地図にない町

ロシアのウラジオストックは、日本から直行便で約2時間半、今や気軽に行ける港町になりました。東欧を起点とするシベリア鉄道の始点であり、ヨーロッパとアジアの雰囲気が入り混じるエキゾチックで独特な雰囲気が魅力です。

2017年8月からは無料の電子査証での訪問が可能となっており、2020年2月からは日本航空が、また3月からは全日空が成田から毎日1往復の便を就航させたことなどから、日本人観光客が増えています。

ほかにもS7航空の直行便が毎日運航しています。関空からも各社の便がありますがこちらは週に1~2便のみ。韓国経由だと航空券代もかなり安くなりますが、総飛行時間が長くなるのが難点です。

飛行機のスケジュールにもよりますが、現地への移動時間を含めても成田発2泊3日が基本。調べてみたところ、添乗員同行のツアーでも最安値で6万円台からあるようです。

最大の観光名所がどこかといえば、その答えを出すのはなかなか難しそうです。誰もが訪れたくなるような特別な名所が存在しないからですが、そこもまたウラジオストックの魅力であるといえます。

ほとんどの観光地は市内に集中しており、あくせくとあちこちを回る必要がなく、ゆったりとした時間の流れを感じとることができます。

ロシアでしか購入できない雑貨を求めるのもよし、街中にあふれるストリートアートや美術館、バレエなどの芸術鑑賞をするのもよし、大自然の中でのトレッキングや見晴らしの良い展望台に行くのもありです。北朝鮮料理の店やカジノなどもあって、各々が期待するシーンに合わせた観光が楽しめます。




その古い街並みも魅力で、大手企業の資本の店舗はほとんど見掛けません。「ZARA」や「バーガーキング」といった例外は多少あるものの、昔からの街並みがそのまま残っており、古き良き時代のヨーロッパのノスタルジーを感じさせます。

ウラジオストックの名称は「東方を支配する町」を意味しています。その通り、かつてウラジオストックはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市でした。本来のロシア語での読みはヴラディ・ヴォストーク(ウラジ・オストク)ですが、日本では明治時代以降、ウラジオ・ストックと解され、漢字には浦塩斯徳(または浦潮斯徳)が当てられました。

日本海に突き出した長さ30キロ、幅12キロのムラヴィヨフ・アムールスキー半島(ロシアの極東政策に深く関わった同名の政治家に由来する)の南端部、北緯43度7分、東経131度51分に位置し、かつてはロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれていました。

人口は60万とちょっと。丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっています。街の中心部は金角湾の奥にあり、南には東ボスポラス海峡(ロシア船舶が黒海へ頻繁に出入りをするトルコのボスポラス海峡にちなんでこう呼ばれる)を挟んで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かんでいます。

2012年9月にはこのルースキー島でロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となりました。ロシア政府はそのAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストック国際空港の改修を行うなど、総額約6,000億ルーブル(1兆6,500億円)の莫大なインフラストラクチャー投資を行いました。

ルースキー島では、リゾート地化を目的として大規模な開発が進められ、現在までに数々のリゾートホテルや水族館(プリモルスキー・オケアナリウム)が完成するに至っています。また、APEC終了後、極東連邦大学がその会場跡に移転しました。

清の時代に外満州(Outer Manchuria)と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストックにあたる地域は海參崴(ハイシェンワイ・海辺の小さな村の意)と呼ばれていました。外満州は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって、清からロシア帝国に割譲されました。

ロシア帝国は外満州から獲得したこの土地を沿海州と名付け、その南部にウラジオストックの街を建設しました。19世紀末までには太平洋への玄関口として、また北に厳氷海しか持たないロシアが悲願とする不凍港として極東における重要な港町に位置づけられるようになりました。

日露戦争時には、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊が置かれ、のちに強化されてウラジオストック巡洋艦隊となりました。日本海海戦で日本の連合艦隊に完膚無きまで叩きのめされた後、残りの艦船のほとんどがバルト海へ返され、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小されました。

その後の革命の勃発によってロシアが国力を弱めると、第一次世界大戦では連合国が干渉戦争を仕掛け、シベリアへ出兵することが決まります。連合国のひとつであった日本も、1918年(大正7年)に帝国陸海軍が当地に進出しました。

日本はウラジオストックからイルクーツク以東を1918年から1922年にわたって占領しましたが、「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」と名前を変えたソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国。占領を続ける日本軍との対決が始まります。

