ハンゲショウの季節に

今年の夏至は6月21日でした。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い時期であり、これからは、年末の冬至に向かってどんどんと日が短くなっていきます。

この夏至から10日ほど過ぎた日を暦上、「半夏生」(はんげしょう)と呼ぶようです。例年、7月2日あたりで、この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、梅雨も中盤に入り、大雨になることも多くなります。このため、地域によっては「半夏水」(はんげみず)と呼ぶところもあるようです。

では「半夏」とは何を表しているかといえば、これは植物のカラスビシャク(烏柄杓)のことです。夏の半ばに花が咲くことから、「半夏が生まれるころ」という意味でこの季節を半夏生と呼ぶようになったのでしょう。

半夏ことカラスビシャクは、サトイモ科の植物で、その花は緑色の袋状に包まれており、ひものような突起物が上部に伸びているのが特徴です。ミズバショウの花を知っている人も多いと思いますが、こちらも同じサトイモ科の植物であり、似たような半袋状の付属物があります。ただ、袋は閉じておらず、開いていて色も白色です。

この袋状のものは「仏炎苞(ぶつえんんほう)」と呼ばれています。「仏炎」とは仏像の後背(こうはい)のことで、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものです。色々な形がありますが、炎を形どったものがあり、これを仏炎と呼ぶようになったと思われます。

また、苞(ほう)は、蕾を包むように葉が変形した部分の一般名称です。カラスビシャクなどのように花よりも大きくなるものもありますが、逆に目立たないものもあります。マムシグサやテンナンショウといった同じサトイモ科の草本もまた苞が発達しており、細長い柄杓のような苞があります。

カラスビシャクの根には、コルク状の皮があり、これを取って乾燥させたものは、生薬として使われます。その名も「半夏」といい、漢方薬として日本薬局方に収録されています。

商品名としては半夏厚朴湯(はんげこうぼくとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などがあります。痰(たん)きりやコレステロールの吸収抑制効果があり、かつては、つわりの生薬としても用いられていました。

一方、ハンゲショウと呼ばれるまったく別の植物があります。こちらはドクダミ科の多年草で、葉の片面だけが白くなることから、カタシログサ(片白草)とも呼ばれています。また半分だけ白いため「半化粧」とも書きます。様々な地方名があり、ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどとも呼ばれます。

上のカラスビシャクとは別物ですが、開花時期もほぼ同じであり、どちらも「ハンゲ」が付いていることから、混同されることも多いようです。

いずれにせよこの半夏、もしくはハンゲショウが咲く季節というのは、農家にとっては大事な節目になります。古くからこのころまでに畑仕事を終えたり、水稲の田植えを終える目安とされてきました。このころに休みを取る地方も多く、これはひと仕事を終えたあとの休息のためですが、一方では半夏生には天から毒気が降ると言われているからでもあります。

毒気を避けるため、七夕までの長期間農作業を休む地方もあるほか、このころに採った野菜は食べてはいけないとされていたり、井戸に蓋をして毒気を防いだりするといった風習が残っています。

天から毒が降ってくるくらいですから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も出やすい時期とされます。三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期には仕事をするなと戒められています。




一方では、こうした時期だからこそ、栄養のあるものを食べて滋養をつけて農作業に励もうというところもあります。奈良県の香芝市や大阪府南河内では田植えを無事に終えたことを田の神様に感謝し、小麦を混ぜた餅を作り黄粉をつけたものをお供えして、自分たちも食べるそうです。

また、讃岐(香川県)の農村ではうどんを食べる習慣があり、毎年7月2日が「うどんの日」になっています。1980年に香川県製麺事業協同組合が制定しました。

蛸(タコ)を食べる習慣があるところもあります。近畿地方の一部地域がそうで、各地の小売店ではこの時期になると、タコ入りのお好み焼や焼きそば、タコの唐揚、タコ天うどんなどが売られています。

さらに、福井県東部の大野市を中心とした地域では焼き鯖(サバ)を食べます。江戸時代に大野藩藩主がこの時期に農民に焼きサバを振舞ったといわれ、これを食べる習慣が残りました。

