戦艦武蔵のはなし

2015-9105
先日、戦艦「武蔵」が発見されたという報道がなされ、本物かどうかをめぐって疑義も呈されてきましたが、どうやら多くの専門家が間違いなさそうだとしているようです。

これまで大和ほどは騒がれることがなかったのは、その消息を巡って何一つニュースの提供されるようなネタがなかったためでしょうが、ここへきて急速に話題性のあるものになってきました。

私自身も特段の興味を持っておらず、それだけにこの戦艦についてはあまりにも無知できたため、今日は忘備録のつもりで、この船についてまとめてみようと思います。

「武蔵」は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の「大和型戦艦」の二番艦です。大和型戦艦は、一番艦大和及び二番艦武蔵、そして三番艦「信濃」が大戦中に就役しています。また、本艦は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦となりました。

1934年(昭和9年)12月、日本は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わりを告げました。

1936年(昭和11年)末、海軍司令部は三菱重工最高幹部を招き、第三次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼します。翌年開催の帝国議会ではその予算が正式に承認され、計画名「第一号艦」「第二号艦」と仮称され、大和と武蔵の建造がスタートしました。

建造

第一号艦「大和」は1937年(昭和12年)11月4日に呉海軍工廠で起工、第二号艦「武蔵」は、その翌年の1938年(昭和13年)3月29日、三菱重工業長崎造船所での建造が始まりました。三菱重工建造の戦艦としては、5隻目でしたが、従来の4万トンから大和型7万トンへの飛躍には、ドック拡張を含めた技術者の研究と努力が必要でした。

本艦は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、第一号艦大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化されました。その建造にあたり、兵装などの艤装における中心人物としては、艦隊の防空に関する研究で評価の高かった千早正隆中佐がおり、また艤装員長は、長らく参謀総長を勤めた有馬馨大佐(開戦時には少将)でした。

建造開始から4年後の1942年(昭和17年)には、連合艦隊司令部からはより巨大化させろという拡張要求があり、実行されることになりました。この時点で「武蔵」は「大和」と同じ内部構造とされていましたが、この変更により、内装の入れ替えに駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じました。

姉妹艦「大和」や「110号艦(信濃)」と同様、本艦の建造は極秘とされました。なお、信濃は、大和型戦艦三番艦とされ、武蔵よりも2年遅い1940年5月4日に起工されましたが、戦艦になる予定だったものを、その後の戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更されました。

建造中の艦乗組員のことを「艤装員」といいますが、彼等は、この戦艦の建造指揮者でもあった有馬大佐の名をとった「有馬事務所」に勤務するよう命じられました。が、実はこれは長崎造船所でこの船を秘密裡に建造するための偽装でした。

このように、武蔵建造においては機密に対する警戒が極めては厳重で、艤装員長の有馬大佐ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかったといいます。外部に対しては、さまざまな方法で「武蔵」を隠す手段がとられ、船台の周囲には魚網として使う棕櫚(シュロ)が使われ、これをすだれ状に垂らした目隠しが全面に張り巡らされました。

このとき膨大な量のシュロが極秘に買い占められたため、市場での欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者の告発により警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったといったこともあったそうです。付近の住民らは船台に張り巡らされた棕櫚の目隠しをみて、「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、この船体を指して「オバケ」と呼びました。

住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けた、逮捕されることもあったといい、造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取ったそうです。

姉妹艦「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示されました。

設備の整っていた海軍工廠で建造された「大和」はドック内で建造されましたが、「武蔵」は従来型の戦艦を建造する「船台」を改造したものの上で建造されたため、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分なステップが必要でした。

巨大な重量物を陸上移動させる必要があり、その軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲は進水後に取り付けるという配慮が必要でした。更に工事の途中で太平洋戦争が始まってしまったため、1942年(昭和17年)12月の完成という予定から6ヶ月も前倒しするように司令部から促されました。

このため三菱重工業の作業担当者たちには非常に過酷な作業が強いられましたが、超人的な努力で事に当たり、ついに船腹を進水させるまでに完成させることに成功しました。

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進水そして艤装

1940年(昭和15年)11月1日の進水時には船体が外部に露見してしまうため、この日は「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などが配置され、進水式が執り行われました。

厳重な警戒態勢の中で海軍首脳部が列席しましたが、秘密厳守のために同席した皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりでした。

