ユダという名の日本

10月です。日本では神無月ともいいます。

出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなるのでこう呼ぶのだとか。逆に、神々が集まる出雲では、この月は神在月と呼ばれます。

ではなぜ出雲なのかですが、これは中世以降、全国で最も布教活動に熱心だった出雲大社の御師(おし)たちがこの話を広めたからです。

御師というのは、それぞれの神社の広報マンのような存在で、講とよばれる結社を広めるために作られた職業です。戦国期を除いて経済が比較的安定していた時代、庶民はレジャー感覚で寺や神社にお参りをしていましたが、このとき御師の助けを受けていました。

御師は頑張って宣伝を行い、自社を援助してくれるサポーターを獲得するよう努力しましたが、このサポーターのことを「檀那」といいます。有力神社に御師職が置かれて布教活動が盛んになると、祈祷などにやってくる依頼者をこう呼ぶようになりました。神社に限らず寺院でも同じ呼び方をします。

中でも伊勢御師の活動はとくに活発で、全国各地で「伊勢講」を構築しては檀那の世話を行い、逆に彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図りました。

鎌倉時代から室町時代初期にかけては、こうしたことが全国の神社で行われるようになりました。何しろ儲かる商売なので、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続、譲渡・売買といったことがさかんに行われるようにもなります。

江戸時代になるととくに勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まり、伊勢以外では富士や出雲の御師組織がと大きくなり富士講や出雲講といった講ができました。出雲の場合、その御師が布教する場所は丹所(たんしょ)といい、これが全国に建設されるようになりました。

出雲神社の御師たちはこの丹所を発信源として、神無月には出雲以外には神様が居なくなるという説を流布しました。無論、何の根拠もあるわけではありませんが、出雲神社のような由緒ある神社の御師が言うことだから、と人々はこれを信じるようになり、その御師組織が出雲講と呼ばれるように大きくなった江戸時代には全国で信じられるようになりました。




このようにある出来事の由来について、確固たる根拠がないにもかかわらず、何等かのかたちで権威づけられ定着してしまったものを、民間語源と呼びます。

民衆語源、語源俗解、民俗語源、通俗語源などとも呼ぶようですが、広められたものが必ずしも「語」とは限らないので、民間伝承(フォークロア)と呼ぶ方が正しいかもしれません。

民間語源のこのほかの例としては、「くだらない」というのがあります。

地方へ流通していく京都・上方の物産で、特に灘の酒などのように地方産より上質とされたものは、は「くだりもの」とよばれるのに対し、そうではないものは「くだらない」とされ、つまらないものという意味で使われるようになりました。もっともらしい説ですが、これも根拠があるわけではなう、長い間にそうであろう、とされるようになっただけです。

「師走」もそうです。年末は坊さんが仏事で忙しく走り回るからこう呼ばれるようになったとよくいわれますが、こちらも民間語源のひとつであり裏付けるものは何もありません。

「邪馬台国」はなぜそう呼ぶようになったのか、というのもあります。これは、九州に上陸した大陸からの使節がこの地域の住民に、「この国の名は?」と問うたとき、彼らが九州弁で「大和(やまと)たい」と答えたというものです。笑い話のような話ですが、真に受ける人もいそうです。

似たようなものは英語にもあります。英語のアスパラガス(asparagus)がスパローグラス(スパローは“スズメ”でスズメ草)に由来するという俗説や、ヒストリー(history)がヒズ・ストーリー(彼の物語)に由来するといったものです。

語源が方角をあらわす北東西南のそれぞれを意味する英語NEWSもNorth、East、West、Southの頭文字だという説がありますが、これも民間語源にすぎません。本当は“new”が複数形化したものであり、「(複数の)新しいこと」という意味のラテン語が語源です。

民間語源が単語や綴りを変えてしまう場合もあり、島を意味する「islandアイランド」は、もとは古英語で“iland”と綴っていました。ところが、ラテン語で島を意味する「insulaインスラ」が語源であるとする俗説が広がった結果、発音には不要な“s”の字が挿入されてislandとなってしまいました。

英語を日本語に翻訳する際にできたとされる語源俗解もあります。肥筑方言のひとつである「ばってん」は、英語の“but and“または”but then“によるとする説です。これは意外にも言語学的には正しく、古語の「〜ばとて」は、「それでもしかし」という意味であり、英訳すれば”but then“です。

