ミツウロコの道

2015-9335先週末は、ひさびさに夫婦で東京に出て、夜から新宿で催された二人共通の高校時代の同窓会に出席してきました。

同窓生というのはいいもので、この年齢になるとそれぞれ所属する職場ではいっぱしの立場になっている人も多い中、そうした社会的な地位にはまったく気にせず忌憚ない話ができ、しかし気持ちはいつしか高校時代に戻っていて若い気分にもさせてくれ、齢を重ねたことを忘れさせてくれるのが不思議です。

延々と3時間ほどもそんなかんなでいろんな話をし、別れて宿に帰ったのは12時前。伊豆からのドライブに加えての大宴会に少々疲れてはいたものの、楽しかった一時期の余韻に浸りながら、ぐっすりとその夜は眠ることができました。

翌日は日曜日。天気はよくなかったものの、ざあざあ降りというほどでもなく、午後からは多少天気も回復しそう、ということなので、二人して鎌倉か横浜へでも出かけてみようか、という話になりました。

現在は伊豆の山奥に入り込んでいるので、そうした場所へ出かけるのはそうそうある機会でもなく、どちらにしようかと悩んだのですが、こんな天気の日にはしっとりとした雰囲気の鎌倉のほうがいいだろう、ということで、こちらを選びました。

行った先は、建長寺と円覚寺のふたつ。いずれもこの古都を代表する古刹です。場所的には北鎌倉にあり、建長寺のほうは、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼、円覚寺のほうは、第8代執権の北条時宗の創建ということで、いずれも北条氏ならびに鎌倉幕府とは切っても切り離せない縁のお寺です。

円覚寺のほうは、文永の役、すなわち元寇の際の戦没者の菩提を弔うために時頼が建てたものですが、その建設期間中、二度目の元寇である弘安の役も起き、このときの戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。

建長寺のほうの落成はこれより25年ほど古い1253年で、当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤がようやく安定した時期でした。

この乱は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱で、この戦いに勝った鎌倉幕府は政治的に優勢となり、朝廷の権力は制限され、皇位継承などに影響力を持つようになりました。

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その後京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていったわけですが、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していたことから、そんな自分の事業の集大成としてこの寺を建てたようです。

この時頼という人は、このように宗教心に厚いだけでなく、生活面でも質素かつ堅実だったといい、執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事で、今でも名君として高く評価されているようです

一般の市民からも受けがよかったようで、後年の江戸時代に流行った「鉢の木」という能などにも登場し、ここでは時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られています。

元祖水戸黄門のような人だったわけですが、庶民だけでなく幕府内においてもその手腕の評価が高かった人で、二度の元寇の対応においてもその才能をいかんなく発揮しましたが、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念したことで高い評価を得ました。

とくに石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大したほか、京都に置かれていた六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与てその機能を強化させるなど、鎌倉幕府の基礎地盤を形成した人としても知られています。

その後長らく続く執権北条氏の鎌倉幕府におけるしっかりとした橋頭堡をその施政時代に築いたわけですが、その北条氏も、14代の高時の代にはかなり力が落ち、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵すると、もともと鎌倉幕府御家人の筆頭であった足利高氏(尊氏)に寝返られ、彼は六波羅探題を攻略。

関東では上野国のこれもまた鎌倉幕府の御家人だった新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、第14代執権の北条高時、第15代、16代執権の貞顕、守時ら北条一族や家臣らは自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えました。

この建長寺と円覚寺というのは、その執権北条氏がパトロンとなって造営した鎌倉時代最大級のお寺であるわけですが、双方ともその権勢を世にみせつけるために造られただけに、寺のあちこちには、北条氏の家紋である、三鱗(ミツウロコ)があしらわれています。

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それは灯籠や寺内の仏具にしつらえてあったり、柱や梁などの建造物に刻まれていたりであるわけですが、この三鱗を北条氏の家紋に定めたのは、北条家の繁栄の元を創った北条時政です。

ご存知のとおり、源頼朝の妻の北条政子の実父です。頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、鎌倉の西、およそ7kmに位置する江の島に参籠して、一族の繁栄を祈願しました。

この時、江ノ島弁財天に37日間祈り続けていたといい、そして祈りの終わりの日の夜明けのこと、その夢枕に赤袴の女性が現れて、「あなたの前世の徳で、あなたの子孫は日本の国主となります」と、お告げをすると二十丈(約60m)もある竜神に変身して海の中に去ったといいます。

実はこの龍は弁財天の化身だったといわれており、時政はこのときこの龍が残したという三つの鱗を大切に持ち帰り、以後、これを北条家の家紋にした、とされています。

この鱗紋は、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来するわけですが、ヘビというのは古来から神秘的な動物とされており、能においても白拍子が蛇に変化するシーンが出てくる、道成寺という舞台では、この蛇体の衣装に三角の鱗紋が取り入れられているそうです。

