TOKYO STATION


その昔、日本橋に本社のある会社に10年ほど勤めていたため、ここから各地方へ出張に行く際、最寄駅である東京駅をよく使いました。

丸の内や八重洲といった近代的なオフィス街の真っただ中にあって、その重厚感のある歴史を感じさせる煉瓦造りは、文字通り東京のシンボルであり、ここを通過するたびに、自分が生粋の東京人であるかのような錯覚を覚えさせてくれる建物でもありました。

その東京駅が、新築・落成したのは、1914年(大正3年)の今日12月18日です。

これに遡ること25年前の1889年(明治22年)には官設鉄道の新橋駅と神戸間の東海道線が全線開通していましたが、その後、この新橋駅と私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設の話が持ち上がり、1896年(明治29年)の第9回帝国議会では、この新線の途中に東京市を代表するような「中央停車場」を建設することが可決されました。

この中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられました。

高架路線と駅の施工は大林組が担当することも決まりましたが、その後日清戦争と日露戦争が勃発したため、本格的な建設工事が始まったのは1908年(明治41年)のことであり、これから12年後の大正3年にこの高架路線は開通しました。開通・開業は東京駅の落成の二日後の12月20日のことでした。

5年後の1919年(大正8年)3月1日には、この東京駅に中央本線の乗り入れが実現し、その後も1925年(大正14年)11月1日の東北本線の乗り入れ、1929年(昭和4年)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、東京駅は日本の首都の中心的存在としてさらに発展していきました。

しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいます。

屋根の大半が崩れ落ち、内装もほとんどが炭化してボロボロとなり、鉄骨と煉瓦だけの醜い姿になった東京駅でしたが、同年8月に太平洋戦争が終わると、占領軍の要求もあってその直後から修復体制が整えられ、早くも年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事が始められ、その結果、ほぼ現在の外観になりました。

しかし、焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更するなどの大変更が加えられ、南北両ドームも元々は丸型だったものが台形に変更されるなど、修復された東京駅はオリジナルの景観とはかなり違ったものとなりました。

できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「4、5年もてば良い」とされた修復工事でしたが、当時の鉄道省の建築家たち、あるいは当初から東京駅の建設に関わってきた大林組の面々は、進駐軍によって工事を急がされる中においても、できるだけ日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をしたという逸話が伝えられています。

こうした努力により、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などの細かい部分は、2階建てになっても忠実に復元され、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したモダンなデザインに変更されるなど、新旧を取り混ぜた新しい東京駅の復活は、焼け野原であった東京に一条の光を差し込むものでした。

3年後の1948年(昭和23年)にはモダンデザイン建築の八重洲駅舎も竣工しましたが、翌1949年(昭和24年)に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)に建て替えられました。

ちなみに、1929年(昭和4年)に開設した八重洲口の前面には、この当時まだ江戸城の外堀が残っており、これを渡るための「八重洲橋」が建設され、この橋に接続してその正面入り口が開設されました。

終戦後もまだ八重洲側にはこの外堀が残されていましたが、戦災の残骸整理を行うために付近の住民が無秩序に外堀に瓦礫を捨て始めたことから、東京都で急遽瓦礫捨て場を指定してその範囲での外堀の埋立を行うことになりました。

大戦前には外堀の埋立ができれば理想的な駅舎および駅前広場を建設できるが到底許可が得られない、と関係者を嘆息させていたのですが、こうして合法的に外堀の埋立ができることになり、1947年(昭和22年)11月にはこの埋め立て工事が完成しました。

さらにこの埋め立て工事によって新たに得られた用地を八重洲駅舎や線路の増設に利用できるように鉄道側から東京都に対して申し入れがなされた結果、ここに今のような大丸などのデパートができるとともに、この用地は後に新幹線にも役立てられることになりました。

1964年(昭和39年)10月1日には、この東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅はさらにその機能を拡大していきました。

