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春雷

今年は桜が早く、伊豆ではもう満開になりつつあります。

桜もさることながら、このころの候を表す言葉として、「雷乃発声」というのがあります。

これは「かみなりすなわちこえをはっす」と読み、 遠くで雷の音がして、稲光が初めて光るという意味です。

これとは別に「始雷」という短いのもあって、こちらも稲光が始めて光る季節がやってきたことを示しています。

俳句においても「春雷」は春の季語であり、正岡子規も次の句を詠んでいます。

下町は雨になりけり春の雷(らい)

こうした音と光を伴う雷の放電現象を「雷電」といいます。雷電の「雷(らい)」は雷鳴であり、これに付随して起こる光は稲妻であり、雷電の「電」です。

古来、この雷電の名を付した地名や人名は多々あり、雷電海岸といえば北海道の積丹半島にある海岸です。埼玉県の鴻巣市にも雷電という地名があります。なぜこうした名前が付くのか不思議ですが、昔は雷除けのために「雷電神社」という社があちこちに建てられていたので、そうした名残かもしれません。

江戸時代の力士にも雷電爲右エ門という人がいました。松江藩お抱えの力士で、そのネーミングは出雲が相撲発祥の地とされることから来ています。古事記の国譲り神話に、稲佐浜で力比べをした二人の神様の話があり、これは建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)です。

雷電の四股名は、このタケミカヅチノカミにちなんだ「雷」を使うことを藩から許されたからにほかなりません。それほど強い力士で、生涯の通算勝率.962は驚異的です。大相撲史上未曾有の最強力士とされており、体格は197cm、169kgもあったといわれ、この当時としては破格の巨漢でした。

このほかに、菅原道真を主人公にした能楽にも雷電というのがあります。こちらは、冤罪で大宰府に左遷され死にいたった道真が雷となって内裏に行き、恨みをはらそうと荒れ狂う、というストーリーです。現在、日本各地にある多くの天満宮は、そのほとんどが雷神になった菅原道真を祀っているものです。

乗り物に雷電を冠したものもあり、航空機では、日本海軍が局地戦闘機として運用した「雷電」があります。零戦の後継機として開発されたものですが、初飛行後の不具合解消に手間取り、実用化が遅れたため、戦争中の生産数は少数でした。




磐吉

船舶でも幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦に同名のものがあります。明治6年(1873年)に開拓使が購入し、「雷電(丸)」と名を改め、その後明治10年(1877年)、明治海軍の軍艦にもなりました。

この船は明治21年(1888年)に廃艦となりましたが、さらに高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となりました。あげくは愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年(1897年)、大阪の木津川造船所で解体されています。

これほど数奇な運命をたどった船も珍しいかもしれません。もともとは、蟠竜丸(ばんりゅうまる)という名前で、イギリスから日本に贈られたものです。幕末の安政5年(1858年)7月、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節により、ヴィクトリア女王の名において将軍に寄贈されました。

バランスのとれた美しいスクリュープロペラ船で、小型の快速遊覧船として建造されましたが、構造が頑丈だったため、幕府はこの船を砲艦として使うべく幕府海軍の艦隊に組み入れました。箱館戦争に投入された当時のイラストが残っています。

箱館戦争における蟠竜丸

とはいえ、本来は王室のレジャーボート(ロイヤル・ヨット)です。内装は目を見張るほど絢爛豪華で、階段・手すりには彫刻が施され、壁一面を埋める鏡も設置されていました。幕府役人が鏡と気づかずぶつかった、といった記録があります。

幕艦として導入されて以降はあちこちで軍務につきました。箱館戦争の際、砲台からの砲撃でこうした美しい内装もかなり破壊され、その後も、十分な手入れができず、戦闘が終わる頃には、内装の塗装や意匠は痛み、美観は大きく損なわれました。