しかしこれ以外にはあまり一般的な紋とはいえず、北条氏以外にはほとんど使用されていません。大部分三つ鱗であるようですが、ほかにも一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあり、いずれも北条氏関連の氏族で使用されていたものです。

ただ、これらは正三角形のものや、縦長の三角であるのに対し、北条氏主流の鱗紋は、代々底辺が少し長い二等辺三角形であり、その微妙な差により、主流であるかないかががわかるそうです。

のちの戦国時代に伊豆から小田原、関東にかけての覇者となった、いわゆる後北条氏の北条早雲もまた、この正当派ミツウロコを継承しています。が、彼はこの北条一族とは何の縁もありません。この紋を用いることで自らをも北条氏と称し、この先代の北条氏の権力を継承したことを内外に示そうとしたわけです。

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実はこの日、建長寺と円覚寺の訪問のあと、時政がその鱗を授かったというその江の島にも出かけました。そして改めて確認したのですが、ここにもあちらこちらに、これでもかというほどこのミツウロコがあしらってある建造物があり、改めて鎌倉から江の島に至る一帯が北条氏のテリトリーだったことを実感しました。

江の島といえば、サザンオールスターズの歌に代表されるように「湘南」を代表するモダンな観光地、という印象がありますが、その歴史は古く、伝承によれば、西暦552年に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。

が無論、んなわけはなく、約20000年前、元々は陸続きであったものが次第に侵食されて島となったもので、大昔には、引き潮の時に「洲鼻(すばな)」と呼ばれる砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたといいます。

砂嘴というのは、トンボロとも呼ばれるもので、岸から少し離れたところにある島の背後や同じような場所に人工構造物を置くと、その背後に砂が収斂して貯まる現象です。これを応用したものを「離岸堤」といい、テトラポッドのような異形ブロックを積みかさね、その背後に砂が貯まることを期待して、侵食対策に使う、といったことが行われます。

江の島はいわば自然にできた離岸堤というわけで、その背後にも砂が貯まりやすいわけですが、関東大震災のときにはこの地震で島全体が隆起し、これ以降はさらにこの砂の高さが高くなったといいます。

現在も島全域が聖域として扱われていますが、江の島を開基したのは役小角(えんのおずの)がといわれ、これは672年(白鳳元年)だったという記録があります。

役小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされており、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆大島に流罪になったとき、夜になると海を渡って富士山に登っていたという伝承がある人物です。

実在の人物ですが、ほかにも多くの修験道の霊場を開き、それらを修行の地としたという伝承があり、ここ江の島もその一つというわけです。

が、これは少々後世に脚色された話のような気配があり、伝承といえば、弘法大師、空海も814年(弘仁5年)に、江の島にある「金窟」という岩屋に参拝し、現在もある岩屋本宮(現奥津宮)を創建したともいわれています。

江の島には、この島の西方にある「奥津宮(おくつみや)」のほか、中央の「中津宮(なかつみや)」、北方の「辺津宮(へつみや)」を加えて3つの大きな神社があり、これを総称して「江島大神」と呼ばれています。

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それぞれ、多紀理比賣命(タキリビメ)、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)、田寸津比賣命(タギツヒメ)という女神さまを祀っており、タキリビメは、大国主命の娘さんで、「タキリ」とは海上の霧(きり)のことだそうです。

また、イチキシマヒメとタギツヒメは、いずれもアマテラスとスサノオの娘さんで、「イチキシマヒメ」の音からもわかるように、こちらは広島の厳島神社の祭神でもあります。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。

三人ともすべて厳島神社や江の島の祭神であるわけですが、これら三人の女神を単独で祀る神社は少なく、「三女神一柱」として祀られるのが通例で、江の島や厳島神社以外には、福岡の宗像神社などが有名です。

ただ、こうした祭神の位置付けは、明治になってからの神仏分離の際に改められたものであり、それ以前の江戸時代までは弁財天を祀っており、総称では江島弁天・江島明神と呼ばれていました。神社の名称も、岩屋本宮(現奥津宮)、上之宮(現中津宮)、下之宮(現辺津宮)という名称でした。

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弁財天はもとは「弁才天」と書きました。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名であり、日本に入って来た仏教においては、吉祥天その他の様々な日本的な神の一面を吸収した存在となりました。

元来インドの「河神」であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、江の島もその例外ではありません。ほかにも弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くありますが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなり、財宝神として崇拝されるようになりました。

上述のイチキシマシメと同一視されることも多く、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっています。

この江の島に弁財天を勧請したのは、853年(仁寿3年)の円仁(慈覚大師)ともいわれていますが、これもまた伝承の域を出ないようです。その後、1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚という坊さんがこの弁才天を勧請したという記録が残っており、これが実質的な江の島神社の始まりと言えるでしょう。

