あれに見えるは……


今日は八十八夜です。立春を第1日目として88日目、つまり、立春の87日後の日で、あと3日後にはもう「立夏」となりますが、このころには、遅霜が発生することもあり、事実、伊豆地方は昨日からかなり涼しくなっています。

「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」という言葉があるそうで、これは遅霜の発生によって、昔から泣いても泣ききれないほど農作物の被害が発生したことからできたことばのようです。

従って、そもそも八十八夜というのは、農家に対して遅霜がありうるよ、という注意を農家の人々に対して注意を促すために作られたこよみなのです。

ところで、八十八夜といえば、「あれにみーえるは、ちゃっつみじゃないか」ということで、この季節の風物詩、お茶をどうしても連想してしまいます。

静岡に代表されるお茶の産地では、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれています。

茶の産地として有名なのは、静岡のほか、埼玉県の狭山、京都の宇治などですが、これらの地域ではこの日、新茶を配るサービスやもみ茶・茶摘みの実演などのイベントが行われ、ニュースになることもしばしばです。

我が家では、水道水がおいしいので、あまりお茶だけを飲むという風習はないのですが、お客さんに出すお茶や、お土産に持っていってもらうお茶を何にするかといったことについては、やはり静岡在住ということで気を遣ったりしています。

あまり飲まないとはいえ、「深蒸し茶」で有名な伊東の「ぐり茶」は以前知人から教えてもらって知り、伊東市内にある「ぐり茶の杉山」というお店までわざわざ買いに行ったこともあります。

生葉をじっくり時間をかけて茶葉の芯まで蒸す「深蒸し茶製法」は、通常の煎茶との違って、その製造工程で茶葉の形を整えるために細かく茶をもむ、「精揉」という工程がないのが特徴で、その結果、生葉を傷めず茶の成分が浸出し易く、渋みを抑えて茶本来の味を引き出すことができるといいます。

実際、お店で試飲させてもらったところ、その美味しさにびっくり。結構高いものかと思ったら、そうでもないリーズナブルなものもあり、自宅用、客用、お土産用などと使い分けるのにも便利です。そのお味は私も保証しますから、みなさんも一度試してみてはどうでしょうか。

この茶ですが、いわゆる「チャノキ」という植物の葉や茎を加工して作られる飲み物です。「茶樹」ともいい、主に熱帯及び亜熱帯気候で生育する常緑樹ですが、品種によっては海洋性気候でも生育可能であるため、イギリスの北部やアメリカでも北のほうに位置するワシントン州で栽培されています。

世界中栽培されているため、いろんな種類があるのかと思ったら意外とその品種は少なく、「シネンシス」と呼ばれる中国種と「アッサムチャ」と呼ばれるアッサム種の2種だけです。

中国種のほうは、かなり寒い地方でも栽培が可能であり、一度植えれば100年程度でも栽培可能といいます。

比較的カテキン含有量が少なく、酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされています。日本で生産されているのは、ほとんどがこの中国種であり、このほか原産国である中国のほか、イラン、グルジア、トルコなどの中東諸国やインドのダージリン、スリランカでも栽培されています。

一方のアッサム種は、日本のお茶のような低木ではなく、単幹の高木であり、放っておけば6~18メートルの高さにも達するといいます。しかしこれではお茶を摘むことができないので、適当な高さに刈り込みながら育て、こちらもだいたい40年程度は持つそうです。

日本で栽培されている中国種と違って、カテキン含有量が多く、酵素の活性が強いので、紅茶向きとされています。インドのアッサム地方が代表的な産地ですが、このほか、スリランカの低地やインドネシア、ケニアなどで栽培されています。プーアル茶(黒茶)もアッサム種から作られます。

いずれのお茶の木も地域によって成長の度合いや時期が違いますが、その収穫方法は同じであり、新芽が成長してくると摘採するだけです。しかし、採取時期が遅れると収量は増えるものの、次第に葉っぱが固くなり、主成分であるカフェインやカテキン、アミノ酸といった栄養分も急激に減少するため、品質が低下します。

このため、品質を保ちながら収量を確保するため、摘採時期の見極めが必要といい、この見極めの技術が結構モノをいいます。

以前、松本清張さんの小説に書いてあったのを読んで覚えているのですが、戦前、日本のお茶の技術がタイに輸出され、タイ北部の高原地帯では、さかんにお茶の栽培が行われるようになったそうです。

日本のお茶の樹の苗木を彼の地に持ち込んで植えて育て上げ、ここを緑茶の一大産地にすべく、その栽培技術をタイ人に教えるため、静岡から多数のお茶の栽培技術者が渡り、そこに居住していたということです。

戦後、その技術とお茶畑は残り、日本人は撤退してしまいましたが、その後、この地で育てられたお茶は紅茶用の茶の樹として使われるようになり、現在では紅茶の産地として栄えているとのことであり、日本茶の高い栽培技術が今でもこの地で受け継がれています。

このことからもわかるように、基本的には日本で栽培されているお茶の樹を使っても紅茶を作ることはできます。エッと思われる方も多いかもしれませんが、基本的には緑茶も紅茶も原料はチャノキであり、その製造過程が違うために出来上がるものが違ってくるだけです。

無論、紅茶のほうは前述のようにアッサム種のほうが適しているのですが、中国種を使った紅茶というのも世界各国で実際に作られており、意外と知られていない事実です。タイに日本の緑茶づくりの技術が伝わり、これが現在のような紅茶の産地として有名になったということには、歴史的な面白さを感じさせます。

そのお茶の製造過程をざっとみてみていきましょう。

まず、お茶摘みですが、成熟した茶樹の新芽のうち、摘採するのは上部数センチメートルの葉と葉芽だけです。4~5月の時期に芽を出したものを摘むのが新茶ですが、この最初の摘採後7~15日経ってから生えてきた葉はその後ゆっくりと成長していき、より風味豊かな茶になります。これらを摘んだのが二番茶、三番茶と呼ばれるものです。

