函館と白系ロシア人

昨日までの低気圧の通過に伴い、静岡県地方では激しい雷雨になりました。しかし一夜明けた今朝は、この雨が汚れた空気をすべて洗い流してくれたためか、すがすがしいものになり、窓から見える富士山もひときわきれいです。降雪もあったようで、低気圧通過前よりもさらに白さが増したような気がします。

さて、これまで何度か、伊豆沖の駿河湾でロシアのプチャーチン提督が乗ったディアナ号が遭難したお話を取り上げてきました。このプチャーチンは、日本で初めて建造された洋式帆船「ヘダ号」に乗って帰国しましたが、その直前に苦労した甲斐もあって幕府と日米修好通商条約を締結することに成功しました。

この結果、この当時「箱館」と呼ばれていた函館が日本初の国際貿易港として開港され、外国人居留地が設置されました。

この開港以来、函館は貿易地として栄えるようになり、函館山の北東部方面に向かって徐々に市街地ができ、周辺の市や町を合併しながらさらに市街域を広げながら人口を増加させていきました。

明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれ、その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあり、こうした経緯から札幌ができるまで箱館は北海道の中心地でもありました。

短い間とはいえ県庁も置かれていたためもあり、今日でも主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関などが一通り所在しており、教育においても旧制中学校や高等女学校、実業学校や師範学校などの明治時代に設立された学校の後身校が今日まで存在しています。

函館の中心市街地は、函館山と陸つながりの「砂州」の上を中心として展開する形で広がっており、この砂州が接続する函館山北東麓斜面(元町・末広町)には、幕末や明治期からの都市景観が数多く残っています。

この地区は明治期より度々大火に見舞われましたが、そのたびに復興事業が行われ、大街路が縦横に通る都市計画が実施されてきました。1879年(明治12年)の復興時には「斜面に建つ家屋はロシア・ウラジオストク港のスタイルにならうように」と条令が定められ、2階の外観のみ洋風で内部と1階は和風である和洋折衷建築が多数建てられました。

このため、坂の下の港から望むと洋風の2階建の建物の外観が目に飛び込むという特徴的な景観が生まれ、日本の港町とは思えないような情緒ある洋風の景観を醸し出しています。

かつての定住ロシア人が建設したロシア領事館やこれに付属するハリストス正教会の聖堂などのロシア建築もこの美しい風景を彩っています。

ロシアと函館の関わりは、1855年の日露和親条約に伴う開港から始まりましたが、その後多くのロシア人がこの地に定住するようになったきっかけは、1917年に起こったロシア革命です。

1917年(大正6年)の10月、レーニンが指導するボルシェビキ(後の共産党)が武装蜂起し、首都ペテログラードを占拠。ケレンスキー内閣を倒し、歴史上初めて社会主義政府を実現しました。

悪名高かったロシア帝国を滅ぼして成立したボリシェヴィキ政府ですが、この革命に入る前、旧ロシア帝国とドイツは戦状態にあり、ドイツはこの革命のどさくさに紛れて旧ロシア領である現在のバルト三国方面に深く攻め入っていました。

このドイツとの交戦の継続は、一日も早く国内を安定させたかった新政権にとっては大きな問題であり、できるだけ早くドイツと講和を結ぶ必要性を感じていました。

このため、1918年、「ブレスト=リトフスク条約」という講和条約をあわててドイツと締結しましたが、この講和条約は新生ロシア連邦共和国にとっては苦渋の選択でした。講和の条件として、旧ロシア領であった現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかったためです。

このようなドイツ軍の横暴を食い止めることができなかったボリシェヴィキ政権に対し、国内では大きな不満が渦巻くことになり、講和条約の締結に刺激され、ロシアの内外のあちこちで反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めました。

こうしていわゆる、「ロシア内戦」が始まり、この内戦は1920年までに終結しましたが、この内戦を避けるために、多くのロシア人が祖国を脱出し、日本へ逃れてきました。

日本に亡命してきた旧ロシア帝国国民の多くはいわゆる「ロシア人」といわれる生粋のロシア人が多数でしたが、このほかにも多くのロシア系の非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人などが含まれていました。

