今日の伊豆は、午前中は雪がちらつく模様、との天気予報でした。
が、今のところは薄日が差しており、雪が降りそうなかんじはしません。去年の今ごろは、かなりまとまった雪が降ったような記憶があり、そろそろではないかとは思うのですが、降るなら降るで、ドバ~っとふらんか~いと天に向かって吠えてはみるものの、白い雲の中から少し見える青空からは何の返事もありません……
連日こう寒いと、ストーブや電熱器が手放せません。最近石油が高いので、我が家ではできるだけ灯油には頼らないように心掛けており、石油ストーブなどで急速に部屋を暖めておいて、あとは小さな電気式のもので、ちまちま暖をつなぐ、というケチくさい対策をとったりしています。
家の中も寒いのですが、当然のことながら、外も寒く、庭の掃き掃除などをしていると、貯めた落ち葉に火をつけて焚火をしたくなります。が、最近は焚火は火事につながるからと、消防署などから厳しい御法度の通達が来る時代であり、ホームセンターなどに行っても、その昔はたくさん置いてあった、ゴミ焼却機などひとつも置いてありません。
それはそれでわかるのですが、多くの自治体がゴミ処理の問題で悩んでいる現在、少しくらいの焚火は大目にみて欲しいと思うのですが、みなさんはどうされているのでしょうか。
ところで、現在、日本における火災の原因で最も多いものは放火だそうです。ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっているそうですが、江戸時代にも放火が多かったそうで、今日、1月18日から20日にかけても、「明暦の大火」という大火事がありました。
旧暦のことでもあるので、現在の暦に直すと、火事が発生したのは江戸初期の明暦3年(1657年)の3月2日から4日にかけてのことです。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であり、江戸の三大火の筆頭としても挙げられます。
ほかの二つは、江戸中期の明和の大火(明和9年(1772年)と、幕末の文化の大火(文化3年(1806年)です。
これらの大火と比較しても明暦の大火が大きな大火となった要因のひとつは、江戸独特な気象条件である、冬の季節風です。北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)が吹くため、江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生しています。
ほか二つの大火、明和の大火も新暦の4月1日に、文化の大火は4月22日に起こっており、明暦より一カ月以上遅い時期ですが、このころにはまだ関東では冬の季節風が吹きやすい状態にあります。
こうしたことから、幕府が江戸初期に創設した4組の定火消(幕府直轄で旗本が担当した)の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれていたそうで、この配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。
また、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳の雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことがあります。とりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきたようです。
この明暦の大火で江戸の町は、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者の数については諸説あるようですが、3万から10万人と推定されており、江戸城天守はこれ以後、再建されていません。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものといわれており、世界的にもロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられるほどのすさまじいものでした。
この明暦の大火は、別名、丸山火事、振袖火事とも呼ばれています。
この大火では火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したことが分かっており、最初の火災は、未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から発生したとされており、これがこの火事が丸山火事といわれる理由です。
