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”半分青い” と少女漫画

この4月から始まった「半分、青い。」を毎朝よく見ています。

NHK「連続テレビ小説」第98作目の作品で、来年にはもう100作目にもなるのか、と改めてその歴史の長さを思ったりもしています。

ただ、今回の「半分、青い。」はそうした歴史の重さを感じさせるような重厚な内容ではく、人気脚本家の北川悦吏子さんの書き下ろしによるオリジナルストーリーは、軽妙なタッチで描かれています。毎朝見たその余韻で一日を楽しく過ごすことができ、さながら朝一番に飲む清涼剤といった感じです。

ヒロイン永野芽郁さんは、朝ドラオーディション参加者2,366人から、初めてオーディションに参加して選ばれたそうで、1999年生まれの18歳。女優ですが、ファッションモデルでもあるようです。

集英社の雑誌、セブンティーンの専属モデルのほか、小学生向けのファッション誌「ニコ☆プチ」の専属モデルを務め、少女マンガ雑誌「りぼん」のモデルも兼ねているといいます。

番組では、楡野鈴愛(にれのすずめ)という役で登場します。ふとしたきっかけから、「秋風羽織」という漫画家と出会い、その勧めで上京して漫画家を目指す、という設定で、これを豊川悦司さんが演じていますが、この二人や周囲の取り巻きとのやりとりがなかなかコミカルで笑えます。




“くらもちふさこ”とは

この“漫画家トヨエツ”が描く作品として、劇中にも実在の漫画家の作品が使われています。「いつもポケットにショパン」「東京のカサノバ」などで知られる「くらもちふさこ」の作品です。

くらもちさんは、主に80年代後半のバブル期に多くのヒット作を飛ばしましたが、その前の70年代からも既に活躍しており、我々の世代もよく知る漫画家です。

ふつうの女の子の身近な叙情感をテーマに展開する作品が多いようです。それぞれの絵を枠線によって区切り、場面の転換や時間の流れを読者に想起させる「コマ割り」による表現が絶妙で、またその細やかな描線による内面描写が特徴的な作家です。

実はお父さんは、倉持長次(1924~2005年)という実業家で、元日本製紙会長です。日本製紙は、現在日本第2位(世界8位)の製紙業会社であり、日本を代表する企業のひとつともいえ、つまりお嬢様といえます。本名は「倉持 房子」と書きます。妹の倉持知子(ともこ)も漫画家であり、姉妹揃っての漫画家というのはめずらしいといえます。

高校時代(豊島岡女子学園高校)在学時に描いた作品「春のおとずれ」で第49回別マまんがスクール佳作を受賞。その後武蔵野美術大学造形学部に入学後、本画を専攻しつつも漫画研究会に所属。1979年にはプロの漫画家としてデビューし、1996年 「天然コケッコー」で第20回講談社漫画賞を受賞したことで漫画家としての地位を確立しました。

2017年は 「花に染む」で第21回手塚治虫文化賞マンガ大賞も受賞しており、この賞はいわば日本の漫画界におけるノーベル賞のようなものです。

私も大学時代になぜか少女マンガで好きな友達がいて、借りたモノの中にくらもちさんの作品があったように記憶しています。この当時から“乙女チック”と言われるような少女漫画が多い中、ドラマチックな心理描写でストーリー展開するくらもち作品に、なんとなく「深み」のようなものを感じたのを覚えています。

その後デビューした漫画家たちに大きな影響を与えたとも言われており、1990年代に入ってからは、より挑戦的な作品を発表するようになり、そんな中で生まれたのが代表作「天然コケッコー」です。2007年には山下敦弘監督によって同名で実写映画化されたため、こちらでこの作品を知っている人も多いでしょう。

小さな村に住む主人公の高校生の日々を、東京からの転校してきた男子高生との恋愛を軸に描いた連作短編です。ネットで調べて改めてこのころの作風を確認しましたが、さすがにベテラン作家の作品といえるタッチであり、若い頃に書かれた作品とはかなり異なった進化を遂げているように思えました。



少女漫画、その黎明期

このくらもちさんだけでなく、現在の少女漫画のほとんどは女性が描いていますが、いわゆる少女漫画といわれるものが世に出始めたころ、実はそのほとんどを男性が描いていました。

その「はしり」といわれるものは、1935年に「少女倶楽部」に連載された倉金章介の「どりちゃん バンザイ」だといわれています。また1938年から「少女の友」に連載された松本かつぢの「くるくるクルミちゃん」など、日中戦争前の少女雑誌で連載された作品が少女漫画の先駆けであるといわれているようです。

この当時は、少女漫画を描くのはほとんどが男性であり、手塚治虫もその名声を広めたのは1953年(昭和28年)に描いた少女向け漫画、「リボンの騎士」でした。少女漫画にストーリー性を導入したのは手塚治虫だといわれており、この頃から少女雑誌においては、従来絵物語にすぎなかったものを押しのける形で少女漫画の比重が高まっていきました。

いわゆる少女漫画とは、絵柄としては可愛らしい・綺麗・清潔といった印象を与えるものが多く、情趣を大切にした上で毒々しいものをリアルに描き込むことは避ける、といったことが基本となります。

また、モノローグ、すなわち登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を言う、といったシーンが多用され、心象を具象化した乙女チックな背景も特徴です。前述のとおり、場面転換や時の流れを意識したコマ割り、感情の流れを重視した画面技法にも特徴があるほか、少年漫画と異なるのは、必要最小限の描写に留められているものが多い、という点です。

立体感、動きを表現したり視点を頻繁に変更したりする絵は比較的少なく、また少年漫画と比較すると、「現実問題」を扱うことも多いようです。女性にとっての現実問題の最たるものはやはり「恋愛」や「家庭」であり、どちらかといえばパワーゲームが好まれ、冒険やアクションといったものに重きが置かれがちな少年漫画とはそこが最も違うところです。

また、少女漫画の少女漫画たるゆえんは「共感」である、という人もいて、これは言うまでもなく、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指します。

例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのが共感であり、自分以外の他からの「独立」がテーマになりがちな少年誌とはここが違うといえます。

ただ、そうした現代的な少女漫画はまだこの当時には登場しておらず、ただ単に「女子向け」といった程度のものでした。そうした漫画もまた当初は男性が描いていたわけですが、それでも女性向けである以上は「共感」や「愛」といったものは重要であり、そこはやはり男性にとっては描きにくいものした。

その一方で、1950年代後半から1960年代前半にかけては、いわゆる「宝塚ブーム」が起きるようになり、これが少女漫画に大きな影響を与えるようになります。このころの少女の多くが宝塚歌劇団の影響を受けるようになり、「高橋真琴」のように、それを意識した作風で一世を風靡するような作家が出てきました。

「真琴」というと女性のようですが男性作家であり、いわゆる貸本漫画家としてデビューした作家たちの一人です。主に童話のヒロイン、雑誌のカラーページなど、少女を題材とした作品を手がけ、緻密な装飾的描写と、華やかで繊細な彩色に定評があります。

いわゆる少女漫画特有の装飾的な表現の基礎を創った人ともいえ、人物の背景に花を描き込む、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目なども彼以降の少女漫画の定番となりました。

またこのころから「少女小説」も流行るようになり、宝塚の影響もあって美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーが繰り広げられる作品が増えていきました。しかし、やはり男性による女性目線での作風づくりには無理があり、この当時の少女漫画を見ると、どうしてもそこに男性ならではの視線を感じてしまいます。

戦後すぐの時代から1950年代にかけてはまだまだ女性の社会進出は認められておらず、漫画家といえども男性が主体とならざるを得ない時代背景がありました。このため1950年代から1960年代前半においてもまだ、少女漫画は男性作家によって描かれることが多く、高橋真琴の他では、少年漫画でも活躍していたちばてつやや松本零士などがいました。

古典的な少女漫画の様式や技法は、こうした著名な男性作家や男性編集者によって築かれたと言っても過言ではありませんが、それはやはり少年漫画において定着していた技法の流用にすぎませんでした。



女性漫画家の登場

ところが1960年代も後半に入ってくると、このころから“少女クラブ(後年の少女フレンド)”や、“ひとみ”、といった少女漫画雑誌が流行るようになり、各誌で女性漫画家を育てよう、という機運が高まるようになります。そうした中から、女性ストーリー作家第1号とされる「水野英子」が現れ、彼女が少女漫画の表現の幅を広げていきました。

この水野英子は、日本の女性少女漫画家の草分け的存在ともいわれます。後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、女手塚(女性版手塚治虫)と呼ばれることもある作家で、1960年代のカウンターカルチャーを真正面から扱ったロック漫画「ファイヤー!」は少女漫画の枠を超えて広い注目を集めました。

また、かの有名な「ベルサイユのばら」を描いた「池田理代子」の登場も少女漫画界にとっては大きく、さらにこのころからは「24年組」といわれる個々の作家性の強い作家が存在を見せ始めました。

24年組とは、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群を指し、「花の24年組」とも呼ばれます。

青池保子(昭和23年生)、萩尾望都(昭和24年生)、竹宮惠子(昭和25年生)、大島弓子(昭和22年生)、木原敏江(昭和23年生)、山岸凉子(昭和22年生)、樹村みのり(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、山田ミネコ(昭和24年生)などが24年組であり、彼女たちによって少女漫画は飛躍的に進化していきました。

かつては単に少女趣味的なものであった作風が独自の変化を遂げ、作品の文芸性と独自性はより高く、より広くもなって、その後の1970年代から1980年代に至るまでの少女漫画の世界は大きく変わりました。この時期、男性少女漫画家はほぼ消滅し、例外だけが残るようになりました。

このころの少女漫画は、その演出技法だけでなく物語ジャンルへも広がり、それまでにないSF、ファンタジー、ナンセンスギャグ、少年同性愛を描く少女漫画家が出て、書くものに制限がないというほど少女漫画の世界が一気に広がりました。