日本国内における茶期区分は、だいたい次のとおりです。必ずしも新緑のころだけというわけではなく、さまざまな季節に摘採されていることがわかります。

一番茶…3月10日ごろから5月いっぱい
二番茶…6~7月
三番茶…8月から9月の中旬ごろまで
四番茶…9月中旬から10月の中下旬
秋冬番茶…10月下旬から年内一杯
冬春番茶…正月から3月はじめ

もっとも、一番風味が良いといわれているのが、一番茶、二番茶であり、日本においては、各地でその製法を工夫していろいろな味わいのものが開発されています。

また、前述のとおり、お茶は発酵のさせ方により、いろんな種類のものができます。日本以外の海外では、酸化発酵を行わせた「紅茶」が多く作られますが、日本では発酵をさせない「緑茶」がほとんどです。

この「発酵」ですが、お茶には「酵素」が含まれており、この作用により、茶葉の中のカテキンやクロロフィル(葉緑素)などの300種類以上の成分が反応し、テアフラビンという物質などが生成されます。

テアフラビンというのは、もともと植物が持っている色素や苦味の成分であり、植物細胞の生成、活性化などを助ける働きを持ちますが、酵素によってこれが更に増え、その多さや質によってその後に製造されるお茶の味や香りが左右されます。

ついでながら、酵素とは植物や人間などの「生き物」を「機関」に例えると、「組立て工具」に相当します。

生体の遺伝子の形成を行う「ゲノム」が設計図に相当するのに対し、酵素には、生体の体内に取り込まれるべきいろんな物資の選択をしたり、その生体が必要とする目的の反応だけを進行させる性質があり、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせます。

お茶の場合も、この酵素を内部に人工的に発生させることによって、もともとの茶葉が違った性質のものに変化します。これを活性化させるかさせないかによって、紅茶と緑茶の違いができてくるというわけです。

じゃあ、発酵させるのと発酵させないのではどちらがいいの?という話になりかねないのですが、人体に及ぼす影響については実はまだよくわかっていないことが多いようです。紅茶や緑茶の効用というのは良く取沙汰されることではありますが、そのほんとうのところの効果はというところはまだ究明されていないのが現状のようです。

いずれにせよ、お茶を発酵させるかさせないか、あるいは発酵させるにしても、その程度の加減によって、このカテキンやテアフラビンの量はかなり異なり、このためこれによって造りだされるお茶の味や香りは色々変わってきます。

しかし、酸化発酵を進めれば進めるほど、クロロフィルも酸化するため、お茶の色は緑から暗色に変化するなど見た目にも変化し、その味わいも変わってきます。このため、中国種のチャノキを使って作ったお茶は、大きく分けて6種類もあります。

緑茶や紅茶以外のものは、青茶、黒茶 白茶、黄茶などであり、それぞれ、以下のような特徴があります。

緑茶:不発酵のお茶です。中国では、摘採後、発酵が始まらないうちに速やかに釜炒りした後、入念に揉み上げ、乾燥して仕上げますが、日本茶では、釜炒りではなく茶葉を「蒸」したあと、揉み上げていわゆる「煎茶」をつくります。

紅茶:紅茶は、完全に発酵させたお茶です。紅茶の場合は、摘んだあとすぐに加工せず、しばらく放置することこれをある程度しおらせます。これを「萎凋」といい、このあとに揉み上げ作業をおこないます。揉み上げの前にひと手間加えることで茶葉の細胞組織をより壊し、酸化発酵を進行させることができます。

そしてさらに、温度、湿度、通気を調整し、茶葉が赤褐色になるまで急速な酸化発酵をおこさせ、最後に乾燥・加熱して仕上げます。

青茶:我々が「烏龍茶」として良く知るお茶です。これは、「半発酵茶」です。紅茶と同じく、萎凋を行いますが、その途中で茶葉をひっくり返して撹拌する「揺青」という工程を加えることにより、発酵を助長させます。

そして、釜の中で炒って酸化発酵を止めたあと、茶葉の香りと味を引き出すため揉捻し、さらに最後に鍋に入れて水分が無くなるまで加熱する、すなわち焙じ(ほうじ)をして仕上げます。

黒茶:これは中国雲南省を中心に作られ、プーアル茶として日本でも良く知られています。こちらは、「後発酵」させてつくります。緑茶と同様、摘採後すぐに加熱して酸化発酵を止め揉捻しますが、その後、高温多湿の場所に積み上げて置いておき、これにより微生物発酵をさせます。

微生物の力を借りるという点が、茶葉自体に含まれる酸化酵素の働きにより発酵させる緑茶や紅茶、烏龍茶などと異なる点です。放置発酵後、再び揉捻した後、乾燥させて仕上げます。

花茶:花茶は、文字通り花で茶に香りを付けたものであり、緑茶、青茶、黒茶、紅茶などの茶葉に花自体を混ぜたもの、花の香りだけを移したものがあり、ジャスミン茶(茉莉花茶)が有名です。

白茶や黄茶は日本人にはあまり馴染のないものです。白茶は弱発酵茶で、中国福建特産であまりたくさん作られない希少なお茶です。その違いは原料にあり、茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えているため「白毫」と呼ばれています。摘採後、萎凋のみを行い、火入れして酸化発酵を止めて仕上げます。

この白茶ですが、香り・味わい・水色ともに上品で後味がとてもよく、また甘みがあるといいます。また、二日酔い、夏ばてに効くといった効能や解熱作用があると言われているようです。

日本ではあまり飲まれることもなく、スーパーマーケットなどでもあまりみかけませんが、最近では、アサヒ飲料や大塚ベバレジといった飲料メーカーが、商品化して発売しているそうで、「白いお茶」とか「白烏龍」のような名前で出ているようです。もともとが高いお茶なので、「白烏龍」のほうは白茶と烏龍茶のブレンドのようですが。