その3年後の1185年(文治元年)には、頼朝はさらに現在の奥津宮に鳥居を奉納しており、そして、上述のとおり、この5年後の1190年(建久元年)には、北条時政もここに参籠して、このとき北条氏の「三鱗」の家紋と定めました。改めて私もこの三社に参り、そこここでこの北条氏の家紋があるのを確認したことは言うまでもありません。

実は、私自身はこれまでこの島に一度も上陸したことがありませんでした。仕事では、その対岸のいわゆる湘南海岸の侵食対策の計画や設計に携わり、おそらくは仕事では10回以上、プライベートでも少なくとも5回はこの地を訪ねているはずです。

しかし、たいていは時間に追われていて、対岸の藤沢市内での用が済むとその日のうちに東京に戻るというのが常であり、ついぞ島への上陸の機会に恵まれませんでした。

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今回は午前中から、建長寺、円覚寺と北条氏ゆかりの古刹を訪れ、そのあとの午後の時間がぽっかりと空いたためこの初訪問が実現したわけですが、初めてのこの島の探訪は正直言って驚きの連続でした。

そもそも、江の島神社というものが三位一体の神様であるということも知らず、またその祭神が我々が結婚式を挙げた厳島神社と同じ方々だということも知りませんでしたから、その一致にまず驚きました。

加えて驚いたのは、その観光客の多さです。日曜日の午後ということもあったのでしょうが、奥津宮に至るまでの参道は人または人で、ごった返しており、またここに連なる店の多さとその賑わいぶりにもまたびっくり。

年齢層はといえば、我々と同様の年配の方もそれなりに多いのですが、意外や意外、若い人のほうが多く、ここはもしかしたら原宿かいな、と思えるほどであり、事実竹下通りを意識したような若者向けの小店も数多く見受けられました。

外国人旅行者らしい人達も多く、一番多かったのはやはり中国人のようで、これが台湾語なのか本土中国の言葉なのかはわかりませんが、あちこちでその黄色い声が響き渡り、このほか韓国語は無論のこと、英語、フランス語も飛び交って、なにやらここは日本ではないような気分にもなりました。

さらに驚いたのは、所詮は小さな島に過ぎないと思っていたところが、意外に広く、しかもアップダウンの激しい地形であり、かなり足腰が鍛えられたことでした。

調べてみると、標高は60mほどに過ぎないようですが、周囲は4kmほどもあるとのことで、凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質であることから地盤はしっかりしており、建築物は立てやすい土地条件のようです。

1923年(大正12年)の関東大震災のときの隆起で海面上に姿を現した「海蝕台」が現在の江の島のベースであり、海蝕台というのは、いわば海底にあった岩棚が隆起したものであり、もとから凸凹していたわけです。

標高は60mしかないにもかかわらず、このために島内各所のアップダウンが激しいわけであり、その合間あいまに構造物を建てられる場所を選んで、神社そのほかが建てられ、さらには、昭和に入ってからここに住まう人が急増しました。

一時期は1,000人を超える人が住んでおり、ピークは1955年(昭和30年)の1372人だったそうですが、その後は急減し、現在は島全体で360人を超える程度だそうです。それにしてもこの狭い観光地に人が住んでいるのがまさに奇跡のようでもあります。

島内各所にある観光スポットを巡る通路の両側にはこれに貼りつくように古い民家が並び、窓や入口からはその生活の息遣いが聞こえるような近さです。

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1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになったそうで、なるほど、あちこちでネコを見かけました。

猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れず、島内の至る所で猫が無防備な姿でいます。猫好きの人間もよく訪れる「ネコの島」でもあるそうですが、たまたま我々が訪れたこの日は2月22日であり、ニャンニャンニャンで、ネコの日だったというのもご愛嬌です。

一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがあるそうで、餌場を作り猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められているそうです。

ネコ以外では、島に当たって吹き上げる上昇気流に乗って旋回するトビの姿も目につきます。その昔はトビの餌になるのは多くは、江の島にある漁港などで発生する漁師の残した小魚でしたが、最近来客目当てに餌付けが進められ、これが名物にもなってきたそうです。

しかし、こうした人工的な餌に味を占めたトビは、弁当を広げる観光客を襲って、食べ物を横取りするようになったそうで、現在、被害が多発している場所には注意の看板が掲げられ、餌付けを名物にしていた飲食店でも、これを自粛しているといいます。

なぜか、リスも大量にいます。島内のあちこちに広がる照葉樹林帯では梢を渡るリスをあちこちで見かけますが、これは「タイワンリス」です。江の島にはそのむかし小動物園があり、ここに伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスが飼育されていました。

ところが、台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、島内に拡がったようで、こちらも観光客寄せのために餌付けをする例も見られるようですが、小鳥の巣にいる雛や卵を食べたり、電線や電話線をかじるといった被害も出てきているといいます。

