反射炉のこと

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韮山反射炉の世界遺産への登録が決まりそうです。

お隣の伊豆の国市の産業遺産ということになりますが、とりあえずは「伊豆国」住民としてお喜びを申し上げたいと思います。

この反射炉ですが、再三の報道で皆さんご存知でしょうが、金属融解炉の一種です。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われました。が、20世紀以降も、鉄以外の金属の精錬には一部の特殊な分野で使われています。銅製錬、再生アルミニウムなどがそれです。

が、鉄鋼の精錬では転炉など他の方式に取って代わられ使われることはなくなりました。熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴です。燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させます。

そしてその炉を形成するためには大量のレンガが使用されます。また、排煙設備も必要となり、そのための煙突にもレンガが使用されたため、炉床や燃焼室と合わせてああいう特殊な形状の構造物が形成されるわけです。

幕末に、このような反射炉がバタバタ作られたきっかけは、欧米各国の船舶の、和親通商を求めての頻繁なる来航です。このため、日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになりました。

薪や水の提供を求める彼等は強引に上陸することもあり、住民とのトラブルも急増しました。鎖国政策をとっていた幕府は、沿岸防備の重要性を痛感し、朝令として「お寺の梵鐘を毀して銃砲を作れ」という命令を各藩に下します。こうして、各藩は、鐘を鋳つぶして青銅砲の製作にかかりました。

しかし、産銅の減少や、数量、費用的な面からすぐに鋳鉄製とする必要に迫られるようになります。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされましたが、そのためには鉄製が最適でもありました。しかし従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、そこで、外国式の溶解炉に活路を求めました。

各藩ではいろいろこの溶解炉について研究を始めます。そしてその結果、オランダの技術書により反射炉というものがあることを知ります。しかし、外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、佐賀藩の鍋島直正、伊豆韮山代官の江川英龍、などは、オランダの技術書を翻訳し、「鉄熕鋳鑑図」として、これを参考に自前で反射炉を作り始めました。

この書物はその後他藩にももたらされ、さらに他の藩でも反射炉の製造を始めましたが、その製作年代順としては、最初が佐賀藩、薩摩藩、ついで伊豆となります。さらに技術水準は低かったものの、これに追従したのが、水戸藩、鳥取藩、萩藩(長州藩)などでした。

これらの各藩は、当初すべて幕藩体制に取り込まれていました。順番にみていくと、このうち、佐賀藩は別名、肥前藩ともいわれ、薩摩、長州、土佐ともに維新に貢献した藩です。明治以後の藩閥、薩長土肥の一角を占める藩であり、藩主の鍋島直正の主導で、反射炉を完成させました。そして、最も先進的な技術を持っていた藩です。

薩摩の反射炉。これは、英明な藩主として高名な島津斉彬公の英断により作られたものです。しかし、試行錯誤の途中で斉彬が死去したため完成しませんでした。その後、薩英戦争で灰燼に帰したため、遺構としては鹿児島市の仙巌園内に反射炉の土台のみが残ります。

伊豆国は幕府直轄領です。直轄の代官所、韮山代官所のエリート官僚であった韮山代官の江川太郎左衛門の主導で佐賀藩の助けも得ながら、反射炉を完成させることができました。その詳細は、とりあえず置いておくとしましょう。

水戸藩。これも徳川将軍を出す家柄であったので、佐幕派です。しかし、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱などが相次ぎ、藩論統一と財政難を克服することができず、結局、反射炉を完成できませんでした。なお、茨城県ひたちなか市那珂湊には1937年に復元されたものがありますが、これは本物ではありません。

鳥取藩は、幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとっていました。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになりますが、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊「山国隊」などを率いて転戦しました。

資金難で喘いでいた鳥取藩での反射炉の建造は、同藩で廻船業を営む「武信家」に委ねられ、ここに養子に入った武信潤太郎という町民ながら砲術家であった人物の主導で製作され、なんとか完成に至っています。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また、戊辰戦争などでも使用されましたが、残念ながら反射炉の遺構は残っていません。

萩藩。これは、長州藩の別名です。藩庁は長く萩城に置かれていたためにこう呼ばれていましたが、幕末には山口の山口政事堂に移ったために、周防山口藩とも呼ばれます。

反射炉に関しては最もその開発が遅れました。のちに討幕派となった佐賀藩などに技術者を送って技術を学ばせましたが、結局反射炉の製作は試験段階で終わりました。というか途中で開発をあきらめました。幕府に立ち向かうためにいちいち反射炉など作っている暇はない、というのが理由で、戊辰戦争ではもっぱら輸入した大砲でこれを戦いました。

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以上が、日本で開発された反射炉の概要です。このうち、ほぼ原形をとどめているのが伊豆の韮山反射炉と、不完全ながらかろうじて残っているのが萩反射炉です。

韮山反射炉の建設計画は、1853年(嘉永6年)に持ち上がりました。この年の黒船来航を受けてのことであり、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。同年、伊豆下田にて築造開始。ところが翌年、下田に再入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入し、その存在が露見しかけたため、築造場所が韮山に変更された、という経緯を持ちます。

製造を主導した韮山代官江川英龍は、1840年(天保11年)に勃発したアヘン戦争に危機感を覚えました。そして幕府に提言する海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設をあげ、その築造許可を得ました。

しかし、その完成には四苦八苦し、結局、江川英龍はその生前にはこれを完成させることができませんでした。1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)にようやくこれを完成させています。

製作開始から3年後の1857年(安政4年)のことであり、しかし築造途中だったこの炉の完成のためには、佐賀藩の技師田代孫三郎・杉谷雍助以下11名を招き、技術協力を得ています。以後、1864年(元治元年)に至るまで、ここでほぼ7年間操業され、大砲数百門を鋳造してその役目を終えました。