インドやスリランカでもここ数年、差別化・ブランド化の一環として白茶生産を開始する事例が出てきているそうなので、産量が増えれば日本にもたくさん輸出されるようになり、烏龍茶のように流行るようになるかもしれません。

黄茶もまた、白茶同様に希少なお茶として知られています。萎凋をせずに加熱処理を行いますが、この加熱工程が難しく、低い温度から始め、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げるなどの複雑な作業が必要です。

その後、高温多湿の場所に置いて発酵させますが、その発酵は、酸化酵素や微生物の働きによるものでなく、高温で多湿という特殊環境でポリフェノールやクロロフィルを重点的に酸化させるというものであり、その過程では「牛皮紙」でこれを包みます。

この工程は「悶黄」と呼ばれる独特なものであり、ポリフェノールやクロロフィルがは酸化することによって茶葉は水色がうっすらと浮いた美しい黄色になります。どんな味がするのか試してみたいところですが、黄茶は清朝皇帝も愛飲したといわれ、中国茶の中でももっとも希少価値が高く、100グラム1万円を超えるものも珍しくはないそうです。

お金持ちのあなた、一度試してみてそのお味を教えてください。

ところで、我々日本人にとって最も馴染のある緑茶の製造方法を上ではさらっと、たった2~3行で書いてしまいましたが、日本茶の製造過程は実はそんなに簡単ではありません。

その多くは、「蒸す」ことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで乾燥させる製法をとりますが、揉まないものもあり、これらを総称して「煎茶」といいます。蒸す代わりに釜で炒る加熱処理を用いる場合もあり、これは「釜炒り茶」といいます。九州の嬉野(うれしの)茶などが有名です。

煎茶の製造工程を簡単に説明しておきましょう。

まず、手摘み煎茶の場合はお茶の枝、1芯につき2~3葉、機械摘みの場合は1芯4~5葉を採ります。

「番茶」というのを良く聞くと思いますが、これは煎茶を摘採した後の硬い茶葉を摘採・加工したものであり、ようは「廉価版」です。安い番茶をスーパーで安売りをしているのをみかけることがありますが、これは貧乏人、いやそのぉ……リーズナブルな生活をしたい方々が飲まれるお茶です。

煎茶用に摘んだ生葉は、まだ生きていて呼吸をしているため、これを大量に重ねるとすぐに発酵が始まり、熱が発生します。番茶用の茶葉もそうですが、新茶のほうがより「生きがいい」のでより多くの熱を発します。このため、網の上にのっけて上下から扇風機を当てるなどして湿度の高い空気を送って、水分の保持と呼吸熱の低下を図ります。

次いで、蒸します。「蒸熱」と言われる工程であり、酸化酵素の働きを止め、茶葉の色を緑色に保たせながら青臭みを取り除くため、圧力のない蒸気でまんべんなく蒸します。このときの蒸し時間の長さによって、「味・香り・水色」の基本的な性格が決まるといわれています。

蒸熱は、緑茶の色と品質に決定的な影響を与える工程で、蒸し時間が長いほど、この後の工程で茶葉の細胞膜が破壊されやすくなるために濁った水色になります。しかし、色沢は明るくなり、渋みと香気は少なくなります。

熱した茶葉を高温のまま放置すると、鮮やかな色あいが失われ香味も悪くなります。そこで今度は、強い風を扇風機で送り込み、室温程度までムラのないように急速冷却することで、茶葉の色沢および香味の保持を図ります。

こうして、熱が無くなったお茶に対して、ここからようやく「揉み」の工程に入っていきます。その最初の工程は、「葉打ち」といい、乾燥した熱風を送り込みながら、お茶を叩いて打圧を加えて軽く揉みこみます。このとき、茶葉表面の蒸し露を取り除いて、乾燥効果を高めます。これにより、茶葉の色沢と香味の向上が図られます。

次いで、茶葉を柔らかくし、内部の水分を低下させるため、乾燥した熱風を送り込みながら打圧を加え、今度は少し本格的に摩擦・圧迫しながら揉みんでいきます。これを「粗揉(そじゅう)」といいます。

「揉み」の工程はこれだけではなく、さらに茶葉をひと塊にし、加熱せず圧力を加えて揉み込む「揉捻(じゅうねん)」を加えます。粗揉工程での揉み不足を補い、また、茶葉の組織を破壊して含有成分を浸出しやすくして水分の均一化を図るためです。

さらに、このあとには、「中揉(ちゅうじゅう)」「精揉(せいじゅう)」という揉み工程がはいります。 揉捻(じゅうねん)後の茶葉は萎縮し、形も不揃いで水分含有量もまだ多いため、乾燥した熱風を送りながら打圧を加えて揉みこむのが「中揉」であり、茶葉を解きほぐし、撚れた形を与えるのが「精揉」の工程です。

中揉で整形しやすいよう乾燥させた茶は、精揉工程で緑茶独特の細く伸びた形に整えられます。茶葉内部の水分を取り除いて乾燥を進めながら、人間が手で揉むように一定方向にだけ揉みます。

この精揉工程を経た茶葉には、まだ水分が10~13%も含まれています。これを熱風乾燥で5%程度にまで下げます。これでようやく煎茶の完成です。これにより、長期の貯蔵に耐えるようになり、さらにあの日本茶特有のおいしい香りが出てくるのです。

ちなみに、私は学生のころ、このお茶づくりの工程の一部を手伝うアルバイトをしたことがあります。それは、お茶摘みの工程と、「蒸し」の工程でした。一番茶は、手で摘むので結構年期が入った人でないと任せられないということで、我々にはやらせてもらえませんでしたが、二番茶、三番茶は機械で摘むので素人でもOKです。

