北の国から


今年も母の日が近づいてきました。

我が家でも毎年、山口にいる母に、たいてい花やら何やらをプレゼントするようにしています。

今年は、何にしようかな~と思っていましたが、先日母が「来豆」してきたとき、前にあげたバラを枯らしてしまったと言っていたのをタエさんが覚えており、じゃぁ、その代りのバラにしようか、ということになり、昨日、長泉町のサントムーンで、薄いオレンジ色のバラをみつけ、これを贈ることにしました。

花好きの母のことですから、きっと喜んでくれることでしょう。

ところで、花といえば、先日松崎町の花畑のお話を少し書きかけました。町の有志達が、毎年のように休耕田を利用して、ここに色とりどりの花を植えて観光客に開放しています。

春先に那賀川のサクラを見に行ったときにも、咲き誇っていましたが、今はまた季節が進んで、矢車草やひなげしといったまた別の花々がたくさん咲いていました。

休耕田は、連休明けから本来の目的である田んぼとして使われるため、この美しい花々は連休までの命ということで、我々が行ったその日が、その雄姿をみれる最後の日。どうせ翌日からは刈ってしまうから、ということで、観光客が自由に摘んでもかまわない、と自由な立ち入りが許されており、このため花目当ての多くの人たちで賑わっていました。

このとき持ち帰った花々は、両手で持ち抱えるほどあり、これをタエさんがほとんど半日かけて剪定。今、我が家のあちこちで、その蕾が開き、実に華やかです。いつまでももってくれればいいのですが、花の命は短くて……であり、今月一杯もたせるのはさすがに難しいでしょう。とはいえ、精一杯咲いてくれている花たちに感謝感謝です。

この松崎での「花狩り」の際には、そのすぐ近くにある道の駅、「花の三聖園」で昼食をとりました。タエさんの頼んだざるそばには、松崎の海岸で採れる岩のりを使った小丼と、本物のワサビまでついてきて1000円弱という安さ!しかも味も上等で、私は暖かい山菜そばを頂いたのですが、こちらも大変よかったです。

道の駅の食事には嗜好をこらしたものを出すところも多く、この「道の駅三聖園」もそのひとつであり正解だったと思います。みなさんもごひいきにしてあげてください。

依田勉三のこと

さて、以前このブログでは、この「花の三聖苑」の名前の由来になった「松崎三聖人」について触れました(3/27「松崎にて」)。

この道の駅の敷地内には、「大沢学舎」という古い建物がありますが、これはその松崎三聖人の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校です。

依田家の先祖はもともと信州におり、武田信玄の子の武田勝頼に仕えていた重臣でしたが、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのび、その後この地で商家として栄えるようになりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになったことなどを先般のブログで書きました。

この三聖人の残り二人ですが、一人は、幕末松崎の漢学者で「土屋三余(つちやさんよ)」という人物。松崎のこの地の名門の武士の家に生まれ、江戸で漢学を学び帰郷し、「三余塾」を開き、この当時としては「士農の差別をなくす」という革新的な思想をもって、農家の子弟をも教育しました。

この結果、門下生に数多くの逸材が育つようになり、依田佐二平はその一人です。そして、この佐二平の弟が、三聖人のもう一人、「依田勉三(よだべんぞう)」になります。今日は、この依田勉三について、書いていきたいと思います。

本州ではあまり馴染のない人物です。北海道では札幌にある「北海道神宮」の末社である「開拓神社」の祭神にまで祭りあげられていますが、だからといってそれほど知名度の高い人物ではありません。

ちなみに、この北海道神宮というのは、北海道では一番大きな神社のひとつです。が、その歴史はそれほど古くはなく、明治時代に創建されたものです。この当時、北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシアに対する守りのために建てられたということで、その大鳥居が北東を向いています。

明治4年(1871年)6月14日に勅旨によって「札幌神社」と命名され、国幣小社に列せられました。国幣小社というのは、式内社(10世紀初頭には朝廷から「官社」として認識されていた由緒ある神社)としては、官幣大社、国幣大社、官幣小社に次ぐ一番下の社格でしたが、翌明治5年(1872年)には一つ上の官幣小社に昇格しています。

北海道の開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するように明治2年にわざわざ勅を発しており、これによって、北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神が「開拓三神」として奉ぜられるようになりました。

これ以前にも北海道の各地に神社はありましたが、各地方の人々の個々の信仰に拠って建立されたものにすぎなかったため、この札幌神社ができて以降は、北海道で公式に認可される神社は日本の祭政制度にのっとって建てられるようになりました。

また、その後二次大戦前までには北海道だけでなく、全国的に国民統制のための国家神道が行われるようになりましたが、北海道においてもこの札幌神社がその中心地となり、札幌神社内には皇典講究所の分所が設けられ、北海道内の神職の養成や教布が行われるようになりました。

戦後の昭和39年(1964年)、明治天皇を合祀し、社名を現在の「北海道神宮」へと改めました。現在北海道では一番大きな神社として、多くの参拝客を集めています。祭神には、前述のように北海道開拓の守護神として三神が選ばれていますが、境内には数々の「末社」があり、ここには、北海道開拓で功績のあった人達も祀られてます。

その一つが「開拓神社」であり、ここには依田勉三だけでなく、間宮林蔵ほかの北海道開拓の功労者が数多く祀られているのです。

北海道開拓に至るまで

さて、伊豆で生まれた依田勉三が、なぜこの北海道で開拓をするように至ったのかについてみていきましょう。

依田家は、前述のように甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現松崎町)の豪農で、1853年(嘉永6年)、勉三はこの家の三男として生まれました。長兄は依田佐二平です。次男は幼くして亡くなったため、勉三が戸籍上は次男となりました。