ただ、実際には、製造された大半が青銅鋳砲で、鋳鉄砲は、ほとんど作られなかったといいます。それでも大小数百の砲は、江戸湾防備のために品川台場に設置されました。しかし、1863年に続けた起った薩英戦争、下関戦争などでは、こうした国産大砲はイギリスなど外国船の大砲に比べて全く使えないことがわかりました。

もうひとつ遺構が現存する萩の反射炉。しかしこれは遺構として残っているのはほとんど煙突部だけです。しかも実用炉ではなく試験炉とされます。萩市の東側、椿東(ちんとう)というところにその遺構がありますが、これは松下村塾からもほど近い場所です。

江川太郎左衛門と同様、長州藩もアヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じていました。このため、西洋式の鉄製大砲を鋳造するために必要な金属溶解炉として反射炉の導入を計画し、藩士の山田宇右衛門にこれを命じました。

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山田宇右衛門という人は、山田氏の養子になって家督を継いた人で禄高100石ほどの家柄の武士でした。大組という比較的身分の高い家柄で、これは、別の藩では馬廻組と呼ばれるほどの役職です。長州内の各地の代官などを歴任していましたが、のちに尊王攘夷運動にも参加しています。ただし藩政においては当初、中立派に属していました。

ところが、元治元年(1864年)の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって討幕派が藩政を握りました。ちなみにこの前年とこの年には2度に渡って長州は、下関において欧米の艦隊と砲火を交えており、激動期の真っただ中にありました。

山田はこのとき参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力しました。残念ながら維新前に病没しましたが、山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でした。あまり知られていませんが、歴史の陰に隠れた維新の立役者のひとりです。

史実によれば、この山田宇右衛門らは、藩命により1855年(安政2年)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に指導を仰ぐために同藩に赴き、教えを乞いました。しかし、その交渉の段階で技術供与を受けることに失敗しています。

このとき、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否したようです。おそらくは福岡藩を挟んでほぼ隣国といえるような位置関係にある長州藩に最新の技術を渡すことに脅威を覚えたのでしょう。そこで長州藩は、翌8月、今度は小沢忠右衛門という人物を再度佐賀藩に派遣しました。

小沢は武士ではなく、大工の棟梁でした。山田に代わって小沢のような職人を派遣したのは、佐賀藩の警戒心を解くためだったでしょう。さらに長州藩は、自力で開発した、「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」という器械の模型を山田に持参させており、これは、その上に大砲を載せる装置で、「回転式砲台」の原型です。

現在では特段珍しいものではありませんが、砲台を回転させる部分などに秘訣があったのでしょう。これをみて喜んだ佐賀藩は、小沢に反射炉の見学を許可します。小沢はそのスケッチを作成して持ち帰ることに成功し、こうして長州でも反射炉の製作が始まりました。

長州藩における反射炉の製作では、村岡伊右衛門という人物が、御用掛に命じられました。こちらも藩の重臣だったようですが、「雛形は経費をかけずに造ったが、正式な建設には莫大な経費が必要で、当分中止しては」といった伺いを藩主に立て、認められています。

このため、実際に完成した反射炉を使って鉄製大砲の鋳造がされた、という事実はなく、雛型による本操業も行われず、試験炉に終わったのではないかとされています。

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それにしても、そもそも、韮山の反射炉も萩の反射炉も、世界的にみれば、このころにはもう時代遅れの技術でした。これらが作られた同時期には、ヨーロッパではさらに生産性の高い「転炉 (convertor) 」が出現しており、反射炉のように一度に少量しか鋼鉄が製造できない融解炉はほとんど使われなくなっていました。

このため、欧州にも反射炉の遺構は現存しますが、日本のもののように重要視はされてはいません。今回韮山と萩の反射炉が評価されたのは、あくまで幕末から明治にかけての勃興期における日本全体の工業力が「歴史的に」評価されたためであり、反射炉そのものの機能が評価されたわけではありません。

だとしても、この当時の日本では、せいぜい数百メートルしか砲弾が飛ばせない青銅製の大砲を作る技術しかなかったため、より飛距離を伸ばせる鉄製の大砲を作ることのできる融解炉を持つということは夢のような話でした。

そしてその最先端の技術を、西洋のものと比肩できるほどの実用化技術として高めていたのは唯一佐賀藩だけでした。伊豆の江川太郎左衛門も、長州の山田宇右衛門も反射炉の製造にあたっては佐賀藩の指導を仰いだ上で、これを完成させており、この当時の佐賀藩の技術がいかに高かったかがわかります。

佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩です。肥前藩ともいいますが、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩という俗称もあります。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたります。
幕末における藩主は、鍋島直正といいました。号は閑叟(かんそう)といい、この名のほうが有名かもしれません。佐賀の七賢人の一人ともいわれ、英明な人物だったようです。

他の6人は、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信であり、佐賀の乱をおこして討伐された島と江藤を除けば、全員が維新後に大きな業績を残しています。

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鍋島直正は、「精錬方」という科学技術の研究機関を創設しました。ここでは、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発が行われ、そのほとんどが実用化に成功し、これによって佐賀藩は幕末期における最も近代化された藩の一つとなりました。

反射炉に関しては、鍋島直正はまずオランダのヒュギューニン著「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」という技術書の翻訳を命じました。また、理論や仕組みについては、幕府直轄の理科学研究所的な役割を果たしていた、伊豆の江川塾、これは上述の江川太郎左衛門が創設した学校ですが、ここの協力も得て研究を進めました。

また、「大銃製造方」という役所を城下に置き、ここに藩内外からの俊英を集め、研究させることによって日本最初の洋式反射炉を1851年に完成させました。日本最初の製鉄所といわれることもあるようです。集められたのは武士だけでなく町民も含まれており、ペリー来航の2年も前のことです。いかに閑叟の先見性があったかがうかがわれます。

反射炉内は高温になるために耐火レンガが必要ですが、この品質が悪いと、高温でレンガが熔けて、不純物として鉄に混じることになります。同時期に開発を試みた薩摩や水戸で反射炉が成功しなかったのは、レンガの質が悪かったからでした。