占領を続ける日本は、ボリシェヴィキ(レーニンが率いる左派)が組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンによる激しい反抗受けましたが、その結果1922年10月にウラジオストックが陥落し、これを機に北サハリンを除く地域から撤退。極東共和国は存在意義を喪失し、ソビエト政権へ統合される事となりました。

ソビエト連邦時代の1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストックを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設されます。1938年には、沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに、ウラジオストックは軍港として重視されるようになりました。

太平洋戦争(日)・大祖国戦争(ソ)の時代を経て米国との冷戦に入った後、国際都市として開かれていたウラジオストックは一変することとなります。1958年からソ連が崩壊する1991年まで、ごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止され、「閉鎖都市」となったのです。

しかし、ソ連崩壊後の1992年、閉鎖の指定が解除されました。民間旅客航空会社のウラジオストック航空が誕生し、日本各地の空港との間に定期便が就航するようになり、1993年には、閉鎖都市となっていた間ナホトカへ移動していた日本国総領事館も戻ってきました。

2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施された結果、急速に交通インフラの整備も進みました。空路では、サハリン航空を併合した「オーロラ」が成田と新千歳の間に航路を開き、海路では、韓国のドゥウォン商船が京都舞鶴港と韓国の浦項迎日湾港、ウラジオストックを結ぶ航路を開設しています。

産業では自動車産業を積極的に誘致しており、マツダやトヨタ自動車など外資系メーカーの進出しているほか、日本からの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっています。さらに、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業であるガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設も計画されています。




閉鎖都市

このように、近年のウラジオストックの発展はかつてそれが「閉鎖都市」であったことを忘れるほどに著しいものです。

ウラジオストックと同様、かつて閉鎖都市だった東欧各地の都市も開かれ、国際交流が盛んになってきています。

かつて閉鎖都市を持ち、現在はソビエト(ロシア)から独立している東欧諸国は、カザフスタンやウクライナ、エストニア、スウェーデンといった国で、またソビエトと冷戦関係にあったアメリカ合衆国にも閉鎖都市がありました。

閉鎖都市は、主として核兵器や化学兵器開発といった国家秘密に関わるような特定の目的のために作られた都市です。街の情報の開示や出入りを厳しく制限することで兵器の秘密を保持し、開発をしていること自体を秘密にしたり、また軍事基地の情報が外に漏れないようにするために閉鎖を行いました。

そもそもアメリカ合衆国が核兵器開発のために秘密都市を作ったことをソビエト連邦側が察知し、それを模倣して作るようになった、ともいわれています。その住民は、主として核兵器製造や化学兵器製造、あるいは何らかの軍事活動に従事している者やその家族です。

通常、都市というものは出入りが自由ですが、閉鎖都市の多くはフェンスや壁など、出入りの障壁になるもので囲まれています。検問所や何らかのゲートのようなものを設けて外の人間の立ち入りを厳しく制限しており、一般人は立ち入ることができません。

中に入ることができるのは極めて限られた者だけであり、住民が転出することも、陰に陽に、さまざまな形で制限されたり、それをしないように当局から圧力がかかりました。仮に転出ができた場合でも長らく当局から監視の対象になることも多く、そうしたことから、その都市で生まれた人の多くが一生涯その都市で暮らすことになるといいます。

ソビエト連邦崩壊後のロシアでは1992年に「閉鎖行政領域体に関するロシア連邦法」が制定され、この法律の適用を受けて、42の閉鎖都市(ロシアではZATOと呼ばれる)が指定され、そこに住む住人の人口合計は推定でおよそ130万人に及ぶとみられています。

核開発にかかわるZATOが多く、核開発以外に関わるZATOとしては、宇宙開発関係のアムール州のツィオルコフスキー(旧称ウグレゴルスク)、ICBM基地があるトヴェリ州オジョルヌィ、潜水艦基地があるカムチャッカ地方ヴィリュチンスクなどがあります。

42のZATO以外にも、約15の確認されない都市があると考えられており、いずれもが特別な行政組織で運営されていて、居住者や関係者以外の立ち入りは規制されています。

アメリカ合衆国でも、マンハッタン計画による原子爆弾研究・製造の拠点として、過去に同様の機密都市を建設しています。1943年に指定されたオーク・リッジ、ロスアラモス、ハンフォードの3つの都市がそれらです。

