旅にしあれば……

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今年初めての三連休が終わり、いよいよ新しい年が本格始動した、というかんじです。

今年はオリンピックイヤーであり、8月にはブラジルで夏季大会が開催され、また11月にはアメリカの大統領選挙の投票などもあって、これらを中心に国際的にいろいろ活発な動きがありそうです。

また、先日は年が明けてすぐだというのに、北朝鮮が水爆実験を行っており、はたまた今年も波乱の一年か?と思わせるような雰囲気があります。昨年は年明け早々にイスラム国に日本人ジャーナリストが人質にとられる、といった事件があり、日本中を震撼とさせました。

その日本国内でも5月末に、伊勢志摩G8サミットが行われる予定であり、ここに訪れる各国首脳の動向に日本中の耳目が集まるであろうし、審議内容に関しても国際的な関心が寄せられるでしょう。また、これに先立つ、3月には、 北海道新幹線が開通する予定であり、こちらも日本中で話題になりそうです。

新青森駅〜新函館北斗駅の開通は3月26日の予定であり、これにより、東京と北海道はわずか4時間余りで結ばれます。飛行機であれば、函館までは約1時間半のフライトですが、都心から羽田までの電車の時間、および函館空港から市内までのアクセスを考えれば、待ち時間を含めて実質3時間を超えるはずであり、新幹線とほとんどかわりません。

しかも羽田函館間の航空運賃は3万円超であり、函館新幹線が2万円前半ということなので、どう考えても新幹線のほうを利用する人のほうが多くなるような気がします。ただ、当面、新幹線は函館止まりなので、札幌ほかの道内の地域にアクセスする場合にはさらに費用や時間が嵩みます。

フライトならば、札幌や釧路、稚内をはじめとして北海道内には離島も含めて14もの空港があり、ピンポイントで目的地に行きたい場合はこちらのほうが便利です。東京からの直通便は札幌などの数都市に限られるものの、乗継による地方空港への便を使えば、それらの地域へのアクセスはレンタカーを使うよりもずっと楽ちんです。

がまあ、いずれ北海道新幹線も札幌まで行くことですし、遠い将来にわたっては道内各地に延伸されていくに違いありません。とくに道東には釧路や帯広などの大きな町もあり、また風光明媚な観光地も多いことから需要も多いのではないでしょうか。

現在、新幹線は南は鹿児島までつながっていますから、将来的には北海道発鹿児島行の「夜行新幹線」なんてのもできるかもしれません。函館までの路線が開業すれば、その時点でも九州へのアクセスが可能です。現在でも東京から鹿児島へは、大阪で乗り換えが必要になりますが、それでも5時間30分ほどで行けるようです。

これに函館~東京間の4時間を加え、待ち合わせ時間も合わせれば所要10時間ほどの乗車時間となるはずであり、将来にわたって「寝台特急」」に仕立てるとするならばなかなかいい塩梅です。

無論、現在はこうした直通運転の予定はないようですが、仮に実現するとすれば、常夏の鹿児島を夕方に出て、朝目覚めてみたらそこは雪国の北海道だった、といった旅行も可能になるわけです。

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現在、JRは各地方毎に分かれており、これを実現しようとしたら、九州、西日本、東海、東日本、北海道とほぼほとんどのJRグループ各社が協力せねばなりません。が、もともと国鉄の時代から同じ穴のムジナだったわけですから、やろうと思えばできるでしょう。あとは本当にそうした需要があるかどうかの見極めと、JR各社のヤル気の問題ですが……

ちなみに、飛行機の場合、札幌(千歳)~鹿児島という路線もあるようで、こちらも名古屋や大阪での乗り継ぎが必要ですが、格安航空券だと4万円を切る路線もあるとのこと。鹿児島から北海道、もしくはその逆を移動する目的が何かにもよりますが、ともかく列島を手短な時間で移動したい、という向きには歓迎されていることでしょう。

しかしそれにしても、新幹線にせよ飛行機にせよ、こうした乗りものの発達によっていかにも世界が狭くなったかを痛感させられる時代です。

新幹線が初めて登場したのは、1964年(昭和39年)10月1日のことで、この日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業しました。新幹線乗入区間以外の在来線改軌区間での最高速度は1910年代から1950年代まではせいぜい100km/hが最高速度であり、現在でも130 km/hにすぎません。

仮に新幹線がなかったとして、北海道から鹿児島まで100km/hで走り続けたとしても、20時間かかる計算であり、いわんや実情の運行速度が平均60~70km/h程度であることを考えると、30時間前後かかる勘定となり、一日で列島を縦断するのは不可能です。

いっそ、足の速い船を利用したほうが早いかも、と調べてみましたが、貨物船で最高速のコンテナ船でも24ノット(時速約44㎞)前後だそうで、とても太刀打ちできません。ただ、軍艦の中でも高速が出せる駆逐艦が40ノット(時速約74㎞)ほどといいますから、こちらなら列車と競争になるかもしれません。

ま、早ければいいというものではなく、そもそもそうした距離を乗りものを使って移動することの意味を考えると、これはもう旅行というよりも、冒険に近いものといってもいいかもしれません。

最近テレビのバラエティー番組でも、タレントさんがたちが列車や飛行機を乗り継いで日本中を移動するプログラムがよく作られ、放映されていますが、これらを見ているともう「旅番組」というよりもむしろゲームのようであり、旅の醍醐味のようなものはほとんど感じられません。

時間や乗継回数の制約が課せられており、その条件を満たさなければ完遂したとはみなされず、不眠不休で移動する彼らを見る限り楽しそうには見えません。なかにはほとんど拷問にしかみえないような番組すらあります。