しかし、外観はいたってきれいだったといいます。他の艦船が稚拙な操艦によってしばしば座礁や他船などとの接触で損壊する中、蟠竜丸にはそうした著しい損傷はありませんでした。

このころこの船の艦長だったのが「松岡磐吉」という人で、これはこの人の優れた操船技術のおかげだったと言われています。

箱館戦争に先立つ宮古湾海戦にこの蟠竜丸が参加した際も、激しい暴風雨によって幕府艦隊は離散するなどのトラブルに見舞われました。しかし、このときも松岡艦長の操船は見事で、本船には傷一つなかったといいます。

「艦長松岡磐吉は操船の名手で、ロープ1本損なわれることなく」と、乗っていた同僚の幕臣、林董(ただす・のちに外務大臣)が書き残しています。乗船していた海軍・陸軍合わせて130名あまりの戦闘員も、そのおかげで無事に箱館に帰還できました。

この戦闘は、現在の岩手県宮古市沖の宮古湾で発生したものです。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍が、新政府軍の主力艦である「甲鉄艦」への斬り込みによってこれを奪取する、という作戦を立てました。

作戦の要は、いわゆる接舷攻撃で、蟠竜のほか、回天、高雄の合わせて3隻の幕府軍艦が投入されました。しかし暴風雨によってそれぞれの艦が分離してしまい、これによって勢力をそがれたほか、ガトリング銃などの強力武器を備える敵の新鋭艦、甲鉄の猛反撃に遭ったため、作戦は失敗に終わりました。

3隻の幕府海軍のうち、機関故障を起こしていた高雄は新政府軍の甲鉄と春日によって捕捉され、艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降しています。また回天も、作戦失敗後に箱館まで退却しましたが、暴風雨によって3本のマストが2本になるなどの被害を受けました。

蟠竜だけは無傷でしたが、箱館への帰路、やはり甲鉄からの追撃を受けました。蟠竜の排水量370トン、出力60馬力に対し、甲鉄は1800トン、出力1200馬力というこの当時最大の軍艦であり、機関力の差で逃げ切れないと観念した松岡は観念し、一艦で接舷攻撃を挑もうと戦闘準備をしました。

この時、松岡は顔を洗い、新しいシャツに着替え、「今日は死ぬつもりだからしゃれています」と冗談を言いながら悠々と戦闘準備の命令を出したといいます。肝が据わった人物のようでありながら、ちょっとしたユーモアのセンスもうかがえます。

写真も残っています。幕軍の制服と思われる洋服を着て椅子に座っており、ちょび髭をはやしたその顔は精悍で、なかなかの美男子です。ちょんまげは落としてザンギリになったその頭はセンターで分け、きちっと整髪料でまとめていて律儀な性格が見て取れます。

眼光はするどく、でありながら何か悟ったように見つめているその先にあるのはなんでしょう。わずか30歳で散るまでの、この英才の人生のほとんどは海で過ごしたものでした。

松岡 磐吉(ばんきち)、は、幕臣、松岡正平の三男として天保12年(1841年)に伊豆・韮山に生まれました。

父の松岡正平は、天保3年より韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)の筆頭手代を務めており、松岡家は代々この江川家に仕える家臣でした。

この江川太郎左衛門については、その昔、このブログでも詳しくその伝記を書いたことがあります。(韮山代官

太郎左衛門は通称で、号は坦庵(たんあん)といい、地元では「たんなんさん」と呼ばれています。また、死後は諱の英龍で呼ばれることが多くなりました。

洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させたことで知られる人物です。地方の一代官にすぎませんでしたが、この当時、最新の軍事知識を有する西洋兵学者として幕府からも絶大な信頼を得ており、1853年の黒船来航後は、江戸湾一帯の台場築造の責任者として駆り出されています。

その後も、幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たしました。残念ながら勘定奉行任命を目前に病死したため、他の幕末の偉人ほど有名ではありません。しかし、地元伊豆では立志伝中の人であり、かの福澤諭吉もまた自身の自伝で英龍をとりあげ、「英雄」と高く評価しています。

