神宮の森に

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2020年の東京オリンピック開催まで、今週末でちょうどあと5年になります。

7月24日開催、8月9日までの競技予定で、その開閉会式は現在建て替え工事が進行中の新国立競技場で行われるはずです。しかし当初予定されていた奇抜なデザインを巡っては、工費が莫大になることが明らかになり、先日見直しが決まったばかりです。果たして間に合うんかい、と心配されています。

が、大丈夫、日本のゼネコンの能力は高く、必ず間に合わせるでしょう。彼等は、某アジアの一党独裁国家や南米の三流国家のそれよりもはるかに高い技術力を持っています。

前回の東京オリンピックの際に新設された旧国立競技場は、どこが作ったか調べたところ、これは大成建設だったようで、14カ月という短工期でこの5万人収容の大スタジアムを完成させています。この時も日本中から寄せられる期待は大きく、現場には皇族としては初めて皇太子殿下(現・天皇陛下)が足を運ばれ、工事の様子を視察されたといいます。

では、今回見送られたデザインの施行予定業者はどこだったかといえば、特徴がある屋根は竹中工務店、8万人収容のスタンドは、これまた大成建設が受け持つ予定だったようです。見直しになり、これら各社との契約もちゃらになるでしょうが、今後どんなデザインになりどこが受け持つにせよ、これらトップクラスのゼネコンに任せておけば大丈夫でしょう。

ところでこの国立競技場ですが、実はこれは、国立霞ヶ丘競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場、国立西が丘競技場(北区、現味の素フィールド・西が丘)の総称です。

が、一般に「国立競技場」と指す場合は、それらの中心にある国立霞ヶ丘陸上競技場を取り上げることが多くなっています。「霞ヶ丘」は、この一帯が霞ヶ丘町であることに由来します。新宿区の最南部に位置し、明治神宮外苑が町域の大部分を占め、外苑内の国立霞ヶ丘競技場のほか、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館などが当町域に属します。

江戸時代には、この一帯は、千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷甲賀町と呼ばれていました。この町名はいまもJR千駄ヶ谷駅に残っています。明治になって、千駄ヶ谷一丁目~三丁目となり、当町域は千駄ヶ谷一丁目になりました。また1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行では四谷区に属していました(現在は新宿区と渋谷区にまたがる)。

この地に、霞岳・川向・甲賀という字がありました。1889年の東京市制施行に伴い、このうちの一つをとって四谷霞岳町となり、さらに1911年に四谷霞岳町から霞岳町に改称。そして、オリンピック後の2003年9月霞岳町のほぼ全域が「霞ヶ丘町」と改称されました。

「霞ヶ丘」と命名されたのは、無論、ここに霞ヶ丘国立競技場があったからにほかなりません。もともとは、霞岳町の一字をとって名付けられたものですが、オリンピックを機に「霞ヶ丘」のほうが表に出るようになり、それゆえに歴史ある古い名前のほうは消えてしまった格好です。

それにしてもなぜ、「丘」と名付けたかですが、想像するにこの地は、南側の原宿、北側の四谷、さらに東側の赤坂よりも相対的にやや高い位置にあるためでしょう。といっても標高は30mちょっとであり、これら周辺の地よりも10mほど高いだけです。

それにしても、「国立霞ヶ丘陸上競技場」とするといかにも長ったらしいので、以下ではこの呼称はやめ、「国立競技場」で統一して話を進めていきたいと思います。また、本来ならば「旧国立競技場」とすべきところですが、これも煩わしいのでやめにします。

この国立競技場は、いわずもがな東京オリンピックの顔として建設されたもので、解体以前にはオリンピックマークと「Tokyo 1964」 を合わせたエンブレムが付されていました。

競技としての国立競技場では、陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)が行われました。また、隣接する秩父宮ラグビー場でもサッカーが、代々木会場である、国立代々木競技場では、水泳、バスケットボール競技が開催されました。

国立競技場はオリンピック以後も、立地も良いことなどから各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多く、競技者からみれば、これらの施設は憧れの的でした。「聖地」とも呼ばれることも多く、ここでプレーした経験のある競技者といえば、各競技でかなりレベルの高い部類に入る選手といえます。

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その前身は「明治神宮外苑競技場」という競技場です。「青山練兵場」跡地に造成されたもので、1924年(大正13年)に完成しましたが、国立競技場を建設するために、1957年(昭和32年)に取り壊されました。

明治時代に練兵場として使われる前の江戸時代には、明治神宮外苑、青山霊園とも合わせてこの一帯は「青山氏」の大名屋敷敷地でした。青山氏は、徳川氏の家臣の一族で、江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた名門です。現在も残る「青山」の地名も、この青山氏の江戸屋敷があったことを由来としています。

青山通りの北面にその宗家があり、南面に分家の下屋敷があったといいますが、明治維新を経た明治19年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられました。しかし、明治天皇の崩御後、東京市では市内に明治天皇を祀る神宮を創建することを決定。代々木にその内苑、この青山練兵場に外苑がつくられることになっていました。

その外苑に競技場が建設されることになるきっかけは。1914年5月に当時の東京市長「阪谷芳郎」が、日本YMCAの代表団と会談したことでした。阪谷は、柔道家の嘉納治五郎大日本体育協会会長と共に彼等からアメリカのスポーツ振興の話を聞き、関心を抱きました。

このとき、阪谷は東京市内に欧米式の公園とそれに伴う本格的な競技場を建設するというアイデアを思いつき、それを外苑整備のプランと合わせることで現実化しようとしました。こうして、1915年に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成された折、造営局にこの競技場の施工をも頼み込んで認められ、1922年11月に定礎式が行われました。

翌1923年9月1日の関東大震災によって工事は中断されましたが、なんとか完成にこぎつけました。総工費は当時の金額で726万円であったといいます。大正期の1円は現在のだいたい1000円超ですから、現代では75億円ほどもかかる大工事だったことになります。