しかし、東京駅は一歩屋根裏などに足を踏み入れるとアメリカ軍の焼夷弾などに焼かれた鉄骨や壁材がそのまま残っており、これと新しい部材をつなぎ合わせてようやく形を保っているような箇所も多く、外観こそ昔の面影を保っていましたが、中身はボロボロでした。

このため、その後、何度も全面的な建て替え計画が持ち上がりましたが、その都度見送られ、長らく先延ばしされ続けていました。

ところが、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、500億円ほどもかかるとされていた復原工事の費用を丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することができる運びとなり、この結果、ようやく創建当初の形態に復原する方針がまとめられようになりました。

これはどういうことかというと、もともと東京駅のある土地には東京駅の高さである2階建て以上の高層建築物を建てることができます。つまりその分の容積率が余っている、という状況です。この容積率をそのまま目の前の丸の内地区を保有している三菱地所に譲渡してしまえば、その譲渡価格として東京駅の建築費用を賄うことができます。

丸の内側ではもっとたくさんの部屋数のあるビルを建てたいけれども、建築基準法の縛りがあって建てられない、けれどこれをJRから「買い取る」という形でより大きなビルが建てられるし、JR側もこれで東京駅の改修費用がまかなうことができ、お互いハッピーハッピーというわけです。

無論、一般にはそんなことは認められませんが、こと東京の中心である一等地でのことでもあり、東京に新たな新名所を作ることは地元にとっても国にとっても利益になる、ということで特例が認められたということのようです。

三菱はこの特例を用い、東京駅の南側に新たに地上34階、塔屋3階、地下4階. 高さ, 最高軒高157m、の「丸の内パークビルディング」を建設するとともに、明治期に三菱財閥の「本丸」として建設された近代的オフィスビル「三菱一号館」を復元し、ここを美術館としてオープンさせました。

こうして、丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなり、復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成しました。合わせて、東京駅の南側には復元された三菱一号館も2010年に完成しており、現在の東京駅丸の内口周辺は明治時代さながらのレトロな雰囲気を醸し出しています。

ところで、この東京駅は、実は東海道線の始発駅としてではなく、本州中部の内陸側を経由する中山道を通る鉄道の始点駅として計画されていたということをご存知でしょうか。

意外に知られていない事実ですが、東京駅の場所そのものも、そもそもはこの中山道に鉄道を引くための中継地として選定されたものでした。

東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋~横浜間が開通したことに始まります。

その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されましたが、政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいと考え、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線の建設に同調したことから、一旦は中山道経由の鉄道建設が決定されました。

この建設にあたり、日本政府は当初、国営を原則としていましたが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換しました。これを受けて発足した最初の私鉄が「日本鉄道」で、これがのちに国営化される日本国有鉄道(現JR)です。

こうして、日本最初の民間会社による鉄道建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京~高崎間の路線が建設されましたが、民間とは名ばかりで、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地無償貸与、建設国営など実質上は「半官半民」の会社でした

この鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていましたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日に上野~熊谷間が開通しました。

しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになりました。中山道は、「木曾街道」や「木曽路」の異称を持つほど、山深い場所を通る街道であり、ここを鉄道を通すためには、数多くのトンネルの建設が必要なだけでなく、多くの渓谷を横断するための多数の橋梁も必要であり、それらの建設費用は莫大になることが予想されたのです。

このため、1886年(明治19年)に政府は方針を転換し、官営路線として東海道経由で東西連絡鉄道を建設することを決めました。

これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋~横浜間の鉄道から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に現在の東海道本線である新橋~神戸間の国有鉄道が全通しました。

一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通しました。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通しました。

このころまでには、「東京市」と呼ばれていた東京には人だけでなく、かなりのモノが集中するようになっており、道路交通網も発達し、道路だけでなく運河が縦横無尽に走るようになり、また上下水道、港などの都市施設も新設されてきたため、これらの計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする動きが出てきました。

