箱根の関所

芦ノ湖スカイラインより元箱根方面を望む

先週、お天気もよかったので、タエさんが行ったことのないという箱根の大涌谷方面へ出かけてきました。

修禅寺の我が家からはいつも箱根の駒ヶ岳が見えるのですが、大涌谷はこの北側の裏手にあたり、ここへ行くには国道一号線で箱根峠まで上がり、ここから芦ノ湖スカイラインで北上するのが最短です。

この日はほぼ快晴で、芦ノ湖スカイラインの各所にある展望所からは富士山はもちろん、駿河湾や芦ノ湖も一望の絶景がみられ、大満足したことは言うまでもありません。

この芦ノ湖スカイラインは芦ノ湖の西側の箱根外輪山の稜線上を通っているため、ここからは芦ノ湖越しにその湖岸にある箱根の関所も見通すことができます。

ご存知の方も多いでしょうが、箱根関はかつての東海道にあった関所です。海沿いを走る東海道を通って江戸へ入るためには、この関所のある箱根峠を越えるか、さらにその北側にある足柄峠が最短です。厳密にいえば足柄峠を通ったほうが関東へは近くなりますが。

芦ノ湖の北側にあるのが足柄峠で、南側が箱根峠。前者には東名自動車道が通っており、後者には国道一号線が通っています。

そのさらに南側には熱海峠があり、ここを超えても関東に入ることはできます。が、距離的にはかなり遠くなるため、その昔から江戸へ入るには箱根峠か足柄峠を通るルートがポピュラーでした。

こうした位置関係は、地図を見れば一目瞭然なのですが、どうしても頭の中では熱海のほうが近いのでは……と思ってしまいます。が、実際に地図をみてください。足柄峠か箱根峠を越えるほうが旅程はより短くすむのがわかります。

箱根に最初に関所が設置されたのがいつごろのことなのかについては定かではないようですが、律令期には箱根峠を経由する「箱根路」が開設されていたようで、この当時既にその路上に関所が設置されていたといいます。

この箱根路は足柄路とともに、古くから関東防衛のためにはもっとも重要な役割を担っていたようで、平将門が坂東(関東)で乱をおこしたときにも、西からの討伐軍を抑えるため将門は箱根に兵を派遣してこれを封鎖しています。

源氏と京都の朝廷がその覇権を争った「承久の乱」の際にも、執権の北条義時が鎌倉幕府の御家人を箱根路・足柄路へ出し、この関を固めて関西からの官軍を迎え撃ち、これを退けています。

その後の室町幕府も、鎌倉府に箱根に関所を設置させています。ただ室町幕府はただ単に人の出入りの制限のために関を設けていたのではなく、この関所で「関銭」を徴収することを目的としていました。そしてそれで得た収入で、1380年(康暦2年)には、鎌倉の円覚寺の修繕をしています。

その後戦国時代になり、北条早雲の後北条氏が芦ノ湖の南側の山中に山中城を設置し、この山中城に関所の機能を吸収しました。これも地図をみないとわかりにくいのですが、この山中城は箱根峠よりもかなり沼津側に下ったところの東海道(国道一号線)沿いにあります。

現在、きれいに整備されていて公園になっていますが、その当時はかなり広大なお城だったようで、関所を兼ねていたのです。

その後、後北条氏は秀吉によって滅ぼされ、さらにこれを継承した江戸幕府は、箱根峠のすぐ東側を小田原へ向かって流れる須雲川沿いに新道を切り開き、これを「箱根八里」と称して東海道の本道として整備しました。

そしてこの新道の北側の、芦ノ湖の湖畔にある「箱根神社」の位置に当初の関所を設置しました。ところが、この地が神社の社域であったことなどから、これに対してここに住む住民が猛烈に反発したため、関所をもう少し南側に移し、ここに新しい町である「箱根宿」を設置しました。

この箱根宿にあった関所跡は現在きれいに整備されていて、関所の復元はもちろん、この当時の資料などが展示されている博物館(箱根関所資料館)なども併設されていて箱根観光の中心的存在になっています。

大きな駐車場もあるためいつ行っても観光客であふれていますが、正直言って関所と博物館以外にはあまり見るところもありません。富士山の眺めもイマイチ、というかそもそもこの関所跡の位置からの富士山は頂上付近しか見えなかったように思います(間違っていたらスイマセン)。

