ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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ミツウロコの道

2015-9335先週末は、ひさびさに夫婦で東京に出て、夜から新宿で催された二人共通の高校時代の同窓会に出席してきました。

同窓生というのはいいもので、この年齢になるとそれぞれ所属する職場ではいっぱしの立場になっている人も多い中、そうした社会的な地位にはまったく気にせず忌憚ない話ができ、しかし気持ちはいつしか高校時代に戻っていて若い気分にもさせてくれ、齢を重ねたことを忘れさせてくれるのが不思議です。

延々と3時間ほどもそんなかんなでいろんな話をし、別れて宿に帰ったのは12時前。伊豆からのドライブに加えての大宴会に少々疲れてはいたものの、楽しかった一時期の余韻に浸りながら、ぐっすりとその夜は眠ることができました。

翌日は日曜日。天気はよくなかったものの、ざあざあ降りというほどでもなく、午後からは多少天気も回復しそう、ということなので、二人して鎌倉か横浜へでも出かけてみようか、という話になりました。

現在は伊豆の山奥に入り込んでいるので、そうした場所へ出かけるのはそうそうある機会でもなく、どちらにしようかと悩んだのですが、こんな天気の日にはしっとりとした雰囲気の鎌倉のほうがいいだろう、ということで、こちらを選びました。

行った先は、建長寺と円覚寺のふたつ。いずれもこの古都を代表する古刹です。場所的には北鎌倉にあり、建長寺のほうは、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼、円覚寺のほうは、第8代執権の北条時宗の創建ということで、いずれも北条氏ならびに鎌倉幕府とは切っても切り離せない縁のお寺です。

円覚寺のほうは、文永の役、すなわち元寇の際の戦没者の菩提を弔うために時頼が建てたものですが、その建設期間中、二度目の元寇である弘安の役も起き、このときの戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。

建長寺のほうの落成はこれより25年ほど古い1253年で、当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤がようやく安定した時期でした。

この乱は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱で、この戦いに勝った鎌倉幕府は政治的に優勢となり、朝廷の権力は制限され、皇位継承などに影響力を持つようになりました。

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その後京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていったわけですが、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していたことから、そんな自分の事業の集大成としてこの寺を建てたようです。

この時頼という人は、このように宗教心に厚いだけでなく、生活面でも質素かつ堅実だったといい、執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事で、今でも名君として高く評価されているようです

一般の市民からも受けがよかったようで、後年の江戸時代に流行った「鉢の木」という能などにも登場し、ここでは時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られています。

元祖水戸黄門のような人だったわけですが、庶民だけでなく幕府内においてもその手腕の評価が高かった人で、二度の元寇の対応においてもその才能をいかんなく発揮しましたが、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念したことで高い評価を得ました。

とくに石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大したほか、京都に置かれていた六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与てその機能を強化させるなど、鎌倉幕府の基礎地盤を形成した人としても知られています。

その後長らく続く執権北条氏の鎌倉幕府におけるしっかりとした橋頭堡をその施政時代に築いたわけですが、その北条氏も、14代の高時の代にはかなり力が落ち、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵すると、もともと鎌倉幕府御家人の筆頭であった足利高氏(尊氏)に寝返られ、彼は六波羅探題を攻略。

関東では上野国のこれもまた鎌倉幕府の御家人だった新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、第14代執権の北条高時、第15代、16代執権の貞顕、守時ら北条一族や家臣らは自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えました。

この建長寺と円覚寺というのは、その執権北条氏がパトロンとなって造営した鎌倉時代最大級のお寺であるわけですが、双方ともその権勢を世にみせつけるために造られただけに、寺のあちこちには、北条氏の家紋である、三鱗(ミツウロコ)があしらわれています。

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それは灯籠や寺内の仏具にしつらえてあったり、柱や梁などの建造物に刻まれていたりであるわけですが、この三鱗を北条氏の家紋に定めたのは、北条家の繁栄の元を創った北条時政です。

ご存知のとおり、源頼朝の妻の北条政子の実父です。頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、鎌倉の西、およそ7kmに位置する江の島に参籠して、一族の繁栄を祈願しました。