そうしたことを考えると、地球上を移動する方法は、やはりゆっくりしていたほうがいいよな、と思います。究極を考えれば、できれば乗り物は使わず、交通手段は足だけにして、勝手気ままに時間をかけて日本中を歩く、といった旅をできればしてみたいな、と思う人もいるでしょうし、私もときにそう思います。

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かつて、江戸時代末期に伊能忠敬とその弟子は、自らの足だけで日本全土を周ってこの地を実測し、「大日本沿海輿地全図」を作り上げました。江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものであり、ご存知のとおり、本邦初の詳細な日本地図です。

しかし、その測量にあたっては長い長い時間がかかっており、本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の16年もの歳月をかけて完成しました。詳しい数字はわかりませんが、本州全部の海岸線を見て回るとするとざっくり3500km位はあるはずなので、これに北海道や九州四国を合わせるとおそらくはその倍近くを測量したことになります。

国策による事業であったとはいえ、人力以外では馬などの交通手段があっただけの時代です。その他の機械的動力による交通手段がなかった時代に、しかも馬はほとんど使わず、徒歩だけで日本中を巡ったというのは、すごいことだなあと改めて思う次第です。

伊能忠敬は56歳でこの測量の旅に出ていますが、若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあったといい、そのため、とりわけ食事に気をつけて体を鍛えるようになってといいます。着ていた着物の寸法などから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されているそうです。

この体格はこの当時としては必ずしも小柄とはいえませんが、かといって、けっしてがたいが大きいといえるほどのものではありません。このため、食べ物に関しても食材の少ないこの時代にできるだけバラエティーに富むものを食べ、体力をつけるよう気を付けていたようです。

残っている記録では、野菜としては、かぶら、大根、人参、せり、長いも、蓮根、くわい、菜、菜類、椎茸など多岐におよび、このほか動物性のものとしては鰹節、鳥、卵、及びといったものを好んで食べていたといいます。

本人が実家などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらにタンパク質の豊富な豆類や豆腐も好物だったとされています。

厳格な性格であり、測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていたといい、また、根気強く、几帳面であったようで、根気強い観測と食事や健康に関する様々な工夫によってこうした偉業を成し遂げたといえるでしょう。

もっとも日本は島国であり、海岸線に沿ってゆけば伊能忠敬たちのように日本の周囲を回って最後には必ずスタート地点に戻ることができます。海岸線沿いに四島回れば、日本一周の達成であり、近年では海岸近くにはたいてい道路があり、海岸沿いの幹線道路を通ることで一周とすることが可能です。

近頃では、バックパックを背負って移動する人も多くなり、各地の観光地でこうした日本一周旅行をしている若者を見ることも多くなりました。「日本一周旅行中」と書いた旗を掲げていたりしていることなどからわかるわけですが、一昨年、広島の原爆ドームに行ったときにも、こうした若者をみかけました。

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このバックパックとは、日本風に言えば「リュックサック」であり、これはオランダ語の「リュッフザック」)ドイツ語の「ルックザック」のことで、本来の意味は「背中袋」です。「ルック」でなく「リュック」であるのは、ドイツ語で背中を「Rücken」(リュッケン)と言うことに影響されたため、といわれています。

一方、バックパックというのはこのドイツ語の英訳であり、用語としては1910年代にイギリスで定着し、その後北米に広がりました。当初は「ナップサック (knapsack)」「サックパック (sackpack)」と呼ばれていたものが、のちに単に「パック (pack)」に変化しました。

その後、主として英米において低予算で国外を個人旅行する旅行者のことをバックパッカー(backpacker)と呼ぶようになったものですが、従来の旅行者との違いとして、移動に公共交通機関を使うこと、ユースホステルや安宿を値段の高いホテルよりも好むことなどが特徴とされます。

部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を節約し、屋台や自炊などで食費を削ります。公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費なども抑えつつ、限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキングです。

とはいえ、その定義を厳密に定めるのは難しく、彼らの行動原理や意義は多様です。観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことに意義を見出す人などが多いようですが、中にはバックパッキングの旅の目的を「安く上げること」に定め、それ自体を楽しみとする者もいるようです。

また、バックパッキングは、「自己教育」の手段でもあると受け取られているようで、ツアー旅行のような「パッケージ化された」ものではなくリアルな現実を体験したいと望み、「舞台裏を密かに歩く」感覚に虜になる人も多いようです。

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1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化と共に瞬く間に世界の若者の旅装の代表となりました。2000年代にはライフスタイルとしてのバックパッキングが定着しましたが、一方ではビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せました。

格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿が普及したためであり、このほか、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりもかなり容易になっています。

バックパッカーの正確な起源は不明ですが、17世紀末に世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーとされることもあるようです。

ジェメリ・カレリは、ナポリのイエズス会大学で法学博士号を修得し、学業を終えた後の短期間、裁判官でもあった英才でしたが、その職務に飽き、休暇を取ってヨーロッパ諸国を旅したのをきっかけとして、最終的に世界一周旅行のためにキャリアを中断することを決意しました。

1693年にエジプト、コンスタンチノープル、聖地パレスチナの訪問から始め、ペルシアとアルメニアを横断し、南インドを訪れてから中国に入り、北京で皇帝に謁見し、元宵節の祝典に出席し、万里の長城を見学しました。さらに海路フィリピンに渡り、さらには太平洋を渡ってメキシコのアカプルコへ渡り、ここで半年間を過ごしました。

メキシコでは、いくつもの炭鉱の街やテオティワカンの遺跡を訪問しましたが、これらの5年間の世界放浪の後、キューバの財宝艦隊に合流して大西洋を渡ってイタリアに帰国。

この世界一周の間、移動手段としては「公共交通機関だけ」を貫いたことが、「世界初のバックパッカー」とも言われる要因になりました。また、カレリの旅はジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周を著す契機」となったと考えられています。