この箱根関所を管理していたのは、幕府譜代の大藩である小田原藩でした。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路であったため、外様藩などには任すことができなかったためです。

通行時間は明け6つから暮れ6つまでで、これは冬至のころならば明け方6時くらいから夕方5時ぐらいまでで、夏至のころなら朝の4時から夜の7時くらいに相当します。ようするに明るい時分だけ通行可能だったようです。

夜間通行は原則禁止されており、しかもいわゆる、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていました。

ご存知の方も多いでしょうが、これは江戸に入ってくる鉄砲、つまり「入鉄炮」と、大名の家族の女性が江戸より出て行かないように江戸から外に出て行く女、すなわち「出女」を特に注意して取り締まった交通政策です。

もう少し補足すると、入鉄炮には老中が発行する「鉄炮手形」が必要であり、出女には留守居が発行する「女手形」の携帯が義務付けられており、この手形がないと関所の通行はできませんでした。

鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、関所に備え付けられた「判鑑」によって手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認したそうで、その上さらに鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかが確認された上でないと通過が許されなかったといいます。

また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持などの検査も厳重に行われたそうです。ところが、逆に江戸からの鉄砲の持ち出しについては、意外にも簡単な検査しか行われなかったといいます。

出女のほうの改めも厳しいもので、女性が関所の外側(地方)に出る際の女手形の提出はもちろん、入鉄砲と同じく「判鑑」で幕府留守居の印鑑が本物であるかどうかをチェックしました。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていたといいます。

こうした出女のチェックは現在の浜名湖の西側にある「新居関」などの他の関所でも行われていましたが、江戸により近い箱根関の場合は特に厳しかったらしく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)まで常駐させて、出女をじっくりと観察したそうです。

この検査はかなり厳重なもので、髪の毛の有無や身体的特徴、とくにほくろの有無や妊娠の有無などについてまで吟味が行われたということで、さらには男装していないかを見破るため、男に対しても同じ検査をしていたという記録もあるということです。

これはこの当時の通行手形の発行手続は男性のほうが簡単だったためで、女が男のふりをして手形の発行を受ける可能性があったためです。「男装の麗人」は簡単には通過できなかったわけですが、おかまさんはどうだったのでしょうか。

ただ、伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があったそうで、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものとみなされて簡単な手続で済ますこともあったといいます。

とはいえ、基本的には通行手形がないと通行ができず、これを持たずに強行突破をするいわゆる「関所破り」はかなり重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔(はりつけ)にされるなどの厳罰が課されました。

ただ、幕末にもほど近い文久年間のころには改革によって参勤交代が緩和されるようになり、これに伴い関所での手続は大幅に緩和され、「女手形」の発行手続きも簡素化されました。さらに幕末の1867年(慶応3年)には手形が廃止され、事実上関所の通行は自由になり、関所改めもなくなりました。

1686年(貞享3年)ころの小田原藩の職制の記録によれば、箱根関所は番頭1・平番士3の侍身分の番人のほか、小頭1・足軽10・中間2の「足軽」身分の者、そして定番人3・人見女2・その他非常用の人夫などから運営されており、常時20人以上の番人がいました。

侍と足軽身分の者はすべて小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務しましたが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用されたといいます。侍と足軽身分の者の手当ては小田原藩が負担しましたが、これらの農民に対する手当は幕府が肩代わりを行ったといいます。

箱根関所には常備付の武具として弓や鉄砲、槍などが常備されていました。その数も、弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具(突棒・刺股・袖搦)1組・寄棒10などなどきちんと決められていたといいます。

しかし、これは関所に立てかけて置いてあるだけだったそうで、ほとんどが旅人を脅すためだけの示威目的のものでした。火縄銃にも火薬は詰めておらず、弓は置いてあるものの矢は常備されていなかったことなどが記録として残っています。

関所内には主たる番所のほか、番士の詰所や休息所、風呂場まだあったそうで、このほか牢屋や厩、高札場などが設置され、これらすべてが柵で囲まれていました。また、関所裏にある屏風山という山には「遠見」のための番所が置かれ、芦ノ湖南岸にも「外屋番所」という監視所が設置されました。

そのほか、周囲の山林は幕府によって要害山・御用林の指定を受けており、そこを通過して関所破りを行おうとした者は厳罰に処せられました。実際に現地へ行ってみるとわかるのですが、この関所とその周辺の山々はかなりの高所にあるため見晴らしがよく、監視の目をくぐってこれらの場所を通過するのはかなり厳しいのではないかと思われます。

