今、鳥取では、「第13回国際マンガサミット鳥取大会」という催しが行われているそうです。
「アジアMANGAサミット運営本部」という団体と県や米子市が主催しているもので、今月の7日から5日間の予定で、米子コンベンションセンターで開催されています。
このサミットは、日本、中国、韓国、台湾、香港の五か国が持ち回りで開催しており、国内では2008年の京都市に次いで4回目だとか。次回の開催は香港だそうです。
鳥取県では約3万人の人出を見込んでいるそうで、かなりの規模の催しです。今回のサミットのテーマは「食と海」で、開催五か国にマカオを加えた六か国から計177人の漫画家の参加も予定されています。
尖閣諸島の問題とか取りざたされているなか、大丈夫なのかなと思いましたが、案の定、中国は8月末段階の参加予定者31人を8人にまで減らしたそうです。せめて文化的な集いぐらい国を超えて協調すればいいのにと、ついつい思ってしまいます。
さて、今日はこの「漫画」について話題にしていきたいと思います。
文化庁所管の公益法人、「出版科学研究所」の発表によると、日本国内で2006年の段階で出版された漫画の単行本は10965点、漫画雑誌は305点だそうで、このほかにも廉価版の雑誌1450点が出版されています。
漫画と漫画雑誌の販売部数は、2006年に販売された出版物全体の36.7%に及ぶそうで、出版不況と言われる中において、出版業界における漫画による収益は大きな比重を占めています。
漫画というと、どうしても外来語である「アニメーション(アニメ)」と十把一からげにまとめられがちですが、アニメーションという言葉が1970年代後半から一般化し始めるまでは、テレビアニメ、アニメ映画などのアニメーション作品及び児童向けドラマなどはすべて、「漫画」「まんが」「マンガ」と呼ばれていました。
私も子供のころ「東映まんがまつり」などを映画館に見に行き、テレビでも「まんが日本昔ばなし」などが放映されていて、「アニメ」というよりも「マンガ」と呼んでいました。たしか、「テレビマンガ」という表現もされていたと思います。
最近の子供さんはみんな「アニメ」と呼ぶようなので、テレビのアニメを見て、「マンガ」などとついつい言ってしまう方、年齢がバレてしまいますので注意しましょう。
語源と歴史
さて、この「漫画」という言葉の意味ですが、字を見て素直に解釈すると「気の向くままに漫然と描いた画」という意味のようです。
「漫画」という用語がどのような経緯で使われるようになったのかはよくわかっていないようです。
が、中国から伝わった漢語では「気の向くままに文章を書く」、すなわち「随筆」を意味することばを「漫筆」といい、これが日本に伝来されて「漫筆画」という文字だけでなく絵を描く意味も含ませた語に派生し、これが変じて「漫画」になったのではないかという説があります。
また、中国語名で「漫画(マンカク)」というヘンな名前のヘラサギの一種がいるそうで、このヘラサギは雑食で水をくちばしでかき回して何でも乱雑に食べるようです。
このことから「種々の事物を漁る」という意味を表す言葉をマンカクというようになり、やがてマンカクとは「雑文」や「様々な事柄を扱う本」を指す意味に変じていき、これにも絵が加わって、絵や文字を綴ったものを「漫画」と呼ぶようになったという説もあるようです。
いずれにしても、もともとは文章を書いたものを指す用語だったものが、これに絵を加えたものも指すようになったと考えられているようです。
日本で初めて「漫画」という用語が使われたのは、江戸時代後期の1798年(寛政10年)に発行された「四時交加」という絵本で、この本の序文で浮世絵師の「山東京伝」という人が「気の向くままに(絵を)描く」という意味の言葉として、「漫画」を使ったのが一番最初といわれています。
しかし、漫画の発祥といえば、かの有名な平安時代の絵巻物「鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)」が日本最古のものであるとよくいわれます。
この時代にはまだ無論、「漫画」という言葉はまだ定着しておらず、また描かれたものも単に「滑稽な絵」という程度の単純なものでした。
このほかにも南北朝時代の作といわれる「福富草子」という御伽本では、主人公が「屁芸」で成功する話の中に、直接台詞が人物の横に書かれたものがあります。これは現代でいう「フキダシ」に近いものであり、このころの絵巻物には既に漫画的な表現が使われていたことがわかります。
また、平安時代末期の絵巻物で国宝に指定されている「信貴山縁起絵巻」でも一枚絵を連続させて次々場面転換をする技法が使われており、こうした絵巻物の文化自体が既に「現代の漫画」に似た要素を含んでいるという指摘もあるようです。