しかし、カレリ自身がバックパックをしょって旅をしていたわけではなく、また安宿ばかりに泊まっていたわけではないようです。また、バックパッカーすべてが世界一周を目指しているわけではありません。

このため、現在のバックパッキングといわれる旅行形態の起源は、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイルがそのルーツではないか、ということがいわれているようです。

ヒッピーとは、この時代主にサンフランシスコなどのアメリカの若者の間で生まれたムーブメントあり、ヒッピー・トレイルとは、のちに彼らが「巡礼」としてシルクロードを巡るようになったことに由来します。

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ヒッピーは、当初は「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発した若者達でした。彼らは当初戦争に反対し、徴兵を拒否する反戦団体のような形容を持っていましたが、のちに自然と平和と歌、そしてセックスを愛するという、「人間として自由に生きる」というスタイルを確立するようになります。

彼らのスタイルは戦時下にあり、厭戦ムードの漂っていた全米で一大ムーブメントとなりましたが、初期は薬物による高揚や覚醒や悟りから出発したことから、大きな批判を呼びました。

各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生し、社会的な問題にもなりましたが、その後若者を中心に爆発的な人気を誇ったロックバンド「ビートルズ」がさらにこれに火をつけました。

ビートルズは、かなり真面目なロックグループと目されがちですが、一方ではマリファナやLSDを使用した精神解放等を訴えていた時期があり、これとヒッピーとの活動が結び付き、全米・そして世界へとそのムーブメントは広まっていくことになります。

このムーブメントは同時に日本にも飛び火し、一時期、「フーテン」といえばヒッピーのことだ、と勘違いされたこともありました。

ビートルズの言動や行動はヒッピーに多くの影響を与えましたが、特に彼らの「インド巡礼」は特に大きな影響を与えました。彼らが作曲した曲のある時期のものはかなりインド音楽に影響されているものがあり、とくにジョージ・ハリスンは、北インド発祥の弦楽器、「シタール」に魅せられ、その習得の際にインドの瞑想に深く関るようになりました。

1965年頃に友人の勧めで聴いた、インド人のシタール奏者ラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接シタール演奏のレクチャーを受けています。

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このジョージの発案により、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで催されていたインド人の瞑想家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。その教義を気に入ったため、その後メンバー全員がこうしたインド瞑想セミナーの数々に参加するようになりました。

1968年1月、ジョージがインドのボンベイで「不思議の壁」を録音(発売は11月)。その後メンバー全員でヨーギーの講義に参加しており、これがいわゆるビートルズによる「インド巡礼」です。

ヒッピーたちは、こうしたビートルズの行動や彼らがリリースした楽曲に触発され、インドをはじめとする、いわゆる「シルクロード」と呼ばれる地域を順番に辿るようになっていきます。ただ、かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっています。

しかし、これをきっかけとして、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていくようになります。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらに彼らの活動を活発にすることに寄与するようになり、現在ではこうした格安航空でアクセスできるようになった、北アフリカのモロッコやチュニジアを中心にその他の地域にも活動が及んでいます。

こうした、旧来のシルクロードも含めたパッカーたちの活動領域が「ヒッピー・トレイル」であり、現在では「ワンワールド」や「スターアライアンス」や「スカイチーム」といった航空会社間の協定に基づいて「世界一周航空券」などが利用できるようになったことから、さらにこうした活動が活発化しています。

こうしたシステムを利用して、バックパッカー・スタイルで世界一周をする猛者も数多く現れるようになりましたが、とはいえ、バックパッカーのことをヒッピーと呼ぶ風潮は最近ではあまりないようです。必ずしも自然と平和と歌を愛している人たちばかりとはいえず、旅をすること自体に意義を求める若者が増えています。

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純粋に旅だけを楽しみたい、と考えるこうした人種が増えた理由には、科学技術の変化と進歩も関係しています。

これまでの、旧来の伝統的なバックパッカーたち(=ヒッピー)は、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩きませんでした。しかし、技術の発達により、これらの携帯機器は電子機器として著しく発達しました。

発達したのはとくに小型軽量化、多機能化であり、と同時に、こうした最新技術を常に袂に持っていたい、と考える若者のバックパッカーの欲望は、その後「フラッシュパッキング」と呼ばれる様式を生み出しました。

フラッシュパッキング(flashpacking)のflashとは「光るもの」「見せびらかし」などの意味ですが、これはすなわち、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などの近代テクノロジーの粋とされるような電子機器です。

こうした最新鋭の機器を持って旅することを好むバックパッカーは、「テクノロジーに通じた冒険者」としても定義されるものであり、従来のバックパッカーと区別して「フラッシュパッカー(flashpacker)」と呼ばれます。

こうした機器というものは必ずしも安価なものばかりではありません。このため従来のバックパッカーのように貧しい人々ばかりではなく、裕福なバックパッカーも多く、こうした比較的潤沢な資金を持つバックパッカーを指す新語でもあるといえます。

伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは旅行中により多くの予算を使える人種が行う行為として定義されているわけです。

もっとも、かなり漠然とした定義でもあり、従来通りのパッカーがハイテク機器を持っただけだ、という人もいます。しかし、従来のバックパッカーと明らかに異なるのは、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないものの、こうした機器には金をかけ、かつ選んだ旅先での活動には時としてふんだんに、場合によっては過剰にお金を使うことです。

従来の貧乏バックパッカーとは明らかに異なり、昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行ものの、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむようなフラッシュパッカーが増えているといいます。

ある程度裕福でありながら、たとえば「スラムを覗く」ことにスリルと冒険を覚え、これと贅沢との不調和な混淆の状態が楽しい、と考える人々もおり、これが新たに生まれたフラッシュパッカーが従来のバックパッカーと違うといわれるゆえんです。