江川家手代の松岡正平もまたこの英君に忠実に仕えました。磐吉を含めて四人の子を設けましたが、長男は「来吉」といい、その後幕府の歩兵差図役頭取改方に、次男の「弘吉」は軍艦頭となり、初代回天の艦長を務めています。

三男の磐吉も、その後兄と同じ軍艦頭となり、戊辰戦争では蟠龍の艦長を務めるところとなります。ちなみに、軍艦頭というのは、軍艦12隻よりなる1艦隊を指揮する提督として位置付けられた官職で、のちの帝国海軍・中将に相当します。

戊辰戦争で磐吉は、兄の弘吉や榎本武揚と共に北海道へ渡りましたが、兄弟4人のうちこの真ん中の二人だけが、旧幕方として最後まで新政府軍と戦いました。

四男春造もまた、軍艦役見習三等を経て、幕府海軍の士官になっていますが、この当時まだ若かったせいか歴史には登場してきません。この春造と、来吉、弘吉の3人いずれもが養子に行き、三男である磐吉が松岡家の跡取りになりました。これすなわち兄弟の中でも一番秀でている、と父の正平が判断したからでしょう。

兄弘吉は天保5年(1834年)生まれですから、磐吉より7つ年上になります。磐吉が家を継いだため、松岡家と同じく江川家手代の柴家に養子に行きました。柴弘吉と名乗り、のちに柴誠一と改名、さらに貞邦と何度も名を変えています。

一方、江川家の跡取りとして残された磐吉の江川家での役柄は、「鉄砲方」でした。鉄砲御用人、鉄砲御側衆ともいい、鉄砲の研究、整備および修理を行うのが役目です。若年寄配下で、役料は200~300俵程度ですから、それほど高給取りではないものの要職といえます。

韮山代官として国防を担う江川家において鉄砲は重要な武器であり、物騒なこの時代にあって、砲術の教授、鉄砲の製作、保存、修理といった仕事は、なくてはならないものでした。ほかにも猪や狼の打ち払い、火付や盗賊の逮捕といった職務もあり、多忙な日々を送っていたようです。

家長の江川英龍はまた、武芸以外でも優れた才能を持った人物として知られています。学問を儒学の大家として知られる佐藤一斎に学び、書は幕末の三筆といわれた市川米庵に、詩は江戸の四詩家と称せられ大窪詩仏、そして絵は大国士豊や谷文晁に学ぶ、といった具合であり、この当時最高の教育を受けています。

さらに、剣術は、神道無念流の岡田十松から免許皆伝を受け、所属する撃剣館では四天王の一人に数えられています。同じ撃剣館の同門で、後に同じ韮山代官所の手代として雇われることになる斎藤弥九郎は、学問の上でも英龍の弟子であり、彼から蘭学、砲術などを学ぶとともに尊王攘夷思想の薫陶を受けました。

斎藤弥九郎は、その後自らが開いた「練兵館」において、長州藩や水戸藩などの門下生たちに、英龍から手ほどきを受けた尊王攘夷思想を植え付けました。長州藩の桂小五郎はその影響をもっとも受けた一人で、その後師匠の斎藤を飛び越して江川英龍に直接願い出、弟子にしてもらっています。

桂は、江川から小銃術・西洋砲術などを学びましたが、それだけでは飽き足らず、このころ江川が手掛けていた台場築造に興味を持ちました。江川の付き人となって台場築造工事をつぶさに視察しており、これによって砲台築造術を習得しています。

お台場はこの当時一般人が立ち入ることを許されなかった最重要軍事施設であり、これを見たことは、その後の長州藩による江戸攻撃の際の重要情報になったと考えられます。




長崎海軍伝習所

弘吉と磐吉の松岡兄弟はその後、伊豆韮山の代官所を離れ、長崎の海軍伝習所に学ぶことになります。この当時の手附・手代一覧表からその名が忽然と消えており、おそらくはこれも英龍の指図かと思われます。