この時、江ノ島弁財天に37日間祈り続けていたといい、そして祈りの終わりの日の夜明けのこと、その夢枕に赤袴の女性が現れて、「あなたの前世の徳で、あなたの子孫は日本の国主となります」と、お告げをすると二十丈(約60m)もある竜神に変身して海の中に去ったといいます。

実はこの龍は弁財天の化身だったといわれており、時政はこのときこの龍が残したという三つの鱗を大切に持ち帰り、以後、これを北条家の家紋にした、とされています。

この鱗紋は、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来するわけですが、ヘビというのは古来から神秘的な動物とされており、能においても白拍子が蛇に変化するシーンが出てくる、道成寺という舞台では、この蛇体の衣装に三角の鱗紋が取り入れられているそうです。

しかしこれ以外にはあまり一般的な紋とはいえず、北条氏以外にはほとんど使用されていません。大部分三つ鱗であるようですが、ほかにも一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあり、いずれも北条氏関連の氏族で使用されていたものです。

ただ、これらは正三角形のものや、縦長の三角であるのに対し、北条氏主流の鱗紋は、代々底辺が少し長い二等辺三角形であり、その微妙な差により、主流であるかないかががわかるそうです。

のちの戦国時代に伊豆から小田原、関東にかけての覇者となった、いわゆる後北条氏の北条早雲もまた、この正当派ミツウロコを継承しています。が、彼はこの北条一族とは何の縁もありません。この紋を用いることで自らをも北条氏と称し、この先代の北条氏の権力を継承したことを内外に示そうとしたわけです。

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実はこの日、建長寺と円覚寺の訪問のあと、時政がその鱗を授かったというその江の島にも出かけました。そして改めて確認したのですが、ここにもあちらこちらに、これでもかというほどこのミツウロコがあしらってある建造物があり、改めて鎌倉から江の島に至る一帯が北条氏のテリトリーだったことを実感しました。

江の島といえば、サザンオールスターズの歌に代表されるように「湘南」を代表するモダンな観光地、という印象がありますが、その歴史は古く、伝承によれば、西暦552年に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。

が無論、んなわけはなく、約20000年前、元々は陸続きであったものが次第に侵食されて島となったもので、大昔には、引き潮の時に「洲鼻(すばな)」と呼ばれる砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたといいます。

砂嘴というのは、トンボロとも呼ばれるもので、岸から少し離れたところにある島の背後や同じような場所に人工構造物を置くと、その背後に砂が収斂して貯まる現象です。これを応用したものを「離岸堤」といい、テトラポッドのような異形ブロックを積みかさね、その背後に砂が貯まることを期待して、侵食対策に使う、といったことが行われます。

江の島はいわば自然にできた離岸堤というわけで、その背後にも砂が貯まりやすいわけですが、関東大震災のときにはこの地震で島全体が隆起し、これ以降はさらにこの砂の高さが高くなったといいます。

現在も島全域が聖域として扱われていますが、江の島を開基したのは役小角(えんのおずの)がといわれ、これは672年(白鳳元年)だったという記録があります。

役小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされており、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆大島に流罪になったとき、夜になると海を渡って富士山に登っていたという伝承がある人物です。

実在の人物ですが、ほかにも多くの修験道の霊場を開き、それらを修行の地としたという伝承があり、ここ江の島もその一つというわけです。

が、これは少々後世に脚色された話のような気配があり、伝承といえば、弘法大師、空海も814年(弘仁5年)に、江の島にある「金窟」という岩屋に参拝し、現在もある岩屋本宮(現奥津宮)を創建したともいわれています。

江の島には、この島の西方にある「奥津宮(おくつみや)」のほか、中央の「中津宮(なかつみや)」、北方の「辺津宮(へつみや)」を加えて3つの大きな神社があり、これを総称して「江島大神」と呼ばれています。

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それぞれ、多紀理比賣命(タキリビメ)、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)、田寸津比賣命(タギツヒメ)という女神さまを祀っており、タキリビメは、大国主命の娘さんで、「タキリ」とは海上の霧(きり)のことだそうです。