やや軽めの芝刈り機、というのかバリカンの大きなものとでも言うのでしょうか、独特の形をした摘み取り器があり、これで茶摘みをしていくのですが、なかなか重労働です。

また、蒸したお茶は、すぐに発酵しそうになるので、常に風を当ててひっくり返さなければなりません。山のように積まれた蒸し茶をフォークを使ってひっくり返しては風にあてるという作業を一晩中続ける、というのが私がやったもうひとつのアルバイトで、これは結構良い収入にもなりましたが、さすがにきつい仕事だったのを覚えています。

その後の「揉み」の作業になると、これはもうアルバイトに任せるわけにはいかない、ということで、どこのお茶工場でもそれ専門の年期の入った農家の方がその工程を手掛けるようです。

あれから30年以上経っているので、少しは技術的に進歩したかもしれませんが、おそらくは揉みの工程には、今でも機械は入っていないのではないでしょうか。いずれにせよ、日本茶づくりというのは本当に手間暇のかかるものです。

ところで、我々が普段使っている「煎茶」という言葉には、ふたつの意味があるようです。そのひとつは、お茶のランクに関しての使いかたであり、この場合、「煎茶」とは、高級品である玉露と、リーズナブルな生活を営まれている方々がお飲みになる番茶の中間に位置づけられます。

なので、フツーの人が飲んでいるのが煎茶、お金持ちが飲むのが玉露ということになりますが、玉露といえども、中国の黄茶のように100g一万円もしたりはしないので、ごく普通の生活をしている人でも飲んだことはあるでしょう。無論、私も飲んだことがあります。頻繁にではありませんが。

一方、中世までに確立した茶道における「抹茶(挽茶)」に対して、茶葉を挽かずに用いるお茶一般に与えられる総称もまた、「煎茶」と呼ばれます。つまり、いわゆるフツーのお茶である煎茶のほかに、玉露、番茶、ほうじ茶、玄米茶などの「不発酵茶」全体をひっくるめて指す用語であり、場合によって挽いて使う抹茶を含める場合もあります。

これは、中国で飲まれている烏龍茶(青茶)や黒茶などの「発酵茶」と区別されるためにほかならず、前述までの説明のとおり、緑茶は学術的には「不発酵茶」であり、日本で一般に緑茶といった場合には、こうした不発酵の緑茶をさして「煎茶」ということが多いのです。

このあたり、混同している人も多く、私も日本茶のことを緑茶と言ってみたり、煎茶といったりで、統一性がなく、煎茶というのはどういうときに使う呼び方なのかな、と思っていました。

結論からいえばどちらでも良く、シチュエーションによって使い分ければよいわけで、国内のお茶だけを話題にしている場合には「煎茶」は玉露と番茶の中間品質のお茶の意味で、中国とのお茶貿易のお話をしている場合の煎茶は日本茶全体を意味する、ということになるでしょうか。

このお茶がいつ中国から日本に伝わったのかについては、はっきりしていないようですが、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強いと言われているようです。

平安時代初期の806年に、空海が唐へ留学していた帰りに種子を持ち帰って、日本に製法を伝えたのが最初ではないかといわれており、815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇が近江行幸の際、滋賀県の大津にある梵釈寺というお寺で、ここの僧がお茶を煎じて献上したという記録が残っているそうです。

しかし、庶民の飲み物として普及するにはさらに時間がかかり、まず最初は、中国よりもたらされた茶道具を雅に使う「作法」を身につけるため、武家や公家などの身分の高い人達の間でたしなまれて普及しました。

この「作法」はやがて場の華やかさよりも主人と客の精神的交流を重視した独自の「茶の湯」へと発展していきました。

当初は武士など支配階級で行われた茶の湯でしたが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになり、お茶の葉っぱを挽いて飲む煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期です。

茶の湯は明治時代に「茶道」と改称され、ついには女性の礼儀作法のたしなみとなるまでに一般化しました。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が輸入されるようになり、緑茶とともに普及していくことになりましたが、最初はこれが同じチャノキから作られものであるということを、日本人はもしかしたら気が付いていなかったかもしれません。

このころから現代に至るまでには、緑茶はごく普通に一般人の飲み物として飲まれるようになり、国内にも多くの産地ができ、いろんなブランドが普及するようになりました。

日本では我が静岡県が無論断トツ一位の産量を誇りますが、同じ静岡でも安倍川の奥地でできる「本山茶」や、川根町の「川根茶」などが有名です。が、無論、その他県下のあちこちで栽培されており、ときにはエッこんなところにまで、と思われるようなところ、例えば公園の中みたいなところでもみかけることがあります。

意外にも第2位の産地は鹿児島県なのだそうです。しかし、この事実は一般にはあまり知られていません。

これは、宇治茶や狭山茶のようなブランド名で売られている有名茶には、実はこうした鹿児島産などの他県のお茶などを混入することが許されているためであり、産地銘柄を表示する場合は、当該府県産原料が50%以上含まれていればよいそうです。これらの茶のブレンド用の産地としては鹿児島茶に限らず全国どこの産地でもよいわけです。

また、ペットボトルなどの緑茶飲料製品に使われているのもこうしたお茶であり、現在、日本全国で栽培されている茶樹の9割が「やぶきた」という同じ品種であり、どこで採れたとしても採摘した段階ではほとんどその品質にばらつきがありません。

従って栽培しやすければどこでも良いわけであり、全国の茶葉の出荷額の40%を占めるといわれる静岡茶もそのほとんどが「やぶきた」です。

しかし、これを栽培しやすい気候風土があるのと同時に、江戸時代からの長きにわたって、ここでお茶が栽培され、培われてきた高い製造技術がその生産量を支えています。

一般にお茶の栽培には、水はけ、日当たり、風通しが良い場所が適地とされ、地形はとくに平野部がよく、ここでは、機械導入などにより収益性を高めた大量生産を行うことができます。静岡は南側に開けた平地が多く、お茶の栽培には適した土地が多いのです。

