金太郎 vs 酒呑童子 ~箱根町

昨日は、箱根山のことを書きました。その箱根山の火山群の最北端には、金時山という山があります。いわゆる「箱根外輪山」に属する山ではなく、富士山の宝永火山と同じく、古箱根火山の山腹から噴火した寄生火山であり、他の外輪山とは成因が異なります。

このため外輪山の他の山とは異なった特徴的な山容をしており、外輪山からイノシシの鼻が飛び出したように見えることから、その昔は「猪鼻嶽(いのはなだけ)」と呼ばれていました。しかし、江戸時代になって、「金太郎」がこの山で山姥に育てられたという伝説ができ、このころから金時山と呼ばれるようになりました。

足柄山という呼称もあるようですが、足柄山とは、本来、金時山から足柄峠に至るあたり一帯をさす名称です。が、地元では金時山を足柄山と呼ぶ人も多いそうです。

その山頂からは、天気が良ければ南方向に箱根の山々が見え、また、北方向には富士山や丹沢山地、遠くは南アルプスや八ヶ岳まで望むことができ、日本三百名山にも選定されています。その昔、若いころに私も登ったことがありますが、山頂付近のすすきの原をバックに見える富士山や箱根の山々は雄大で、こんなきれいなところがあるのか、と感動したのを覚えています。

金太郎?

さて、この金太郎ですが、その本名が坂田金時(さかたのきんとき)といわれるのですが、実はこの人物がほんとに実在したかというと、かなりそのへんが怪しいようです。そもそもは、金時山のふもとにある、静岡県駿東郡小山町の金時神社(坂田金時が祭られている神社)に記された記録から出ているお話のようですが、どうもこの記録は江戸時代にねつ造されたものではないか、というのがもっぱらの観測です。

そもそも「金太郎」なる名前からして怪しいといわれています。専門家さんによれば、江戸時代にあって、この金太郎というような名を幼名として使うということがまずあり得ないということで、むしろこういう名前は、この当時の人が成人したときに好んでつけた名前だといいます。

また、本当に有名な武将だったのならば、何かの戦争での武勲みたいなものが残っていてもよさそうなものですが、そういった具体的な史料は金時神社の記録以外にはまったく見つかっていません。

しかし、金太郎が長じたのちに仕えたという実在の人物、「源頼光」と同時代に生きた「藤原道長」の日記、「御堂関白記」などの史料には、「下毛野公時」という人物が登場しています。御堂関白記によれば、この「公時」は、近衛兵として道長に仕えており、かなり優秀な人物だったようで、この「公時」が「金時」に脚色されていったのではないか、といわれています。

道長の時代から100年ほどの12世紀ごろに成立したといわれる「今昔物語集」では、「公時」の名の郎党が、頼光の家来として登場しており、このとき既に、「公時」の主(あるじ)が道長から頼光にすり替わりっています。

足柄山で生まれ、山姥に育てられて大きくなり、熊にまたがって馬の稽古をしたという金太郎伝説が箱根を中心として地域で定着したのは、これからさらに500年も経ったあとの江戸期と考えられます。伝説というよりも、おとぎ話、あるいは民話のようなものだったでしょう。

そして、そのおとぎ話と今昔物語はまったく関係がありません。しかし、それまでに語り継がれてきた金太郎伝説が、源頼光の部下であったという坂田金時の幼少時代の姿と一致したとき、坂田金時=金太郎という方程式が成り立ったと考えられます。

それまでは単なるおとぎ話であったものが、坂田金時という実在の人物に形を変え、頼光を主とする怪力の武者として江戸の人々の間にそのイメージが定着していったようです。その後の酒呑童子の退治のお話を作り上げるにあたっても、幼少のころに怪力だったという金太郎のお話を持ち出すのは好都合のことだったでしょう。こうして坂田金時の人物像というものが完成するのです。

坂田金時

金太郎変じて、坂田金時の出世話は、ひとつではなく、いくつも存在します。元は同じ話が伝承されるうちに、形を変え、いろんなバージョンができあがったものと考えられています。

現在伝えられているもので、最もその原型に近いとされるものが、金時山のふもとの静岡県駿東郡小山町にある金時神社の古式縁起に記されたものですが、これすらももともとのオリジナルなのかどうかわかっていません。