これを「市区改正」と呼びます。現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第8代東京府知事の芳川顕正が、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、1884年(明治17年)に内務省に対して市区改正意見書を提出しました。

この意見書には、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」と書かれており、ここで東京駅の大まかな場所が初めて示されました。

この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになっていきます。また新橋と上野の間には繁華街が広がっていたため、ここに鉄道を通すためには「高架鉄道」が提案され、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まりました。

こうして中央停車場が計画されたのが、皇居の前にあたる丸の内であり、当時の町名では「永楽町」と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた場所です。

この当時ここは、皇居前とはいえ、繁華街にもほど近く、しかも監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所でした。しかし、西南戦争後、国内は安定してきており、明治政府が皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始されました。

こうして丸の内界隈は、明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」と呼ばれました。その部分だけロンドンのようであるという意味です。しかしこの一帯以外の場所は依然として未開発で、岩崎弥太郎の弟、岩崎崎弥之助が購入した荒涼たるこの野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていました。

しかし、この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになるのです。

1896年(明治29年)4月には高架線や中央停車場の工事を担当する部署として新永間建築事務所が発足しました。後のJR東日本東京工事事務所の前身組織です。また、高架線建設の技術指導を求めて、ドイツから建築技師の「フランツ・バルツァー」が新たに招聘され、1898年(明治31年)に着任しました。

新橋から上野を結ぶ間にある中央停車場までの市街地における長い区間の高架線という日本で前例のないプロジェクトの推進を、このころまだ技術水準の低かった日本人だけで遂行するのは容易ではなく、外国人技術者の支援を仰ぐことが必要だったのです。

バルツァーは日本人技術者を指導しながら高架線の設計を行い、彼の帰国後もこの指導を受けた日本人技術者が独自に設計した部分を含めると1904年(明治37年)までの8年もかかって設計が行われました。

バルツァーはさらに、東京全体の鉄道網を構想しました。これ以前にすでに東京を一周する環状鉄道の提案は出ていましたが、バルツァーはこれに加えて東へ延びる総武鉄道と西へ延びる甲武鉄道を連結して秋葉原で南北の縦貫線と十字に交差させ、この双方ともを中央停車場へ乗り入れるための短絡線を造るという全体構想を描きました。

東京に住んでいる人は、都内の路線図のうち、神田、秋葉原、お茶の水、東京の一角がかなりごちゃごちゃしており、どこでどの路線に乗りかえればどこにいけるのか、一度や二度は悩んだことがあると思いますが、これは、このバルツァーの仕業です。

結局彼のこの構想は、その後も長い間完成せず、1972年(昭和47年)の総武快速線東京駅乗り入れにより、細部は異なるものの結果的にほぼ実現しています。

一方でこのバルツァーは、中央停車場、つまり東京駅そのものの設計にも関与しましたが、このことも実はあまり知られていません。

この当時、駅部分の線路は盛土の上にあり、駅舎はその西側に設けられる計画となっており、日本建築に関心のあったバルツァーが提案した駅舎は、この盛土の斜面に部分的に切石を用い、煉瓦造としたもので、どちらかといえば昔風のお城のような雰囲気の和風の設計でした。

入母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという構造で、バルツァー自身は、日本の文化を一顧だにせず洋風の建築様式の建物が無秩序に建てられていく東京の現状を兼ねてから苦々しく思っていたようで、日本の伝統的な城郭や寺社の建築様式を駅という新しい目的に利用することで一石を投じようと考えたようです。

こうしてバルツァーは中央停車場(東京駅)の具体的な設計にとりかかりましたが、このバルツァー提案の和風の駅舎案は、後に実際に東京駅舎の設計を担当することになる「辰野金吾」からは「赤毛の島田髷」と酷評されました。

辰野は、こうした日本建築物に西洋風の石や煉瓦を組み合わせること自体が容易ではなく、こうした和様折衷の建築物は、日本を訪れた西洋婦人が物珍しさから洋服を着ながら日本風に髪を結って日本の履物を履くようなものだとし、日本文化の消化が不十分であるとして、これを全面否定しました。