福井ではよくサバがとれます。水揚量の一位は茨木県ですが、福井はこれに次ぎ、古くはここで捕れたサバが京都などの畿内に運ばれました。福井県西部地方で捕れたものが有名で、「若狭のサバ」として京へと出荷されましたが、それがすぐ隣の大野にも流入し、さかんに食べられていたようです。

若狭国から京都へとサバを運んだ道は「鯖街道」とよばれています。ただ、遠距離を運ぶので、傷みやすいのが難点です。古来よりサバは、食あたりが発生しやすい食材と知られており、「サバの生き腐れ」と言われてきました。このため、運搬する前には、エラを切除したり首を折ったりして血抜きをした上で海水で洗い、塩をまぶします。

江戸時代、若狭湾で取れ、こうして加工されたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれました。京都まで輸送するのに丸1日を要しましたが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になります。特に冬に運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて美味であり、京都の庶民には大好評でした。

このサバの産地、若狭の国の東隣は「越前国」です。上で焼きサバを食べる習慣があると書いた大野藩はこの越前の中でも一番内陸に位置します。現在の大野市に相当し、福井県内の市町の中では最大の広さを持ち、県面積のおよそ5分の1を占めます。

南東部には両白山地(りょうはくさんち)という山塊があり、その最高峰は「越前三ノ峰」で標高は2,095mです。福井県の最高地点でもあり、このあたり一帯と岐阜・石川との3県境付近の尾根は平均的に2,000mを超えます。

この山地から北西部に流れ出ている真名川(まながわ)の下流に形成されたのが「大野盆地」です。海抜200mほどのこの地域が大野の中心部であり、真名川の東を流れる九頭竜川もまたこの盆地の形成を助けてきました。その深い渓谷は秋になると紅葉で色づき、真名川の真名峡もまた紅葉の名所として有名です。

大野市は、冬季は市全域が特別豪雪地帯に指定されているほどの降雪量があります。しかし、夏は盆地であるだけにそれなりに気温は高いようです。ただ、山麓にある町のため、至るところから澄んだ地下水が湧いており、暑さを和らげてくれます。「名水のまち」として知られており、清らかな水、豊かな土壌を生かした野菜作りもさかんです。

市内の通りは碁盤の目のように整然としており、その中のひとつ、七間通りには、毎年春分の日~大晦日までの朝7時~11時頃市が立ちます。「七間朝市」というこの市では、地べたに新鮮な農産物や加工品がずらりと並びます。400年以上の歴史を誇り、大野の観光名物でもあります。

大野の歴史は、天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に進攻したことに始まります。長近は、美濃源氏土岐氏の出で18歳で信長の父、織田信秀に仕官し、信長がその跡を継いだあともそのまま小田家に仕えました。信長の美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢され、その後の越前攻略でも活躍しました。

一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる亀山に大野城を造成することを許され、その東麓に城下町を造り始めました。信長が本能寺で没したあとは秀吉に仕え、さらに関ケ原では東軍に与してのちに家康の家臣になりました。その後飛騨の高山に移封されましたが、高山藩が1693(元禄6)年に天領になるまで、その子孫6代がここを治めました。

城づくりに定評のあったその長近が作った大野の城下町は、短冊状に整然と区切られ、以後中世から近世にかけて多数の寺院が築かれました。現在もこの城下町誕生のころの風情を残しており、「北陸の小京都」と呼ばれています。

長近が飛騨高山に移封された後、大野藩は秀吉の従妹の青木一矩(かずのり)の時代を経て越前松平家が3代続きでここを治めました。その後、ここも天領となり、土井氏で定着するまで、大野城の城主は目まぐるしくわりました。

土井氏というのは、徳川家と密接な関係にある氏族です。徳川家康の母、於大の方の実兄水野信元の庶子として天正元年(1573年)に浜松で生まれたのが土井利勝(としかつ)で、土井家の直接の始祖とされます。

土井利勝はその後大老に抜擢され、その四男であった土井利房(としふさ)が、下野国内から大野藩に封じられました。天和3年(1683年)に死去しましたが、以後この土井家から出た代々の藩主よって藩政の基礎は固められました。