この巨大戦艦の進水時には、進水台を潤滑する膨大な量の獣脂を調達・調合するといった苦労もありましたが、進水後、やや傾いた状態でなんとか無事に狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに予定より44mよけいにかかって停止したといいます。

しかし、この時、周辺の海岸に予想外の高波が発生しました。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したという記録も残っています。この進水式の様子は映像として記録されたそうですが、終戦時に焼却されており、現存していません。

同日付をもって正式に「武蔵」と命名された本艦は、排水量4万トン程度と偽って世界に公表される予定でしたが、海軍中枢部の反対により急遽中止されました。進水後は日本郵船の大型貨客船「春日丸」(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で仕上げの工事が進められました。

その兵装は世界最大の戦艦の名にふさわしいもので、46cm(45口径)3連装の大砲を3基、合計9門持っていたほか、15.5cm(60口径)砲3連装4基12門、12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門、25mm3連装機銃12基36門、13mm連装機銃2基4門などなど、まるでハリネズミのような様相でした。

これらの兵装は、のちに対戦相手となるアメリカ軍の主力が航空機となったことから、これらを打ち落とすためのさらに小口径の砲門が多数追加され、最終的には25mm連装機銃は35基105門に増やされ、また25mm単装機銃25基25門、12cm28連装噴進砲2基56門などがあらたに追加されました。

この進水式からおよそ1年後の1941年12月8日には、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまりました。この戦争の緒戦で日本は連戦に次ぐ連勝を重ね、これによる浮かれた空気の中で長崎の住民も「武蔵」のことを公然と話題に出すようになってきていました。しかし、なおもそのは機密であり、第一船台は簾で隠されたままでした。

市民はシュロに覆われて海上に浮かんでいるのが薄々新型戦艦であることは知っていましたが、この船台にも「武蔵がもう1隻いる」と噂するようになっていました。あるとき、船台のある造船所内で夜間火災が派生し、このとき簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがって大騒ぎになったといいます。

が、実はこれは第二船台で建造中の空母「隼鷹(じゅんよう・橿原丸)」でした。のちのミッドウェイ海戦以降は大型正規空母の「翔鶴」、「瑞鶴」をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした船で、のちには高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した船として知られています。

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竣工そして初出撃

1942年8月5日、武蔵は竣工しました。10月15日には、レーダー試験が開始。よく日本海軍はレーダーを有していなかったために、戦争に負けた、と言われますが、まったく所持していなかったわけではありません。

太平洋戦争初期には、アメリカもまだそれほど性能の高いレーダーを持っていたわけではなく、索敵能力は十分でなかったため、訓練で練度が高かった日本海軍が戦局を優位に進めました。しかし、その後その性能が加速度的に進化し、その結果、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など、多くの戦いで日本軍は敗北を重ねるようになりました。

開戦後、レーダーの重要性を痛感した日本海軍は慌てて開発に力を入れ始め、終戦までその開発に全力を投じました。その中途の1941年には水上索敵と射撃管制用の「2号2型電探」を初めて武蔵などの大和型戦艦に備え、実戦にも使用しました。

改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないものの、2号2型電探を使ったレーダー射撃による対艦攻撃が実践されました。1000台以上量産され、主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されましたが、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないなど信頼性に欠けるものでした。

「武蔵」に装備されたレーダーは、その調整に並行して主砲発射試験なども行われましたが、その衝撃でレーダーが故障する、といったこともありました。このようにまだこの新型戦艦の完成度は十分とはいえないものがありましたが、戦争はどんどんと進行しており、1943年(昭和18年)1月18日には、試験航行のため呉を出港することになります。

初代船長は、艤装員長も務めた有馬馨大佐でした。この有馬艦長の指揮のもと、「武蔵」は空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かい航行。

翌月2月には連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となりました。しかしその山本長官も4月18日に戦死。後任として、古賀峯一大将が、連合艦隊長官として武蔵に赴任しました。

山本長官の遺骨は、この「武蔵」で運ばれ、トラック島から同年5月17日に横須賀へ帰還。これが本艦の初任務となりました。日本に戻したことについては、北方のアリューシャン列島のアッツ島に米第7師団が上陸したことに対しての備えの意図があったとも言われます。

6月24日には、昭和天皇行幸。御召艦となるという誉を受けますが、翌7月には長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦長良、駆逐艦曙と共に再びトラック島へ向かいました。