「大銃製造方」においてはこの問題を解決するために、地場産業である有田焼の技術を活用しました。レンガ製作では瓦職人、反射炉の築造には左官などを徴用し、有田焼で培われた在来技術が活用されました。最初に完成した反射炉で試行錯誤を繰り返しながら、7回目の鋳造でようやく実用に耐えうる砲身を鋳出できたといいます。

ヒュギューニンの著書では、この砲身に砲道をくり抜くために動力が蒸気機関の旋盤を使用していました。ところが、当時の日本に蒸気機関は存在していなかったため、水車を動力としてドリルを動かしました。かなり原始的な方法ではありましたが、ともかく一門の鉄製砲を完成させて長崎砲台に設置し、一年後には36ポンドカノン砲も完成させています。

こうしてでき上がった大砲の信頼性は高く、以後幕府からの大量発注がくるようになりました。このため、城下の多布施川沿いにもう2基の反射炉を増築、量産体制を整え、更に幕府の海防用にと技術提供してできたのが伊豆の反射炉です。韮山反射炉は結局ペリー来航後3年も経ってからできましたが、佐賀藩はそれ以前にこれを完成させていたわけです。

無論、この技術供与は自藩の反射炉の開発において協力をしてくれた伊豆の江川塾に敬意を払ってのものです。こうした成功に自信をつけた佐賀藩はさらに大砲だけでなく、造船業を興して蒸気軍艦の製造を行い、ガラス製造など重工業部門においても、日本の近代工業黎明期に最も先駆的な役割を果たしました。

この日本最初の実用蒸気船は「凌風丸」といいましたが、その製造にあたっては領内に「三重津海軍所」という海軍まで造っており、ここで、慶応元年(1865年)に完成したこの船はその後有明海内の要人輸送などに用いるとともに、海軍練習艦としても活用されました。

同海軍所の遺構跡地には、日本最古のドライドックの痕跡もあり、様々な規格の多量の鉄鋲(リベット)とボルトなども出土していて、海員(士官・水夫)教育や蒸気缶製造等の西洋船運用に関る施設群が存在していたものと考えられているそうです。

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佐賀藩ではまた、慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲を輸入して研究し、藩の洋式軍に配備したといわれています。アームストロング砲とは、イギリスの発明家、ウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲です。

後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮されました。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量でした。しかも銃身内に旋条(ライフル)が施されていたため高い命中精度と飛距離を誇りました。

このような特徴から、同時代の火砲の中では断トツの優れた性能を持っており、1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る最新兵器として期待されていました。

しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こりました。

その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにあります。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られて過渡期の兵器として消えていきました。

しかし、一部のアームストロング砲はその後、南北戦争中のアメリカへ輸出されました。そして、このときは欠点もかなり克服されていました。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却されましたが、中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注しました。しかし彼は討幕派に与したため引き渡しを拒絶し、幕府の手には届きませんでした。

一方、反射炉の開発に一度失敗した長州藩では、こうした最新式の大砲を独自開発するのをあきらめ、これを輸入に頼ろうとしました。このため幕府が手に入れられなかったこれらのアームストロング砲をグラバーを通じて入手しています。

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長州藩の軍総督、大村益次郎が江戸城開城のあと、さらに抵抗しようとした彰義隊殲滅を成功させた一因として、この最新式のアームストロング砲があったためといわれています。

上野戦争とよばれるこの幕府残党の掃討戦では、大村はこのアームストロング砲の使用の機会を十分に計算していたといわれます。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配しましたが、夕方近くになって突然加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えてアームストロング砲による上野山の砲撃を指示しました。

彼は前線には立たず、江戸城内で指揮をとっていたため、その戦果を知る由もありません。しかし、平然と柱に寄りかかり懐中時計を見ながら「ああもう何時になりますから大丈夫。心配するに及ばない。夕方には始末もつきましょう。少しお待ちなさい。」と言いました。

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました。」と戦況も見ずに告げたといい、その直後に戦勝を告げる伝令が到着しました。このとき一同全員が大村の頭脳に感服したと伝えられています。

この話は司馬遼太郎さん小説、「花神」に書かれていますが、大村の頭脳もさることながら、彼がこの砲にいかに全幅の信頼を置いていたかがわかります。この小説の中で、当時の最新最高の兵器とし紹介されたことからアームストロング砲が有名になりました。ただ、その威力に関してはかなり誇張されており、史実ほどは大活躍していない、ともいわれます。

というのも、日本で輸入使用されたのは主に6ポンド軽野砲であり、口径は64mmに過ぎませんでした。これは当時の日本で主力洋式野戦砲だった四斤山砲(口径86.5mm)よりも小口径であり、射程や発射速度は上回るものの威力で特段優るわけではありませんでした。

ただ、この当時は、世界最先端といわれた砲であったことは間違いなく、もしさらに大口径のものが大量に使われていたら、明治初期の動乱はもっと早く治まっていたでしょう。

ところで、上述のとおり、史実では、大村益次郎が使ったアームストロング砲は輸入ものとされているようですが、一説によれば、当時の日本で最先端の技術力を持っていた佐賀藩がこれを反射炉を使って完成させていた、という話もあります。

しかし、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須です。当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だったのに対し、大砲に穴をあけるのに水車を使っていたような当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは俄かには考えにくいことです。

ただ、佐賀藩の精練方に勤めていた「からくり儀右衛門」こと「田中久重」は、佐賀藩がアームストロング砲の製造に成功したと記しています。上述の鉄製の元込式の6ポンド砲がそれであるとしており、32本の施条が刻まれていたとまで明記しています。

この田中久重は武士ではありません。筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師の長男として生まれました。幼い頃から才能を発揮し、近所の祭礼で当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判をとりました。

