天海が造った江戸

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もうそろそろ、8月も終わりですが、旧暦の8月1日のことを、八朔(はっさく)といいます。これは「八月の朔日」の略で、朔とはすなわち新月のときです。

地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球にほとんど届かないことから、月は真っ暗になります。旧暦では、この朔日を月の始まる日を「1日」としました。また、この月の始まりは「月立ち(つきたち)」ともいい、これが転じて「ついたち」と言うようになったようです。

このため、朔日のことも「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む場合もあります。

しかし、新暦になった現在では、この朔日は、8月1日ではなく、およそ1ヵ月遅れになります。また、毎年同じ日ではなく、だいたい8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動します。

ちょうど今ごろであり、そろそろ稲穂が出るころなので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからありました。このことから、「田の実の節句」ともいうそうで、この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間では、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をしていたそうです。

現在ではそういう風習はありませんが、旧暦の7月15日、すなわちお盆のころにも、お世話になった人々に贈り物をする習慣があり、これを「お中元」と呼びました。こちらは現在でも風習として残っています。

果物のハッサクも、旧暦の8月1日ごろに食べられるようになるため、この名が付きました。しかし、「ハッサク」という名前がついたのは明治の初めのころだそうで、その後1910年(明治43年)、柑橘学の世界的権威W.T.スウィングル博士が、当時因島に現存した約60種類のかんきつ類を調査に来日したとき、「ハッサク」の優秀性を認識したといいます。

これにより、一躍「ハッサク」栽培の機運が高まっていき、1925年(大正14年)には、島内の田熊という場所に出荷組合が設立され、「ハッサク」の販路拡大が図られていきました。現在、島内の浄土寺という寺にはハッサクの原木の切り株が保存され、境内にはハッサク顕彰碑「八朔発祥の地」が建てられているそうです。

しかし、実際にはこの時期のハッサクの実はまだ小さくて食用には適しません。現在では12月~2月ごろに収穫され、1、2ヶ月ほど冷暗所で熟成させ酸味を落ち着かせたのち、出荷されるので、どちらかといえば春の風物詩です。

ところで、徳川家康が江戸城に初めて入場したのは、天正18年8月1日の八朔の日です。これは新暦では1590年8月30日になります。はじめて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としており、その名残で明治改暦以降も、新暦8月1日や月遅れで9月1日にお祭りが行われるところがあります。

熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されています。山梨県都留市でも9月1日に八朔祭りが行われます。

このほか、京都市東山区の祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へあいさつに回るのが伝統行事になっており、福岡県遠賀郡芦屋町でも同日に「八朔の節句」というお祭りが、また香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習があります。

この8月1日の家康の江戸入りを企画したのは、南光坊天海、という天台宗の僧であったとも言われています。というか、江戸の町そのものの設計をしたのも天海であったとされており、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したことで知られています。

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生年ははっきりしていませんが、100歳以上の長命であったことは確かであったようです。1616年の家康の没後、1632年に日光東照宮で行われた法要のときに天海は97歳であったとされることから、これが正しいとすると、生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となります。

戦国時代に奥州で伊達氏と並び称される有力大名であった、会津の蘆名氏の一族として生まれたとする説がありますが、定説といえるものはいまだにありません。京都龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めました。

元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住。その後、会津蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国にあった天台宗の寺、無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされます。

無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、のちに伏見天皇が尊海僧正に命じ関東における天台宗の本山とした寺です。江戸時代に造られた「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢で有名な寺で、ここに鎮座する538体もの石仏群は壮観です。

天海としての足跡が明瞭となるのは、この無量寿寺北院に来てからです。東京の浅草寺の史料には、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたという記録があるそうです。このことからも、このころからもう天海は家康の側におり、関東に拠点があったことが推察できます。

前住職の豪海の後を受けて、天海が無量寿寺北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことです。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担うようになります。慶長12年(1607年)に比叡山探題(叡山政務について裁決を行う重要職)を命ぜられ、延暦寺東塔の傍の南光坊に住んで延暦寺再興に関わりました。

比叡山は、1571年(元亀2年)に織田信長による焼き討ちに遭い、荒廃したままになっていましたが、これを再建したのは天海です。天海はその功績を讃えられて、この年朝廷より権僧正(ごんのそうじょう)の僧位を受けました。これは僧官の職としては、大僧正、僧正に次ぐ、ナンバー3の地位です。

