注射はお好き?

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先日の日経新聞の夕刊に、アメリカの化学・電気素材メーカーであるスリーエム(3M)や日本の日東電工などの医療機器メーカーなどが相次いで痛みの少ない注射技術を実用化しようとしている、という記事が掲載されていました。

「マイクロニードル」と呼ばれる微細な針を皮膚に貼る方式などを用いるそうで、これによって痛みをほとんど感じることなく薬を体内に注入できるとのことです。

日本のような高齢化社会においては、体力のないお年寄りにはとくに歓迎されるでしょうし、幼児なども摂取しやすくなるため、こうした体への負担が軽くなる注射の需要は今後ともかなり拡大していきそうです。

この「注射器」ですが、これが最初に誕生したのは、1853年のことで、日本では嘉永6年、ペリー提督らの黒船が浦賀へ来航するという事件があった年です。

これを発明したのは、スコットランドの医師、アレキサンダー・ウッドとフランスの医師、チャールズ・ガブリエル・プラパーズだといわれています。

当時作られた注射器は「皮下用シリンジ」と言われるもので、皮下注射専用だったようです。筒は鋼鉄製で、注射器を中から押し出すシリンダーにはゴムが取り付けられていました。その後、1897年ころにはフランスで、現在のようなガラス製の注射器が販売されるようになります。

やがて、糖尿病患者にとっての特効薬として知られるインスリンが発見されたことから、この薬の体内投与のために爆発的に注射器が使われるようになり、その後薬液を直接静脈内に投与する静脈内注射もさかんに行われるようになりました。

静脈内注射は、皮下注射のように容量の制限もなく、効果の発現も早いほか、栄養素の投与などを目的とする「輸液」の投入にも有利です。

注射は、直接的に人間の体内に薬剤を投入することができます。経口投与や皮膚・粘膜への塗布、ないし吸引などよりも直接的に患部に薬剤を投入できるため、効果が出始めるまでの時間が短く済みます。

また吸収経路で他の物質に変質してしまいやすいような種類の薬剤でも患部近くに投与できるため、より確実な薬剤の投与方法といえます。このような効率的な器具が発明されたということは、医学史上においてもとりわけ重要な出来事だったといえるでしょう。

ところで、大相撲では、「注射」といえば、「八百長」を意味するそうです。これは、「打てばすぐ効く」つまり、「頼めばすぐに勝てる」というところから来たようです。

八百長は、無論相撲だけでなく、他のスポーツ競技などでも、昔からさかんに行われています。

一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負をすることをさし、選手に金品などをあたえ、便宜を図って行われる場合や、選手およびその家族や関係者を脅してわざと敗退を強要するなどその形態はさまざまです。

ちなみに大相撲では八百長が「注射」であるのに対して、真剣勝負は「ガチンコ」というそうです。

それではこの「八百長」という言葉はどこから来ているのでしょう。

これは、明治時代の八百屋の店主で「長兵衛」という人物に由来しています。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」と呼ばれており、大相撲の年寄であった伊勢ノ海五太夫という元相撲取りと囲碁仲間でした。

囲碁の実力は長兵衛が優っていたようですが、相撲部屋へ野菜なども卸していたことから、自分の店の商品を買ってもらうために、時折わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとることが頻繁になっていました。

ところが、ある日のこと、両国にある回向院近くである碁会所が開かれたとき、そのオープニングセレモニーの来賓に長兵衛も招かれました。招待客にはほかにも第20世本因坊の本因坊秀元が招かれており、自然な成り行きから長兵衛はこの秀元と勝負をすることとになります。

いつもは伊勢ノ海親方に負けてばかりいた長兵衛でしたが、もともとはかなりの腕前だったようです。そしてここぞとばかりにその実力をみせようと、この勝負に真剣に望んだところ、本因坊を相手に見事な勝負を見せたそうで、どちらが勝ったのかはよくわかりませんが、結果としてこの勝負はほぼ互角だったようです。