こうして1924年10月25日に国立競技場の前身である明治神宮外苑競技場の竣工式が行われました。続いて、10月30日に第一回明治神宮競技大会が行われました。これは、「明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す」競技大会で、現在の国体のようなものです。

全部で36種類ほどの競技が行われましたが、これらの中には、現在ではもう見ることのできない銃剣道ほか、国防競技、戦場運動、行軍訓練、滑空訓練といったものもありました。

この大会は、1927年までは毎年、以後1939年の第十回大会までは隔年で行われました。1939年以降は厚生省の主催で「明治神宮国民体育大会」の名称で毎年行われるようになりましたが、1942年に「明治神宮国民錬成大会」の名称になったころ、太平洋戦争が勃発して大会は開かれなくなりました。

この明治神宮競技大会がまだ行われていたころの1936年には、IOC総会で1940年のオリンピックがアジアで初めて東京で行われることが決まりました。ところがメインスタジアムの場所をめぐって東京市と大日本体育協会などの思惑が交錯し、紛糾します。

東京市は現在の晴海付近を埋め立てる「埋立地案」、大日本体育協会は「明治神宮外苑競技場案」を推していました。

二者の意見はかみ合わず、その後、議論は二転三転しましたが、翌年の1937年になって、いったん「外苑競技場改修案」が決定しました。が、最終的にはこの案も覆って、ぜんぜん関係のない、別の場所である駒沢に新競技場を建設するということで決着しました。

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しかし、戦争の近づく国際情勢の中で1938年7月にオリンピック大会の返上が決定。欧州でも戦争が勃発したため、駒沢の新競技場の建設は無論のこと、この1940年の幻のオリンピック大会が行われることはありませんでした。その後、日本は1941年12月8日未明、アメリカに真珠湾攻撃をしかけ、太平洋戦争に突入。

当初は破竹の勢いで東南アジア諸国を制しましたが、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどの敗戦により急速に勢いを弱め、連合国軍の猛烈なる反抗により、日本は次第に進出していた南国からの撤退を余儀なくされていきます。更にはマリアナ・パラオ諸島の戦いでも破れ、制空権を失うと、本土にもB-29などの爆撃が襲来するようになりました。

アジア・太平洋に及ぶ広大な戦線の維持や、急速な戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった日本は、ついに「学徒出陣」にまで追い込まれます。

1943年10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省の主催による「出陣学徒壮行会」が陸海軍省等の後援で行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進しました。

学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令及び大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校などの高等教育機関に在籍する文科系学生でした。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊しました。

なお、理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、陸海軍の研究所などに勤労動員されました。ただし、農学部の一部学科(農業経済学科や農学科)は「文系」とみなされて徴兵対象となりました。また、教員養成系学校(師範学校)の理系学科に在籍する者も猶予の制度が継続されました。

この壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継を行い、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われました。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々の前で、東京帝国大学以下計77校の出陣学徒の入場行進が行われました。

東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされます。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い整列しました。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)末までに陸軍へ入営あるいは海軍へ入団しました。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者も多く、こうしたエリートは、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されました。

このころ東南アジア各地の戦地では、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出していました。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけ、さらに戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れました。戦後70年も経つのにその死者数は正確に把握されていません。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多いようです。出征者は約13万人という説もあるようですが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままです。

その多くが富裕層の出身であったといわれており、将来社会の支配層となる予定の男子でした。その学生たちが「生等もとより生還を期せず」(学徒代表・江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、学徒出陣式は、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となりました。

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1944年に入ると外苑競技場を含む外苑全体が軍の施設となり、1945年5月25日の東京大空襲では競技場も爆撃を受け、場内に大量に備蓄されていた薪炭が三日にわたって燃えつづけました。しかし、競技場そのものは大きな被害を受けず、戦後に持ち越されました。

終戦後、明治神宮外苑一帯がGHQに接収されると、外苑競技場も照明設備の設置などの改修を受け、「ナイル・キニック・スタジアム」という名称で呼ばれることになりました。

このナイル・キニックというのは、アイオワ州エイデル出身のアメリカンフットボール選手で、アイオワ大学在学中の1939年に、ハイズマン賞を受賞したことで有名になりました。この賞は大学フットボールの名選手で監督でもであったジョン・ハイズマンの名を冠した賞で、各年の大学アメフトリーグで最も活躍した選手に与えられるものです。

キニックの母方は独立戦争で活躍した将軍の子孫で、祖父はアイオワ州知事を2期務めており、エリート一家生まれといえます。両親とも教育熱心でクリスチャン・サイエンスを学んだキニックは自制心を持ち、高いモラルを身につけていたといわれます。

中学時代のころから既にバスケットボールの花形であり、高校3年の時、州のファーストチームメンバーに選ばれチームを州のトーナメントで3位まで導きました。大学でも優秀な学生であり、進学したアイオワ大学では、カレッジフットボールの最優秀アスリートに選出されました。そして、フットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞も受賞しました。

4年次に彼はアイオワ大学の学生会長に選ばれ、卒業前にいくつかのプロチームから入団オファーを受けましたがこれをすべて断り、アイオワ大学のロースクールに進学。1年後に3番の席次となりました。ところが、1939年9月、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発しました。

さらに1941年6月にドイツ軍はソビエト連邦に侵攻し、ドイツはイタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成しました。この結果、英仏に加担して連合国側となったアメリカと日本の関係は急速に悪化。ロースクールに通い始めて1年ほど経過していた彼はこの年の8月、愛国心に目覚めたのか、海軍航空隊に入ることを決意しました。

1941年12月8日には日本が真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告。このとき彼は両親への手紙に心境を書きつづっており、そこには「私が歴史上で賞賛したあらゆる男性は、彼の国の危険のとき軍へと喜び馳せ参じ、勇敢に勤めた」と書かれていました。