午前中に行った円覚寺でもリスを目撃しましたが、江の島だけでなく湘南海岸一帯のこの地域では最近このタイワンリスの繁殖がかなりの問題になりつつあるようです。

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このように、本来神様の島であるはずの江の島は、今や観光客、一般住民に加え、ネコ、トビそれに加えてリスまで闊歩するというなんだかよくわからん世界になっているわけですが、こうした喧騒を抜け、島の最南端まで出ると、そこには別天地が広がっています。

島の周囲、とくに南側と西側は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には関東大震災の際に海底から隆起した海蝕台の名残をそのまま見ることができ、これは「波蝕台」ともいいます。南西部にある海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、「海蝕洞」が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれています。

古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきたといい、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があるそうです。

江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、1971年(昭和46年)に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていました。その後藤沢市によって安全化改修され、1993年(平成5年)から第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設(入場料500円)として公開されています。

島の南西端の幅50mほどの隆起海食台は、通称「稚児ヶ淵」と呼ばれています。鎌倉にある相承院という寺の白菊という稚児と、建長寺の坊さんが相次いで身を投げたとする話に基づいて名付けられたといいますが、本当の話かどうかはわかりません。

大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれており、磯釣りのスポットとしても知られています。

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この江の島は、地図などで全体的にみると、奥津宮のある南西部の一部が分離しているように見えます。これは波による侵食が著しく、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となっているためです。南北から侵食が進んで島を分断するような地形となっており、このためこの谷の左右の地形を総称して「山二つ」と呼ばれています。

これより東部を「東山」、西部を「西山」と地元民は呼ぶようですが、この東山の一角には、「コッキング苑」という園地があり、この中央には、江の島展望灯台、通称「江の島シーキャンドル」があります。

その昔ここには「平和塔」という、旧灯台がありました。これは江ノ島鎌倉観光という観光会社が東京の二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台を建設したものです。

戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用したもので、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことに加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、この展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。

私もこの古い灯台をなんとなく覚えているのですが、記憶があいまいなので、検索してみるとありましたありました。以下のようで、少しだけ現在ものよりは小さかったようです。

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これが2002年に取り壊され、江ノ島電鉄が翌年に完成させたのがシーキャンドルで、読売平和塔であった民間灯台という地位を引き継ぎ、現在も「観光用民間灯台」です。

民間灯台といっても、実際に船舶通航のための目標物として使われており、実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46km)でまで届くといい、民間灯台としては国内最大級。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120mもあります。

展望台からは遮られることのない360度の展望が楽しめ、気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだといいますが、この日はあいにくの天気だったため、登塔しませんでした。

夕方になると、灯台の光だけでなく、発光ダイオード(LED)を用いたライトアップが行われており、これがシーキャンドルと呼ばれるゆえんです。時折ライブなどのイベント会場となるほか、この展望灯台の根元には藤沢市の郷土資料館があって、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されているそうです。

ただ、上述の「コッキング苑」内に入らないと昇れないようでもあり(確認しませんでしたが有料?)、この日は夕方かなり遅くなっていたこともあり、今回の入園は断念しました。

このコッキング苑というのは、東山頂上部一帯にその昔あった旧江の島植物園をリニューアルし、上述のシーキャンドルの開業に合わせて2003年にオープンした藤沢市立の公園です。正式名称は「江の島サムエル・コッキング苑」といいます。

サムエル・コッキングというのは、1869年(明治2年)に来日し、横浜に住んだアイルランド人貿易商です。この地に別荘と庭園の造営を行い、ここで多くの熱帯植物を収集栽培しましたが、関東大震災の際この施設も破壊され、その後荒廃しました。

しかし、コッキングの収集した熱帯植物のいくつかは成長、繁殖を続け、現存するそうで、そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されています。

このコッキングが創ったという温室は、その遺構が残っており、その跡地に作られた植物園の地下に埋め込まれたものが、2002年のリニューアル工事の際に再発見され、整備されました。

非公開ですが、時折公開されることもあるそうです。その遺構は3棟の温室の名残であるレンガ造りの基礎、西洋風の池の名残や、ボイラー室、貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路などなどであり、ふだんは閉鎖されていますが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できるそうです。

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コッキングという人は、アイルランドに生まれましたが、幼いころ両親とともにオーストラリアに移住してここで育っており、27歳のとき貿易商を志し、明治2年に来日。2年後にコッキング商会を設立し、この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入して大儲けしました。

来日して3年後に日本人女性と結婚しており、明治10年にこの江の島頂上部の土地500坪余をこの妻名義で購入し、別荘を建築しました。その別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地を買い取り、庭園の造営を開始したわけですが、その後横浜でも石鹸工場を開設するなど手広い商売を続け、明治20年には、外国人居留地内に発電所まで開設しています。

明治39年頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされますが、この庭園を手放したのはこのころのことでしょう。1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去。享年72歳。奇しくも亡くなったのはあさって、2月26日です。