いずれも都市も建設前には大規模な人口密集地はありませんでした。オーク・リッジとロスアラモスは、該当地区とその周囲に農村が点在していただけであり、アメリカ陸軍がその居住農民たちから半ば強制的に土地を収用し、これに応じない者は強制排除しました。

オーク・リッジやロスアラモスと言った現在の地名は、付近に過去に存在した地名から命名されたものです。ハンフォードだけはそれ以前から同名の漁村が存在していましたが、住民はやはり強制的に土地を収用され立ち退かされた後、同じ名前が付けられました。

ただし、建設当初からこれらの名で呼ばれていたわけではありません。オーク・リッジはサイトX、ロスアラモスはサイトY、ハンフォードはサイトWと呼称されていました。また内部の個々の施設もその目的や用途、機能を隠匿するため、S-25、Y-12といったコードネームで呼ばれていました。

しかしこうした秘匿名称を使うことは返って周囲の興味を引くという考え方から、上述のような地名などをあてがわれることになりました。地図にもそれらの施設が記載されることはなく、実際にそのような都市・施設が存在しているかどうかは、一般市民はもとより政府・軍関係者でも一部の者にしか知らされませんでした。

マンハッタン計画が終了した1947年以降、オーク・リッジとロスアラモスは存在自体の秘匿対象から外れ、正式な地名・自治体として公表されました。

しかし依然として施設の内容は秘匿され、また住民の管理も続き、さながらソ連型社会を思わせるかのような居住統制が行われていたといいます。

また人種差別もあえて強まるように指導されていたといい、これは白人主体の運営のほうが情報が漏れにくいと考えられたためでしょう。こうしたところに白人社会が幅を利かせているアメリカという国のえげつなさを感じます。



これらの都市が完全に解放されるのは、冷戦の終結後です。ただ、マンハッタン計画に基づいてプルトニウムの精製が行われていたハンフォードだけは、現在もハンフォード・サイトと呼ばれて核燃料や核廃棄物の再処理が行われています。核施設の労働者以外は基本的に居住せず、外国人の立ち入りも制限されている点は昔と同じです。

こうした閉鎖都市では上空の飛行制限を行ったり、閉鎖都市につながる道路を封鎖するなどの規制も行われていました。また郵便物を届ける際も、近くの大都市の名前を使い、郵便番号も特殊なものを用いる(ソビエトの場合、Arzamas‑16, Chelyabinsk‑65など)といったことまで行われ、その都市がこの世に存在することをできる限り秘密にしていました。

こうしたことから、閉鎖都市は「秘密都市」と呼ばれることすらあり、こうした秘密都市は、地図上からも消されたり、その描写を変えられていました。そもそもが戦時下の対策として始められたことから、こうした改変を戦時改描(かいびょう)と呼びます。

軍事的に重要な施設が、地形図上に偽って表現されたり消されたりするもので、日本でも戦時下に毒ガス開発の拠点であった瀬戸内海の大久野島(広島県)が地図から消されていたというのは有名な話です。

日本だけではなく、世界中でこのような戦時改描が行われていましたが、最初は重要な施設を空白にしておく「省略改描」だけでした。しかし、第一次大戦で都会が爆撃を受け多数の犠牲者が出たことなどを受け、架空のリンゴ畑や桑畑が描かれるようになりました。

日本では陸軍参謀本部の外局である陸地測量部によって戦時改描が行われていました。対象となったのは、軍事施設、基幹産業関連、皇室関連施設などで、貯水池は芝生に、火薬庫は桑畑にしたりと、色々な改描が行われました。その一方で敵国の地図を入手し改描を行った箇所を看破するといったことも行っていました。

ただ、こうした改描を行ったことがわからなくなってしまう恐れもあることから、軍事施設では星の下に錨を描いた記号を書き込み「陸海軍官衙」と注釈を入れたり、枠外に記入されている価格を丸括弧で囲むなどして改描の有無がわかるようにしていました。




消された町

かつての閉鎖都市や秘密都市も同様に地図上から消される、ということは日本だけでなく他の国でも行われていましたが、そうした軍事目的の施設や都市でなくても地図を見ただけではどんな場所なのかわからない、ということは往々にありがちです。

インターネットが普及した今日では、googleマップのストリートビュー機能などによって世界中どこにでも行けますが、人が踏み入れたこともないような場所や紛争地域、あるいは中国のように積極的な情報開示をしていない国にそうした場所は多いようです。

