに対し、一部ないしその全体が飛翔し標的に衝突することで何等かの作用を生じさせることができる、ということは画期的なことです。

とくにその対象物が敵ならばその効果は絶大です。なぜなら指一本自分の体に触れさせないで敵を駆逐できるからであり、太古の昔からヒトは最も敵に向かって上手に物を投げられる動物でした。原人から新人にいたるまで、投石はもっとも基本的な狩猟/攻撃方法であり、これは動物を倒すには遠距離から一方的に攻撃するほうが安全だったからです。

石を投げることを投擲(とうてき)ともいいます。ヒトは他の生物より際立って投擲が上手であり、有史以前から投擲によって狩猟や戦闘を行なっていました。現代人以外の絶滅人類も投擲を行なっていたと考えられており、道具の高度化と平行して、ヒトが狩猟・自衛能力を獲得するうえで重要な要素であったと考えられています。

また、人間対人間の闘いでも、投擲は重要かつ効果的な戦術でした。弓矢を発明するまで、ヒト科はもっぱら投擲によって戦っていたと考えられています。現代のように舗装されていない土地が多く、武器となる石を見つけるのは容易であり、その後発明された弓矢に比べて風の影響を受けにくく、鎧ごしに打撃を与えやすいという特徴もあります。

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有史以後も、投擲は主要な戦闘技術で在り続けましたが、現代でも兵士は手榴弾などを投擲しますし、また、砲丸投げやハンマー投げのように投擲の能力を競う投擲競技が陸上競技に含まれています。

しかし、ただ単に手で投げるだけでなく、その投げ方について人類はいろいろな装置を考えるようになりました。

発射した側から飛び出した瞬間から、その石は空気抵抗などにより運動エネルギーを奪われ減速するほか、重力など他の力が働く場では弾道を描くため、距離が離れるほど命中させることは難しくなります。このため、命中させるには「どのように飛んでいって当たるか」を予測し、加減する必要があります。

単なる石を投げる場合でも、それをうまく扱うためには特別の練習を必要とする必要がありますが、その後人類はそれをどういう角度で、どういう初速で投げれば遠くへ届くかということの研究を重ね、より遠くへ飛ばす道具を工夫するようなっていきました。

その一つが投石器です。片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具であり、安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持ちます。スリング、投石具、投石紐とも呼ばれます。紐の一方の端は投げる時に手から離れないようループになっているか、手に巻き付けられる様にやや長くなっています。

材料は羊毛や麻の繊維を編んだものや皮革や布でできたものなどがあり、長さは二つ折りの状態で0.5mから1.5m程度です。

全体を二つ折りにして一端をループを手首に通すか手に巻き付けるなどして手に固定して他端とともに握り、広い部分に石をくるんで頭上で振り回すか(オーバースロー)、体側面で振り回す(アンダースロー)かして、適当な位置で握った手を緩めるとひもの片方が手から抜けて石が飛びます。

ひもの一方を放すタイミングが方向や射程に大きく影響するので、飛び道具の中で最も修得が困難であるといわれます。オーバースロー、アンダースローともそれぞれ長短あり、使い分けを要します。またそれぞれの射程に適した投石紐の長さがあり、標的までの距離に応じて選択する能力も要求されました。

一般的に近距離の標的に当てる時は短い紐の物を使い石も比較的大きく重い石を使用し、逆に遠距離の場合は長い紐の物で小さく軽い石を用いました。弾としては川原などで選んだ玉石のほか、軍用には陶製・鉄・青銅・鉛製の弾も使われました。

古代ギリシアで使われた鉛弾は、ラグビーのボールをやや長くしたような形で、「服従せよ」など往々敵に対する短い言葉が鋳込んであったといいます。また羊飼が使う弾にも同様の形に作って焼いた土製のものがあり、こちらは、飛ばした時に大きな音が出るように作られていたそうです。

古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われました。古代のシュメール人やアッシリア人が投石器を使っていたことは当時の浮彫などにより知られており、投石器による石弾の射程は当時の弓による矢の射程より長かったと推測されています。

その後さらに時代が進むとカタパルトと呼ばれる投擲装置も考案されるようになりました。木材や獣毛や腱・植物製の綱などの弾力と、テコの原理を利用して石などを飛ばすもので、中には大きな弓を取り付けて威力をあげる改良をほどこした物や金属製のばね式の物もありました。

それまでの人力による投擲よりも格段に威力が強いため、城などの建築物を標的とし射出攻撃する攻城兵器としても使われ、古代中国では遅くとも紀元前5世紀初頭には使われはじめていました。紀元4世紀頃の古代ギリシャでもアレクサンドロス大王の東征において使用されています。

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中世には中央アジアや西アジアに流入し、改良が加えられ、「トレバシェット」という大型の投石器も発明されました。これは「平衡錘投石機」とも訳されるもので、巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げます。宮崎駿さんのアニメなどでもよく登場します。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用されました。