さらに「阿呆(あほ)」の語源は英語の「ass holeアス・ホール」であるという説や「ぐっすり」の語源は英語の「good sleep」であるという説などがあります。




このほか、日本語にはヘブライ語が多数入り込んでいるという説があります。「ジャンケンポン」はヘブライ語「ツバン・クェン・ボー(隠す・準備せよ・来い)」であり、これは「キリスト教の一切を語る秘儀」を表現しているのだそうです。

さらに、「威張る」は「バール(主人)」、「さようなら」は「サイル・ニアラー(悪魔追い払われよ)」、「晴れる」は「ハレルヤ(栄光あれ)」、ありがとうは「ALI・GD(私にとって幸運です)」などがあり、さらに、京都の「祇園」は「シオン」であるとか、「イザナギ・イザナミ」は「イザヤ」だとするなど、ヘブライ語とされる語は意外に多くあります。

実際、ヘブライ語と日本語には類似点が多いようで、そうした類似点を背景に言語学者らが「日ユ同祖論」というものを唱えました。日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放された「イスラエルの失われた10支族」の一つとする説で、日本人とユダヤ人は共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族であるというものです。

この古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族を指しています。

旧約聖書のアブラハム(紀元前17世紀)の孫はヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族です。孫で同名のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となりました。

400年程続いた奴隷時代の後の紀元前13世紀に、モーセが彼らをエジプトから連れ出しました。12支族はシナイ半島を40年間かけて放浪した末に永住の地をみつけ、200年程かけて一帯を征服していきました。そしてその地カナンにおいて、ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされました。

しかし、それを継ぐソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂して、サマリヤを首都にした10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にした2部族による南王国ユダに分かれます。

その後、北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族の指導者層は虜囚としてアッシリアに連行されました。しかし、10支族の民たちの行方はわからなくなり、このため残された2部族たちは彼らを「失われた10支族」と呼ぶようになりました。

10支族はアッシリアに征服された後信仰を邪魔されない場所に移り、このため消息不明になったのではないかと噂されましたが、その行方をはっきりと示す記録は残っていません。

一方、ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となりましたが、同胞同士で宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになりました。

そして神殿宗教ではなく律法を重んじる宗教としてユダヤ教を確立することになります。ユダ族はその後離散し、今日のようにユダヤ人と呼ばれるようになりました。そのユダヤ人たちがアメリカの援助で再び建国したのが現在のイスラエルということになります。

それでは失われた10支族はどこへ行ったのでしょうか。

旧約聖書の第4エズラ記には次のような記述があります。

「幻に現れたその群集は…九つの部族であった。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。…それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」

明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド)は、こうした旧約聖書などの記述をもとに、彼ら、あるいは彼らの一部が日本にやってきたのではないか、という説を立てました。

そして日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化し、1878(明治11)年に“The Epitome of The Ancient History of Japan(日本古代史の縮図)”を出版しました。

マクラウドは、スコットランド・スカイ島出身とされる人物です。日本に来る前は、ニシン業界に身を置いていとされています。しかし生没年含めてその出自には不明な点が多く、ただ現存する著書の献辞に「スコットランド自由教会」の聖職者が使う表現があることから同派の宣教師だったと推測されています。

マクラウドは、日本で最初の王と呼ばれていた男が“オセー”という名で、これが紀元前730年に王位に入り紀元前722年に死亡したとされるイスラエルの最後の王“ホセア”だと主張しました。

一方、日本国を建国したとされる神武天皇は紀元前660年に即位したとされています。神武天皇が“オセー”という別名を持っていたという歴史的な資料はありませんが、年代も近く時代的には合っています。

またマクラウドは、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本の鞍馬寺へ渡ったとし、またダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったと主張しました。これら古代イスラエルと日本のつながりを証明するものとして、ほかにもユダヤ教と神道それぞれの宗教儀式の類似点などを示しました。

明治後期になりこの説に英語教師の佐伯好郎や牧師の川守田英二らが同調し、1930年代には対日禁輸政策を取る米国への対応策の一環として立案された「河豚(フグ)計画」などに利用されました。