こうした静岡以外にお茶の栽培に適した温暖な適地が多いのは九州であり、その結果、出荷額は鹿児島の2位のほか、宮崎県が4位、福岡県が6位など九州の各県が上位を占めています。このほかでは、「伊勢茶」で有名な三重県が3位、同じく「宇治茶」で有名な京都が5位となっています。

が、お茶の産出にあっては、お茶の木の量の多寡というよりも、その製造には手間暇がかかるものでもあり、その確かな技術が確立されているところの産量が多いということのようです。

静岡の場合、長い歴史があり、古くからお茶の栽培を営む農家によってその確固たる技術が守られ続けた結果が、現在における地位を築いたと言っても良いでしょう。

お茶は霜に弱いことから、その霜害を防ぐため、畑に電柱を立て、この一番上に下へ向けた扇風機を取り付けて、その送風により霜がつくのを防ぐということが日本各地で行われています。ところがこの装置は意外と金がかかります。お茶栽培の耕地面積が多ければ多いほどこれに対する投資額はばかになりません。

このため、この霜取りファンの取り付け補助金が各産地とも県や市町村から出ていますが、その補助金の金額が、静岡県では全国的にみても断トツに多いと聞いています。「お茶王国」静岡の存続のため、県などの自治体もこれに手を貸しているのです。

しかし、静岡以外の県においても、暖差が激しく、朝霧が掛かるなどの自然条件を活用し、あるいは手もみ製法や無農薬栽培、伝統的な製法を継承するなどして品質に付加価値を付け、静岡のような大規模産地と差別化を図ろうとしているところもあります。

例えば、埼玉県の狭山市は、茶産地としては寒冷なため、摘採回数の少ないなどのハンディを押しのけるため、独特なお茶の製法を生み出しました。味を濃くするために火入れを行うなどがそれであり、その努力が報われ、近年そのブランド名「狭山茶」は全国的に知られるようになりました。

また、愛媛県北部の、川之江市や伊予三島市、新宮村などが合併してできた四国中央市では、「新宮茶」というお茶を作っています。このお茶は完全無農薬有機農法によって栽培され、 第55回農業コンクールで名誉賞をとり、また第2回国際銘茶品評会で金賞を受賞するなどの栄誉を受け、全国的に有名になりました。

さらに、高知県の四国山地に近い山奥にある村、大豊で作られている「碁石茶」は、日本では珍しい発酵茶です。現地では消費されず、もっぱら瀬戸内の島嶼部などに茶漬用として送られていましたが、近年、健康茶として注目を浴びるようになり、通販で入手する人も多くなるなど人気を集めています。

お茶といえば静岡、というイメージが定着していますが、長く不況が続く中、お茶という最も日本人にとっては最もポピュラーな食材にも焦点をあてて、これに新しい息吹を加えようという農家が日本各地に増えているようです。お茶王国の静岡といえども、うかうかしておれない時代に入ってきているのかもしれません。

さて、今日もまた長くなりました。お茶の項は終わりにしたいと思います。今日は曇りの予報でしたが、今外を見ると晴れ間が広がってきており、もうじき富士山も見えそうな雰囲気です。一年で最もおいしいお茶が摘めるという八十八夜の今日、静岡の各地でお茶摘みが行われているに違いありません。

もしそのお茶が入手できたら、そのお味をまたこのブログでもご紹介しましょう。みなさんもまた、連休中、静岡へ来られたら美味しいお茶をめしあがってください。

伊豆の瞳


先週までは天候不順のことが多かった伊豆ですが、日曜日くらいからは天気がよく、今日も一日陽射しに恵まれるようです。

この上天気を連れてきたかのように、今週初めに山口の母が我が家にやってきて、滞在しています。気候もよくなってきた頃でもあるし、一度ゆっくり温泉にも浸かりたいし、我々の新居もみたいし、ということで、遠路はるばるやってきてくれたのです。

今年もう81才にもなるバーさんですが、私が小学生のころには、ママさんバレーのキャプテンなどもやっていて、地方大会で優勝などしたこともあります。高校のころには、陸上の選手として、国体にも出たことがあるということで、この年になってもかくしゃくとしています。

昨年、肺血栓をやって倒れるという、彼女にとってはこれまで経験したことのなり大病を患い、生まれてはじめての入院までしましたが、今は元気になり、前と同じように外を自由に歩き回っています。

そんな母に、伊豆観光もいろいろさせてやろうということで先日、伊東の大室山にタエさんと三人一緒で行ってきました。

大室山は、静岡県伊東市にある標高580mの火山です。以前も一度、このブログで紹介したことがあります。北海道の昭和新山などと同じく、火山としては数少ない国の天然記念物のひとつであり、山域一帯は富士箱根伊豆国立公園にも指定されています。

山焼きが毎年行われるため大きな樹木はなく、一年生植物ですっぽりと覆われており、遠くからみるとのっぺりとした禿山にみえます。頂上まで、有料のリフトで登ることができ、ここからは伊豆半島東岸とそれに隣接する山々はもとより、気象条件が良ければ、北は南アルプスから富士山、箱根の山々までみえます。

さらに海の方に目をむけると、東から南に伊豆大島をはじめとする伊豆諸島、遠くには三浦半島から房総半島、東京スカイツリーまでも望むことができる……というのですが、この日は天気は悪くはなかったのですが、富士山はもとより、房総半島も見通すことはできませんでした。

大室山は伊豆東部火山群の活動の一端として約4000年前に噴火した単成火山です。マグマが噴き上がってできた多孔質の岩石が累積することによってできる「スコリア丘」であるということは前にこのブログでも説明しました。

山頂まで上がると初めてわかるのですが、この山の中央には、直径およそ300m、深さが70mもある火口跡があり、その周囲は約1kmもあるスリバチ状になっています。

このすり鉢の上端をぐる~っと一周する遊歩道も整備されていて、ここからは上述のような大パノラマをみることができます。太古の昔、ここから流れ出た溶岩流は、すぐ東側の相模灘に流れこみ、海を埋め立て、これが「城ヶ崎海岸」の独特な海岸を造り出すとともに、なだらかな地形をも形造り、これが現在の伊豆高原の別荘地となっています。