非ロシア人の多くは、母国語であるウクライナ語やポーランド語を常用語としていましたが、日本人と意思疎通を図るためには、それよりは通じやすいロシア語を用いていました。このため、彼らは正確にはロシア人ではありませんでしたが、日本人は彼らのことを「ロシア人」であると解釈していました。

こうして、1918年に日本に来たこれらのロシア人およびロシア系非ロシア人の亡命者の数は、1年間だけでも7251人(当時の日本の外事警察の記録による)となりましたが、この中にロシア人以外の非ロシア人がどの程度含まれていたかは明らかになっていません。

なので、これらのロシア人およびロシア系非ロシア人のことを一般的には「白系ロシア人」という言い方をします。その多くは、その後函館で暮らしたあと、しばらくしてからオーストラリアや米国などに再移住していきましたが、そのまま日本にとどまって永住した人たちも少なくありません。

そして彼らがロシアからもたらした風習は現在に至るまで函館の日本人の生活にも溶け込み、現在に至るまで「函館の文化」としてこの町に根付くようになりました。

ロシア革命後、日本とボルシェビキ政府、その後のソ連はしばらく国交が断絶していましたが、1925年(大正14年)に「日ソ基本条約」が締結されると国交が正常化しました。

このとき、ロシア革命時の亡命者の一人で、ロシア帝国最後の在日代理大使を務めていたアブリニコフという人は、日ソ基本条約締結後も日本に留まり、第二次世界大戦の終結まで白系ロシア人の取りまとめ役として日本政府との交渉に当たりました。

こうしたとりまとめ役の存在により、函館における白系ロシア人の治安はかなりよかったようで、日本人との交流の進む中、積極的に日本人とともに働く人々が増えていきました。

白系ロシア人が携わるようになった職業としては、漁業のほか、貿易、毛皮、不動産業、ジャム製造業、パン、化粧品売りなどなどで、他に喫茶店やカフェ経営もありました。最も有名なのは、「ラシャ売り」と呼ばれた主に紳士服の行商人でしたが、この人達はその後、内地に拠点を決めて年ごとに全国を移動するようになり、必ずしも函館を定住地には定めなかったようです。

こうしてロシア革命で亡命した白系ロシア人は函館一カ所にとどまらず、全国各地に散らばっていきました。その後完全に日本人として暮らし始めた人も多く、知的職業としては、漁業会社の通訳、あるいはロシア語教授もおり、東京などの大都会へ進出し、ピアニストやバレリーナ、画家等になった人も多かったといいます。

創生期のプロ野球で300勝を記録したスタルヒンは、日本名は「須田博」と名乗っていましたが、結局日本国籍の帰化申請が受理されず、生涯無国籍のままで終わりました。

また、ガラス容器入りプリンで人気を博した神戸の老舗洋菓子店「モロゾフ」の創業に深く関与したフョドル・ドミトリエヴィチ・モロゾフとヴァレンティン・フョドロヴィチ・モロゾフの親子もそうしたロシアからの亡命者です。

モロゾフ家の末裔は、これとは別に「コスモポリタン製菓」という会社を設立して、これを直営していましたが、2006年に廃業しています。

このほかにもお菓子屋さんとして、神戸に洋菓子メーカーの「ゴンチャロフ」という会社があります。チョコレート菓子を中心に作っていて、ウイスキーボンボンで有名ですが、この創業者マカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人であり、ロシア革命当時に日本に亡命してきた人のようです。

ヴァイオリニストの小野アンナさん、本名アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワさんは、日本人女性ヴァイオリニストの生みの親と呼ばれた人です。

日本人ヴァイオリニストとして著名な諏訪根自子(すわねじこ)さんや巌本真理(いわもと まり)さん、前橋汀子やさんや潮田益子らを育てた人として有名ですが、この人もロシア革命時に日本にやってきた白系ロシア人です。