入隊後、彼は戦闘機のパイロットとしての訓練を受けましたが、一年ほど経った1943年6月2日、空母レキシントンからの発艦の訓練をしていた彼のグラマンF4Fワイルドキャットは、ベネズエラのパリア湾沿岸の海岸に墜落しました。

彼の乗機は燃料が漏れ出していたといわれ、このとき母艦は発艦する飛行機で混雑しており、飛行甲板に着艦することもできず1時間以上飛行を続けたあげくの緊急着水でした。すぐにレスキューが到達しましたが油しか発見されず、遺体は見つかりませんでした。

ハイズマン賞受賞者として最初の亡くなった人物となった彼はこの時24歳。死後、数え切れないほどの栄誉が与えられましたが、神宮外苑競技場を、ナイル・キニック・スタジアムと改称したのもその栄誉のひとつでした。

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しかし、お国のためにと多くの学生が学徒出陣したのがこの外苑競技場であったのに対し、戦争に勝ったアメリカがその競技場に名付けたのが、たった一人の学生のものであったということは、実に皮肉なことです。

ここから万単位の数の日本の学生が出征していき、その多くが失われたというのに、それに代わって、戦勝国で英雄視されていたとはいえ、実戦に一度も参加していない青年の名がこの競技場に冠せられたというのは、私としてはどこか納得がいかないものがあります。

あるいは米側もここで学徒出陣が行われたことを知っていたのかもしれず、わざと彼を選んだのかもしれません。それにしても、ここから死地へと旅立つ息子の姿を見つめていた親たちが、たった一人の米青年のためにこの改名が行われたことを知ったとき、その事実をどう受け止めたでしょうか。忸怩たる思いがあったのではないかと想像してしまいます。

この外苑競技場の進駐軍による接収は1952年まで続きましたが、その間も日本人の利用は行われており、1950年には日本で最初のサッカーのナイトゲームが行われました。また、1949年には第四回国民体育大会の陸上競技および閉会式が外苑競技場で行われています。

数々の名勝負の舞台となった外苑競技場の最後の熱戦ともいうべきものが、1953年3月7日および14日に行われたサッカー・スイスW杯の予選、日本対韓国の二試合でした。これは本来ホーム&アウェイでおこなうべき試合でしたが、韓国側の日本選手団の入国拒否という措置のために日本で行われたものです。

勝てばW杯出場という試合でしたが、降雪後という劣悪なピッチ状況での試合は日本が長沼健のシュートで先制したものの、5対1で韓国の逆転勝ち。一週間後の第二試合は好天に恵まれたものの2対2の引き分けで戦後初の日韓対決を韓国が制し、W杯初出場を手にしました。

その後、第三回アジア競技大会の実施が東京で行われることが決まると、外苑競技場を取り壊して新たに国立競技場を建設することが決定。1956年には所管が明治神宮から文部省に譲渡され、翌年取り壊されて、33年に及んだその輝かしい歴史に幕を下ろしました。

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ちなみに、1952年のアメリカの接収の終了により、既にキニック・スタジアムの名称も取り下げられていましたが、その名は、彼の故郷のアイオワで復活しました。

彼の死後、彼の母校のフットボール場を彼の栄光を称えて改称しようとする運動が起き、1972年春、アイオアスタジアムは正式にキニック・スタジアムとなりました。現在、カレッジフットボールで唯一のハイズマン賞受賞者の名前をつけたスタジアムとなっています。

新しい国立競技場は1957年1月に起工され、アジア大会前の1958年3月に竣工し、その年には無事アジア大会が開催されました。このとき、のちの東京オリンピックで一躍脚光を浴びた「聖火台」も完成しており、この大会が初お披露目となりました。その製作を請け負ったのは、鋳物づくりの名工とうたわれた「鈴木萬之助」という職人さんです。

ところが、その湯入れ作業で爆発事故が起き、このショックと過労で8日後に鈴木萬之助は亡くなってしまいます。しかし息子の鈴木文吾が不眠不休で第二の聖火台を製作し、一ヶ月の作業の後、聖火台を完成させ、何とかアジア競技大会に間に合わせました。文吾は、もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだったといいます。

この高さと直径2.1m、重さ2.6tの聖火台は文吾の手により父の製作者名が入れられて、国立競技場に鎮座していました。が、その解体に伴い、宮城県石巻市に貸し出され、新しい国立競技場が完成する2019年まで、石巻の復興のシンボルとして使われる予定です。先月末までに、市の運動公園に設置が完了し、聖火台に「復興の火」がともされています。

この点火式には、オリンピック組織委員長の森喜朗元首相など、およそ100人が出席しました。点火役は、アテネオリンピック、ハンマー投げの金メダリスト・室伏広治選手が務め、雨が降りしきる中、トーチを掲げ、火をともしました。なお、萬之助が最初に製作した聖火台も修繕をへて、今も作業場のあった川口市に置かれているといいます。

国立競技場が完成した1958年からは日本陸上競技選手権大会が開催されるようになり、2005年まで断続的に会場として利用されました。また翌1959年には、東京国体のメインスタジアムとして陸上競技がここで開催されました。

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その後1963年には東京オリンピックのメインスタジアムとして使用するためスタンドの増築が行われましたが、この増築を行ったのも大成建設で、この工事により座席数は約7万2千席となりました。

サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開催されるようになりました。翌1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が実施され、以降「元日の決勝戦」が定着していました。

さらには、1976年度(昭和51年度)から全国高等学校サッカー選手権大会も開催されるようになり、上位進出を決めたチームのみが国立のピッチでプレーすることができるため「高校サッカーの聖地」とみなされるようになっていきました。