来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難したこの江の島の相模湾に浮かぶ緑の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったといい、そのころの江の島は今のようにまだ開発されておらず、光り輝いていたことでしょう。

そんな江の島を後にしてこの日は北条家の故郷、伊豆へ帰っていったわけですが、その帰路、湘南バイパスをクルマで走らせながら、かつて北条時政もまた江の島参りの際、この道を通っただろうか、とその時代に思いを馳せていました。

確認はしていないのですが、その時政の菩提寺であり墓もある、伊豆長岡の願成就院にもおそらくミツウロコはあるはずであり、もしかしたらこの地に点在する他の北条氏ゆかりの寺院にも同じものをみつけることができるかもしれません。

伊豆から江の島を通り、鎌倉に至る道を勝手ながらミツウロコの道、と呼ばせていただき、今後また機会あればこの道を辿ってみたいと思います。

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鬼は奥

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節分です。

節分とは「季節を分ける」ことを意味し、特に「立春」である毎年2月4日ごろの前日を指します。立春というのは、旧暦で設定されていた一年二十四節気の季節ごよみの初日でもあります。つまりその前日ということは、季節上での「大晦日」を意味します。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていますが、この節分は一年が始まる前の大みそかであり、年が明けて明るい太陽が出る前に悪さをいっぱいしておこうと、とくに鬼がワイワイ出てきます。それを追い払うための悪霊払いの行事こそが、節分の豆まきです。

「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ食べます。もしくはそれよりもう1つ多く豆を食べるとより厄除になるといいます。が、私的にはこの歳になると豆を五十数個食べるのはさすがにきついものがあります。

これから更に齢を重ねていくと、さらに増えるわけであり、それを考えると憂鬱になります。この先60、70になっていくオヤジにそれだけの豆を食わせるのは、ほとんど老人虐待です。100歳まで生きたらどうするのでしょう。

節分には、邪気除けのために柊鰯(ひいらぎいわし)などを飾るところもあります。関西では、柊鰯とはいわず、いかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいうようです。

この形態は、地方や神社などによって異なります。一般には柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿します。柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言います。鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすのだと言う人もいます。

福島県から関東一円にかけては、今でもこの風習が見られるようですが、私が育った広島や山口ではあまり一般的な風習ではないようです。ほとんど見たことがありません。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに鞘を取り去った大豆の枝である「豆柄(まめがら)」が加わるそうです。

畿内では節分にこのいわしを直接食べるそうで、これは「節分いわし」と呼ばれているようです。

このように一口に節分といっても、いろいろな風習があるわけです。

節分のルーツは、「追儺(ついな)」と呼ばれる中国の行事が日本に輸入されたものだといわれています。平安時代ごろから、宮廷の年中行事となり、最初は旧暦の大晦日に行われていたようです。追儺は、「鬼儺」とも表記されます。これは「鬼遣らい(おにやらい)」の意味であり、鬼を追い払うことです。

平安時代には、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負う大舎人(おおとねり)という役人と、この方相氏の脇にサポーターとして侲子(しんし)と呼ばれる役人らが控え、総勢20人ほどで、大内裏の中を掛け声をかけつつ走り回ったそうです。

方相氏は袍(ほう)と呼ばれる儀礼服を着て、金色の目が4っ付いた面をつけて、右手には矛、左手に大きな楯をもち、大内裏を走り回りました。駆け回る方相氏を鬼たちから守る目的で、宮中の公卿たちが清涼殿の階(きざはし)から弓矢を射る仕儀もあったといい、また他の殿上人らが、でんでん太鼓を叩いて厄を払うという、勇壮なものだったようです。

ただ、この時代にはまだ、豆を撒くという習慣はなかったようです。

撒いたのは最初は豆ではなく、桃だったようです。追儺の発祥地である中国において桃は神仙に力を与える樹木であり、桃の実は「仙果」と呼ばれて、昔から邪気を祓い不老長寿を与える食べものとされていました。

また、桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けとなり、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないになるとされ、これらの風習が日本に伝えられました。

「古事記」には、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが書かれており、イザナギノミコトはその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたといいます。

つまり、日本に伝来したころには、桃を投げつけることが鬼退治に効果があると信じられていたわけです。

「桃太郎」はこの古事記の話から派生した民話であり、ご存知のとおり桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する話です。また3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事でもあります。室町時代ころには、この桃の枝には邪気を祓う力があるとして「桃の枝」信仰も生まれました。

イザナギノミコトが鬼女にぶつけた桃がいつのまにやら豆に変わったのは、桃という果物がこの当時も貴重品だったからでしょう。時代が下るにつれ、桃がもったいないので、これを炒った豆で代用し、鬼を追い払う行事となっていきました。