ロシア革命当時、ペトログラードに留学していた日本人の小野俊一氏(後のロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年に結婚。翌1918年、革命下のロシアを離れ、東京にやってきました。その後長らく「小野アンナ」名義で日本でヴァイオリン教師として教鞭を執り、戦後は武蔵野音楽大学で前述のような若手ヴァイオリニストを育て上げました。

1958年に、お姉さんのワルワーラとともにソ連に渡り、グルジアのスフミ音楽院にてヴァイオリン科教授に就任した後、1979年にスフミにて永眠。

このほか、指揮者の小澤征爾さんの奥さんで元女優、ファッションデザイナーの入江美紀さん(現小澤ヴェラさん)もお父さんが白系ロシア人で、ご本人も本名はヴェラ・ヴィタリエヴナ・イリーナといいます。

そのほか、松田龍平さんの奥さんの太田莉菜さん、歌手の川村カオリさん、その弟で俳優の川村忠さんなどもお母さんがロシアの方だそうで、元歌手で俳優の東山紀之さんも、父方の祖父がロシア人の血を引いているそうです。

最近テレビをつけるとたいてい何等かの番組に出ているローラさんも、お母さんが日本人とロシアのクォーターだそうで、こうしてみるとロシア人系の方というのは芸能・音楽関係でとくに目立ちます。ロシア人の血というのは、そうした職業に向いているのかもしれません。

しかし、白系ロシア人の亡命者やその子孫の人数は、戦後の混乱期の影響により、資料や統計が不足しているうえに、すでに日本国籍を保持し、見た目は日本人とほとんど変わらなくなっているため、いったいどれくらいの「ロシア系」の人が日本にいるのか、正確な数字はわかりません。

ロシア人以外の在日韓国人や中国人、米国人やその他のアジア人の混血などに比べても、その存在はほとんど目立たなくなっており、むしろもう日本人と同化しているといっても良いのかもしれません。

ただ、日本で活躍した白系ロシア人の亡命者達の中には、「ハリストス正教会」の信者であった人も少なくなく、その多くの子孫は現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命ロシア人系のコミュニティを形成しているようです。

このハリストス正教会ですが、1859年にロシア領事のゴシケヴィッチが、函館の領事館内に聖堂を建てたのがそもそも日本での発祥になります。

この最初のハリストス正教会の初代司祭は、教会ができたあとすぐに帰国しましたが、1861年に来日した修道司祭の「亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)」によって日本人3人が洗礼を受け、これが現在の「日本正教会」の原型となったそうです。

函館ハリストス正教会は日本正教会の最初の聖堂を持つ教会であり、日本における正教会伝道の始まりの場所でもあります。日本の正教会の拠点はその後、ニコライによって函館から東京の神田に移され、以後当地に建設されたニコライ堂(東京復活大聖堂教会)を中心に宣教を拡大させていきました。

しかし、日本正教会は、明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。

まず日露戦争によって、日本とロシアの関係が悪化し、正教会が白眼視されたことがあげられます。さらには突然、ロシア革命という決定的打撃を被り、日本正教会は、物理的にも精神的にも孤立無援の状態となりました。

しかも引き続いて起こった関東大震災により、東京のニコライ堂が崩壊します。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、火災が起き、聖堂内部のものをすべて焼き尽くし、貴重な文献や多くの書籍なども焼失してしまいました。

その後日本全土の信徒の募金によって昭和4年に東京復活大聖堂は復興しましたが、日本の中では正教会だけでなくすべての宗教にとって政治的な統制を受ける困難な時代を迎えました。世界大戦の混乱の中、司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいました。

しかし、戦後、日本正教会は、アメリカ正教会から主教を迎えました。アメリカ正教会もロシアから伝道された正教会で、日本の正教会とは姉妹関係にあります。そしてアメリカ正教会がロシア正教会から完全独立するのに伴い、昭和45年に日本正教会も自治教会となりました。

自治教会とは、完全には独立しないものの、経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行うという形です。こうして日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励むようになり、各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されました。