ただ、これより北側の足柄峠や南側の熱海峠側は比較的標高が低く、獣道などもあったと思われることから、秘密裡にこれらのルートを通って江戸へ出入りする「隠密」なども少なからずいたのではないかと推察されます。確たる資料があるわけではありませんが、所詮は街道筋の関所だけで人やモノの出入りを完全にシャットアウトするのは不可能です。

しかし、この辺のことは幕府もご承知だったらしく、できるだけその穴を埋めるべく箱根関所以外にも主要な街道筋(脇往還)には別の関所を設けています。

そのひとつは、芦ノ湖のすぐ北側の仙石原付近をとおる「箱根裏街道」に設けられた「仙石原関」であり、さらにその北側の足柄峠を通過し、丹沢の南側方面へ抜ける「矢倉沢往還」には「矢倉沢関」が設置されました。この「矢倉沢往還」は現在の国道246号とほぼ並行して通っていました、

芦ノ湖の南側の熱海峠を越える「熱海入湯道(熱海道)」には「根府川関」などが設けられ、箱根関以外には全部で5ヶ所の関所が設置されています。

このうち箱根関は、江戸幕府直営の公式な関所とされ、他の5つの関は「脇関所」として位置づけられ、厳重に出入りがチェックされました。ただ、前述のようにこれ以外の経路を通過することはけっして物理的に不可能ではなかったようです。

とはいえ、万一これらの関所を通過しない経路を無断に通行しているのが発見された場合、その行為自体が「関所破り」「関所抜け」とみなされ、厳罰に処せられました。

これらの関所は、明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したとき、同じく廃止されています。いずれの関も、もともと大した構造物もなかったことからその当時の形跡はほとんど残っておらず、私もすべての関所跡を見たわけではありませんが、史跡として整備されているのは観光目的で復元されたこの箱根関くらいのようです。

が、もともと関所というのは狭隘な場所に造られているものです。なので、この場所も、特段眺めが良いわけではなく、観光場所としては今ひとつぱっとしません。

あまりつまらん、つまらんと書くと、箱根観光協会からお叱りを受けるかもしれませんので少しフォローしておくと、この関所の南側には観光船の船着き場があり、ここから出る観光船に乗ると、芦ノ湖周遊船が出ています。乗船料を払わなければなりませんが(北端の湖尻までたしか。1000円くらいだったと思います)。

関所の北側には「関東総鎮守・箱根権現」といわれた壮大な箱根神社もあります。こちらは無論入場料はいりません。かつて総鎮守であった箱根神社の存在感はこの地域においては非常に大きく、吉田茂を始めとする政財界の大物が参拝したことで知られています。

この箱根神社の北東側にそびえるのが「駒ヶ岳」であり、山頂まではロープウェイが通っており、ここからは西の駿河湾はもちろん、東の小田原方面も見渡せる絶景がみれます(こちらの運賃も往復千円くらいのはず)。山頂には先の箱根神社の奥宮(元宮)もあり、山塊自体が境内になっています。

このほかにも先日のブログでも書いた曽我兄弟のお墓や、精進池、お玉ケ池といった小スポットもあり、更に足を延ばせば大涌谷もほど近く、これらをつぶさに見ていこうとすると一日では足りません。

……とまあ、このくらい書いておけば観光協会さんからもお叱りは受けないでしょう。

以上が箱根の関所にまつわるお話です。あまり目新しい話でもないのですが、私自身、地図を見ながらこれを書いていて、長年、箱根の関所ってなぜこんなへんな場所にあったのだろう、と疑問に思っていたのが解消されました。

他の関所があった場所も、地図を見比べながら確認してみるとなぜそこに関所があったのか理由が分かると思います。多くは現在の主要幹線の途中にある場所であり、その幹線道路が遮断されることを考えると大いに不便になることがわかります。

先日の笹子トンネル事故もしかりです。現在、このトンネル一本が不通になっていることで、地域経済への打撃は相当なものになっているそうです。

もし、今富士山が噴火したら、これらのかつての関所があった幹線道路のほとんどが通行不能になることも考えられます。関東と関西をつなぐ大動脈の分断は、東北の大震災以上に我が国の経済に影響を及ぼす可能性があるといわれています。