ところが、天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫しました。第6代藩主、土井利器(としかた)は、倹約に務めましたが、財政はなかなか好転しませんでした。

利器は、5代藩主・土井利義(としのり)が隠居したあと、養子として迎えられた藩主です。利義には利忠(としただ)という長男がいましたが、まだ幼かったため、利器がつなぎとして藩主の座につきました。

利忠が生まれたのは大野ではなく、大野藩の江戸藩邸です。母は和泉岸和田藩の第8代藩主、岡部長備の娘で、名前は記録に残っていませんが、栄香院という法名らしい名が残っています。

幼名は錦橘といい、この読み方は「きんき」だったでしょうか。1818(文政元)年、8歳で元服し、名を利忠と改めた直後、先代の利器が病に伏したため急遽、養子となりました。ただ、まだ幼なかったため、18歳までそのまま江戸藩邸で育ち、利器の没後に家督を相続し、7代目大野藩主として大野に入封(にゅうほう)しました。




利忠が始めて大野へ入部したのは1829(文政12)年のことです。このころ義父・利器の手掛けた藩政改革はまだ功を奏しておらず、財政はいまだ火の車でした。

文化・文政時代から天保年間にかけてのこのころ、江戸幕府の実権は11代将軍徳川家斉が握っていました。家斉の治世はおよそ50年続きましたが、当初は質素倹約を奨励して好調でした。ところが「出目」と呼ばれる貨幣悪鋳によって収益を増やそうとしたことが裏目に出ました。

貨幣の質を落とし、それで出た差益で幕府財政は潤いましたが、このことによって幕政は放漫経営に陥り、大奥を中心に華美な生活をする者が増えました。一方、悪銭とはいえ、供給される金が増えたことで商人の経済活動は活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えました。

しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化していきました。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こるようになり、中でも1823(文政6)年に起きた強訴は最大規模のものでした。

綿や菜種の自由売りさばきを要求する摂津・河内・和泉1,307か村による国訴ともいうべきデモは空前の規模となり、それまでの江戸幕府による経済の有り様を変えるほどでした。

発展し続ける経済活動によって、表面的には「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も、このころになると暗雲がたちこめてきます。華美な生活に浸る幕府の中枢に対し、土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的なギャップは急速に大きくなり、やがて制度疲労による硬直化が目立ち始めました。

既に幕末といえるこのころ、いずれの藩も同じように財政赤字を抱えており、とくに大野藩のように大した産業のない国は莫大な財政赤字を抱えるようになっていました。藩財政は苦しく、利忠の義父、利器も倹約に務めましたが、財政は好転せず、減知減給を恒常的に行うようになり、しまいには家臣に給料を満足に支払うことさえできなくなっていきました。



こうした時期に藩主となった若き藩主利忠は、早急にこうした財政の立て直しを迫られました。そこで、大野に入部した翌年(1830(文政13)年)には早速、「寅年御国産之御仕法」と呼ばれる倹約命令を出しました。

これは上下を問わず倹約に務めることを強く要請するとともに、地産地消を進める中で地場産品の質を高め、これを他へ販売することで利益を得る、というもので、現在で言うところ保護貿易政策です。

続いて1832(天保3)年に利忠は、領内の面谷(おもだに)にあった民間の鉱山を藩直営に切り替えました。この鉱山の主産品は銅であり、室町時代前期に猟師が露出した銅を発見したのが起源とされています。

後年、これらの施策は功を奏し、大野藩の財政は再建されますが、すぐには効果は発揮されず、藩財政のみならず一般藩士の生活の窮迫も改善のめどが立たない状態がしばらく続きました。

そこで、30過ぎになっていた利忠は、自筆をもって「更始の令」を発布しました。大野に入部した直後に発した「寅年御国産之御仕法」から12年後の1842(天保13)年のことで、その内容は、次のようなものでした。

「藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。」

城内の書院に集められ、藩主自らこの令の読み上げを聞いた家臣一同は、感涙に咽んだ(むせんだ)といいます。この令からもうかがわれるように、利忠は周囲の意見に熱心に耳を傾ける柔軟性を持った人物だったと思われ、また積極的に人材の登用を行いました。