この最初の火災は神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及び、現在も江東区にある霊巌寺には、炎に追い詰められた1万人近くが避難しましたが、類焼はここにもおよび、多数の市民が死亡。さらに浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となっています。
しかし、被害はこれだけでは終わらず、ひとつ目の本郷の火災が終息しようとしているところへ小石川、麹町などで次々に火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはほぼそのすべてが焼き尽くされました。
この最初に本郷で起こった火災は実は放火によるものではないか、とする説もあるようです。
幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したのではないか、という奇説もあるようで、この説では、この当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていたことが原因としています。
この当時、江戸幕府は、江戸の町を都市改造しようと考えていましたが、地方から流入する多数の住民は増え続け、これらの住民の説得をして立ち退きさせるためには莫大な補償が必要となっており、都市改造の大きな障壁となっていました。
そこで大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると幕府が考えたのだというのがこの説であり、前述のとおり、この時期の江戸はたいてい北西の風が吹くため、放火計画も立てやすかったと考えられます。
実際に大火後の江戸ではかなり大規模な都市改造が行われており、これがこの説が唱えられるようになった理由のようです。がしかし、一方ではこの火災により江戸幕府の本丸である江戸城までもが消失しており、このことから、この幕府放火説は疑わしいと考える人も多いようです。
この火事は、本郷にあった、老中の阿部忠秋の屋敷が火元であったとする説もあります。しかし、老中の屋敷が火元ということが世に知れ渡ると、幕府の威信が失墜してしまいます。このため、幕府の要請によりこの阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたという話もあり、これを「本妙寺火元引受説」といいます。
この話には根拠があり、実はこれだけの大火のあとも、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあっていないことがあげられています。処罰を受けなかったどころか、大火後にこのお寺は、以前にも増して大きな寺院となっており、さらに大正時代にいたるまで阿部家から毎年多額の供養料が納められていたことなどがわかっています。
本妙寺側もこの説を否定しておらず、江戸幕府崩壊後の明治期以降にはもう時効だろうということで、むしろこの説を主張しているそうで、案外と出火元が老中の安倍家であったというのは真実なのかもしれません。
一方、出火したのが、安倍家であろうが、本妙寺であろうが、そもそもこの出火原因は不審火ではなかったかという説は現在に至るまで根強く、これが、この火事が「振袖火事」とも呼ばれる所以です。
不審火の意味は、必ずしも放火とは限りません。出火理由の原因究明をつとめても、結果が出ない場合、これは不審火と呼ばれます。明暦の大火もまた、結局原因がはっきりせず、振袖火事というあいまいな名前がつけられて現代に至っています。
この説は多少伝説めいています。
話しの発端は、この出火元といわれる本妙寺に、いつも墓参りに行っていた、ウメノという女性に始まります。このウメノがある日のこと、いつものように親戚の墓のある本妙寺に墓参りへ行ったその帰りのこと、上野のお山で一人の美しい美少年を見かけます。
この美少年はどこかのお寺の小姓だったようですが、その美しい横顔を見たウメノはその瞬間に少年に一目ぼれしてしまいます。この小姓は、きらびやかな振袖を着ており、それからというもの、ウメノの脳裏からはこの振袖を着た小姓のことが離れず、日々魂を抜かれたようになっていきました。
しかし、もう一度会いたいと何度か上野に足を向けたものの、その小姓には出会うことができず、思い悩んだウメノは、やてその小姓が着ていた振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえ、これを着て二人が夫婦(めおと)になった妄想にふけるようになります。
来る日も来る日もその遊びに明け暮れたウメノは、次々に振袖の衣装を変え、その紋も桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に菊の花をあしらってなどなどとエスカレートしていきました。しかし、何度上野へ行けども妄想すれども小姓はついに現れず、やがてウメノはその恋の病に臥せったまま、わずか17歳という若さで亡くなりました。