20代に入ると大阪や江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られるようになりました。当初町民だったため、田中の苗字はなく儀右衛門と名乗っていました。

35歳で上方へ上り、大坂船場に居を構えると、ここで折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。さらには京都へ移り、ここで天文学を学ぶために土御門家に入門。

天文学の学識も習得した田中は、革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、50歳を過ぎたこのころからは、蘭学にも挑み、様々な西洋の技術を学びはじめます。このころには季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させています。

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その後、再び西下して佐賀に移住した儀右衛門は、鍋島直正に認められ佐賀藩の精煉方に着任しました。このとき田中の名前を拝領し、同時に名も久重と改めました。日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造したのはこの後すぐであり、その後の反射炉の設計と大砲製造にも大きく貢献しました。

が、彼自身が果たしてアームストロング砲の製造にまで関わったかどうかについてははっきりしません。記録としては、上述の彼自身の手記と、加賀藩の史料にこの砲の製造を試みた、という記述があるだけです。しかしそこにも田中の関与は書いてありません。

また、佐賀藩がームストロング砲を完成したかどうかもまたはっきりはわからないわけですが、仮にそれが事実だとしても、実際に製造された砲が、西洋から輸入したアームストロング砲と同等の性能を持っていたかどうかについては、同定する資料がありません。

これは、戦時中の金属類回収令により、佐賀藩製造とされていたアームストロング砲が供出で失われたためです。ただ、写真は残っています。戊辰戦争で活躍したとされる佐賀藩製のアームストロング砲とされるもので、おそらくは上述の大村益次郎が上野戦争において、彰義隊攻撃に用いたものだろうといわれています。

Sagahan_Armstrong_gun_used_at_the_Battle_of_Ueno_against_the_Shogitai_1868

佐賀藩が自前でアームストロング砲の製造に成功していたのかどうか、その真偽のほどは歴史の闇の中です。が、それにしてもこのように当時の日本における最先端技術を持ち、日本有数の軍事力と技術力を誇った佐賀藩は、実は幕末にはそれほど活躍していません。

藩主の鍋島直正はこれらの技術を行使することを嫌い、というか禁じ、幕末においては中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

その理由は、彼はもともと佐幕派にかなり近い路線にいたためです。水戸藩士に暗殺された大老の井伊直弼とは盟友だったといわれており、彼が桜田門外で横死した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置きました。

このため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できませんでした。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、「鎖国藩」といわれるもとをつくりました。

しかし1867年(明治元年)には、次男の直大が藩主となり、このとき新政府からは佐賀藩には北陸道先鋒に立つように命令が下りました。これに対して直正は異を唱えず、このため佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上し、上述の上野戦争などで戦いました。

その結果として、維新後、佐賀藩からも明治政府に多数の人物が登用されました。明治維新を推進させた立役者として「薩長土肥」に数えられ、上述の佐賀七賢人である副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍しました。

ところが、征韓論問題に端を発して下野した前参議江藤新平らはその後、島義勇ら旧佐賀藩士を中心として反乱を起こしました。しかし、その後討伐に向かった政府軍に同調する藩士も多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは浸透しませんでした。

佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しくはわかっていませんが、戦死者数が200人以下であることなどから推定して6000人程度ではなかったかといわれているようです。大阪鎮台、広島鎮台などを中心に組織された政府討伐軍に圧倒され、戦闘は一週間ほどで終わり、江藤新平は捕縛後わずか3週間で処刑され、島も1ヶ月を待たずして処刑されています。

この佐賀の乱が、その後維新政府において活躍する佐賀出身の逸材の活躍の場を奪ったかといえば、それほどの影響はなかったようです。佐賀の七賢人のひとり、大隈重信はその後2度に渡って総理大臣を務め、死後には国葬まで行われています。

また、副島種臣は外務卿、内務大臣に就任、大木喬任も東京府知事を勤めたあと、初代文部卿、司法卿、元老院議長などを歴任。佐野常民も大蔵卿になるなど、佐賀の人材はその後の明治の時代を担いました。鍋島閑叟は明治維新後は議定に就任し大納言の位を受け、最晩年には北海道開拓使長官となりますが、任地に赴くことなく1871年(明治4年)死去。

また直正が重用した田中久重ほかの技術者の多くも日本の近代化に貢献しました。県内でも工業が勃興し、殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押ししました。

1916年(大正15年)には佐賀市に佐賀紡績(後の大和紡績)が設立され、この会社は1920年には従業員1,500の工場へと拡大するなどの発展を遂げています。

ただ、現代の佐賀県は工業集積が進んでいません。太平洋戦争末期の空襲の被害も近県に比べて少なかったものの、戦災を免れた故に都市基盤が旧態依然で戦後の発展も著しいものではなかったのが理由といわれています。商業の発展があったものの、従事者や生産額ともに依然として第一次産業の比率が比較的高い農業県となっています。

しかし、かつて佐賀県が排出した技術者たちの多くは日本の産業の育成に大きく貢献しました。とくに田中久重は、明治6年(1873年)に東京に移ったあと、75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区に電信機関係の製作所・田中製造所を設立しました。

明治14年(1881年に82歳で死去しましたが、久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、これが、後に東京電気株式会社と合併して、東京芝浦電気株式会社となり、現在の「東芝」となりました。

高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。」との言葉を残しています。

反射炉をはじめとし、日本の近代を築く技術の礎を形成した、佐賀藩とこの藩が輩出した多くの人材に敬意を表し、「佐賀藩バンザイ!」と唱えたいと思います。

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韮山の空

1854年(安政元年)12月、わずか1年3ヶ月という短い期間で完成した五つの台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20~30門の大砲が配備され、翌年4月上旬、将軍徳川家定も出席し、台場完成を祝う試射会が開かれました。

実はこれに先立つ2月、ペリーが日本へ二度目に来航してきたときには、まだ完全には台場は完成していませんでした。が、ペリーは未完成ながらもその偉容に驚き、これより奥の江戸湾に侵入することなく、横浜まで引き返しています。