航空写真がある場合はどんなところなのかそれなりに見当はつきますが、それがない場合や小さな縮尺の写真がない場合はほとんどお手上げになります。

実際には存在するはずなのにいくら調べてもどこだかわからない場所もあります。多くの場合、呼称が複雑だったり似たような地名が多数あることが原因ですが、記載漏れや間違いによって見つけられない場合もあり、改めてしっかり調べれば見つかったりします。

しかし、中には知名度の低さや「存在感の薄さ」からインターネット上では「実在しない町」になってしまっている場合があり、中には恣意的に消されそうになった町もあります。

ドイツのビーレフェルトは、そうした町のひとつです。

ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるこの町は、人口33万人の実在する都市ですが、インターネットによって、「実在しない」とされるようになってしまいました。「その存在を信じさせようとする巨大な陰謀がある」とする情報まで流され、陰謀を企む「やつら」によってそうした情報が流されたのだとする噂まで流されました。

それによれば「やつら」は「当局」と手を結び、「ビーレフェルト」なる架空の都市があたかも実在するかのような情報が流れました。またビーレフェルト関連のニュースも「やつらのプロパガンダ」と論評され、Bielefeld の一部を“B*e*e*e*d,”、“B**l*f*ld”などとわざと伏字にして公表されました。

挙句の果てには、実在するビーレフェルト大学(Bielefeld University)は実は宇宙人が運営していて、この大学がそうした陰謀を画策している本拠地だといった噂まで流れ、さらにはBIではじまるビーレフェルトの自動車のナンバープレートは実際には存在せず、偽造されたものだとする情報まで流れました。

一方ではこのようなありもしない都市が存在するかのように信じさせる陰謀が「いつ始まったのか、なぜ仕組まれたか」といった逆説的な特集記事まで組まれ、あたかも何等かの陰謀が実際にあったかのように見せかけるサイトまで出てきました。

この町に関し、「試しに、相手に3つの質問をしてみよう」といった問いかけがネットで流されたこともあります。これは、

あなたは、ビーレフェルトから来た人を知っていますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったことがありますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったという人を知っていますか?

というものです。ビーレフェルトをよく知らない人がこうした質問をされれば、3つの質問すべてに「いいえ」と答えてしまうでしょう。

しかし、もしも1つでも「はい」と答えた人物がいたら、その人物(あるいはその知人)は「やつら」の陰謀に加わっているに違ない、というわけで、こちらも何か陰謀があるかのように思わせる巧妙な仕掛けといえます。



このように「消される対象」となったビーレフェルト市ですが、たしかに「大都市なのにぱっとしない」微妙な存在のようです。第二次世界大戦で激しい爆撃を受けたために歴史的な町並みや建物も少なく、全国的に知られた観光地もありません。また有力な企業や公共機関があるわけでもなく、ニュースに取り上げられることもほとんどありません。

アウトバーンは郊外を通過するだけであり、鉄道駅は市の中心部にあるものの、かつてはまるで仮設駅のような雰囲気でした。2007年に大規模な改修工事が行われたため多少事情は変わったとはいえ、人々はビーレフェルト市が大きな都市であることに気が付かないまま通過してしまいます。

市に本拠を置くプロスポーツチームとしてはサッカーのアルミニア・ビーレフェルトがあり、このチームは観客動員数では世界第1位のプロサッカーリーグであるブンデスリーガ一にかつて属したこともありますが、その地位を維持し続けるほどの力はありません。

方言がありますが、日本でいえば青森や沖縄のそれほどひどくはなく、ビーレフェルト方言を話す人物としゃべったとしても、そのなまりが印象に残ることはあまりありません。

このようにこれといった特徴がないビーレフェルトは、他の地域に住む多くのドイツ人にとっては印象に残らないのです。

こうした風潮に危機感を覚えた市政府は1999年、新聞に Bielefeld gibt es doch! (ビーレフェルトは存在する!)と題する広告を載せました。しかし、よりによってその掲載日が4月1日であったために、「陰謀論」に加担した格好になりました。

さらにGoogle マップではビーレフェルト都心部の衛星画像の解像度は長らく低いままであったといいます。衛星画像と道路地図は完全に合致しなかったといい、データは2006年10月に更新され、都心部も詳細に見ることができるようになりましたが、市長のオフィスには現在でも実在を確かめる電話やEメールがしばしば寄せられるといいます。