上で書いたような宮中行事は、やがて庶民に採り入れられるようになり、二十四節気の暦が定着するようになってからは、節分に行われるように変わっていきました。

と同時に、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺した柊鰯を、魔除けとして戸口に立てておくという風習も現れ、さらに一般家庭だけでなく寺社でも豆撒きをしたりするようになりました。

第59代天皇の宇多天皇が在位した9世紀後半(867~931年)には、鞍馬山の鬼が京に降り来て都を荒らすのを、祈祷をして鬼の穴を封じようとしたという記録が残っています。三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた、といわれており、このころにはもう既に、大豆による豆まきは一般化していたようです。

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やがて豆などの穀物には、「生命力と魔除けの呪力が備わっている」とされ、信仰の対象にもなっていきました。豆は「魔目(豆)」とも書くことができ、これを魔物の目に投げつけて滅することは「魔滅」にも通じるということから、この時代の魔物の代表格であった「鬼」がその対象となりました。

しかし、実際には鬼は目に見えません。このため鬼の形をした作り物やお面をかぶった人物に豆をぶつけることでこれに代え、こうした行事を行うことで邪気を追い払い、一年の無病息災を願うようになっていったのです。

が、鬼は外、福は内、という例の掛け声が使われるようになったのは、ずっとあとのことで、南北朝時代のころのことだったようです。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)という室町時代中期の臨済宗のお坊さんが書いた「臥雲日件録」の中に「散熬豆因唱鬼外福内」という表現がみられるそうです。

そのとおり、豆まきといえば掛け声は通常「鬼は外、福は内」です。しかし、地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社もあって、こうした神社では、「鬼は外」ではなく「鬼は内」と呼びかけるそうです。

また方避え(ほうたがえ)の寺社でも「鬼は内」というそうです。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、方忌み(かたいみ)とも言い、外出の際などや家屋の新築の場合、政治を占う場合や、戦の開始などの際に、その方角の吉凶を占う行事です。

陰陽道にでは、方位神(ほういじん)という神様が設定されていて、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられていました。方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って、季節が変わるごとに各方位を遊行します。

吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位といい、あちこち動き回るので、その都度、良い方向、悪い方向を占う必要があったのです。

占いの結果、出かけようとしていた方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにします。また、帰宅の際などにも、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けるといったことまでやりました。

凶方位を犯すことによる災厄を避けるため、現在ではこの風習は寺院や神社で「方位除け(方除け)」の祈祷・祈願を行うだけとなり、実際に行先を変えることまでは行われなくなりました。

また、方位神を祀ってこの祈祷を専門に行うようになったのが「方避えの神社」です。方避け(ほうよけ)寺社とも呼ばれ、神社ばかりではなく寺の場合もあります。旅行に行く際には、こうした寺社にお参りして、悪方の災いを祓うわけです。

大阪の堺にある、方違神社(ほうちがいじんじゃ)はその中でも有名なもので、この地方では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として親しまれています。社地は摂津、河内、和泉の境の三国山にあって、この三令制国のいずれにも属さない地に建設されています。

いずれの国にも属さないということはつまり、方位のない地であることを意味し、このため、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきました。

現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多く、自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒くそうです。

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節分にはこの「方位」にまつわる別の行事をやるところも多いようです。

大阪などの畿内などを中心に食べる、例の「恵方巻」というヤツもそのひとつです。

恵方巻は、巻き寿司を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされていて、同日にこの巻寿司を「太巻き」「丸かぶり寿司」、「恵方巻」などと呼んで食べるイベントが各地で行われます。

「目を閉じて」食べるのが一般的のようですが、一方では「笑いながら食べる」という人もいて、さまざまです。太巻きには7種類の具材を使うとされ、この7という数字は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだものとされているようです。

7つの具材の中には野菜が入っていて、キュウリは青鬼、またニンジンやおぼろ、生姜を赤鬼に見立て、これを節分と関連づけて、鬼退治をするためにこれらを食べるようになったのだという説や、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼退治だとする説もあるようです。

7種の素材も決まっているわけではないようで、代表例としては、かんぴょう・キュウリ・人参・シイタケ煮・伊達巻・ウナギ・桜でんぶ(おぼろ)などのようですが、他にも焼き紅鮭、カニ風味かまぼこ、高野豆腐、大葉、三つ葉、しょうが、菜の花、漬物などなどのバリエーションがあるようです。

もともとは近畿地方だけの風習だったようですが、食品業界の陰謀で日本各地に広がっていきました。大手のコンビニエンスストアなどがこのブームに便乗したことから、全国的なイベントとなっていきました。

最近では、菓子業界までがこれに便乗し、形が恵方巻に類似する円柱状のロールケーキなどの各種商品においてもあさましい販売促進活動が見られます。

恵方巻の起源・発祥は諸説存在しますが、はっきりとわかっていません。が、前述のように節分にかこつけて食べるようになったという説のほかに、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が偶々節分の前日に海苔巻きのような物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたのがはじまりだ、といいうまことしやかな説もあるようです。