この二人は、幼いころから英龍の小姓として教育を受け、英龍の小姓をつとめながら、蘭学・砲術を学んできました。時代が大きく変わろうとする時期、英龍は、この才気あふれる兄弟をそれほど買っていたということでしょう。

ちなみに江川は1801年生まれ、磐吉は1841年生まれですから、40ほども齢が離れています。兄の弘吉とでも33歳離れており、二人にすれば雲の上の存在、といったところだったでしょう。

その江川の命令により、二人は安政3年(1856年)、長崎の海軍伝習所に派遣され海軍術を学ぶことになりました。兄弘吉22歳、磐吉15歳のときのことです。

長崎海軍伝習所とは、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関です。幕臣や雄藩藩士から選抜し、オランダ軍人を教師に航海術を学ばせました。

軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学(蘭学)などの教育も行われており、日本人が初めてこうした幅広い学問を学んだという意味においては現在の大学にも通じるものがあります。

中でも、ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学・化学を基礎として講義を進める本格的なものであり、日本の近代医学の始まりであった、と評価されています。

このように伝習所で幅広い分野の西洋科学を学び、卒業した生徒たちの多くはその後幕府海軍や各藩の海軍、明治維新後の日本海軍でも活躍しました。明治新政府の中枢を担うものも多く、海軍伝習所はその後の日本を形成する上での重要な教育施設であったことは間違いありません。

船乗りの養成にあたっては、当初、練習艦としてオランダから寄贈された「観光丸」が使われました。オランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定へ贈呈され、日本の最初の蒸気船となったもので、木造外輪の3檣スクーナーです。

観光とは、中国の古文にある「観国之光(国の光を観る)」からとったものであり、現在の我々が普段よく使う「観光」は、こここら来ています。

この時、日本側はその返礼として、狩野雅信や狩野永悳といった当代一流の御用絵師たちが描いた金屏風10双をオランダ政府に贈っており、その大半が今もライデン国立民族学博物館に残っていいます。

伝習所ではさらに、「咸臨丸」「朝陽丸」も供用されました。こちらはオランダに建造を依頼した新型艦であり、このうち観光丸に次ぐ2番館と位置付けられた咸臨丸は洋式のスクリューを装備する軍艦としては初のものでした。のちに初めて日本人の手によって太平洋を渡った船として歴史にその名を刻むことになります。

さらに、イギリスからも練習船が購入されました。元商用線だった帆船「鵬翔丸」がそれで、このほか「長崎形」と呼ばれる小型帆船も、日本人の手で建造されました。造船実習を兼ねて建造されたもので、完成艦は航海練習船として使われました。とはいえ有事の際には武装して軍艦として使用できるよう大砲の設置場所が用意されるなど本格的なものでした。

この伝習所における当面の目標は、最新型である咸臨丸と朝陽丸を練習船として世界に通用する日本人船員を養成することでした。このため、安政2年(1855年)に第1期生として、幕臣を中心とした伝習生37名が入校しました。この中には総監の永井尚志や勝海舟が含まれています。

翌安政3年(1856年)にも、第2期生として12名が入所しましたが、松岡兄弟はこのとき伝習所入りしました。さらに第3期生が企画され、近代的な海軍兵学校においては若年の段階から士官養成をすべきとの方針から、若手26名が入校しました。この中にはのちの海軍中将、赤松則良などが含まれています。

弘吉・磐吉兄弟が入所した第2期生の総監は「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある、幕臣・木村喜毅(木村芥舟)でした。教授はオランダの海軍軍人、カッテンディーケです。のちにオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任することになるこの人物は、実習生たちに精力的に航海術・砲術・測量術などを教えました。