さらに24年組の後輩に当たる「ポスト24年組」と呼ばれる女性漫画家たちが出るようになり、これは、水樹和佳(昭和28年生)、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子(昭和28年生)、佐藤史生(昭和27年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)などです。

上述のくらもちふさこが若い頃に師事した「美内すずえ」も1951年、昭和26年生まれであり、ポスト24年組の一人といえるでしょう。代表作「ガラスの仮面」は、1976年(昭和51年)に「花とゆめ」にて連載開始されてから現在まで長期連載が続いており、累計発行部数が5,000万部を突破した大ベストセラーでもあります。

この24年組やポスト24年組など、1970年代初頭に登場し、新しい感覚で女性漫画界を切り開いていった女性作家たちは、SFやファンタジー、同性愛といった新しい概念を導入するだけでなく、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、次々と当時の少女漫画界の常識を覆していきました。

24年組の漫画家はまた、主人公が少年である作品も手がけるようになりました。ただ、当初は読者が少女なのに少年が主人公などとはあり得ないという編集部からの反発もあったといいます。ところが実際には少女読者たちからはこれが絶大なる人気を博すところとなり、ますます少女漫画の隆盛に寄与するところとなっていきます。




少女漫画から女性漫画へ

さらに1980年代に入ると、従来の少女漫画と一線を画す画風の少女漫画家が人気を博すようになります。従来の少女漫画は過剰ともいえる背景装飾がなされることが多かったものですが、これらの装飾的表現はこの時代徹底的に簡略化されていきした。

また等身大の女性を丁寧に描く作家が増え、シンプルな背景にキャッチライトが入らない目の人物像を描く漫画家が多くなり、「性」や「職業」といったいわばそれまではタブー視されていたようなテーマを取り上げた作品も増え、これによって少女漫画読者層が広がりました。

こうして、大人の女性向けの漫画、「女性漫画」といわれるものが成長していき、その中からレディースコミック、ヤング・レディースという名称の下に新たなジャンルが確立されていきました。

ところが、1990年代以降はバブル崩壊の影響で、世相が不安定になります。学校では授業崩壊などをきっかけに青少年問題の質の変化が現れ、少女漫画の中でもこれらが語られるようになり、心の問題を描く傾向が顕著になっていきました。

こうした中、これまではあまり見られなかった、「自ら行動を起こす」主人公像も求められるようになり、青年漫画が大きく成長したこともあって、元々こうした自立的なテーマの多かった青年漫画と同じテーマで少女漫画が描かれるようになりました。青年漫画と女性漫画の両者を手がける作家が男女を問わず増えるようになったのもこの時代です。

さらに1990年代後半以降は、若年層の人口減少と読者の嗜好の多様化に伴い、必ずしも「少女向け」とはいえない、従来の枠ではもはや捉えにくい、といった雑誌も増えました。そんな中、少女漫画や女性漫画の専門誌の発行部数は減少の一途をたどっていきました。

ただ、少女漫画的なテーマや表現手法は日本の漫画で広く定着したといえ、ある意味熟成の時代に入ったといえます。従来に比べて男性を含めた幅広い年齢層に女性向けの漫画が受け入れられるようになったことがそれを物語っています。

2000年代以降の現在、21世紀のインターネット普及時代に入って、漫画を掲載する雑誌やその他の媒体は、さらなる多様化の一途を辿っています。ネットの影響による時代の思考の変化などもあり、かつての少女漫画とは別の普及媒体と手法を持つものも確立されつつあるようで、それは例えばゲームやVR(バーチャルリアリティー)の世界です。

かつて女性向けの作品群を指していた少女漫画はさらに別の世界を目指して変化しつつある時代のようであり、その行き着く先を想像するのさえ難しい時代に入っているといえます。



24年組

しかしそれにしても現在に至るまでの少女漫画の系譜の底辺ともいえるものを形作ったのはやはり前述の「24年組」といっても過言ではないでしょう。

この中でも中心的な存在であったのは、竹宮惠子と萩尾望都といわれていますが、彼女たちを最初に見出し、世に送り出したのが雑誌編集者の「山本順也」といわれています。

若い頃から編集者として活躍し、数々の女性漫画家を育ててきました。日大藝術学部映画学科を卒業したあと小学館に入り、少女漫画誌「少女コミック」の創刊メンバーとなったのがその道の始まりで、のちの1970年に「別冊少女コミック」の創刊号で副編集長として加わり、その発展に寄与しました。

このとき、当時まだ無名に近かった萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子らを登用し、その後も倉多江美、樹村みのり、伊東愛子といったのちの人気作家を次々と起用し、やがては彼女たちとともに少女漫画界に新しい波を起こすようになりました。

大人向けの女性漫画の第一人者として知られる里中満智子もまた「山本氏がいなければ日本の少女漫画の発展は10年は遅れたと思う」と語っています。里中は昭和23年生まれであり、画風などから24年組とは目されていませんが、彼女のような有名作家にも山本は大きな影響を与えたようです。

晩年の2000年には、京都精華大学芸術学部に日本で始めて新設されたマンガ学科の教員に就任するなど、その生涯を漫画に捧げましたが、残念ながら2015年に77歳で亡くなっています。

その山本が竹宮惠子と萩尾望都を見出したきっかけというのはこうです。1962年の「少女サンデー」休刊以来、小学館は講談社の「なかよし」や集英社の「りぼん」・「マーガレット」などに大きく遅れを取っていました。

そこで新雑誌創刊の任を負った山本は1968年、「小学一年生」などの学年誌に掲載されていた少女向けの漫画を集めて、月刊誌「少女コミック」を創刊します。

同誌は1970年に週刊化されましたが、当時は多くの漫画家が他の出版社と専属契約をしており、山本は作家の確保に苦労していました。そのころ竹宮を紹介したのが手塚治虫であり、彼女は手塚が経営する虫プロ商事が手掛ける雑誌「COM」に時折作品を投稿していました。

当時の竹宮は親の希望により郷里の徳島県の大学に通い、学生運動に参加し、本格的な漫画誌への漫画掲載を断っていましたが、そんな竹宮を山本は徳島まで赴き、「新しい事を始めたいので協力してくれ」と説得しました。

そして、その説得に応じて上京してきた竹宮は、共通の知人である手塚を通じて萩尾と知り合います。意気投合した二人は共同生活を始めましたが、その場所は練馬区大泉にあり、ここを紹介したのが竹宮の友人の増山法恵(竹宮のプロデューサー・原作者をへて、のちに作家)でした。




大泉サロンから

増山は、この若手の女性作家二人をみて「女性版トキワ荘」のような場所と作りたいと考えるようになったといい、増山の家の真向かいにあった長屋がその候補でした。のちに「大泉サロン」と呼ばれるこの長屋は、後年ポスト24年組の一人に数えられる坂田靖子が命名したとされますが当時はまだその名はなく、住み始めたのも竹宮と萩尾の二人だけでした。

2軒長屋の1戸建てアパートで、その片方一軒を竹宮と萩尾が借り、1階にある台所と6畳間がリビング、2階の二間を寝室兼仕事部屋として使っていました。周囲はキャベツ畑が広がる畑作地で、時に腐ったキャベツの匂いが漂うような場所だったといいます。

東京に生まれ育ち、プロのピアニストを目指していた増山は、幼いころからクラシック音楽、文学、映画、そして漫画にも親しんでおり、少女漫画・少女漫画家が低く扱われることを不満に思っていました。そこで増山は芸術として高いレベルの少女漫画を目指し、竹宮、萩尾にヘルマン・ヘッセの小説や映画、音楽など様々なものを紹介しました。

のちに二人の作品のテーマになる「少年愛」も、もともとは増山の趣味で、こういった作品を描いてほしくて二人に教えたといい、竹宮も増山からいろいろ聞いているうちに少年同士の世界「耽美」を認識するようになったと述べています。

そこに次第に同じ女性漫画家が集まるようになります。

山岸凉子(昭和22年生)、山田ミネコ(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、伊東愛子(昭和27年生)、佐藤史生(昭和27年生)、奈知未佐子(昭和26年生)、坂田靖子(昭和28年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)、波津彬子(昭和34年生)などがそれで、昭和24年前後に生まれた若き女性漫画家達がこの大泉サロンに集まりはじめました。

漫画を描いたり、アシスタントをしたり、語りあったりしては帰宅する生活を送るようになった彼女らはその後の少女漫画界を担う人材として成長していきました。

この「サロン」は、1970年から1973年頃までのわずか3年ほどしか続いていません。しかしその活動期間に、肉筆回覧誌「魔法使い」の作成や、互いの作品制作への協力、少女漫画の今後のあり方に関する議論などの交流が日夜なされ、それらがやがて貴重な資産となり、今日の少女漫画の基礎へとつながっていきました。

仲間でつるんで旅行に行くこともあったといい、それらがまた作品の肥やしにもなりました。特に大規模なのは、竹宮、増山、萩尾、山岸の4名での45日間のヨーロッパ旅行に出たときもので、ハバロスク、モスクワといった東欧まで含めたこの大規模な旅行は彼らのその後の作風にも大きな影響を与えました。

竹宮はじめ24年組の多くがヨーロッパを舞台にした漫画を描くようになったのはこのころからであり、そこで形作られた作品が日本人だけでなく外国人を魅了するのはこのときの経験から得られた作風のためと考えられます。そうして作られた作品群は、やがては世界に通用する「少女漫画」という新たなジャンルの確立へとつながっていきました。

現・新潟大学准教授で専門は映像文化論が専門の石田美紀は、「映画学者」として知られますが、彼女は、この旅は単なる観光旅行ではなく、表現を深めるためのもので、戦後の女性史においても画期的なものだったと述べています。