その後長らく無料寺住職を勤めましたが、慶長17年(1612年)には、寺号を喜多院と改め、古くなっていた寺を再建し、改めて伏見天皇以来、権威の落ちていた関東天台宗の本山であることを宣言しました。

慶長18年(1613年)には家康より日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る日光二荒山神社貫主を拝命しました。のちに、家康が死去したあと彼を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって日光山に創建されると、当社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けました。

二荒山神社は、江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していました。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有しています。

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天海はこのころ、豊臣家が滅亡した、大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」にも深く関わったとされています。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿にあった梵鐘に「国家安康」の文字があった、という例のヤツで、家康はこれを自分を呪詛するものだとして、豊臣家追討の口実を得ました。

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託しました。家康死後には神号を巡り、外交僧として江戸幕府の政策に関与していた僧の、以心崇伝(いしんすうでん)や、家康の側近中の側近、本多正純らと争いました。

祟伝は、その権勢の大きさと、強引とも思える政治手法により、世人から「黒衣の宰相」あるいは「天魔外道」と評されるほどで、上の方広寺の鐘銘事件において、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けた張本人は崇伝とされています。

このとき、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張しました。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定されました。

こうして、家康の遺体は静岡の久能山から日光山に改葬されました。この論争に敗れたかたちの祟伝は、家康没後は後ろ盾をも失い、その後天海にその地位を奪われるところとなりました。

天海はその後も後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には上野の寛永寺を創建しました。ここは徳川将軍家の祈祷所・菩提寺ともなり、現在に至るまで徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇るようになりました。

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天海は、この3代の将軍の擁護下で、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想したことで知られています。また、それより以前の慶長8年(1603年)には、関ケ原の戦いに勝利した家康は、幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選びました。

家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされています。「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものです。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えました。

ところが、ご周知のとおり、富士山は実際には「北」にはなく、真北から112度もずれた西の方向にあります。しかし、天海は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたといい、家康及びその側近もこのねじ曲げた説を受け入れたといいますから不思議です。

これについては、理由はよくわかりませんが、東の隅田川、西の東海道、南の江戸湾は天海の言うとおりであり、人望もあった天海の言うことをここは聞いておこう、と家康以下が思ったのかもしれません。

このため、現在も残る、江戸城の大手門(大手町のものではなく、本丸のあった皇居内にあるほうで非公開)は、西向きに造られていますが、これも富士山を「北」とみなしたためだとされます。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされます。

これは、東京の地理をよく知っている人にはわかるのですが、その他の地方の人にはわかりにくいでしょう。要はこれらの土地の中心に江戸城(現在の皇居)がある、という位置関係で、この当時には確かにこれらの地は台地上にありました。

「台地の突端の延長線が交わる」かどうかは、古地図を見ないとはっきりはわかりませんが、ともかく、天海は、彼が持っていた陰陽道の知識により、これによってこれらの場所の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされています。

江戸城の場所が決定した後は、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われましたが、その設計・施工にあたっても、天海は、思想・宗教的な面からそれらに関わっていました。

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例えば、天海は、江戸城の平面配置を「渦郭式」という形式の構造にしました。「渦郭」とは渦巻き状構造のことで、要はカタツムリの殻のように、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることを推奨しました。

城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したとされ、これは敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされます。

攻城に対する効果はともかく、火災に対しては果たして本当にそうした効果があったのかどうかはわかりません。江戸はその後何度も大火に見舞われているところをみると、この点については該当しないような気がします。

が、交通の便に関しては一理あります。東京へ行ったことがある人は分かると思いますが、皇居周辺にはあちらこちらに大きな掘があって、部分部分ではどうつながっているのかはよくわかりませんが、地図をみると皇居を中心として、渦巻き状にこれらが配置されているのがなんとなくわかります。

ここを船を使って移動したとすれば、なるほど便利だったかな、と思わせるレイアウトではあります。

また、これだけ巨大な堀を掘削すればかなりの土砂が出ただろうと推察され、これをこの当時はまだほとんどが海であった江戸の町を埋め立てるのに使うというのは、かなり合理的なアイデアです。

天海はまた、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされます。すなわち、江戸城の北東に置かれたのが、上述の寛永寺であり、ここを徳川家代々の墓所とするとともに、自らが住職を務め、鬼門を封じる「主」となりました。

寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味しますが、比叡山は同じく京都の北東方面の鬼門に位置します。天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺をここに建てたわけです。