その後1970から80年代にはラグビーブームが訪れ、日本ラグビーフットボール選手権大会など多くの試合で満員の観衆を集め、特に早明戦では前売りチケットの入手困難のため徹夜による列並びが毎年恒例となっていました。また、長年サッカー世界選手権、トヨタ・カップの会場として用いられ、1991年には世界陸上競技選手権大会も開催されました。

このように国立競技場は日本を代表する大型スタジアムとして利用されてきたわけですが、同規模の5万人の観衆を収容できるスタジアムは甲子園球場を別にすれば長らく存在せず、1988年の東京ドーム、陸上競技場では1994年アジア競技大会開催に向け建設された1992年の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)の開場を待たねばなりませんでした。

独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われており、また2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められました。2005年に単独のアーティストとしては初めてSMAPがコンサートに使用し、2007年にはDREAMS COME TRUEが審査をパスしコンサートを行っています。

その後も2008年の嵐、2012年の、L’Arc〜en〜Cielのコンサートが開催されています。また2014年にはポール・マッカートニーが日本国外のロック歌手単独で初となるコンサートが予定されていましたが、体調不良のため延期代替の分を含めた公演を中止しています。

コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎23回忌法要が開催されました。この法要では、トラック部分に總持寺の本堂を模した仮設の建物を用意し、主催した石原プロモーションの発表では約11万7000人のファンが訪れました。

そして、2013年9月にブエノスアイレスで開かれた第125次IOC総会で2020年のオリンピックが東京で開催されることに決定。これにより、国立競技場は建て替えられこととなり、2014年5月31日、「SAYONARA国立競技場FINAL “FOR THE FUTURE”」のピッチ開放をもって閉場となりました。このイベントの一部は、TBSで生中継されています。

そして、その解体が今年2月下旬から始まり、5月半ばに終わりました。この解体工事をめぐっては、当初は昨年7月に開始する予定でしたが、入札の不調などで解体業者の選定に難航。3度目の入札で競技場北側と南側の両工区の業者が決まり、時期が大幅に遅れました。

解体工事は南北二つに分かれており、北工区の入札価格は、関東建設興業の13億9400万円で、南工区はフジムラの15億4900万円で、合計29億4300万円となります。

その新競技場計画も二転三転し、先日首相が計画の白紙化を表明したばかりです。解体費用は必要経費だとして、ボツになったプランのデザインを行ったイラン人のザハ氏へ払った監修デザイン料と違約金は合計20億円だそうで、このあと大成建設などへの違約金も加えると、この解体工事費用を楽勝で超えそうです。

計画段階でこれだけの金をドブに捨てたことになります。また、旧競技場は一度7万席まで増設しましたが、その後ゆったりとした座席に変えたことなどから、5万席ほどに縮小されており、新競技場での収容人数は、その1.6倍の8万人になるようですが、この8万という数字はどこから出てきたのでしょうか。

現在、白紙撤回になっているため、当初予定されていたような開閉式の屋根を備えた全天候型のドーム型スタジアムになるかはまだわかりません。が、9レーンのトラックを敷設して国際基準を満たす、といったことや、コンサートや展覧会、ファッションショーなどの会場としての使用、大規模災害時の広域避難場所としての役割などは踏襲されるでしょう。

実は私はこの国立競技場のすぐ近くの会社に都合5年ほど勤めていたので、この新競技場の巨大さがだいたい想像できます。データをみると、旧競技場の建築面積は約3万7千m2だったのに対し、新競技場の予定面積はその倍以上の7万8千m2以上にもなります。

これを実現するとなると、旧来の国立競技場の敷地いっぱいいっぱいになることは間違いなく、現在西側を南北に走る外苑西通りのすぐ目の前に、この巨大競技場の大きな壁が立ちはだかることになります。新しいプランがこれをそのまま踏襲するかどうかはわかりませんが、座席数8万を予定しているとなると、そうそう大きくは変わらないでしょう。

従って、私としてはこれほどの巨大な施設であるがゆえの、どうしても景観阻害が気になるところです。国立競技場の敷地における建物規制は、以前は高さ20m、容積率200%でしたが、国立競技場の建て替え計画にともない、東京都都市計画審議会はこの敷地における規制を高さ75m、容積率250%に緩和しており、高さも気になります。

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そもそも、この明治神宮外苑周辺地区は、風致地区に指定されており、こうした建物の高さ、容積率の規制も景観を守るためのものでした。つまりこの規制緩和は、過去の歴史的経緯を無視した決定ということであり、景観を破壊する可能性ははなはだ大といえます。

旧国立競技場が1958年に建設された時は、神宮外苑の聖徳記念絵画館から見える景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さを8mほどに抑えたといいます。また1964年の東京オリンピックではメインスタジアムとして使用するために、バックスタンドを増設しましたが、スタンドの一番高い部分は23mに過ぎませんでした。

ところが8万人収容の線に近づけようとするとスタンドを大きく張り出して拡張させることになり、かつ高さもかなり高くなります。プランにもよりますが、収容人数を考えると70m越えは確実と思われ、これほど巨大なスタンドは、苑内の敷地ほとんどの上に大きくおおいかぶさるようにしないと建設できないでしょう。

それほどこの敷地はせまいといえます。周辺には、その南側にある明治公園など面積が大きい広場が存在していますが、これも潰した上での建設であり、旧国立競技場のような余裕を持った配置は不可能です。また新競技場周辺の道路から見た歩行者目線では、競技場の全体像が分かりにくくなり、巨大な壁が目の前に迫りくるような圧迫感があるでしょう。

当初行われたデザインのコンペティションでは模型の提出は求められず、鳥瞰図のみで審査が行われたといい、このため、どう考えても周辺との調和、周りからの見え方などは考慮に入れられていないと考えられます。