西洋では、これを用いて主に城攻めをしたと考えられていますが、重量のある石を飛ばす場合、城壁の上部を目指して飛ばし、城壁の端から崩していく方法がとられました。

このほか、石や砂利の詰まった袋を飛ばして城門などを攻撃するほか、火のついた藁や火薬を飛ばして城内に火災を起こさせたり、汚物や死骸を投擲して敵の士気を下げたり、疫病を流行させたりするなどの使われ方をすることもあったようです。平時においてはその投射の力量をひけらかすために花を投射する事もあったといいます。

また、守城側の攻撃を防ぐために装置に装甲を着けたり、攻城塔の上に設置することも多かったようです。野戦において敵の密集隊形を撃ち崩すために使われることもあり、投射に使用する石は着弾後も跳弾してより多くの範囲に被害を与えられるように球状に加工されていました。

このほか、西洋では「バリスタ」と呼ばれる投石機も発明されました。テコを用いて弦を引き絞り、石や金属の弾、極太の矢(あるいは矢羽のついた槍)、複数の小型の矢、火炎瓶などを打ち出すものです。矢弾を弾き出す動力は弓が主でしたが、複数の弓を並べたり、捻った動物性繊維の太縄や金属製のばねを用いるなどの改良を加えられた物もありました。

白兵戦の支援、攻城戦における攻城兵器、それらからの防衛に使われ、軍船に搭載することもありました。その後火薬が発明され、鉄砲が発明されるとこうした投石器は徐々に姿を消していきましたが、先込め銃の時代にはその信頼性が低かったことから他の投げ武器と併用して用いられていました。

さらに時代が進み火砲の改良が進められるにつれ、さすがに主流の兵器ではなくなりましたが、第一次世界大戦の塹壕戦では、手榴弾の投擲のためにカタパルトが使われたという記録が残っています

また、第二次大戦末期の日本では、対戦車戦用として爆薬を投射するために室蘭でカタパルトが制作された、という記録があります。実戦では使われなかったようですが。

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その日本においても、15世紀後半の応仁の乱の際に「発石木」「飛砲」という投石機が使用されていたという記録があります。しかし、日本は山がちで、雨が多いためにすぐ地面がぬかるみます。このためこうした大型の投石機は運べないという事情がありました。

また、山城などの天然の要塞が多く、平地の石壁を崩すことに特化したトレバシェットやバリスタではあまり意味がありません。また、もしこれらがあったとしても日本の石垣は地震も想定して作られるので、西洋のこうした攻城兵器でもびくともしなかったでしょう。大砲でもその衝撃を吸収してしまうほど優秀な城が多かったようです。

しかし、単に石を投げる投擲は有効な戦術のひとつだったようで、日本ではこれは「印地(いんじ)」と呼ばれました。手で投げることをはじめとして、上述のスリングのような投石器を使用するものもありました。

が、モノのない時代であったため、そこは日本風の手ぬぐいを使うことも多く、縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ畚(もっこ)をもってそれに代用していました。このほか、女性が両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布、領巾(ひれ)を使用するもの、砲丸投げのように重量のある物を投げつけるもの、など様々な形態がありました。

投石技術でこの技術に熟達した者を、印地打ち(印地撃ち)、印地使い(印地遣い)とも呼び、一種の職業軍人でもありました。印地の使い手そのものを印地と呼ぶこともあり、技術や行為を印地打ちと呼ぶこともありました。軍用に加工した飛礫種は、約3寸(約9cm)の平たい丸石で、縁を欠いてあったといい、これは当たるとかなり痛そうです。

このほかにも石を紐で縛ったものを大量に用意しておくことで次々に投げつける方法、ハンマー投げの玉ようなものを投げつける方法などもありました。近距離では分銅鎖という投擲具もありました。一本の鎖の両端に錘をつけたもので、敵に投げつけて刀をからめ捕り落としたり、足めがけて分銅を投げつけ相手がひるんだ隙に逃げ出します。

捕り物としても使用され、搦めて捕縛する目的で女性の領巾と小豆が入った小袋の錘がセットされている分銅もあり、護身用としても使われたようです。西洋にも似たようなものにボーラ(Bola)があり、これは、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた投擲武器です。動物を捕まえる狩猟目的でも使用されていました。

戦国時代には、元亀3年(1573年)の甲斐武田氏の西上作戦に伴う三河徳川氏との三方ヶ原の戦いにおいて、武田方の武将小山田信茂が「投石隊」を率いたとする逸話があります。また、武田氏は「水役之者」と呼ばれる投石隊を率いていており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わっています。

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投石器自体は単純な構造であり、手首に縛り付けてあるので手元に残り、新たな石を挟むことで、即座に次の石を投擲出来るため機動力にも優れます。手ぬぐいが一本あればそれがそのまま武器になるわけで、戦場以外でも喧嘩や抗争に多用された記録が残っています。