このように、どこの国でも印象の少ない町や地域というものはあるものです。ドイツ以外では、1980年代にアメリカのノースダコタ州が同様に「抹消」の対象となったほか、ネブラスカ州、アイダホ州、ワイオミング州などもその存在感の薄さからよくからかわれます。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代に国防長官や副大統領を勤めたディック・チェイニーは、このうちのネブラスカ生まれであることから、「やつら」の側で陰謀の片棒を担いでいるとよくジョークのネタにされました。

このほか、スペインのテルエルは県都でありながら、山がちな地形と少ない人口のために存在感が薄いようです。1999年、Teruel existe (テルエルは存在する)というスローガンを掲げるキャンペーンが展開されましたが、このスローガンは、Teruel no existe (テルエルは存在しない)という巷で流行ったジョークを逆手にとったものだったといいます。

さらには、国家的にも存在感がない国もあります。例えばヨーロッパ諸国の中においてはベルギーがそのひとつです。国土が小さいこともありますが、突出して優れた産業もなく、国自体の実在が疑わしいとしてジョークの格好のネタにされることも多いようです。

日本でも、影の薄い県は少なくありませんが。ネットなどで「忘れられている都道府県ランキング」といったキーワードで探すと、島根県 福井県 佐賀県 滋賀県 山口県などがよく出てきます。このほか群馬県や栃木県も印象に残りにくい県のようです。

2005年11月にフジテレビで「ニッポン列島緊急特番ザふるさとランキング最新格付け決定SP!!」という番組が放送されましたが、この中で栃木県は「影の薄い県第1位」に格付けされました。

さらに栃木県の県庁所在地である宇都宮市は、それが県庁所在地であることすら知らない人が多いようです。栃木県出身のお笑いコンビのU字工事は、人口51万人の大都市であるこの宇都宮の存在感の薄さをしばしばネタにします。

しかし同じ栃木県にはさらに影の薄い町があります。市貝町(いちかいまち)というのがそれで、ここも同じフジテレビによって「影の薄い市町村第1位」に格付けされました。

栃木県南東部に位置する町ですが、たしかに目立った観光地はなく、人口も1~1.2万人と決して多いといえません。出身者に目立った有名人はおらず、2014年に道の駅「サシバの里いちかい」ができましたが、全国に1200ほどある道の駅の人気投票では800位前後でけっして賑わっているとはいえません。

近くには同じ大きさの益子町、芳賀町、茂木町、高根沢町などがあることもその影の薄さを際立たせています。これら4町と違って町の名前さえ出されないことも多いとかで、これが「日本一影の薄い街」とされた理由ですが、これにはさらに「日本一影が薄い県の」が頭につきます。

しかしどんなに影が薄くても実在する町には人も住み、土地もあるわけです。市貝町のように印象の小さい町は日本中いたるところにあり、ここが取り上げられたのは、印象が薄いとされる栃木県という地域を際立たせたかったからでしょう。同県・同町にお住まいの方々にとってはいい面当てです。



実在しない町

このように地図に載っていて実在するものの印象が薄い町がある一方で、地図には存在するにもかかわらず、実在しない町、というものもあります。

かつてイギリスのアーグルトン(Argleton)という町がそうした町として有名になったことがあります。2009年12月中旬に訂正が行われるまで、この地名はイギリス・イングランドのランカシャー州オートンに近接した位置に表示されていましたが、実際にはこの場所は空き地が広がるばかりの土地でした。

Google マップおよびGoogle Earthで表示されていた「アーグルトン」の位置は、北緯53.543度 西経2.912度座標: 北緯53.543度 西経2.912度でした。ここは人口約8000人の村・オートン(Aughton)の村域内で、リヴァプールとヨークとを結ぶ幹線道路A59がすぐ近くを走っています。

通常、Googleのデータは他のオンライン情報サービスにも利用されています。このため、「アーグルトンの天気」「アーグルトンの不動産」「アーグルトンの求人」といった、あたかもこの町が実在するかのような情報が多数リストアップされることになりました。これら関連付けられたサービスや事業体は、同じ郵便番号L39の地域内にある実在のものです。