台場の配置は、江戸湾内の澪筋や水深の浅い場所の位置を正確に計算に入れて決められていたといい、大きな船は喫水が深いため、澪筋を通ってしか江戸湾の奥に進むことができませんでした。

従って、水深の浅い洲の上に台場を築いて、その間の水路を防御するという台場の配置は、蒸気船などの大型の艦船に対して、一定の効果を持っていたと思われます。

しかし幕末維新の動乱の中にあって将軍の居城である江戸城や江戸の街を守るため造られた台場は、結局一度も実戦に用いられることなく、その後の明治という時代を迎えます。

明治維新後、台場の所有権は陸軍省・内務省・民間さらに海軍省と、二転三転しました。その後は、第2台場に品川灯台が設置されたほか、第5台場には水上警察署の出張所が置かれるなど、東京湾内の安全を守るために使われました。また、第4台場は造船所として利用され、基礎工事のみが終了していた第7台場は牡蠣の養殖場として使われました。

第3台場だけが、第二次世界大戦時に高射砲が設置されるなど軍事目的に使われましたが、本来の目的の「海防」のために用いられることはとうとうありませんでした。

1923年(大正12年)の関東大震災では、各台場も石垣が崩れたり、内部の建物が倒壊したりするなどの被害を受けました。この内、第3台場と第6台場は、大正13年に国の史跡名勝天然記念物に仮指定(大正15年本指定)され、これを受けて東京市による補修工事が行われています。

第二次大戦後は、第5台場に一時的に戦災孤児収容施設が置かれたこともあったそうですが、東京港修築計画に伴う大規模な埋め立て工事によってその多くは潰され、船の通行にも支障があるという理由から撤去されました。

こうして昭和1962年(昭和37年)までには、第3・第6以外の台場は東京湾からその姿を消しました。

現在、残った二つの台場の内、第3台場は「第三台場史跡公園」という名前になっていて、お台場海浜公園と陸続きになり、歩いて立ち入ることができます。一方、第6台場のほうは立ち入りが禁止されていて、草木の生い茂る緑の小島として、東京湾内の野鳥のオアシスとなっています。

レインボーブリッジを渡ったことのある方も多いと思いますが、ここからは二つの台場を見下ろすことができます。また、日の出桟橋を発着する水上バスでお台場海浜公園に向かえば、海上から六号台場を間近に眺めることができるようです。

反射炉

さて、昨日から台場のお話が延々と続いてしまいましたが、その台場を築いた立役者、江川英龍のその後について書いていきましょう。

ペリー来航を契機に江戸湾海防の実務責任者となり、お台場建造を命じられ、これを見事に完成させた英龍ですが、幕府は江戸内湾での台場築造と平行して、ここに設置する大砲
の鋳造を英龍に命じました。

これに対して、英龍は大砲の鋳造にあたっては、「反射炉」と呼ばれる特殊な鋳造炉が必要であり、この建設を許可して欲しい旨を幕府に申請し、幕府もこの建造を許可します。

英龍は、早速建造の準備に取りかかり、当初その建造予定地は伊豆の下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市高場(たこうま))という場所に決定していました。この場所が選ばれたのは、現場が下田港に近く、資材や原料鉄の搬入のしやすさと、生産した大砲の搬出・回送の便を考えてのことだったと思われます。

1853年(嘉永6年)、お台場の建設が始まったのと同じ年の12月には、この下田で基礎工事も始められましたが、翌1854年(安政元年)の4月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に侵入するという事件が起こりました。

この年の2月13日、ペリーは予想よりもかなり早く再来日して横浜港に入港しました。お台場はこのころまだ未完成部分もありましたが、ペリー艦隊が品川沖まで侵入してきたとき、この砲台の偉容をまのあたりにし、目をみはったといいます。そして、品川より奥の江戸湾に侵入するのをあきらめ、神奈川沖まで引き返し横浜港に入港しました。

英龍らが短い時間に血の滲むような努力で完成させた台場は、こうして一応その成果をあげたのです。

横浜に入港したペリーらは、その後幕府と協議をはじめ、ひと月以上も粘った末、翌月の3月31日についに日米和親条約を締結することに成功。その中で下田も「開港場」として開放することを幕府に約束させることもできたため、横浜を出港後、アメリカへ帰国する直前に艦隊は下田に寄港していたのです。

反射炉の建設は、ペリーらも目にしたお台場に設置するための大砲を建造することを目的としていました。幕府にとっては国家機密であり、これをアメリカに知られることは、その後の外交上において好ましからぬ事態を招くことは明らかでした。このため、今後同様の事態が起こることを防ぐため、急遽反射炉建設地を移転することになりました。

移転先は、韮山代官所にも近い田方郡中村(現伊豆の国市中)と決定されました。内陸にあり、資材の搬入や製造された銃器の搬出には不利でしたが、代官所による監視もしやすく、外国人が入り込むなどの不慮の事故も防ぐことができました。

「反射炉」とは、銑鉄(鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶解して優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶解するためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射集中させることでその位置に高温を実現できる構造となっています

反射炉は、18~19世紀にかけてヨーロッパで発達し、その構造やそれを用いた鉄製砲の鋳造技術などの知識は、長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて、日本にも伝わっていました。英龍も、それらの蘭書を研究し、反射炉についての理解を深めていたものと考えられます。

ヨーロッパで反射炉が発展した背景には、ナポレオンの存在がありました。19世紀初頭、ヨーロッパを席巻したナポレオンは、優れた戦術家として知られていますが、彼の得意とした戦術の特徴は、砲兵を重視し、大量の野戦砲を迅速に運用するというものでした。

これは、それまでの陸戦の常識を一変させる画期的なものであり、以後各国の陸軍は競って砲兵の充実を図ることとなります。ところが大砲を鋳造するにあたって、その材料となる錫と銅はこの当時いずれも高価な金属であったため、これによって造られる「青銅砲」自体も高価なものにならざるを得ませんでした。