石は河原にいけば簡単に確保できるため、合戦においては、そのローコストさで非常に使いやすかったらしく多用されました。熟達した兵士が使用した場合は弓よりも飛距離があった上、甲冑の上からでも衝撃が伝わるなど、武器としての威力もありました。戦場では、弓矢、鉄砲に次ぐ兵器として、盛んに使われたとされています。

戦国時代には石の代わりに火薬や油壺を投げたりもしたらしく、これは近年過激派が火炎瓶を投げるのとも似ています。煙玉を投げて、敵をかく乱する、といったこともあったようです。

この印字は、その後、行事としても定着するようになりました。印地、印地打ち、印地合戦、石うち、石合戦、向かいつぶて、向かいつぶて合戦などと呼ばれ、少し前まではや5月5日に印地を行う地域があったそうです。合戦をまねて二手に分かれて石を投げ合うこの行事は子供のものでしたが、大人たち参加することがありました。

大人達が行うものは、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれました。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かったようです。水の権利・土地争いなどを解決する手段として石合戦が採用されるケースもあり、このため、鎌倉幕府3代執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布しています。

一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行ったといい、信長はこれを模擬実戦として最適と考えていたといわれます。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てたそうです。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われています。

この向かい飛礫が行事化した印地は、江戸時代までにはまだやっている地域があったようですが、負傷や死亡も相次いだため、大人は参加しなくなり、明治までには完全に子供の遊びとなりました。しかし昭和に入るとなりを潜め、現在においては無論、そんな遊びが許されるわけはありません。

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ただ、石ならぬ雪であれば怪我の心配もない、ということで、最近「雪合戦」はスポーツとしても認知され、各地で大会も開かれるほどの盛況だといいます。「日本雪合戦連盟」という長野市に本部を置く社団法人まであり、いまや全国14もの県に連盟支部があります。

世界各国への普及を目指しているそうで、オリンピックでの正式競技種目に採用されることを視野に普及活動を行っているとのことで、毎年全国大会も開かれています。認知度が高まるにつれ、年々外国人の参加も増えているといいます。

正式ルールがあり、チーム対抗で行なわれるものは「Yukigassen」の名で海外でも広まっているそうです。1987年にチーム対抗のニュースポーツとしてアレンジされ、1988年に公式ルールが国際ルールとして制定されました。

このルールを設定したのは北海道の壮瞥町(そうべつちょう)なのだそうです。が、なぜか日本雪合戦連盟には加入しておらず、北海道は北海道で「北海道雪合戦連盟」というのがあるようです。組織が分かれている理由はよくわかりませんが、道人には雪合戦の発祥の地は北海道である、という誇りがあるからなのかもしれません。

そのとおり、スポーツとしての雪合戦は、壮瞥町で生まれたとされており、1988年に正式な国際ルールが策定された翌1989年に初めての本格的な大会「昭和新山国際雪合戦大会」がスタートしています。現在、この壮瞥町の国際雪合戦は、北海道遺産の一つに選定されています。

その後、このスポーツ雪合戦は急速に全国へ広がり、他の大会でもこの壮瞥町の国際大会のルールで試合が行われることが多いようです。多くの地方連盟・団体が設立され、このシーズン、全国各で雪合戦が繰り広げられています。

ただ、新潟県魚沼市(旧小出町)の小出国際雪合戦のように独自ルールを採用している大会もあるようです。魚沼市には、「雪合戦発祥の地」の石碑が建てられているといい、新潟は新潟で自分のところが雪合戦の発祥の地だと考えているようです。

これは、越後守護の一族上条定憲と越後守護代長尾為景が争った際に、刀折れ矢も尽きてもなお、両者は戦いをやめず、雪を固めて投げ合ったことが由来とされており、雪合戦としては自分たちのもののほうが老舗さというわけです。

それにしても、長野や北海道といい、この新潟といい、独自にそれぞれ大会を催さずに、みんな統一してJリーグやプロ野球のように共通した大会にすればもっと盛り上がるのに、と思うわけですが、それはそれ、それぞれの土地での思惑やプライドがあるのでしょう。

ちなみに、この魚沼の小出国際雪合戦は、昨日おとといの2月6~7日に開催され、成功裏に終了したようです。北海道で行われる、第28回昭和新山国際雪合戦は、今月の20~21日開催だそうで、また日本雪合戦連盟による第3回雪合戦選手権大会は、3月5~6日に長野で行われるそうなので、ご興味のある方は観戦に行ってはどうでしょうか。

第28回昭和新山国際雪合戦

第3回雪合戦選手権大会

ここ、伊豆ではさすがに雪合戦は望めそうもありません。が、来る27~28日には伊東温泉で「第4回日本まくら投げ大会in伊東温泉」が催されるそうです。こちらも競技化を目指した5対5のドッヂボール形式で行われるそうですが、浴衣またはパジャマを着用し布団を楯にするなど、かなりおちゃらけた大会のようです。

伊東市民体育センターで行われるそうです。そろそろ梅が咲く季節になってきましたが、温かい伊豆に来られることがあったら、ぜひのぞいてみてあげてください。

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神宮の森に

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2020年の東京オリンピック開催まで、今週末でちょうどあと5年になります。