また、その南側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどしたと言われています。琵琶湖は比叡山の東側に位置し、まったく位置関係は異なりますが、できるだけ寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう、その環境を真似たのだと、言われています。

このほか、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社(神田明神)を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、徹底的に江戸城の北東方面に神社仏閣を置いて、鬼門鎮護を厚くしました。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、近江の日吉大社(琵琶湖の西にある)から分祀した日枝神社を建立するなどして、鎮護を意図したといわれています。

神田明神の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭ですが、これらの祭りは、天海により企画されたもので、これは江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもあったようです。

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現在の地図をみても、江戸城の位置は、寛永寺・神田明神のある上野と、増上寺のある浜松町付近を結ぶ直線の真ん中にあります。また、浅草にある浅草寺と、赤坂にある日枝神社を結ぶ直線は、この直線より10度ほど時計回りに角度が振れていますが、同じくその間には皇居(江戸城)が位置しています。

天海が江戸城の鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視し、これら北東と西南を結ぶ二本のライン上に神社仏閣を設けたのだ、ということがいわれています。

さらに天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と上述のらせん状の堀とが交差する地点の城門と見張所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされています。例えば、将門の首塚は奥州道に通じる大手門側、これは皇居東側、東京駅丸の内口にほど近い三井物産ビルの横にあります。

上述の神田明神には将門の胴を祀られており、これは江戸城の北東に位置し、上州道に通じる位置にあります。また、将門の手を祀る鳥越神社は総武本線、浅草橋駅の北側にありますが、ここは江戸城の東北東の方向にあり、かつて奥州道に通じる浅草橋門という門がありました。

さらに、将門の足を祀るといわれる、九段下の築土神社(津久土八幡神社)、これは江戸城の北側にあり、ここには中山道に通じる牛込門がありました。そして、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門(江戸城西側)に、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門(同西側)に置かれたとされます。

このように、天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされています。

こうした施設の配置、および江戸城の工事は、だいたい寛永17年(1640年)ごろまでには終わったようですが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお生きており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったようです。

前半生に関する史料がほとんど無いものの、天海はこのように当時としてはかなりの長寿であり、かつ幕府からだけでなく、朝廷からも江戸の基礎を創った人物と目され、大師号を贈られるほどの高僧になりました。高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、いわば現在の国民栄誉賞のようなものであり、貰った人は多くありません。

このようにエラくなって人には良くありがちな悪い評判もなく、人々に尊敬されていたようです。

その晩年には、罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、紫衣事件では、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ています。紫衣事件というのは、幕府は公家諸法度を定めて朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたていたのに対し、これを無視して、受け取ったというものです。

紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼、後には武士が朝廷から賜りました。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあっため、幕府が禁じても跡を絶たず、上述の三人も受けとってしまった、というわけです。

結局上の三人はこの事件を発端として改易、もしくは蟄居となって失脚しましたが、天海はこうした大事件においても幕府との間に立ってモノ申せる高僧とみなされて、頼りにされていたようです。

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ちなみに、この事件以降、こうした大きな事件が起こるたびに、その幕府への特赦を願い出るのは、上野東叡山寛永寺の貫主、という慣習ができたといわれています。上述のとおり、寛永寺の初代住職は天海ですが、その後は、全て宮家出身者または皇子が就任するようになりました。

これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略でした。こうすれば、朝廷対朝敵(幕府)の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用しています。

このため、幕府御家人が何かをしでかしたときも、ここに頼み込めば朝廷を利用して何かととりなしをしてもらえる、という風潮ができあがったわけですが、その発端をつくったのが、人徳もあり、寛容な人物であった天海というわけです。

上述の紫衣事件では、「タクアン」にその名を残す、名僧、沢庵宗彭(そうほう)も助けています。沢庵も紫衣事件に連座しましたが、のちに、徳川秀忠の死により大赦令が出され、このとき、天海らの尽力により許されました。沢庵はその後、三代将軍、家光の寵愛を受けて復活し、江戸時代を代表する禅僧として知られるようになります。

沢庵が、家光に近侍するようになるのは、寛永13年(1636年)のことですから、このころ天海は既に100歳を超えていたことなります。それから7年後の寛永20年(1643年)に108歳で没したとされ、その5年後に、朝廷より「慈眼」という大師号を追贈されました。

墓所は栃木県日光市にある輪王寺内、および川越市の喜多院にあります(いずれも慈眼堂と称される、国の重要文化財)。また、大津市坂本にある慈眼堂も天海の廟所とされています(滋賀県指定文化財)。