幼名を久良之助といい、三聖人の一人、土屋三余や、西郷頼母(保科酔月)などから漢籍を教わっています。西郷頼母というのは、今NHK大河ドラマで放映されている八重の桜にも登場する会津藩の元家老のことです。

幕末の動乱のあと、依田佐二平に請われて伊豆へやってきて、多くの師弟を育てたことは、3/28のブログ「頼母のこと」でも書きましたので、詳しくはそちらを読んでみてください。

佐二平と勉三の兄弟は7つ離れています。兄弟は、勉三が12歳のときに母を亡くしていまが、さらにその母の後を追うように2年後には父が死去したため、依田家は、兄の佐二平が後を継ぐことになりました。勉三が14歳ですから、兄の佐二平は21歳になっており、当主としては若いながらも申し分のない年齢でした。

しかし、若くして当主となったため、主としてはもっと学をつけさせるべきと周囲が見なしたためか、弟の勉三とともに、那賀村から3kmほど離れた松崎町にある土屋三余の私塾であった「三余塾」で学ぶようになります。

「三余」とは、塾頭の土屋が「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことにより、この三余を土屋は自らの名前としても使っています。ちなみに、「三余」とは、一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、時のうちでは雨降りのことです。

ここで、国学や儒教などの基本的な学問を習得した勉三は、19歳の時に上京します。1872年(明治4年)のことであり、維新の動乱も終わり、ようやく世の中が開明に向かって動き出そうとしていた時代でした。

この上京で、勉三は、はスコットランド出身の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840~1901)という人物が営んでいた英学塾に学ぶようになります。

勉三がこのワデルをどうやって知り得たのかについては詳しくはよくわかりませんが、兄の佐二平はこのころ、地元のリーダーとして殖産興業に励むようになっており、欧米諸国への輸出品を研究しており、その関係から兄を通じて在日外国人の情報を得たのかもしれません。

兄の佐二平はその後製糸業に注目し、これを地域の産業基盤にすべく、この当時官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣したりしています。

彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷したあと、明治8年に松崎に設立された製糸工場はその後大きな繁栄をしていくことになりますが、こうした欧米の技術を導入する関係から、多くの外国通や欧米人とも知り合ったと想像され、弟の勉三が上京するにあたっては、その人脈を活用したと考えられます。

とまれ、こうして勉三は、維新後まもない東京で勉学に励むようになり、このワデルの英学塾では、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎や渡辺勝とも知り合っています。

こうして勉強に励んだ甲斐あって、その後慶應義塾に進むことができ、さらに当時の新知識を吸収。慶応義塾の創設者、福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てるようになります。

ところが、慶応義塾に在学して2年が経ったころ、胃病を患うようになり、しかも脚気にかかってしまったことから、義塾を中退して郷里の伊豆に帰ってきてしまいます。

そして、しばらくは療養に専念していましたが、兄の佐二平が洋学校を設立したいと言いだしたためこれに協力することにし、自らもこの学校で教師として働くことを決めます。そして、ワデルの英語塾時代に知り合ったに渡辺勝に働きかけ、彼を伊豆に招致することにも成功します。

明治12年(1879年)、渡辺を教頭として下田の北側にあった蓮薹寺村に私立「豆陽学校」を開校。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更したのち、昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となります。同校の同窓会は現在でも豆陽会を名乗っています。

そもそも依田佐二平は、製糸業で成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめています。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」(大沢塾)です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていましたが、やがて明治維新が起こるとその内容も古くさくなっていたため、明治5年(1872年)にはこの大沢学舎をさらにグレードアップさせた、「謹申学舎」を設立しています。

ちなみに、松崎にはこのほかにも、1880年(明治13年)に竣工し、伊豆地域では最古の小学校として知られる岩科学校(いわしながっこう)があり、この学校は1975年(昭和50年)には国の重要文化財に指定され、現在では有名な観光地になっています。

実は、先日の「花狩り」に行った際に我々もここへ行きました。木造の寄棟造で二階建瓦葺の立派な建物であり、その外観の大きな特徴としてはなまこ壁が挙げられます。室内には「千羽鶴」の「鏝絵(こてえ)」などがあり、この鏝絵の作者は左官の名工として名高い工芸家で、松崎町出身の「入江長八」です。

正面玄関の「岩科学校」扁額は、最後の太政大臣、内大臣正一位大勲位公爵、三条実美の書ということであり、学校を作るにあたっては、東京の有名人などからも寄付やこうした協力が寄せられました。総工費の4割余りを住民の寄付でまかなうという地元の厚い熱意にも支えられて、1880年(明治13年)竣工。

この寄付をした住民の中には、当然のことながら依田佐二平も含まれていたはずです。これによって佐二平はその生涯において、「大沢学舎」「謹申学舎」「豆陽学校」「岩科学校」の四つもの学校の創設に関わっていたことになり、このことからも彼がいかに教育というものに関心が深かったのかがわかります。

この岩科学校は、国の重要文化財に指定されるまでは、学校としても使われた時期もあったようですが、その後すぐ隣に新校舎の松崎町立岩科小学校が建てられたため、学校施設としてはもはや使われることはなくなりました。

ちなみにこの隣接する岩科小学校も少子化によって2007年3月に廃校しており、我々が行ったときもガランとした広い校庭に遊ぶ子供たちの姿はありませんでした。

その後、岩科学校は老朽化も進んでいたことから、2年かけていったん解体され、1992年(平成4年)までに元の形に復元され、復元工事の終了とともに博物館として公開されています(有料)。

1875年(明治8年)、松崎町内に岩科商社として建設され、その後、岩科村役場として使用されていた建物も校庭内に移築されており、現在は「開花亭」という名前の休憩所兼お土産物屋さんとして利用されています。