中でも、抜擢を受けたのが、内山七郎右衛門良休(りょうきゅう)と内山隆佐良隆(りゅうすけよしたか)の兄弟でした。のちに、兄の良休は財政・民政を主に扱う勝手方奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなります。

この内山家というのを調べてみたのですが、どういう家系なのかはよくわかりません。ただ、大野の城下町を建設した金森長近は、美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)に生まれで、のちに美濃を離れ、近江国野洲郡金森(現滋賀県野洲市)へと移住していることから、いずれかの土地から付き従ってきた家臣がその先祖かもしれません。

その後、この二人が行った改革の中心は財政に関するものであり、何やら商売臭い匂いがします。もしかしたら商家の出だったかもしれませんが、あるいは代々勝手方などをやっていた、いわゆる「そろばんザムライ」であったかもしれません。

良休は1807(文化4)年生まれ、隆佐は1813(文化10)年に生まれで6歳の年齢差があります。兄の良休は明治14年まで生き、74歳で亡くなりましたが、隆佐のほうは52歳でなくなっています(1864(元治元)年没)。

この二人が居住したと思われる屋敷跡が今も大野市に残っています。母屋や蔵などが復元されており、もともとあったものを解体・修復して保存されているものです。大半は幕末から明治に建てられたもので、彼らの死後も子孫が守ってきたものです。再建ですが往時の姿をかなりとどめており、幕末に藩を財政的危機から再起させた彼らの力を感じさせます。

この兄弟のうち、とくに財政再建の上で力を発揮したのが兄の良休です。主君の利忠の命を受け上でも述べた面谷鉱山の再開発を行ったのは良休であり、これを藩の直営としたことで、年間10万貫の銅を産出する銅山にすることに成功しました

また農家が作った特産品などを全国に売ることをはじめ、「刻みタバコ」の販路拡大を図り、大阪に藩直営の「大野屋」を開店し、その後2号店、3号店も開きました。

さらに、領内に本店「大坂屋」を構えたほか、越前各地や函館、横浜、神戸、岐阜、名古屋など多くの都市にも出店。大野の特産物を出荷するとともに、これらの地の産品も国内に流通販売し、商品取引のほかに金融業もこなすなどして大きな利益をあげていきました。

このころの他藩の経済対策としては、倹約や年貢の引き上げが普通でした。これは領民にとっては苦痛そのものであり、これによって財政が回復したところはさほど多くありません。これに対して大野藩の内山良休は商売に目を向けて外貨を得る施策をとりました。

武士というよりも商人そのものであり、しかも敏腕でした。大野屋の営業形態も現在のフランチャイズ形式を思わせるものであり、この当時としては斬新なものでした。また、主君の利忠もその力量を認め、多くの権限を与えました。

生産性の向上と有能な人材の登用・藩借金の整理なども良休に自由に行わせた結果、改革後8年後には早、借金のほとんどを返済することに成功しました。



利忠はまた、良休の弟の隆佐を使って、教育改革を積極的に進めました。1843(天保14)年には学問所創設を命じ、これは明倫館と名づけられて翌年の1844(弘化元)年に開校しました。講義の内容は朱子学が柱でしたが、他の学派の議論も認め、また医学の授業まで取り入れていました。

のちには蘭学も取り入れて洋学館を設立し、大坂から伊藤慎蔵を招きました。伊藤は、長州藩の萩浜崎で開業していた医者、伊藤宗寿の子で、大阪に出て緒方洪庵の適塾で学び、頭角を現して塾頭にまでなった人物です。高名な学者であり、彼から蘭学を学ぶことができるとうことから、その後全国から生徒が集まるようになりました。

利忠はまた隆佐に命じて藩の軍制改革にも臨みました。手始めに高島流砲術を導入し、1845(弘化2)年には大砲1門の鋳造にも成功しています。早打ち調練などを盛んにやらせ、大がかりな洋式訓練を行ったため評判となり、他藩からの入門希望が多数寄せられるようになりました。

1853(嘉永6)年のペリー来航後は、隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図り、また多数の大砲の鋳造を命じて完成させています。