機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させました。そのため様々な逸話がありますが、そのひとつには、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したというのがあります。

この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たといわれ、後に「あれは影武者だった」と語った、といいます。また、天海が名古屋で病気になった際、江戸から医者が向かいましたが、箱根で医者の行列が持つ松明の火が大雨で消えてしまいました。すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたといわれています。

さらにある時、将軍・家光から柿を拝領しましたが、天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れました。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えました。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えました。

数年後、家光に天海から柿が献上されましたが、家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたといいます。

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このほか、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀は、実は天海だとする説があります。天海の墓所のひとつである、日光の輪王寺があるすぐ近くの中禅寺湖の付近の場所が、「明智平」という場所であることが根拠に挙げられることが多いようです。

天海がこの地名を付けたとも言われており、「ここを明智平と名付けよう」と身近な者に言ったところ、「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いた、というウソのような話が、日光の諸寺神社に伝わっているとのことです。

また、日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あることを根拠に挙げる人もいるようです。

この説は明治時代の作家、須藤光暉が唱えだしたもので、明智光秀の子孫と称する「明智滝朗」が流布したことから広く知られるようになりました。明智滝朗は、太平洋戦争後、占領軍より追放処分を受け、その無念と無聊を埋めるために光秀研究に没頭したようです。その結果を「光秀行状記」として、1966年に中部経済新聞社から出版しています。

光秀伝承の地をくまなく訪ねて現地取材を行ったそうで、天海僧正について様々な史料の記事をもとに詳しく書いており、両者の筆跡の写真も載せて、同一人物であった可能性に言及しています。ただし、同一人物と決めつけたわけではなく、子孫として「そうあって欲しい」という内容になっていたものが、のちに一人歩きするようになったようです。

天海と光秀が同一人物だと享年は116になり、天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がありますが、両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされているようです。

テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定によれば、天海と光秀は別人とされましたが、類似した文字が幾つかあったそうで、2人は親子のような近親者と推定できるといいます。

このことから、本能寺の変で先鋒を務め、山崎の戦いの敗戦後に琵琶湖の湖上を馬で越えて逃亡し、琵琶湖西岸の坂本城で自害したとされた、光秀の従弟とされる明智光春ではないか、という説も出てきました。

このとき光春は実は坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)で僧衣に着替えて落ち延びたという伝説があり、同じ天台宗で、琵琶湖の東側にある西教寺には、光春の遺品とされる鞍や鎧兜の遺品が伝わっています。

このほか、徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測があるほか、光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている、という事実もあるようです。

さらに、学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれており、その時着たとされる鎧が残っていること、光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけた、という逸話が残っていることなども根拠としてあげられています。

童謡かごめかごめの歌詞の中に、天海と光秀の関係を示す暗号が隠されている、という都市伝説のような話もあります。

これは、この歌の中に出てくる「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の側近くに置かれている「鶴」と「亀」のことであり、敦賀(鶴賀)と亀岡を統治していた明智光秀が建てた、とするものです。

また、「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」であり、つまりこの墓は、徳川家康の側近の天海が建造したものであり、これを根拠に彼は明智光秀と同一人物だ、というわけです。

さらに、「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということは、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している、というわけで、本来は処刑されるはずだった光秀が長生きをし、最後に果てたことを意味するのだ、といいます。

はてさて、人の想像力というのは、限りないものではあります。

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モリソン号事件とその余波

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1837年8月12日(天保8年7月12日)未明、アメリカ合衆国の商船、「モリソン(Morrison)号」が日本に近づきつつありました。

その後、浦賀沖に現れたこの船に対し、浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。この船には日本人漂流民の7人が乗っており、彼等の送還と引き換えに日本に通商・布教を要求しようと来航していたのでした。

そうした事実とともに、実はこのときモリソン号は非武装であり、しかも当時はイギリス軍艦と勘違いされていたことが1年後にオランダ商館を通じてわかり、このため国籍もわからずに幕府が断行したこの蛮行に対する論議が沸き起こるとともに、一部からは著しい批判が浴びせられるようになりました。

この事件は、のちにこうした幕府への批判をまとめた論文、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英らが、幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという「蛮社の獄」につながっていきます。

江戸時代末期までには日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていましたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースでした。彼らは遭難後の当初、外国船に救助された後マカオに送られましたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図しました。

この際に使用された船がモリソン号です。浦賀で打ち払われた同船は、その後薩摩に向かい、ここでは薩摩山川港に一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉しました。が、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられただけで船に帰されました。