ところがこの真剣勝負のため、伊勢ノ海親方を含む周囲には長兵衛の本当の実力が知れわたるところとなりました。こうして、これ以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを「八百長」と呼ぶようになった、というわけです。

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この「八百長」の「八百」とは、もともと「沢山」と言う意味です。数多くの物を扱うところからきており、このため、たくさんの野菜を扱う青果店も「八百物屋(やおものや)」と呼ばれるようになり、あるいは「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)」などと様々な呼び方で呼ばれるようになりました。

しかし、後には現在のように一様に八百屋(やおや)と呼ばれるようになりました。一説によれば、江戸時代には「青果物」を扱う店ということで「青屋(あおや)」と言う呼び方もあったようで、これが時代が下るにつれてなまり、「やおや」になったともいわれています。

さて、江戸時代の八百屋といえば、「八百屋お七」という物語が思い浮かびます。

井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公となりました。

実在の人物で、生年は不明ですが、寛文8年(1668年)ころに生まれたとされ、天和3年(1683年)に没していますから、この生年が正しいとすれば、15歳の少女期に亡くなったことになります。

天和3年というと、1603年の開幕から60年あまりであり、江戸時代前期のことです。お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるようですが、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされています。

比較的信憑性が高いとされる書物によれば、お七の家は彼女が処刑される前年の天和2年の大火で焼け出され、このためお七は親とともに駒込にあった正仙院というお寺に避難しました。

寺での避難生活のなかで、お七はこの寺の小姓である、生田庄之介という若者と恋仲になります。しかし、やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払いましたたが、お七の庄之介への想いは募るばかりです。

そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。

このとき火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったようです。しかし、江戸の町にはこの当時頻繁に火事が起こっており、いったん火が出ると、木造の平屋の多かった江戸の町は広い範囲が焼け野原になることが常でした。

このため、火を出した大元の家には厳しい処罰が下されることが多く、ましてやこれが付け火となると、死罪はまず免れませんでした。案の定、お七もまた放火の罪で捕縛され、哀れわずか15歳の少女は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑で処刑されました。

現在ならさしずめ、少年刑務所入りして更生を待つというところなのでしょうが、この時代はまだ戦国時代からそう時間が経っているわけではなく、動乱の時代の余韻が残るこのころの刑罰はこうした残酷性を伴うものでした。

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この鈴ヶ森刑場というのは、現在の東京都品川区南大井に存在した刑場です。江戸時代には、江戸の北の入口である日光街道に設置されていた「小塚原刑場」と、西の入口である甲州街道沿いに設置されていた八王子市の「大和田刑場」とともに、江戸3大刑場といわれていました。

現在の南大井も海がすぐ近くですが、江戸初期にはまだ江戸の町のほとんどが芦原の中に浮かんでいるような状態で、ここそこに海水が入っており、この場所もまた海岸線沿いにありました。

この海沿いにあった1本の老松にちなんで、この地はもともと「一本松」と呼ばれていました。ところが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に振ったりすると音がする「鈴石(酸化鉄の一種)」という貴石が安置してあったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになりました。

この場所は東海道のすぐ側でもありました。この東海道の名残でもある第一京浜(国道15号)の傍らにあり、この道路に隣接する大経寺というお寺の境内にその刑場跡が残っています。その跡地は自由に見学できるそうで、当時ほどの広さはないようですが、現在も井戸や、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されているとのことです。

また、この鈴ヶ森は東海道の出発点ともいえる場所近くにありました。西国から来た旅客にとっては江戸の入り口とも言える場所であり、かなり目立つ場所といえ、ここにこうした刑場が建設されたのには理由がありました。

刑場開設当初の江戸初期には、戦国の時代が終りを告げたことから食い詰める武士が増え、このため浪人が増加し、この浪人による犯罪件数も急増していました。江戸幕府としては、急速に悪化する江戸の治安を守るため、とくに浪人たちに警告を与える意味でこうした目立つ場所に刑場を設置したのです。

この鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は、江戸時代に入ってからの最初の本格的な反乱事件といわれる「慶安の変」の首謀者のひとり、「丸橋忠弥」であるとされています。

慶安の変というのは、慶安4年(1651年)に起こった事件で「由比正雪の乱」ともいわれています。主な首謀者は由井正雪と丸橋忠弥のほかの4名ほどでした。由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来るほどの人物でしたが、仕官には応じず、軍学塾である「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていました。

この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれており、これによって関ヶ原の戦いや大坂の陣以来の多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増する結果となり、彼等の再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていました。

こうした浪人たちには自分たちを没落させた「御政道」に対して否定的な考えを持つ者も多く、生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も数多く存在していました。

これが大きな社会不安に繋がっており、正雪はそうした浪人の支持を集めていました。特に幕府への仕官を断ったことが彼らの共感を呼んだようで、こうして張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになりました。

こうした情勢の中、慶安4年(1651年)徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の家綱が継ぎます。そしてこのとき、次期将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆を計画します。

この計画は江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取るというものでした。同時に大坂でも同志を決起させ、その混乱に乗じて天皇を担ぎ出し、将軍を討ち取るための勅命を得る、という作戦でした。

しかし、仲間の密告により、計画は事前に露見し正雪ら首謀者は捕縛されます。正雪自身は江戸を出て大阪へ向かう途中の駿府で駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。これよりのちに丸橋忠弥もまた、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われ、切り殺されました。

しかし、丸橋忠弥の死体はこの後、鈴ヶ森の処刑場にわざわざ運び込まれ、改めて磔刑が実行されました。無論、幕府への反乱は重罪であることを人々に知らしめるセレモニーの意味でしたが、これがこの処刑場で行われた初めての公開処刑であったというわけです。

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この鈴ヶ森ではその後も、平井権八や天一坊、白子屋お熊(白木屋お駒)といったのちに歌舞伎や浄瑠璃で語られるようになる有名な人物がここで処刑されており、先の八百屋お七もその一人です。

平井権八というのは、因幡国鳥取藩士でしたが、数え18歳のときに、父の同僚を斬殺して、江戸へ逃亡。新吉原の遊女と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬りを犯すようになります。結果として130人もの人を殺し、金品を奪ったとされています。

しかし、その後権八は悔い改め、目黒にあったとされる東昌寺という寺に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、その後自首。しかし罪は赦されることなく、享年25歳で鈴ヶ森刑場で処刑されました。処刑方法は磔刑(たっけい)でした。

江戸の侠客、幡随院長兵衛との関係なども噂されたことなどから、その後その生涯が講談や浄瑠璃・歌舞伎で演じられ、近代では映画化もされ、これらの世界では、「白井権八」の名で著名になりました。

また、天一坊というのは、正式には「天一坊改行」といい、この時代の山伏です。紀州和歌山の生まれで、14歳のときに母が死に出家して山伏となり、改行と名乗り、このころから周囲に自分は「徳川吉宗」の御落胤だと言いふらすようになります。

吉宗はこのころはまだ将軍ではありませんでしたが、未来の公方様になるに違いないと嘱望されており、実際、その後紀州藩主から将軍になりました。

天一坊は、死んだ伯父から自分の素性が高いものであると聞かされたといい、将軍家の御落胤であると自分でも心からそう信じ込んでいた風があったといいます。

長じてからも自分は公方様の御落胤であると周囲に語り続け、30歳になる直前のころには、近々大名に取り立てられると信じ込むなど、その妄想はエスカレートしていきます。ところが、やがてこの広言を聞いた江戸市中の浪人たちが彼の言葉を信じて集まるようになり、騒ぎはだんだんと大きくなっていきました。

彼としてもこうした浪人たちに崇めたてられるのを喜び、彼等の来訪を来るにまかせるままだったといいます。

天一坊は集まった浪人たちに、「自分は公方様にお目通りして、お腰物を拝領した。現在上野の宮様におとりなしを頼んでいる」などと語っていたといい、彼等を集めて大名に取り立てられての際には、おのおのに役職を与えることなどまでも約束するようになっていきました。