トラック島は、オーストラリアの北西部約3000kmの太平洋中西部に位置する諸島であり、太平洋の荒波から環礁によって隔離された広大な内海という泊地能力の高さから“日本の真珠湾”ないし“太平洋のジブラルタル”とも呼ばれ、日本海軍の一大拠点が建設されていました。

太平洋戦争に突入後は武装化に拍車がかかり、陸上攻撃機の離着陸が可能なように拡大整備されたほか、水上機基地が設けられ、島々の各所には要塞砲が設置され、3万トンの重油保管タンク、4,000トンの航空燃料保管タンクの設置も進められました。「小松」や「南国寮」などといった有名な海軍料亭の支店もあり、福利厚生施設も充実していました。

太平洋戦争中は、連合艦隊主力が進出、優れた泊地能力を活かし、根拠地として能力を遺憾なく発揮。環礁内は航空母艦が全速航行しながら艦上機を発艦させられるほどの広さがありました。また、ラバウル航空基地を始めとする南方基地への中継地として航空移動の中心的役割も果たしていました。

ただ、大型船が着岸できる岸壁などはなく、ドックなどの船舶修理設備もなかった為、損傷艦艇の修繕は応急処置にとどまり、本格的な修理は本国への回航が必要でした。

このトラック泊地に到着した武蔵は、しかし長らくそこにとどまったままであり、前線に出撃しませんでした。このため「武蔵御殿」と陰口をたたかれました。

しかし、10月17日初出撃。マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動しましたが、9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。これまた「連合艦隊の大散歩」と揶揄されました。

こうして何の戦果も挙げられないまま、年が明け、1944年(昭和19年)の2月には、軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻を引き連れて、トラック泊地を出港し、横須賀に帰還。

この廻航は、トラック島を含めた南西部太平洋に兵員を運ぶための輸送業務に就くためのものであり、横須賀で部隊を乗せて、今度はトラック島の西部に位置する、パラオに向けて出発しました。

翌3月、このパラオにおいて米軍の空襲があるとの情報が入り、これを避けるため第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛され事前退避する途中、米潜水艦タニーが「武蔵」を雷撃。魚雷1本が武蔵の左舷艦首部に命中します。

「武蔵」は24ノットに増速して退避しましたが、被害は大きく、浸水は2630tに及び、このとき戦死者7名、負傷者11人の被害を出しました。そのまま呉に向かい、修理が行われましたが、直径7-8mの破孔が開いたものの損傷は限定的であることがわかりました。

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マリアナ沖海戦

その後、呉での修理は順調に進み、こののち上述のような対空戦闘の為に兵装を増やすなどの改装工事が行われました。

5月11日には、第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れますが、以後、10月までは、タウイタウイ泊地(マレーシア)、ビアク島(西パプア)、と転々とし、最後にマリアナ沖海戦参加すべく、バチャン泊地(インドネシア)に他の艦船とともに集結しました。

1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたこの海戦は、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの一方的な敗北となりました。

日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちました。

しかし、この海戦では武蔵は温存され、6月24日 日本に戻り、広島湾の桂島錨地に停泊。ここで、陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、7月8日に再度南方へ向かいました。そして、インドネシア西部にある、リンガ泊地に到着。

このリンガ泊地では、米袋に入れた土嚢を機銃台のまわりに積み上げるなどの出撃準備が行われ、このとき乗員にシンガポールへの休暇が許されたといいシンガポールへの移動には戦艦「長門」が使用されたそうです。

この間の8月12日、「武蔵」の艦長は、三代目の朝倉豊次大佐から、猪口敏平少将に交替しました。

猪口少将は、鳥取県鳥取市出身で、海軍兵学校(46期)を卒業したのち、各種艦船で乗員としての経験と積んだのち、砲術学校教官、横須賀砲術学校教頭などを経て、戦艦「武蔵」の第4代艦長に就任したものです。このとき海軍少将に進級しており、世界でも珍しい「提督艦長」となりました。

当時の海軍軍人にありがちであった花柳界での派手な遊びを好まず、神社仏閣詣でをしたり、熱心に坐禅に取り組み、部下将兵に対しても叱ったりしない穏やかな性格の人物であったと言われます。

10月18日、リンガ泊地を出航し、その二日後の10月20日にマレーシア・カリマンタン島北部のブルネ港に入港しました。これが、武蔵が最後に寄港した港となりましたが、この時「武蔵」だけは塗装を塗り直し、他の艦より明るい銀鼠色となりました。