また、イチキシマヒメとタギツヒメは、いずれもアマテラスとスサノオの娘さんで、「イチキシマヒメ」の音からもわかるように、こちらは広島の厳島神社の祭神でもあります。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。

三人ともすべて厳島神社や江の島の祭神であるわけですが、これら三人の女神を単独で祀る神社は少なく、「三女神一柱」として祀られるのが通例で、江の島や厳島神社以外には、福岡の宗像神社などが有名です。

ただ、こうした祭神の位置付けは、明治になってからの神仏分離の際に改められたものであり、それ以前の江戸時代までは弁財天を祀っており、総称では江島弁天・江島明神と呼ばれていました。神社の名称も、岩屋本宮(現奥津宮)、上之宮(現中津宮)、下之宮(現辺津宮)という名称でした。

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弁財天はもとは「弁才天」と書きました。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名であり、日本に入って来た仏教においては、吉祥天その他の様々な日本的な神の一面を吸収した存在となりました。

元来インドの「河神」であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、江の島もその例外ではありません。ほかにも弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くありますが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなり、財宝神として崇拝されるようになりました。

上述のイチキシマシメと同一視されることも多く、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっています。

この江の島に弁財天を勧請したのは、853年(仁寿3年)の円仁(慈覚大師)ともいわれていますが、これもまた伝承の域を出ないようです。その後、1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚という坊さんがこの弁才天を勧請したという記録が残っており、これが実質的な江の島神社の始まりと言えるでしょう。

その3年後の1185年(文治元年)には、頼朝はさらに現在の奥津宮に鳥居を奉納しており、そして、上述のとおり、この5年後の1190年(建久元年)には、北条時政もここに参籠して、このとき北条氏の「三鱗」の家紋と定めました。改めて私もこの三社に参り、そこここでこの北条氏の家紋があるのを確認したことは言うまでもありません。

実は、私自身はこれまでこの島に一度も上陸したことがありませんでした。仕事では、その対岸のいわゆる湘南海岸の侵食対策の計画や設計に携わり、おそらくは仕事では10回以上、プライベートでも少なくとも5回はこの地を訪ねているはずです。

しかし、たいていは時間に追われていて、対岸の藤沢市内での用が済むとその日のうちに東京に戻るというのが常であり、ついぞ島への上陸の機会に恵まれませんでした。

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今回は午前中から、建長寺、円覚寺と北条氏ゆかりの古刹を訪れ、そのあとの午後の時間がぽっかりと空いたためこの初訪問が実現したわけですが、初めてのこの島の探訪は正直言って驚きの連続でした。

そもそも、江の島神社というものが三位一体の神様であるということも知らず、またその祭神が我々が結婚式を挙げた厳島神社と同じ方々だということも知りませんでしたから、その一致にまず驚きました。

加えて驚いたのは、その観光客の多さです。日曜日の午後ということもあったのでしょうが、奥津宮に至るまでの参道は人または人で、ごった返しており、またここに連なる店の多さとその賑わいぶりにもまたびっくり。

年齢層はといえば、我々と同様の年配の方もそれなりに多いのですが、意外や意外、若い人のほうが多く、ここはもしかしたら原宿かいな、と思えるほどであり、事実竹下通りを意識したような若者向けの小店も数多く見受けられました。

外国人旅行者らしい人達も多く、一番多かったのはやはり中国人のようで、これが台湾語なのか本土中国の言葉なのかはわかりませんが、あちこちでその黄色い声が響き渡り、このほか韓国語は無論のこと、英語、フランス語も飛び交って、なにやらここは日本ではないような気分にもなりました。

さらに驚いたのは、所詮は小さな島に過ぎないと思っていたところが、意外に広く、しかもアップダウンの激しい地形であり、かなり足腰が鍛えられたことでした。

調べてみると、標高は60mほどに過ぎないようですが、周囲は4kmほどもあるとのことで、凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質であることから地盤はしっかりしており、建築物は立てやすい土地条件のようです。