さらに、廃案になった計画では、競技場周辺は人工地盤でかさ上げし、地盤の地下にスポーツ博物館や図書館などを整備する予定だったそうです。地上部分に当たる地盤の上側は、緑化して公園や通路にする予定だとか。しかし人工地盤では、樹木が根を張るには地中の深さなどが不十分で、持続的な生育は難しいとされています。

しかも、競技場の建て替え工事にともない、既存樹木の1500本余りが伐採されたようですが、移植される予定なのはわずか200本程だそうです。その中には天然記念物が含まれているといいますが、これらも本当に移植が可能なのかどうかも現時点においては不明です。

加えて、新国立競技場では、年間で、サッカー20試合、ラグビー5試合、陸上競技大会11回、コンサート12回を開催するタイトな計画目標としているといいます。が、五輪終了後、これほどの数のイベントの消化が果たして本当に実現できるのでしょうか。

たった一回のオリンピックと数少ない行事のために、ここまで景観や環境を破壊してまで巨大な施設を作る必要が本当にあるのか。また、元首相がのたまわった「たった2500億円」でどれだけ多くのスポーツ振興ができるのか、今一度よく考え直してほしいと思います。

そうそう、この国立競技場の前の外苑西通りには、私の大好きなラーメン屋、「ホープ軒」もあります。その濃厚なスープと絶妙に合う麺をすすりながら眺めていた神宮の森がもう見えなくなり、そこには無機質な巨大競技場の壁が広がることを考えるといたたまれなくなります。

新計画の策定者は、ぜひこのラーメン屋に立ち寄り、その美味を堪能しつつ、敷地を振り返ってこの計画の妥当性をいま一度よく考えていただきたいと思う次第です。

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ああ貞山堀

2014-1090643一昨日の3月11日は、東日本大震災の起こった日でしたが、この震災の日から奇しくも一年後の同じ日、我々二人はこの伊豆に引っ越してきました。

なので、伊豆暮らしも丸々二年ということになるわけで、もうそんなになるか……と、感慨深いものがあります。

引っ越してきた日が震災が起こった日だったので、とくに引越し祝いという気分にもなれず、荷物の片づけやらなにやらで疲れていたこともあって、その日は段ボール箱の山の片隅に布団を引いて眠りについたような記憶があります。

今も被災地で不自由な生活を送っておられる東北の方々も、まだそんな落ち着かない環境の中で暮らしておられるのかな、と思うと胸が痛みます。

伊豆での生活もそろそろ落ち着いてきた最近、遅ればせながら、そうした震災被災者の方々のために、何ができるだろう、何かしてあげたい、と考え始めている今日このごろです。

実は、この震災が起こる9~10年ほど前は、そのころ勤めていた会社の仕事で、仙台の名取川河口付近をたびたび訪れていたことがあります。

この川の河口左岸に、井戸浦という湿地帯があり、ここは、仙台地方でも屈指といわれるほど自然豊かな場所であり、絶滅危惧の植物や魚類が多数生育・生息し、その背後にあった松林にはオオタカが営巣するなど、ラムサール条約登録地にしてもいいのではないかと思われるくらいの良い場所でした。

残念ながら規模がそれほど大きくなかったので、そうした世界遺産的なモノへの登録の運動は起きませんでしたが、このように自然豊かな場所であることから、その環境を知る地元の人達からは、維持保存を求める声も高かったようです。

ところが、そのすぐ隣の名取川の河口に溜まる砂をうまく海へ流してやるための「導流堤」という施設を新築する計画が持ち上がったことから、この建設による井戸浦への環境影響評価が必要、ということになりました。

その当時、環境調査を専門にしていた私はその調査の責任者に指名され、かくして、その調査のために、この井戸浦に足しげく通うにようになりました。

この調査は、いわゆる「環境アセスメント」と呼ばれるもので、自然環境の保全ために、動物や植物の調査だけでなく、地形や地質、景観およびこの地で行われている野外レクリエーションなどの人為活動への影響まで含めた調査を網羅的に行いますが、調査内容が多岐にわたるため調査そのものだけでも単年度では終わらず、2年ほどかかったかと思います。

その準備やまとめの期間もあり、結局この地とのお付き合いはかなり長くなり、あしかけ4年ほどに及びました。

そのおかげで、仙台市内の事情はもとより、名取川の河口付近の地理地形には、かなり詳しくなり、今回の震災で被害の大きかった河口右岸の閖上地区などにも、調査の傍らよく足を延ばしました。

なので、名取川河口付近のこれらの地区が、後年のあの巨大な津波に飲み込まれる様をテレビで見たいたときには、あぁァあのときお弁当を食べていたあそこが、写真を撮っていたあそこが、オオタカの巣をみつけたあそこが……と、知っている場所が次々と海水に飲み込まれている様子をみて、茫然としたものでした。

今でも震災前のこの地区の美しい自然が脳裏に残っているのですが、震災津波以後のこの地の様子がテレビで映し出されるのを時々みかける限りでは、その当時の面影はほとんど残っていないようです。

実は、この井戸浦のすぐ裏手(陸側)には、貞山堀、という運河があります。江戸時代から明治時代にかけて数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので、最初の堀が仙台藩伊達政宗の命により開削されたため、没後に貞山公と尊称された政宗公にちなんで、のちに貞山堀と呼ばれるようになりました。

この貞山堀もあの津波で埋もれてしまったのだろうか、と心配になり、合わせて井戸浦の様子も知りたくなったので、グーグルマップの衛星写真から、現在の様子を調べてみることにしました。

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すると……井戸浦も貞山堀も、上空からの写真を見る限りでは、健在ではありませんか!