承応4年1月18日(1655年2月22日)がその命日という記録が残っており、ウメノの葬儀が行われたのも彼女と縁が深かった本妙寺であったとされ、実在の人物だったことをうかがわせます。ただ、ウメノが墓参していた親戚は確かにこの寺の門徒でしたが、ウメノの家はこの寺の宗派である「法華宗陣門流」に帰依していなかったようです。
この流派は日蓮を宗祖としており、日蓮は、「不受不施義(ふじゅふせぎ)」を思想としていました。不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、また、不施とは法華信者以外の供養を施さないことです。
このため、寺では葬儀が済むと、この不受不施のしきたりによって、異教徒であるウメノ
の振袖は供養せず、質屋へ売り払ってしましました。
やがてこの振袖は、別のキノのという女性の手に渡りました。ところが、このキノもまた、ウメノと同じ17歳で、翌明暦2年の同じ月の(1656年2月11日)に死亡しました。
こうしてウメノからキノに渡った振袖は再び質屋を経て、次いでイクという女性のもとに渡りました。が、なんとこのイクも、同じように翌年に亡くなりました。
亡くなったのは、明暦3年1月18日(1657年2月28日)であり、日付こそ違いましたが、イクもまた、2月に17歳で亡くなるという偶然としては、ありえないような死でした。
ところが、イクの葬儀において、この振袖を売った質屋が供養に出かけてきたことから、この質屋を通じて元の振袖の持ち主をイクの家族が知るところとなり、さらにその前の持ち主も判明したために、彼等の娘たちがすべて同じ月に亡くなっていた事実が浮上します。
イクの家族は質屋を通じて、ウメノとキノの家族を見つけだし、彼等もその奇縁に驚嘆します。やがて三家は相談し、不受不施義を流儀とする本妙寺に赴いて、異教徒の振り袖ではあるけれどもと頼み込んでそのしきたりを曲げてもらい、この寺で、三人の娘が袖を通した振袖の供養をしてもらうことになりました
こうして、この振袖を前にして、本妙寺の和尚による厨での読経が始まり、やがて和尚は、ころあいを見計らってこの振袖を火の中に投げ込みました。その瞬間、突如つむじ風が舞い起こり、振袖はこの風に煽られて運ばれ本堂に飛び込みました。
この結果、振袖の炎は近くのものに燃え移り、瞬く間に本堂全体を包む猛火となり、やがてそれが、周囲に燃え広がって江戸中が大火となっていきました……
以上の話からは、出火原因は放火というよりも、失火に近いといえるようです。真実のところはいずえにせよよくわかりませんが、この話はその後江戸期を通じて語り継がれ、明治期になって矢田挿雲(やだそううん)という、金沢出身の小説家がその事実関係を細かく取材して出版しました。
この矢田挿雲の代表作は「太閤記」であり、これは大正から昭和にかけて人気を博し、のちには映画化やテレビ化もされています。この矢田が記した三人の少女の話は、その後、このブログでも過去に何度か取り上げた、かの小泉八雲も興味を持ったようです。しかし、作品化はなされず、また登場人物は異なる内容のメモのようなものを残しているといいます。
これがこの明暦の大火が別名、振袖火事とも呼ばれるゆえんですが、誰しもが疑問を持つような伝説の域を出ず、三人の少女が亡くなった月が同じ2月だったというのも創作の臭いがします。三人の誕生日がほぼ10日づつずれているのにもなにやら意図が感じられます。
従って、この明暦の大火の火元というのはやはり、前述のとおり老中安倍家ではなかったかと私は思いますし、おそらく多くの人がそう考えるのではないでしょうか。
しかしこの火事の原因が放火であるとしても、その真犯人が幕府であるわけはありません。幕府がその重職である家老の家に付け火するというのは考えにくいことです。
付け火だったとしても結局その犯人は特定されず、その捜査の過程で、上のような振袖火事の噂が流れ、まことしやかに人々の間に広まっていった中で、「振袖火事」のような俗名も出てきたと考えられます。
結果として、この大火では出火元として本妙寺が形ばかりの処罰を受けましたが、ほかに誰も罪をかぶるものは出ませんでした。
江戸の町では冒頭でも述べたように放火による火事が多く、江戸中期の享保8年(1723年)から翌9年の2年間の記録だけでも、放火犯が102人も捕らえられています。その内訳としては、非人が41人・無宿者が22人となっており、下層民が多く含まれていたことが特徴です。