フグ計画とは1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画です。1934(昭和9)年に実業家で日産コンツェルン創始者の鮎川義介が提唱したもので、1938(昭和13)年の五相会議で政府の方針として定まりました。実務面では、陸軍大佐の安江仙弘、海軍大佐の犬塚惟重らが主導しました。

計画の内容としては、ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設するというものでした。しかし日本はその後ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めていったために計画は形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり、しまいには頓挫しました。

「河豚」の呼称は、1938年に行われた犬塚大佐の演説に由来します。ユダヤ人の経済力や政治力を評価していた犬塚ですがその一方で「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」とし、美味ではあるものの猛毒を持つ「河豚を料理するようなものだ」と説明したのです。

この当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、一方、日本の満州国建国などによってアメリカと日本との外交的対立は先鋭化してきていました。そこで同計画書において提示されたのが、世界に散らばるユダヤ人とアメリカの双方の関心を惹く方法でした。

具体策としてはアメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教と神道との類似点をラビに紹介するといったことやユダヤ教を日本人に紹介して理解を深めてもらうといった案が浮上しました。そしてこれを実践していく上において、日ユ同祖論はうってつけの背景論でした。

結果としてこの計画はとん挫しましたが、第二次大戦後、新宗教団体の「キリストの幕屋」(1948年設立)が再びこの説を支持してイスラエルに接近しました。1970年代には英文冊子を作成して同国大統領に進呈するなどして同説を広め、さらに在米ユダヤ人ラビ(ユダヤ教における宗教的指導者)のマーヴィン・トケイヤーがこれを大々的に宣伝しました。

トケイヤーはラビとして渋谷の日本ユダヤ教団に勤務し、1976年まで日本に滞在してユダヤと日本の比較文化論を研究していた人物です。ヘブライ語を話す皇族の三笠宮崇仁親王と親交を結び、親日家として知られていたため、彼が唱える日ユ同祖論は反響を呼びました。




以上のようにマクラウドやトケイヤーといった人物によって提唱されたのが日ユ同祖論において指摘された日本人とユダヤ人文化の類似点は多数にのぼりますが、以下にはその代表的なものを筆者の独断で整理してみました。

皇室や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持つが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章である。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があり、天皇の王冠には一角獣が描かれていたとされる古文書がある。

現在でも京都御所清涼殿昼御座奥の御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれており、天皇の即位に用いられる高御座の台座には獅子と一角獣(麒麟)と思われる絵が描かれている。

仁徳天皇陵とマナの壷

仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(jar of manna)を形取ったものではないかと考えられる。陵墓には壷の取っ手とおぼしき膨らみが認められ、また鍵穴のように見えるが、向きを変えれば壷のようにも見える。

そもそも前方部が台形で後方が円と考えれば、これはマナの壺を象ったものとも考えらえる。鍵穴という解釈は、長い時間を経て誤った認識が持たれるようになったものである。

神道の儀礼・様式

日本もユダヤも水や塩で身を清める禊の習慣がある。また、ユダヤ教では祭司がヒソップ(ヤナギハッカ属の香草)という香草や初穂の束を揺り動かしてお祓いし、日本の神社の神官も榊の枝でお祓いをする。

ユダヤのお祓いは、イスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念し、ヒソップで子羊の血を門に塗り、浄化したことに由来する(過越しの祭り)。日本では古来から植物には神が宿ると考えられており、榊の枝先に神が降りてヨリシロになると考えられたことに由来する。

それぞれ由来は異なるが、両者とも神社(神殿)において植物を用いてお祓いを行い邪気を払うといったところに類似点がみられる。なお、ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りは似ている。

神社の施設の様式

イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である幕屋や古代イスラエル神殿(エルサレム神殿)では、入口から、洗盤(水で洗う場所)、至聖所、聖所 と並んでいる。神社においても、入口から手水舎、拝殿、本殿 と並んでおり、構造が似ている。

古代イスラエル神殿は木造建築であり、建築後に賽銭箱が備えられた。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、神社にも赤色の神社がある。生後30日ごろに赤ちゃんを神社(神殿)初詣でさせるお宮参りの習慣は、日本とユダヤにしか見られないものである。

正月の鏡餅

日本の正月とユダヤの過越しの祭(後述)はよく似ている。過越しはユダヤの祭日のうち最古かつ最大の行事であり、新年の祭りでもある。日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。過越祭は全部で7日間と規定されており、日本の正月と同期間である。