ただ、井戸浦のすぐ裏手に青々と続いていた松林はきれいに姿を消し、貞山堀と仙台市内との間にあった集落の多くは、廃墟のようになっていました。また、航空写真ではよくわからないのですが、緑豊かだったはずのこの一帯は土砂で埋もれているようです。

グーグルマップでは、ストリートビューという機能があり、現場の写真なども見ることができるので、これを閲覧してみたところ、やはり付近一帯はかなりの土砂で埋もれているようでした。

貞山堀も一見健全のようには見えるのですが、堀の左右にあった石垣の護岸などが一部壊れているようであり、ここだけでなく貞山堀のほかの場所もきっと大きなダメージを受けているに違いありません。

この貞山堀は、旧北上川河口から松島湾を経由して阿武隈川河口まで、おおむね海岸線に並行して続いており、仙台湾の海岸線約130kmの内、約半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河です。湾沿いに点在している湿地は、全体で日本の重要湿地500の1つに選定されており、井戸浦もそのひとつです。

この堀は仙台藩保有の、喫水が浅く乾舷の低い川船が、河口からそのまま海に乗り出す危険を避け、あるいはそのために荷を積み替える手間を省いて川船による物資輸送を円滑に行うために建設されました。

「貞山運河」と一括して呼ばれてはいますが、実際は、次のように3つの運河系から構成されています。

北上運河(一番北に位置する):13.9km。石井閘門(旧北上川との接点)から石巻湾の最南部に位置する鳴瀬川河口まで。明治時代開削。
東名運河:3.6km。鳴瀬川河口から松島湾まで。明治時代に開削。
貞山運河(一番南):31.5km。松島湾南西部に位置する塩釜港から、ずっと南下して阿武隈川河口まで。一番古く、江戸時代に開削。

この貞山堀が位置する、いわゆる「仙台湾」というのは、波の静かな石巻湾に端を発し、その西南部の松島湾と、さらにその南側の仙台港から井戸浦のある名取川河口を経由してさらに南下し、阿武隈川河口に至るまでの区間(これは一般的には「狭義の仙台湾」とされる)に分かれています。

江戸時代に最初に掘削されたのは、この波の荒い「狭義の仙台湾」の部分の海岸線の背後部分であり、井戸浦裏にある貞山堀は、上の三区分の三番目にあたり、一番古いもの、ということになります。

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その後、明治時代になってから、仙台北の石巻湾に注ぐ鳴瀬川河口に、新たな東北地方の拠点港として、「野蒜築港」が建設されることになり、これに伴って石巻港から松島湾までの部分も開削されて現在の姿になりました。

掘削されてからの貞山運河は、仙台の城下町からの物資運搬だけでなく、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りなどなどの広大な河川交通・物流に供するようになりましたが、とくに仙南平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路の排水路としても機能しました。

現在の貞山堀は物流に用いられていませんが、震災前までは、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーにも用いられていました。運河沿いの一部には自転車専用道路が設置されており、サイクリングを楽しむことができるようになっていて、私も仕事の合間をみてよくここを散歩したものです。

名取川河口南の、閖上地区のさらに南側には仙台空港もあり、この当時将来発生が予測されていた宮城県沖地震(結果として東日本大震災となりましたが)が起こった場合に、空港から貞山運河を経由して仙台市内へ援助物資を運ぶことが出来るかどうかという期待がもたれ、このための調査・研究が行われたこともあります。

しかし東日本大震災では、この仙台空港そのものが水没するとともに、貞山運河の多くの部分が大津波によって分断・破壊されたようです。このため、現在、宮城県では地域の復興とも併せ、この運河の再生・復興ビジョンをも策定しているといいます。

現在の塩釜港の背後の地域には、古代には、陸奥国府である「多賀城」があり、この城下の外港として、まず塩竈津(現在の塩釜港)が発展しました。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮・鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港でした。

ところが、11世紀以後、この多賀城が、現在の多賀城市の西側に移され、鎌倉時代には定期市も開かれるようになって、かなり大きな街になっていきました。南北朝時代以降には上町、下町と呼ばれるような行政区分もでき、戦国時代になると多賀国府町(たがのこうまち)と呼ばれるようになり、塩釜港も町の発展に合わせて整備が進められていきました。

安土桃山時代になると、伊達政宗が現在の宮城県・大崎地方(仙台より50kmよりも北方)の岩出山城にその本拠を移しました。

このとき、政宗は、塩釜港と内水系とのネットワーク化を考え、仙台よりはるか南の阿武隈川河口から仙台北方に位置する松島湾の塩釜港に到るまでの仙台湾に沿った運河の開削に着手しました。これが一番最初に掘削された貞山堀となります。

この運河は、前述のとおりの「狭義の仙台湾」の部分に造られており、南部の阿武隈地方から川船のまま塩釜港に物資を運ぶことがを目的として、開削に開削を重ね、その工事期間は、1597年から1661年までのなんと61年間にもおよびました。この間に政宗は仙台城を建築し始め、1600年には岩出山城から出で、現在の仙台の街を開きました。

運河は、仙台城下を流れる広瀬川(下流は名取川)や七北田川などの河口近くでも交差しており、しかもその先は塩釜港に至るという位置関係で、このため仙台城下から名取川や七北田川を下って貞山堀に至る水路は城下町仙台の主要な交通ルートとなり、こことつながった塩釜港は仙台の表玄関として発展していくことになります。

帆船が用いられていた江戸時代の仙台藩内では、この塩釜港の他に、その北方に位置する北上川河口の石巻港、そして、南方に位置する阿武隈川河口の荒浜港を保有しており、この3つにおける交易は、伊達家に莫大な利益をもたらしました。

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1626年、伊達家家臣の川村孫兵衛重吉によって北上川の改修が完了すると、仙台藩のみならず、岩手地方の南部藩領内の北上盆地各地からも北上川に米が川下げされ、川船によって北上川河口まで運ばれ、石巻港に集積されるようになりました。