7月24日開催、8月9日までの競技予定で、その開閉会式は現在建て替え工事が進行中の新国立競技場で行われるはずです。しかし当初予定されていた奇抜なデザインを巡っては、工費が莫大になることが明らかになり、先日見直しが決まったばかりです。果たして間に合うんかい、と心配されています。

が、大丈夫、日本のゼネコンの能力は高く、必ず間に合わせるでしょう。彼等は、某アジアの一党独裁国家や南米の三流国家のそれよりもはるかに高い技術力を持っています。

前回の東京オリンピックの際に新設された旧国立競技場は、どこが作ったか調べたところ、これは大成建設だったようで、14カ月という短工期でこの5万人収容の大スタジアムを完成させています。この時も日本中から寄せられる期待は大きく、現場には皇族としては初めて皇太子殿下(現・天皇陛下)が足を運ばれ、工事の様子を視察されたといいます。

では、今回見送られたデザインの施行予定業者はどこだったかといえば、特徴がある屋根は竹中工務店、8万人収容のスタンドは、これまた大成建設が受け持つ予定だったようです。見直しになり、これら各社との契約もちゃらになるでしょうが、今後どんなデザインになりどこが受け持つにせよ、これらトップクラスのゼネコンに任せておけば大丈夫でしょう。

ところでこの国立競技場ですが、実はこれは、国立霞ヶ丘競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場、国立西が丘競技場(北区、現味の素フィールド・西が丘)の総称です。

が、一般に「国立競技場」と指す場合は、それらの中心にある国立霞ヶ丘陸上競技場を取り上げることが多くなっています。「霞ヶ丘」は、この一帯が霞ヶ丘町であることに由来します。新宿区の最南部に位置し、明治神宮外苑が町域の大部分を占め、外苑内の国立霞ヶ丘競技場のほか、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館などが当町域に属します。

江戸時代には、この一帯は、千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷甲賀町と呼ばれていました。この町名はいまもJR千駄ヶ谷駅に残っています。明治になって、千駄ヶ谷一丁目~三丁目となり、当町域は千駄ヶ谷一丁目になりました。また1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行では四谷区に属していました(現在は新宿区と渋谷区にまたがる)。

この地に、霞岳・川向・甲賀という字がありました。1889年の東京市制施行に伴い、このうちの一つをとって四谷霞岳町となり、さらに1911年に四谷霞岳町から霞岳町に改称。そして、オリンピック後の2003年9月霞岳町のほぼ全域が「霞ヶ丘町」と改称されました。

「霞ヶ丘」と命名されたのは、無論、ここに霞ヶ丘国立競技場があったからにほかなりません。もともとは、霞岳町の一字をとって名付けられたものですが、オリンピックを機に「霞ヶ丘」のほうが表に出るようになり、それゆえに歴史ある古い名前のほうは消えてしまった格好です。

それにしてもなぜ、「丘」と名付けたかですが、想像するにこの地は、南側の原宿、北側の四谷、さらに東側の赤坂よりも相対的にやや高い位置にあるためでしょう。といっても標高は30mちょっとであり、これら周辺の地よりも10mほど高いだけです。

それにしても、「国立霞ヶ丘陸上競技場」とするといかにも長ったらしいので、以下ではこの呼称はやめ、「国立競技場」で統一して話を進めていきたいと思います。また、本来ならば「旧国立競技場」とすべきところですが、これも煩わしいのでやめにします。

この国立競技場は、いわずもがな東京オリンピックの顔として建設されたもので、解体以前にはオリンピックマークと「Tokyo 1964」 を合わせたエンブレムが付されていました。

競技としての国立競技場では、陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)が行われました。また、隣接する秩父宮ラグビー場でもサッカーが、代々木会場である、国立代々木競技場では、水泳、バスケットボール競技が開催されました。

国立競技場はオリンピック以後も、立地も良いことなどから各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多く、競技者からみれば、これらの施設は憧れの的でした。「聖地」とも呼ばれることも多く、ここでプレーした経験のある競技者といえば、各競技でかなりレベルの高い部類に入る選手といえます。

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その前身は「明治神宮外苑競技場」という競技場です。「青山練兵場」跡地に造成されたもので、1924年(大正13年)に完成しましたが、国立競技場を建設するために、1957年(昭和32年)に取り壊されました。

明治時代に練兵場として使われる前の江戸時代には、明治神宮外苑、青山霊園とも合わせてこの一帯は「青山氏」の大名屋敷敷地でした。青山氏は、徳川氏の家臣の一族で、江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた名門です。現在も残る「青山」の地名も、この青山氏の江戸屋敷があったことを由来としています。

青山通りの北面にその宗家があり、南面に分家の下屋敷があったといいますが、明治維新を経た明治19年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられました。しかし、明治天皇の崩御後、東京市では市内に明治天皇を祀る神宮を創建することを決定。代々木にその内苑、この青山練兵場に外苑がつくられることになっていました。