1923年(大正12年)の関東大震災のときの隆起で海面上に姿を現した「海蝕台」が現在の江の島のベースであり、海蝕台というのは、いわば海底にあった岩棚が隆起したものであり、もとから凸凹していたわけです。

標高は60mしかないにもかかわらず、このために島内各所のアップダウンが激しいわけであり、その合間あいまに構造物を建てられる場所を選んで、神社そのほかが建てられ、さらには、昭和に入ってからここに住まう人が急増しました。

一時期は1,000人を超える人が住んでおり、ピークは1955年(昭和30年)の1372人だったそうですが、その後は急減し、現在は島全体で360人を超える程度だそうです。それにしてもこの狭い観光地に人が住んでいるのがまさに奇跡のようでもあります。

島内各所にある観光スポットを巡る通路の両側にはこれに貼りつくように古い民家が並び、窓や入口からはその生活の息遣いが聞こえるような近さです。

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1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになったそうで、なるほど、あちこちでネコを見かけました。

猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れず、島内の至る所で猫が無防備な姿でいます。猫好きの人間もよく訪れる「ネコの島」でもあるそうですが、たまたま我々が訪れたこの日は2月22日であり、ニャンニャンニャンで、ネコの日だったというのもご愛嬌です。

一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがあるそうで、餌場を作り猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められているそうです。

ネコ以外では、島に当たって吹き上げる上昇気流に乗って旋回するトビの姿も目につきます。その昔はトビの餌になるのは多くは、江の島にある漁港などで発生する漁師の残した小魚でしたが、最近来客目当てに餌付けが進められ、これが名物にもなってきたそうです。

しかし、こうした人工的な餌に味を占めたトビは、弁当を広げる観光客を襲って、食べ物を横取りするようになったそうで、現在、被害が多発している場所には注意の看板が掲げられ、餌付けを名物にしていた飲食店でも、これを自粛しているといいます。

なぜか、リスも大量にいます。島内のあちこちに広がる照葉樹林帯では梢を渡るリスをあちこちで見かけますが、これは「タイワンリス」です。江の島にはそのむかし小動物園があり、ここに伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスが飼育されていました。

ところが、台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、島内に拡がったようで、こちらも観光客寄せのために餌付けをする例も見られるようですが、小鳥の巣にいる雛や卵を食べたり、電線や電話線をかじるといった被害も出てきているといいます。

午前中に行った円覚寺でもリスを目撃しましたが、江の島だけでなく湘南海岸一帯のこの地域では最近このタイワンリスの繁殖がかなりの問題になりつつあるようです。

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このように、本来神様の島であるはずの江の島は、今や観光客、一般住民に加え、ネコ、トビそれに加えてリスまで闊歩するというなんだかよくわからん世界になっているわけですが、こうした喧騒を抜け、島の最南端まで出ると、そこには別天地が広がっています。

島の周囲、とくに南側と西側は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には関東大震災の際に海底から隆起した海蝕台の名残をそのまま見ることができ、これは「波蝕台」ともいいます。南西部にある海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、「海蝕洞」が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれています。

古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきたといい、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があるそうです。

江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、1971年(昭和46年)に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていました。その後藤沢市によって安全化改修され、1993年(平成5年)から第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設(入場料500円)として公開されています。

島の南西端の幅50mほどの隆起海食台は、通称「稚児ヶ淵」と呼ばれています。鎌倉にある相承院という寺の白菊という稚児と、建長寺の坊さんが相次いで身を投げたとする話に基づいて名付けられたといいますが、本当の話かどうかはわかりません。

大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれており、磯釣りのスポットとしても知られています。

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この江の島は、地図などで全体的にみると、奥津宮のある南西部の一部が分離しているように見えます。これは波による侵食が著しく、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となっているためです。南北から侵食が進んで島を分断するような地形となっており、このためこの谷の左右の地形を総称して「山二つ」と呼ばれています。

これより東部を「東山」、西部を「西山」と地元民は呼ぶようですが、この東山の一角には、「コッキング苑」という園地があり、この中央には、江の島展望灯台、通称「江の島シーキャンドル」があります。