しかし、さらに沖合に停泊しようとしたため、薩摩藩は空砲で威嚇射撃をしました。このため、キングらはついに日本との交渉を断念してマカオに帰港しました。

モリソン号は商船とはいえ元々は砲を搭載していました。しかし、浦賀や薩摩では平和裏に交渉を進めようとこの武装を撤去していました。そんなことも知らずに一方的な砲撃を行った日本側は打ち払いには成功したと思いこみましたが、一方でこの一件は日本の防備の脆弱性・警備体制の甘さもあらわにしました。

浦賀で打った大砲のほとんどはモリソン号には届かず、しかも指揮系統もバラバラで、突然現れた異国船に対して奉行所の面々はうろたえるばかりでした。この事情は薩摩も同じでしたが、薩摩藩はこれを良い経験として、その後沿岸防備にかなりの力を注ぐようになりました。

翌天保9年(1838年)7月、長崎のオランダ商館がこのモリソン号渡来のいきさつについて報告しました。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきていたことを知りました。また、その後、モリソン号はイギリス船ではなく、アメリカの船だということも知りました。

老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけましたが、7~8月に提出された諸役人の表情結果は、「通商は論外」というものであり、その旨が長崎奉行に通達されました。

また、この幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものでした。が、なぜか、評定所の議論のうち、もっとも強硬であり却下された、漂流民の送還は一切ままならぬ、しかも外国船は徹底的に打ち払うべき、という意見のみが表に流れました。

この知らせを聞いた、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとする尚歯会には、漂流民送還の意図は伝わらず、また幕府の意向は異国船の国籍を無視した分別のない打ち払いにあると誤解してしまいました。

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会です。構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成されたものでした。

尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたりました。一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていました。

この報せを聞いたこの尚歯会の主要メンバーのうち、高野長英は、打ち払いに婉曲に反対する書を匿名で書きあげ発表しましたが、これが「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」です。また、渡辺崋山も「慎機論」を書き、幕府の海防政策を批判しました。

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しかし、これが幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵を刺激しました。鳥居は、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りに当たっており、蘭学者の渋川敬直、漢学者の後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれていました。

これより1年ほど前、鳥居は、江戸湾測量を巡って尚歯会メンバーであった幕臣で伊豆韮山代官、江川英龍と対立し、このことを遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになっていました。そして、これが翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となりました。

鳥居が水野から拝領していた業務、「目付」とは、現在でいえば秘密警察のような職分も含んでおり、彼は高野が匿名で書いた「戊戌夢物語」の作者の探索を始めるとともに、「慎機論」渡辺崋山の近辺について内偵を始めました。

一連の調査の結果、鳥居は「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうと判断するとともに、さらに崋山がこのころ小笠原諸島に渡り、単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出しました。

このころ、小笠原諸島にはイギリス船が上陸してこの島の領有を宣言しており、これが伝わった江戸では蘭学者たちの間で話題となっていました。が、無論のこと崋山には渡島の計画などはなく、これは鳥井のでっちあげでした。

これによって、小笠原渡航計画に携わったとする高野長英と渡辺崋山以下の12名のメンバーに出頭命令が下されました。このうちの尚歯会のメンバー、小関三英(出羽国庄内出身、幕府天文方翻訳係)は、ちょうどこのころキリストの伝記を翻訳していたこともあり、その罪をも問われると思い込み、自宅で自殺しました。

高野長英は一時身を隠していましたが、のちに自首して出ました。これにより、尚歯会メンバー11名全員が逮捕され、長英ほか10名は小伝馬町の獄に入れられ、崋山は禁固(蟄居)となりました。のちにこのうち4人が吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられます。

その後崋山は、翌年に母国の三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)に護送され、当地で暮らし始めましたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)に自刃しました。享年49。

長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄しました。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも硝酸で顔を焼いて人相を変え、蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しました。が、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。享年47。

こうして長英の死をもって蛮社の獄は終結しましたが、そのわずか3年後の1853年に、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、これを契機に幕末の動乱が始まりました。

いわばこの蛮社の獄は、その前哨戦ともいえるものです。幕府を批判してなすすべもなく死した彼等は哀れでしたが、その行為はその後弱体化していくことになる幕府に対して最初に与えられたインパクトといえるものであり、その後この事件をきっかけに多くの志士が生まれていったことを考えると、けっして犬死にではなかった、といえるでしょう。