大泉サロン解散後も、ここに参画した漫画家たちはそれぞれに親密な関係を持ち続けました。彼らの多くは、その後数々の賞を受賞するなど、少女漫画界だけでなく日本の漫画界全体の重鎮として現在も活動を続けています。とくに萩尾や山岸の活動はいまだ活発で、2000年代に入ってからもいろいろな漫画賞を受賞しています。

「大泉サロン」があった場所は、東京23区内にしては当時からかなり田舎っぽいところであり、現在も農地に囲まれています。サロンがあったアパートは既に解体されてなくなっていますが、萩尾望都「キャベツ畑の遺産相続人」などに名を残すキャベツ畑は今も健在です。

わいせつとは何か

人気グループTOKIOのメンバー、山口達也さんが強制わいせつ容疑で書類送検された、というニュースが日本中をざわめかせました。

報道されているいろいろなニュースを見ると、家庭的な事情もあったようですが、お酒の問題も深刻だったようです。ただ、だからといってああそうですか、と許される問題でもありません。

テレビをはじめ多くのメディアに顔を出し、世間に大きな影響力のある人気者としてはやはり超えてはならない一線を越えた、と言わざるを得ません。ご本人はもう既に十分に反省しておられるでしょうが、事の反響は大きく、まだまだこのあと尾をひきそうです。

ところで、この「猥褻」という言葉の意味を改めて調べてみました。

すると、わいせつの「猥」は、もともと「乱れる」「崩す」という意味があり、そこから転じて男女のみだらな関係を意味するようになったようです。また褻は、本来「肌着」を意味する語ですが、それを長いあいだ着続けることの不潔さから、「よごれる」「」けがれる」という意味もあらわすようになっていったようです。

合わせて「乱れ穢れた行為」という意味になるわけですが、日本の刑法において、従来は「猥褻」と難しい漢字で表記されていました。しかし1995年(平成7年)の刑法の口語化改正により表記が改められ、今は「わいせつ」と簡単にあらわされるようになっています。

このわいせつ罪ですが、刑法上はふたつあり、ひとつは、刑法174条に基づく「公然わいせつ罪」でもうひとつは、刑法176条に基づく強制わいせつ罪です。前者が「性的感情に対する罪(社会的法益に対する罪)」であるのに対して、後者は「性的自由に対する罪(個人的法益に対する罪)」であって、法的性格が異なります。

わかりにくいのですが、ようするに公然わいせつ罪のほうは、公衆の面前で行う行為で、不特定多数の人の公益に反するとみなされる行為をすることであり、強制わいせつ罪のほうは、個人的な身勝手で行う行為であって被害者は特定の人に限定されます。

これを簡単に説明するのによく使われる例があり、それは強制的にキスをする行為は「わいせつな行為」として「強制わいせつ罪」になりますが、夫婦が公衆の面前でキスをする行為は「わいせつな行為」ではなく、「公然わいせつ罪」にはあたらない、というものです。

ところが、このキスという行為は戦前は無論のこと、戦後まもなくのころまでもかなりいかがわしい行為とみなされており、公然わいせつ罪とみなされてもおかしくないものでした。公序良俗に反する行為とされ、面前で行うのは無論のこと、映画などで放映されるキスシーンも戦前はご法度でした。

そもそも、わいせつという概念は、法的に定義された概念であるものの、時代と場所を超越した固定的な概念ではありません。何がわいせつであるか否かは、その時代、社会、文化に対応して変化する「性」に対する規範意識に左右され、社会通念によって判断されるものです。

したがって、現在における「猥褻」の判断は戦前のそれにおいて適用されるものではなくようするに「普遍的」なものではない、ということです。憲法第21条で保障される「表現の自由」においてわいせつ的表現が該当するかどうかについては、学説上も争いがあり、未だに定説がないといいます。




そうした議論の中において、性的な表現の一部が、現在ならば当たり前のものであって自由にしていいというものが認められず、違法かどうかをめぐって激しく争われた事例もありました。

実はわいせつかどうかを問われる罪にはもうひとつ刑法175条というのがあり、これは「わいせつ物頒布等の罪」ともいい、「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者」は罪に問われます。

これが憲法21条に違反するかどうかいうことで争われ、一審二審とも有罪判決を受けたあと、最高裁でも有罪とされたの「チャタレイ夫人事件裁判」です。判決が出たのは1957年(昭和32年)のことであり、わいせつと表現の自由の関係が問われたものの中でも最も有名な事例です。

「チャタレイ夫人の恋人」は、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品であり、これを日本語に訳した作家の伊藤整(せい)と、版元の小山書店社長小山久二郎が被告となりました。そもそも日本政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた占領下の1951年に始まったものであり、1957年に結審するまで6年もかかりました。

ところがこのチャタレイ夫人…はその後、1981年にシルビア・クリステル主演で映画化もされており、原作よりもより過激な内容になっているにもかかわらず、まったく罪に問われるようなことはありませんでした。40年も経てば性的描写についての社会的批評にこれほどの差異が出てくるのか、と考えさせられます。

簡単にあらすじを書いておくと次のような内容です。

炭坑の村に領地に持つ貴族の妻、コンスタンス・チャタレイ(コニー)は夫と蜜月の日々を送っていた。しかし、夫のクリフォード・チャタレイ准男爵は陸軍将校として第一次世界大戦に出征、クリフォードは戦傷により下半身不随となる。復員後は2人の間に性の関係が望めなくなるが、夫はその後作家としてある程度の名声を得るようになる。

しかし、コニーは一日中家にいる夫との二人きりの日々の生活に閉塞感を強めていくとともに、性生活ができないことを悩みに思うようになっていく。一方の夫のクリフォードのほうは、じぶんたちに「跡継ぎ」がいないことを深刻な問題として考えるようになる。

悩んだ末にクリフォードは、あろうことかコニーに自分以外の男性と関係を持つよう勧める。ただ、その相手の条件とは、同じ社会階級であることであり、また子供ができたらすぐに身を引くことができる人物であること、であった。

コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆くが、そんななか、チャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズと会話を交わすようになる。オリバーはかつて陸軍中尉にまで上り詰めたほどの軍人だったが、上流中流階級社会になじめず退役し、チャタレイ家で雇われるようになったのだった。

妻に裏切られて人生の味気無さを悟り、一人暮しをするオリバーだったが、コニーはこの変わった男の威厳と自信に満ちあふれているようにみえるその姿に次第に惹かれるようになっていく。やがてふたりは恋に落ち男女の仲になる。秘密の逢瀬を重ね、性による人間性の開放に触れたコニーは、やがてクリフォードとの離婚を望むようになる。

しかしなかなか夫に言い出せず、閉塞感漂う思いの中、気晴らしのために姉と共にヴェニスに旅行に出かける。しかしその旅行先でコニーはオリバーの子供を妊娠していることに気がつく。ちょうどそのころ、オリバーのかつての妻がクリフォード領地に戻ってくる。彼女はかつての夫とコニーが通じていることに感づき、世間に吹聴して回るようになる。

その噂はすぐに夫のクリフォードの耳に入るところとなり、オリバーは森番を解雇され、別の農場で働くようになる。旅先から帰ってきたコニーは、オリバーを追い出したクリフォードを詰問し、ついには離婚を申し出る。しかし夫はこれを承知せず、コニーは改めてこの夫に失望する。

やがて名誉も身分も、真実の幸福には関係ないことを悟ったコニーは、オリバーの許へ走り、そこで新しい人生の門出をするのだった。

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ストーリーだけを追っていると、なんだ別に過激でもなんでもないじゃないか、と思うわけですが、原文にはやはりそれなりの露骨な性的描写があったわけです。小山書店の社長も、その当時は度を越えていることを理解しながらも出版したようで、無修正版が発行されて2ヶ月後にはもう警視庁に摘発されて発禁処分になりました。

裁判そのものは1957年(昭和32年)3月に結審して終わり、被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決として確定しました。

しかし1964年(昭和39年)には、新潮社から、伊藤整訳で性描写部分を削除した版が発行されました。さらにその後、時代の変化や英米での無罪判決も受け、1973年(昭和48年)に、講談社から羽矢謙一訳で無修正版が初めて発刊。1996年(平成8年)には新潮社から伊藤整訳・伊藤礼補訳で、削除部分を補った「完訳」版が発行されるに至ります。

ここに至るまでには、チャタレイ夫人裁判以降さらに、「悪徳の栄え事件・裁判(1969年(昭和44年))」、「四畳半襖の下張事件裁判(1980年(昭和55年))」という、やはりわいせつ表現が憲法違反になるかどうかが争われた大きな事件があり、そのいずれも最高裁まで行ったものの、結論としては違法という判断になりました。

しかし、四畳半襖の下張事件での判決では、「その時代の」社会通念に照らして判断すること、という但し書きがついており、以後、わいせつ表現に関する風向きが変わっていきました。1996年に、以前は発禁であったチャタレイ夫人の「完訳」版が発行され、特段罰則を受けなかったのもそうした流れによるものでしょう。

ただ、2007年(平成19年)にはさらに、松文館から発行された成人向け漫画の猥褻性をめぐる「松文館事件裁判」という同様の裁判が行われ、最高裁では二審判決の漫画もわいせつ物に当たるという判断を支持し、二審判決が確定。わいせつか表現の自由かという議論については、現在に至るまで肯定論者と否定論者の攻防が続いています。



こうしたわいせつか否か、という議論をするときに良く持ち出される用語に「エロティカ」と「ポルノグラフィ」というのがあります。「エロティカ」は、性的興奮を起こす素材を扱う作品のうち、芸術的・科学的な価値を意図したり残したりしているものを指し、「ポルノグラフィ」は、性を好色に描写し芸術的価値が少ないか全くないものを指します。