ところが、これを不審に思った関東郡代が本人の周囲の人間や集まった浪人たちを取り調べたところ、当然のことながらそんな事実があろうはずもなく、まっかな偽りだと発覚。

そして公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられ、やがて死罪を申し渡された天一坊は、鈴ヶ森刑場で処刑され、獄門磔となりました。天一坊のもとに集まっていた浪人たちも遠島や江戸払いとなり、ほかに関係していた名主や地主も罰を受けて死罪になったといいます。

もうひとり、この鈴ヶ森で処刑された、白子屋お熊(白木屋お駒)というのは、日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」という大店の娘でした。亭主は正三郎といい、妻・お常の間にできたのが、このお熊であり、ひとり娘でした。

やがて、長じて両親の勧めにより、大伝馬町の資産家の息子であった出来の良いまじめな若者・又四郎を婿に迎えます。しかし、お熊はこのまじめ一方の又四郎が気に入らず、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて浮気に走ります。

そのお相手は白子屋の番頭・忠八であり、お熊は忠八の母・お常と忠八の三人で共謀し、さらに下女・きくを使って主人の又四郎を殺そうとします。

ところが、これに失敗し、妻の不倫にも気づいた又四郎は奉行所にこの事件を訴えました。

判決の結果、お熊の罪は証明され、彼女は引き回しの上死罪を申し渡されました。共謀者のお常もまた引き回しの上島流しとなり、番頭の忠八は、引き回しの上晒し首、きくも死罪となりました。忠八との不倫をとりもったひさもまた引き回しの上死罪となりました。

しかし、訴えた夫の又四郎だけは、お咎めなしの判決でした。が、世間を騒がせたとして、幕府は白子屋の財産没収を命じ、これによって白子屋は没落してしまいました。

このお熊は、結婚前から日本橋中でも美貌で知られていました。このため、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けたといいます。

このとき、裸馬に乗せられたお熊は観衆の期待に応えるかのように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね着していました。しかも、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿だったといい、引き回されている間中は、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったと伝えらえています。

殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌やこうした処刑時の派手なパフォーマンスなどから、この話はその後江戸中で大きな波紋を呼びました。

このために後世には格好の演劇・芸能の題材とされ、安永4年(1775年)に発表された人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」では、白子屋が「白木屋」に変わり、名前もお熊が、「お駒」になって、「白木屋お駒」として世に知られるようになりました。

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このように、数々の有名人を処刑してきた鈴ヶ森刑場は、1651年(慶安4年)に開設されて以降、1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われています。

上述のとおり、当時は東京湾沿いにあり、刑場近くには海があったことから、水磔による処刑も行われたとの記録も残されています。

以後、明治の初めごろまでにはまだ死刑と言えば斬首であり、この方法で普通に処刑が行われていましたが、その後は絞首刑が主流となり、現在に至っています。

しかし、江戸時代には絞首刑という刑罰は存在しませんでした。江戸時代の死刑は、前述してきたように一種類だけではなく、基本的には6種類ありました。罪人の罪の重さに応じて、死刑方法が選ばれ、これは下手人、磔刑、鋸挽き、火刑、死罪、獄門などです。

例えば、「下手人」、これは斬首の刑です。一瞬のうちに命を絶たれるために、本人には苦痛は少なく、現在からみると野蛮なようですが、この当時はこれでも比較的おだやかな処刑法といえました。

ところが、これが「死罪」となると、斬首のあとの試し斬りが追加されます。これも苦痛は少ないとはいえ、より「見せしめ」の効果がまします。

次いで、厳しい処刑法が「磔刑(たっけい)」であり、これは、町中を引きずりまわされたあと、十字架に体を縛りつけられ、左右から槍で突かれて絶命させられます。当然処刑される本人にとっては激しい苦しみとなり、周囲への見せしめ効果もより高まります。