かつては、組織的な旅行を見放し、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すことによる冒険目的の旅がバックパックの醍醐味と考えられていました。しかし、近年ではより快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者に変貌しており、その数もかなり増加しているといいます。

結果として宿泊施設も変化し、従来のバックパッカーのためには安価で手軽なものであったものがより高級な設備に変化しつつあるといい、こうしたフラッシュパッカーの増加に呼応して旅行業界全体も変化しつつあるようです。

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一方では、従来型のバックパッキングこそ、旅の醍醐味だとする古いタイプのパッカーたちも少なからずおり、高級な宿泊施設などには泊まらず、しかも乗り物を使わず、人力でのバックパックにこだわるパッカーも数多くいるようです。

従来のバックパッキングにこだわったパッカーの中には徒歩だけで世界一周を遂げた人もおり、ギネス世界記録保持者としては、2007年10月6日に世界で初めて人力での世界一周に成功した、ジェイソン・ルイス(Jason Lewis)という人がいます。

ギネスブックでは、その2006年版で人力での世界一周に関するガイドラインを発表しており、そこで示された条件は、距離 36,787.559 km (北回帰線の距離)以上で赤道を通り、出発地点と完全に同じ場所に戻ってくることであり、ルイスはこの基準を徒歩でクリアーしました。

これはエクスペディション360という企画で、多数のサポーターに支えられた13年におよぶ旅程でした。

ただ、乗り物は使わないといいながらも、ローラースケートやスケート靴を履いたり、自転車を使うことは許されており、あるときは岩礁地帯をモーターボートで渡ったこともあるといいます。しかし、彼は後にこの地点を人力で渡り直しており、ギネスへの登録はこうした努力が認められたものです。

また、最近では、2012年にトルコ人冒険家のErden Eruç、これはどう読むのかよくわかりませんが、英語風ではアーデン・エルクでしょうか、この人は世界で初めての「単独での」人力世界一周に成功したとされ、同じくギネス登録されました。

Eruçはこぎ舟、シーカヤック、徒歩、そして自転車によって2007年7月10日から2012年7月12日の約5年間で世界一周を達成しており、総移動距離は66,299キロメートルでした。ただし、中断期間があるため、延べでは1,026日の旅でした。

これ以外にも、大洋は飛行機で渡り、陸路のみを歩行または自転車で世界一周した人物はあまたいるようですが、海洋を除いた移動距離はギネスのガイドラインを下回っているため、ギネス登録はなっていないようです。それでも記録を目指すのが目的ではない、チャレンジすることに意義がある、と彼らは考えているようです。

ただ、徒歩で歩いて世界一周というのはよほど時間に余裕がなければできないことであり、またやはり潤沢な資金がないと実現できないことであり、そうした意味ではフラッシュパッカーの一形態といえるのかもしれません。しかしかなり泥臭い冒険ではあります。

なかなか我々にはできない冒険でもあるわけですが、しかし、何も世界一周をしなくても、日本でも北から南まで徒歩で歩き、しかも車道を通らずにバックパッキングして旅できるルートが日本中に整備されています。

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「長距離自然歩道」といい、環境省が計画を定め、各都道府県が整備、管理運営している複数の都府県間にまたがる自然歩道であり、昭和45年(1970年)の東海自然歩道に始まり、各都府県が事業主体となって整備を進めた結果これまで九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道が整備されています。

長距離自然歩道は、自然景観や文化財等に恵まれた既存の道路を、標識等の整備によりネットワーク化した長距離の自然歩道であり、四季を通じて「手軽に楽しくかつ安全に」がモットーの遊歩道であり、沿線の豊かな自然や歴史、文化に触れることもできます。

計画総延長距離は約27000キロメートルであり、一部悪路の場所などもあるようですが、現在までには、ほぼ整備が終わっているようです。

以下がそれらの自然遊歩道ですが、今年はひとつこれをすべて網羅してやろう、という人がいらっしゃれば、ぜひチャレンジしてみてください。

またすべてを歩かなくても、このうち身近な一つを制覇してみる、というのを今年の目標に掲げる、というのもいいかもしれません。今年一年を通じて分割して歩いてみるという手もあるでしょう。

私もこうした徒歩を中心にした旅行を通じて、今年一年を無事で健康でいられるように努力したいいと思います。みなさんもひとついかがでしょうか。

東海自然歩道(1697キロメートル)
九州自然歩道(愛称「やまびこさん」、2932キロメートル)
中国自然歩道(2295キロメートル)
四国自然歩道(愛称「四国のみち」、1637キロメートル)
首都圏自然歩道(愛称「関東ふれあいの道」、1800キロメートル)
東北自然歩道(愛称「新・奥の細道」、4369キロメートル)
中部北陸自然歩道(4085キロメートル)
近畿自然歩道(3296キロメートル)
北海道自然歩道(4600キロメートル)
東北太平洋岸自然歩道(愛称「みちのく潮風トレイル」、700キロメートル)

 

冒険に出よう!

