愛鷹

おととい昨日と、比較的というか、かなり良いお天気に恵まれ、まるで梅雨とは思えないような陽気です。富士山もよく見えていて、山開きが近づいている昨今、一層雪が少なくなったように思えます。

この富士山の南側すぐ真下に、愛鷹山という山があります。正確には愛鷹連峰ともいうべき山塊で、最高峰1504mの越前岳を含んだ9つの山の集合体です。この愛鷹山のすぐふもとに私の母校があります。大学時代、この山の上の学校へ、ふもとの町(村?)から母校のある山の中腹まで、茶畑とみかん畑の間を上る農道を通って、毎日せっせと通ったものです。

ここからの駿河湾の眺めは秀逸で、晴れた日には西方に伊豆半島の天城山がくっきりみえ、東には清水の三保半島、そして中央には青々と広がる太平洋が広がります。学生のころ、この風景が好きで、授業の合間あいまに、教室から目を転じてこの海の群青を眺めていると幸せな気分になったものです。

あれから何年経ったかな~と考えると、もう34、5年にもなります。先日その頃に住んでいた学生寮へ行ってきましたが、もう跡形もなくなっていて、普通の民家になっていました。改めて時の流れを感じます。

ところで、この愛鷹山ですが、古くは足高山と記されていたようです。いつから愛鷹山と書くようになったのかはわかりませんが、昔その麓に、鷹根村という村があり、それが周囲の村と合併して愛鷹村になったそうです。このとき、足高と鷹根の「たか」が同じだったことから、ふたつを合体させたネーミングが愛鷹なのではないかと私は推定しています。

明治の時代、この愛鷹の名前を冠した貨客船があり、「愛鷹丸」として伊豆沿岸で運行されていました。運行していたのは、「駿河湾汽船」という会社で、明治30年代前半に三陸航路の整備を進めていた、「東京湾汽船」という会社が、伊豆半島沿岸航路を経営する競合船社を次々合併したのち、1909年(明治42年)に子会社として設立しました。

どういう運行形態だったかよくわかりませんが、合併前の会社のひとつが、伊豆半島西岸航路を運営していたことから、沼津と下田を結び、貨客を運んでいたものと考えられます。この当時は、伊豆半島にはすでに豆相線が開通して運営を始めていましたから、沼津から下田へ行くためには陸海ふたつのルートがあったわけです。それほど需要があったということなのでしょうが、どんな需要だったのか今はよくわかりません。今後また調べてみましょう。

さて、この愛鷹丸ですが、大正3年(1914年)のこと、西伊豆、戸田の舟山という場所の沖で烈風にあおられて沈没してしまいます。どこかな、と思って地図で調べてみると、修善寺のほぼ真西にある戸田港より少し南側に舟山という地名がありました。以前、クルマで通ったことがありますが、結構際立ち、入り組んだ断崖を縫うようにして道路が走っており、なるほど、ここなら船が遭難しそうだなと思えるような場所です。

この事故での死者は乗客・乗員合わせて121名、生存者は25名のみ。愛鷹丸は定員26名の小型木造船だったそうなのですが、その5倍もの乗客を乗せていたことがこの惨事につながったようです。運輸規定の厳しい現在では考えられないほど過剰な乗員数ですが、このころ既に鉄道が走っていたとはいえ、まだまだ運賃は高かった時代のこと。運賃の安い船に乗ったほうが得と考えた人が多かったのではないでしょうか。

さて、この愛鷹丸にまつわる悲しい話があるということを昨日のブログでアナウンスしましたが、これを書いた岡本綺堂さんは大正7年の1月に修善寺を訪れるため、三島から大仁行きの豆相鉄道に乗っています。そのときの車中で乗り合わせた沼津の人からその話を聞いたそうで、私もこれを読んだとき、なるほど、かわいそうだなあ、と思いました。

