龍とマムシ ~旧韮山町(伊豆の国市)

3日前の10月8日は、「寒露」だったそうで、これは二十四節気(にじゅうしせっき)上の17番目にあたる「季節変化」だそうです。

二十四節気は、一年の太陽の動きを24等分し、そのそれぞれの節目に季節の変わり目を表す名称を与えたもので、今年はこのあと、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、と寒そうな名前ばかりが続きます。

いよいよ冬の到来ということで、寒露という名称も「露が冷気によって凍りそうになる」ためにつけられたとか。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギも鳴き止むころだそうで、最近、確かに夜になっても虫があまり鳴かなくなりました。

とはいえ、巷ではまだまだ秋が始まったばかりというかんじでしょう。昨夜、テレビのニュースで、伊豆東海岸の稲取の山の手のほうに「細野高原」という場所があり、ここのススキの原が素晴らしい、と報じていました。

天気もよさそうなので、今日か明日にでも時間を作って行ってみようかなと考えています。いい写真が撮れたらまたこのブログでも紹介したいと思います。

マムシの耀蔵

さて、昨日の続きです。

尚歯会で渡辺崋山という盟友を得、また生涯の師匠と仰ぐ高島秋帆とも知り合うことで、西洋の軍事技術の学びを深めるための素地が整うこととなり、より一層意気さかんであった英龍でしたが、その行く手を阻む大きな敵がちょうどこのころ現れます。

この当時、幕府内においては、蘭学などの西洋の学問を嫌い、こうした学問を取り入れようとする新進の蘭学者たちを排除しようとする動きがあり、その急先鋒にあったのが、目付の「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」らの保守勢力でした。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)の実父は幕府の官僚育成機関、大学寮の教授(大学頭)を務めた江戸幕府の儒者、林述斎(はやしじゅっさい)で父方の祖父の松平乗薀(まつだいらのりもり)は美濃岩村藩の第3代藩主であり、耀蔵はいわば徳川家のエリートの息子でした。

寛政8年(1796年)、林述斎の3男として生まれ、25歳の時に同じ旗本の鳥居成純(とりいなおずみ)の婿養子となって家督を継ぎ、2500石を食む身分となります。鳥居家も松平家の系列につらなる名家であり、やがて耀蔵も11代将軍徳川家斉の側近として仕えるようになります。

そして家斉が隠居して徳川家慶が12代将軍となったあと、老中首座である水野忠邦の天保の改革の下、「目付」に就任したあと南町奉行になり、市中の取締りを行うようになります。

目付は、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察する幕府の官職で、今でいえば警視庁長官のような役目。幕府の中でもとくに有能な人物が任命されました。一方、奉行のほうは最高裁判所の裁判長のような役割であり、目付に就任したあとに奉行に昇進する者が多く、この当時の出世コースのゴールでした。

鳥居耀蔵がそれほど優秀な人物であったかどうかはその後の素行をみるとはなはだ疑問です。が、大学頭で儒学者である林家の出身であったため、学識はかなり豊富だったといわれ、また詩を作るのが得意で、若いころから漢方の心得もあったといいます。

後年目付に就任した以降は、「おとり捜査」を常套手段とするなど権謀術数には長けており、天保の改革ではこの改革に反対する者も多かったことから、この改革の推進者の水野忠邦は目端のきく鳥居を使ってこれらの政敵を排除しており、自分の意のままに動く「狂犬」として重宝していたようです。

ちょうど同じころ北町奉行として就任した「遠山景元(とおやまかげもと)」は、後年講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる「遠山の金さん」のモデルといわれています。この遠山は当時の江戸庶民にも大変人気があったのに対し、鳥居耀蔵は江戸の市民からはかなり嫌われていたようです。

遠山と同じく市民に人気のあった「矢部」という南町奉行の後任として奉行に就任した際、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたといいます。また巷では、「マムシの耀蔵」とも「妖怪」とも呼ばれ、この「妖怪」とは、甲斐守でもあった耀蔵の「耀」の字と「甲斐」を掛け合わせたものです。