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ちょっと前の夏のこと、アメリカ政府がアラスカ州にある北米大陸の最高峰「マッキンリー」を、先住民の呼称である「デナリ」に変更すると発表した、というニュースが流れました。

1897年、この山は、当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーにちなみマッキンリー山と命名されました。1867年に、アラスカをロシアから購入してからちょうど30年を経たときのことです。

この翌年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利するなど、このころのアメリカは絶頂期に達しつつありました。

このアメリカを率いていたのが、第25代目のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーです。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領でもあります。

1893年の恐慌後、回復に向けて国の経済を立て直すべく、金本位制を導入したことで、アメリカは立ち直りはじめました。ちょうどこのころ、まだ世界の超大国であったスペインはアメリカ喉元のキューバに進出しようとしていたため、アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていました。

マッキンリーは、その蛮行を止めるように強硬に要求しましたが、スペインが聞きいれなかったため、1898年、ついに米西戦争が勃発しました。

アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領し、戦争はアメリカの勝利で終わりました。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれました。

翌年にはハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となりました。1900年の大統領選では、最初の大統領就任の際にも戦った民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンと再び争いました。

ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開しましたが、経済の復興を成し遂げ、米西戦争の勝利などによっても国民から絶大なる信頼を受けたマッキンリーは再選を成し遂げました。

しかし、1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺されました。チョルゴッシュは大統領に向かって二発の銃弾を撃ち込んだあと再び発砲しようとしましたが、大統領の護衛によって殴られ、続いて激怒した群衆によって制圧されました。

腹を立てた群衆が激しくチョルゴッシュを打ちつけ、その場で殺してしまいそうな雰囲気を見たマッキンリーは、負傷していたにもかかわらず、「誰も彼に危害を加えるな!」と叫んだといいます。

撃たれた大統領の体の中の銃弾は、一発は摘出されましたが、医師は二発目の弾丸を発見することができませんでした。この当時はすでにX線検査機が実用化されていましたが、医師はそれを使用することでどのような副作用が生じるかを不安に思いました。このため体内の弾丸を捜索するためにこの最新鋭機器を使用しませんでした。

結局この残された弾丸が致命傷となり、一週間後に大統領は亡くなりました。彼の後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継ぎましたが、このルーズベルトもまた、アメリカを第一次世界大戦の勝利へと導き、アメリカは二代続いたこの共和党の大統領によってより強固な国へと導かれました。

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この名大統領といわれたマッキンリーの名を冠した山をなぜいまさら、デナリ(Denali)に変更したかですが、サリー・ジュエル内務長官は「この地に対する敬意を表し、アラスカ先住民の伝統と、アラスカ州の人々の強い支持を認め、公式にデナリと改称する」と、声明を出しており、地元からの強い要望があったことをうかがわせます。

また、1980年には、アラスカ州法に基づき、山を含む周囲にデナリ国立公園が設置され、同時に、アラスカ地名局は山の呼称も既にデナリと改称していました。ただし連邦地名局は、引き続きマッキンリー山という呼称を使っており、その後、2つの呼称が混在していました。

しかし、アラスカ人は「デナリ」の名を好む傾向があり、また連邦政府での呼称もデナリに変更しようとする運動もありました。その一方で、観光客などは山はマッキンリー、国立公園はデナリと呼び分けることもあったようです。

それをなぜあえて今改めて改名の表明をしたかですが、これは最近、世界的にもヨーロッパ人がつけた土地の名前を元のものに戻す例が増えていることと無関係ではないようです。

数年前にも、ニュージーランドにあるクック山が、元からあったマオリ語の呼称「アオラキ」に変更され、クック山はカッコ内に併記されることになったという例がありました。また、ネパールにあるチョモランマも、その昔はインド測量局で長官を務めていたジョージ・エベレストにちなんでエベレストと呼ばれていました。

マッキンリーの改称名のデナリは、地元の先住民族コユコン・アサバスカンの言葉で、「偉大なもの」を意味し、神の山として崇められています。このため、アラスカ州では名称の変更を歓迎していますが、オハイオ州選出の議員は面白くなさそうです。

マッキンリー山の名の由来となった第25代米国大統領マッキンリーは、オハイオ出身であるためです。ただ、長年親しまれてきた名前だけに、残したいとする向きも多いようで、ナショナル ジオグラフィック誌では、「デナリ(マッキンリー山)」のようにマッキンリーの方をカッコ内に入れることにする、と表明しています。

私的にも、デナリという馴染のない言葉よりも、マッキンリーのほうが親しみやすいので、以下でも従来どおりのマッキンリーで通して話を進めたいと思います。

このデナリことマッキンリーですが、北アメリカ最高峰の山であり、その標高は6,190mです。エベレストよりも大きな山体と比高を持ちます。比高というのは、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差のことで、ようはその山の麓からの高さのことです。

エベレストの標高はマッキンリーより2700mも高くなっていますが、元々この山があるチベット高原が高いところにあるため、その比高は3700m程度に過ぎません。一方、マッキンリーはふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5500mにも達します。

これがこの山の登頂を難しくしている理由です。2015年までに冬季登頂を果たしたのは10隊17人にすぎず、冬のマッキンリーでは6人が死亡しています。

一方のエベレストはというと、1953年のエドモンド・ヒラリー初登頂以来、シェルパ・ガイドなどを除いても1万4千人以上が登頂を果たしており、今では登るために入山料を払わなければならなくなっており、観光地化されているといっていいほどです。

ちなみにエベレストでの死亡者数は、これまでで231人もいます。このため、山頂付近にはこの山で死んで、回収不可能となった人の死体がゴロゴロとあちこちに転がっているといい、そこは世界の最高峰、やはり一般の観光地とは違います。

これと比べればマッキンリーの登山者数がいかに少ないかがわかります。その登山を難しくしているのは、やはり高緯度にあることであり、極寒の地であることです。夏でも山頂の平均気温はマイナス20℃程度であり、冬には5700m地点に据えられた温度計の最低気温が日常的に氷点下40°Cを下回り、1995年には-59.4°Cを記録しました。

1969年以前には、中腹の約4600m地点で最低気温−73.3°Cを記録したこともあります。また、マッキンリーはこのように気温が低いことの影響でヒマラヤやアンデスの同一標高よりも気圧が低いのが特徴で、そのため登山者にとっては高山病の危険性などが高くなり、一層その登山の危険度を増します。