一方では、バルツァーの案ではまた、皇室用入口を駅の中央に配置することを提案していました。

これに対してこの配置は利用者に不便だとし、この案を疑問視する声もが上がっていましたが、皇室を中心とした国造りを進めていた政府の息のかかった鉄道作業局の上層部からは特に反論はなく、また設計を担当する辰野金吾がこれを名案として自分の設計に取り入れたことから、この皇室専用入口を中央に設けるという案は最終的には採用されました。

これに加えてプラットホームと通路の配置や駅構内の配線計画など、平面計画はアレンジを加えつつも基本的にバルツァー提案のものが受け継がれて実際に用いられることになりました。

しかし、バルツァーの提案した日本風の駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではありませんでした。このため改めて駅舎についての設計が行われることになり、バルツァーに代わって辰野金吾に設計が依頼されることになったのです。

当時の建築界の権威であった辰野は、このころ日本中の西洋風建築物の設計を手掛けており、自らを権威と認め、日本銀行本店、中央停車場、国会議事堂の3つを手掛けることを目標としていたこともあり、その取り巻きの間でもまた辰野に依頼するのは当然とみなされる風潮があったようです。

辰野金吾は、1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門の子として生まれました。姫松家は足軽よりも低い家格であったといい、金吾は次男であったため、14歳で養子に出され、叔父の辰野宗安の辰野家を継ぎました。

19歳のとき(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。二年終了後に、工学寮で専門だった造船から造家(建築)に鞍替えし、ちょうどこのころ、来日して造家学教師に着任していたロンドン出身のジョサイア・コンドルの指導を受けるようになりました。

25歳のとき(明治12年)造家学科を首席で卒業。翌年英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学び、3年後に日本に帰国しています。

1884年(明治17年)、30歳のとき、コンドルと入れ替わるように、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)教授に就任。

二年後には、帝国大学工科大学教授に任ぜられ、同時に造家学会(のちの日本建築学会)を設立し、33歳のとき、工手学校(現工学院大学)の設立にも参加しています。1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長となりますが、48歳で辞職。

その後、友人たちと各種建築事務所を設立して民間への建築技術の伝道に注力するようになり、1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を東京に開設、1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を大阪に開設しています。

1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、建築設計競技(コンペ)の開催を主張しましたがすぐには容れられず、その後辰野が没する前年の1918年(大正7年)になって新議事堂の意匠が一般公募されました。

この結果、1919年(大正8年)、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省技手の渡辺福三案が1等に選ばれ、この当選案を参考に大蔵省臨時議院建築局が国会議事堂の設計を行いました。しかし、結局このデザインも最終的には大幅に変更されたそうです。

ちなみに、この渡辺福三による議事堂図案というのをWEBで検索してみてみましたが、私は現在のようなゴツゴツした印象の国会議事堂よりも、こちらのほうが数倍デザイン的には優れていると思いました。いつの世も、役人というのは自分の都合ばかりで芸術作品をまったく異質のつまらないものにしてしまうものです。

その後、辰野金吾は、63歳になった晩年の1917年(明治6年)にも日本基督教団の著名な教会で、三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた教会として有名な霊南坂教会旧会堂の建設などにも携わり、国会議事堂の設計競技で審査員も務めましたが、1919年(大正8年)当時大流行したスペインかぜに罹患し死去しました。満64歳。

この若き日の辰野を指導したのが先述のジョサイア・コンドルですが、イギリスのロンドン出身の建築家であり、バルツァーと同じくお雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を初めとして数多くの西洋建築物の設計を手がけました。

また工部大学校の教授として辰野ら創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた人物としても有名です。辰野と同じく、のちには民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅をも数多く設計しました。

「コンドル」はオランダ風の読み方で、実際には「コンダー」の方が英語に近いようです。著書「造家必携」には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、このため政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在していますが、当時は一般に「コンドル先生」で通っていたようです。