このふたつの違いを区別することは、なかなか難しく、エロティック・アートというものの存在を支持する立場からは、エロティカは性的な面白さより芸術的な面白さを追求するものであり、それゆえポルノとは違うとされます。しかし、エロティカも実際は性的興奮を起こすことを目的としているとして、このような主張を退ける意見もあります。

裸体芸術や性科学などの名目で公開されてきた「性科学映画」は社会的に認められています。また、性を商業化するものとして糾弾されることのあるピンク映画やポルノ映画であっても「芸術作品」として評価されるものもあるわけであり、どこでポルノとエロティカの線引きをするかはなかなに難しいものです。

ただ、ポルノのほうは女性差別の問題と関連付けて論じられることがあり、例えば電車などの公共空間におかれた週刊誌の広告のグラビアなども女性身体を一方的に性的な客体として描く女性差別的な表現とみなされることもあります。

一方では女性向けのポルノと言われているものもあり、レディースコミック・ティーンズラブ・ボーイズラブといったジャンルがそれです。

ボーイズラブは男性同士の同性愛を、レディースコミックやティーンズラブでは男女間の異性愛がメインとして描かれているわけですが、いずれにせよここに描かれているものは男性向けではなく女性向きなポルノグラフィなわけです。

男女それぞれに向けたポルノが存在するわけであり、このことからもポルノは女性蔑視を主旨とした男性だけのものかといえばそうではないことがわかります。

男性だけでなく女性も含めて、人類全体にわいせつかどうかという議論は存在するわけであり、かくして官能表現をめぐるラビリンスは深まるばかりです。過去から未来へ向けて「性」の内容は変化しつつあるようですが、その行き着くところはどこなのでしょう。

何がエロティックなのかという理解は時代や地域によって変わるため、エロティシズムを一律に定義することは難しいようです。ルーベンスが描いた官能的な裸体は、17世紀にそれが庇護者に献呈されるため製作されたときにはエロティックでありポルノグラフィックでもあると考えられました。

「チャタレイ夫人の恋人」もまた性を露骨に扱ったために猥褻とされ、1928年の完成から30年間にわたって多くの国で出版や流通に適さないとされてきましたが、今日では学校の標準的な文学と見なしている地域さえあります。

日本の各地に男女器を形どった「神」が祀られていますが、こうした彫刻は伝統的に病魔や死を退散させる象徴とみなされてきたのであって、エロティックと呼ぶべきものではありません。

そう考えてくると、未成年者に強制的にキスをするという行為も時代を超えた遠い未来の世界では合法行為として受け取られるようになるのかも。

いや、そんな遠い時代にはきっと、キスという行為の意味も変わっていて、もしかしたらおしりとおしりをくっつけあう行為がそれと呼ばれるようになっているのかもしれません。

そんな時代にはもう電車なんかには乗れなくなっているかも。いや電車というものすらない時代とすれば、その行為はどこでやるのでしょう。

もしかしたら未来の地球人はそうした愛を宇宙で交わしているのかもしれませんが… 妄想は膨らむ一方です…



B’z の失われたギター

B’zの松本孝弘さんが、20年以上前になくしたギターを探しているそうです。

「公開捜査」として、
公式サイト(https://bz-vermillion.com/lostguitar/)まで立ち上げ、ギターの写真を掲載し、メーカーやロゴなど特徴を詳しく紹介するとともに、情報提供者向けの入力フォームも用意されています。

捜査対象となっているの、松本さんがかつて所有していたメインギターで、公式サイトでは「突然のお願いで恐縮ですが、皆さまのお力をお貸しください」と協力を呼びかけており、公式サイトにおけるこの文々は、5000回以上リツイート(拡散)されたといいます。

B’zは、現在、東京有楽町で「B’z 30th Year Exhibition “SCENES” 1988-2018」を開催中ですが、松本さんはそもそもここにおいて、このギターを展示したかったのだそうです。上記サイトでも、「本来であればこの場所に展示されるべき1本のギターがあります」と書いており、それが「1997年に保管先より忽然と消えてしまった」ことを明らかにしています。

「当時、あらゆる可能性を考えて捜したものの所在がつかめず、手がかりもないままに捜索が断念」したのだといい、展示会の準備を進める中で「30年の軌跡を感じていただく中で、やはりこのギターを諦めてはいけないという思いが高まった」といいます。

20年以上前とは違い、現在はインターネットやSNSによる情報の発信・拡散が可能となっており、今回捜索に踏み切ったのも、もしかしたら「奇跡」も起きるかもしれない、という思いから、ファンの方々の協力を呼びかけるに至ったようです。

捜索対象となっているB’zのギター (オフィシャルHPより)

このB’zについては、今や国民的スターとして知らない人はいない、と思います。が、一応説明しておくと、1988年に結成され、同年にシングル「だからその手を離して」、アルバム「B’z」の同時リリースでメジャーデビュー。以降多数のヒット作を輩出し、日本音楽界における数多くの記録を樹立したことでも知られる、ロックユニットです。

結成当時、日本の音楽シーンが「バンドブーム」を迎えていた中、B’zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューしました。当初は他のメンバーも探すつもりだったそうですが、2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになったといいます。

通常のバンドでは4~5人いるのが普通ですが、だとしても重要なものを飾るのは2人くらいです。しかし、松本さんは、ギターと気に入ったボーカルさえあれば、ユニットは成り立つ、後はサポートメンバーを入れればなんとかなる、と考え、稲葉さんと2人でやっていこうと思ったといいます。

その松本さんも今年でも57歳。相棒の稲葉さんも54歳であり、さすがに月日の流れを感じてしまいます。しかし、現在も日本国内外で900回を超える公演数をこなしており、その活動は衰えを知りません。これまでに約8,000万枚を超えるアーティスト・トータル・セールスの日本記録を達成しており、この記録はまだ誰にも破られていません。




ミュージック・マン

そんなB’zのリーダー、松本さんが探しているというギターは、彼が1995年~97年にかけて使用していたエレキギターで「ミュージック・マン」といい、製造はアメリカの「アーニー・ボール」という会社です。

鮮やかなピンクのカラーリング、そしてヘッドにドクロと「GO NO FURTHER」の文字があしらわれたロゴマークが入っているのが特徴であり、「ミュージック・マン(Music Man)」は、アーニー・ボール社が販売する楽器ブランドです。

もともとは、レオ・フェンダーという人が1946年に立ち上げた楽器メーカー、「フェンダー社」の一ブランドでしたが、1972年にこのブランドを手放し、フェンダー自身が「ミュージック・マン社」として独立させました。

レオ・フェンダーがこのブランドを立ち上げた理由は健康上の問題もありますが、自身が「技術者として新製品を開発したい」という気持ちからであったからだといいます。

ただ、最初にミュージック・マンの名が入った製品はギターやベースではなく、アンプであったといい、のちの1976年になって、ミュージック・マン初のギター・ベース、「スティングレイ」を発表したところ、ルイス・ジョンソン(マイケルジャクソンの“スリラー”のセッションミュージシャン)をはじめとする多くの有名ベーシストの支持を受けました。

その後、1986年に経営移行し、社名が「アーニー・ボール」に変わって以降も「ミュージ・マン」ブランドは継続しました。新たな社名で初めて発売されたギターで初めてリリースされたギターにも「ミュージック・マン」のブランドが冠され、「ミュージックマン・シルエット」として販売されました。

このモデルの開発には、「Guitar player’s guitar player」と評され、卓越したテクニックと幅広い音楽性から業界で崇拝を集めている「アルバート・リー」が加わっており、さらに販売されてからは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズの使用で大人気となりました。

1987年には、のちの「ディープ・パープル」のギタリストとしても知られるスティーヴ・モーズの「シグネチャー・モデル」を発表。シグネチャー・モデル(Signature Model)とは、有名人の署名(signature)が入ったモデルのことであり、有名ミュージシャンの名前を冠することで、販売拡大を狙った商品のことを指します。

さらには、エドワード・ヴァン・ヘイレン(EVH)スティーブ・ルカサー(LUKE)ジョン・ペトルーシ(JP)といった、アメリカの著名ギタリストのシグネチャー・モデルを次々と発表し、何れのモデルもその実用性やクオリティの高さからプロアマ問わずに多くの愛用者を得ることに成功しました。

松本さんが所有していたというミュージック・マンは、このうちのEVH モデルであり、現在市場に出ているものでも、30~50万円程度はするようです。ましてや20年前のこうした特注仕様と思われるようなものは、おそらくその2~3倍のお金を積んでも入手できないようなシロモノと思われます。



アーニー・ボール社

このミュージック・マンを買収して発展させたアーニー・ボールという人は、型破りな経営方針で知られた実業家です。市場調査を無視し、まず先に製品を市場に出してからそれが成功するかどうかをテストするのを好んだといい、損益を必要悪とみなし、失敗を恐れない人物でした。

自身の直感を信じ、それを疑わなかったことでも知られ、1980年代初め、高級ギター、ベース、アンプ製造に手を伸ばすため、ミュージック・マン社を買収したときも、その直観力によって、彼らの技術力が将来にわたって利益をもたらすことを見越していました。

彼はまた、元フェンダー社員で、のちにその優れたデザイン力で知られるようになる技術者、ジョージ・フラートン (George Fullerton) を抜擢しました。彼の力を得て、世界初ともいえる現代的アコースティック・エレクトリックベースを開発し、「アースウッド」というブランドで1972年に発表しました。

しかし、奇抜なデザインであったため、まったく売れずに2年で販売中止になりましたが、
生産台数が少なく、現存する物は、超レアものとして、高い金額で取引されるとともに、マニアの間では垂涎の的になっているといいます。

アーニー・ボールは、需要を読み、既存の製品を改良し、市場の要求を充たす、というやり方で、ギターというそれまでは、素人の趣味の世界でしか用いられなかった一楽器を、「プロが用いるインストゥルメント」という形容に変え、その結果、彼の会社から生み出された製品は55万軒以上の店で売られ、70カ国以上に輸出されるに至りました。