一般人からだけでなく、同時代人の知識人たちからも相当嫌われていたようで、同じ幕臣で幕末に外国奉行や勘定奉行を務めた「栗本鋤雲(くりもとじょうん)は、「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」と酷評しています。

また、同じく勘定奉行や軍艦奉行などの幕府重職を歴任し、勝海舟とともに「幕末の四舟」(ほかは海舟、鉄舟、泥舟)のひとりといわれた「木村芥舟(きむらかいしゅう)」も「若いときから才能があったが、西洋の学問を嫌い、洋書を学ぶ者を反逆者として根絶やしにしようとした。天保の改革を推進するためには邪魔者を陰険な手段で追い払った。この点は鳥居にとって大いに惜しむ所である」と後年語っています。

同じく幕臣の勝海舟の鳥居耀蔵評はもっとひどく、「残忍酷薄甚しく、各官員の怨府となれりといえども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうってかへりみる事なく、後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益勇。八万子弟中多くかくのごとき人を見ず。」とこきおろしており、幕府きっての人物といわれた海舟にしてここまで言わせるのですから、いかに人好きのしない嫌な人物だったのかがわかります。

政敵やそりが合わない者に対する敵意、憎悪はすさまじかったといわれ、後年、その政敵の一人であった阿部正弘の訃報を聞いた折には「快甚し(こころよいことはなはだしい)」と日記に記述したそうです。

その主人として仰いだ水野忠邦すら敵にまわしており、天保の改革末期の1843年(天保14年)、水野が国防目的で沿岸要地の上知令(土地没収の命令)の発布を計画した際には、それまでの忠実な部下から一転して上司をおとしめる行為に出ています。

この上知令の内容が事前に諸大名・旗本に洩れたのは鳥居の仕業と言われていますが、これを知った諸大名はこれに猛反発。鳥居耀蔵は水野を裏切って彼ら反対派に寝返り、この反対派の旗手であった水野のライバル、土井利位(どいとしつら)にそのほかの機密資料も残らず横流ししています。

このため改革は途中で頓挫し、水野は老中辞任に追い込まれ、これに代わって土井利位が老中首座に就任しますが、この「功」により耀蔵は土井の元で奉行職を継続することを安堵されます。

ところが半年後の1844年(弘化元年)、外交問題の紛糾から水野が再び老中首座として将軍家慶から幕政を委ねられると、水野は自分を裏切り改革を挫折させた耀蔵を許さず、同年に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任。1845年(弘化2年)には有罪を申し渡し、耀蔵は全財産没収の上で讃岐丸亀藩に預けられます。

これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上もお預けの身として軟禁状態に置かれました。明治政府による恩赦で、1868年(明治元年)に幽閉を解かれましたが、このとき耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせたといいます。

鳥居耀蔵は実は静岡県民で、駿府(現静岡市)の出身です。1870年(明治3年)、幽閉を解かれたあと、郷里の駿府に戻りましたが、2年後の明治5年には再び東京に戻り、明治6年、多くの子や孫に看取られながら亡くなったといいます。享年78才。

死にゆく前、このころにはもう江戸時代とはかなり様変わりしていた東京の状態をみて「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたといいます。

また最晩年、昔の部下が尋ねてきたとき「昔、自分は外国人と近づいてはならぬ。その害毒は必ずあると幕府に言い続けたのに誰も耳を傾けなかった。だから幕府は滅んだのだ。もうどうしようもない。」と傲然と言い放ち、部下は圧倒されて帰ってしまったという逸話も残っています。

このような頑迷というのか時代の「癌」のような人物はいつの時代にもいるものですが、こうした人物であっただけに、幕閣の誰とでもぶつかり合うことも多く、英龍とも1838年(天保9年)に江戸湾測量を巡って対立することになります。

江戸湾岸測量

1837年(天保8年)の12月、このころにはもう江戸湾防備強化の必要性を強く感じていた老中首座水野忠邦は、江戸湾内に侵入してくる外国船を威嚇するための新たな防御線をどこかに張りたいと考え、その場所の選定とそのための正確な測量を鳥居耀蔵と江川英龍に命じました。