その外苑に競技場が建設されることになるきっかけは。1914年5月に当時の東京市長「阪谷芳郎」が、日本YMCAの代表団と会談したことでした。阪谷は、柔道家の嘉納治五郎大日本体育協会会長と共に彼等からアメリカのスポーツ振興の話を聞き、関心を抱きました。

このとき、阪谷は東京市内に欧米式の公園とそれに伴う本格的な競技場を建設するというアイデアを思いつき、それを外苑整備のプランと合わせることで現実化しようとしました。こうして、1915年に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成された折、造営局にこの競技場の施工をも頼み込んで認められ、1922年11月に定礎式が行われました。

翌1923年9月1日の関東大震災によって工事は中断されましたが、なんとか完成にこぎつけました。総工費は当時の金額で726万円であったといいます。大正期の1円は現在のだいたい1000円超ですから、現代では75億円ほどもかかる大工事だったことになります。

こうして1924年10月25日に国立競技場の前身である明治神宮外苑競技場の竣工式が行われました。続いて、10月30日に第一回明治神宮競技大会が行われました。これは、「明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す」競技大会で、現在の国体のようなものです。

全部で36種類ほどの競技が行われましたが、これらの中には、現在ではもう見ることのできない銃剣道ほか、国防競技、戦場運動、行軍訓練、滑空訓練といったものもありました。

この大会は、1927年までは毎年、以後1939年の第十回大会までは隔年で行われました。1939年以降は厚生省の主催で「明治神宮国民体育大会」の名称で毎年行われるようになりましたが、1942年に「明治神宮国民錬成大会」の名称になったころ、太平洋戦争が勃発して大会は開かれなくなりました。

この明治神宮競技大会がまだ行われていたころの1936年には、IOC総会で1940年のオリンピックがアジアで初めて東京で行われることが決まりました。ところがメインスタジアムの場所をめぐって東京市と大日本体育協会などの思惑が交錯し、紛糾します。

東京市は現在の晴海付近を埋め立てる「埋立地案」、大日本体育協会は「明治神宮外苑競技場案」を推していました。

二者の意見はかみ合わず、その後、議論は二転三転しましたが、翌年の1937年になって、いったん「外苑競技場改修案」が決定しました。が、最終的にはこの案も覆って、ぜんぜん関係のない、別の場所である駒沢に新競技場を建設するということで決着しました。

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しかし、戦争の近づく国際情勢の中で1938年7月にオリンピック大会の返上が決定。欧州でも戦争が勃発したため、駒沢の新競技場の建設は無論のこと、この1940年の幻のオリンピック大会が行われることはありませんでした。その後、日本は1941年12月8日未明、アメリカに真珠湾攻撃をしかけ、太平洋戦争に突入。

当初は破竹の勢いで東南アジア諸国を制しましたが、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどの敗戦により急速に勢いを弱め、連合国軍の猛烈なる反抗により、日本は次第に進出していた南国からの撤退を余儀なくされていきます。更にはマリアナ・パラオ諸島の戦いでも破れ、制空権を失うと、本土にもB-29などの爆撃が襲来するようになりました。

アジア・太平洋に及ぶ広大な戦線の維持や、急速な戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった日本は、ついに「学徒出陣」にまで追い込まれます。

1943年10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省の主催による「出陣学徒壮行会」が陸海軍省等の後援で行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進しました。

学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令及び大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校などの高等教育機関に在籍する文科系学生でした。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊しました。

なお、理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、陸海軍の研究所などに勤労動員されました。ただし、農学部の一部学科(農業経済学科や農学科)は「文系」とみなされて徴兵対象となりました。また、教員養成系学校(師範学校)の理系学科に在籍する者も猶予の制度が継続されました。

この壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継を行い、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われました。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々の前で、東京帝国大学以下計77校の出陣学徒の入場行進が行われました。

東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされます。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い整列しました。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)末までに陸軍へ入営あるいは海軍へ入団しました。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者も多く、こうしたエリートは、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されました。

このころ東南アジア各地の戦地では、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出していました。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけ、さらに戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れました。戦後70年も経つのにその死者数は正確に把握されていません。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多いようです。出征者は約13万人という説もあるようですが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままです。

その多くが富裕層の出身であったといわれており、将来社会の支配層となる予定の男子でした。その学生たちが「生等もとより生還を期せず」(学徒代表・江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、学徒出陣式は、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となりました。

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1944年に入ると外苑競技場を含む外苑全体が軍の施設となり、1945年5月25日の東京大空襲では競技場も爆撃を受け、場内に大量に備蓄されていた薪炭が三日にわたって燃えつづけました。しかし、競技場そのものは大きな被害を受けず、戦後に持ち越されました。

終戦後、明治神宮外苑一帯がGHQに接収されると、外苑競技場も照明設備の設置などの改修を受け、「ナイル・キニック・スタジアム」という名称で呼ばれることになりました。