より安価に大量の大砲を製造するためには、相対的に価格の低い材料が必要とされましたが、調査の結果、「鉄」がその材料として適当と考えられ、こうして鉄を原料に用いた大砲の製造が始められました。

しかし鉄は、錫や銅に比べてその融点(溶け出す温度)が高く、この問題を解決するためには特殊な炉が必要とされました。そしてその研究の結果、開発されたのが反射炉でした。

こうしたヨーロッパの事情は日本でも同様でした。英龍は自らの海防政策を完成させるためには、大量の大砲を製造する必要性を感じており、そのためには青銅砲に代わって鉄製の大砲を大量に生産できる反射炉の建設が不可欠であると判断したのです。

こうして計画がスタートした反射炉は、オランダのヒュゲニン(Huguenin)という人が著わした鉄製砲の鋳造マニュアルに掲載されていたものが参考にされ、伊豆の韮山で建設されることになったそれは、溶解炉を二つ備えるものを2基、直角に配置した形となっていました。

つまり、四つの溶解炉を同時に稼働させることが可能な設計であり、現存する韮山の反射炉は当初の計画通りに建造され、その後多くの大砲がこの反射炉によって鋳造されています。

その建設のためには、耐火煉瓦の開発なども必要であり、その煉瓦を焼く窯の調達や、焼いたあとの煉瓦の積み上げ方法などをめぐっても多くの思考錯誤もありましたが、そうした苦労もありながらも反射炉の建造は順調に進むかに見えました。

そうした最中、その竣工をみることなく、その設計者であり、計画の最高責任者であった江川英龍当人が江戸で亡くなってしまいます。1855年(安政2年)1月のことでした。

その前の年の暮れごろから英龍は何等かの病を得ていたようで、それをおして江戸や伊豆を往復していたころから、その病気が悪化したのではないかと思われます。

この前年、駿河湾沖で座礁したプチャーチン提督座乗のディアナ号を巡っては、幕府が出資してその代替船を建造することになり、その建造場所も同じ伊豆の戸田と決まり、後年「ヘダ号」と呼ばれる日本初の洋式帆船が建造が始まっていましたが、英龍はその建造責任者も兼ねていました。

これについては、当ブログの「ヘダ号」の項に詳しく書いてありますので、こちらものぞいてみてください。

かたやほぼ完成したとはいえ、まだ未完成の部分も多々あるお台場の建造責任者でもあり、そこに据える大砲を鋳造する反射炉の建設をも進めていた英龍の日々は、韮山や戸田、江戸と各地を転々とする中で、分刻みのスケジュールで進んでいたと考えられます。

詳しい死因は伝えられていませんが、その死の直前まで激務が続いていたといいますから、今で言うところの過労死であったかもしれません。多くの蘭方医が倒れた英龍の治療に携わったといいますが、そうした努力の甲斐もなく、その波乱に満ちた54年間の生涯を閉じることとなりました。

54才という年齢は、この当時の人の寿命からするとごく普通の年齢でしたが、その足跡を考えるとあまりにも早すぎ、惜しまれる死でした。ちなみに、ヘダ号は英龍の死から3ヶ月後の4月に完成し、日本初の西洋帆船の航行に成功しています。

英龍の死後、その遺体は韮山の江川邸のすぐ近くの「本立寺」に埋葬されています。本立寺は江川家が500年前に菩提寺として建立したもので、ここには英龍だけでなく、江川家ゆかりの者の墓石が100本以上も林立しています。

英龍の死を知った老中首座阿部正弘は、その就任当初こそ英龍には見向きもしませんでしたが、難工事といわれたお台場の建設を彼に一任した後は、その建設が彼なくしては進まないことを知るようになり、後年は彼の技術力だけでなく、人柄を高く評価するようになっていたといいます。

そして、なくてはならないその有能な幕臣を失った嘆きを、次のような歌に自らの気持ちを託して英龍の霊前に贈っています。

「空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽ちせし」

「この世に生きている人の寿命には限りがあるものであるが、真心をもってことを成し遂げてくれた君の勲功は、その死後も朽ちることはないだろう」、というような意味でしょうか。

反射炉その後

老中首座の阿部正弘は、英龍だけでなく、その後勝海舟や大久保忠寛、永井尚志らの西洋事情通を登用して海防の強化に努めるとともに、高島秋帆を復活させて講武所の運営にあたらせるなど、洋式軍隊の整備を進め、長崎海軍伝習所、洋学所なども創設しました。

講武所はのちの日本陸軍の素地となり、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となっており、このほかにも大船建造の禁の緩和など幕末にあって、多くの幕政改革(安政の改革)にも取り組むなど、彼が手がけた事業の多くがその後明治政府に受け継がれました。

彼によって近代日本の基礎が造られたといっても過言ではなく、英龍を台場や反射炉、ヘダ号の建設責任者に任命したのも阿部正弘です。これ以外にも山ほどの事業を企画していましたが、1857年(安政4年)6月、老中在任のまま江戸で急死。

阿部正弘は将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたといい、生きていればその後の幕末の動乱において、慶喜の懐刀としてその能力を最大限に発揮したことでしょう。享年は39才。こちらも早すぎる死でした。

一方、英龍の死後、世襲代官江川家の跡を継いだのは、英龍の三男の江川英敏(ひでとし)でした。このとき英敏はわずか16才であり、単独では反射炉の完成はおぼつかないと周囲は考えたのか、英龍の代から交流があり、また蘭学の導入に積極的であった佐賀藩にその応援が依頼されました。

佐賀藩は快くこれを受け、杉谷雍助ら11名の技師を韮山に派遣し、英敏の要請に応えています。その結果、阿部正弘が亡くなったのと同じ年の(安政4年)11月、すべての炉が稼働可能な状態となり、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成の日をみました。