実在しない町「アーグルトン」に気づいて最初に反応したのは、マイク・ノーラン(Mike Nolan)という人物でした。オートンの隣町オームスカークでウェブサービス会社の社長を務めるノーランは2008年9月、インターネット上で実在するかのように扱われているこの「幽霊集落」のことを自身のブログに書き込みました。

さらに翌年にはノーランの同僚であるロイ・ベイフィールド(Roy Bayfield)によって詳しい調査が試みられました。グーグル・マップが指し示す場所に特別な何かがあるのかどうかを実際に歩いて調べたベイフィールドは、その結果を彼自身のブログに報告しました。

そのブログで彼はまず「アーグルトン」は「一見普通だった」(deceptively normal)と語り、しかし現実と虚構が混交するまるでマジックリアリズムの町のようだとこれを補足しました。

マジックリアリズムとは、日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、世界中の小説や美術に見られるものです。例えば、大江健三郎の「同時代ゲーム」では、主人公の故郷である「村=国家=小宇宙」は徳川期に権力から逃れた脱藩者により四国の山奥に創建された村です。

明治維新以後「村=国家=小宇宙」は大日本帝国の版図に組み込まれますが、租税や徴兵に抵抗するため「二重戸籍」の仕組みを持っていました。しかしこの仕組みが露見したため、大日本帝国は軍隊を派遣し、ここに「五十日戦争」の火蓋が切られた…といった物語です。

このベイフィールドによる「アーグルトンの発見と探索をめぐる物語」がどのようなものだったのかはよくわかりませんが、実際に何か歴史があるかのごとく紹介し、かつ幻想的な町であるといった創作をしたのでしょう。

これがまず地元のメディアによって取り上げられ、2009年11月には「Googleマップには存在するが、現実には存在しない町」が世界中のメディアの注目を集めるようになり、インターネット上でも大きな反響を呼びました。

Googleにおける”Argleton”の検索結果は、2009年11月4日現在で25,000件、同年12月23日には249,000件にまで増加したといい、Twitterでも”Argleton”はよく使われるハッシュタグ(検索をしやすくするためのキーワード)となりました。

その結果、「アーグルトンでこのTシャツを買ってきた」とか「ニューヨーク、パリ、アーグルトン」であるとかいった文字をプリントした商品を販売するサイトまで登場するようになりました。

果てには「著作権トラップ」としてGoogleがわざと「アーグルトン」を記したと疑う人まで出てきました。これは著作権の侵害者を発見したいときに時々使われる手法です。

例えば図鑑や地図など、ある対象を事細かに調べ上げた類いの著作物の場合、本文中にさりげなく誤った情報を数個混入させておけば、それを丸ごと盗用する者は誤った情報だと区別することなく一緒に書き写すはずです。その項目の有無を確認することによって不法な盗用であることを立証しやすくなります。

つまり、無断複写によって地図の著作権を侵害した者が言い逃れできなくするための罠として、Googleがわざと間違った情報を載せておいたのではないかというわけです。

よく見ると、“Argleton”のスペルはこれを入れ替えると”Not Large”になります。これは単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊び、「アナグラム」と考えることもできなくはありません。

さらにスペルを入れ替えるとこれは”Not Real G”にもなります。この場合、GはGoogleのGであるという解釈です。Googleがその名を伏せてこうした罠をかけたのではないかというわけですが、一方ではこれは、単に“Argleton”を含む村の名前である”Aughton”をスペリングミスしたものではないか、と指摘する人もいます。

こうしたいろいろな憶測に対して、Googleのスポークスマンは「我が社の情報の大部分は正確だが、たまに誤りもある」とコメントし、利用者に誤りをデータ提供者に知らせるよう勧めたといいます。

Googleマップにデータを提供しているのは、オランダに本拠を持つテレアトラス社というカーナビゲーション用のデジタルマップなどを提供する会社でしたが、同社は、このような「異常」がデータベースに混入した理由についての説明を行わず、ただいずれ「アーグルトン」は地図から除去されるだろうと述べるにとどまりました。

情報の訂正は2009年12月中旬に行われ、以降 Google Map 上でも「アーグルトン」を見つけることはできなくなりました。

おそらく現在でもGoogleマップを探し歩けば、アーグルトンのように実在しない町が世界中に存在するのでしょう。おそらく日本でも同じと思われます。

もしかして、あなたの住む町も間違った記載がされているかもしれませんし、あるいは消されているかもしれません。ぜひ一度チェックしてみることをお勧めします。