本来は鳥居だけが任命されるところでしたが、このころ英龍は水野に対して度重なる海防建議を提出しており、この選任は英龍の建議を高く評価した結果でした。しかし、幕府内にあっては目付の鳥居のほうが身分は上であったため、鳥居は「正使」、英龍は「福使」という立場で事にあたることになりました。

早速、英龍は部下の弥九郎を渡辺崋山の元に派遣し、測量士の推薦を依頼したところ、崋山は、高野長英門下の「奥村喜三郎」と「内田弥太郎」を推薦してきました。ところが、鳥居は鳥居のほうで、別の測量技師を用意しようとしていたことなどから、奥村喜三郎は身分が低いので参加を見合わせるようにとのクレームをつけてきました。

その後双方の間に幕府上層部が入って調整が続けられ、その結果、結局奥村も同行することが許されました。こうして、正使の鳥居耀蔵一行のおよそ110名と、副使の英龍一行約30名、合計140名が翌年の一月江戸を出発し、現地を測量しはじめます。

ところが、現地に入った直後、鳥居が今度は、奥村喜三郎が増上寺の「御霊屋代官」であることを問題にし、不浄な寺侍を同行させるわけにはいかない、という難癖をつけて、奥村を江戸に追い返そうとします。

無論、英龍もこの暴挙に猛反発し、奥村が幕府から裁可されて現場へ来たことを挙げて反論しますが、「正使」であり現場では上司である鳥居には結局逆らえず、泣く泣く奥村を江戸へ返しました。

このことがしこりとなり、このあと英龍と鳥居は激しく反目しあうようになっていったと言われています。が、どちらが悪いかどうかという問題以前のお話で、いかに鳥居耀蔵という人物が低俗で底意地の悪い人間であったかということが、このことからもわかります。

蛮社の獄

こうした問題はあったにせよ、ともかく現地の測量は3月には終了し、全員が帰還。英龍はその成果を幕府に提出する復命書作成にとりかかるとともに、江戸防備改革案の作成にとりかかりました。

と同時に、渡辺崋山には同じく幕府に提出する目的で、外国事情に関する上告書の執筆を依頼。これを受けて、崋山は、江戸湾防備の私案を述べた「諸国建地草図」と、ヨーロッパの現状について書いた「西洋事情書」を英龍に渡しました。

ところが、英龍が「西洋事情書」の内容を改めたところ、幕府の対外政策批判の色が濃かったことから、その内容を崋山に書き直すように依頼。あらためて「外国事情書」という名前の文書に書き直してもらい、こちらを幕府に提出しました。

そのころ鳥居は、先だっての江戸湾測量でのいきさつや、蘭学嫌いであることも手伝って英龍に敵意を抱くようになっており、英龍を支援する渡辺崋山に対しても次第に敵意を抱くようになっていたようです。

そもそも、儒学などの国学だけが正当な学問であるとする大学頭林家の出身である鳥居にとっては、異人が考えた蘭学は世の人を惑わす異端邪説に過ぎず、蘭学を通じて西洋事情を学ぼうとしていた尚歯会の面々らの「開明派」の台頭はもっとも忌み嫌うところであり、機会あらば彼らを失脚させたいと考えていました。

英龍や鳥居耀蔵が江戸湾の測量を終え、幕府へ復命書を提出したちょうどこのころ(1938年(天保9年)の4月ころ)、ときを同じくして、渡辺崋山や高野長英などの尚歯会の面々がモリソン号事件での幕府の対応を批判し、これに関する質問書を提出していたことに対しての幕府からの回答がありました。

崋山らが提出したその質問書は、再度モリソン号が来日した場合、幕府としてはどういう対応をとるつもりか、という内容でしたが、これに対して幕府側からの回答は、漂流の送還はオランダ船によるもののみ認め、あくまでモリソン号などのオランダ以外の外国船の寄港は認めないというものでした。