このため、東北太平洋岸海運の拠点は、それまでの塩釜に代わって石巻となり、石巻港が仙台藩内の中心港となりました。

ところが、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩が仙台周辺のみに減封されると、この石巻は明治政府によって横取りされ、「石巻県」として直轄地となりました。明治政府はさらにここに、「東山道鎮台」を設置し、石巻を東北地方全域を管轄する拠点とするようになります。

しかし、その後の廃藩置県によって、仙台藩が「仙台県」となって権限を与えられるようになり、石巻と同格の直轄地となると、この石巻の鎮台は仙台に移封され、以後、東北地方を広域管轄する国家の出先機関などはすべて仙台に集中するようになっていきました。

ただ、短い期間ではあったのですが、このように仙台が中心地となる前には、この地方の中心地は石巻だったということになるわけです。

とはいえ、幕末以降、汽船が運行されるようになってからは、沈降海岸で水深が深い松島湾内にあって、外洋に面している塩釜港の重要性のほうが再認識されるようになり、水深の浅い河口港である石巻は、軽視される傾向にありました。

従って、鎮台の移転だけでなく、石巻はいずれは衰微していくことになる運命にあったともいえます。

1876年(明治9年)の天皇巡幸の折、この石巻港から西側10kmほど離れた、松島湾の北に位置する鳴瀬川河口の右岸にある野蒜(のびる)地区に、東北地方の拠点としての新しい港の建設が持ち上がりました。

これが野蒜築港であり、現時の内務卿・大久保利通が当地を視察して建設が決定し、1878年(明治11年)、オランダ人技師ファン・ドールンの設計で、西洋式近代貿易港として着工されました。

計画は、鳴瀬川河口に内港を設け、奥松島の宮戸島の北東の潜ヶ浦(かつぎがうら)を外港とするもので、鳴瀬川河口に東西2本の防波堤が建設され、新鳴瀬川の新設、および、大規模な新市街地の造成がおこなわれました。

同時に、鳴瀬川から松島湾にいたる3.6kmの「東名運河」が開削され、鳴瀬川から北上川河口の石巻に到る13.9kmにおよぶ「北上運河」の開削も行われました。これによって、すでに江戸時代につくられた狭義の仙台湾の貞山運河と合わせ、北上川河口~松島湾~阿武隈川河口までの全長約60kmに及ぶ、日本で最長となる運河が完成することになりました。

この運河系により、野蒜築港を中心として、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系との川船ネットワークが完成し、仙台湾の多くの海港同士の物流も繋がる運びとなりました。

これらの水運ネットワークには、日本海側の山形県や秋田県に到る道路網計画とあわせて、日本の表玄関の役割を担うことが大いに期待されました。

ところが、この野蒜築港は、完成して間もない1884年(明治17年)、台風による波浪と増水により一夜にして突堤が破壊されてしまいます。これによって、船舶の入港が不可能になったことにより、完成からわずか2年で廃港の憂き目をみることになりました。

なぜこの手間暇かけて作った近代的な港を修復しなかったかはよくわかりませんが、そのすぐ近くにある塩釜港のほうを新たに整備する方が金がかからない、ということだったのだと思われます。

こうして、その後の宮城県の港湾整備は、明治から戦後にいたるまで塩釜港を中心に進んでいくことになります。やがて塩釜埠頭駅がつくられ、鉄道が港に乗り入れるようになると、塩釜港は物流の中心として栄えていきました。

現在においても、東北地方を代表する商社や流通業者は、隣の仙台港よりも塩竈を出自とするものが多いのはそのためです。

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しかし、塩釜港は、数多くの島が浮かぶ松島湾内にあるため、ここを通る航路が大型船の航行に不適当であること、また、港は松島丘陵と呼ばれる山に囲まれており、広い背後地が得られない、などの不利な点があり、重厚長大の臨海工業が盛んになっていく戦後においては、その将来性が危ぶまれていました。

こうして1960年(昭和35年)、塩釜港よりも20kmほども離れた東に位置する石巻港の西の浜辺に、掘り込み式人造港である「石巻工業港」が着工されました。苫小牧港や鹿島港と同様に、当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したことを背景に建設されることになった新港です。

さらには、ここから松島湾を挟んで、その南側の狭義の仙台湾一帯の北側の地区が1964年(昭和39年)に「新産業都市」の指定を受けました。これを受けて、この地にも新たな工業港として掘り込み式人造港が計画され、これが現在の「仙台新港(=仙台港)」になりました。

この仙台新港には、背後に仙台市という大都市を抱えていることに対する期待が寄せられ、商業港としての機能も付加することになり、こうして西の仙台新港と東の石巻工業港という二つの新しい港が誕生することとなりました。

1967年(昭和42年)には石巻新港が、1971年には仙台新港(以後、仙台港と呼ぶ)も開港し、この2港はやがて宮城県の臨海工業の集積地となっていきました。

ところが、仙台港が開港した年には、ニクソン・ショックと呼ばれるアメリカの大幅な経済政策の転換があり、これはドルショックとも呼ばれ、アメリカがドル紙幣と金の兌換を一時停止したことによって、世界経済は大混乱に陥りました。

また、1973年にはオイルショックも発生し、日本にも中東からの油が入ってこなくなったことから、それまでこの二つの新港周辺に次々と建設されていた石油化学コンビナートや関連工場は、その発展の方向性を見失ってしまい、工業港としての発展は頓挫することになりました。

このうちの仙台港は、北海道の苫小牧港や名古屋港とのフェリー航路、国内フィーダーなどによる商業港としての色合いが強くなりました。

「フィーダー」というのは、大型の船が寄港する主要港から小型船に積み替えて別便で運ぶことです。

例えば香港~横浜間を行き来している大型コンテナー船の貨物を、横浜で小型船に積み替えて仙台港に持っていくようなことを、「内航フィーダー船を使って貨物を横浜から仙台に運ぶ」という風に使いまわします。あまり聞き慣れないかもしれませんが、海運の世界ではよく使うので、覚えておかれると良いでしょう。