このナイル・キニックというのは、アイオワ州エイデル出身のアメリカンフットボール選手で、アイオワ大学在学中の1939年に、ハイズマン賞を受賞したことで有名になりました。この賞は大学フットボールの名選手で監督でもであったジョン・ハイズマンの名を冠した賞で、各年の大学アメフトリーグで最も活躍した選手に与えられるものです。

キニックの母方は独立戦争で活躍した将軍の子孫で、祖父はアイオワ州知事を2期務めており、エリート一家生まれといえます。両親とも教育熱心でクリスチャン・サイエンスを学んだキニックは自制心を持ち、高いモラルを身につけていたといわれます。

中学時代のころから既にバスケットボールの花形であり、高校3年の時、州のファーストチームメンバーに選ばれチームを州のトーナメントで3位まで導きました。大学でも優秀な学生であり、進学したアイオワ大学では、カレッジフットボールの最優秀アスリートに選出されました。そして、フットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞も受賞しました。

4年次に彼はアイオワ大学の学生会長に選ばれ、卒業前にいくつかのプロチームから入団オファーを受けましたがこれをすべて断り、アイオワ大学のロースクールに進学。1年後に3番の席次となりました。ところが、1939年9月、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発しました。

さらに1941年6月にドイツ軍はソビエト連邦に侵攻し、ドイツはイタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成しました。この結果、英仏に加担して連合国側となったアメリカと日本の関係は急速に悪化。ロースクールに通い始めて1年ほど経過していた彼はこの年の8月、愛国心に目覚めたのか、海軍航空隊に入ることを決意しました。

1941年12月8日には日本が真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告。このとき彼は両親への手紙に心境を書きつづっており、そこには「私が歴史上で賞賛したあらゆる男性は、彼の国の危険のとき軍へと喜び馳せ参じ、勇敢に勤めた」と書かれていました。

入隊後、彼は戦闘機のパイロットとしての訓練を受けましたが、一年ほど経った1943年6月2日、空母レキシントンからの発艦の訓練をしていた彼のグラマンF4Fワイルドキャットは、ベネズエラのパリア湾沿岸の海岸に墜落しました。

彼の乗機は燃料が漏れ出していたといわれ、このとき母艦は発艦する飛行機で混雑しており、飛行甲板に着艦することもできず1時間以上飛行を続けたあげくの緊急着水でした。すぐにレスキューが到達しましたが油しか発見されず、遺体は見つかりませんでした。

ハイズマン賞受賞者として最初の亡くなった人物となった彼はこの時24歳。死後、数え切れないほどの栄誉が与えられましたが、神宮外苑競技場を、ナイル・キニック・スタジアムと改称したのもその栄誉のひとつでした。

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しかし、お国のためにと多くの学生が学徒出陣したのがこの外苑競技場であったのに対し、戦争に勝ったアメリカがその競技場に名付けたのが、たった一人の学生のものであったということは、実に皮肉なことです。

ここから万単位の数の日本の学生が出征していき、その多くが失われたというのに、それに代わって、戦勝国で英雄視されていたとはいえ、実戦に一度も参加していない青年の名がこの競技場に冠せられたというのは、私としてはどこか納得がいかないものがあります。

あるいは米側もここで学徒出陣が行われたことを知っていたのかもしれず、わざと彼を選んだのかもしれません。それにしても、ここから死地へと旅立つ息子の姿を見つめていた親たちが、たった一人の米青年のためにこの改名が行われたことを知ったとき、その事実をどう受け止めたでしょうか。忸怩たる思いがあったのではないかと想像してしまいます。

この外苑競技場の進駐軍による接収は1952年まで続きましたが、その間も日本人の利用は行われており、1950年には日本で最初のサッカーのナイトゲームが行われました。また、1949年には第四回国民体育大会の陸上競技および閉会式が外苑競技場で行われています。

数々の名勝負の舞台となった外苑競技場の最後の熱戦ともいうべきものが、1953年3月7日および14日に行われたサッカー・スイスW杯の予選、日本対韓国の二試合でした。これは本来ホーム&アウェイでおこなうべき試合でしたが、韓国側の日本選手団の入国拒否という措置のために日本で行われたものです。

勝てばW杯出場という試合でしたが、降雪後という劣悪なピッチ状況での試合は日本が長沼健のシュートで先制したものの、5対1で韓国の逆転勝ち。一週間後の第二試合は好天に恵まれたものの2対2の引き分けで戦後初の日韓対決を韓国が制し、W杯初出場を手にしました。

その後、第三回アジア競技大会の実施が東京で行われることが決まると、外苑競技場を取り壊して新たに国立競技場を建設することが決定。1956年には所管が明治神宮から文部省に譲渡され、翌年取り壊されて、33年に及んだその輝かしい歴史に幕を下ろしました。

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ちなみに、1952年のアメリカの接収の終了により、既にキニック・スタジアムの名称も取り下げられていましたが、その名は、彼の故郷のアイオワで復活しました。