完成した反射炉では、幕末直前の1864年(元治元年)に使用が中止されるまで、数多くの鉄製砲が鋳造されました。

それらの中には、英龍が完成させたお台場に設置された6~80ポンドの大小のカノン砲(日本語では「加農砲」と表記)も含まれています。カノン砲は、低い弾道で目標物を直接狙うもので、お台場を通過する船舶を砲撃するのには最適な砲でした。カノン砲はお台場の固定砲以外にも移動式の野戦砲などの多くの種類が造られました。

このほかにも、攻城戦などの主として目標間に遮蔽物がある場合に用い、強力な搾穿威力を持つモルチール砲(臼砲)、カノン砲とモルチール砲との中間的な大砲で多目的に使用できるホーイッスル砲(忽砲)、小型船舶搭載用のボートホーイッスル砲などもこの韮山の反射炉で造られました。

反射炉を無事完成させた英龍の三男、英敏は反射炉の完成後の5年後にわずか23才で亡くなり、その跡を継いだのが英龍の五男の英武で、その後幕府が瓦解したことからこの人が、最後の韮山代官となりました。

明治維新後、反射炉は陸軍省に移管されましたが、その後はより強度の高い鉄を鋳造できる転炉などが導入されたことから、その後は使われることもなくなり、長い間放置されていました。

次第に破損の進む反射炉の保存運動が本格化したのは、英龍の没後50年にあたる1905年(明治38年)からのことです。

反射炉の保存運動は、韮山県令の女婿であった山田三良(さぶろう)という東大法学部の教授と、最後の韮山代官江川英武の息子で同じく東大法学部教授だった「江川英文」氏らが中心になっておこし、陸軍省の後援もあって無事、その保存修理事業を実現させました。

江川英文氏は、その後財団法人江川文庫を設立し、現在も残る江川邸の保存に努めるとともに、江川家代々の資料を研究者に公開する活動をしていましたが、1966年(昭和41年)に逝去。江川文庫は現在、英文氏のひ孫の江川洋氏が代表を務められており、その方のお父様?とお見受けする方に私たちがニアミスしたことは、この項の初めに書いたとおりです。

この江川文庫には、韮山代官役所の公文書と江川家の私文書などからなる古文書類と、多くの典籍、書画・工芸類・洋書・古写真・銃砲鋳造関連資料などが保管されており、このうち代官役所文書のうち、整理された3000点余りが昭和40年代に公開されはじめ、その後も整理が続いて現在では6000点程の古文書が公開されているそうです。

現在も非公開の資料の公開をめざして、静岡県が主体となり文化庁の後援を得て、整理・調査が続けられているそうで、最終的には目録点数だけで数万点に及びそうだということです。

反射炉の保存修理は明治42年1月に終了し、周囲に鉄柵をめぐらせ、煙突には地震対策として鉄帯をはめて補強された反射炉が完成しています。そして、1922年(大正11年)には史跡名勝天然記念物法によって史跡に指定され、最近、世界遺産への登録をめざして運動が行われ始めました。

その後は、1930年(昭和5年)の北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受けたこともありましたが、昭和、平成と計三回の修理を経て、現在もその姿を間近に見ることができます。

幕末期には、佐賀藩や萩藩、水戸藩などでも反射炉が建造されましたが、当時のほぼ原形を保っているのは韮山の反射炉だけです。私も郷里の山口萩の反射炉を見に行ったことがありますが、原型をとどめているのは煙突部分だけであり、韮山の反射炉のようにきれいには保存されていません。

ヨーロッパでは製鉄技術の発展とともに高性能の高炉が開発されて反射炉に取って代わったため、反射炉の遺構は残っていないそうで、日本でもその後転炉などの最新式の鉄溶融炉が導入されたことから、現存する反射炉は全国でも数カ所になってしまいました。

調練所と韮山塾その後

韮山で「反射炉」を計画し、その完成を見ずして亡くなった江川英龍は、これ以外にも韮山で近代的装備による農兵軍の組織を企図しており、その一環として軍隊では食糧の補給がもっとも重要なテーマのひとつであると考えました。

そして軍用の携帯食料として「パン」の効用に着目し、日本で初めてパン(堅パン)を焼いたことは昨日も書きましたが、この兵糧パンは後年幕府軍が薩摩や長州と長期戦を戦ううえで大いに役立ったといいます。このため後年英龍は、日本のパン業界からは「パン祖」とも呼ばれるようになりました。

こうした数々の英龍の偉業をたたえ、英龍が亡くなった1855年(安政2年)の5月、その後を継いで韮山代官に就任した江川英敏に対して、幕府は芝の新銭座(しんせんざ)に八千数百坪の土地を下賜し、その後ここには大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されました。

芝新銭座のこの調練場は「大小砲習練場」と呼ばれ、その後、幕府の徒組(かちぐみ)が入門して西洋砲術を学んだのをはじめとして、数多くの幕臣が砲術の伝授を受けており、諸藩士の入門者と合わせると、その人数は三千人以上にのぼりました。

他藩の入門者の中には、井上薫、黒田清隆、大山巌など、明治維新で名をなした長州や薩摩などの西国の人材がとくに多く含まれています。

英龍亡き後、入門者の指導に当たったのは、韮山塾で英龍から直接兵学を伝授された、壬生藩士の「友平栄(さかえ)」や川越藩士の「岩倉鉄太郎」と、韮山代官所の手代として高島秋帆から共に砲術を学んだ岩嶋源八郎・長澤鋼吉などでした。

調練場には理論を学ぶための学塾も併設されており、そこでは後に幕府の歩兵奉行となる大鳥圭介らが招かれ、語学を講義していました。また、築地に設けられた軍艦操練所との交流も盛んで、榎本武揚や福地源一郎(桜痴源一郎、後の東京日日新聞主筆)、福沢諭吉らもしばしば訪れたと伝えられています。