このころ、鎖国をしていた日本に対して外国からの圧力が徐々に高まってきていました。安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行っていました。

このとき隆佐は利忠以下の藩論をまとめてこれに応募しました。そして自ら探検調査団を率いて、北海道南西部の渡島半島の調査を実施するとともに、蝦夷や樺太などの北方地域の情報収集に務めました。

そうした結果を受け1854(安政元)年には、北蝦夷地(樺太)の開拓を幕府に提案。これは2年後の1856(安政3)年に認められ、大野藩は許可を得て樺太の開拓計画を実行に移すことになりました。

こうして、1858(安政5)年には、樺太中部のウショロに、大野藩準領を設け、総督として隆佐が赴き藩士を派遣して実務にあたらせました。このころウショロは、日本の領有下において鵜城郡(ウショロぐん)の名を与えられていましたが、住民のほとんどはアイヌであり和人は幕府から派遣された番人が数名いる程度でした。

隆佐らがウショロに入った前年の1855(安政2)年には、日露和親条約が締結されています。伊豆下田の長楽寺において、日本とロシア帝国の間で交わされたこの条約では、択捉島と得撫島(ウルップとう)の間に国境線が引かれ、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められました。しかし、樺太方面の国境の確定は先送りされました。

一方、国内的には同年から樺太を含む蝦夷地全域が公議御料(直轄地)となりました。これにより、秋田藩がウショロの警固を行うこととなり、漁場の番屋に詰める番人を派遣しましたが、この番人は武装化した足軽でもありました。

ここに入った隆佐たちが開拓場所として許されたのは、ウショロとその北部の名好郡域でした。樺太中部にあるこの地域は、西の間宮海峡に面し、そこには良好な漁場が広がっています。とくに大量のニシンが上がり、箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命し、漁場開発に当たらせた結果、予想を上回る豊漁を得ていました。

鳥井権之助は、越後の国出身の商人で、出雲崎に店を構える回船問屋、敦賀家の主です。幼少時代から利発で学問にも優れており、長じてこの地域の名主となってからは、幕府に対して両輪船建造の提言なども行っています。これによって幕府も開明的な思想を持つ実力者として認めるようになりました。

蝦夷の開拓にも関心を持ち、箱館港や五稜郭の土木工事を請負い、この工事を完成させました。これを機会として樺太開発にも乗り出した結果、ウショロで漁場開発を行うようになったのです。

内山隆佐らも鵜城に会所(運上屋)を開設して警固や漁場の開設をおこない、この鳥井の意見なども参考にしながら漁業経営を試みはじめました。しかし大野藩は大型船は保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていました。

ただ、本格的な漁場開拓を実行し、各地との交易を行うためには船足が速く堅牢な船舶が必要です。そこで、西洋式の大型船の建造が計画されることになりました。

1857(安政4)年、内山隆佐は洋式造船の調査のために江戸へ向かいました。そして箱館奉行所用で造船に関わっているという御用達の栖原長七という人物を紹介されます。御用達とは、幕府、大名、旗本、公家、寺社などに立入あるいは出入する特権的な御用商人のことで、今日でいう商社マンのような存在です。

栖原は、箱館の築嶋(函館港に面する現在の末広町および豊川町付近)で起工されたスクーナー「箱館丸」の建造に関わっていたようです。この栖原を通じて、大野藩による洋船の建造の伺いが幕府に立てられた結果、箱館藩所有の箱館丸と同型の船の建造が認められました。

ちなみに、このころ大野藩は海に面した、同じ越前国の丹生郡(にゅうぐん)は西方(西潟)という場所に陣屋を開いてしました。異国船の出没を知るための具体策として講じられたものであり、西潟駐留の番人が異国船を発見すると直ちに大野まで注進させていました。こうしたことからも、幕末の大野藩が開明的な藩であったことがうかがわれます。

この西潟には、操船に慣れた水主が多数在住しており、こののち建造されることになる洋船の水主もこの浦から調達しています。和船の建造に秀でた船大工も多数おり、新しい船の設計に当たってはその一人である、木村治三郎という船大工が抜擢されました。