こうした物語風の絵を直接指し示して「漫画」というようになったのは、幕末に近い1814年(文化11年)に出版された葛飾北斎の画集、「北斎漫画」がはじめてです。北斎55歳のときの作で、その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行され、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれました。
この画集は国内で好評を博しただけでなく、1830年代にヨーロッパに渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えたというのは有名な話です。
北斎漫画のヒットにより、「漫画」は戯画風のスケッチを指す意味の言葉として広まっていきました。「北斎漫画」は絵手本、つまり「スケッチ画集」でしたが、戯画や風刺画も載っており、単に画集という枠を超えて、「戯画的な絵」「絵による随筆」という意味合いも強いものでした。
北斎漫画は、明治以後の、大正、昭和そして第二次世界大戦後も版行されるロングセラーとなり、幅広い層に愛読されるほどの名作でした。
これに先立つ江戸時代には、早くもこの影響を受け、日本画の絵師の尾形光琳までもが「光琳漫画」と称し、いくつもの戯画風の絵を載せた書籍を出版するなど、「○○漫画」というスタイルの本の出版は一種のブームになっていたと考えられます。
幕末から明治前期にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も「芳年漫画」を出版(1885年(明治18年))するなど、その後も「○○漫画」は多数世に出ていきました。
しかし、まだこのころの漫画はどちらかといえば浮世絵、または絵手本の域を出ず、「漫筆画」の形態に近いものであり、これが「漫画」という独立した分野の描法として確立するのはさらにそのあとになります。
まず、それまでは「ポンチ」や「鳥羽絵」、「狂画」、「戯画」などと呼ばれていたものを、現代と同じような意味で「漫画」と呼び始めたのが、明治時代の「錦絵師」、「今泉一瓢(いまいずみ いっぴょう)」です。
一瓢は1895年(明治28年)、風刺画を中心とする「一瓢漫画集初編」を出版し、”caricature”または”cartoon”の訳語として、始めて「漫画」という用語を入れて本を出版しました。
ただ、”cartoon”と”comic”という英語を初めて「漫画」ということばに訳したのは、明治から昭和にかけて活躍し、「日本の近代漫画の祖」といわれる北澤楽天です。
北澤楽天は「時事漫画や「東京パック」という雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画を執筆し、更に「漫画好楽会」という漫画同好会も結成して後進の漫画家の育成に努めました。「日本で最初の職業漫画家」ともいわれています。
その後、大正、昭和、戦後にかけての間、数多くの職業漫画家が出るようになり、最も有名なところでは、麻生豊が「ノンキナトウサン」を描き、田川水泡が「のらくろ」を、そして手塚治虫の名作の数々へとつながっていきます。そして、現在のように世界に漫画を輸出し「漫画大国」とまで言われるまでの日本の漫画界が築かれていきました。
近年の動向
手塚治以降の日本漫画の潮流については、それだけで膨大な量の記述が必要になるので、かなり端折らせていただきます。
日本の漫画は1960年代に、少年誌である「少年サンデー」や「少年マガジン」、少女誌である「少女フレンド」「マーガレット」、あるいは「ガロ」といった雑誌の流行により、瞬く間に日本国中に浸透していきました。
1980年代後半には、「週間少年ジャンプ」の発行数が400万部を超えるなどさらに隆盛を極め、さらにこうした少年誌だけでなく、青年漫画雑誌やレディスコミック誌も投入されて幅広い世代で漫画が読まれるようになりました。
そして、1995年に日本の漫画の売り上げはピークに達しました。時代の変化に合わせて取り扱われる漫画のジャンルも拡大し、発刊される雑誌も大幅に増え、情報雑誌と複合した漫画雑誌も生まれました。
読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊され、一方で性別・年齢の区分が半ばボーダレス化し、幅広い年代の男女に受け入れられるような雑誌が増え続けました。
ところが、1990年代後半のころからその売れ行きに陰りが出はじめ、新たな漫画雑誌の創刊が多くなされてきている一方、休刊になってしまう漫画雑誌も増えてきました。低年齢層の漫画離れが進み、少子化の影響もあってか、とくに少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込むようになりました。