こうして仙台港はなんとか生き残るところとなり、すぐ隣にある塩釜港が持っていた物流機能もこの仙台港のほうに集中するようになっていき、1994年にはついに、塩釜港の鉄道貨物取扱いが終了に追い込まれました。

さらに仙台港への一極集中は加速し、1998年からは、横浜港本牧~仙台港間で仙台臨海鉄道・東北本線などを経由する20両編成の「よこはま号」と呼ばれる貨物列車(JR貨物)や、東京港と直結する貨物列車が運行されるようになり、仙台港は東京湾の補完機能を持つようになっていきます。

やがて仙台港は、国際貨物も集約される重要港湾となっていき、その過程で近代的なコンテナ流通にも対応するようになり、こうした機能を持たない塩釜港は物流機能を完全に失っていきました。現在の塩釜港は、ほぼ「漁港化」するまで衰退し、仙台港がこの地域一帯の物流拠点としてその中心的な役割を一手に担うようになりました。

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一方、仙台港とほぼ同時期に誕生した石巻工業港は、オイルショック後に製紙工場が立地するようになり、その後原料となる木材やパルプの輸入の増加があったことから息を吹き返し、港湾拡張が行われるようにまで回復しました。

また、仙台港と石巻工業港の両港は、三陸自動車道や国道45号で結ばれるようになり、その近代港としての機能が補完されるようになりました。

こうして現在にまで至るわけですが、両港は今も貞山運河によっても結ばれています。しかし、現在は物流のためには使われておらず、しかも先の震災において著しいダメージを受けていて、おそらくは船の行き来などはできないような状態ではないでしょうか。

この二つの港だけでなく、県内の港は地震・地盤沈下・津波・火災などにより、埠頭施設や背後の臨海工業商業地区は大きな被害を受けました。また、港湾従事者の犠牲や離散により港湾機能が著しく低下しているようです。

このため、とくに仙台港と塩釜港、石巻港、松島港という4つの港区を、「仙台塩釜港」という1つの港に統合されることが決まり、震災からの効率的な復旧・復興と将来的な発展を目指して現在、必死の改修作業が進められているということです。

この4つの港区は、すべて貞山堀で結ばれていて(総延長46.4km)、本来ならば小型船舶なら外洋に出ることなく相互の往来が可能であるはずです。が、運河の幅が狭いうえに、震災のがれきやら津波に運ばれてきた土砂の堆積よって船の航行に適した状態にはなさそうです。

もっとも、震災前にもこの運河を一気通貫で通るような流通ルート、もしくは観光ルートは確立されていません。が、これを有効利用して、観光資源にしようとか、いろいろな取り組みがあったと聞いています。

遠い将来かもしれませんが、これらの運河が復活して、流通だけでなく、レジャーなどにも使われるようになり、町の活力になっていくことを願ってやみません。

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以上が、貞山堀と仙台湾沿岸各所に設置された港の歴史です。

話しは少々変わりますが、冒頭で話をした、井戸浦付近の狭義の仙台湾では、仙台港付近の湊浜に加え、荒浜、ゆりあげビーチといった3ヶ所ほどのサーフスポットがあり、とくに仙台港付近の湊浜では、仙台港の防波堤が最も長く太平洋に突き出ているため、波が増幅されやすく大きな波ができるようです。

これらのスポットは、仙台空港からもほど近いためか、関東方面からも多くのサーファーが訪れていたようで、以前、私がこの地域に調査に通っていたころにも、たくさんのサーファーが波乗りを楽しんでいるのを目にしました。

このうちのひとつ、ゆりあげビーチは、名取川河口の南に近年開設された海水浴場であり、河口の南側に防波堤があり、北寄りからの波が押し寄せることの多いこの海岸を穏やかにしてくれています。

以前は、どこの浜辺にも車で進入可能であったため、ここを拠点にしてこの海岸の近くでもサーフィンを楽しむ若者がたくさん見られたのですが、現在ではおそらくその姿もみることができないでしょう。

一方の仙台港の湊浜ではかつてプトライアスロンの国際大会が毎年開かれており、またプロのサーフィン大会が毎年開催されていました。

このゆりあげビーチでもアマチュアのサーフィン大会がよく開催されていたようです。が、それもおそらくは震災以後長らく開催されていないのではないでしょうか。

この一帯では季節によっては潮干狩りを楽しめる場所があったような記憶があり、夏には普通の海水浴客や釣り客も数多く訪れていました。井戸浦でも糸を垂れている地域住民をよく見ました。が、確か地元の漁協が漁業権を設定しており、勝手に釣りはできないはずでしたが……

仙台湾の外海のほうは、カレイ、マアナゴ、アカガイ、ホッキガイ、ウニ、カキなど豊富な魚介類が採れることで有名な豊饒の海でしたが、今はどうなっていることでしょう。少なくとも養殖のほうは回復傾向にあるようで、松島湾のマガキの養殖や、仙台湾のノリの養殖は、最近になってようやく復活したと、先日のニュースで報じていました。

たくさんの鯨類がこの海を訪れることでも有名で、春から夏にかけてザトウクジラやシャチなど数多くの種類が現れており、湾内ではミンククジラなら普通にみることができたようですが、そのクジラたちは戻ってきているのでしょうか。こちらも気になります。

長らくこうした海を見に戻っていませんが、伊豆での生活が落ち着いた今、時間が許せばまたあそこへ行ってみたいと思います。

とはいえ、変わり果てた井戸浦や貞山堀を見るのは忍びない気持ちもあります。が、もしその復興計画などが持ち上がるようであれば、そうしたことに関わることが、私にできるこの地への恩返しのような気がしています……

人にも海にも港にも、一刻も早い復興が訪れることを願ってやみません。

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