過越祭の日だけは普段と食べるものが違う。普段はふっくらとしたパンを食べるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう餅に似ている。丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるという風習は、同じく餅を重ねて飾る鏡餅(かがみもち)と似ている。

赤い(朱塗りの)鳥居

トリイは、ヘブライ語のアラム方言で門という意味であり、日本の神社のトリイ(鳥居)と音が同じである。過越の前にはヒソップで羊の血を門に塗るという風習があることから、これが日本の朱塗りの鳥居となったと考えられる。

なお、羊の血を門に塗った理由は、エジプト脱出の前日、“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来たため、モーセが、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせて災いを防いだことに由来する。モーセはこのとき災いが通り過ぎるまで静かに家の中で待つように指示したが、これが「年越し」のルーツになったと考えられる。

アーク(聖櫃)と神輿

古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。アークはモーセが神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱である。全体に黄金が貼られており、旧約聖書」の“出エジプト記”にはそうしたアークの作り方が書かれていて、それは日本の神輿の作り方と似ている。

また、アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿もその上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が配されていて大きく羽を広げている。

さらにアークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、神官が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てる習慣があり、日本にも同様の風習がある。アークを担ぐための2本の棒は絶対に抜いてはならないとされており、祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されている。日本の神輿の担ぎ棒も差し込んだままである。



以上のように、日本古来の神道に関する造作物や習慣には、旧約聖書を緒元としたユダヤ文化とよく似たものが多くみられることが、日ユ同祖論の根拠となっています。ほかにもここには書かなかった多数の類似点があります。

そうしたユダヤ文化が日本に入ってきたのが本当だとして、それでは、その文化を持ち込んだのは誰なのでしょうか。かつての失われた10支族が、直接日本にやってきてそれらをもたらしたのでしょうか。

実は古代の日本において“秦氏”と呼ばれていた一族がその古代イスラエルの失われた10支族の末裔ではないかという説があります。

秦氏とは、4世紀後半、第15代応神天皇のときに、大陸から渡来してきたと考えられている一族で、この時数千人とも1万人ともいわれる多数の人々が日本に帰化してきたとされます。その一部は大和(奈良)の葛城に、多くは山城(京都南部)に住みましたが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったとされます。

日本に定住後、秦氏は非常に有力な一族となり、794年に作られたとされる平安京は、事実上この秦氏の力によって完成したといわれています。仁徳天皇陵のような超巨大古墳の建築にも秦氏の力が及んでいたと考えられており、この陵墓とユダヤのマナの壷の類似点は上で述べた通りです。

京都の八坂神社もまた秦氏の本拠地といわれています。八坂神社を信奉する氏子たちが奉じる祇園信仰の風習には、古代ヘブライの信仰のものと類似している点がいくつかあり、そのひとつが「蘇民将来」という護符です。

八坂神社で祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与され、これが「蘇民将来の護符」と呼ばれるものです。

厄除けのご利益があるとされ、紙札、木札、茅の輪、ちまき(円錐形)、角柱など、さまざまな形状・材質のものがありますが、共通点としては「蘇民将来」の文字と「晴明紋」が記されていることです。晴明紋とはすなわち、ユダヤ教のシンボルである五芒星であり、別名ダビデの紋章といわれるものです。

また八坂神社の八坂(Yasaka)は、10支族の一つであるイッサカル族のアラム語における呼び名、“Yashashkar(ヤシャッシュカル)”が語源とする説もあります。こうしたことが秦氏が日本にユダヤ文化を持ち込んだのではないかとする根拠となっています。

もともと秦一族は、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、アッシリア王国(現在の北イラクあたりにあった)が興隆した以降、中東の共通言語となったアラム語を話していたとされています。

弓月国があった場所は、現在の中国とカザフスタンの国境付近と推定され、その都は、現在の中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区北西部の伊寧(いねい)付近にあったとされます。弓月国には、ヤマトゥ(ヤマト)という地や、ハン・テングリ山という山がありました。

「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味です。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされますが、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来してきたとされます。

5世紀末には渡来者は2万人規模になったといい、このころの有力豪族の長であった秦酒公(はたのさけのきみ)もまた弓月国からやってきたと考えられています。

秦酒公は日本酒の醸造技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされ、さらに絹の製造技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕えました。とくにハタ織りなどの絹事業で財をなし、有力豪族となっていきました。