この2期生はほとんどが幕臣で、歴史に名の残るほどの人物としては、伊沢謹吾(頭取)、榎本武揚、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、岡田井は蔵、勝海舟などがいます。このうち勝海舟だけが第1期から継続して学ぶ伝習生でした。

伊沢謹吾と榎本武揚はともに江戸の出身で、この2期では井沢が頭取を勤め、榎本がこれを補佐するなどの中心的な役割を担いました。二人は親友だったと言われています。肥田浜五郎は磐吉と同じく韮山代官所で江川英龍の教えを受けて育った人物で、伊東玄朴に蘭学を学び、ここでは主に機関学を修めました。

伴鉄太郎は江戸生まれの下級武士の子で、御徒を務める伴家の養子に入り、かつては箱館奉行支配調役並に任ぜられたことのある人物です。この期では33歳で最年長だった勝海舟の二つ下の31歳であり、このころわずか15歳だった磐吉や19歳だった岡田井蔵よりも一回り以上年長でした。

伴はのちに小笠原開拓で磐吉と行動をともに従事しており、維新後の最終的な役職は水路局長副官です。岡田井蔵のほうは、横須賀造船所製図掛機械部主任、機械課工場長を務めました。

このほか佐賀藩主・鍋島直正の推薦で、20歳で入所した中牟田倉之助と通訳の中村六三郎がいます。中牟田はその後日清戦争などを経て海軍中将となり、中村は三菱商船学校(後の東京商船学校)初代校長になるなど、日本の海事史にその名を残しました。

磐吉は、こうした維新後にもその名を遺すエリートたちに囲まれ、この伝習所で一年ほど学びました。短い期間ではあったものの、弱冠15歳で最年少、若い彼がこの間に吸収した知識量は膨大なものであり、また身につけた技量は図抜けていました。

その後、1857年(安政4年)に江戸築地にあった講武所のなかに「軍艦教授所」ができると、磐吉を含む多くの伝習生がそちらに移動しました。総監の永井尚志をはじめとする多数の幕府伝習生もまた築地に教員として移動し、そのため長崎海軍伝習生は45名程に減りました。

のちに「軍艦操練所」と改称したこの施設が設けられたのは、江戸から遠い長崎で伝習所を維持する財政負担があまりにも大きかったためといわれています。その後、幕府の海軍士官養成は、この築地の軍艦操練所に一本化されることになりました。

安政6年(1859年)には、長崎海軍伝習所は完全に閉鎖されるところとなり、オランダ人教官は本国へと引き上げますが、ここではオランダ軍事顧問団が教官を務めたのに対し、軍艦操練所では基本的に日本人教官による教育が行われました。

操練所の教授陣は長崎海軍伝習所の卒業生が中心で、小野友五郎や荒井郁之助、肥田浜五郎、佐々倉桐太郎、勝海舟などがこれを勤めました。ジョン万次郎も、ここの教授を務めた時期があります。土佐出身の漁師で、漂流してアメリカに渡り、高い教育を受けて帰国したこの人物は幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

これらの教官の多くは、のちに政府や軍の重要機関に努め、その後の時代の担い手になった人物ばかりです。例えば小野友五郎は文部省で洋式数学の普及に努めるなど日本の教育レベルの向上に貢献しました。また荒井郁之助は初代中央気象台長、肥田浜五郎は海軍艦艇の機関総監、佐々倉桐太郎は兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めました。

勝海舟もまた、維新の立役者としてその後外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任しました。しかし、明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった具合で、52歳で元老院議官を最後に中央政府へ出仕していません。

晩年は、政府から資金援助を受けて歴史書などを書いていましたが、明治後、歴史の面に出ることはなく77歳でその生涯を終えました。

長崎から築地へと移った磐吉もまたわずか16歳でここの教授方を務めようになりました。後年、小笠原諸島の測量任務などに就いているところを見ると、操船のほかに測量学などを中心に教えていたのではないかと思われます

軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、1866年(慶応2年)には教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に「海軍所」という名称になりました。

佐賀藩も1858年(安政5年)に、「海軍所」を設立しています。現佐賀市川副町に設けられたこの施設は、長崎伝習所と同様に西洋船運用のための教育・訓練機関でしたが、蒸気船等の船の修理・造船施設もありました。築地の海軍所も教育機関でしたが、佐賀海軍所を真似て、船舶の修理・造船機能を持たせようという意図があったと思われます。

この築地の海軍所は、1864年(元治元年)に付近で発生した火災が延焼して施設の大半を失っています。その3年後の1867年(慶応3年)にも再度の火災に遭って焼失しており、築地から最終的には徳川将軍家の別邸、浜御殿へと移転しました。

これは現在の浜離宮恩賜庭園であり、浜松町近くにあるこの公園は、明治以後皇室の離宮であったものが戦後下賜され、都立公園として開放されたものです。ここにあった海軍所はその後さらに呉市の呉鎮守府に近接した江田島町(現在の江田島市)に移転し1888年(明治21年)、海軍兵学校と名を変えて、第二次世界大戦終戦まで存続しました。

ちなみに佐賀藩の海軍所の正式名称は、三重津海軍所といい、実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造したことで知られ、その遺構は2013年に国の史跡に指定を受け、2015年には「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録されています。



練兵館

この築地操練所時代、磐吉は忙しい合間を縫って、斎藤弥九郎が創立した練兵館で剣術を学んでいたと思われます。

この練兵館設立の資金援助をした人物こそが、主君の江川英龍です。このころ、練兵館の道場主・斎藤弥九郎は、江川から軍事防衛の最新知識も吸収するようになっており、剣術師範以外にも教育者として門弟の前に立つようになっていました。

この斎藤弥九郎は、越中国射水郡仏生寺村(現・富山県氷見市仏生寺)の農民、組合頭・斎藤新助の長男として生まれました。

12歳のとき、越中の高岡に奉公に出され、油屋や薬屋の丁稚となりましたが、店主と反りが合わなかったのか、ここを辞めて帰郷。それならと、江戸へ出ることにし、文化12年(1812年)、親から一分銀を渡されて村を出ました。

一部銀は現在価値にすると2~3万円といったところであり、これでは江戸へ着く前にすっからかんになってしまいます。このため、途中、旅人の荷担ぎなどをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら、なんとか江戸にたどり着いています。

江戸では、郷里の者の世話で、四千五百石取りの旗本、能勢祐之丞の小者となって住み込みで働き始めますが、昼間の仕事でへとへとになる中、夜は書物を読んでその後に備えたといいます。これに感心した主人の能勢が、学資を出して勉強をさせてくれるようになりました。

儒学を古賀精里に、兵学を平山行蔵に、文学を赤井厳三に、砲術を高島秋帆に、馬術を品川吾作にと言った具合で、さらに剣術では神道無念流・撃剣館主の岡田吉利に師事しました。

岡田吉利は、武蔵国埼玉郡砂山村の元農民でしたが、15歳で地元の剣客、松村源六郎に師事して頭角を現し、その後剣を極めることになる人物です。

その後江戸に移り、麹町の兵法家で神道無念流の剣客、戸賀崎暉芳に入門すると、22歳で印可され、さらに武者修行で剣名を上げました。30歳で師の道場を継ぎますが、門弟が増えすぎ、神田に移って開いたのが撃剣館でした。

斎藤は、この撃剣館で修業を重ね、20代で師範代に昇進し、岡田の死後は、その子の岡田利貞を後見しました。29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに神道無念流・練兵館を創立。鏡新明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館と並び、後には幕末江戸三大道場と呼ばれるようになりました。