1970年代初めのことであり、彼はアメリカの小さな楽器メーカーにすぎなかった会社をヨーロッパやアジアでも認められる大企業に押し上げました。

またギターだけでなく、これに張る「弦」にも着目し、その主力商品「スリンキー」は、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ピート・タウンゼントのほか、ロックの象徴達が使う一流ブランドとして定着させ、アーニー・ボールを世界の「弦メーカー」としても成長させました。



アーニー・ボールの生涯

アーニー・ボールは、1930年、カリフォルニア州サンタモニカで生まれました。生名は、シャーウッド・ローランド・ボール(Sherwood Roland Ball)といい、父は車のセールスマンの傍ら、ハワイアン・スティール・ギターを教えていました。

また、彼の祖父は、1910年代にヒットしたポピュラーソングのスタンダード「アイルランド人がほほ笑むとき (When Irish Eyes Are Smiling)」という曲の作者であり、ボール家は音楽一家として知られていました。

ボールもまたそうした父や祖父の感化を受け、9歳の時から、スティール・ギターを手にしていたといい、毎日3時間以上の練習をこなし、1年も経たずにミュージシャンズ・ユニオン(アメリカのプロの音楽家の労働組合)の一員となったといいます。

10代はじめにはすでにプロとしての演奏活動を開始。南ロサンゼルスのビアバーでギターを弾いていたといい、19歳の頃、「ウェスタンスイング(注:1920年代後半に起きたアメリカのカントリー・ミュージックのサブジャンル)」のパイオニアとして知られる、「トミー・ダンカン」の主催するバンドに加わり、米南部をツアーして回りました。

その後勃発した朝鮮戦争では兵役に取られましたが、この間も空軍バンドに入ってツアー続け、ここではギターだけでなく、バスドラムも担当。軍役の後、ロサンゼルスに戻った彼は、しばらくの間、酒場やラウンジでの演奏を続けていましたが、そこへ転機が訪れます。

ロサンゼルスの老舗テレビ局、KTLAの人気テレビ番組「ウェスタン・バラエティ」から演奏依頼があり、この番組への出演によって、彼の活躍の場は、一躍ロサンゼルス中のミュージック・シーンに広まるところとなり、番組の評判も手伝って、ギターの第一人者としての名声を得るようになりました。

1958年、ボールはアメリカで最初のギター専門店を、ロサンゼルス郊外の町、タルザナ(tarzana)に開きました。このころ、ミュージックショップといえば、ギターだけでなく、ドラムスティックや他の楽器も置くのが常でした。これに対し、まだ弦楽器としては亜流とみなされていたギターしか置いていないこの店は、当然奇異な目で見られました。

ギターしか扱わないことを批判されることもしばしばでしたが、こうした時必ず彼が言っていたセリフが、「俺はギターを売りたいだけだ」でした。しかも「ギターショップなんて儲かりゃしないさ」という彼の決めゼリフは逆に評判になって噂を呼び、やがて何マイルも離れた所から人々が店に来るようになりました。

こうしてギター専門店を軌道に乗せたボールが次に打った手は、それまで着目されてこなかった「弦」の販売でした。

ボールの店がオープンした1960年代というのは、ギター中心のロックのリバイバル期にあたっていましたが、こうした曲を弾くにあたり、初心者の多くが当時のベストセラー、フェンダー社製の「#100 ミディアム・ゲージ弦」を使っていました。

しかし、この弦は太すぎ、とくに0.029インチ(0.74mm)の3弦を押さえることは難しいことに彼は気付きました。

ボールは、このころまだ、フェンダー社にいたフェンダーにこの問題を持ち出し、より軽いゲージを提案しましたが、断られてしまいました。しかしあきらめず、別の弦メーカーに、3弦をより細い0.024インチにした特製のセットを造らせ、彼自身の店で売ることにしました。これが、アーニー・ボール・ブランドの始まりです。

ハリウッドに程近い彼の店に置かれたこの弦は評判を呼び、次第にザ・ビーチ・ボーイズやマール・トラヴィス、ザ・ベンチャーズといった著名プロミュージシャンの支持を得るようになっていきました。

しかしボールは更なる改良を恐れず、それまでの標準的6弦を捨てて、替わりにより細いバンジョーの弦を使うことにより、全体的により軽いゲージを実現し、これを演奏するプレイヤーの増加を目指します。

再び彼は、フェンダーに、このより軽いゲージのセットを提案しますが、また却下され、次いで、このころすでに大企業になっていた楽器メーカー、ギブソンに対してもアプローチしましたが、このアイディアは一笑に付されてしまいました。

そこで彼は、再び無名の弦メーカーに彼のアイデアに基づく弦を発注し、これに「アーニーボール・スリンキー」という製品名を付けました。

このスリンキーは当初、個人や小売店からの注文メールを細々と受けるだけでしたが、時を経て多くのプロミュージシャンから注文が来るようになってからは大ヒットし、この弦を装したギターは彼らとともに世界中を旅するようになりました。

しかし、このころのボールはまだ、自分の店を弦メーカーとして拡大させるつもりはなく、ミュージシャンからの要望に応じて弦を制作する、という注文生産にこだわるとともに、彼らが好みのセットを実験出来るよう、店頭で様々なサイズの弦を展示していました。いわば町工場のようなもので、とことん、その質にこだわりました。




成功、そして晩年

その後、1967年店舗を売り、弦ビジネスをカリフォルニア州南部のニューポートビーチに移設、前述のとおり、ジョージ・フラートンの力を得て、1972年に現代的アコースティック・エレクトリックベース、「アースウッド」を発表するに至ります。

これにより、会社の業績は飛躍的に伸びてきたため、1985年、より広い工場敷地を求めて、会社をニューポートビーチと同じカリフォルニア州南部のサンルイスオビスポに移しました。さらに翌1986年、高級ギターやベース、アンプ製造に手を伸ばすため、ミュージック・マン社を買収しました。

ニュージック・マン社の買収後、彼のリーダーシップの元、会社はさらに拡大し、年商4,000万米ドルをあげる、全米でも屈指の楽器メーカーにまで成長しました。

このころから、毎年バトル・オブ・ザ・バンドという、新人ミュージシャンの登竜門ともいえるようなコンテストも開催するようになるとともに、他の全国的商業イベントにも参加するようになり、単なる楽器メーカーからプロミュージシャンを生み出すプロモーターとしても全米で注目を集めるようになっていきました。

アーニー・ボールは、その後、2004年9月9日に亡くなるまで、自社の経営に関わりました。創業以降42年間、ギターの改良と発展だけに生きたその一途な人生は、現在でもギターを愛する人々の間ではレジェンドとなっています。

しかし、彼はギター以外にも多趣味だったことで知られ、カー・コレクターとしても有名でした。サーフィンや飛行機操縦など、アクティブな趣味も多く、その一方で、ギター教則本の執筆なども行う文化人であり、そうした影響を受けて、彼の孫娘のハンナ・ゲイル・マークスは、映画女優になりました(アメイジング・スパイダーマンなどに出演)。

また、アーニーは結婚後、息子3人と娘ノヴァを授かりましたが、自分が育てたそのビジネスを、ほぼそっくりこの家族に残して死去しており、息子の一人、スターリングは、現在のアーニー・ボール社のCEOです。

彼の墓は、かつて自社工場のあった、カリフォルニア州サンルイスオビスポ近郊の自宅近くにあります。州内でも最古級の町であり、多くの歴史的建物があります。

「アメリカで最も幸福な都市」とも言われているようです。

ギターのお好きな方は、アーニー・ボールの墓参りがてら出かけてみてはいかがでしょうか。




南鳥島と幻の島

携帯電話などエレクトロニクス製品の性能向上に必要不可欠な“レアアース”が、小笠原諸島の南鳥島周辺の排他的経済水域で大量に見つかったというニュースが入って来ました。

レアアースは現在、生産量の9割を中国が占めていますが、今回の発見では世界需要の数百年分の埋蔵量あることが分かったといい、東京大学や海洋研究開発機構などの研究グループが、そうしたことを10日付の英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表したものです。

同グループは、既に2013年ころから、同島沖の海底に高濃度のレアアースを含む泥(レアアース泥)があることを発見しており、2015年までに南鳥島沖南250kmの海底、深さ約5600mの25ヶ所から試料を採取して、その資源量を推定していました。

今年までの分析結果から、その量は約1600万トンであると推定されたといいますが、素人にはピンときません。

調べてみると、より具体的には、レアアースのうち、テルビウムという、モーターなどに使う物質の埋蔵量が世界需要の約420年分、また、ユウロピウムなる液晶ディスプレーの発光体に使う物質の埋蔵量は620年分あるということで、これだけあれば、もう中国に頼らなくてもよくなりそうです。

今回の発表では、特殊な装置でふるいにかけレアアース泥を抽出する方法を発明したことにも触れており、この方法によれば、従来の2.6倍の濃度でレアアース泥を採取することができるようになったといいます。

調査した加藤泰浩・東京大教授(地球資源学)は「十分な資源量が海底にあることが分かった。効率的に採取できる可能性も高まり、資源開発の実現に一歩近づいた」と話しており、今後はシェールガスの開発で一躍「資源大国」となったアメリカに次ぎ、日本もまた鉱物資源の輸出大国として名乗りを上げる時代がくるかもしれません。




南鳥島とは

その南鳥島ですが、いったいどこにあるのよ、とうことなのですが、これがまた遠い。位置的には東京からほぼ南西方向に1,800 km離れた日本の最東端にあり、小笠原諸島に属する、とされる島です。一応東京都に属しており、住所は東京都小笠原村になります。

一辺が、約2kmのほぼ正三角形の形をしている平坦な島であり、最高地点の標高は9 mしかありません。島の周囲はサンゴ礁で浅くなっていますが、サンゴ礁の外側はすぐに水深1,000 mの断崖で、島の周囲は深い海に囲まれています。

