修禅寺物語

久々に山を下って、修善寺の町へ出てみました。「町」といっても、にぎやかなのは修禅寺本堂を中心としたメインストリートの約1kmほどの区間だけ。温泉街を抜け、西のほうへ少し足を延ばすと、そこにはのどかな田園風景が広がります。

ちょっと見ないうちに、田んぼの稲も大きく育っていて、あと少しで実をつけそう。今年の出来はどうなのでしょうか。これまで例年より少し寒い日が続いたのが影響しなければいいのですが。

この田園地帯をさらに西へ西へと行った山のふもとには、昔、弘法大師が若いころに修業したという「奥の院」というお寺があるらしいのですが、今回はここへは行かず、久々に温泉街のほうへ下ってみることに。

この季節の修善寺では、新緑も落ち着いた色の緑にかわっていて、それでいて真夏のような濃い緑でもなく、しっとりとした緑とでもいうのでしょう。気のせいか、街中を流れる桂川に写るもみじの緑陰もくっきりと黒い、というよりも淡い水墨画のような色合いです。梅雨どき特有の空気感とでもいうのでしょうか、他の季節とは違うかんじがします。

しばらくぶりに修禅寺の境内にも足を踏み入れてみましたが、この季節には観光客もまばらで、むしろ地元の方が散歩に連れて出た犬と一緒に、日陰のあちこちで休んでいらっしゃる姿のほうが目立つほど。

私もいつになくゆったりとした気分で、境内のあちこちを歩いていましたが、今まであまり気に留めていなかったオブジェの形がなかなか面白いのに気が付きました。境内の手洗いには、口からお湯(水ではないのです!)を出している吐水龍があるのですが、これがなかなかの出来栄え。いい仕事してまんなーと思いつつ、ほかにも何かないかな、と探してみると、あります、あります、結構面白い形のものが。

まず、屋根を見上げてみると、そこにも立派な龍がいるのを発見。棟飾りというのでしょうか、瓦で焼き上げ、黒光りする堂々としたというよりも、かなり迫力のある龍です。さすが天下に名を覇しているお寺だけのことはあるなーとここでも感心。

さらにその龍の両脇には、こちらも立派な唐獅子が。さきほどの龍と同じ黒々と光っています。眼光も鋭く、今にも飛び上がりそう。おそらくこのお獅子もさきほどの龍も同じ作者なのでしょうが、現代でもすごい腕前の職人さんがいるもんだなーとさらに感心しきり。


この唐獅子ですが、かの有名な(といっても知らない人も多いかもしれませんが)、源頼家の最後を題材とした戯曲、「修禅寺物語」の作者、「岡本綺堂」さんも目に留めていて、大正7年の随筆に、次のように書いています。

「修禅寺はいつ詣っても感じのよい御寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、この御寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽かな感じをあたえるのがかえって雄大荘厳の趣を示している。衆生をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくのでなくて、かくしゃくたる光明を高く仰がしめるというような趣がいかにも尊げにみえる。きょうも明るい正午の日が大きい甍を一面に照して、堂の家根に立っている幾匹の唐獅子の眼を光らせている。」

ちなみに、このお獅子や龍は修禅寺が2006年に改修されたときに新しく新調されたものだそうで、綺堂さんが目にしたこの当時のお獅子とは違うようです。古いものは、境内にある「宝物殿」横に飾られているとか。直接この目で確認はしていませんが、今度行ったらその古いお獅子と龍もぜひ拝見したいものです。

ところで、この宝物殿には、岡本綺堂さんが修禅寺物語を作るきっかけになった古いお面も飾られているそうです。修善寺の駅前にある本屋さんのポスターでその写真をみたことがあり、なんだろうなこれは、と気になっていたので、ちょっと調べてみました。

すると、このお面、宝物殿に文字通り、「古面」として飾られているそうですが、修善寺に伝わっている言い伝えによると、その昔、源頼家さんが鎌倉の家人の謀略により、漆の湯に入れられ、全身が脹れ(ふくれ)あがったのだとか。頼家さんは、そのときの面相をひと目母親の政子さんに見せようとして職人に作らせたんだそうです。

頼家さんといえば、父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代将軍となった人。若いくせに、従来の習慣を無視した独裁的な政治が御家人たちの反発を招き、お母さんの政子さんの実家の北条氏を中心にした反対勢力によって追放されてしまいます。