普段はごく当たり前に通っている道でもそこが自由に通れなくなったときのことを考えると、そのありがたみが増します。そうしたことを考えると江戸幕府がこれらの関所を重視していたわけもわかるような気がします。

関所のあった時代に少し思いを馳せ、普段自由に通っている道のありがたみをあらためてかみしめてみましょう。

金太郎 vs 酒呑童子

昨日は、箱根山のことを書きました。その箱根山の火山群の最北端には、金時山という山があります。いわゆる「箱根外輪山」に属する山ではなく、富士山の宝永火山と同じく、古箱根火山の山腹から噴火した寄生火山であり、他の外輪山とは成因が異なります。

このため外輪山の他の山とは異なった特徴的な山容をしており、外輪山からイノシシの鼻が飛び出したように見えることから、その昔は「猪鼻嶽(いのはなだけ)」と呼ばれていました。しかし、江戸時代になって、「金太郎」がこの山で山姥に育てられたという伝説ができ、このころから金時山と呼ばれるようになりました。

足柄山という呼称もあるようですが、足柄山とは、本来、金時山から足柄峠に至るあたり一帯をさす名称です。が、地元では金時山を足柄山と呼ぶ人も多いそうです。

その山頂からは、天気が良ければ南方向に箱根の山々が見え、また、北方向には富士山や丹沢山地、遠くは南アルプスや八ヶ岳まで望むことができ、日本三百名山にも選定されています。その昔、若いころに私も登ったことがありますが、山頂付近のすすきの原をバックに見える富士山や箱根の山々は雄大で、こんなきれいなところがあるのか、と感動したのを覚えています。

金太郎?

さて、この金太郎ですが、その本名が坂田金時(さかたのきんとき)といわれるのですが、実はこの人物がほんとに実在したかというと、かなりそのへんが怪しいようです。そもそもは、金時山のふもとにある、静岡県駿東郡小山町の金時神社(坂田金時が祭られている神社)に記された記録から出ているお話のようですが、どうもこの記録は江戸時代にねつ造されたものではないか、というのがもっぱらの観測です。

そもそも「金太郎」なる名前からして怪しいといわれています。専門家さんによれば、江戸時代にあって、この金太郎というような名を幼名として使うということがまずあり得ないということで、むしろこういう名前は、この当時の人が成人したときに好んでつけた名前だといいます。

また、本当に有名な武将だったのならば、何かの戦争での武勲みたいなものが残っていてもよさそうなものですが、そういった具体的な史料は金時神社の記録以外にはまったく見つかっていません。

しかし、金太郎が長じたのちに仕えたという実在の人物、「源頼光」と同時代に生きた「藤原道長」の日記、「御堂関白記」などの史料には、「下毛野公時」という人物が登場しています。御堂関白記によれば、この「公時」は、近衛兵として道長に仕えており、かなり優秀な人物だったようで、この「公時」が「金時」に脚色されていったのではないか、といわれています。

道長の時代から100年ほどの12世紀ごろに成立したといわれる「今昔物語集」では、「公時」の名の郎党が、頼光の家来として登場しており、このとき既に、「公時」の主(あるじ)が道長から頼光にすり替わりっています。

足柄山で生まれ、山姥に育てられて大きくなり、熊にまたがって馬の稽古をしたという金太郎伝説が箱根を中心として地域で定着したのは、これからさらに500年も経ったあとの江戸期と考えられます。伝説というよりも、おとぎ話、あるいは民話のようなものだったでしょう。

そして、そのおとぎ話と今昔物語はまったく関係がありません。しかし、それまでに語り継がれてきた金太郎伝説が、源頼光の部下であったという坂田金時の幼少時代の姿と一致したとき、坂田金時=金太郎という方程式が成り立ったと考えられます。

それまでは単なるおとぎ話であったものが、坂田金時という実在の人物に形を変え、頼光を主とする怪力の武者として江戸の人々の間にそのイメージが定着していったようです。その後の酒呑童子の退治のお話を作り上げるにあたっても、幼少のころに怪力だったという金太郎のお話を持ち出すのは好都合のことだったでしょう。こうして坂田金時の人物像というものが完成するのです。

坂田金時

金太郎変じて、坂田金時の出世話は、ひとつではなく、いくつも存在します。元は同じ話が伝承されるうちに、形を変え、いろんなバージョンができあがったものと考えられています。