こうして造船が始まりましたが、造られたのは大野ではなく、天領の川崎稲荷新田という場所でした。現在の羽田空港のすぐ西側にあり、大師町と呼ばれる一帯で、おそらくこの当時ここに漁村があったのでしょう。

その一角に建てた造船所に竜骨をすえつけ、起工したのが1857(安政4)年11月。その翌年の1858(安政5)年6月には、船体が完成し進水式が行われました。かかった経費は約1万両といわれ、これは現在の8千万円程度かと思われます。その後、品川沖に回航されて艤装工事を受けました。

完成した船は「大野丸」と命名されました。形式は箱館形ということでしたが、実際には君沢形に近いものだったと考えられています。君沢形とは、幕末に日本の戸田村などで建造された本邦初の西洋式帆船の型式で、原型は下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」です。

君沢形は、帆装形式は箱館型と同じくスクーナーに分類され、同型船10隻が量産されました。ただ、大野丸はこの君沢形とは厳密には異なった設計で、帆装形式は箱館形と同じ2本マストに縦帆だけでなく、横帆を併せ持つトップスル・スクーナーでした。

横帆があれば、追い風だけでなく、帆の向きを風の向きに交差する方向に変えることができます。つまり、進路変更に柔軟に対応できるのがトップスル・スクーナー特徴です。君沢型や箱館型の改良版ともいえ、このころの日本では最新鋭のものといえますが、逆にスクーナーとしては特殊な船であり、一般的なものとはいえません。

長さ18間(32.7m)、幅4間(7.3m)、深さ3間(5.5m)のこの船は、無論、大野藩としても初めて保有する洋式帆船です。

その運用にあたっては、従来の和船に慣れた船乗りでは十分ではなかったため、このころ幕府により創設されたばかりの築地の軍艦操練所に藩士を派遣し、教育を受けさせました。その一人、吉田拙蔵は、のちに大野丸の船長となり、藩の物資輸送や樺太開拓事業で活躍しています。

竣工した「大野丸」は、1858(安政5年)9月初旬に品川を出港し、浦賀に滞留後、関門海峡を通って10月末に敦賀港へ到着しました。敦賀に入港したこの最新鋭の洋式帆船を見学するため、多数の藩重役が港を訪れました。敦賀ではさっそく藩士や町民から船員が募集され、三国湊(現福井港)の船頭だった佐七郎が初代の船長に採用されました。

翌1859(安政6)年4月下旬、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発。敦賀から日本海を北上し、8日をかけて箱館に入港しました。その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運ぶことによって、着実に利益をあげていきました。この間、船長もより洋式帆船の操縦に慣れた吉田拙蔵に変わっています。

1859年(安政6)年9月中旬には、奥尻沖の室津島で遭難したアメリカ商船スプリング号を救助するというハプニングにも遭遇しており、幕府とアメリカ政府から謝礼を受けました。小藩に過ぎない大野藩が洋式船を建造したことや、アメリカ船を救助したことなどによって一躍「大野丸」の名は日本中に広まりました。

隆佐はまた、大野丸を用いて北蝦夷地開拓にも挑みました。しかし、寒さの厳しい北蝦夷での開拓は想像以上に苦しく、用意していた開拓の資金はすぐに底をつきました。隆佐らの報告を受けた利忠は、開拓の資金を援助してほしいと幕府に願い出ます。

これに対して幕府は、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助しました。北蝦夷地の警固を幕府はそれほど重視していたのです。

文久2年(1862年)、利忠は病気を理由に隠居し、15歳の三男・捨次郎が利恒(としつね)と改名して家督を相続しました。同年4月、利恒は父に伴われて江戸へ出発し、利忠は利恒を正式な家督を相続者として幕府に報告しています。また、この時新藩主就任を知らせる直筆の書を大野城に送っています。

こうした慶事において藩主自らが直筆の書を出す習慣は、利忠以来恒例となりました。この書の中で利忠は、天保元年(1830年)の大野初入部以来の家臣の忠勤に感謝した上で、利恒へ一層の忠勤を求めました。また、当分の間は利忠の政策を受け継ぎ、父に変わらぬ忠勤を利恒に対しても行うよう要請しています。