月平均気温は、2月が21℃、7月28.4℃、年間平均25.6℃°と暑すぎもせず温暖で、しかも降水量は日本国内としてはかなり少なめで快適です。真冬でも気温が10℃を下回ることはなく、過去の最低気温は13.8℃です。

いかにものどかな南洋の島というかんじがしますが、一般市民の定住者はなく、また、島の周辺は潮流が速いので泳ぐのは危険であり、観光目的で行くのには適していないようです。

というか、島全体がほぼ政府機関によって占領?されていて、海上自衛隊の基地があるほか、気象庁の南鳥島気象観測所や、国土交通省の管理所などがあったりして、一般の人が立ち入ることは難しそうです。

各機関の職員が交代で常駐しており、職員の交代、物資の補給のための飛行機が飛来するための1,370 mの滑走路があります。航空自衛隊の輸送機が月に一度、また、海上自衛隊の輸送機が週に一度飛来しますが、所要時間は神奈川県の厚木基地から直行で約3時間半だそうです。

また、島の南側に船の波止場がありますが、浅いサンゴ礁に阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合に停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っています。

近年、上述のような海底資源が発見されたことから、政府もこの島を重要視しており、このため、平成22年度より泊地及び岸壁工事が行われていて、平成34年度を目途に完成が予定されています。

政府はこの南鳥島だけでなく、この近辺のほかの小笠原諸島の開発を急いでいますが、同じ小笠原諸島の沖ノ鳥島で、3年前の2014年3月30日に、「沖ノ鳥島港湾工事事故」という大きな事故があったのをご記憶の方も多いでしょう。

五洋建設が請け負った港湾整備事業で、作業中に桟橋がひっくり返り、作業員16人が投げ出され、事故当日に5人が死亡し、2人が行方不明になりました。この工事は独占的に漁業や海底資源の開発ができる排他的経済水域の維持を目指し、中国も意識した国策工事でした。

今回のレアアースの発見によってこの南鳥島もまたその重要性が一層増しているといえ、今後もさらに、港湾の造成などの開発が進むと思われますが、再び同じような事故が起こらないよう、十分な注意を払ってほしいものです。



南鳥島の歴史

この南鳥島の歴史は古く、地質学的には、約20万年前の「第四紀更新世」という時代に隆起して島となったようです。

もっともも、人の目に触れるようになるのは、はるかにそのあとのことで、記録に残っているのは、明治維新の4年前の1864年(元治元年)のことです。アメリカの船・モーニングスター号がこの島を発見し、「マーカス島」と名付けた、という記録があります。

しかしその後放置され、1879年(明治12年)になって、静岡県の斉藤清左衛門なる人物が初めて日本人として南鳥島を訪れた、とされ、さらにその4年後の1883年(明治16年)にも、高知県人の信崎常太郎という人が、英国船に乗ってこの島に上陸したという記録があります。

本格的に人が住むようになったのは、1896年(明治29年)のことであり、「水谷新六」という人がそのリーダーです。水谷は、三重県桑名市の出身ですが、明治16年に小笠原の父島に渡って雑貨商を営むようになり、サイパンやトラック諸島、ポナペ島などのミクロネシアの島々と盛んに交易を行うようになりました。

このころから水谷は、かつてイギリス船が発見したという「グランパス島」という島を探すようになり、南洋貿易の傍ら、何度かこの島の存在を確かめるべく、探検を繰り返していました。

明治29年にも同様に探検に出ましたが、発見することができずに帰港する途中、一つの島へとたどりつきました。残念ながらこの島は、グランパス島ではなく、南鳥島だったわけですが、このころすでに無人島ではなく、サイパン島の住民が数名住みついていたようです。しかし、領有権は、どの国もまだはっきりと主張していませんでした。

この島には、当時アホウドリなど大量の海鳥が住みついており、そこで水谷は、島を開拓して羽毛採集事業を企てようと、母島から労働者をこの島に移住させました。当初、男女都合、23名が母島から移住したといい、この島を「発見」した水谷は、最初にできた集落に自分の名字「水谷」をつけたそうです。

一方、水谷から島の発見を聞いた明治政府は、このころ既に小笠原諸島の重要性に気づき始めており、1898年(明治31年)7月24日に正式にこの島を「南鳥島」と命名し、東京府小笠原支庁に編入しました。

その後、1902年(明治35年)になって、米国の帆船船長・ローズヒルが、アメリカ政府の許可を得て、この島に入植しようとしますが、それを察知した政府も軍艦笠置を派遣し、先に上陸して牽制しました。

その後、大正年間までには、アホウドリの糞を肥料にすることが事業化されるなどして、島は相当の活気を呈し、トロッコ用のレールも敷設され、住民も最大で50人が居住するなど増加しました。

しかし、昭和に入ってからは、アホウドリも採り尽くされ、急激に事業も衰微して、5人の男子が漁労に従事する程度となり、1933年(昭和8年)にはついに全島民が撤収し、無人島になりました。

戦中は、日本海軍が気象観測所を開設するとともに、前線基地も構築され、島は要塞化されましたが、1942年(昭和17年)3月4日、ウィリアム・ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受けました。

さらに空襲は何度も続きましたが、上陸・戦闘は起きず、そのまま終戦を迎えると、島はアメリカ軍によって占領され、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカの施政権下に入りました。

それから16年間は、米軍委託により日本の中央気象台が測候所を建て、気象観測員だけが住む島になっていましたが、1968年(昭和43年)6月26日 アメリカより返還されました。こうして、東京都小笠原村に属するようになると、海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が派遣され、以後、上述のとおり自衛隊によって管理されるようになりました。

その後、2009年(平成21年)には、 環境省が南鳥島を鳥獣保護区に指定するなど、主に環境保全の視点から島が維持管理されるようになりましたが、近年の中国の進出などによって資源面での重要性も認識されるようになり、そうした調査の一環でレアアースなどの貴重資源が見つかったわけです。



幻の島

この南鳥島に限らず、南太平洋に散らばる島々というのは、アメリカ、イギリス、そして日本と、各国が領土の拡大を狙って血眼になって探していた対象であり、過去には、その領有をめぐってたびたび紛争なども起こっています。

しかしその都度、日本政府は日英を退け、なんとかその主権を守ってきた経緯があり、それゆえに現在も「小笠原諸島」というまとまった群島としての領有が成立しているわけです。その中で今回のような希少資源が見つかったわけであり、領有を主張してきた政府関係者には先見の明があった、といえるでしょう。

ただ、いかんせんだだっ広い太平洋の中に散らばった島々であり、現在のように人工衛星や航空機などによって、簡単にみつける、というわけにはいきません。点と点を結びつけるのが比較的容易になった現在と比べ、その昔は船しかこれらを繋ぐ手立てはなかったわけであり、発見したあとも、その管理は容易なものではありませんでした。

そんな中において、実際にはありもしない島を領地として認定した例もあり、そのひとつに「中ノ鳥島」があります。

沖ノ鳥島や南鳥島、といった同じようなネーミングの島もあり、いかにもありそうな島名ですが、実際には存在が確認されておらず、にもかかわらず、かつては日本国の領土として海図などにも記載されていました。

仮に存在していたならば、南鳥島よりも東にある日本最東端の島だったはずであり、その経緯度は、北緯30度05分 東経154度02分であり、これは、南鳥島よりもさらに900kmほども南東にあたります。

位置的には、東京とハワイのほぼ中間といってもいいほどの場所であり、これを発見したとされるのが、実業家で衆議院議員だった山田禎三郎という人物です。

1907年(明治40年)8月、山田禎三郎が、東京府小笠原島から560哩の位置に島嶼を発見、上陸して探検、測量まで試みたとされますが、実は、これより以前に、日本の南東海上には、未確定ながら「ガンジス島」なる島があるとの情報がありました。

当時の海軍省水路部が記した「日本水路誌」にも、北緯30度47分 東経154度15分に島があるとされており、山田は、自分が発見した、と主張するこの島を「ガンジス島」と考えました。そして、翌年の1908年(明治41年)5月に小笠原庁へ、島の地図を添えて発見の報告を行いました。

この報告を基に、この当時の東京府知事・阿部浩は、内務大臣・原敬に「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」を提出しており、その中には、発見された島の具体的な内容も記されていました。

それによればこの島は、外周1里25町(約6.67km)、面積64万3700坪(約2.13km2)、でサンゴ礁に囲まれて灌木と思われる植生もあり、また、島には鳥の糞が積もってできる燐鉱石で覆われている、とされていました。これは当時、火薬原料や肥料として重要視されるもので、日露戦争後も国土拡大を図ろうとしていた日本政府としは重要な資源でした。

山田は衆議院議員としての立場を利用してこの島を開発するため日本による領有を訴えますが、これを受けて1908年(明治41年)7月22日に閣議決定によって「中ノ鳥島」と命名されることが決まり、ここにこの島は正式に日本領に編入されるところとなりました。




疑惑の中で

ところがその後、日本政府が何度かこの島を探したものの、再び発見することができないまま時が過ぎました。時は明治から大正に入る過渡期であり、政府もそんな小さな島に関わっていられない、といった理由だったのでしょう。

大正時代に入ってからも、周辺海域が大規模に探索されましたが発見できず、こうした中、実はこの島は幻で、存在しないのではないか、という疑惑が関係者の間で持たれるようになり、ついには「存在しない」という確固たる共通認識が持たれるようになりました。

こうして、1943年(昭和18年)には、海軍水路告示により日本海軍の機密水路図誌から削除され、戦後の1946年(昭和21年)の官報でも近隣暗礁含めて不存在とされたことで、ついに中ノ鳥島は一般の水路図誌からも削除されることとなりました。