このほか江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとする説や、江戸時代末期から明治時代初期において、大阪の商人による商売繁盛の祈願事として始まったという説もあり、今日も大阪を中心としてさかんな行事であることから、これらの説が有力視されているようです。

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それにしてもなぜ、この太巻きのことを「恵方」巻きと呼ぶのでしょうか。

これは、陰陽道で、その年の福徳を司る神である「歳徳神(としとくじん」」に由来しているといわれています。古来、この神様のいらっしゃる方位を恵方(えほう、吉方、兄方)、または明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされてきました。

かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、このことを「恵方詣り」とも呼んでいました。

神社などでよく売られている暦をめくると、最初のほうのページに、美しいお姫様の格好をした女神さまが描かれていることがありますが、これが歳徳神です。

この歳徳神の由来にも諸説あり、牛頭天王のお后であるという説がひとつ。また、牛頭天王は、時代が下ると須佐之男尊(スサノオノミコト)と一体視されるようになったことから、スサノオノミコトの妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)とも同一の神様だとも言われています。

このクシナダヒメは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話の中に登場してきます。ヤマタノオロチに食べられてしまう8人の娘の中で最後に生き残った娘であり、ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)という櫛に変身します。

そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでスサノオとその行動を共にすることになります。

スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦いこれを退治することに成功しますが、実はスサノオはこの美しいクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出たのでした。神さまといども、報酬がなければ行動は起こさないというわけです。

めでたくオロチを退治したスサノオはヤマタノオロチを退治した後、櫛にされたクシナダヒメを、元通り美しい娘の姿に戻し、彼女はめでたくスサノオの妻となりました。スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、宮殿を建てたといわれており、この地が現在各地に残っている「須賀」という地名です。

この地名は、北海道から九州までいたるところにあります。あなたのお宅の近くにもあるのではないでしょうか。

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この吉方にいらっしゃるという歳徳神の位置もまた、その年の十干によって毎年変わります。

甲・己の年、つまり、西暦年の末尾が、4・9の年は、東北東やや右です。2014年の今年がそれです。このほか、0・5の年、つまり来年2015年は、西南西やや右、1・6、や3・8は南南東やや右で、昨年の2013年がこれでした。このほか、2・7では、北北西やや右となっています。

従って、今日恵方巻きを食べる人は、東北東の方を向いて願い事をしながら食べましょう。

とはいえ、節分との関係も薄そうな根拠のあいまいな風習です。あまり食品業界を儲けさせるイベントに巻き込まれないようにしましょう。

だいいち、太巻き丸々一本を一気食いするなんて、むちゃくちゃです。消化にも悪いし、お年寄りなどはのどに詰まらせてしまって、窒息死してしまうかもしれません。豆をたらふく食べさせられたあとにこの太巻きを食べたらもう何も食べれなくなってしまいます。

なので私的には、豆をまくで十分だと思っています。

このほか、節分における他の風習といえば、東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、節分の日に、舞妓さんや芸妓さん、ホステスといった女性が、通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をするそうです。

「節分お化け」、あるいは単にお化けと呼ばれているようで、節分の夜に普段と違う服装で、社寺参拝を行います。東京では、台東区の吉原で毎年、「よしわら節分お化け」が行われるようです。

もともとは、節分の夜に、老婆が少女の髪型を「桃割」という形にしたり、少女ではなく成人女性の場合は髪型を島田結いにしたりする風習だったようです。このため「オバケ」とは「お化髪」が語源であるという説もあります。

これが変じて、異装することが流行るようになっていったようで、服装や風体を変えるだけでなく、違う年齢や違う性を名乗るなど「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごしたのだといわれています。

節分である、立春前夜は、秋や冬といった暗い季節と春や夏などの明るい季節の変わり目です。 また冒頭でも述べたとおり、旧暦では節分は年の変わり目の前日でもあり、方位神が居場所を変えるなど、古い年から新しい年へと世界の秩序が大きく改組される不安定な時季でもあります。

この様な時季には現世と異世界を隔てる秩序も流動化し、年神のような福をもたらす存在が異世界からやってくる反面、鬼などの危害をもたらす存在もやってくるとされています。

このため節分には豆まきなどの追儺(ついな)儀式が行われていますが、「節分お化け」もまた、このときにやってくる鬼を姿を変えてやりすごそうとする儀式のひとつというわけです。

異装のまま寺社へ詣でて新年の平穏を祈るのですが、やはり民間信仰に属する儀式のため、節分お化けがいつごろどのように始まったかについて詳しくはわかっていないようです。が、京都を中心として江戸時代末期から盛んに行われていたとされており、上述の吉原以外では京都の一部の地域でもこの風習が残っているといいます。

こようにの節分お化けもやはり鬼にまつわる行事であり、節分にはやはり鬼はつきものです。

この「おに」の語は「おぬ(隠)」、つまり「いない」が転じたものだといわれており、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味します。そこから人の力を超えたものの意となりました。