こうした社会の下層にいる住人による放火が多かった理由としては、江戸の物価の高さや、保証人がなく奉公に出られないなど、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かったことがあげられます。彼等にとっては、火事で焼け出されたとしても、失うものが少なく、自暴自棄の中でそうした行為に及ぶことはしばしばあったと考えられます。
その放火の動機ですが、やはりまずあげられるのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒です。奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多く、中には商売敵の店へ放火する者もいました。
子どもの火遊びも多く、「ふと火をつけたくなった」というある子供の供述も記録として残っており、このころの江戸の下級庶民のすさんだ心がうかがわれます。
しかし、江戸の火事は、いったん火事が起きれば、大工・左官・鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、むしろ火事の発生や拡大を喜ぶものもいました。
火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、付け火をしたのではないかと思われるふしのある火災もあるそうです。これには幕府も手を焼いたようで、時には町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあったといいます。
日本では、放火は古来より重罪として処されてきましたが、とくに江戸幕府は放火に対しては、火焙りをはじめとする厳罰で対処してその抑制を図りました。
しかし、いわゆる「失火」については、死罪などに至る厳しい処分を科すことがなかったそうで、火元となっても、武士の場合は屋敷内で消し止めれば罪には問われず、町人の場合も小火であれば同様でした。
失火による火事が大火に発展した場合には、火元の者を死罪・遠島などの厳罰とすることも検討されたそうですが、失火は誰でも起こす可能性があることや、老中の評議において、こうした大火があった場合、その発生を許した責任をとって老中自身が切腹する覚悟があるのかという指摘などがあり、結局、採用されなかったそうです。
この辺、自信が責任をとるのがいやなので、法令の中身をあいまいに操作して自分には火の粉が降りかからないようにした上で法令を通した、某巨大政党発案のスパイ法案などともどこか似ています。
とはいえ、失火と言えども罪がまったく課されなかったわけではなく、例えば、武士の場合は、失火により屋敷外へ延焼を許した場合には大目付への進退伺いを提出することが義務付けられ、失火も3回ともなると、江戸の外縁部に屋敷換えとなるなどの処分が下されました。
町人・寺社の失火の場合、小間10間(約18メートル)以上の焼失の場合は、10~30日の「押込」と定められていたほか、将軍の御成日に失火した場合は罪が重くなり、小間10間以上の焼失で火元は「手鎖」50日となりました。
また、延焼範囲が広く3町(約327メートル)以上に達した場合は火元以外にも罪が及び、火元の家主などは30日の押込、五人組などの近隣の者も協同責任ということで20日の押込となるなどの処罰がありました。
ただし、寺社の失火に対しては、上述の本妙寺の例などにもみられるように、幕府もその権威を考慮し、火元となってもその罪は7日の「遠慮」のみでした。これは軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)が命じられたものの、夜間のひそかな外出は黙認されるというものでした。
しかし、失火ではなく、放火である場合、捕らえられた犯人は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされました。先だってのブログでとりあげた八百屋お七もまた、若干15歳でその若い命を散らしました(注射はお好き?)。
火事にまつわる罪といえば、上述の明暦の大火で面白い話がもうひとつあります。この大火の際、江戸でも最大級の牢屋であった小伝馬町の牢屋にも火の魔の手が及びました。このときの小伝馬町の牢屋奉行は、石出帯刀吉深という人物でした。
この石出帯刀という人は、歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられていたほか、国学者としても著名な人であり、同時に慈悲深い奉行として慕われていたようです。
この明暦の大火のときにも、迫りくる炎の中、普通なら焼死から免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に開放しました。