以後、政府関係書類の中にあった中ノ鳥島の記述は順次削除されていきましたが、改正されていない水路図や地図は依然として民間で流通しており、1953年に出版された「高等新地図(地勢社)」にも描かれたほか、新規発行の地図にも記載されたことがあります。

公式に中ノ鳥島は存在しない、という発表がなされたわけではありませんが、こうしてその後この島に関する論議は縮小していき、やがてはまったく話題にあがることはなくなりました。

ただ、実際に島があったものが水没したのか、元々存在せずに山田が他の島と勘違いし、あるいはでっち上げたのか、といった疑問だけは残りました。山田禎三郎が本当に探検したかも疑う余地があり、仮に島の存在が虚偽だったとすると、彼がこれほど壮大なほら話を打ち上げた理由が謎となります。

なぜ、山田が嘘をついてまでこのような幻の島を「発見」したか、については諸説ありますが、そのひとつは、この島に多数生息しているとされた、アホウドリを巡る開発事業における資金を調達したかったからだ、というものです。

中ノ鳥島の発見報告書には「高純度の燐鉱石が大量に存在する」とあり、また、羽毛を取ることのできる「アホウドリが多数生息している」という記述があります。これらは当時商品価値の高いものであり、実際に山田は、自分の名義でこれらを発掘する事業を実行する許可を政府に求めています。

この当時、沖縄に近い、沖大東島(ラサ島)においても燐鉱石が採掘され、開発者に莫大な利益をもたらしていた、ということもあり、同様な島が見つかれば、当然それは「儲かる島」ということになります。

しかし、こうした絶海の孤島を開発するためには多額の初期投資が必要であり、このため「島の開発資金を集めるという名目で詐欺話を企てた」というのが山田虚偽説の根拠です。話に信憑性を持たせないと投資家が資金を出すことはないので、国に申し出て国土として認定を受けたと考えることができます。

つまり、山田はとんでもない山師だった、ということになりますが、山田の出自をみるとそうしたこともやりかねない人物であることがわかります。

彼は、衆議院議員になる前、師範学校の校長を経たあと新聞記者、出版会社などに属しており、この出版社・帝国書籍の取締役時代には、学校への自社の教科書採用をめぐる贈収賄事件である「教科書疑獄事件」に連座して、逮捕は免れたたものの、留守宅が家宅捜索を受けるなどしています。

また、1912年の第11回衆議院議員総選挙に同県郡部選挙区から当選を果たしましたが、その後も事業の失敗により1年足らずで辞職し、株券の偽造により投獄されたこともあり、こうしたことからも、かなりいわくつきの人物であったことがわかります。

一方では別の見方もできます。衆議院議員としての名声がある彼を、別の詐欺話が担ぎ出し、信憑性を持たせるため、ありもしない島の存在をでっちあげさせた、という見方です。教師あがりの実業家が、実際に探検航海に出たとは考えにくく、実際に海に出たかどうかは別ですが、この詐欺師が海運関係者か何かだったという可能性はあります。

当時の「大阪朝日新聞」によれば、山田は島開発のために組合を設立して国から燐鉱採掘権を得ましたが、組合員の一人にその権利を独り占めにされ、その人物も別件で投獄されて採掘権もやがて期限切れとなった、と書かれています。

本人だけでなく、その周囲の人間にもいかがわしい臭いがふんぷんするわけであり、こうした一連の事実をみていくと、島の存在はやはり架空のものであったのではないか、と思わざるを得ません。

存在の可能性

しかし、その一方で、実際には中ノ鳥島があり、何等かの地殻変動で、海の中に没したのではないか、とする説もあります。最近では、同じ小笠原諸島の西ノ島が、突如噴火を始めてだんだんと面積を拡大しつつある例がありますが、逆に伊豆諸島南部の明神礁のように、自らの爆発で消滅したり波浪に浸食されたりして島が消滅する例もあるわけです。

ただ、幻の島、中ノ島もこうした火山活動によって消滅した、とする説については否定的な見解が多いようです。というのも、もし仮に島があったとすれば、その周囲の海域の水深はおよそ5,000mであり、その海底から海面まで、5000m超の山塊があり、水面上に顔を出したその頂が島として認識されていた、ということになります。

しかし、明治末期以降の数十年という短期間でそうして山塊が崩壊して水没したとすれば、大規模な地殻変動が起こった末のことに違いなく、その場合はおそらく、大津波が日本列島を含めた太平洋沿岸まで到達すると思われます。しかし、そんな記録は皆無であり、中ノ鳥島自体がそうした地殻変動で消えてしまったという説は説得力に欠けます。

さらには、火山活動が活発で、水没と突出を繰り返しているような島ならば、アホウドリなどの海鳥が住みつくわけもなく、また中ノ鳥島で確認された、という潅木のような植生も存在しえないわけで、こうしたことからも、火山活動による消滅説は否定的な見解が多いわけです。

実は、日本近海の太平洋海域はこの手の「幽霊島の宝庫」といわれており、このほかにも南鳥島の南西約400kmに、「ロス・ジャルディン諸島」という島々があったとされたことがあります。

アメリカ海軍によって16世紀に発見報告があって以来400年以上にわたって海図に掲載され続けましたが、その後も発見されることはなく、最終的に不存在とされたのは、中ノ鳥島の不存在が確定したよりも更に後年の1972年のことでした。

広い太平洋のこと、たとえ人工衛星による探索技術が進んだとしても、浪間に見え隠れする岩礁のような島を見つけることは現在もかなり難しいことであるのは確かです。存在しえない、とされた島においても、それが確実である、とされるまでには、それなりの時間と手間がかかる、ということなのでしょう。

くだんの中ノ鳥島についても、戦後すぐにその存在が全否定され、海図からも削除されたわけですが、本当に存在しないのか、というところは正式に文書化されていないらしく、1998年(平成10年)4月7日には、参議院総務委員会で島の存在についての質問が出されたことがあります。

自民党の村岡兼造・内閣官房長官がこのとき、その質問に答えていますが、その答弁は、昭和21年の官報に「中ノ鳥島不存在、「精測ノ結果存在シテイナイコトガ認メラレタ」という記述がある、というものであり、「中ノ鳥島の存在は現在(・ ・)確認されておりません。」と述べるにとどまりました。

それ以外の資料があるのかないのか、この文書については裏付けがあるのかどうかについては、結局うやむやなまま、この答弁は終わってしまったようですが、本当にそうなのか?という疑念をついつい持たざるをえません。

というのも、モリカケ問題やイラクの日報問題も含め、最近の国会答弁では、ないといわれたものがあとから出てくるのが常だからです。もしかしたら、隠されている文書があり、「実は中ノ鳥島はあった!」とされる日がいつかくるのかもしれません。

実は島は存在し、そこには自衛隊の秘密基地が作られていて…などと妄想が膨らみますが、もしそうした事実があったとしたなら、そのときこそ、安倍自民党政権の終わりの日に違いありません。




比較検討 大谷 vs ベーブ・ルース

エンゼルスの大谷翔平選手の活躍が止まりません。

いったいどこまで記録を伸ばすのだろうな、と日本中が期待を込め、また固唾をのんで見守っていることと思いますが、これからまだまだ長く続くリーグ戦、故障などに気を付けて頑張って欲しいものです。

この大谷選手、バッターとピッチャーを掛け持つ“二刀流”ということで、今や日本だけてなくアメリカ国内でも注目を集めているわけですが、“元祖二刀流”と言われるベーブ・ルースの再来だともよく言われることです。

ほぼ一世紀前に活躍した選手であり、そうした選手と比肩されるわけですから、100年に一度の逸材と言ってもいいと思いますが、そのベーブ・ルースとは、体格などでどのくらい違うのか、興味があったので調べてみました。

ベーブ・ルース(本名 ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア)
メリーランド州ボルチモア出身 1895年2月6日 生まれ A型
身長 約188 cm 体重 約97.5 kg
プロデビュー19歳

大谷翔平
岩手県奥州市出身 1994年7月5日(23歳)B型
身長 約193 cm 体重 約92.1 kg
プロデビュー19歳

ご覧になってわかるとおり、デビューした年齢が同じだという以外、出身地は無論のことですが、誕生日もみずがめ座とかに座で違うし、血液型も違います。身長も大谷選手のほうが高く5cmほど。逆に体重はルースの方が多く、体型的にはぽっちゃり方で、みるからにスリムな大谷選手とは見目が全く違います。

育ちをみても、大谷選手は、小さいころから野球環境に恵まれ、小学校3年時にリトルリーグで野球を始め全国大会に出場。小学校5年生にして110km/hを記録するなどで着目を集め、中学校時代は全国大会に出場し、高校も野球では名門といわれる花巻東高校へ進学するなど、野球一筋の育ちの良さがうかがえます。

片やベーブルースといえば、子供のころは学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童でした。

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られており、その後の12年間をここで過ごしています。無論、野球などとは縁がなく、工業高校ということで、ここでは、様々な職業訓練を行っていました。

ところが、この学校で少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックの神父、マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)という先生と出逢ったことが、その後のルースの人生に決定的な影響をもたらすことになりました。

マシアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教える一方で、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えました。

セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20〜30人ほどの神父が少年たちの教官を務めていましたが、その中でもマシアスほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったといわれます。こうした恩人がいたからこそ、その後野球の神様といわれるような選手になることができたのでしょう。





大谷選手もまた花巻東高校野球部監督の佐々木洋氏という指導者がいたからこそその才能を開花させることができたといえ、またプロに入ってからも日ハムの栗山英樹以下、優秀な首脳陣によって大事育てられたことで、現在の力を養うことができたと考えられます。