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていました。「伊勢物語」には、夜中に女をつれて駆け落ちする侍が、その途中で鬼に連れの女を一口で食べられる話があり、ここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになりました。

平安以降は、戦乱や災害、飢饉などの社会不安が頻発しましたが、そうした中では、人の死は当たり前でしたが、また行方不明になる人も多く、人々はこれを異界がこの世に現出して連れ去ったのだと解釈するようになりました。人の体が消えていくのは、この世に現れた鬼の仕業だと思うようになっていったのです。

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このように鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔でしたが、一方では一寸法師や瘤取り爺さんなどの昔話にあるように福を残して去る神としての一面もあり、このため各地に鬼を祀る神社などが存在します。

一寸法師の話はだれでも知っているでしょう。が忘れている人も多いと思うので、あらすじを書き出してみましょう。

一寸法師は子供のない老夫婦が住吉神社の神様に祈った結果授かった子供でしたが、その大きさはわずか一寸(3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはありませんでした。

ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいとわがままを言い出し、おじいさんとおばあさんを困らせます。が、強引にも御椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代りに持って旅に出ます。そして京で大きな立派な家を見つけ、この家の主人を脅して働かせてもらうことにしました。

しかも、その家の娘とねんごろになり、この娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来たのを見た一寸法師はさすがにこの娘を守ろうとします。すると鬼は一口で一寸法師を飲み込んでしまいますが、一寸法師は乱暴にも鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまいます。

一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)になり、めでたくこの娘と結婚しました。しかも米と金銀財宝を打ち出して、大金持ちになりました。

が、その後娘は一寸法師にいじめられた鬼をかわいそうに思い、介抱してやっているうちに不倫に陥り、鬼と共謀して一寸法師を元の小人に戻して追い出してしまいました。泣く泣く育ての親の老夫婦のもとに帰りましたが、二人は自分たちを捨てた一寸法師をシカとし、その後一寸法師は小さい姿のまま、悲しく生きていくことになりました……

多少脚本に偽りがありますが、まぁだいたいこんな話です。

一方の瘤取り爺さんのほうの話はというと、あるところに、頬に大きな瘤のある隣どうしの二人の翁がおり、片方は無欲で、もう片方は欲張りでした。

ある日の晩、無欲な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露して接待したところ、鬼は翌晩も来て踊るように命じ、明日来れば返してやると翁の大きな瘤を、スポン、と傷も残さず取ってしまいました。

これを聞いた隣の欲張りな翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ、鬼の前で踊り出しますが、鬼が怖くて及び腰になり、踊りはしっちゃかめっちゃか。とうとう鬼は怒って隣の翁から取り上げた瘤を欲張り翁のあいた頬に押し付けくっつけると去ってしまった……という話。

無欲な翁は邪魔な瘤がなくなってその後幸せになりましたが、一方の重い瘤を二つもぶら下げることになった欲張り翁もまたその後、幸福な一生を送りました。

そのユニークな顔が大評判になり、あちらこちらから引っ張りだこになったあげく、鬼の前で踊ったという武勇伝が受け、時代を代表するヒーローとなり、都のたいそうな美人と結婚して幸せに一生を暮らしましたとさ……

こういう話を子供のころから繰り返し聞かされている?我々は、普通この鬼はおそろしい形相をした男の姿をしているとみんな思っています。

ところが、この鬼は、その形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは実はみんな女性の形だったといいます。

「源氏物語」にも鬼が登場しますが、その剣の巻には次のような話があります。

摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれました。

綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せました。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行きました。が、抗う綱は鬼の腕を太刀で切り落として、なんとか逃げることができました。

……という話なのですが、この話には続きがあり、この鬼は、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「息子の片腕があるだろう」と言い、それを取り出して見せようとして出してきた綱から腕をいきなり奪い取り、元の鬼の姿に戻って逃げ去る、ということになっています(こちらはホントです)。

この話からもわかるように、そもそもの昔には、鬼は女性とみなされていました。女の本質は鬼であるといわれており、戦乱の多かった昔に自分の子供を戦争で傷つけたものに対する母親の憎悪が鬼という存在に変化したものだといわれています。

最後のほう、昔話をおちゃらけて改変してしまったので、信じていただけないかもしれまんが、これもまたホントの話です。

鬼嫁、鬼婆、鬼女などなど、鬼にまつわるものはだいたいみんな女性です。そこに鬼の怖さの合理性がかいま見えてくるのです。やはり鬼はこわい。女はこわい。嫁もこわい。

なので、これを読んでいるお父さん、節分の夜に鬼の面をかぶって逃げ回るのはやめにして、今夜からは鬼役はお母さんに任せましょう。

それなら面はいらないって?それは私には肯定も否定もできません。

2014-1130336広島城にて