その昔ここには「平和塔」という、旧灯台がありました。これは江ノ島鎌倉観光という観光会社が東京の二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台を建設したものです。

戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用したもので、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことに加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、この展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。

私もこの古い灯台をなんとなく覚えているのですが、記憶があいまいなので、検索してみるとありましたありました。以下のようで、少しだけ現在ものよりは小さかったようです。

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これが2002年に取り壊され、江ノ島電鉄が翌年に完成させたのがシーキャンドルで、読売平和塔であった民間灯台という地位を引き継ぎ、現在も「観光用民間灯台」です。

民間灯台といっても、実際に船舶通航のための目標物として使われており、実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46km)でまで届くといい、民間灯台としては国内最大級。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120mもあります。

展望台からは遮られることのない360度の展望が楽しめ、気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだといいますが、この日はあいにくの天気だったため、登塔しませんでした。

夕方になると、灯台の光だけでなく、発光ダイオード(LED)を用いたライトアップが行われており、これがシーキャンドルと呼ばれるゆえんです。時折ライブなどのイベント会場となるほか、この展望灯台の根元には藤沢市の郷土資料館があって、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されているそうです。

ただ、上述の「コッキング苑」内に入らないと昇れないようでもあり(確認しませんでしたが有料?)、この日は夕方かなり遅くなっていたこともあり、今回の入園は断念しました。

このコッキング苑というのは、東山頂上部一帯にその昔あった旧江の島植物園をリニューアルし、上述のシーキャンドルの開業に合わせて2003年にオープンした藤沢市立の公園です。正式名称は「江の島サムエル・コッキング苑」といいます。

サムエル・コッキングというのは、1869年(明治2年)に来日し、横浜に住んだアイルランド人貿易商です。この地に別荘と庭園の造営を行い、ここで多くの熱帯植物を収集栽培しましたが、関東大震災の際この施設も破壊され、その後荒廃しました。

しかし、コッキングの収集した熱帯植物のいくつかは成長、繁殖を続け、現存するそうで、そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されています。

このコッキングが創ったという温室は、その遺構が残っており、その跡地に作られた植物園の地下に埋め込まれたものが、2002年のリニューアル工事の際に再発見され、整備されました。

非公開ですが、時折公開されることもあるそうです。その遺構は3棟の温室の名残であるレンガ造りの基礎、西洋風の池の名残や、ボイラー室、貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路などなどであり、ふだんは閉鎖されていますが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できるそうです。

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コッキングという人は、アイルランドに生まれましたが、幼いころ両親とともにオーストラリアに移住してここで育っており、27歳のとき貿易商を志し、明治2年に来日。2年後にコッキング商会を設立し、この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入して大儲けしました。

来日して3年後に日本人女性と結婚しており、明治10年にこの江の島頂上部の土地500坪余をこの妻名義で購入し、別荘を建築しました。その別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地を買い取り、庭園の造営を開始したわけですが、その後横浜でも石鹸工場を開設するなど手広い商売を続け、明治20年には、外国人居留地内に発電所まで開設しています。

明治39年頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされますが、この庭園を手放したのはこのころのことでしょう。1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去。享年72歳。奇しくも亡くなったのはあさって、2月26日です。

来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難したこの江の島の相模湾に浮かぶ緑の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったといい、そのころの江の島は今のようにまだ開発されておらず、光り輝いていたことでしょう。

そんな江の島を後にしてこの日は北条家の故郷、伊豆へ帰っていったわけですが、その帰路、湘南バイパスをクルマで走らせながら、かつて北条時政もまた江の島参りの際、この道を通っただろうか、とその時代に思いを馳せていました。

確認はしていないのですが、その時政の菩提寺であり墓もある、伊豆長岡の願成就院にもおそらくミツウロコはあるはずであり、もしかしたらこの地に点在する他の北条氏ゆかりの寺院にも同じものをみつけることができるかもしれません。

伊豆から江の島を通り、鎌倉に至る道を勝手ながらミツウロコの道、と呼ばせていただき、今後また機会あればこの道を辿ってみたいと思います。

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