マッキンリー山頂と同じ程度に低い気圧になるヒマラヤの場所は、登山シーズンで比較するとマッキンリー山頂よりも約300〜450m程高いところにあるといいます。この気圧は夏よりも冬のほうがさらに一段と低くなるため、冬季の登山はさらに過酷です。冬のマッキンリー山頂の気圧は夏のヒマラヤの7000m超に相当するといいます。

しかも、山頂は常に風が吹き荒れています。冬にはジェット気流の影響からしばしば時速160km(秒速44m)の風が吹き下ろし、さらにその登山路の途中にある風が集まるような場所では、風速が倍増します。

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このマッキンリーに最初に登ったのは誰かについては、諸論があります。1903年にアメリカの探検家、フレデリック・アルバート・クックにより初登頂されたと報じられたことがありましたが、この登頂は、1909年にクックに同行したエド・バレルという人物によって否定されました。

なぜ否定したかについてですが、実は彼はこのクックのライバルの登山家、ロバート・エドウィン・ピアリーという男に大金で買収され、偽証したのではないか、ということが言われています。

このクックとピアリーは犬猿の仲でした。その理由ですが、そもそもこの二人は同僚でした。1891年、クックは、ピアリーのグリーンランド初探検に医師として参加し、以後1897年までに4度にわたるグリーンランド探検を共に行っています。

クックは有能な片腕として活躍していました。ところがその後、ピアリーとの探検を出版することに際しての著作権の問題で揉めた末袂を分かち、別行動をとるようにりました。と同時に、何かあるたびにお互いの誹謗中傷を始めました。

その後ピアリーの興味はグリーンランドから北極点へと移り、1909年には彼を含めて6名が北極点に到達しました。ところが、この探検から帰還後、元の仲間であるクック が、「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張。相次ぐ極点征服のニュースは世界を驚愕させ大論争になりました。

調査委員会が設けられましたが、結局クックの訴えは退けられ、しかも詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定されました。ところが、このときもピアリーが証人を買収していたことがのちに判明しました。

実際、クックは北極点の数百キロ手前までしか到達していなかったことがその後の調査でわかったようですが、ピアリーもまた北極点に達していませんでした。さらに後の別の詳しい測量では、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北極点から約6kmの地点であったことが分かっています。

また、ナビゲーションの技術を持つものがいなかったにも関わらず旅程が不自然に順調であることなどから、二人の到達そのものを疑問視する説もいまもって根強いようです。

結局、人類で初めて北極点に到達したとされるのが確認されたのはかなり測量の技術が発達した1926年のことであり、アメリカのリチャード・バードが、ノルウェー・スピッツベルゲン島から北極点まで飛行機による往復飛行に成功したときのことです。これは同時に航空機のよる世界初の北極点到達の記録となっています。

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一方、「徒歩」での到達は1937年のこととされ、これはソ連の科学者イワン・ドミトリーヴィッチ・パパーニンによるものでした。ただし、彼も北極点までは飛行機で行っており、流氷上に着水後、そのまま氷上で史上初の漂流越冬観測を行いました。

マッキンリーの登頂に際しても、ピアリーはクックと行動を共にしたエド・バレルを買収して偽証させたとされ、当時の金で5,000ドルもの大金を払ったといわれています。これは現在の日本円で1,000万円にも相当しますが、それほどの対価を払っても相手をおとしめたい、というのはかなりのえげつない男です。

虚栄心の強いいやなヤツ、というイメージを持ってしまいがちですが、冒険に対する情熱は相当のもので、1898年に初めて北極点到達に挑戦して失敗したときには、凍傷で足指8本を失っています。またグリーンランド探検を行った際には、現地のイヌイット女性との間に二児をもうけており、単なるお高い金持ちでもなかったようです。

このほかにも、鉄の精錬技術を持たないグリーンランドのイヌイット族が鉄を利用している謎がピアリーの調査で判明するなどの功績をあげています。イヌイット族は1万年前に落下したと推測される56トンもの巨大な隕鉄を利用していたことを発見したのは彼です。

しかし、ピアリーはこの一部をアメリカへ持ち帰り博物館に4万ドル (5万ドルとも) で売却しており、金の亡者といわれてもしかたのないような一面はあったようです。

結局、このピアリーの横槍によって、クックのマッキンリー初登頂が事実だったかどうかはうやむやになりました。その後、1913年に宣教師のハドソン・スタック以下の4名が初登頂に成功したとされ、1947年には、バーバラ・ウォシュバーンが女性として初めて頂上に到達しました。

マッキンリーに登頂した初の日本人は、冒険家として高名な植村直己です。1970年8月26日のマッキンリー単独初登頂に続き、1984年2月12日にも冬期単独初登頂を達成しており、彼の冒険は常に「世界初」にこだわったものでした。

43歳の誕生日にこの世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたとされますが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となりました。その後出身校の明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれましたが発見されることはありませんでした。

ただ、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、雪洞に残された植村の装備が遺品として発見されており、冬季初登頂は間違いないとされます。しかしその後の捜索によっても発見されず、やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られました。

現在に至るまで遺体は未発見であり、最後の交信で消息が確認された1984年2月13日をが、現在では彼の命日とされています。

ちなみに、同じ登山家の栗秋正寿が、これから4年後の1998年3月8日に日本人としては初のマッキンリーの冬季単独登頂および帰還に成功しており、この冬季単独登頂は史上最年少での快挙であり、世界で4人目でした。

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その後マッキンリーに登頂した日本人としては、「珍獣ハンター」として有名なタレントのイモトアヤコが知られています。もっとも、単独ではなく、日本テレビ撮影隊の一員として登頂に成功しました。