鹿鳴館を設計した人としても知られており、これは明治16年(1883)に日比谷に完成しました。

赤い絨毯、きらめくシャンデリアや西洋音楽、華やかな衣装をまとった紳士淑女が社交ダンスを踊った鹿鳴館は、ルネッサンス風の2階建てで、インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていました。

ここでは夜な夜な盛大なパーティーが繰り広げられ、「鹿鳴館時代」という言葉を生むほど一世を風靡しました。

長州閥の雄であった井上馨や伊藤博文などの肝いりで建設された建物で、それまで諸外国と結ばれていた不平等条約を改正するために外国人をもてなそうと建設された「迎賓館」でもありましたが、やがて井上馨が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失い、わずか3年余で閉館の憂き目を見ました。

明治23年には宮内省に移管され、その後皇族が社交場として使用する「華族会館」となりましたが、やがて保険会社に売却され、昭和15年に解体されました。

この鹿鳴館を設計したコンドルは、1852年にロンドンのケンジントン区で生まれました。父は銀行員でしたが、若くして急逝したため、商業学校に通うようになりますが、やがて建築家を志すようになり、父の従兄でロンドン大学教授の建築事務所で働きながら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学の建築科を卒業しました。

21歳でロンドンの建築事務所に入所し、念願の建築家としての道を歩み始めましたが、その僅か二年後には「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞。これを耳にした日本政府の外交官に見いだされ、日本政府と5年間の技術指導の契約を結びます。

こうして、1877年(明治10年)24歳で来日したコンドルは、そのころ発足したばかりの工部大学校・造家学教師として就任するとともに工部省営繕局顧問を兼任して日本の建築界に息を吹き込み始めました。

教鞭をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手しており、こうした彼に接することのできた学生たちは、教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来ることとなり、その後の日本の建築界の形成に大きな影響を及ぼしました。

また、コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていれており、先の東京駅における和風の建築設計も、日本人が西洋一点ばりで見失おうとしていた本来の文化を見直させたいという一心からでした。

明治16年に教え子の辰野金吾が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移りました。21年に退官して設計事務所を開設、三菱財閥の岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計しました。三菱の顧問にもなり、丸の内ニュータウンの建設も手掛け、その系譜は現在にまで至っています。

先の三菱一号館も、三菱の丸の内最初の洋風貸事務所建築としての「第1号館」として彼が手がけたものであり、イギリスの「クイーンアン(en)洋式」の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計されました。

しかしコンドルの真価が発揮されたのはやはり工部大学校での教育・人材育成といわれています。

東京駅以外にも日本銀行本館などを設計した辰野金吾を初めとし、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曾禰達蔵など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献しました。

コンドル自身の作品としては、上述の鹿鳴館や三菱一号館以外にも上野博物館、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家倶楽部、島津忠重邸(現清泉女子大学)、古河虎之助邸(現古河庭園)などなど、現在も我々が良く知る建築物が多数残っています。

しかし、関東大震災で焼失したものも多く、それらの中には、顧問を勤めた岩崎家ないしは三菱関係のものが多いようです。

コンドルの手がけた三菱の仕事は、とくに邸宅に名作が多く、岩崎家の深川別邸のほか、岩崎久彌邸、岩崎彌之助高輪別邸、同箱根湯本別邸、それに岩崎家霊廟など、現在残っているものだけでも枚挙にいとまがありません。

とくに、岩崎久彌邸は岩崎家の茅町本邸とも言われ、久彌が留学していた米国の東海岸すなわち「風と共に去りぬ」の舞台のイメージを盛り込んで木造に設計し直したものです。関東大震災にも東京空襲にも無事だった運の強い洋館であり、戦後は国の所有となり、現在は東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開され、親しまれています。