次いで、もっとも残酷な処刑法として知られるのが「鋸挽(のこびき)」です。この処刑法では、罪人はまず、両肩だけを切りつけられ、血を流しながら鋸とともにさらされます。

その後、罪人は首だけ出して埋められたものを、そこを通る者が、思い思いに罪人の首を置いてある鋸で挽くというもので、これも極めて残忍なものです。最後は磔刑と同じく、町中を引きずりまわされたあと、磔にされ絶命させられました。

鋸引きは主として「主殺し」をした者に科せられたもので、これもかなり重い罪でした。このほか火つけも重罪であり、前述の八百屋お七のようにこの罪では火あぶりにされる「火刑」が普通でした。

最後の「獄門」というのは、打ち首の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにするというものです。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいい、付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されないという、最も厳しい刑でした。が、処刑される本人の苦痛は、磔や火あぶりよりはましといえます。

ただし、これらの死刑は江戸中期以降の世の中が比較的平和になった時代の方法であり、これでもまだ穏やかなほうです。それ以前はさらに残酷な死刑が横行していました。たとえば、五右衛門風呂で有名な「釜入り」は、釜に油を入れて、この中に罪人を入れて下から熱するという残酷なものでした。

ほかにも、それぞれの足を二頭の牛に反対方向へ引かせて体を引き裂く「牛裂」、牛の代わりに車を使う「車裂」、ムシロで体を巻いて水中に投げ込み溺れさせる「簀巻(すまき)」などがありましたが、さすがにこうした中世の野蛮な処刑法は平和な江戸の世では受け入れがたい雰囲気があったのでしょう、やがて廃れていきました。

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現在、日本では死刑といえば絞首刑ですが、日本以外の死刑存置国の間では、このほか、銃殺刑、電気椅子、ガス殺、注射殺(毒殺)などが処刑法として採用されています。しかし、死刑廃止論の声が高まる中、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用される傾向にあり、各国とも文明化と共に死刑を制限する傾向が顕著です。

これらの近代的な処刑方法の中でも、薬殺刑は、比較的穏やかな処刑法の一つといえるでしょう。囚人に致死量の薬物を注射することによって執行される死刑ですが、古代には毒物を服用させて囚人を死に至らしめる刑罰もあったようです。

著名な例としては、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、民衆裁判所による判決でドクニンジンの服毒により薬殺刑(賜死(しし))に処された例があります。また旧朝鮮時代においては「賜薬」と呼ばれる薬殺による賜死がありました。

現在、世界で最も薬殺刑が行われているのは、アメリカ合衆国です。すべての州というわけではなく一部ですが、このほか、中国も1997年以降一部の州で薬殺刑を実施しており、グアテマラやタイでも行われています。

また台湾(中華民国)においては、臓器提供を希望する死刑囚は全身麻酔を施した上で、脳組織を銃撃で破壊し脳死状態に至らしめたうえで臓器を摘出されるといいますが、これも広い意味で薬殺刑の範疇に入るでしょう。

20世紀に入ってから薬殺刑の導入を最初に検討したのはイギリスでしたが、その後イギリスは死刑制度自体を廃止したため導入されていません。アメリカでも薬殺刑が唯一の法定刑とされる州と、選択することが出来る州とにわかれています。

薬殺刑においても、「注射器」が用いられます。といっても、一度に注射でコロリというわけではなく、刑の執行は段階を追って行われます。

まず、この刑に処せられる受刑者は、注射によって静脈にカテーテルを挿入されます。3種類程度の薬物を段階的に注射されることが多いようで、最初の一本で意識を失い、次の注射には筋弛緩剤が入っており、これで呼吸を止められます。そして最後のものは塩化カリウム溶液で、これによって心臓を止められて処刑が完了します。

死に至るまでの過程は心電図でモニターされており、通常7分で処刑が完了するといいます。これらの死刑執行を取り仕切るのは医師であり、大抵は医師同席で実施されます。執行される場も手術室のような部屋で行われるため、このため一見するとその死に際は綺麗であり安楽死にも見えるようなものだといいます。