登ったのも冬季ではなく、2015年6月21日 であり、登山開始から16日目のことでした。ただ、頂上付近では急激な天候の変化があり、見る間に山頂付近が雲に覆われ、視界はあっという間に奪われる、という状況でした。しかし、同日13時35分、イモトは見事マッキンリーの頂上、6,190メートルの頂に到達することとなりました。

私もこの時の状況録画をテレビ見ていたのですが、一歩間違えば死と隣り合わせといわれるような危険な現場だっただけに、お笑いタレントといわれるいつものひょうきんな彼女ではなく、真剣そのもののその行動には、正直感動を覚えました。

これまでも、2009年5月のキリマンジャロ登頂成功を皮切りに、モンブラン、アコンカグア、マッターホルン、マナスル、キナバルなどなどの名峰に登っており、その「根性」には感服です。

もうすでに冒険家といっても良いほどのレベルにあると思いますが、この「日テレ登山部」としての活動はどこまで続くのでしょうか。

それにしても、そもそも冒険家という職業はあるのでしょうか。

この冒険家というものの定義ですが、これは、ウィキペディアによれば、それが名誉、利益のために、あるいはなんらそれがもたらすものがなくても冒険それ自体のために危険な企て、冒険、試みに敢えて挑戦を試みる人たちのこととされます。

一方、探検家というのもありますが、こちらは探索すべき余地が残されている未知の領域に直接に赴くことにより調査する人々を指し、ときにその調査は無謀のものであることも多く、冒険家もこの範疇に含まれるようです。

広義の意味においては、探検家には宇宙飛行士を含むこともあり、その目的は、軍事・商業・学術・旅行・宗教、およびそれらのルートの開拓などであり、無論、冒険そのものによってスリルを楽しむ?ことが目的の場合もあります。

探検や冒険をするひとたちに、なぜ冒険などするのか、と聞かれて明確に答えられる場合は少ないようで、それはあえていえば登山家のジョージ・マロニーが言ったように、そこに山があるから、そこに冒険があるから、ということになるでしょうか。

古代から中世にかけての探検家、冒険家はどちらかというと孤立した存在で、組織的で計画的な探検家への援助はほとんど行われてきませんでした。古代の探検家達の名前はほとんど伝わっていませんが、古代エジプトのネコ2世の命令を受けたフェニキア人によりアフリカ周航が行われたといいます。

また紀元前5世紀にはカルタゴ(現在のチュニジア・アフリカ北部)のハンノという航海者が象牙海岸(現コートジボアール・アフリカ西部)付近まで航海したという記録が残っています。

東洋人としても7世紀には、西遊記で有名な玄奘(げんじょう)による中国・インド往復が行われました。また、ま0世紀になると、ヴァイキングのレイフ・エリクソンが北米大陸に到達しており、このころからヨーロッパ人の探検家が続出するようになりました。

13世紀には、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロによってイタリア・中国往復が達成されており、このころからアジアとヨーロッパがつながり始めました。

彼らの探検の動機は主に商業や宗教であり、交通の未発達な時代の国家戦略的でない探検という点で共通しています。15世紀中ばに入り、ヨーロッパで大探検時代、いわゆる大航海時代がはじまると、ヨーロッパの各国や有力なパトロンが国家的または商業上の戦略としてさまざまな探検をサポートしました。

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この時代に探検が盛んになった背景には船や航海術の発達、そして西洋諸国が商業主義・資本主義の道を歩み始めていたことが挙げられます。 とりわけ、アラビア商人が一手に握っていたインドとの交易が最大の目的であり、コロンブスのアメリカ到達も結局はインドを目指したものでし。

よく知られた話ですが、コロンブス自身は自分がインドに到達したと思い込んでおり、結局のところインドとの交易は喜望峰周りで航海したヴァスコ・ダ・ガマにより達成されました。この時代の探検家では1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスがもっとも知られています。

コロンブスの他にも、アフリカの南端を回りインドのカリカットに到達したヴァスコ・ダ・ガマや世界一周航海をなしとげたマゼランは有名です。ただ、マゼラン自身は航海の途上フィリピンのマクタン島で現地の人間に殺されています。マゼランの航海は265人で出発しましたが、無事にスペインに帰還したのはわずか18人でした。

大探検時代を経て世界の姿が明らかになりつつあった近代には、未だ知られていなかった各地に探検家達は赴くようになりました。 アメリカ内部の探検や、アフリカ内部の探検が行われ、また、南方大陸として存在が予言されていた大陸を目指して太平洋・オーストラリアの探検も行われました。

さらに時代が下ると探検家達は、上述のように北極点・南極点を目指すとともに、高い山を目指すようになりました。 この時代の探検の特色は名誉や学問のために探検が行われたことにあり、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンはこの時代にビーグル号に乗って航海をしています。

18世紀に入ると日本人でも探検家といわれる人々が多く出るようになります。蝦夷地・樺太探検を行った間宮林蔵(1775~1844年)、千島列島・南西諸島を探検した笹森儀助 (1845~1915年)、チベットへ潜入した河口慧海 (1866~1945年)、南極探検をした白瀬矗(1861~1946年)、千島列島探検をした郡司成忠(1860~1924年)などがそれです。

これらの中でも、河口慧海は異色です。 他の探検家と呼ばれる人たちはすべて、この当時国家的な事業であった測量に携わっていたのに対し、チベットへ向かったのは、この地にあった「仏典」を単独入手するためです。

幕末の1866年(慶応元年)に泉州は堺(現・大阪府堺市)に生まれました。1890年(明治23年)、24歳のとき出家し、当時は東京本所にあった百羅漢寺で修業しました。2年後には大阪妙徳寺に移り、ここで禅を学び、その後、五百羅漢寺に帰って住職を勉めるまでになります。