工部大学校の建築の教官として明治10年に来日したコンドルは、日本での生活が長くなるにつれ日本文化に深く傾倒していきました。

1881年(明治14年)には、大学校教官、工部省顧問を務めながら、浮世絵画家の「河鍋暁斎」に入門し、毎週土曜日を稽古日と定め、熱心に暁斎の指導を受けました。のちに師匠にも認められる腕前となり、弟子入り後二年後には「暁英(きょうえい)」の雅号を名のることを許され、多くの作品を残しています。

1884年(明治17年)には、絵画共進会というコンテストで、「大兄皇子会鎌足図」、「雨中鷺」を出品、見事に入選しているほどです。これはちょうど、辰野金吾が帰国し、彼に工部大学校教授の職を譲ったころのことです。

日本文化の紹介本も多く、暁斎の没後イギリスで出版された“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”は、暁斎を西洋人の間で広重・北斎並みの有名人にしたといいます。

このコンドルの師の河鍋暁斎は静岡ゆかりの人でもあります。父が幕臣であったため彼自身も江戸育ちでしたが、明治維新によって幕府が瓦解したため、1868年(明治元年)に、徳川家の転封とともに一時的にではありますが静岡へ移ってきています。

河鍋暁斎は、「ぎょうさい」とは読まず、本人も「狂斎」の号を使っていたことから、「きょうさい」と読みます。天保2年(1831年)生まれで、明治22年(1889年)に58歳で没しましたが、幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師ともいわれた人です。

明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しており、狩野派の流れを受けていますが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号していました。

その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されており、遺作も多いことからテレ東の「なんでも鑑定団」などでも本物、偽物を問わずよく出てきます。

天保2年(1831年)、下総国古河(茨城県古河市)の生まれで、父は河鍋記右衛門といい、古河藩士で武士の出でしたが、江戸へ出て幕臣の火消同心の株を買って本郷お茶の水に住み、甲斐姓を名乗りました。このとき暁斎も江戸に出てきており、幼名は周三郎といいました。

二歳のとき、母につれられて親戚の家へ赴いたおり、初めて蛙の写生をしたといわれており、6歳のときには早くも浮世絵師歌川国芳に入門、8歳のとき、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を精密に写し、周囲を吃驚させたといいます。

その後、複数の狩野派の絵師に師事してさらに腕を磨き、11歳で秋元藩の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称していましたが、21歳のころ、女遊びなどの遊興がたたって坪山家を離縁され、その後暫くは苦難の時代が続きました。

が、安政2年(1855年)に起こった江戸大地震の時に描いた鯰絵「お老なまず」が一躍有名になり、その後は、26歳で江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継ぐようになります。

安政5年(1858年)ごろから、狩野派を離れて「周麿」を称して本格的に浮世絵を描くようになり、さらに北斎の画風を学んで腕を磨きあげ、数多くの浮世絵を世に残しました。

明治18年(1885年)には44歳で仏門に入り、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号しました。この後「狂斎画譜」「狂斎漫画」などを出版、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るい、このころその号を「狂斎」と変更しました。

静岡へ移ってきたのは37歳のころで、この地でも戯画・風刺画で人気を博しましたが、仏門に入ったにも関わらず酒癖が悪くなり、自らを酒乱斎雷酔、酔雷坊と呼ぶほどでした。

明治3年ころには再び東京に戻ったようで、あるとき上野不忍池における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描きましたが、政治批判をしたとして逮捕投獄されてしまいます。

「暁斎」の号を称すようになったのは、翌年の出獄後からのことであり、この「狂斎」から「暁斎」への改号は、改心というよりは愚かな挑発で二度と痛い目を見たくないという自分への警告の意図であったといわれています。

その後は改心したかのように書画に励むようになり、明治4年(1872年)には仮名垣魯文の「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」などの挿絵を描き、翌明治5年にはウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、この絵は日本庭園入口に立てられる栄誉を得ました。

明治13年(1880年)には、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」をたった4時間で描いたことで有名となり、翌年の明治14年に第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」が「妙技二等」を受賞。暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたといいます。