こうした処断は、それまでは法制化されておらず、仮にこうした牢が災害に見舞われる可能性がある場合でも大目付などの許可を得なければ囚人の解放は許されません。が、そんな許可を貰っている暇はなく、このため、帯刀はこの開放措置を独断で実行しました。
このとき、解放された罪人達は涙を流して帯刀に感謝したといい、その後、大火が静まったあと、実際に全員が約束通り戻ってきたそうです。
本来こうした独断を行った者に対しては処分が下されるところですが、帯刀は戻ってきた罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、事の一部始終を老中に報告した上で、自分の行為を正当なものだと主張し、逆に彼等の死罪も含めた罪一等を減ずるように上申しました。
この結果、実際に減刑が行われるところとなり、以後の江戸時代においては、こうした緊急時の「切り放ち」が制度化され普通に行われるようになっていったということです。
一昨年の2月に、中米のホンジュラス中部コマヤグアの刑務所でも火災がありましたが、このときはこうした「切り放ち」は行われず、無残にも受刑者ら359人が死亡した、という事件がありましたが、このニュースを覚えている人も多いのではないでしょうか。
大正13年に発生した関東大震災では、巣鴨刑務所の外壁が9カ所に渡って倒壊し、震災と火災におびえた囚人が一斉に怒声をあげはじめ、競うように安普請の検身所の壁を突き破り、屋根をはがしはじめたそうです。
刑務所側では全員が脱獄の気配濃厚と判断し、抜剣・発砲で騒ぎを収拾したといい、これによって事なきを得たようですが、この暴動の様子が刑務所外に漏れ伝わり、「巣鴨刑務所から囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返している」という流言が流布したそうです。
現在でもあながち起こらないとはいえない事件ですが、実際に発生したとしたら、現在の日本の法務省や警察はどのように対応するでしょうか。さすがに切り放ちは難しいでしょうが、かといって銃や剣で恫喝するということも状況としては困難でしょう。そうした場合の対処法は検討されているのでしょうか。
それはともかく、こうした明暦の大火のような災害が発生すると、焼失した江戸の町は、その再建に莫大な資材と費用を必要としました。
このため、大火が起きると江戸をはじめ全国の物価や景気が影響を受けたといい、このあたりのことを書いていると、昨日が19年目の記念日であった阪神淡路大震災のその後のことなども思い浮かびます。一昨年に発生した東日本大震災もまたしかりです。
明暦の大火の後は、江戸市中の物価が高騰したそうで、米をはじめとする食料品、家屋再建のため必要とされた建築資材などは何倍もの価格となりました。焼失した江戸市中の再建に伴って膨大な仕事量が発生し、職人や奉公人の賃金が高騰したり、家屋の不足により賃料が上昇するなど、大火が江戸の物価に与える影響は大きかったようです。
大火の後では江戸から各地への買い付け注文が増加するため、江戸市中のみならず全国の景気に影響を与え、需要の増加に便乗した値上げも行なわれました。明暦の大火後に材木を大量に買い付け、建築作業を請け負って莫大な利益をあげた河村瑞賢のように、大火を契機として富を築く商人もあらわれました。
東日本大震災以降も我々の生活はその余波を受けて、かなり変わりつつあります。大災害のあとには、景気が良くなるという説と悪くなるとする説の両派があるようですが、このように見解が分かれるのは無論、ではいったい大災害がなければどうだったのかという現実を検証できず、これとの比較検討が難しいことが原因です。
「たられば」が検証出来たら、タイムマシンなどというSFは生まれなかったでしょう。
ただ、大災害に見舞われた国が、長期的に高い経済成長を達成するという人もおり、これは災害によってインフラ資源の破壊とともに、それまでの社会の仕組みの創造的破壊と改変のプロセスが急速に促進されるからだという説です。
確かに、東日本大震災を通じて、日本のエネルギー行政や環境は変化せざる得ない状況にあり、とくに東北地方のこれからのグランドビジョンは大きく変わっていくことでしょう。
これらをきっかけとして、全国的にももっとたくさんの環境の変化があると考えられますが、こうした新たな環境の変化や課題に順応する知恵が逆に日本人の中に芽生えて、さらなる経済発展をするということは大いにありえるのではないでしょうか。
明暦の大火を初めとする江戸の大火の数々は、江戸幕府の力を衰退させ、その結果が明治維新へとつながっていきました。阪神淡路大震災、東日本大震災という未曽有の大災害を、20年という短いに期間に経験した我々もまた、その経験をもとに前向きに知恵を絞って、それらの環境の変化をチャンスに変換できるようになりたいものです。