さらにちなみにですが、この岩科学校の教員に「山口磐山」という人物がいたらしく、この人は会津藩の九代藩主松平容保のもとで働いていたそうです。どういう身分の人だったのかはよくわかりませんが、1877年(明治10年)、岩科学校の創案者であり岩科村戸長でもあった佐藤源吉の招きによって岩科学校の教員となったようです。

山口は岩科学校に隣接する天然寺で慎独塾も開いていたそうですが、病に倒れたため慎独塾は他人の手に渡り、1881年(明治14年)に明道義塾と改称されています。1883年(明治16年)死去。門下生によってほど近くの天然寺に墓が建てられているといいます。

このように、西郷頼母もこの山口磐山も会津の殿様に近い人だったというあまり知られていない事実があり、これらのことから伊豆と会津というのは、その昔からかなりの人物交流があったことがうかがわれます。確かほかにも会津から来た人がいたという記録を読んだことがあります。

が、今日のところはまた話が脱線中のことでもあり、そのことに触れるのはやめておきましょう。また調べてみて面白いことがわかったら、アップしたいと思います。

北海道へ

さて、ずいぶん話が飛んでしましました。こうして、東京から郷里の伊豆に戻り、病を治しながらも兄の佐二平の学校づくりに協力していた勉三ですが、その後病気もようやく癒えたのか、明治12年(1879年)、26歳のとき、同じ村出身の従妹のリクと結婚しています。

北海道開拓の志を固めたのはどうやらこのころのことのようです。なぜ、北海道だったのか、という点についていえば突拍子もない感じもするのですが、幕末から明治のはじめにかけての伊豆では、二宮尊徳の影響が色濃く、農本思想(報徳思想)と呼ばれる思想が学校でも子供たちに強く植え付けられていたようです。

土屋三余の塾でも繰り返しこの思想が教えらえていたようで、この報徳思想では、二経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。

二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などの学問と、農業の実践とを組み合わせた思想であり、「豊かに生きるための知恵」として、「至誠・勤労・分度・推譲」を行うことが大事と説いており、これによって物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるということを思想の根本に置いています。

要するに社会のために、私利私欲を捨てて生きろ、ということであり、このころまだ未開拓であった北海道の大地を切り開き、国民の利益のために供することこそが、勉三にとっての報徳思想の実践と考えられたのでしょう。

色々な史料にざっと目を通しところ、どうやらこうした開拓精神は既に幼少時代から勉三に植えつけられていたらしく、東京で学び、伊豆へ帰ってきて子弟に教育をしている間にもその理想は熟成されていき、やがては未知の北海道の荒野へ自らを投入することに憧れを抱いていくようになっていったのではないでしょうか。

また、勉三は慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けています。福沢諭吉は独立自尊を説き、人口激増・食料不足を補うために北海道を大いに開拓すべきであるということを、その門人たちに語っていたようです。

これによって勉三はしだいに開拓報国の念を強くしていったとも考えられ、とくに明治8年(1875)に発表された北海道開拓の全体構想を示した「ケプロン報文」に出会い、北海道開拓に生涯を賭ける決意を固めたともいわれています。

ケプロンというのは、アメリカのマサチューセッツ州出身の元米国農務省長官(農務局長)であった、ホーレス・ケプロン(1804~1885)のことであり、1870 年(明治3 年)に開拓次官となった黒田清隆らが、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求め、開拓使顧問として招聘した人物です。

1869 年(明治2 年)、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、その2年後の1871 年(明治4 年)に来日し、開拓使顧問に就任。当時67歳でした。同年、このケプロンの指導で、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われています。

その後ケプロンは3年10ヵ月もの間日本に滞在し、この間3回にわたり、北海道内各地の視察・調査しており、このときに作成したのが「ケプロン報文」です。

「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提案したものであり、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークが学長に迎えられ、明治9年に札幌農学校が開校しています。

ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。

若き日の依田勉三もまた、その報文を目にし、幼いころから身についていた開拓精神にこれが火をつけたに違いありません。

開拓の開始

こうして、結婚してわずか二年後の明治14年(1881年)、とりあえずは妻をも連れず単身で現地へ渡ることを決め、北海道の中でもとくに人跡未踏といわれるほど険しい原野ばかりであった「十勝」へ向かうことになります。

明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につきます。

さらに翌15年(1883年)、かつて英学塾で同学だった旧上田藩士族・鈴木銃太郎に声をかけ、賛同を得ると彼を連れて再び北海道に渡った勉三は、開拓の目標をいよいよ十勝に定め、当時札幌県に属することになっていた現地で、土地貸し下げの申請まで行っています。

そしていったんは伊豆へ帰郷して、兄の佐二平に十勝の将来性を力説します。このころには製糸業で成功を収めていた佐二平もまたこの弟の熱意に心を打たれ、農場建設のため、自らを社長とする「晩成社」を設立して彼に協力することにします。

社名は「大器晩成」にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させたいという、兄弟の意気込みがうかがわれます。

こうして晩成社を設立した勉三らは、まずは政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようと考え、渡辺と鈴木、そして鈴木の父らとともに横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い出ます。

この鈴木銃太郎の父は親長といい、英学塾でも親しかった渡辺勝とその妻のカネも含めて全員が洗礼を受けた熱心なクリスチャンだったそうです。勉三だけはクリスチャンではなかったようですが、生涯にわたって勉三の盟友となった彼らの篤い信仰心は、その後の未開地入植において大きな精神的支柱になったようです。

勝と結婚したカネは横浜の共立女学校(ミッションスクール)の英学部を出た才媛で、入植後は、熱心に社員とアイヌの子供たちにも読み書きを教え、「十勝開拓の母」と称されているそうです。

こうして十勝へ向かった彼らは、十勝国河西郡下帯広村(現帯広市)を開墾予定地と定めましたが、この頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだったといいます。