彼の死後、彼の母校のフットボール場を彼の栄光を称えて改称しようとする運動が起き、1972年春、アイオアスタジアムは正式にキニック・スタジアムとなりました。現在、カレッジフットボールで唯一のハイズマン賞受賞者の名前をつけたスタジアムとなっています。

新しい国立競技場は1957年1月に起工され、アジア大会前の1958年3月に竣工し、その年には無事アジア大会が開催されました。このとき、のちの東京オリンピックで一躍脚光を浴びた「聖火台」も完成しており、この大会が初お披露目となりました。その製作を請け負ったのは、鋳物づくりの名工とうたわれた「鈴木萬之助」という職人さんです。

ところが、その湯入れ作業で爆発事故が起き、このショックと過労で8日後に鈴木萬之助は亡くなってしまいます。しかし息子の鈴木文吾が不眠不休で第二の聖火台を製作し、一ヶ月の作業の後、聖火台を完成させ、何とかアジア競技大会に間に合わせました。文吾は、もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだったといいます。

この高さと直径2.1m、重さ2.6tの聖火台は文吾の手により父の製作者名が入れられて、国立競技場に鎮座していました。が、その解体に伴い、宮城県石巻市に貸し出され、新しい国立競技場が完成する2019年まで、石巻の復興のシンボルとして使われる予定です。先月末までに、市の運動公園に設置が完了し、聖火台に「復興の火」がともされています。

この点火式には、オリンピック組織委員長の森喜朗元首相など、およそ100人が出席しました。点火役は、アテネオリンピック、ハンマー投げの金メダリスト・室伏広治選手が務め、雨が降りしきる中、トーチを掲げ、火をともしました。なお、萬之助が最初に製作した聖火台も修繕をへて、今も作業場のあった川口市に置かれているといいます。

国立競技場が完成した1958年からは日本陸上競技選手権大会が開催されるようになり、2005年まで断続的に会場として利用されました。また翌1959年には、東京国体のメインスタジアムとして陸上競技がここで開催されました。

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その後1963年には東京オリンピックのメインスタジアムとして使用するためスタンドの増築が行われましたが、この増築を行ったのも大成建設で、この工事により座席数は約7万2千席となりました。

サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開催されるようになりました。翌1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が実施され、以降「元日の決勝戦」が定着していました。

さらには、1976年度(昭和51年度)から全国高等学校サッカー選手権大会も開催されるようになり、上位進出を決めたチームのみが国立のピッチでプレーすることができるため「高校サッカーの聖地」とみなされるようになっていきました。

その後1970から80年代にはラグビーブームが訪れ、日本ラグビーフットボール選手権大会など多くの試合で満員の観衆を集め、特に早明戦では前売りチケットの入手困難のため徹夜による列並びが毎年恒例となっていました。また、長年サッカー世界選手権、トヨタ・カップの会場として用いられ、1991年には世界陸上競技選手権大会も開催されました。

このように国立競技場は日本を代表する大型スタジアムとして利用されてきたわけですが、同規模の5万人の観衆を収容できるスタジアムは甲子園球場を別にすれば長らく存在せず、1988年の東京ドーム、陸上競技場では1994年アジア競技大会開催に向け建設された1992年の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)の開場を待たねばなりませんでした。

独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われており、また2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められました。2005年に単独のアーティストとしては初めてSMAPがコンサートに使用し、2007年にはDREAMS COME TRUEが審査をパスしコンサートを行っています。

その後も2008年の嵐、2012年の、L’Arc〜en〜Cielのコンサートが開催されています。また2014年にはポール・マッカートニーが日本国外のロック歌手単独で初となるコンサートが予定されていましたが、体調不良のため延期代替の分を含めた公演を中止しています。

コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎23回忌法要が開催されました。この法要では、トラック部分に總持寺の本堂を模した仮設の建物を用意し、主催した石原プロモーションの発表では約11万7000人のファンが訪れました。

そして、2013年9月にブエノスアイレスで開かれた第125次IOC総会で2020年のオリンピックが東京で開催されることに決定。これにより、国立競技場は建て替えられこととなり、2014年5月31日、「SAYONARA国立競技場FINAL “FOR THE FUTURE”」のピッチ開放をもって閉場となりました。このイベントの一部は、TBSで生中継されています。

そして、その解体が今年2月下旬から始まり、5月半ばに終わりました。この解体工事をめぐっては、当初は昨年7月に開始する予定でしたが、入札の不調などで解体業者の選定に難航。3度目の入札で競技場北側と南側の両工区の業者が決まり、時期が大幅に遅れました。

解体工事は南北二つに分かれており、北工区の入札価格は、関東建設興業の13億9400万円で、南工区はフジムラの15億4900万円で、合計29億4300万円となります。

その新競技場計画も二転三転し、先日首相が計画の白紙化を表明したばかりです。解体費用は必要経費だとして、ボツになったプランのデザインを行ったイラン人のザハ氏へ払った監修デザイン料と違約金は合計20億円だそうで、このあと大成建設などへの違約金も加えると、この解体工事費用を楽勝で超えそうです。