この秦氏が根拠地とした地は太秦(ウズマサ)と呼ばれるようになり、これはアラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)に相当し、インド北部ではユズマサと発音します。また、ヘブライ語ではヨシュア・メシアと発音され、これは選ばれた者ヨシュアを意味し、ギリシャ語ではイエス・キリストのことです。

日本書紀(720年成立)には、皇極天皇(642〜645)に関する記述があり、この中でこのウズマサ(キリスト?)を信仰する豪族として秦河勝(はたのかわかつ)という人物が登場します。秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子にも強い影響を与えた人物ですが、秦酒公と同じく弓月国からやってきた帰化人と考えられます。

秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)は、のちに伎楽面(ぎがくめん)として仮面舞踊劇伎楽(ぎがく)で用いられるようになりましたが、この面はユダヤ人などの異国人のようであり、天狗のように鼻が高くなっています。

秦大酒のほうは748年、大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれています。秦河勝と同様に京の太秦を本拠地としていましたが、国内で勢力を伸ばすにつけ、その一派は大分の宇佐に住むようになり、一説にはこの地の神、ヤハダ神を信仰したことがのちの八幡神社宇の創設につながったともいわれます。

このヤハダはアラム語では、“YHWDH”と書き、語源は“Yahawada”で、失われた支族のユダ族を意味します。つまり、ユダ/ユダヤの語源でもあります。

宇佐に定着した秦氏の一族は八幡神社を創設しましたが、これが712年に官幣社(朝廷の正式神社)となり、現在までも受け継がれている宇佐神宮です。現在、全国にある八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けている神社です。

この八幡神社(宇佐神宮)は秦大酒が大蔵長官になった翌年の749年頃から急に勢力を持ち始め、やがて奈良の平城京に上京するとともに全国にその分祀が置かれるようになりました。このころはじめて神輿を作成したとされ、それのもとになったのがアークではないかというわけです。

上でもふれたとおり、秦氏は平安京の造成に尽くしたとされます。794年に行われたこの平安京遷都は仏教勢力から逃れるためだったとも言われています。その直後に京都で祇園祭が始まっていますが、祇園信仰の風習には蘇民将来の護符などがあり、これが古代ヘブライ由来のものと考えられるといったことも上で述べました。

また、「山城国風土記」に記述がみられる秦氏の豪族のひとり、秦伊侶具(はたのいろぐ)は、稲荷神社の創設者といわれています。「イナリ」という発音は、“JNRI”または“INRI”ではないかとされ、これはユダヤの王・ナザレのイシュア(ヨシュア)であって、ローマの公用語であったラテン語ではイエス・キリストを意味します。




秦氏は伊勢神宮の遷宮にも関与したとの説もあります。現在伊勢市に鎮座する伊勢神宮は現在地へ遷る前には、平安京内にある「元伊勢」に一時的に祀られていたと考えられており、元伊勢のひとつとされる松尾大社(京都府京都市西京区)は秦氏の一族のひとり、秦都理(はたのとり)が創建しました。

この松尾大社は、松尾神を酒神として祀っています。松尾大社の由緒には、これは渡来種族である秦氏が酒造技術に優れたことに由来すると書かれており、上で述べた「秦酒公」との関連が指摘されています。

さらに京都太秦の大酒神社は、その名も「ウズマサ明神」を祀っていますが、古くは大辟神社(おおさけじんじゃ)と書き、大辟は中国語でダヴィと発音することから、ダビデ紋章、ダビデ王との関連が取沙汰されています。

このようにかつての平安京であった京都には秦氏や古代ユダヤにまつわると考えられる数々の痕跡があり、この当時の天皇家がその影響を受けたことは確かです。平安京に遷都をした桓武天皇は古代ヘブライの燔祭(はんさい)の儀式を行なっていたという説もあります。

この儀式は、古代ユダヤ教における最も古く、かつ重要とされた儀式で、生贄(いけにえ)の動物を祭壇上で焼き、神にささげるというものです。秦氏が持ち込んだ風習に違いありません。