現在伝えられているもので、最もその原型に近いとされるものが、金時山のふもとの静岡県駿東郡小山町にある金時神社の古式縁起に記されたものですが、これすらももともとのオリジナルなのかどうかわかっていません。

しかし、坂田金時の話をするときには、やはりこれが一番オーソドックスなもの、ということのようなので、以下、これに基づいて、坂田金時を語っていきましょう。

その記録によると、坂田の金時は、965年(天暦10年)の5月に誕生したということになっています。金時は、そもそも武士ではなく、彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供で、いわば私生児です。

つまり、隠し子であるわけですから、京都八重桐は故郷に帰り金太郎を産むことになります。しかしその後、坂田蔵人が亡くなってしまったため、八重桐は京へ帰ることをせず、その子を自分の故郷である金時山のふもとの地で育てることにしました。

ちなみに、母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で、赤い龍が八重桐に授けた子というような民話のようなお話もあるようですが、これらは金時神社の縁起には記されていません。金時神社縁起は結構、まじめなお話としてまとめられています。

成長した金太郎は、足柄山の野山で大きく成長し、ときには熊と相撲をとれるくらいまで力持ちになりましたが、一方では母親に孝行する元気で優しい子供に育ちました。そして運命の天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となります。

そして、頼光から、坂田金時と名前を貰って改名し、京にのぼり、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の「四天王」の一人となるのです。

やがて、四天王の一人として数々の戦で手柄を立てた坂田金時は、永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)というところに住む、「酒呑童子」を退治します。金時が立てたもっとも有名な手柄といわれます。

ちなみに、こうした年月日などの日付までが詳しく書いてあるのが金時神社の記録の特徴です。が、架空の生き物である鬼を退治した日付まで詳しく記録が残っていること自体が、ウソ臭く思えます。これがウソだとすると、ほかの記録もすべて信憑性を失います。

おそらく、鬼退治の部分さえなければ、多くの人は坂田金時は実在の人物と思ったに違いありません。それでもあえて鬼を登場させたのはやはり、これをもって「神社」という存在の神格性をアピールしたかったからでしょうか。坂田金時を神様として祀っている以上、鬼ぐらいは退治してもらわんと示しがつかん、と思ったのかもしれません。

さて、それはともかく、無事、その生涯最大のミッションを終えた坂田金時ですが、寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田荘(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去します。

享年55才。勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬りました。

この神社は現在、栗柄神社と称して、岡山県に実在します。勝田荘の人々が建てたという「金時塚」の上に金時を祀る社をかまえ、当初、倶利伽藍権現と称えていたようですが、明治元年、栗柄神社と改称し、明治16年に社殿を改築しています。

中後自動車道に「勝央」というSA(サービスエリア)がありますが、栗柄神社はこの勝央にあり、毎年8月、「勝央金時祭」というお祭りが行われています。江戸時代から続くお祭りということです。

スーパースター金太郎

さて、まるで実際にいたかと思わせるように神社まで作ってあるのですから、江戸時代の人々も、さすがにこれを信じたでしょう。スゴイぞ!墓(神社)まである!本当だったんだ!と驚いたに違いありません。しかし、この金時神社で祀られているのが本当に坂田金時なのかどうかは、誰にもわかりません。金時人気にあやかって、ある時からその地域の氏神様を金時にしてしまったのかもしれないからです。

しかし、こうして「実在の人物」になっていった坂田金時のお話は、江戸でも評判の物語となり、やがては浄瑠璃や歌舞伎にまで作られるようになります。歌舞伎の演目に登場する人物は、この当時としては、スーパースターであり、ほんとにいたのかな?と思う人がいたとしても、それをいまさら本当にいた人じゃないよ、などと言える雰囲気ではなかったと思われます。いや、実在の人物であろうがなかろうが、お話さえ面白ければよかったのでしょう。

そして、やがて坂田金時の幼少時の姿は、鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルにもなり、この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶようになります。金太郎は、丈夫に育つ男の子のシンボルとして、日本中に浸透していったのです。

酒呑童子

……ということで、ウソで塗り固めた、とまで言うと原作者に対して失礼かもしれませんが、長い歴史の積み重ねにおいては、虚実もまた真実になっていくというのはよくあることです。ま、ウソといえども、一応よくできたストーリーでもあり、おとぎ話みたいなものと考えれば、腹も立ちません。