この地に鈴木銃太郎と鈴木親長を残し、勉三は今度はここで働く人材を集めるため、いったん渡辺勝とともに伊豆へ帰り、移民の募集を開始します。その呼びかけによって、13戸27人を集めることができた勉三らは、明治16年(1883年)4月に彼らとともに横浜港を出港しました。

函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月に帯広に到着。かねてよりの念願であった帯広の開拓を開始しました。

しかし、その開拓への道のりはなまやさしいものではありませんでした。帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にはイナゴの大群が襲います。食糧としてアワを蒔き付けますが、天候の不順に見舞われ、ウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫はできません。

明治17年(1884年)になっても、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間には次第に絶望が広まっていきます。勉三は内地から取り寄せた米一年分を帯広南部の海岸沿いにある街、大津(現在の豊頃町)に貯蔵しましたが、内陸部にある帯広への輸送が困難な状況でした。

このため食糧不足を打開するため、大津のすぐ近くにあった当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)で今度は、牧畜を主とした主畜農業を始めます。明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指しました。

また、馬鈴薯澱粉などの栽培の研究も始め、農耕の機械化を試みました。しかし始めた事業はどれもうまくいかず、当初13戸あった移民住宅はついには3戸にまで減少してしまいました。

しかし、その後も努力を続けた結果、明治25年(1892年)頃までには、ようやく色々手がけた試みが効を奏するようになり、食糧事情は徐々に好変し、とくに小豆・大豆などの収穫が少しずつ多くなってきました。

とはいえ、当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていましたが、9年を経たこの時点では目標には遠く及ばず、わずか30町歩を開墾するのにとどまっていました。

兄の佐二平はそんな弟を責めることなく援助を続け、自らの製糸業は好調であったことから、叙勲を受けたのを機会にさらに強気に晩成社の事業を拡大しようとします。そして、会社組織を合資会社とし、社名も「晩成合資会社」と改めました。

函館に牛肉店を開業し、札幌北部の石狩にある当別村に畜産会社を新たに創設。帯広にも木工場を作るとともに、帯広に近い然別村(現在の音更町)には新たな牧場も開くなど、むしろ事業をどんどんと拡大していきました。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると、思いがけなく多くの移民が殺到しました。これを追い風として、明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等も造るなど、内地での佐二平の財にモノを言わせて、考えられる限りのありとあらゆる事業に進出していきました。

しかし、結局のところ、晩成社が手掛けたこれらの事業は何れも成功することはありませんでした。彼らが手を着けたこれらの事業は、現在の十勝・帯広地方を育む重要な地場産業に成長しましたが、佐二平、勉三が育てた晩成社の経営は、その多角化が裏目に出、やがていずれもが芽を出すこともなく、じり貧に追い込まれていきました。

大正5年(1916年)には、とうとう主な収益源であった売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却せざるを得ないほど業績は悪化し、これを皮切りに他の事業も次々と閉鎖に追い込まれ、晩成社の活動は事実上休止することになります。

それから4年の歳月が過ぎました。この間、なおも勉三は細々ながら帯広開拓を続けていたと思われます。農場経営等の事業は相変わらずも厳しいながら、大正9 年には、現帯広市南部に新たに開いた「途別農場」ではそこそこの収益を上げることができ、その一応の成功を記念して関係者を集めた祝宴を開いています。

久しぶりに鈴木銃太郎や渡辺勝など晩成社同志12人が顔を合わせて、勉三の成功を心から祝ったといわれ、この時、勉三は68 歳になっていました。苦難つづきの晩成社の開拓の歴史の中で、この日だけは最良の日であったと勉三は後年述懐しています。

しかし、その後も経営難をかかえたまま事業を継続せざるを得ず、晩成社の所有地売却などを行いながら、なんとかしのぎを削って生活を続けていました。

そんな中、大正14年(1925年)、勉三は中風症に倒れます。その勉三を献身的に看病をしたのは、二番目の妻のサヨでした。

最初の妻のリクは、勉三とともに当初から帯広で開拓の手伝いをしていましたが、無理が祟って体を壊したため、伊豆へいったん帰国させました。そして明治22 年(1889)に4年間の伊豆療養から帯広に戻りますが、やがて病気が再発。

このため、明治27 年(1894)、勉三はリクと「愛ある離婚」を決意。その療養のため泣く泣く伊豆へ帰しています。その後世話する人があって、再婚したのが翌年函館生まれで、二人の娘を持つ馬場サヨでした。

勉三・サヨの間に千世という男子が生まれますが、わずか二ヶ月で病死。リクと間にも子供を設けなかった勉三は、結局実子には恵まれていません。

しかし、このサヨもまた、勉三への献身的な看病が祟り、大正14年(1925年)の9月に死去。この年の10月には、兄の佐二平も亡くなりました。

そして、その2か月後の12月、勉三もまた、彼らの後を追うように、帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取りました。享年73。

勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」といいながらこと切れたといいます。

勉三の死後、昭和7年(1932年)には晩成合資会社は解散し、まるでこれと入れ違いのように、翌年の昭和8年(1933年)帯広が北海道で7番目の市制を施行しました。

晩成社設立当初の15 年間の償還期間はその後25 年に延期されましたが、事業が順調に推移しなかったことから、借金も雪ダルマ式に増えていきました。

佐二平の配慮によってさらにこの開拓目標期間は50 年に引き延ばされましたが、それでも成功せず、昭和7年、創業50年満期となったため、莫大な負債をかかえたまま倒産同様に解散したのです。

晩成社員に残された土地も、出資者への配当もなく、勉三所有の土地も一坪もなかったそうで、すべて借財の返済にあてられました。

しかし、勉三が若き日、慶応義塾の福沢諭吉の薫陶を受け・ケプロン報文に出会って北海道開拓の決意を固めた決意は、入植以後約半世紀すこしも揺るがず、十勝開拓の先駆者としてその名をこの地に残しました。