この塗装を嫌がる物も多く、「死装束」だという者、「武蔵は囮艦なのだ」と不安になる者もいたといい、他艦からも縁起が悪いとみなされていたようです。この塗装が艦隊の命令だったのか、可燃物である塗料を始末しようとする武蔵首脳の独自の判断だったのかについては現在もなお不明です。

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最後の航海

さらにその二日後の10月22日、武蔵はその最後の戦いとなるレイテ沖海戦に参加すべく、ブルネイを出撃します。

この海戦で「武蔵」は栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し、宇垣纏中将率いる第一戦隊の一艦として大和型戦艦「大和」、長門型戦艦「長門」と行動を共にしました。この時、「長門」水上偵察機2号機が「武蔵」に移され、「長門」の整備兵7名も共に移乗しています。

10月23日、栗田艦隊はパラワン水道を通過中に米潜水艦「ダーター」 (USS Darter, SS-227)と「デイス」の攻撃に遭い、重巡洋艦「愛宕」、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破しました。このとき「武蔵」は駆逐艦「秋霜」が救助した「摩耶」の乗組員769名を収容しました。

このレイテ沖海戦においてアメリカ海軍は、ウィリアム・ハルゼー提督(大将)、マーク・ミッチャー中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていました。 第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群、第4群がその後方に配置されており、「武蔵」をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、この第2~4群の空母群です。

翌10月24日午前6時32分、「武蔵」は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見します。午前8時20分、栗田艦隊が、米軍の索敵機に発見されたため、「ブル・ハルゼー」こと、雄牛、猛牛の異名をもつ積極的な性格のハルゼーは即座に攻撃命令を下しました。

このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は零戦111(爆弾装備機含む)、紫電一一型11、彗星12、九九式艦爆38、天山8という規模の攻撃隊を送り込みますが、この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母「プリンストン」撃沈のみでした。

午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機が栗田艦隊に接近し、「武蔵」の見張員がこれを発見します。このとき、この戦争が始まって以来初めて「武蔵」の左舷高角砲が火を噴き、同時に戦艦「金剛」、重巡洋艦「筑摩」が発砲しましたが、撃墜には至りませんでした。

10時頃、「大和」と軽巡洋艦「能代」がレーダーにより、約100km先から米軍機40が向かって来ていることを探知し、直後に、敵の第1次攻撃隊45機(ヘルキャット戦闘機21、カーチス急降下爆撃機12、アヴェンジャー雷撃機)が攻撃を開始しました。

この第一次空襲では、小型爆弾1発が一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ち、6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過、1本が右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生しましたが、機関科兵が行った応急作業で食い止めました。

この攻撃で「武蔵」はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜しましたが、左舷への注水でバランスを取り戻しました。

その後およそ一時間後を経た11時15分、「武蔵」再び敵機による襲撃を受け、雷撃機による魚雷が1本右舷後部に命中、右12、14区が浸水します。これにより、出し得る最大速力は26ノットに減ったと司令部に報告していますが、公試での最大速力は27ノットであり、航行に支障はありませんでした。

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主砲など主要な砲塔も健在でしたが、さらに12時6分、空母「イントレピッド」からの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ、「武蔵」に殺到します。

この殺到の原因については、リンガ泊地に於いて「武蔵」だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされているようです。この攻撃に対し、「武蔵」は、はじめて46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたといいます。

この第二次攻撃による被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というもので、僚艦の「大和」の乗員も「武蔵」に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めています。この被弾により、「武蔵」は指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下しました。

また、左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂し、爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、4つある機関の一つが使用不能となります。3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちましたが、魚雷命中による弾薬庫の直接の被害等はありませんでした。

しかし、各砲塔は被害を受けて射撃不能となるものが続出しました。ただ、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けていた、と生存者が語っています。しかし、至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷し、艦上は血の海でした。

「武蔵」の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは防護板もなく敵機に晒されたままで、またその他のシールドのある対空兵器も、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力でした。

この第二次空襲のあと、次の第三次空襲の間に1時間ほど小休止がありました。このため館内では、猪口艦長の指示により戦闘配食が配られました。しかし、その休息もつかの間、13時30分、第3群の空母エセックス 、レキシントンを発進した第3次攻撃隊83機が栗田艦隊に襲いかかります。

上空に到達した攻撃隊のうち、エセックス隊が武蔵や大和、長門に対して激しい攻撃開始しましたが、この第三次攻撃では、アメリカ軍機が撤退するまで、「武蔵」は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けました。