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このように、モリソン号事件というのは、日本が幕末の動乱に入っていくためのちょうど入口付近で起きた事件といえ、その歴史的な意義は大きいものでした。

ところで、このモリソン号に乗船していた7人の日本人漂流民とは誰かと言えば、これは尾張国から江戸に向けて出航し、途中遠州沖で暴風に遭い難破した宝順丸に乗っていて助かった音吉・岩吉・久吉の3名と、天草を出航し長崎へ向かう途中嵐に遭った船員、庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の4名でした。

後者の4人は、肥後国玉名郡坂下の出身で、天保5年(1834年)に庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かう途中、嵐に遭ってルソン島へ漂流しました。

その後現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移り、ここで同じくアメリカ船に漂流していたところを救われた音吉ら3名と合流しました。そして彼等とともに帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かいました。

が、前述のとおり、異国船打払令によって撤退を余儀なくされた上、続く薩摩でも幕府が受け入れを拒否したため、結局帰国は叶わず、その後4人はマカオで余生を送り、嘉永ころ(1848年から1854年)までには没したようです。

一方、音吉ら3人が乗っていた宝順丸は、庄蔵らより2年早い、1832年(天保3年)10月、米や陶器を積み、船頭樋口重右衛門以下13名を乗せて尾張国知多郡小野浦から鳥羽経由で江戸に向かっていました。

が、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流しました。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、残りの乗組員は壊血病などで亡くなり、生存者は3名になっていました。

彼等が漂着したのは、アメリカ太平洋岸、ワシントン州、シアトルの西にあるオリンピック半島の先端にある、フラッタリー岬付近でした。彼らを助けたのは、現地のアメリカ・インディアン、マカー族でしたが、しかし、インディアンたちは彼らを善意で助けたわけではなく、後に奴隷としてこき使いました。

さらにはイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得ました。このイギリス船は最初、現・米国オレゴン州中西部にあった、「アストリア砦」に彼等3人を送りつけました。アストリア砦は1811年に北西部毛皮貿易の主要拠点として設置されたもので、事実上、これがアメリカ合衆国にとって最初の太平洋沿岸部入植地となりました。

アストリア砦は「アストリア」という町の中心でもあり、その後アメリカ合衆国がアメリカ大陸の開拓における領土権を確立していく上でここは極めて重要な拠点となりました。

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ここに送られた音吉ら3人は、少年時代のラナルド・マクドナルドと出会っています。少々脱線しますが、このマクドナルドについては、幕末日本において日本人がいかに英語を習得したか、ということと関係が深いので、少し触れておきましょう。

彼は、毛皮商だったスコットランド人のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンチヌーク族の部族長の娘の間に生まれた混血で、母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていました。

開拓時代であったこのころのアメリカでは、事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることはしばしば行われていました。このころラナルドはエジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けていましたが、このとき漂流民の音吉らと出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは彼等と同じ日本人だと教えられました。

無論、たわいもないジョークでしたが、これを信じたマクドナルドは日本にあこがれるようになります。1834年にレッドリバー(現・カナダのマニトバ州南部のウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになりました。

が、ここでの学風が肌に合わず出奔。あこがれていた日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となりました。

日本行きを決心した理由を本人はのちに、いくつか書き記していますが、自分の肌が有色であり、そのため差別を経験していたこと、容貌が日本人と似ていたことから日本語や日本の事情を学びたかったこと、鎖国によって謎の王国とされていた日本の神秘のベールが冒険心を掻き立てたことなどを挙げています。

また、インディアンの血が理由で好きな女性との結婚がかなわなかった失恋事件もきっかけとしており、さらに西洋人の血の入った自らを、権力を持ち植民地主義に走る支配層側、日本人をアメリカにおけるインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていました。

捕鯨船員になったラナルドは、船が日本近海に来た1848年6月、単身ボートで日本に上陸を試みました。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得しましたが、マクドナルドは応じませんでした。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えてくれました。

彼が最初に上陸したのは北海道の焼尻島でした。ここで二夜を明かしましたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで利尻島に上陸します。このとき、不法入国では処刑されてしまうかもしれない、とも思いましたが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったといいます。

そして、ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、日本人に発見され、密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られました。

そこから長崎に送られ、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間、崇福寺という寺の末寺で、長崎諏訪神社近くの大悲庵(現在は跡地のみ)に収監されて過ごしました。