その中には、古くから続いたものも多く含まれており、2000年代に入った最近も漫画雑誌の売上は減少を続け、漫画単行本の売上もピークのころに比べて10%ほども減少しているようです。
出版不況といわれ、漫画に限らず書籍全体の販売も落ち込んでいる中、1995年には漫画雑誌の販売金額が3357億円、単行本の販売金額が2507億円もあったものが、2005年には漫画雑誌の販売金額が単行本の金額を下回り、2009年には1913億円までに落ち込んでいます。
しかし漫画雑誌の売上が低下する一方で、単行本にはアニメ化などのメディアミックス(商品を広告CMする際に異種のメディアを組み合わせること)によってされた作品を中心にヒット作が生まれるほか、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになり、ゲームやライトノベルとの関連も強くなるなど、漫画を巡る環境は従来とはまるで違う方向に変化しつつあります。
漫画の輸出
こうした中、日本の「文化」として発達した漫画は、海外へ「輸出」されるようになり、出版業界の中でもとくに重要な分野として注目されるようになってきています。
「漫画」という用語は、既に大正時代に中国に輸出されて「中国語」になっており、また英語の“manga”のスペルはヨーロッパ語圏でも普通に通じる日本語の一つになり、”manga”とは、「日本の漫画」を指し示す代名詞として使われているほどです。
“manga”だけでなく、“tankōbon”(単行本)も英語圏でそのまま通用するといい、米国の「アメリカン・コミックス」や、フランス語圏の「バンド・デシネ」といった各国独自に発達した漫画と比べて、日本の漫画は、モノクロ表現や独特のディフォルメ、ストーリー性などが高く評価されています。
とくに、大友克洋さんのアニメ「AKIRA」が海外でも高く評価され、オリジナル作品はアニメにもかかわらず、漫画本として出版されることが決まり、他の国際版漫画と同様に、アメリカン・コミック形式の構成や彩色が行われて出版された結果、大ヒットとなりました。
これがきっかけとなり、他の日本アニメを漫画化して出版することが頻繁に行われるようになり、ヨーロッパを中心として日本漫画の一大ブームがおきました。
しかし近年出版される日本の漫画は、アニメ作品の流用ではなく、むしろオリジナルの日本漫画がそのまま出版されるようになり、その特徴を前面に押し出すために、「ヨーロッパ仕様」とはせず、日本で出版される「原書」に近い形で出版されることも多くなったといいます。
フランスにおけるブーム
現在、世界において、日本漫画の「消費量」で最も多いのは、日本を除けばフランスであり、アメリカがこれに続き、両国とも日本漫画の「消費大国」となっています。
1978年以前に、フランス語圏では現代的な意味での日本漫画の紹介はほとんど行なわれていませんでしたが、1990年代に入り、前述の大友克洋さんのアニメ映画「AKIRA」が大ヒットしたことから、まず最初に白黒版で書籍版が出版されました。
この本はアニメ映画版とは異質な部分もありましたが、漫画としての革新性がフランス国内で注目を集め、同年の末にはフルカラー版が刊行され、これがまた大ヒットを記録します。
その後も、北条司さんの「シティーハンター」がヒットするなど、1991年には豪華な誌面の「Animeland」などの日本漫画が掲載された雑誌が創刊され、次第にフランス語圏の日本漫画雑誌の代表へと成長してゆくようになります。
1996年には、Animeland 誌では日本アニメ・日本漫画特集号が組まれ、その後他の出版社でも日本の人気漫画が相次いで翻訳されていき、日本漫画の単行本の発行数は、1998年には、151冊、1999年200冊、2000年227冊、2001年269冊とうなぎ上りに増えていいきました。
2007年現在、フランス国内における新刊の漫画のうち、日本漫画のシェアは42%にも達しています。もっともこれはバンド・デシネのシリーズが年に一冊程度なのに対して、日本漫画は数冊のペースで出るためでもあります。しかし、それだけ頻繁に出しても売れるということの裏返しでもあり、日本漫画の人気ぶりがうかがわれます。
日本漫画がフランスで人気な理由は、その内容もさることながら、出版社が予め作品の人気を日本市場で確認でき、西欧の漫画作品よりも安い価格で入手できることなどがあげられます。また、着実な刊行ペースであることなどが固定読者の獲得を促したと考えられています。
フランスの出版社はこぞって日本漫画に特化したシリーズものを出版しており、フランスのテイストに配慮しつつ“manga”の普及を図るようになりました。そして2006年初頭には年間の発行部数が1110万部に達し、前述のとおりフランスは日本に次ぐ世界第二の日本漫画「消費国」となりました。