計画段階でこれだけの金をドブに捨てたことになります。また、旧競技場は一度7万席まで増設しましたが、その後ゆったりとした座席に変えたことなどから、5万席ほどに縮小されており、新競技場での収容人数は、その1.6倍の8万人になるようですが、この8万という数字はどこから出てきたのでしょうか。

現在、白紙撤回になっているため、当初予定されていたような開閉式の屋根を備えた全天候型のドーム型スタジアムになるかはまだわかりません。が、9レーンのトラックを敷設して国際基準を満たす、といったことや、コンサートや展覧会、ファッションショーなどの会場としての使用、大規模災害時の広域避難場所としての役割などは踏襲されるでしょう。

実は私はこの国立競技場のすぐ近くの会社に都合5年ほど勤めていたので、この新競技場の巨大さがだいたい想像できます。データをみると、旧競技場の建築面積は約3万7千m2だったのに対し、新競技場の予定面積はその倍以上の7万8千m2以上にもなります。

これを実現するとなると、旧来の国立競技場の敷地いっぱいいっぱいになることは間違いなく、現在西側を南北に走る外苑西通りのすぐ目の前に、この巨大競技場の大きな壁が立ちはだかることになります。新しいプランがこれをそのまま踏襲するかどうかはわかりませんが、座席数8万を予定しているとなると、そうそう大きくは変わらないでしょう。

従って、私としてはこれほどの巨大な施設であるがゆえの、どうしても景観阻害が気になるところです。国立競技場の敷地における建物規制は、以前は高さ20m、容積率200%でしたが、国立競技場の建て替え計画にともない、東京都都市計画審議会はこの敷地における規制を高さ75m、容積率250%に緩和しており、高さも気になります。

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そもそも、この明治神宮外苑周辺地区は、風致地区に指定されており、こうした建物の高さ、容積率の規制も景観を守るためのものでした。つまりこの規制緩和は、過去の歴史的経緯を無視した決定ということであり、景観を破壊する可能性ははなはだ大といえます。

旧国立競技場が1958年に建設された時は、神宮外苑の聖徳記念絵画館から見える景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さを8mほどに抑えたといいます。また1964年の東京オリンピックではメインスタジアムとして使用するために、バックスタンドを増設しましたが、スタンドの一番高い部分は23mに過ぎませんでした。

ところが8万人収容の線に近づけようとするとスタンドを大きく張り出して拡張させることになり、かつ高さもかなり高くなります。プランにもよりますが、収容人数を考えると70m越えは確実と思われ、これほど巨大なスタンドは、苑内の敷地ほとんどの上に大きくおおいかぶさるようにしないと建設できないでしょう。

それほどこの敷地はせまいといえます。周辺には、その南側にある明治公園など面積が大きい広場が存在していますが、これも潰した上での建設であり、旧国立競技場のような余裕を持った配置は不可能です。また新競技場周辺の道路から見た歩行者目線では、競技場の全体像が分かりにくくなり、巨大な壁が目の前に迫りくるような圧迫感があるでしょう。

当初行われたデザインのコンペティションでは模型の提出は求められず、鳥瞰図のみで審査が行われたといい、このため、どう考えても周辺との調和、周りからの見え方などは考慮に入れられていないと考えられます。

さらに、廃案になった計画では、競技場周辺は人工地盤でかさ上げし、地盤の地下にスポーツ博物館や図書館などを整備する予定だったそうです。地上部分に当たる地盤の上側は、緑化して公園や通路にする予定だとか。しかし人工地盤では、樹木が根を張るには地中の深さなどが不十分で、持続的な生育は難しいとされています。

しかも、競技場の建て替え工事にともない、既存樹木の1500本余りが伐採されたようですが、移植される予定なのはわずか200本程だそうです。その中には天然記念物が含まれているといいますが、これらも本当に移植が可能なのかどうかも現時点においては不明です。

加えて、新国立競技場では、年間で、サッカー20試合、ラグビー5試合、陸上競技大会11回、コンサート12回を開催するタイトな計画目標としているといいます。が、五輪終了後、これほどの数のイベントの消化が果たして本当に実現できるのでしょうか。

たった一回のオリンピックと数少ない行事のために、ここまで景観や環境を破壊してまで巨大な施設を作る必要が本当にあるのか。また、元首相がのたまわった「たった2500億円」でどれだけ多くのスポーツ振興ができるのか、今一度よく考え直してほしいと思います。

そうそう、この国立競技場の前の外苑西通りには、私の大好きなラーメン屋、「ホープ軒」もあります。その濃厚なスープと絶妙に合う麺をすすりながら眺めていた神宮の森がもう見えなくなり、そこには無機質な巨大競技場の壁が広がることを考えるといたたまれなくなります。

新計画の策定者は、ぜひこのラーメン屋に立ち寄り、その美味を堪能しつつ、敷地を振り返ってこの計画の妥当性をいま一度よく考えていただきたいと思う次第です。

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