ところで、金時のことよりも、このおとぎ話の中で金時に退治されたという「酒呑童子」というのが、どんな妖怪だったのか、気になってきました。そこで、調べてみると、やはり坂田金時と同じく、いろんな描きかたをされているようです。

しかも、坂田金時以上に、そのお話が各地に広がっていて、その出生のお話からして、少なくとも五つ以上のバージョンがあります。これらをひとつひとつまとめるのはやっかいなので、そうした整理はまたの機会に譲るとして、最後にその酒呑童子がどうやって坂田金時にやっつけられたか、というくだりだけまとめましょう。

酒呑童子は、丹波国の大江山(現京都府丹後半島)、または京都と丹波国の国境の大枝というところに住んでいたとされる鬼の頭領です。酒顛童子、酒天童子、朱点童子とも書かれます。

お話としては、その本拠は大江山だったというものが多いようで、その大江山にある龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたといいます。

前述したように幼少期の伝説は掃いて捨てるほどあるので略しますが、その一つでは、酒呑童子は、八岐大蛇(やまたのおろち)の息子だそうで、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境にある山)の麓で、スサノオの尊と戦って敗れ、出雲国から近江へと逃げたとき、そこで富豪の娘との間に生まれた子だそうです。

やがて、大きくなって京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従える親分鬼になり、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたといいます。

あまりにも悪行を働くので、帝の命により摂津源氏の源頼光が呼び出され、頼光を筆頭として、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光そして坂田金時の四天王により討伐隊が結成されます。

四天王は、大江山へ遠征し、そこで、一計を図って、その地にあったある高貴な姫君を差し出し、鬼たちにこの姫の血の酒や人肉を食べさせ、安心させます。そしてその夜、頼光が神様から兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませます。

実はこの酒には飲むと体が麻痺する薬が入っていて、これを飲んだ酒呑童子ら鬼たちは眠ってしまいます。そして、そこを狙って一気に頼光と四天王が鬼たちを切り付けます。半分眠りこけていた酒呑童子ら鬼たちですが、はっと目がさめ、反撃しようとしますが、体が思うように動きません。

必死で頼光に噛みつこうとしますが、そこを四天王たちに次々と首を落とされ、とうとう成敗されてしまいます。しかし酒呑童子だけは、首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれています。

頼光たちは討ち取った酒呑童子の首を京へ持ち帰ろうとしましたが、京へ入る前の教老ノ坂という場所で、道端のお地蔵様から、「これこれ、そのような不浄なものを京に持ち込むでない」と叱られてしまいます。すると、不思議なことに、その声を聞いた酒呑童子の首は、持ち上げても引っ張っても、それきりその場から動かなくなってしまいました。

このため、一同は仕方なく、その地に首を埋葬することにし、自分たちだけで京都へ凱旋したといいます。

この酒呑童子の首を埋葬したと伝えられるのが、「首塚大明神」です。現在でも京都市内から山陰地方へ延びる国道9号線沿いの京都洛西と亀岡の境に残っていて、ここにお参りすると、首から上の病気に霊験があるとされています。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいわれています。

酒呑童子の首はまた、大江山の山中に埋めたとも伝えられ、これが大江山にある鬼岳稲荷山神社(京都府加佐郡大江町)の由来にもなっています。

以上が、坂田金時らが酒呑童子を成敗したときの顛末です。

酒呑童子は、白面金毛の九尾の狐と、恨みによって大天狗と化した崇徳天皇と並んで、「日本三大悪妖怪」とされ、しかも日本最強の鬼だそうです。しかし、何をもって最強というのかよくわかりません。現在ならば、きちんとルールを作って競わせて、一番を決めるのが普通です。

オリンピック競技のように、フェアなルールを作って、鬼同士を戦わせてチャンピオンをきちんと決めてから、一番だと言ってほしいものです。九尾の狐、大天狗との戦いもみてみたいものです。どなたかぜひ、彼らを戦わせる場を提供していただきたいものです。

そのときは、坂田金時ら四天王ともリターンマッチをしてもらい、本当に強いのはどっちか決めるというのはどうでしょう。きっと酒を盛られなかったら酒呑童子たちが圧勝するに違いありません。鬼が勝つとこの国はどうなるのでしょう…… あんまり考えたくないので今日はこれくらいにしておきます。