さらに南へ流れた溶岩は谷をせき止め、「池」という地名の場所に小さな湖を造り出しましたが、地元の人が、この湖の水を排出するためのトンネルを掘り、湖を干あげてしまったので、ここは現在は水田になっています。

大室山山頂からここをみると、周囲はでこぼこしているのに、ここだけは真っ平な田んぼになっているので、すぐにここが湖だったことがわかります。

さらに北に流れた溶岩流の一部は、大室山の北側にある一碧湖にも流れ込みました。

大室山ができたのは、4000年ほど前であり、比較的若い火山といえるでしょう。ところが、この一碧湖は、およそ10万3500年前に起きた激しい水蒸気爆発によってできた「マール」であると考えられています。

「マール」は、もともとドイツ西部のアイフェル地方の方言で「湖」を意味することばです。アイフェル地方にはこのようにして生じた湖沼が70か所以上に点在していて、俗に「アイフェルの目」とも呼ばれているそうです。

このマール、水が豊富にある場所でマグマ水蒸気爆発が起こったとき、爆発によって生じた円形の火口の周囲には、マグマの堆積物からなる低い環状の丘が形成されますが、火口の真ん中にはぽっかりと穴が開きます。

火口底が地下水面より低い場合は、ここに、水が溜まることが多く、一碧湖もこうしてできたものです。

一碧湖は南東から北西に伸びたひょうたん型をしており、北西側を「大池」と呼び、南東側の比較的小さいほうは「沼池」と呼ばれています。

この大池と沼池の窪地は、それぞれ別の爆発でできた火口跡であり、ここに地下水が貯まって湖が形成されていたところに、約4000年前、およそ4キロメートル離れた大室山の噴火によって流れ出た溶岩流の一部が流れ込み、これが「十二連島」になりました。一碧湖の美しい景観を形作っている造形のひとつです。

実は我々が一碧湖を訪れるのはこれが初めてでした。いつも伊東へは買い物その他で良く出かけ、その途中でこの湖の真ん中を通る市道を通ることもあったのですが、クルマを止めて周囲を歩いてみたことはありませんでした。

大池と沼池は、そのちょうど境を市道によって分断されていて、この中間地点に無料の駐車場もあります。ここへクルマを止めて大池のほうへ歩いて行くと、案内標識があり、これをみると、大池のほうは周囲ぐるりと一周できる遊歩道が整備されているようです。

また、沼池のほうは、湖とはいいながら、その名のとおり沼地状態の場所であり、葦などの植物が繁茂していて、やや見通しも悪く、周囲を歩いていける遊歩道も途中で途切れています。沼池は水位が低いときには大部分が干上がることもあるといいます。

この二つを合わせた一碧湖は、「伊豆の瞳」とも称されているそうであり、なぜ「瞳」といわれるかというと、その美しさにも由来するのでしょうが、二つの目のように、二つの湖があるからだと、後になって気がつきました。

二つとも満々と水を蓄えていれば確かに瞳のようにみえるかもしれませんが、沼池のほうは瞳と呼ぶにはちと苦しいかんじであり、さしずめ、「半目」といったところでしょう。

この一碧湖、1927年(昭和2年)には日本百景にまで選定されているそうで、確かに、周囲をうっそうとした森に囲まれた静かな湖畔は幻想的で、非常に美しい湖です。我々が訪れたこの日は、新緑のころのことでもあり、湖面のブルーと新緑の緑が良くマッチしていて、美しいことこの上ない景色でした。

昭和初期には与謝野鉄幹・晶子夫妻が当地を訪れて数多くの短歌を残したということで、その歌碑が湖畔に作られた公園に立っていました。

何しに東京からこんなところにまで来たのかなと調べてみると、昭和初期といえばちょうどこのころ晶子は、17年かけて作成中だった6巻本「新新訳源氏物語」の完成間際だったようであり、その創作にあたってのイメージづくりのためにこの地を訪れたのかもしれません。

源氏物語の「宇治十帖」という草には、その最後に「夢浮橋」という項があるので、この作品の背景描写のためにこうした幻想的な景色を参考にしたかったのでしょう。

夫の鉄幹のほうの昭和初期といえば、1930年(昭和5年)には雑誌「冬柏」を創刊し、1932年(昭和7年)には、上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たすなど、最晩年で一番光り輝いていたころのことです。

しかし、その3年後の1935年(昭和10年)は、気管支カタルがもとで62才で死去しています。おそらくは、夫婦二人でこの一碧湖で過ごしたその一時期は、生涯において美しい思い出となったことでしょう。

この一碧湖、ヘラブナなどの釣りを楽しむ場としても親しまれているようで、我々が行ったときもたくさんの人がルアー竿を片手にあちこちの水辺を獲物を探してうろうろされていました。

ここは、外来種のブルーギルが日本で初めて放流された場所としても知られています。1960年に当時の皇太子明仁親王(今上天皇)がアメリカ外遊の際に寄贈されたものを、水産庁淡水区水産研究所が食料増産を図る目的として飼育。その後、ここに放流されました。

このことがきっかけとなり日本各地に生息域を拡大していきましたが、ブルーギルの繁殖力と生命力、捕食力はすさまじく、その後、その食性が日本の池や湖の生態系に大きな脅威となっていきました。

ブルーギルは、小動物から水草まで何でも食べ、汚染などにも適応力があるだけでなく、卵と稚魚は親が保護しているため、なかなか捕食者は手を出すことができません。こうした習性からブルーギルは短期間で個体数を増やすことができ、爆発的に日本の各地でその分布を拡げました。

その後起こったバス釣りブームの際には、バス釣り業界の関係者や愛好家の手によりブラックバスの「餌」と称して各地の湖沼に放流され、これがブルーギルの繁殖をさらに助長する結果となってしまいました。