ところが、それから2年後、二つの事件が大野藩を揺るがしました。その一つは、蝦夷と大野間で運用されていた大野丸が、根室沖で座礁、沈没してしまったことです。択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中のことで、運用開始から6年経った1864(元治元)年9月のことでした。

乗員は搭載の伝馬船で脱出し、全員無事でしたが、「大野丸」の喪失により、大野藩による北蝦夷地開拓の試みは事実上とん挫することになりました。

しかもこの大野丸の喪失の2ヵ月前、内山隆佐がなくなりました。病死とされており、52歳の若さでしたが、死因は不明です。

隆佐は、若いころ江戸留学を認められ、佐久間象山にも学んでいます。兄とともに藩政改革に努め、蝦夷地総督となってからは大野丸を駆使して「商社」ともいえる大野屋を大きくし、藩の財政改革に貢献しました。もう少し長く生きていれば、さらに大きな業績を挙げたに違いありませんが、運命には逆らえませんでした。

大野藩による北蝦夷開発は、のちの治元年(1868年)に与えられた樺太領地を明治新政府に返上するまでは開拓が進められました。しかし、大野丸を失い、主導者の内山隆佐をも失ったことで、その開発はとん挫しました。

さらに隆佐の死は、幕末における大野藩の動向に少なからぬ影響を与えました。とくに、この年(1864(元治元)年の年末に起こった天狗党騒動においては、その対策を軍事に優れた隆佐を欠いたままで行うところとなりました。

天狗党というのは、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下の尊王攘夷派のことで、幕府が諸外国に開こうとしていた港の即時鎖港や外国船を打ち払いなどを要求して立ち上がった反乱軍です。

筑波山で挙兵した際は、1400名を超える軍勢を誇りましたが、これを鎮撫しようとした幕府軍に那珂川などで敗れ、大幅に勢力をそがれました。その残党は京に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道美濃路を通って京へ向かいました。

ところが、美濃国鵜沼において彦根藩と大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かいはじめたことから、大野藩は大騒ぎになりました。福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩ですが、軍事総督の内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にありました。

残る重臣たちは、藩兵をかき集めましたが200名ほどしか集まりません。天狗党には到底抵抗しきれないと判断し、なぜか天狗党の予想進路に当たる村落を全て焼き払う事を決定します。無意味な焦土作戦が実行に移された結果、藩内各村の民家200軒あまりが藩兵によって焼き払われる事態に発展しました。

この焼き討ちが行われたのは西谷村という場所が中心だったため「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今日でも土井家関係の祭りには参加しないといいます。

翌1864(元治元)年の1月、天狗党の残党およそ800余名が大野藩に近づきました。大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党と睨み合いになりましたが、後日大野の町年寄・布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させました。

その結果、2万6千両を軍資金として支払う代わりに、天狗党を他領へ去さらせることを認めさせることに成功します。

天狗党一行はその後、加賀藩(現石川県)に迫りますが、慶喜が自分たちの声を聞いてくれるものと期待していたのに対し、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断。前方を封鎖していた加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧されました。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、武田耕雲斎ら幹部24名が、能登穴水の来迎寺境内において斬首されたのを最初に352名が処刑され、他は遠島・追放などの処分を科されました。

この翌年の1865(慶応元)年(1865年)、利恒は京都嵯峨および太秦の警衛を命じられました。2年後の1867(慶応3)年には大政奉還が行われ、翌年には戊辰戦争が勃発しますが、この混乱の中、1868年10月23日(旧暦9月8日)には年号が慶応から明治に改元されました。

このとき大野藩では藩主利恒・家老の良休以下が集まって軍議を行いました。その結果、官軍に恭順することに決し、藩主利恒は新政府より箱館裁判所副総督に任命されました。

早速大野藩兵166名が箱館戦争参加のため出発しましたが、大野藩に箱館への出兵命令が下ったのは、幕末に蝦夷地開拓の先頭に立っていたこと、洋式軍制による強兵策に取り組んでいたことが評価されたものです。