しかし、坂田金時の話をするときには、やはりこれが一番オーソドックスなもの、ということのようなので、以下、これに基づいて、坂田金時を語っていきましょう。

その記録によると、坂田の金時は、965年(天暦10年)の5月に誕生したということになっています。金時は、そもそも武士ではなく、彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供で、いわば私生児です。

つまり、隠し子であるわけですから、京都八重桐は故郷に帰り金太郎を産むことになります。しかしその後、坂田蔵人が亡くなってしまったため、八重桐は京へ帰ることをせず、その子を自分の故郷である金時山のふもとの地で育てることにしました。

ちなみに、母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で、赤い龍が八重桐に授けた子というような民話のようなお話もあるようですが、これらは金時神社の縁起には記されていません。金時神社縁起は結構、まじめなお話としてまとめられています。

成長した金太郎は、足柄山の野山で大きく成長し、ときには熊と相撲をとれるくらいまで力持ちになりましたが、一方では母親に孝行する元気で優しい子供に育ちました。そして運命の天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となります。

そして、頼光から、坂田金時と名前を貰って改名し、京にのぼり、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の「四天王」の一人となるのです。

やがて、四天王の一人として数々の戦で手柄を立てた坂田金時は、永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)というところに住む、「酒呑童子」を退治します。金時が立てたもっとも有名な手柄といわれます。

ちなみに、こうした年月日などの日付までが詳しく書いてあるのが金時神社の記録の特徴です。が、架空の生き物である鬼を退治した日付まで詳しく記録が残っていること自体が、ウソ臭く思えます。これがウソだとすると、ほかの記録もすべて信憑性を失います。

おそらく、鬼退治の部分さえなければ、多くの人は坂田金時は実在の人物と思ったに違いありません。それでもあえて鬼を登場させたのはやはり、これをもって「神社」という存在の神格性をアピールしたかったからでしょうか。坂田金時を神様として祀っている以上、鬼ぐらいは退治してもらわんと示しがつかん、と思ったのかもしれません。

さて、それはともかく、無事、その生涯最大のミッションを終えた坂田金時ですが、寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田荘(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去します。

享年55才。勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬りました。

この神社は現在、栗柄神社と称して、岡山県に実在します。勝田荘の人々が建てたという「金時塚」の上に金時を祀る社をかまえ、当初、倶利伽藍権現と称えていたようですが、明治元年、栗柄神社と改称し、明治16年に社殿を改築しています。

中後自動車道に「勝央」というSA(サービスエリア)がありますが、栗柄神社はこの勝央にあり、毎年8月、「勝央金時祭」というお祭りが行われています。江戸時代から続くお祭りということです。

スーパースター金太郎

さて、まるで実際にいたかと思わせるように神社まで作ってあるのですから、江戸時代の人々も、さすがにこれを信じたでしょう。スゴイぞ!墓(神社)まである!本当だったんだ!と驚いたに違いありません。しかし、この金時神社で祀られているのが本当に坂田金時なのかどうかは、誰にもわかりません。金時人気にあやかって、ある時からその地域の氏神様を金時にしてしまったのかもしれないからです。

しかし、こうして「実在の人物」になっていった坂田金時のお話は、江戸でも評判の物語となり、やがては浄瑠璃や歌舞伎にまで作られるようになります。歌舞伎の演目に登場する人物は、この当時としては、スーパースターであり、ほんとにいたのかな?と思う人がいたとしても、それをいまさら本当にいた人じゃないよ、などと言える雰囲気ではなかったと思われます。いや、実在の人物であろうがなかろうが、お話さえ面白ければよかったのでしょう。

そして、やがて坂田金時の幼少時の姿は、鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルにもなり、この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶようになります。金太郎は、丈夫に育つ男の子のシンボルとして、日本中に浸透していったのです。

酒呑童子

……ということで、ウソで塗り固めた、とまで言うと原作者に対して失礼かもしれませんが、長い歴史の積み重ねにおいては、虚実もまた真実になっていくというのはよくあることです。ま、ウソといえども、一応よくできたストーリーでもあり、おとぎ話みたいなものと考えれば、腹も立ちません。