この間、マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにしました。

この14名の通詞たちは、のちペリーの艦隊が来航したとき、通訳をつとめる「森山多吉郎」を筆頭に、その後の幕末の動乱で活躍しました。それまではオランダ語などを経由せず、直接的に英語を教える教師はいなかったので、このマクドナルドこそが、ネイティブ・スピーカーとしては日本で最初の英語教師だった、ということになります。

教えた期間はわずかでしたが、生徒のなかでもひときわ熱心であったのは、英語がもともと話せ、通訳も務めていた森山多吉郎(のちに森山栄之助と改名)であり、素養があったために覚えもはやく、おどろくほどの習得能力を示したといいます。

日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていましたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものでした。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝えるというシンプルなものでした。

マクドナルドもまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっています。また、彼は日本人生徒がLとRの区別に苦労していることに関しても言及しています。

マクドナルドは、翌年4月、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻りました。日本における彼の態度は恭順そのものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧でした。また、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だったといいます。

帰国後は日本の情報を米国に伝えました。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えました。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていませんが、現在のアメリカでは、日米関係における歴史上の重要人物として、研究書や関連書籍が多く公刊されています。

その後、日本から帰国したのちは、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海しました。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをしました。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・アメリカワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなりました。享年70歳。

死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったといい、この「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれました。ワシントン州フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されています。

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さて、途中からマクドナルドの話に行ってしまいましたが、少し元に戻しましょう。アストリア砦を訪れ、まだ幼かったマクドナルドに出会った音吉ら3人は、その後、アメリカからイギリス・ロンドンへ連れて行かれました。しかし、なぜロンドンだったのか?

彼等を救助したイギリス船は、ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company, HBC)という会社の持ち船で、この会社は、米大陸(特に現在のカナダ)におけるビーバーなどの毛皮交易のため1670年5月に設立されたイングランドの勅許会社・国策会社でした。現在もカナダで小売業を中心として存続しており、北米大陸最古の企業でもあります。

このハドソン湾会社のアストリア砦における責任者は、ジョン·マクローリンという人物でした。彼は、救助した3人の漂流者が日本との交易を実現させるために有効と考え、その計画をイギリス国王に了承してもらうため、3人をロンドンに行かせることにしたのです。

こうして3人の運命はさらに数奇なものとなっていきます。オレゴンを出航した彼等の乗船・イーグル号は、南米マゼラン海峡を通って大西洋に入り、ロンドンへ向かいました。この当時はまだ北米の北を回る北西航路は開拓されておらず、またパナマ運河も完成していなかったため(1914年完成)、これがヨーロッパへの一番の近道でした。

1835年初頭、数ヵ月もかかってロンドンに着いた彼らは、テムズ川で10日間の船上にとどまっていました。が、許されて1日ロンドン見学を行っており、彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人でした。

なお、日本人として最初に世界一周をした仙台藩の若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航していますが(享和3年(1803年))、このときは上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となります。

しかし、結局、英国政府はハドソン湾会社が提案する日本との交易計画を却下しました。理由はよくわかりませんが、イギリスはこのときより27年遡る1808年に長崎に侵入し、オランダ商館員2人を人質にとるなどのトラブルを起こしています。このころイギリスはナポレオン戦争の余波でオランダと交戦関係にあり、彼等の船を追ってのことでした。

いわゆる「フェートン号事件」という事件であり、この事件は結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決しました。しかし、その後日本は貝のように固く殻を閉じて外国船との交易を拒否し続けるようになり、一方のイギリスも、腫物に触るように日本には近づかなくなっていました。

このため、音吉ら3人の漂流者の扱いについても、イギリス政府は一切関与しないという方針がハドソン湾会社に伝えられたのでしょう。同社としても政府の指示に逆らうわけはいかず、これに従うことにしましたが、日本人漂流民については独自の判断で彼等を帰国させることにしました。

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こうしてゼネラル・パーマー号に乗船した音吉ら3人は、今度はアフリカ南端、喜望峰経由で極東に向かいました。1835年12月、パーマー号はマカオに着き、ここで一旦、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられましたが、このとき彼等はギュッラフと協力し、世界で最初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させています。

ここでの生活は1年以上に及びましたが、1837年3月になって、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人もマカオに到着し、こうして異国で同胞たち7人が対面することになりました。

同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発して那覇までやってきました。そしてここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かいました。7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、予期せぬ砲撃にさらされます。