「武蔵」は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下し、「大和」を中心とする第一部隊から落伍し、「金剛」を中心とした第二部隊に追いつかれました。しかし攻撃はこれだけ画は終わらず、14時15分、今度は第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲しました。

一連の攻撃でフランクリン攻撃隊は「武蔵」に爆弾4発、魚雷1~3本を命中させました。相次ぐ攻撃に対し、同じ第二部隊にあった重巡洋艦「利根」が、「武蔵」に接近し、護衛を開始しました。

時刻は14時45分、このとき、「武蔵」は旗艦「大和」に対し、「射撃能力は一番砲塔以外さしたる故障ないものの、浸水又は注水のため出し得る速力20ノットの見込み」と報告しています。

また、栗田艦隊長官は、「武蔵」に対して、戦闘力発揮に支障あるため、戦場を脱して「コロン島」経由、馬公市へ向かえと命じました。が、この撤退命令が伝えられる中も、第4群空母「エンタープライズ」から発進した、戦闘機12、艦爆9、艦攻12で第五次攻撃隊を編成し、またしても栗田艦隊上空に到達しました。

ロケット弾を装備したヘルキャットが武蔵と並走する「利根」と「清霜」を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が「武蔵」を狙いましたが、このときのアメリカ軍機の乗員が後に語ったところによれば、このとき「武蔵」は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だったといいます。

しかし、実際には「武蔵」は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっており、敵機を避ける回避行動もままなりませんでした。この攻撃により、前部艦橋の防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発。

爆風が第一艦橋へ逆流し、「武蔵」の幹部達多数を殺傷しました。防空指揮所では、高射長、測的長を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷しました。また第一艦橋では、航海長を含む39名が戦死、8名が負傷したため、加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となりました。

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停止そして沈没

このエンタープライズ攻撃隊の乗員がのちに提出した戦闘レポートによれば、このとき「武蔵」には1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾を命中させ、駆逐艦2隻撃破または撃沈したとしており、「武蔵」の艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止したことも記録されています。

最終的に「武蔵」は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷したとされますが、のちに生存者たちがまとめた記録では、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定しています。

この激しい攻撃により、艦の前部に著しい浸水を見た「武蔵」は、前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになりました。このため必死の浸水防止の対策が採られましたが、「大和」からみた「武蔵」は既に左に15度も傾斜していました。

「武蔵」は復旧作業をおこないながら重巡洋艦「利根」、駆逐艦「島風」、「清霜」、「浜風」に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指しますが、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になりました。

15時30分には舵取機電源切断によって、舵が効かなくなったことが報告されており、この最後の第五次空襲で「武蔵」はほぼ停止・操舵不能となりました。

しかし、「武蔵」は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分には米軍機を撃墜したといいます。

「武蔵」の所属する第一戦隊の宇垣纏司令官は、これより少し前の16時24分「全力を尽して保全に努めよ」の伝令を「武蔵」に伝えていますが、その後継続航行は困難と思ったのか、その30分後の17時5分には、「自力又は曳航で移動不能なら、一時的に島陰などへ向かい、艦首をのし揚げるなどの応急対策を講ずるように」と命じています。

17時37分、「武蔵」は右舷の操舵が可能になったため、極力コロン島に回航したいと発していますが、「清霜」による艦尾曳航などの援助も求めており、こうした連絡もすでに電気を使用する通信機は使えなかったため、探照灯や手旗信号などによって行われたようです。

18時15分ころ、「武蔵」から宇垣長官に伝えられた連絡では、「右舷内軸のみ運転可能、操舵可能」あるいは、「我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不」だったとされており、このとき宇垣長官は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていたといいます。

18時30分、駆逐艦「島風」が「武蔵」左舷に横付けし、前日潜水艦の雷撃により沈没した重巡洋艦「摩耶」の乗員のうち、「武蔵」が救出して乗艦させていた607名を収容しました。一方、艦内部では必死の防水作業、復旧作業が続いていました。

これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われました。しかし、傾斜は酷くなる一方で、やがて一斉に甲板上を右舷から左舷にこれらの重量物が滑落しました。

これに巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといい、このとき艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる、と言った具合で、浸水による水圧は凄まじいものでした。

乗組員の間で、「不沈艦」と信じてきた「武蔵」が沈没するかもしれないという不安が広がっていったのもちょうどこのころでした。傾斜復旧のための注水作業は、注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区などあらゆるところに注水が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷に6個あったボイラー室のうち、3つにも注水がなされました。