ただし、医師同伴で実行されますが、カテーテルを挿入後、薬剤を投入するために、実際の注入スイッチを押すのは従来どおり刑務所職員です。この点が病院で行われる安楽死とは違います。

とはいえ、一見穏やかな処刑法であるため、尊厳なる死が迎えられるとして人権に配慮していると主張される反面、死刑反対論者からは、死刑制度を存続させるためにその方法をソフト化し、効率を高めるためだという批判もなされています。

また生命を助命する医師が死刑に参加することについて道徳面からの批判が強いほか、薬殺刑は残酷な刑罰と主張する者もおり裁判の争点ともなっているようです。

事実、稀に失敗することもあるそうで、アメリカでは2006年に処刑に失敗して当時55歳の死刑囚が34分間にわたり苦しんだことがあり、この事例では、内臓疾患のために薬物が効かなかったそうです。

この際は再度処刑されるための別の薬物が注入されて刑が執行されました。このほかにも肥満体のため静脈を医師がなかなか見つけることが出来ず、完了まで2時間以上もかかったという例もあるようです。

こうした事例などから薬殺刑は批判を集めるようになり、アメリカではそれまで薬殺刑を可としていたノースカロライナ州では2007年以降薬殺刑が事実上停止されています。

アメリカ医師会もその後の議論の結果から倫理規定で「医師は死刑執行に関わるべきでない」と決めており、現在でもこうした決定を受け、薬殺刑の可否についての論議が全米を通じて高まっているようです。

日本でも時折こうした死刑のあり方についての論議が出るようですが、死刑を存続するか止めるかという議論が主流をなしていて、死刑の方法に言及してまでの意見はあまり活発ではないようです。

が、時に苦痛を伴う絞首刑よりも、薬物刑のほうがより穏やかだ、とは誰しもが考えることであり、死刑の方法を見直そうと声を上げる団体なども出てきているようです。

ただ、いずれそういうことも議論になっていくことになるのかもしれませんが、現在ではやはり死刑ありきかどうか、またその死刑の執行を最終的に決断する法相の判断基準や時期などが争論の中心であり、死刑執行方法の見直しについてはまだまだ先になりそうな雰囲気です。

私自身は、死刑には反対です。一人の人間の生を別の人間が奪うというのは、生を奪われる人間の尊厳をも奪うことにつながると思います。例え死刑になるような極悪な人間であってもこうした命の尊厳は守られるべきだと思います。

また、こうした罪を犯した人間は生きていること自体が苦痛でもありますが、これは考えようによっては大きな学びの場でもあるはずです。その苦痛を一生味わうことで、自分がなしたことを反省し、その反省が次に魂が生まれ変わるときの教訓、糧となってその魂に刻まれていくはずです。

人は生まれてきた以上、生を持って何かを達成するため、あるいは何かを学ぶためにこの世に存在します。誰しもがその魂を磨くためにこの世に生まれてきますが、あの世ではあまりにもそれを希望する魂の数が多いため、生まれ変わり希望者であふれかえっている、ともいいます。

そうした中で、そのめったにない機会を与えられ、この世に落ちてきたわけですから、言い方を変えればそれは、選ばれし者ということになり、生を受けたということはそれだけでもかなり大きな意味を持っているはずです。

従ってたとえ罪を犯したとしてもそのことにも意味があり、その罪への反省のための時間が与えられる、ということこそがそうした犯罪者がこの世に生まれてきた意味だとすれば、その与えられた大きなチャンスを他人が奪って良い、という論理は成り立たない、私はそう考えています。

みなさんはいかがでしょうか。

さて、今日は注射に始まり、注射に終わりました。最初からこんな重いテーマになる予定ではなかったのですが、ついつい深入りしてしまいました。反省至極です。

明日からは三連休という方も多いでしょう。今年初の連休を取るにあたり、風邪気味という方も多いと思いますが、くれぐれもこじらせて、病院で注射を打ってもらうハメにならないよう、ご注意ください。

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2014年元旦 広瀬神社にて