練兵館は、のちに現在の靖国神社境内にあたる九段坂上に移転しましたが、幕末期にはさらに同神社敷地の南西部に移っており、ここに百畳敷きの道場と三十畳敷きの寄宿所を設けました。黒船来航以来の尚武の気風もあって、隆盛を誇りましたが、その人気のひとつは剣術の稽古によって心身を鍛えるだけでなく、これに練兵(軍事訓練)を加えたことでした。

ペリーの来航以来、こうした実践的な軍事知識の吸収を多くの江戸在住の武士が望んでいました。また練兵館では、武術や軍学だけでなく儒学などの国学も教えており、これはその分野での造詣が深い斎藤自らが教えました。

師匠である江川もまた、公務の間を縫って彼らに教鞭を振るうこともあったようで、その中で幕府の危機を弟子たちに伝え続け、彼らもまたその貴重な情報を素直に受け止め続けました。その結果、門下から数多くの明治維新の志士を輩出しました。

このころの斎藤と江川の関係は、江川が練兵館のスポンサー役を果たしつつ、斎藤を自分の公務の用人格として形式的に召し抱えるというものでした。このため、江川が伊豆国韮山の代官となると、斎藤はその江戸詰書役として仕えたり、品川沖に台場の築造が計画されると、江川の手代としてその実地測量や現場監督を行う、といったふうにその期待に応えました。

江川英龍は、長崎海軍伝習所が開設された安政2年(1855年)の正月に54歳で亡くなっていますが、斎藤は、その後継で英龍の三男の江川英敏からも同様の助力を要請されており、引き続きそうした役割を担っています。

討幕運動が激しくなる中、斎藤は彰義隊から首領になってくれるよう頼まれるなど、何かと時世の前面に押し出されようとしていましたが、その度にこれを拒絶しています。維新後は政府に出仕し会計官権判事や造幣寮(のちの造幣局)の権允(中等職員)などを勤めましたが、動乱の空気まだ冷めやらぬ中、明治4年(1871年)に74歳で亡くなっています。

斎藤の死後、東京招魂社(現靖国神社)創建により練兵館は立ち退かざるを得なくなり、新宿の牛込見附内に移転しましたが、文明開化の影響で剣術は廃れ、のちに閉館したようです。現在栃木県の小山市にその志を継ぐ同名の剣道場がありますが、神道無念流ではなく現代剣道を稽古しています。

主君である江川とその影響下にある斎藤が主導するこの練兵館で剣や学問を習い始めた磐吉ですが、ここでもその才能を発揮して多くを吸収し、剣術では見事に神道無念流皆伝を得ています。

神道無念流の特徴は、「力の剣法」と言われ、竹刀稽古では「略打(軽く打つこと)」を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃を一本とした点にありました。そのため、他流派よりも防具を牛革などで頑丈にしていたといいます。

幕末の江戸三大道場は道場主の名から「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されており、他流派と比べて、「力」を重んじる剣であったことがうかがえます。昭和初期に行われた天覧試合の記録映像が残っており、優勝した同流派の選手たちが、竹刀を頭上に大きく振り上げて力強い打突を繰り出していることが確認できます。

上述のとおり、練兵間では剣以外の教育にも熱心であり、塾生が遵守すべき日課を定めた「塾中懸令」には、毎朝、五つ時(午前8時ごろ)まで素読を行うことが定められていました。午後の出稽古の無い時は手習、学問、兵学、砲術をも心掛け、怠惰に日常を過ごさないよう訓辞されていました。

塾頭を務めた渡辺昇(のちの元老院議員・子爵、会計検査院長)もまた、後年、剣術のみならず空いた時間に学問も修めたことなどを述懐しており、土木工事や時事など「武術の外に教へられた処が多かつた」と語っています。



咸臨丸

磐吉もまた練兵館で剣を学びつつ、そうした一般教養を学び、片や軍艦操練所では操船や造船技術に関する知識を深めていきました。この間、とくに海洋測量の技術研鑽に励んだようで、操練所を卒業したのちの安政6年(1859年)には日本初の沿海測量を実施して海図を作成しています。