のちに福沢諭吉がこの調練所の建物を譲り受け、「慶応義塾」を創設したことは先のこのブログでも述べました。

後年、福沢諭吉が記したという「福翁自伝」には英龍の記述があり、「江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、……(中略)、これもなかなか評判が高い。あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸と聞いて……」などと記しており、この当時の英龍の高名ぶりを披露しています。

韮山で英龍が創設した「韮山塾」は、その後これを母体として、1886年(明治19年)、町村立「伊豆学校」として再発足。前述の英龍の五男、江川英武氏が韮山の地元有力者に請われて初代校長に就任しました。

江川家は、1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発した際には、早々に明治政府側に恭順の意を示したため旧領を安堵され、1869年(明治2年)には最後の韮山代官だった、江川英武が「韮山県」の知事となりました。

その後、江川英武は明治4年(1871年)、兵部省の命を受け、岩倉使節団と共に留学生として渡米し、約8年の留学の後、1879年(明治12年)に帰国。内務省・大蔵省に出仕しました。

江川英武が伊豆学校の校長に請われて伊豆に戻ったのは33才の若さのときであり、明治政府を辞した理由はよくわかりません。が、薩摩や長州の人材ばかりが登用される明治政府の中にあって、旧幕臣の出身である英武の居場所はかなり狭かったためかもしれません。

この学校では、英語教育と柔道教育(富田常次郎氏を講師として招聘)に力を入れましたが、経営難から生徒が減少し、英武は数年後に校長職を辞して東京に戻りました。しかし、学校そのものは継続され、現在、「静岡県立韮山高等学校」として、現存する江川邸のすぐ西側で多くの学徒を排出し続けています。

ちなみに、富田常次郎という人は、もともとは沼津の西浦という場所の出身で、幼少時に天城で給仕をしていたところを、ちょうどこのころ天城山に出張に来ていた海軍省管財課に勤務の「嘉納治郎作」の目にとまり、嘉納治郎作の息子で、後年柔道家として有名になる「嘉納治五郎」の書生として引き取られました。

常次郎は、嘉納治五郎が1882年(明治15年)に講道館を設立する折には、その一番弟子として尽力し、講道館四天王の一人として称せられるようになります。四天王とは常次郎をはじめとして、西郷四郎、横山作次郎、山下義韶の4人で、この中の西郷四郎が「姿三四郎」のモデルといわれています。

しかしながら、韮山塾の精神を後世に伝えていこうとした英武の努力にもかかわらず、数年後には伊豆学校の生徒数は激減します。高額な教員への給料や学校運営の出資金の不足が、定員減の原因だったようです。

資金不足の原因は、英武を招聘した地元有力者たちのその後の協力が思ったほどのものではなかったためのようで、かつての江川家の家臣であった岡田直臣という人物がこの頃の「君澤田方郡」の郡長でしたが、こうした有力者による伊豆学校への協力も薄く、このため次第に英武の情熱も冷めていったようです。

伊豆学校を辞し、東京へ移った最後の韮山代官、江川英武は、その後又、第1回衆議院議員総選挙に静岡県第7区(駿東郡など)から無所属で出馬しましたが落選。続く第2回衆議院議員総選挙にも同選挙区から立候補しましたが、このときも最下位得票で落選しています。昭和8年(1933年)、神奈川県三浦郡葉山町において死去。享年81才でした。

衆議院選挙に落選後の晩年の多くは東京で過ごし、亡くなるまでの四十年以上は伊豆での学校経営の失敗を悔やんでいたのか、あるいは選挙落選の反動なのか、あたかも徳川幕府瓦解後の徳川慶喜の晩年と同じように趣味に没頭する生活をして過ごしていたそうです。

しかし、英武が校長として育てた伊豆学校は、この当時としては最高の質を持つ名門校だったようで、ここを卒業した生徒たちの多くがその後政界や財界で活躍していきました。幕末にあってその後の時代を支える英才を数多く輩出した韮山塾を彷彿させるものがあり、その伝統は現在の県立韮山高等学校に受け継がれているといいます。

その韮山高校の校訓は、「忍」だそうです。江川英龍が29才のときに亡くなった母の「久子」が亡くなる直前、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」とこの文字を英龍に遺言したといい、以後英龍は「忍」の文字を書いた紙を死ぬまで懐中に携帯していたといいます。

その英龍の精神は、今も韮山高校に受け継がれており、同校ではその創立者はその当時の県令「柏木忠俊」氏であるとしながらも、これとは別に江川英龍、坦庵公を「学祖」として仰いでいるということです。

この韮山高校のすぐ裏手には、かつて北条早雲が築造した「韮山城」の跡があり、この山頂に登ると、そこからは西北方面に田方平野が一望でき、その彼方には堂々とした富士山を眺めることができます。

江川英龍の時代にはもうすでにこの韮山城は廃城になっており、徳川幕府による太平の世でもあって砦などの構造物もなく、このためこの場所は江川家の人間にとっては「庭」のような存在だったものと思われます。

おそらくは英龍も江戸から伊豆韮山へ帰ってきたときには、何度となく散歩がてらにこの山に登り、我々と同じように富士山を眺めていたに違いありません。

その眼下には、英龍が設立した韮山塾の跡を引き継いだ韮山高校のグラウンドがほんとうに間近に見え、時折、校舎内からは、風に運ばれて授業を行う先生の声や生徒たちのざわめく声までが聞こえてきます。

そしてその生徒たちは、英龍が残した「忍」の字を継承する子供たちです。いつか彼らの中から英龍の意思を継ぎ、時代を率いていってくれるような逸材が出てくれることを祈りつつ、この項を終えたいと思います。

伊豆の国市周辺では最近、「江川酒」というお酒が製造されたそうです。いつか入手し、かつての英龍の栄華をしのびつつ晩酌をしてみたいと思います。その「味」がどんなものかについては、またこのブログでも紹介することにしましょう。