さらには、生活廃水で汚れた水でも生息できるため、一度広まってしまった個体数を減らすことは難しく、現在では生態系維持と漁業の観点から日本中の湖沼でその存在はかなりの問題とされています。

このブルーギルが今や外来種として深刻な問題を起こしていることについて、今上天皇は、天皇即位後の2007年第27回全国豊かな海づくり大会において、「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と発言されたそうです。

この天皇の発言にもあるように、当初は食用として養殖試験なども行われ、各地の試験場にも配布されましたが、その後、成長が遅く養殖には適さないことが判明しました。

原産地の北米では大型のものが釣れ、フライパンでバター焼きにするとおいしいため、パンフィッシュ “Pan fish” と呼ばれて愛されているようですが、日本の湖沼で釣れるものは、大型にならず身が薄く、骨が多くて調理や食べる際にも手間がかかります。

味そのものは、タイにも少し似て美味しいようですが、いかんせん、小さい個体は食材としては調理しにくいため、養殖して大きく成長させなければ食材としての価値は出ません。

現在は、養殖どころか既に外来生物法によって特定外来生物に指定されており、各地で駆除が進められるようになっています。むしろ、食用にせよ何にせよどんどんと釣り上げられ、数が減るほうが日本の自然環境には良いことのようです。

我々が、一碧湖を訪れたときにも、あちこちの湖畔の緑陰でこのブルーギルらしき魚を目撃できました。木陰であまり動きもせずに、ひらひらと泳ぐその姿はなかなか愛らしく、嫌われもののようにはみえません。無論、この一碧湖だけで生息する分には何も問題はなく、アメリカから無理やり?連れてこられたブルーギルには何の罪もありません。

ところで、この湖畔公園には、一碧湖に昔から伝わるとされる、民話を紹介している表示板もありました。この湖に住む、「赤牛」にちなんだものであり、それはこんな話です。

その昔、この一碧湖のある周辺の地域には神通力持った「赤牛」が住み着いていましたが、水を飲む場所がだんだん少なくなったため、新しい住みかを探しはじめました。

そこで見つけたのが、この「吉田」の地にあった、大池(一碧湖)でした。この赤牛、年をとった赤牛の化け物だといわれていましたが、見つけたこの池は大きな池ですから、漁師の舟とかもよく通ります。

赤牛は、それがうるさかったのか、ここに住みつくようになってからは、たびたび通る舟をひっくりかえしては、 村人を困らせていました。また、ときどき娘や竜に化けて里人をたぶらかすわるさをしていました。

あるとき、里の与一という若者が、山仕事をおえ、夕焼け空を映した湖のほとりをとおりかかったとき、美しい娘が立っているのに気がつきました。その娘は、まるで湖面に映る月のように美しかったことから、仕事の疲れも忘れて、与一はふらふらと娘のそばに寄っていきました。

……すると、娘は岸辺からするすると湖のほうへと入っていき、ついには腰までつかり、そして与一に向かって、何もいわずにおいでおいでと手招きをするではありませんか。これは自分に好意を持ってくれているのだと思い込んだ与一は、娘の顔をもっと身近に見たさに、湖の中に入っていきました。

しかし、娘の姿がようやく見えそうになったときには、既に深い深みに入り込んでおり、ズブッと湖底の泥にはまり込んだと思った瞬間、ずるずると水に引き込まれ、そのまま溺れて死んでしまいました。

また、あるときには、平太という百姓が、仕事のあい間をみて、夕暮れにこの大池に釣りにやってきました。岸辺から糸を垂らし、魚のかかるのを待っていましたが、どうしたわけか、その日に限って、小ブナ一匹も釣れません。

つい、うとうとと竿を持ったまま眠ってしまった平太ですが、それからどれほどの時間が経ったでしょうか、ふと竿の先に手ごたえを感じました。これに気付いてはっと目をさました平太は、竿を引き上げてかかった魚を取り込もうとします。

そして、なんとか魚を湖面に引き上げられそうになったとき、その魚の姿がみえる先の湖の中に、何やらチカチカ光るものが見えるではありませんか。何だろうと平太は思いましたが、魚に逃げられては大変と、力にまかせて糸をたぐります。が、どうしたことか、どうしても魚は上がって来ません。

せっかくの魚を逃しては惜しいと思った平太は、とうとうふんどし一丁になって、湖の中に入り込み、手で魚をすくおうとしました。そして、水の中に手を入れようとして、水面に目を近づけた瞬間、そこにはらんらんと目を輝かせた竜が、いまにも平太に襲いかからんかという勢いで、水面まで浮上してくるのが見えるではありませんか。

おどろきのあまり、平太は腰を抜かし、ほうほうの体で水際に引き返しましたが、あまりの恐ろしさに気を失い、気がつくと、朝になっていました……

この大池のある吉田には、日蓮宗の「光栄寺」というお寺があります。富士宮にある西山本門寺の末寺で、この本寺には、織田信長の首を収めたという首塚があり、その脇には樹齢500年の柊が植えられ、静岡県の天然記念物にも指定されています。吉田の光栄寺もその末寺ながらも地元の人々からの篤い信頼を受けていました。

ここの住職の、日広和尚もまた霊験あらかたな上人として敬われていましたが、ある日の法事で、里人からこの赤牛の仕業と思われる災難の数々について聞かされます。

これを聞いた日広和尚は、村人を苦しめている赤牛とやらを退治してやろうと思い、大池までやってきて、湖の中にある十二連島のひとつにこもりました。

そして、七日七晩、毎日のようにお祈りをしましたが、このときも、赤牛は和尚のところにやってきて、あの手この手で上人をたぶらかそうとしました。日広和尚は何度か赤牛の魔力に負けそうになりましたが、七日目の夜、悪戦苦闘の末、とうとう赤牛の神通力を封じ込めることに成功します。