ただ、大野藩ではすでに旗艦となるべく大野丸を失っていたため、箱館への移動にはイギリス船のモナ号があてがわれました。大野藩兵は、松前・津軽・長州・徳山などの諸藩とともに、松前口の上陸を命じられ、激しい弾雨のなかで、果敢な上陸作戦を決行しました。

次いで江差に向けて進撃し、大いに戦果をあげましたが、頑強に守備していた榎本武揚率いる旧幕府軍の抵抗に遭い、戦死6人、重軽傷18人の犠牲者を出しています。

箱館戦争の勝利後、大野藩兵はいったん東京に立ち寄り、神田橋筋違の藩邸で、藩主利恒の閲兵をうけたのち、大野に帰藩しました。出征兵のうち戦死した11人は、函館の招魂社に祭られ、また大野では城下の篠座神社境内に招魂社と慰霊碑が建てられ、栄誉の死が称えられました。

明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると利恒は藩知事となりましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となりました。また、大野藩は廃藩となって大野県となりましたが、同年末には福井県が発足したため、これに編入されています。

利恒は、箱館戦争などにおける大野藩の功績が認められ、明治17年(1884年)7月8日に子爵に叙爵されています。亡くなったのは、明治26年(1893年)のことで、45歳の若さでした。

動乱の幕末にあって、利恒とその父利忠に率いられた大野藩のめざましい復興は他藩から高い評価を受けました。

借金まみれだった財政は黒字化を達成し、藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備されました。何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気が蘇ったことが最大の成果といえます。天保13年の「更始の令」以来、藩主利忠が藩政自体をゼロから立て直す、という気概で取り組んできた改革は見事に実を結んだといえます。

大野藩は特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心でした。たった石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学びました。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されています。

こうした改革を推進するため内山兄弟を抜擢した利忠は、このほかにも藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励などを行いました。積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君として、現在でも高く評価されています。

こうした功績を残す一方で、藩財政のやりくりや穀物の価格高騰に不満を抱える藩士や町人たちからやっかみを受けることもありました。利忠に見いだされた良休はこれらが原因で辞意を伝えたこともあったといいます。これに対して利忠は良休を家老職に任命することで慰撫しています(1860(安政6)年)。

このとき良休に出された任命書には、良休を気遣いつつも「これまで以上に熱く仕事に励んでほしい」との思いがつづられていました。これに対して家老就任を受けた良休も、忠義に励むことなどの七つの誓いを立てており、これは「誓紙前書」として保存されています。

こうした部下思いの君主は領民にも愛されたようです。明治15年(1882年)、旧藩士たちの手により、大野城ふもとに利忠を祭った神社が建立されており、これは「柳廼社(やなぎのやしろ)」と呼ばれています。

この社のある大野城は、城下の西にある標高249mの亀山という小高い丘の上にあります。本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属された豪壮な天守だったようですが、1775年(安永4年)に焼失しました。

1795年(寛政7年)には天守を除いて再建され、利忠・利恒親子もその周辺施設で居住していたようですが、明治維新後にすべての建物が破却されています。

現在、亀山の山頂に建つ天守は、当初に建てられたてものを模写したもので、1968年(昭和43年)に元士族の萩原貞(てい)なる人物の寄付金を元に再建されたものです。

この人物の来歴を調べてみましたがよくわかりません。が、越前の隣国である丹波国(現京都府中部)の氷上郡には摂家の萩原家の領地があります。このことから、ここから出た士族が大野藩に召し抱えられていたのかもしれません。

鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものですが、往時の絵図や創建当時の同時期の他の城の天守を元に再建されたもので、史実に基づいた復元再建ではありません。現在、この復興天守の内部には金森氏や土井氏など歴代の城主に関する資料が展示されており、資料館として利用されています。

四方を山々に囲まれた大野盆地は、4~9月ころに城下町全体が雲海に包まれることがあります。その中で亀山だけが浮かんで見え、「天空の城」が現われます。近年これが有名になり、2014年には有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城 越前大野城」として観光に一躍買っています。

この光景は、大野城の西、約1kmにある犬山(戌山(いぬやま)城址(標高324m))から見ることができるそうです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。