平安京当時の遺跡からは、「六葉花」という六角形の花の文様を形どった瓦があちこちから出土しており、平安京のシンボルとして多用されていたのではないかとする説があります。現在の京都府や京都市の府章・市章は、その平安京のマークを図案化したものだといわれており、これもまたダビデの紋章(六芒星)が原案だと言われています。

さらに、平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム(平安の都)」であり、これすなわち、古代イスラエルの都ヘブライの聖地「エル・サレム」です。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京とよく似ています。ただ平安京は中国の洛陽を建設のモデルにしたという学者が多いのは確かです。

このように日本とユダヤの歴史的・宗教的な類似点を列記してくると、かつての失われた10支族の末裔が秦氏であり、その秦氏の血が元からの日本人と混じりあって現在に至っているというのは本当のことのように思えてきます。

実は、こうした類似点を背景に、分子人類学的調査も行われています。これは分子生物学を人類研究に応用して、ヒト集団の遺伝的系譜やその多様性、疾患との関連性を検討するものです。その方法のひとつは、ヒトのDNAや、人から人へと感染するウィルス(JCウイルスタイプなど)を民族的に追跡するというものです。

現代日本人を対象として行なわれたDNA調査の結果によれば、日本人の1~2%に白人系遺伝子が存在している可能性があるとされており、JCウイルスタイプによる調査でも、北海道を除く日本人の約2%に白人系JCウイルスタイプが見られたといいます。

ただ、白人といってもそれがユダヤ人と証明されたわけではなく、こうした結果だけで、日ユ同祖論を証明することはできません。しかし、日本とユダヤの文化類似を考える上では興味を引かれる研究結果といえます。

とはいえ、日本人とユダヤ人のルーツが同じであるとする説は、一般的にはあまりにも突飛なかんじがしますし、学問的見地からも見直す余地が多数あるとする指摘もあります。当然でしょう。

日本にはヘブライ語やアラム語などの古代の中東言語を専門的に比較、研究する大学や公的機関はありません。このため単語や音に類似を見つける事が出来ても検証不足で、関連を決定付ける事は不可能だという研究者もいます。



ただ、日本の文化とユダヤの文化の両方を知る識者の中には、感覚的に日本民族とユダヤ民族の民族性は良く似ているとする人も多くいます。キリスト教思想家で聖書学者だった内村鑑三(1861~1930))やイスラエルの歴史学者でヘブライ大学名誉教授、イスラエル日本学会名誉会長のベン・アミー・シロニー(1937~)などがそうした人たちです。

アメリカに留学し、英語にも堪能だった内村は「代表的日本人“Representative Men of Japan/Japan and the Japanese”」という本を書いており、この中で幕末の志士たちが信奉していた陽明学はキリスト教に近いものだと説明しています。形骸化したそれまでの朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いたのが陽明学です。

江戸時代の支配層は保守的で普遍的に秩序志向にある朱子学を好み、このためキリスト教に近い考え方をする陽明学を弾圧したとする研究もあります。実際、体制に反発する人々に好まれ、正義感に囚われて革命運動に走った者の中に陽明学徒が多かったのは事実です。

大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新の志士を育てた長州藩の吉田松陰も陽明学者を自称していました。西郷隆盛もまた陽明学に影響を受けていたと内村鑑三は書いており、その西郷無しには維新革命は起こらなかったでしょう。

陽明学に似ているとされるキリスト教とユダヤ教は現在では異なる宗教とみなされていますが、同じく古代ユダヤにルーツを持ちます。そうしたユダヤ的な感覚が幕末・明治以降、日本を変える原動力になったとすると、やはり日本人にはそうした血が流れているのだなと、素直にそう思えたりもします。

かつての失われた10支族である北王国の民は、鋳造の「金の子牛」の像を神前において王国の祭祀の拠り所としていたそうです。

神の命を受け、偶像崇拝を諫める立場にあったモーセはこれを怒り、金の子牛を燃やしてしまいました。そしてそれを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた上で、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じました。このとき死んだ民衆の数は3千人に及んだといいます。

もし、そうした北王国の民の血を継いでいるのなら、きっとあなたも金の子牛が好きに違いありません。あなたの家にあるのはもしかしたら豚の貯金箱かもしれませんが、そっとそれを胸に押し当てて目を閉じてみてください。金の子牛が脳裏に浮かんで来たら、きっとあなたの前世はユダヤ人に違いありません。