その後、体制を翻そうと手兵を使って反乱を何度も起こしますが、ことごとく失敗に終わり、しかも急病にかかって一時は危篤状態にまでなります。

一命はとりとめたものの、もはや幕府を転覆するほどの力もなく、政子さんの指示により、伊豆の修善寺へ幽閉。そしてそこで暗殺されてしまいます。齢23歳。若いですねー。

伊豆へ移されてから、すぐに暗殺されたのかと思ったらそうではなく、その前にも何度か暗殺未遂があったみたいで、上述の漆風呂とお面の逸話もその暗殺未遂のひとつかも。本当かウソかわかりませんが、お面とともにそういうお話が寺に伝えられたようです。漆にかぶれた顔を面に彫らせて政子さんに送り、なんでここまですんだよーと抗議したかったのでしょうが、それにしても親子なのにそこまでするんかなーというかんじ。

綺堂さんは、このお面の逸話に着想を得て、「修禅寺物語」を作ったそうですが、その内容はというとこのお面の話とは全く別で、明治時代の庶民の最大の娯楽、歌舞伎の戯曲として書きおろされたもの。初演は、明治44年、東京明治座だそうで、主役の面作師(おもてつくりし)、お面を作る職人さんですが、その役「夜叉王(やしゃおう)」をやったのは二代目の市川左団次だそうです。

簡単にストーリーを書きましょうか。

伊豆の修善寺の町に住んでいた、面作り師の「夜叉王」は、そのころ修禅寺に幽閉されていた頼家から、自分の顔に似せた面を作ってくれという注文を受けます。しかし、何度作ってみてもそのお面に「死相」が出て完成させることができないでいました。

夜叉王には2人の娘があり、姉の「桂(かつら)」は気位が高く、玉の輿を望んでいるので、なかなか結婚できません。妹の「楓(かえで)」は従順な性格で、平凡な暮らしを望んでいたので、お父さんの弟子の「春彦(はるひこ)」と結ばれ、幸せな結婚生活を送っていました。

夜叉王に面づくりを頼んでいる頼家ですが、いつまでたっても面ができてこないので、何度も夜叉王に催促するのですが、返事がありません。ついに夜叉王を呼び寄せた頼家。何度作ってもその面に死相が現われるのでお見せできない、という夜叉王を頼家は怒って斬ろうとします。

これを娘の桂が止めに入り、それをやめさせる代わりにとうとう面を頼家に渡してしまいます。見事な出来映えの面。これに頼家は感銘し、この面を献上させることに。それだけでなく、桂の美貌をみた頼家は、彼女を側女として出仕させるよう要求。その昔亡くなった愛妾「若狭の局」の名前まで与えようとします。

ところが、その夜、幕府の討手が頼家が幽閉されていた寝所を襲います。桂は、面をかぶって頼家の身代わりとなって戦いますが、頼家は非業の死を遂げてしまいます。方や瀕死の状態で、父のいる実家に落ち延びた桂。頼家の死を知った父夜叉王は、自分の作った面に死相が現れていたのは、技量が未熟なのではなく、逆に頼家の運命を予言するほどの神業だったのだと知り、自分の技に満足します。そして、満足の笑みを浮かべながら、今まさに死のうとしている娘、桂の断末魔の顔を、のちの手本にするため写しとろうと、憑かれたように筆を走らせるのであった・・・

このお話、綺堂さんが30歳後半の作品のようですが、歌舞伎作品としては珍しく各国語に翻訳され、昭和2年にはパリで上演されたほどだそうです。この作品で一躍有名になった綺堂さんですが、「修禅寺物語」の作者というよりは、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の作者としてのほうがよく知られているみたいです。文庫本で出ていて、読んだ方も多いのでは。

この半七捕物帳、実は、綺堂さんが、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズを読んで刺激されてできたものなんだそうです。探偵小説というジャンルを面白いと思い、自分でも探偵ものを書こうと考えたのですがが、現代ものを書いて西洋の模倣と思われるのもいやなので、純江戸式で書くことにしたのだとか。

このほか、中国や欧米の怪奇小説を翻訳して、「世界怪談名作集」なども出版するなど、多才な人だったようです。

昭和14年、67歳で没。さきほどの随筆の引用は、大正7年の1月に書かれたもの。随筆中、10年ぶり・・・と出てくるので、おそらく「修禅寺物語」の着想を得てから初めての「里帰り」だったのではないかと思われます。

この随筆にはその当時の修禅寺の街中のことや、大仁の様子なども書かれていてなかなか面白いので、またほかの史料も合わせて引用してみたいと思います。

歩けば歩くほど、いろんな面白い事実が出てくる修禅寺の町。綺堂さんの時代に思いをはせながらまた、歩いてみたいと思います。