綺堂さんの文章は少し文学調なので、多少現代風にアレンジして、以下掲載します。

その昔、沼津に住むある男が、強盗を犯し、相手を傷つけるという罪を犯しました。その後、捕まるのを恐れて、しばらくは伊豆の下田に潜伏していたのですが、ある時なにかの動機で突然、昔犯したその罪をひどく後悔するようになりました。その動機はよく判らないのですが、行きつけの理髪店へ行って何かの話を聞かされたものらしい、ということでした。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したのですが、警察では、その事件はもう時効を経過しているので、あなたを罪人として取扱うことが出来ないと言われてしまいます。

彼は失望しながらも、潜伏していた下田を出て、かねて住んでいた沼津へ帰ります。そして、当時自分が傷づけた被害者がその後どうなったかをあちこちに聞いて回ることにしたのです。ところがその結果、当時の被害者はとうに世を去ってしまっていることがわかり、その遺族のゆくえも判らないということが判明します。そして、彼の失望はさらにつのります。

元来、彼は沼津の生れではなかった(綺堂さんはその出生地聞き洩らしたそうですが)ので、せめて彼の故郷に帰り、彼の実家の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立ったそうです(注:おそらくは下田に近い伊豆南部の生まれだったのだと推定)。

そして、その後一年ほどの間、一生懸命に働いて、いくらかの金を作ります。彼はその金をふところにして郷里に帰り、石碑を建てるために、船を求めます。

そして、彼が乗った船が運命の愛鷹丸。彼が乗船したその日は風の強い日で、駿河の海はかなり荒れていたようですが、船はそれにも関わらず定員の5倍もの人を載せて沼津港を出ます。出航後、海は怒って暴れて、彼を乗せた愛鷹丸は木の葉のように波にもまれ、ゆれて傾きます。そして、ついには彼だけでなく、他の大勢の乗客もろとも海のなかへ投げこまれてしまうのです。

やがて救援の船が来て、生存者を救出しますが、引き上げられたのはわずか二十数名。120名あまりの人命が失われます。そして、彼はというと、数時間の後に陸へ引き上げられたものの、季節は真冬のこと。かわいそうに凍え死んでいたそうです。そして、その懐には、昔犯した罪を自分でつぐなうためのお金が大事にしまいこまれていたのでした・・・

綺堂さんによると、電車の中で彼にこの話をしてくれた人は、彼の死はその罪業による天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりだったそうです。綺堂さんは、「天はそれほどにむごいものであろうか――とわたしは暗い心持でこの話を聴いていた」そうです。

この話をどうとらえるかは、皆それぞれだろうと思いますが、私も綺堂さんと同じく、少なくとも「天罰」ではないと考えます。むしろ、罪は犯したものの、その過ちに気づき、一生懸命それを償おうとした気持ちに天が答え、死を与えたと解釈したいところです。

綺堂さんのことを調べていて、たまたま目にしたショートストーリーですが、みなさんはどうお感じになったでしょうか。

ちなみに、この当時あった沼津~下田間の航路は現在、存在しません。現在では、戸田運送船という会社が沼津と戸田、土肥の間で高速船を運営しているほか、駿河湾内の観光クルージングをやっているようです。このほかにも、戸肥港から清水港まで運航している駿河湾フェリーというのがあるようです。往復4000円弱ぐらいみたい。船好きの私としてはいつか乗ってみたいものです。

ところで、「愛鷹丸」事故を起こした駿河湾汽船は、遺族への補償などでその業務が圧迫されたのか、その後、依田汽船という別の会社に吸収されてしまったようです。過失により120人もの死者を出したのですから、当然といえば当然の報いでしょう。これぞ天罰、といってもよいのかもしれません。

今回、このストーリーをまとめるにあたって、いろいろ調べていたのですが、その昔、伊豆半島周辺を走り回っていた船のお話にもいろいろ面白いものがありそうです。またの機会に改めてそうしたこともご紹介していきたいと思います。

今日は、6月最後の土曜日。お天気もよさそうなので、海の見えるきれいな場所にでも行ってこようかと思います。また、その風景などご紹介しましょう。それにしても梅雨はどこへ行ったんでしょうか・・・