開拓済民の使命感をもって困難な開墾作業にあたり、さらに役所の手続き、農作物の種子肥料・牛馬豚の買い付け、小作人集めなどに東奔西走した苦闘の生涯は、現在でもあらゆる十勝産業の基盤整備の「礎」として高く評価されています。

「ますらをが心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て」という歌は、依田勉三が若き頃詠った歌とされています。「ますらを」とは、「益荒男」と書き、りっぱな男、勇気のある強い男を意味します。

勉三が北海道入植を決意した際、その強い志を周囲に示すために歌ったものであり、現在でもこの歌だけは、入植者の心意気を示した歌として帯広市民だけでなく、道内では広く知られているようです。

勉三の死後から、16年後の昭和16年(1941年)帯広神社前に銅像が建立され、この銅像は戦時中に金属応召によって供されましたが、昭和26年(1951年)7月に銅像が再建されています。

昭和29年(1954年)9月には北海道開拓神社(現北海道神宮)に勉三は合祀されました。

帯広市の菓子メーカー六花亭が作るお土産物として有名なお菓子、「マルセイバターサンド」は勉三等の晩成社を記念したものだそうです。

このように、帯広開拓を通じての勉三の生涯はけっして平坦なものではなく、その結果も本人に報いるようなものではありませんでしたが、彼の苦闘の生涯は多くの開拓民の中にあっても代表的なものとして数多く記録に残され、その後の北海道を形成した開拓精神を培った人物として高く評価する人も多いようです。

その出身地である伊豆においても、昭和60年(1985年)の4月、出身地である松崎町では勉三と兄の佐二平、土屋三余の3人の偉業を讃え、第1回中川三聖まつりが開催されました。以後毎年4月第1日曜日に開催され、現在に至っています。

北海道でも、平成元年(1989年)に、明治26年(1893年)から大正4年(1915年)頃まで勉三が当縁村生花苗で住んだ住居が復元され「依田勉三翁住居」として大樹町の史跡の一つになるなど、もうすぐ死後100年になろうとしている昨今、その業績を再評価する動きも高まっているようです。

10年ほど前の平成14年(2002年)には、勉三が十勝の開拓を始めた開基120年を記念して、勉三の生涯を綴る映画「新しい風 – 若き日の依田勉三」が製作され、この作品は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いたそうです。

勉三役は北村一輝さんだそうで、無論私もこの映画はみたことがありませんが、今度TSUTAYAででも探してみようかと思っています。みなさんもビデオ屋さんでみかけるかもしれませんので、気に留めておいてください。

さて、今日も今日とて長くなりました。この項は終わりにします。

明日はひさびさの雨模様のようです。せっかくの週末なのに……ですが、あさってには回復するとのこと。このあいだ行けなかった、奥の院にも行かなくてはいけません。新緑は始まったばかりかと思っていましたが、日に日にその緑も深くなりつつあります。

手遅れにならないうちに、思う存分、新緑狩りに出かけることにしましょう。

松崎にて


昨日のこと、終日お天気がよさそうだということで、西伊豆の松崎町に行ってきました。

松崎を訪れるのはこれが3回目ぐらいになるのですが、訪れた、といっても、いつも通過しただけのことであり、そのうちの一回だけは町内の喫茶店でお茶をしたものの、既に夕方近かったため町内見物はせずに終わってしまいました。

松崎は、伊豆の中でも下田と並んで歴史的なスポットが多いことは知ってはいるのですが、どちらかといえば地味なものが多く、名所もあちこちに分散しているため、気にはなってはいたものの、なかなか訪れるきっかけもありませんでした。

ところが、急にここを訪れる気になったのは、伊豆各地の桜の開花状況を調べていたところ、この町を流れる「那賀川」という川堤のサクラがきれいだ、という有力情報を得たからでした。

それによれば、この那賀川沿いには、河口から上流5~6kmくらいのところまで延々と桜並木が続いており、いまちょうどこれが満開を迎えているとのこと。以前から、下田方面から松崎を通る際、この桜並木があるのには気が付いていたのですが、改めてそういう情報サイトをみてそのことを思い出したのです。

それにしても、那賀川、というのは河津桜に比べるとほとんど知られていないのではないでしょうか。だいたい、「なか川」といえば、字は違いますが、那須を源流とし、主に茨城県内を流れ那珂川のほうが有名なので、伊豆の那賀川?といわれてもピンとこない人も多いと思います。

しかし、色々調べてみると、伊豆の中でも伊豆高原の桜と沼津香貫山の桜と並び称されるほどここの桜は有名なようで、ただ、場所が西伊豆の最南端ということでアクセスが非常に悪く、あまり知られていないがために、関東方面からも行く人が少ないためだとわかりました。

これはきっと穴場に違いない、と伊豆のあちこちでサクラが満開の便りが届くようになった昨日、今日はどうやら一日天気がよさそうだ、ということで出かけることを決めたのでした。

お昼少し前から出て現地に到着したのは一時過ぎでした。実は松崎にはタエさんがお目当てにしていたイタリア料理店があり、このお店の食事も楽しみにしていたのですが、ここを訪れたところたまたま満席で入れませんでした。仕方なく、松崎町内の別のパスタ屋さんで軽く食事を済ませて、いざ目的地の那賀川へ。

国道136号から那珂川河口手前を左折して上流へ遡っていくと、もうその入口付近から既に川沿いに見事の桜が咲いています。

さらに上流へ進むにつれ、この桜並木はだんだんと密度を増していき、3kmほど行ったところに、桜祭りの臨時の駐車場が作られていたので、ここにクルマを止めました。うれしいことに終日無料です。