そして、ここに小さなほこらを建て、二度と赤牛の魔力が現れないようにと、このときに読んだお経の本とともに、雨を呼ぶといわれる八大竜王のお札を納め、おまつりしました。

それから後は、赤牛によるわざわいもなくなり、里人は安心して仕事にはげむことができるようになりました。また、日照りが続くと里人は湖の岸辺に集まって、八大竜王に雨ごいをしました。すると西の天城山の方から厚い雨雲がたれてきて、きっと雨を降らせるようになりました。

やがて、この島を村人たちは「お経島」と呼ぶようになりました。その後も干ばつで水が無くなると、「お経島」で三日三晩雨乞いのお祈りをすれば必ず大雨が降ってきたといい、現在もこの島は地元の人達に大切にされているといいます。

一碧湖には、すぐ脇の湖面に赤い鳥居が据えられている島があり、これがこのお経島のようです。これとは別に、湖の東側の湖畔には、「一碧湖神社」が建てられていて、ここの祭神はやはり龍神様、水神様ということです。

この一碧湖の赤牛を諌めた日広和尚ゆかりの光栄寺は、ここから東側に約800mほど山を下った場所にあります。この地は「吉田」と呼ばれる周囲を山に囲まれた盆地であり、古くから農業がさかんなところでした。

ここで農業を営む人達は、一碧湖から流れ出る湧水を耕作に使うか、あるいは一碧湖までわざわざ水を汲みに行っていたと思われ、大池のほうはともかく、沼池のほうは現在でも水が干上がることもあり、こうしたときには農作が進められず、大いに困ったようです。

このため、地区に安定した水を供給するため、江戸時代、幕末にもほど近い文政年間には、一碧湖から、吉田地区へ水を送るためのトンネルが掘られ、吉田までの用水路が作られました。これが「吉田用水(一碧湖用水)」と呼ばれるものであり、用水を通すため、一碧湖と吉田地区を隔てる小高い山の下に掘られたのが、「吉田隧道」です。

この隧道は、文政時代に山口半五郎という人物が中心となり、吉田村の農民が完成させました。素掘りにより掘削され、高さ8尺、幅4尺といいますから、約2.4m×1.2mの大きさです。

この「山口半五郎」というのがどういう人物だったのか調べてみたところ、どうやらこの人はこの吉田地区の住民ではなく、外部の人だったようです。どこの出身の人だったかはよくわかりませんが、人を殺めるか何かの罪を犯したのでしょう。その償いのため諸国を旅して歩いていたといいます。

その半五郎が、どこから何故この吉田にやってきたのまではわかりませんが、この頃の吉田は、一碧湖や周囲の山々から流れ込む沢水も少なくなり、思うように農作をすることができず人々は困っていました。

しかし、よそ者である半五郎に対しても、その氏素性を聞くこともせず、篤いもてなしをしてくれる村人の人情に感激した半五郎は、この人達のために、何か報いることをしてあげたいと考えたようです。

そんなとき、村人から、一つ山を越えた所に、水を満々とたたえる湖があるということを教えられた半五郎は、この湖から水を引いてくることができないかと思いつきます。

そして、村人の間を回り、一緒に用水を切り開こうと説いて回りましたが、溶岩でできた山を切り開いて用水を引くということが、どれだけ大変なのかが分かっている村人たちは、その志をありがたいと思いつつも、途方もないことだとなかなか取り合ってくれません。

しかし、半五郎は、それならばいっそのこと、自分ひとりでもできるかできないかわからないがやってみよう、ともかくこれまで犯してきた罪の償いとして一生をかけてこの事業に取り組もうと考え、手のみ一丁で山をくり抜き、隧道を掘る作業を始めました。

そして寝食を忘れ、来る日も来る日ものみを使い続け、この難工事に挑みました。途中、何度か挫折しそうにもなりましたが、時折、みるにみかねた村人からの差し入れなども受けることもあり、そのたびに人情厚い村人の幸せのためと、自らを励ましながら、工事を続けたといいます。

やがて、その努力が実り、隧道は少しずつ掘り進むようになります。工事が進むにつれ、村人たちも差し入れをするだけではなく、ときに農作業の合間をぬって手を貸してくれるようにもなり、少しずつトンネルの形が出来上がっていきました。

そして、ついに、1825年(文政8年)、13年もの歳月をかけて吉田隧道は完成しました。

この用水の完成により、吉田盆地の水不足は解消され、その後長きにわたって、美しい水田が保たれるようになりました。吉田の水田は、この隧道のおかげで、他の村々に比べて、約1ヶ月も早く田植えが行うことができるそうです。

その後、半五郎がどうなったかについては、詳しい記録は残っていないようです。が、おそらくは吉田の村の人々の一員として暖かく迎えられ、残りの一生を幸せに過ごしたことでしょう。

この吉田隧道は、その後、平成5年におきた北伊豆地震によって崩落し、不通になっていましたが、平成9年度から県のため池等整備事業により改修が行われ、平成15年度に完成。現在、昔と同じように、一碧湖の豊かな水を吉田盆地に送り込めるようになっています。

吉田隧道は現在、伊東市の有形文化財に指定されており、一碧湖の東側にはその取り込み水門とその脇に記念碑が設置されているということです。

…… さて、今日は一碧湖にまつわるお話をいろいろしてきました。あまり、故事がない場所かと思いきや、色々出てきたのには私自身正直驚きです。

伊豆にはこのほかにも、きっと世に埋もれているお話があるに違いありません。これからもそういうものを色々発掘していきたいなと思っています。

さて、窓の外をみると、今日はこの季節にしてはかなり富士山が良く見えます。山口からはるばる来たバーさんをどこへ連れて行ってあげようかと考えていましたが、やはり富士山が良く見える場所が良いでしょう。

ソメイヨシノは終わってしまいましたが、まだまだ八重桜の咲き誇る場所もあるはず。富士と八重のコラボが美しい場所をみつけたら、またこのブログでもご紹介しましょう。