この中でも函館のハリストス正教会は日本正教会でも最も長い伝統を誇る教会としてその活動を今も存続し続けています。

2010年現在、日本ハリストス正教会の信者は1万人ほどもいるといいます。ほとんどの信者は日本国籍を持つ日本人ですが、前述のように亡命ロシア人系のコミュニティもこの中に存在し続けているようです。

聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)と、函館ハリストス正教会(復活聖堂)、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財にもなっており、
その他のハリストス正教会でも、いまやほとんど見ることのできなくなった貴重な明治・大正の建築をみることができます。

現在、日本には15のハリストス正教会の聖堂があり、その多くは明治時代や大正時代に建築された貴重なものであり、各地の観光にも役立っています。以下に、そのリストを示しましたが、あなたの町にもハリストス正教会聖堂があるのではないでしょうか。

・日京都ハリストス正教会
・生神女福音聖堂
・札幌ハリストス正教会 (主の顕栄聖堂)
・斜里ハリストス正教会(生神女福音会堂)
・函館ハリストス正教会(復活聖堂)安政5年(1858年)築。現聖堂は大正5年改悛。
・旧石巻ハリストス正教会教会堂(聖使徒イオアン聖堂)明治13年(1880年築)木造教会堂建築としては国内最古。
・仙台ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治2年(1869年)開教。
・東京復活大聖堂(ニコライ堂)竣工1891年、再建1929年。
・豊橋ハリストス正教会(聖使徒福音記者マトフェイ聖堂)大正4年築。
・半田ハリストス正教会(聖イオアン・ダマスキン聖堂)大正2年築。
・京都ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治34年(1901年)築。1891年竣工のニコライ堂と並んで最古級。
・大阪ハリストス正教会(生神女庇護聖堂)昭和37年再建。鐘楼は明治43年のもの
・神戸ハリストス正教会(生神女就寝聖堂)昭和27年建立。
・徳島ハリストス正教会(聖神降臨聖堂)昭和55年建立。
・鹿児島ハリストス正教会(聖使徒イアコフ聖堂)昭和32年再建。

近年、日本のキリスト教諸教団が「靖国問題」や「憲法問題」などの政治運動に熱心に取り組んでいるなか、日本ハリストス正教会は他の諸教団とは一線を画して、正教会という団体としては政治運動と一切関わりを持っていないそうです。

これについては「政治的中立性を保っている」という評価から、「体制従属的である」という批判までさまざまでありますが、「体制従属的である」という批判の声があがる原因のひとつは、ハリストス正教会が捧げる祈りの中に、「天皇と為政者のための祈り」というものがあるためです。

諸外国の正教会では君主や為政者への祈りを捧げることは珍しくなく、イギリスの正教会では女王のために祈りを捧げ、また米国でもアメリカ正教会が大統領と全軍のために祈りを捧げています。

こうした祈りは、君主や為政者、国軍が暴走をせず国民の平和と安寧秩序のためになるようにとの願いを常に込めているとされ、日本ハリストス正教会による天皇と為政者への祈りもまた同じ意義を持っているそうです。

ハリストス正教会では、ローマ帝国時代からオスマン帝国、ソビエト連邦において迫害を受けていた時期にも、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイによる福音書による)」を実践し、異教徒である為政者のための祈りを正教会は行ってきており、一貫して「敵のための祈り」を実践してきたといいます。

「その国の象徴・元首のために祈る」のは「体制迎合」では説明できない何か広い心のようなものを感じることができ、「汝の敵を愛せ」と言ったキリストの言葉を今も忠実に実践しているこの正教会の姿勢には好感が持てます。

日本の政治家も「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とまではいいませんが、せめて敵対する相手に対して礼節を持って対峙し、理解できる点を共有しともに育てていこうという姿勢が欲しいものです。

敵をも愛せるという思想がどこかにあれば、今のような国民そっちのけの誹謗中傷合戦は少しは治まるのではないかと思います。

アメリカの大統領選も終わったようです。オバマさんにせよ、ロムニーさんにせよ、アメリカの政治家たちは果たして汝の敵を愛せるような人たちなのでしょうか。