平日ということもあり、駐車場も一杯というほどではなく、難なく止めることができましたが、辺鄙なところにあるとはいえ、土日などの週末にはきっとそれなりの車であふれかえっていることでしょう。

早速クルマから下りて川沿い、川の右岸側に整備されている桜1200本の「花道」を散策し始めましたが、人や出店とその熱気でごった返していた河津町のサクラ祭りとはうって違って、観光客もまばらで、タエさんと二人でかなり離れて歩いていても、はぐれる、などということは考えられないほどでした。

なんでこんなに見事なのに人が少ないだろう、と拍子抜けするほどであり、改めて思うにそれはやはりここ松崎町が辺境の町ということにほかなりません(松崎の方、ゴメンナサイ)。

しかし、結論からいうと、ここのサクラは河津桜に匹敵するほどスゴイ!といえます。何よりも川沿いにびっしりと植えられた桜の木々が比較的若い、といっても背丈が小さいという意味ではなく、老齢化していないという意味で、おそらくは樹齢30~40年のいわば成熟した桜並木であるためでしょう。木々に勢いがあります。

これでもかこれでもか、というほど枝々にたわわに花がついていて、背後の薄い消し炭で描いたようななだらかな山々にポツポツと芽生えた薄緑にこのピンクの桜の花が生えて、これまた美しいといったらありません。

桜の木の下には、菜の花もあちこちに咲いており、この甘やかな臭いもあたりに充満しており、さらに、さらさらと流れる那珂川の水の流れも清らかで、視覚と嗅覚、そして聴覚の三つでここ松崎の春をしっかりと堪能できました。

ただ、惜しむらくは好天という天気予報だったのにもかかわらず、この日は少し花曇り気味であり、このため晴れ上がった青い空のスカイブルーとうすピンク色のサクラの取り合わせというのが写真に収められなかったのが少々残念。

しかし、これを補ってあまりある別のものもありました。それは、この那珂川の右岸側に広がる休耕田を利用した、お花畑です。およそ5万㎡と、とてつもなく広い田んぼが、那珂川の右岸側には広がっており、ここに町内のボランティアの方々が植えた花々が、色とりどりに咲き誇っています。

3月中旬から咲き始めるということでしたが、我々が訪れたときには、アフリカキンセンカ、姫金魚草、マシロヒナギクなどがほぼ満開状態で、このあと4月に入り、ゴールデンウイークにかけても、矢車草やひなげし(ポピー)などが次々と咲き続けていくのだとか。

こうした栽培種外にも普通のレンゲ畑なども広がっていて、遠目にみると本当に色とりどりの絨毯を敷き詰めたようであり、さらにこれらの花々のはるか向こうに連なる淡いピンク色のサクラ並木との組み合わせもまた、素晴らしいものでした。

これら花の競演に酔いしれていたのは、だいたい2時間くらいでしょうか。さすがに少々疲れたので、クルマに戻り、お茶など飲んで一服したあと、それでもまだ4時前だったので、今度はこの更に上流にあるという大沢温泉に行ってみることに。

この大沢温泉沿いに流れる那珂川の支川、「池代川」沿いにも樹齢50年余の桜並木があり、ここのサクラも美しいらしいということをタエさんがネットで調べていたのです。そのすぐそばにある道の駅、「花の三聖苑伊豆松崎」にクルマを止めて、早速散策に。

この池代川は、那珂川に比べれば上流にあるため小ぶりで、川幅も10mあるかないかでしょうか。しかし、逆に川幅が狭い分、その両側に枝を広げる桜同士がより近く、折りしも天候も急によくなって陽射しも出てきたため、逆光の中に生えるこれら山あいの生い茂った桜の枝々に咲き誇る花のこれまた美しいこと美しいこと……

思わず酔いしれてしまった……というと言い過ぎかもしれませんが、久々に日本の原風景らしい美しい桜を見た、というかんじで、本当に感動しました。その素晴らしさは私の下手な文章ではこれ以上どうにも表現がしようがないので、これはもう、みなさんもぜひ行っていただくしかありません。「池代川の桜」、覚えておいていつか行ってみてください。

ところで、この川沿いのすぐ右岸側には、なにやら古式ゆかしい大きな建物があるので、何かなと思って看板をみると、「大沢温泉ホテル」と書いてあります。

そういえば、先ほど車を止めた「道の駅 花の三聖苑」敷地内には、「大沢学舎」という古い建物があり、これはその昔、松崎の「三聖人」の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校を移築したものだということでした。

明治6年に建築され、その後別の場所に移築されて使用されていたものを、平成5年にできたこの道の駅に移され、開校当初の姿に復元されたとのこと。中に入ると、この依田佐二平が自宅の敷地内に興したという大きな製糸工場の写真が掲げられていたのですが、先ほどの大沢温泉ホテルは、どうやらこの工場の名残のようです。

今朝になってそのことを調べてみると、依田家の先祖は、もともと信州・小県郡依田の庄にあって武田信玄とその子、勝頼に仕えていた重臣で、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのびたといいます。

そして、その後商家として栄えるようになります。依田家の生業は幕府への年貢米の上納や、背後にひかえた天城山の山林開発・薪炭生産であり、ここで伐採した木材は屋敷の前を流れる那賀川を利用し、松崎湊まで運び更に江戸や上方にまで回漕したといいます。

回漕には自らの持ち船である八百石の「金比羅丸」を使用したという記録も残っており、江戸時代末期までには松崎、いや伊豆でも一二を争うほどの豪商となりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになりました。

現在の当主は14代目に当たり、宿の母屋と土蔵は330年前、元禄時代の建物で国の登録有形文化財に指定されているとのことで、そういう文化財でありながら、ホテルとしても使われているようで、知る人ぞ知るホテルのようです。