日本漫画は漫画類全体の流通総額でも25%を占めるようになり、出版界で最も動きの激しい部門の中で筆頭の伸び率を記録しているといいます。
今後の動向と輸出
一方、日本の漫画業界を振り返ってみると、国内の漫画の売り上げは1995年にピークに達したあとは、ずっと下り傾向です。低年齢層の漫画離れが進み、1990年代後半以降は少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込み、青年漫画が最も大きな市場となりましたが、その青年漫画においても、休刊、廃刊になる漫画雑誌が後を絶ちません。
しかし、その一方では、時代の変化に合わせて漫画のジャンルも拡大し、読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊されるようになりました。メディアミックスとの関係性も強くなり、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになりました。
かつては「読み捨てられるもの」であった漫画も文化と見なされるようになり、絶版となった作品の復刻や、漫画の単行本の図書館への収蔵が盛んに行われるようになり、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」に代表されるように、その昔一世風靡した漫画家たちが再び着目されるようになってきています。
出版業界の外に目を向けると、同人誌やアンソロジー、ウェブコミック(ウェブ漫画、インターネット上で公開する漫画)の文化も発展し、書き手の幅も広がっています。
同人誌ではいわゆる「二次創作(漫画作家による原作を一般人が真似て創作)」も広く受け入れられ、インターネット上でネタにされたことにより有名になった漫画も出てくるなど、漫画文化の多様化が著しくなってきています。
同人誌(どうじんし)とは、同人、つまり「同好の士」が、資金を出し作成する同人雑誌の略語で、非営利色の強い物も多く、商業誌としても少部数のものがほとんどです。
漫画・アニメ・ゲームなどの二次創作市場の拡大により、「同人誌」=「漫画・アニメ・ゲームの二次創作同人誌」というイメージが広がり、また、いわゆる「成人向け」の内容で流通するものも多いことから、「卑猥なものしかない」といったネガティブなイメージももたれています。
かつて新人のデビューの場といえば漫画雑誌でしたが、現在では同人誌即売会やインターネットが新人の発掘場所になっており、商業誌に作品を発表しながら、同人活動を続ける作家も多いといいます。
昔からアジア圏では、日本漫画を無許可の海賊版で出版されることが多かったようですが、近年はアニメブームとの相乗効果もあり、全世界規模で日本漫画を翻訳し、「正規版」としての出版が急速に伸びて来たといいます。
かつて欧米では翻訳して出版する際、漫画を左右反転させて左開きにして出すのが一般的だったものが、近年では作品を尊重して、日本と同じ右開きのまま出されるケースも増えてきているそうです。
2000年代からは各国で「少年ジャンプ」などの漫画雑誌が、現地向けに編集・翻訳されて多角的に出版されるなど、これまで見られなかったような日本漫画のグローバル化が進んできています。
前述のフランスにおける出版各社は、日本の昔の作品の発掘や、愛蔵版の編纂も進めているといいます。
中沢啓治が自身の原爆の被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」の復刊や、劇画創始者の一人である辰巳ヨシヒロの作品、「ガロ」を舞台に活躍した寡作な作家として知られる、つげ義春の「無能の人」など、最近では日本人さえ目にしないような内容の漫画ですらフランスでは刊行されるようになっています。
2006年には「水木しげる」の作品も出版され、その翌年には水木さんの「のんのんばあとオレ」がヨーロッパ最大の漫画イベントである「アングレーム国際漫画祭」の最優秀作品賞を受賞し、フランス市場における日本漫画の浸透ぶりを象徴する出来事となりました。
さらに、最近は日本の若く活発な世代による作品が売上を伸ばしており、どちらかといえば、大人向けの作家性豊かな日本の漫画も人気を博しているということで、こうしたフランスという「日本漫画消費大国」の動向は、そのまま他の日本漫画消費国に飛び火していくものと考えられています。
長い不況にあえぐ日本ですが、いまや重要な輸出品目になりつつある日本漫画は外貨獲得の上で重要な産業になっていくことは間違いありません。「たかが漫画」と思わず、このほかにも日本独自の文化を探し出し、その質を世界に問いかけていく、という道もまた今後の日本が歩む道のひとつの方向性かもしれません。