明治17年(1884年)狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承。さらに岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されましたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。享年58でした。

墓所は谷中にある瑞輪寺で、その墓石は遺言により暁斎が好んだ蛙の形をしているそうです。

話が飛びましたが、話の飛びついでに、この暁斎に師事したコンドルは、同じお雇い外国人である、エルヴィン・フォン・ベルツとも親しかったようです。日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師で、明治35年には皇室侍医となり、天皇の保養地である沼津御用邸の建設にも関わり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。

ベルツは、来日後、長きに渡って日本人に医学を教え、医学界の発展に尽くし、その通算滞日年数は29年にも及びました。我が国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。

草津温泉を発見し、このほかに箱根でも温泉開発の提案をしており、沼津だけでなく葉山などの御用邸の地の選定にも関わりを持ちました。

この沼津御用邸のことは、以前にも「御用邸」としてこのブログで取り上げましたので、興味のある方はご参照ください。

さて、コンドルの話に戻りますが、浮世絵画家、河鍋暁斎に入門したきっかけは、辰野金吾に工部大学校教授の職を譲り、自由に時間がとれるようになったためと思われます。

しかし、1886年(明治19年)には、帝国大学工科大学の講師に戻り咲いており、続いて官庁集中計画の一環で学生を引率しドイツ・イギリスへ出張するなど建築家としての活動をやめていたわけではありません。

さらにこの講師は、2年で辞任して自分の建築事務所を開設。このとき既に日本に来てから16年が経過しており、おそらく日本語もペラペラになっていたことでしょう。この事務所開設を機会に、1893年(明治26年)、花柳流の舞踊家、前波くめと結婚。コンドル41歳のときであり、この当時としてもかなりの晩婚といえます。

コンドルはこのころ、日本舞踊にものめり込んでいたようで、この愛妻くめとも日本舞踊を通じて知り合ったようで、彼女は河鍋暁斎とともに日本文化を学ぶ師匠でもありました。

くめは東京本郷の湯島天神町で安政3年(1856年)に生まれたという記録があるようなので、コンドルよりは4歳年下になります。

コンドルは、実は日本に来たてのころに、新橋芸者との間に女の子をなしており、くめと結婚したのを契機に、この子を引き取り、教育を施し育て上げました。この子はその後長じてからブリュッセルに留学し、帰国の船で知り合った外国人と結婚したようです。

コンドル夫妻が亡くなった時、この子はコンドルが収集していた暁斎の絵画を海外に持ち出したといい、現在河鍋暁斎の絵画や浮世絵が海外の美術館などにまとまってあるのはこのような理由からであるといいます。

コンドルはこの結婚の翌年に先述の三菱一号館を設計しており、このあと、引き続いて三菱二号館、三菱三号館を設計、その後も岩崎久弥茅町本邸、ドイツ公使館、松方正義邸、岩崎弥之助高輪邸(現・三菱開東閣)などなど多数の建築物を残しました。

その最後の作品は、1917年(大正6年)の古河虎之助邸であり、これは、東京都北区にある都立庭園である旧古河庭園にある大谷美術館として現在も使われています。現在は国有財産であり、国の名勝にも指定されているようです。

脳溢血により亡くなったのは、その3年後の大正9年(1920年)でしたが、これに先立つわずか11日前に愛妻のくめも亡くなっています。ふたりの亡きがらは仲良く文京区音羽の護国寺に葬られています。

東大の工学部の中庭には、その三年後の大正12年に建てられたコンドルの銅像が今も残されています。その長身の銅像の存在を知る学生は多いと思いますが、果たしてどんな人だったか関心を持つ者は少ないでしょう。

さて、今日は東京駅の話題を中心として明治期を中心に活躍したドイツ人建築家とその弟子である辰野金吾、そして彼等にまつわる人々の話題をお届けしました。

いつものように長くなりましたので、そろそろやめにしますが、お楽しみいただけたなら幸いです。