ネットで調べてみると、なかなか「いい商売」をされているようで、部屋は全部で25室、その内の3室は江戸時代の建築だとのこと。かつての当主が住んでいた棟を離れとしたり、赤漆・黒漆が塗られた贅を尽くし部屋などで、これらが登録有形文化財に指定されているみたいです。

宿泊料金は2人1室1人18000円~35000円の範囲、離れは別としてだいたい2万円前後といいますから、まあちょっと贅沢をしたいときに泊まるホテルといったところでしょう。

しかし、300年の歴史ものあるこの重厚な雰囲気にはなかなか惹かれるものがあり、今回は桜見物のみの目的できましたが、今度余裕があれば、夏場のホタル狩りついでにでもぜひ宿泊してみたいものです。

ところで、前述の松崎の「三聖人」ですが、次の三人のことで、いずれも幕末から明治期にかけて活躍した人々です。

幕末松崎の漢学者 土屋三余(つちやさんよ)

1815年(文化12年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の名門土屋家に生まれる。江戸で漢学を学び帰郷、「三余塾」を開く。「三余」とは、「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことによる。門下生に逸材も多く、依田佐二平、依田勉三などの数多くの郷土の偉人を育てた。

郷土発展の功労者 依田佐二平(よださじへい)

1846年(弘化3年)松崎町大沢の「依田家」の長男として生まれる。三余塾で学んだのち、江戸に出て西洋の学問を学ぶ。1964年(元治元年)に帰郷して「大沢塾」を設立、教育事業に乗り出す。養蚕業の近代化における功績は大きく、産業振興、海運振興、さらには弟の依田勉三ら弟たちを北海道開拓に送り出し、困難な開拓事業に取り組んだ。

北海道開拓の先駆者 依田勉三(よだべんぞう)

1853年(嘉永6年)依田家の三男として生まれる。兄佐二平とともに三余塾で学び、幼少から開拓精神に目覚め、その後十勝開拓のため「晩成社」を設立。明治16年開拓団27名とともに北海道へ渡るが、開拓は干ばつ、長雨、害虫などの天災に見舞われ、難渋をきわめた。苦節四十余年、事業は地元に根付くも、企業家としては実りのないままに、大正14年72才で没。

この三聖人のうちの依田佐二平という人は、下田にペリーの黒船が来航し幕府に開国をせまるという歴史的大事件によって、大きな衝撃を受けたといいます。松崎でもその激動の余波は大きく、そのころ依田家十一代の当主となっていた佐二平は、地元のリーダーの一人として松崎も変わらなければ時代に取り残されるという危機感を持ったようです。

そして、地方のリーダーとして目覚めた彼は、殖産復興に励むようになり、当時、欧米諸国への輸出品として注目された生糸を地域の産業基盤にすることを思いつきます。このため、官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣し、彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷すると、明治8年、松崎に製糸工場を建設しました。

静岡県下初めての製糸工場であり、その翌年の明治9年には工場を大沢の自邸内に移し、3階建ての大蚕室を設けます。私たちが、三聖園に移築された大沢学舎でみた、大沢温泉ホテルの前身の建物の写真がこれになります。

この製糸事業への情熱は海外各地で評価され、やがて「松崎シルク」の名を世界にひろめるまでになり、明治末期には米国アラスカ太平洋万国博覧会では金牌を受賞、イギリス・ロンドン日英博覧会でも金牌、イタリア万国博覧会で名誉賞状を授与されるなど、数々の栄誉を受けるほどになりました。

国内においても、富岡(群馬県)、室山(三重県)と共に、「日本の三大製糸」とうたわれるまでになり、さらには沼津~松崎~下田~横浜間を運航する海運会社を設立し、銀行経営まで行うなど、当時の中央財閥の地方版ともいえるほどの権力を手中にしていきます。

一方政界においても、静岡県賀茂・那賀郡長を務め、その後、県議会の副議長に選任されると、明治23年には、第一回帝国議会の衆議院議員に立候補し、見事当選。文字通り、伊豆地方の政経のトップに上り詰めました。

しかし、この依田佐二平さんの偉いところは、そうした伊豆政財界の重要人物となっていく過程において、自分が受けた恩恵を地元の人々と共有しようとしたところです。伊豆の新時代を切り開くためには、自分ひとりの力ではこれを成し遂げることは困難と考え、このため新しい教育を地元の人達にも与えるべく、多くの教育事業を起こしています。

そもそも依田佐二平は、成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、大沢にあった自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめます。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」こと、「大沢塾」です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていたようですが、やがてそして維新が起こり、文明開化の波が着実に伊豆にも押し寄せてくるようになった、明治5年(1872年)、佐二平は、かつての大沢塾をさらにグレードアップした学校、「謹申学舎」を設立します。

この謹申学舎は、現在の松崎町の中心部のやや北側にある「江奈」という地にある「船寄神社」に隣接する高台にあったようです。もともとこの場所には掛川藩の江奈陣屋がありましたが、地元の有力者であった佐二平らによって買い取られたようです。

そして、この謹申学舎に塾長として招かれたのが、以前、このブログでも紹介したことのある、旧会津藩家老の「西郷頼母」でした。

今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で藩主松平容保の近臣を務める重鎮として描かれ、役者の西田敏行さんが演じており、この番組を見ている人は、あああの人か、と分かると思います。

西郷家は、会津藩においては藩主の家系に列するほどの名家であり、歴代の当主は会津藩の要職を務めてきましたが、この頼母もまた幕末にあって、数ある家老をとりまとめる筆頭家老職を務めていました。

藩主の松平容保が幕府によって京都守護職に任ぜられようとしたとき、会津藩が政局に巻き込まれることを恐れた頼母は、その辞退を進言。これが容保の怒りを買い、その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さなかったため、ついには家老職まで解任された上に、蟄居させられます。