この回答を崋山や高野長英をはじめとする尚歯会の面々は、幕府の意向はやはり異国船打ち払いにありと解釈し、強く反発します。そして、長英は打ち払いに反対する書「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」を書きあげ、これを匿名とはいえそのまま写本にして公表してしまいます。

これが江戸の巷で反響を呼ぶようになり、この長英の「夢物語」の内容に意見を唱える形の「夢々物語」「夢物語評」などが現われ、世間を騒がせるようになります。

こうした江戸市内での事態を知り、危機意識を感じた幕府は、奉行の鳥居耀蔵らにその作者を探るように命じます。これを受けた鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに「戊戌夢物語」の著者を探索させるとともに、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じます。

そしてその結果小笠原らは、「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという「風説」をでっちあげ、また、頼まれもしないのに、シーボルト事件でお尋ねものとなりこのころ捕縛されていた蘭学者の幡崎鼎(はたざきかなえ)と親しい者として、英龍や川路聖謨、羽倉簡堂といった尚歯会のメンバー、奥村喜三郎、内田弥太郎などの測量隊の面々などの名前までを鳥居に報告します。

この結果を受け、鳥居はすぐに渡辺崋山の家宅捜索を命令し、その結果、草稿として箱にしまってあった「慎機論」や「西洋事情書」が押収されます。そして、その内容が幕府の対外政策に批判的であることが明らかとなったため、同年5月には崋山を逮捕、7月には有罪を申し渡し、12月からは在所蟄居が命じられました。

これがいわゆる「蛮社の獄」といわれる言論弾圧事件であり、尚歯会のメンバーとしては渡辺崋山と高野長英が入牢することになります。鳥居らはさらに、本岐道平という元徒士が小笠原諸島に隠密裏に渡航しようとしたとして、本岐ほか6名を逮捕。さらには本岐の渡航計画に崋山が加担し、自らもアメリカへ渡ろうとしていたという旨の告発状を幕府に提出します。

蛮社の獄ではこのほかにも、キリストの伝記を翻訳していた小関三英という人物が逮捕直前に自殺しています。

しかし、鳥居が水野忠邦に提出した告発状の中には、他の尚歯会メンバーなどは含まれておらず、英龍や川路の名前もありませんでした。これは、英龍や川路聖謨を水野忠邦が高く評価していたからであり、鳥居が水野に遠慮したからだといわれています。

その年の12月には鳥居の告訴状にあった人物全員に評定所から判決が言い渡されましたが、その結果、本岐らの小笠原諸島計画等に関わった人物たちには100日間の入牢などの比較的軽い刑が言い渡されたのに対し、渡辺崋山には幕政批判のかどなどで地元の田原(現愛知県田原市東部)で蟄居が命ぜられ、高野長英には永牢、すなわち終身刑が命ぜられました。

その後崋山は、判決翌年の1月に地元三河の田原藩に護送され暮らし始めましたが、生活が困窮した上に藩内では反崋山派の策動があり、また彼らが崋山が藩主を問責したという風説を流したことなどを苦にして、蛮社の獄から2年半後の1841年(天保12年)に自刃しています。享年49才。

また高野長英は、判決から4年半後の1844年(弘化元年)、牢に放火して脱獄しています。そして蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しましたが、脱獄から6年後の1850年(嘉永3年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。

長英自身の人物像としては、若いころから才能を鼻にかけて増長する傾向があったそうで、仲間内の評判も悪かったようです。その一方、服役後、牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えており、もともと親分肌の気性であったためか牢名主として祭り上げられるようになったといいます。

脱獄後は酸で顔を焼いてまでして逃げおおせようとしたという逸話も残っており、自己の才を惜しむ自我の強い人間だったようです。とはいえ、当時の蘭学者として最大の実力者のひとりであり、生きていれば討幕の旗手としてその才能を発揮できたでしょうが、惜しいことに享年47才の若さで亡くなりました。

しかし、マムシの耀蔵が行った開明派への弾圧はこれにとどまりませんでした。その魔の手は英龍の盟友だった崋山や長英などの尚歯会メンバーのみにとどまらず、やがてその恩師にまで及んでいくようになります(……続く)。