前述のとおり、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっており、モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されました。またその後向かった薩摩山川港では、一旦夢にまで見た日本上陸を果たしましたが、その後幕府が受け入れを拒否したため、帰国は叶いませんでした。

結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻りました。そして彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられました。

その後、肥後の国出身の4人と、尾張国出身の岩吉・久吉の2人は、マカオで余生を送り、ここで没したようです。しかし、音吉だけは、その後上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍しました。その後、同じ上海でデント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)という貿易会社に勤めました。

同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしています。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれましたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界しています。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っています。

その後、音吉は、1849年(嘉永2年)に、イギリスの軍艦マリナー号で再び浦賀へ帰ってきました。しかし、日本は相変わらず鎖国中であったため入港できず、浦賀沖の測量だけをして帰国しています。この時、音吉は通訳として乗船していましたが、表向きは中国人「林阿多」と名乗っていました。

1853年には、アメリカのペリーらがはじめて上陸を果たし、黒船来航として騒がれました。このとき、ペリー艦隊には日本人漂流民(仙太郎ら11名、安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)の栄力丸船員)が乗船していましたが、このとき彼等もまた帰国はかなわず、その後上海に送られ、ここに住んでいた音吉の援助を受けています。

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その後、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、音吉は、再度来日し通訳を務めました。また、この時に福沢諭吉などと出会っています。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがありましたが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っています。

その後、マレー人と再婚しましたが、彼女もまたデント商会の社員でした。この2度目の妻との間には、一男二女をもうけました。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつありました。このため、1862年(文久2年)、音吉は上海を離れてシンガポールへ移住しました。

このとき、このシンガポールで、かつてマクドナルドが英語を教えた森山栄之助らに会っています。幕府の文久遣欧使節通訳として同行していたもので、この使節団には福沢諭吉も参加しており、ひさびさの再会を果たしました。音吉はこのとき、清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福沢の著した「西航記」に残っています。

その後、1864年、音吉は日本人として初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールで病死しました。享年49。日本の元号が「明治」になる1年前でした。

こうして日本の鎖国政策により祖国に戻ることを余儀なくされた音吉ですが、彼自身は、日本が武威をもって自らの政策を貫いた姿勢を支持しており、その後、ペリーによる黒船来航後、武力を背景にしてアメリカが開国を迫り、これを幕府が受け入れたときは、これを「外国に屈した」と感じて憤慨したといいます。

彼自身の帰国はかないませんでしたが、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚、「山本音吉」を名乗りました。

しかし、念願の帰化は出来なかったようです。その頃の日本は、近代国家を目指して法整備が急ピッチで進められていたものの、帰化や国籍に関する法律はまだ無かったためです。国籍法が出来るのは1899年(明治32年)のことです。山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で死去しています。

音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されていますが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航しました。しかし2004年になってようやく墓が発見され、遺骨の発掘に成功します。

遺骨は荼毘に付されてシンガポール日本人墓地公園に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長の斉藤宏一らの手によって、祖国日本に戻ることになりました。漂流から実に173年ぶりのことであり、この遺骨は現在、美浜町内にある音吉の家の墓に納められるとともに、「良参寺」という寺の宝順丸乗組員の墓に収められています。

ちなみに、音吉の最初の妻は、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人であったといいます。また、2番目の妻は、上海で同僚だったドイツ人とマレー人の混血のシンガポール人でした。この後妻との間には息子と3人の娘がおり、このうちの一人の娘の子孫が美浜町で現在も旅館を経営しているそうです。

音吉の出身地である美浜町では、音吉の功績を広く世界に知らせ、町の活性化を図ろうとした町おこしが行われ、1961年には音吉、岩吉、久吉ら3人の頌徳記念碑が美浜町に立てられました。以来同町と日本聖書協会は毎年、聖書和訳頌徳碑記念式典を行っています。

同年行われた第1回目の式典には、当時のドイツ大使夫妻や愛知県知事、名古屋鉄道社長ら300人が参列しました。1992年には「にっぽん音吉トライアスロン in 知多美浜」が初開催され、音吉の顕彰事業が本格化しました。

音吉の人生を描いた音楽劇「にっぽん音吉物語」が翌年に同町で初公演され、以後シンガポールやアメリカ(ワシントン州、ハワイ州)、イギリス(ロンドン、バンガー)など音吉ゆかりの地でも公演されるといいます。

2012年には、音吉の生涯をモチーフにしたハリウッド映画が公開される、と発表されました。が、現在までのところ実現していないようです。

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