ところで、金時のことよりも、このおとぎ話の中で金時に退治されたという「酒呑童子」というのが、どんな妖怪だったのか、気になってきました。そこで、調べてみると、やはり坂田金時と同じく、いろんな描きかたをされているようです。

しかも、坂田金時以上に、そのお話が各地に広がっていて、その出生のお話からして、少なくとも五つ以上のバージョンがあります。これらをひとつひとつまとめるのはやっかいなので、そうした整理はまたの機会に譲るとして、最後にその酒呑童子がどうやって坂田金時にやっつけられたか、というくだりだけまとめましょう。

酒呑童子は、丹波国の大江山(現京都府丹後半島)、または京都と丹波国の国境の大枝というところに住んでいたとされる鬼の頭領です。酒顛童子、酒天童子、朱点童子とも書かれます。

お話としては、その本拠は大江山だったというものが多いようで、その大江山にある龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたといいます。

前述したように幼少期の伝説は掃いて捨てるほどあるので略しますが、その一つでは、酒呑童子は、八岐大蛇(やまたのおろち)の息子だそうで、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境にある山)の麓で、スサノオの尊と戦って敗れ、出雲国から近江へと逃げたとき、そこで富豪の娘との間に生まれた子だそうです。

やがて、大きくなって京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従える親分鬼になり、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたといいます。

あまりにも悪行を働くので、帝の命により摂津源氏の源頼光が呼び出され、頼光を筆頭として、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光そして坂田金時の四天王により討伐隊が結成されます。

四天王は、大江山へ遠征し、そこで、一計を図って、その地にあったある高貴な姫君を差し出し、鬼たちにこの姫の血の酒や人肉を食べさせ、安心させます。そしてその夜、頼光が神様から兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませます。

実はこの酒には飲むと体が麻痺する薬が入っていて、これを飲んだ酒呑童子ら鬼たちは眠ってしまいます。そして、そこを狙って一気に頼光と四天王が鬼たちを切り付けます。半分眠りこけていた酒呑童子ら鬼たちですが、はっと目がさめ、反撃しようとしますが、体が思うように動きません。

必死で頼光に噛みつこうとしますが、そこを四天王たちに次々と首を落とされ、とうとう成敗されてしまいます。しかし酒呑童子だけは、首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれています。

頼光たちは討ち取った酒呑童子の首を京へ持ち帰ろうとしましたが、京へ入る前の教老ノ坂という場所で、道端のお地蔵様から、「これこれ、そのような不浄なものを京に持ち込むでない」と叱られてしまいます。すると、不思議なことに、その声を聞いた酒呑童子の首は、持ち上げても引っ張っても、それきりその場から動かなくなってしまいました。

このため、一同は仕方なく、その地に首を埋葬することにし、自分たちだけで京都へ凱旋したといいます。

この酒呑童子の首を埋葬したと伝えられるのが、「首塚大明神」です。現在でも京都市内から山陰地方へ延びる国道9号線沿いの京都洛西と亀岡の境に残っていて、ここにお参りすると、首から上の病気に霊験があるとされています。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいわれています。

酒呑童子の首はまた、大江山の山中に埋めたとも伝えられ、これが大江山にある鬼岳稲荷山神社(京都府加佐郡大江町)の由来にもなっています。

以上が、坂田金時らが酒呑童子を成敗したときの顛末です。

酒呑童子は、白面金毛の九尾の狐と、恨みによって大天狗と化した崇徳天皇と並んで、「日本三大悪妖怪」とされ、しかも日本最強の鬼だそうです。しかし、何をもって最強というのかよくわかりません。現在ならば、きちんとルールを作って競わせて、一番を決めるのが普通です。

オリンピック競技のように、フェアなルールを作って、鬼同士を戦わせてチャンピオンをきちんと決めてから、一番だと言ってほしいものです。九尾の狐、大天狗との戦いもみてみたいものです。どなたかぜひ、彼らを戦わせる場を提供していただきたいものです。

そのときは、坂田金時ら四天王ともリターンマッチをしてもらい、本当に強いのはどっちか決めるというのはどうでしょう。きっと酒を盛られなかったら酒呑童子たちが圧勝するに違いありません。鬼が勝つとこの国はどうなるのでしょう…… あんまり考えたくないので今日はこれくらいにしておきます。