19時5分、第二艦橋に猪口艦長以下の幹部が集まり、猪口艦長は加藤副長に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと、第二艦橋下の海図室に降りていきました。19時8分、「浜風」「清霜」は「武蔵」から「至急武蔵の左舷に横付けせよ」という手旗信号を受取ります。

乗員救出のための措置でしたが、巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だったといいます。19時15分頃、ついに「武蔵」は左傾斜12度となり、加藤副長より「総員上甲板」が発令され、乗組員は後部甲板に集合しました。

半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、「武蔵」は急激に傾斜を増し、総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめました。このとき、たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃したといいます。

19時35-40分、「武蔵」は完全に転覆。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていましたが、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没し始めました。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、あるいは主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆したなど、諸説あるようです。

建造期間1591日に対し、「武蔵」の艦齢はわずか、821日でした。

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戦艦としての評価

海に飛び込んだ乗組員は「武蔵」沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれますが、随伴していた駆逐艦「清霜」、「浜風」に約1350名が救助されました。「清霜」は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録しています。

この「武蔵」の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、「長門」派遣下士官兵7名でした。さらに重巡洋艦「摩耶」の乗員も117名が犠牲になっています。

先に駆逐艦「島風」の横付けにより「武蔵」から脱出した乗員以外に、武蔵にとどまって戦闘を続けたい、と志願した摩耶乗員たちであり、それぞれが配備に就き極めて勇敢に奮闘したと伝えられています。

この「武蔵」がアメリカ海軍機から受けた攻撃による命中弾は、米軍の統計によれば、爆弾直撃44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発とされています。その攻撃は艦前部を中心にほぼ左右両側でした。

このため両舷の浸水がほぼ均等であり、わずかばかりの傾斜はすぐに復元可能であり、またアメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったことも影響して、被弾数の割には長時間交戦できたものと推測されています。

ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として、のちの1945年(昭和20年)4月に「大和」へ加えた攻撃の際には、これを左舷に集中させたとされています。絶対的不沈艦などありえないわけであり、これだけの打撃を与えれば不沈艦といえども沈没してしまいます。

とはいえ、大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は従来型戦艦の長門型戦艦の1.5倍もありました。同時期の他国の戦艦と比較しても、浸水に対しては余裕を持った設計になっていましたが、100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていました。

大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦であり、味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態でこれだけの敵機から攻撃されることは想定外であったとも言われているようです。

大和型戦艦設計者の一人である牧野茂氏は、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べています。

10月25日、駆逐艦「清霜」と「浜風」に乗った「武蔵」生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき、フィリピンのコレヒドール島に上陸しました。しかし、その後も続いた戦闘に再度投入される者も多く、そのままフィリピン守備隊に残されその多くは日本に戻れず、戦死してしまいました。

その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなく、生還者は56名だったとされています。1977年(昭和52年)には、それらの生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を靖国神社でおこないました。

再発見

アメリカ海軍は戦後、沈んだ武蔵を探深機で捜索したといいますが、発見できず、沈没地点とされる場所をいくら調査しても武蔵が発見されませんでした。

このことから、沈んだ時点でも武蔵にはまだ浮力があって海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8~12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのではという噂話も存在していたようです。

しかし、今年になってから、アメリカ・マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレンが武蔵をシブヤン海の水深1kmの地点で発見し、先の3月3日に記者会見が行われました。その映像をみた旧日本海軍史研究家などが、艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違ない、と断定。

その他の日米複数の専門家が武蔵だと断定したことから、にわかに注目を集めるようになり、ポール・アレンにより3月13日にインターネット生中継された映像動画には、海底に静かに眠る武蔵の映像が鮮明に映し出され、数多くの人がこれを生で見ました。

ニコニコ動画のコメント欄では、この発見に感謝の声が多かったといい、70年ぶりのこの発見の余波で、猪口艦長への墓がある鳥取では墓参りが急増したとも伝えられています。

読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載したほか、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算しました。しかし、巨大な費用がかかる事から現実的でない、と言われているようです。

この発見を受けて自主映画製作も発表されているといいます。楽しみではあります。

長くなりました。疲れました。が、「武蔵」と一緒に海の底に沈んでいった兵隊さんたちはもっともっと、疲れていたことでしょう。お疲れ様です。

そして、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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