明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母ですが、その後の会津戦争でも、藩主容保に官軍への恭順を勧め、これが新政府への徹底抗戦を主張していた多くの会津藩士の怒りを買います。

やむなく頼母も白河口の総督として、新政府軍を迎撃しますが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて敗退。やがて新政府軍に城下への侵入を許すようになった会津藩では、恭順と徹底抗戦の意見が藩を二分しますが、頼母はやはり恭順を主張。

結局徹底抗戦派が大勢となり、強硬派と意見の折り合わぬ頼母は好戦派から命すら狙われるようになったため、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになります。このとき、会津に残った母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃しており、白虎隊の全滅と合わせて会津戦争における悲劇として今も語り継がれることになりました。

このとき、頼母の妻、千重子(享年34)の詠んだ「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」の歌は有名です。

この頼母親子の脱出は、頼母に好意的な同僚の手引きによって実現したと言われており、脱出の道中では藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で暗殺者が送られたという話もあるようです。

しかし、頼母の人望を知る刺客たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいわれており、こうしたことからも、忠に篤く仁徳のあった人物像がうかがわれます。

そして会津から落ち延びた頼母ですが、以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦いぬきます。しかし、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩(現群馬県館林市)に預け置きとなります。

その後、維新後解放された後、頼母は自由になります。そして西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗りはじめます。このころにどういう生活をしていたのか色々調べてみたのですが、そのあたりの詳細は「敗軍の将」であるがゆえか、あまり詳しい情報が得られませんでした。

その後、依田佐二平に誘われて、謹申学舎の塾長になるわけですが、この佐二平との関係についてもいろいろ調べてみてもよくわかりません。佐二平は17才の時江戸に出て、三年間儒学などを学んでいるようですので、この時の知己を通じて西郷頼母のことを知ったのかもしれません。

依田家は、滅亡した武田家の末裔が伊豆に流れ着き、戦国の世を経て江戸時代あたりから地元の有力な名家となっていった経緯を持っています。

この点、新政府軍との戦いに敗れてのち流浪を強いられた頼母ら会津人と似ており、拠るべき旧家や妻子までをも失いつつも、旧会津藩士としての威厳を失わない西郷の噂をどこからか佐二平が聞きこんだのかもしれません。

そしてその境遇に共感を持つとともに、実際に会って話をしてみたところ、その人物の大きさに驚き、この人なら伊豆のわが新学舎の塾長にふさわしいとすっかり惚れ込み、スカウトすることになった、というところではないでしょうか。

頼母は会津藩の藩主容保の実家、保科家の名跡をも継ぐ身分でもあり、筆頭家老までも勤めあげた人物ですから、若いころから名家の子息として幅広い教育を受け、深い教養を持っていたことはまちがいないでしょう。

更には幕末の動乱の時期においても藩主を正すことができるほどの時勢を見る目を持ち、その後の函館戦争を生き抜いた胆力をも考えると、敗軍の将とはいえ、およそこの時代においては最高の知識人であり先導者でもあって、その能力を教育の世界において発揮させようとした佐二平の目にも狂いはなかったといえます。

江奈へ来たとき頼母は、子息の吉十郎と後妻とみられる「きみ」という女性を伴っていたと伝えられており、頼母自身もここで新しい人生を歩みだし、松崎の暖かな気候の中でこれからの時代を担う子供たちを教えつつ、ようやく自分の才能を生かす場に恵まれ、落ち着いた生活を送れるようになっていたことでしょう。

頼母は、塾長でありながら、謹申学舎では自ら漢学を教えていたようです。およそ二年間その任にあたり、この間、松崎の多くの青年たちに漢字のみならず、外国語、算学などを学ばせたといいます。

言ってはなんですが、松崎のような奥伊豆の辺境の地に、維新の後いち早く各地より有能な人材を集め教育復興をなしたことはたいへん注目しなければならないことだと思います。

その意味では、頼母自身も非常に才に恵まれた人であり、これに貢献したことはもちろんですが、この依田佐二平という人も、商売や政治、そして教育の世界におけるその才覚の神髄は、人を見る目がある、ということだったかもしれません。

松崎町には、このほかにも、すぐ近くの「岩科(いわしな)」という場所に岩科学校という学校が、明治13年に作られており、その創設にあたっては佐二平や頼母らを初めとする地域の人々の教育への情熱と理想が強く反映されたといいます。

総工費の4割余りを住民の寄付でまかなわれたといいますから、これだけでも佐二平らの地元の熱がうかがわれ、なまこ壁をいかした社寺風建築様式とバルコニーなど洋風を取り入れたこのモダンな建物は、伊豆地区最古の小学校でもあり、1975年(昭和50年)には国の重要文化財にも指定されています。

正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣、三条実美の書だそうで、日本では甲府の睦沢学校(明治8年)、松本の開智学校(明治9年)に次ぐ古いものとして知られています。

実は私たちもまだ訪れたことがないのですが、内部は博物館として整備されているということなので今度ぜひ訪問し、その結果をまたこのブログでも書いてみたいと思います。

頼母のその後のことや、会津藩における前半生のことなどもまた今度話題にしてみたいと思います。今日は書けなかった松崎の三聖人のことも。

さて、外をみると、今朝まで降っていた小雨が止んでいます。明日の予定はまだはっきりと決めていないのですが、少し陽射しにも恵まれるようなら、桜がすべて散ってしまう前にどこかへ出かけてみようかな、とも思ったりしています。

みなさんの町の桜はどうでしょう。もう散ってしまったところもあるかもしれませんが、この週末まではなんとかなるのではないでしょうか。仕事や勉強もさることながら、この時期の桜は見逃せません。家を出て、桜吹雪を浴びましょう。