しかし、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求め、この当時その昔の日本と同じように鎖国状態にあり、秘境といわれたチベットを目指しました。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果たしましたが、最初の侵入は1897年(明治30年)のことです。6月に神戸港から旅立ち、当初シンガポール経由で英領インドカルカッタへ向かいました。

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ここでチベット語学者でありチベット潜入経験のあるインド人の、サラット・チャンドラ・ダースの知遇を得、彼の紹介を得ることでおよそ1年ほど現地の学校で正式のチベット語を習うことができました。またその間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究しました。

その結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにします。1899年(明治32年)1月、33歳の彼は、仏陀が成道したとされる、インド北東部、ブッダガヤに詣でました。

その際、地元の仏教会の有力者から、ブッダ(お釈迦さま)の舎利(遺骨)をおさめた銀製の塔とその進呈書、そしてヤシの葉に書かれた経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託されます。

同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地でチベット仏教の巨大仏塔(ストゥーパ)の住職の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査します。同年3月、カトマンズを後にし、険しい山道を経て徐々に北西に進んで行きますが、途中、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなりました。

ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索しました。

新たな間道を目指して途中の村に滞在し、そこにあった仏堂に納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機しました。そして1900年(明治33年)6月、この村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発。

同年7月4日、ネパール領とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功しました。入国後は、同国の尊者との面会や、聖地カなどの巡礼の後、1901年(明治34年)にチベットの首府ラサに到達。

そしてチベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されます。慧海はそれまで中国人と偽って行動しましたが、この時にチベット人であるとウソをついたのは、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためでした。

一方、チベットに入国後に世話になった人々には中国人であると言ってしまっていたため、そうした一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要がありました。このため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなりました。

慧海は元々禅道で修業していたことから整骨の心得などがあり、このため身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになりました。このため次第にラサにおいて医者としての名声が高まるようになり、チベット語でセライ・アムチー(セラの医者)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになります。

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本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていましたが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間ではもっぱらセライ・アムチーという名で知られることになりました。その名声はついには法王ダライ・ラマ13世にまでおよび、慧海はついに法王にまで召喚されます。

その際侍従医長から侍従医にも推薦されていますが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っています。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになりました。

この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主であり、前大臣の厚意によってこの高僧を師として学ぶこともできるようになりました。

こうしてまたたくまに2年がすぎましたが、この間、どこからか彼は生粋のチベット人ではないのではないか、という噂が立つようになります。

その噂をもとに素性を調べた人物がいたのかどうかわかりませんが、その後はさらに彼が日本人だという噂まで出てきたため、さすがにこれはヤバイと感じた彼はラサ脱出を計画。

1902年(明治35年)の5月、このころまでには慧海上旬、親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出しました。

このときは、通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができました。しかし、その後、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を慧海は聞き込みます。

その後かつて教えを受けたインド人の恩師などの反対を押し切り、その救出を模索するため、チベットの隣国、ネパールに赴きました。そして交渉の結果、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功。

これを読んで感動したダライ・ダマの命によって多くの知人が解放されたとされます。また慧海はこのとき国王より多くの梵語仏典を賜りました。1903年(明治36年)、37歳になった慧海は、同年4月に英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月には旅立った時と同じ神戸港に帰着。日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国でした。

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無論、それまで謎の国とされていたチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことであり、その後も長くこの冒険は語り継がれるところとなりました。

その後、チベットはイギリスや中国に干渉される形となったため、鎖国状態からは解放されました。河口慧海は解放されはじめていたチベットに、大正時代(大正2年~4年ころ)になってから2回目の入境を果たしています。

ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功し、また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集しました。

持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは現在も専門家の間では、チベット研究の重要資料と目されています。1903年(明治36年)に帰国した慧海は、その後、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に「西蔵旅行記」を刊行しますが、これはベストセラーになりました。

英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されており、その体験談は世界的にも一大センセーションを巻き起こしましたが、その一方で、彼のチベット入境は俄かには人々には信じられず、当初はその真偽を疑われてしまいました。

しかしその後はチベット人の証言者なども現れ、それが事実であるとわかると、彼はヒーロー視にされるようになりました。「西蔵旅行記」は仮名遣いに改訂されて「チベット旅行記」として出版され、これらも好評を博しました。

晩年は、経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱しまし。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献しました。

最晩年は蔵和辞典(チべット語和訳辞典)の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で終戦の年、1945年の春先に東京世田谷の自宅で死去。享年78。 慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されましたが、現在は青山霊園に改葬されています。

現在、日本政府は台湾やチベットをさておき、中国優先政策を対中外交の基本姿勢としているため、チベット亡命政府を認知していません。

しかし、中国政府もチベット自治区も外国人の入国を拒否していないため、首都ラサなどへは、空路、列車、車をチャーターして陸路で入ることができます。

列車と航空機を利用するのが一般的なようで、日本のツーリストも普通にツアー旅行を組んでいます。が、慧海が入国した当時のこの地はまったくの秘境の地であり、そこを訪れるだけが冒険でした。

現代では、こうした冒険の地は、探検しつくされつつあります。しかし探検家は深海の探検や、海中や水中を含む洞窟の探検、ギアナのテーブルマウンテン、密林の奥地など未だ人間を拒み続けているわずかな場所を目指して今も冒険を続けています。

ただ、そうした場所は枯渇しつつあり、大勢は地球外の探検に傾いています。現在のところ地球外の探検が国家による巨大なプロジェクトとして行われようとされているのは周知のとおりです。

そのうち河口慧海のように、秘境といわれるような宇宙人の巣窟に冒険家が行くような時代が来るのかもしれません。そのころまでには私もこれを読んでいる方々も生きてはいないでしょうが。

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