100年の時を経て、育ちも体格も違う二人が、ともに野球界を代表する選手になりえたのは、やはりこうした優れた指導者たちに恵まれたからといえるでしょう。

しかし、その後のプロ生活においても、この二人の“二刀流“の在り方は少し違っています。

大谷選手が19歳で入団し、23歳でアメリカに渡るまで、日ハムでプレーをしていた間は、ピッチャーとしてもバッターとしても成果を出しており、史上4人目となる40勝・40本塁打を達成しています

日本での最終登板となった2017年10月4日のオリックス戦ではプロ野球史上66年ぶりとなる「4番・投手」で出場し、打席では4打数1安打、投球では10奪三振の完封勝利を記録しており、誰しもが“二刀流”の完成を認めるところだと思います。

ところが、ベーブ・ルースのほうは、レッドソックスに在籍していた20歳(1915年)から22歳(1917年)にかけて、投手以外で起用されたのはたったの44試合であり、1919年、24歳でヤンキースに移籍後には、投手から打者へと完全に移行していました。

ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場しましたが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回です。その全てで勝ち投手となっていますが、この登板はもともと投手であったベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かったようです。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させました。同年に記録した長打率.847は、81年後の2001年までMLB記録でした。しかし、ピッチャーとしては全く活躍していません。

ただ、19歳でプロに転身し、オリオール傘下になって以降の最初の6年間はピッチャーが本業でした。この間、なんと89勝もしています。2年連続20勝以上を挙げた事もあり、キャリア・ハイは24勝。最優秀防御率のタイトルを取った事もあります。その後野手に転向しましたが、ピッチャーで登板する事もままあり、通算では94勝しています。

1918年に投手として13勝を挙げる傍ら、打者として11本塁打で初タイトルを取っており、この頃から二刀流はやめ、野手に専念しようと決めたようです。ちょうど23歳のときであり、現在の大谷選手と同じ齢です。

このように同じ二刀流といわれながらも、ルースが野手と投手を掛け持ちしていた期間は、だいたい6年弱です。大谷選手の場合は、これからまだまだ二刀流を続けていこうとしているわけで、その期間はまだまだ伸びそうです。いつの日か、野球の神様といわれたベーブ・ルースに代わり、“二刀流の神様”といわれるようになるのかもしれません。

晩年のベーブ・ルース

23年間のプロ野球選手として活躍したルースは、1936年41歳のとき、惜しまれて引退し、この年、アメリカ野球殿堂の初期メンバー5名のうちの1人に選ばれました。その2年後の1938年、ブルックリン・ドジャースの一塁コーチに就任しましたが、わずか1年で辞任してしまい、これがMLBにおけるルースの最後の仕事となりました。

その後、アメリカは第二次世界大戦に参戦しますが、戦時中の1943年、ヤンキー・スタジアムで行われたチャリティーゲームで、ルースは代打として登場するなど、あいかわらずサービス精神が旺盛でした。1947年には、退役軍人の会であるアメリカン・リージョンの少年野球プログラムの担当に就任しており、若い人材の育成にも力を入れていたようです。

そんな中の1946年、51歳のとき、ルースは左目に強い痛みを感じるようになりました。同年ニューヨークのフレンチ・ホスピタルを訪れた際、首に腫瘍があるのを発見されましたが、この腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでいて摘出が不能と宣告されました。

放射線療法による治療を受けることになりましたが、その副作用で食事がのどを通らなくなり、翌年の1947年2月に退院する頃には36キロも体重が落ちていたといいます。

それでも外出ができるほどには回復し、1948年6月13日には、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加。この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号「3」が永久欠番に指定されることとなりました。しかし、このときルースはもはやバットを杖代わりに使わざるをえないほど衰えていました。

ヤンキー・スタジアムでの同イベント参列直後、再び入院生活を送るようになったルースですが、相変わらず人気は衰えず、当時の大統領のハリー・トルーマンからの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取っていました。その大部分はルースが愛してやまなかった子供たちからのものだったといいます。

1948年7月26日、ルースは自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列。これが、ルースが公式の場に現れた最後の姿となりました。その直後からルースは入院生活に戻りましたが、既にほとんど喋れないほどに衰弱していました。

ルースの病状がますます悪化していることが周知の事実となる中、病院の外には記者やカメラマンが殺到していましたが、面会できる者は数人に限られていました。

そして1948年8月16日、ルースは肺炎のため、53歳でその生涯を閉じました。検死によれば、ルースの死因となったガン細胞は鼻と口から発生しており、それらが急速に体全体へと拡がっていたといいます。



子供好きだったベーブ・ルース

子供のころにはあまり恵まれた家庭生活を送ったとはいえないルースでしたが、1914年にはヘレン・ウッドフォードと結婚。馴染みのコーヒー店のウエイトレスで、給仕をしてもらっているうちに親しくなったといい、ある日、コーヒーをついでくれたヘレンにベーブはプロポーズしたといいます。

しかし、ヘレンはルースが浸る華やかな生活が好きになれず、1926年あたりから別居生活を送っていました。しかし、1929年1月に起こった自宅の火災によって焼死。31歳だった彼女はこのころ歯科医だった男性と同居していたようです。

最初の妻が死亡してからわずか3ヶ月後、ルースは、女優でモデルの、クレア・メリット・ホジソンと結婚。クレアにはジュリアという連れ子がおり、二人はその後もう一人の少女を養女としました。

この子はドロシーといいますが、後年その著書「わが父、ベーブ」のなかで、自らをルースのガールフレンドであったジュアニータ・ジェニングスの実子であると主張しています。

ルースは私生活でも派手好きで、子供のころ悪童だったと言われたその性格が治らず、長じても粗暴な性格ではあったといわれます。ただ、自らも幼いころはひどい境遇にあったためか、子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られています。

あるとき、ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たり、その子犬を見舞いに行ったことがあったといい、また、ファンの少年の中に病弱の子がいるのを知ると、お忍びで見舞いに行ったりすることもあったといいます。

あるとき、ジョニー・シルベスターという病弱な少年の両親が、医者から「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われました。両親が彼が好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話をして頼んでみると、本当に見舞いに来てくれたため、本人のみならず、皆が驚いたといいます。

しかもジョニーと翌日の試合で本塁打を打つ約束までしたといい、結果として彼はこの期待に見事応え、この日は当初三打席凡退だったものの、4打席目でホームランを打っています。このエピソードは「約束のホームラン」といったタイトルで、ルースの伝記にはほぼ記されています。

また、ある時、試合が終わって、ルースが帰りのバスに乗るために球場から出て道路を歩いていると、路上に停まっていた1台のオープンカーが目に留まりました。そして、その座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく「坊や、こんにちは」と声をかけました。

すると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がったといい、このとき、周りの人々が驚いたように歓声をあげました。そばにいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んだといい、その歓声を聞いてルースは何事かと思いましたが、急いでいたのでそのままバスに乗って立ち去りました。

後で分かったことでしたが、その少年は小児麻痺のために両足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であったといいます。憧れのルースか声をかけられ、驚きと嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのであり、この奇跡の出来事は当時の新聞でも紹介されました。




ベーブ・ルースと日本

ベーブ・ルースは、その選手生活が終わりに近づくとするころ、日本にも訪れています。1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として訪日しており、1936年に引退するわずか2年前のことです。

航空便による移動が一般的でなかった時代、長い船旅を当初は渋っていた彼ですが、「東京ジャイアンツ(現巨人軍)」のネーミングの生みの親といわれる、元貿易商の鈴木惣太郎によって説得されました。

ルースが散髪屋にいるところへアポなしで訪れ、ルースの似顔絵を大書したポスターを見せて「日本のファンはあなたがやってくるのを待っています」と説得したところ、そのポスターを大いに気に入り、日本行を快諾したといいます。

この鈴木惣太郎はこのほかにも「東京巨人軍」や他球団が1936年に発足させたプロ野球においてジャイアンツのみならず他球団とアメリカ球界との窓口となって奔走したことで知られます。

その後も、プロ野球に関する要職を歴任しながらも日米の野球交流に尽力し続け、戦前・戦中・戦後を通じて日米の野球交流に尽力した点が評価され、1968年に特別表彰として野球殿堂入りしています。

その鈴木の尽力によって日本行が決まったルースは、その日本へ向かう船の上でも人一倍練習に打ち込むなどやる気十分であり、いざ訪日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮しました。

このルースの来日は、日本に野球人気を根付かせる契機になったといわれており、このときルースと直接対戦した沢村栄治との勝負は、今日に至るまで半ば伝説化されています。沢村はこのとき、全米軍クリーンナップを4連続奪三振したといい、ルースもまた、最初の打席で沢村から三振に打ち取られています。

なお、この試合は秋に行われ、気温は高くありませんでした。このとき、ヒットで出塁した沢村に向かってルースはつかつかと歩いてき、手に持っていたセーターを彼に着せたといいます。このスポーツマンシップを見た観客は「さすが大リーガーはやることが違う」感心したといい、以後ベーブ・ルースの名が日本人の心に刻まれるきっかけとなりました。

試合後、全米選抜チームの訪日歓迎パレードが行われましたが、このときの日本人達の歓迎はアメリカでワールドシリーズで優勝したとき以上のものであったといいます。

この訪日の印象をルースはこう語っています。

「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。銀座の通りは何キロにも及ぶ歓迎の列が並び、英雄のような扱いを受けた」

その後、不幸なことに日米は戦争に突入しますが、ルースもまた戦時中に全米で沸き起こった反日感情の感化を受け、この来日時に日本人に貰った陶器などを割ったこともあったといいます。しかし、終戦後にこの時の歓迎のことを思い出し、後悔していたともいいます。

そのベーブ・ルースは、既に100年も前に鬼籍にはいっているわけですが、1世紀という長い年月を経て、自分と同じく“二刀流“と呼ばれる日本人がいることをみて、どう思っていることでしょう。

子供が大好きだったベーブのことですから、少年のような笑顔でファンの心を鷲掴みにしている大谷の活躍を、さぞかし喜んでいるに違いありません。