その翌年の1860年(安政7年(改元され万延元年))には、咸臨丸の測量方士官として渡米を果たしました。「万延元年遣米使節派遣」と呼ばれるこの外遊は、1854年の開国以来、初の外国公式訪問であり、勝海舟ほかの軍艦操練所教授方・教授方手伝らが幹部として参加しました。

咸臨丸にはまた、前年の台風のため横浜沖で座礁、破棄された測量船、フェニモア・クーパー号の艦長で、海軍大尉ジョン・ブルックが事実上の船長として乗船していました。派遣に抜擢されたメンバーのほとんどが外洋での操船経験がなかったためです。おそらく磐吉は、この航海で、彼から操船技術だけでなく測量についても多くを学んだと考えられます。

この咸臨丸でサンフランシスコに到着した遣米使節派遣団の一行は、その後ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを訪問し、北大西洋を横断してヨーロッパへ渡り、さらにアフリカ喜望峰を回って英領領香港を経由、年内中に日本に帰ってきました。

一方、咸臨丸は序盤のサンフランシスコまでの船旅を担っただけで帰国しましたが、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を成功させたことは高く評価されました。しかし往路の操船はほとんどがアメリカ人乗員によるものであったという点が過小評価され、航海・運用の技量不足などの問題点が見過ごされる結果となりました。

それでも、磐吉をはじめとして長崎海軍伝習所時代からのベテランにとって、この外洋航海を経験したことは大きな自信になったことは間違いありません。

帰国後の1862年(文久元年)、幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ、アメリカから帰還したばかりのこの咸臨丸のメンバーの一部を率いて小笠原に赴き、測量を行うことを命じています。無論、その中には22歳になっていた磐吉も含まれていました。

この派遣は、ジョン万次郎が小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を幕府に提案したことから実現したもので、表向きは測量ではあるものの、このころ列強により所有されかかっていた小笠原諸島を彼らから奪還することが目的でした。

このときの艦長は小野友五郎で、磐吉よりふた回り上の46歳。笠間藩(現・茨城県笠間市)出身で、江戸幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら、磐吉の主君である江川英龍から砲術や軍学・オランダ語を学びました。

海軍伝習所には1期生で入所しており、咸臨丸でも同船していましたから当然、磐吉とも親しい間柄でした。同じく咸臨丸で渡米したジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心したといいます。小野は維新後数学者となり、財務官僚としても活躍しています。

これに先立つ36年前の1827年(文政10年)6月、 イギリス軍艦ブロッサム号が父島に来航。このとき艦長のフレデリック・ウィリアム・ビーチーは新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行いました。

ただし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されず、このためその後しばらくの間、イギリスが積極的にここへ進出してくることはありませんでした。

その後26年を経た1853年(嘉永6年)には、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港し、石炭補給所用の敷地を購入しました。

このとき、ペリーは3条13項から成る「ピール島植民地規約」を勝手に制定し、自治政府設置を促した結果、ピール島植民政府が設立され、マサチューセッツ州ブラッドフォード生まれのナサニエル・セイヴァリーを首長に指名しました。

また、その4年後の1857年(安政4年)には、英国籍のジェームス・モットレーという人物の一家が母島(沖村)に居住を始めました。

このように、小笠原諸島の領有に諸外国が動き出したことに危機感を覚えた幕府は、水野忠徳らに小笠原に赴き、測量を行うことを命じたわけです。

小笠原諸島へは東京から直線で500kmほどもあります。咸臨丸の速力は最大で6ノット(約11km/h)ほどでしたから、帆走も併用したとしても、辿りつくまでにはおそらくは1ヵ月ほどはかかったでしょう。

航海の苦労はありましたが、こうして小野艦長以下による小笠原諸島の測量が行われるところとなりました。そしてこの測量はその後同諸島の日本領有の大きな手がかりとなります。

その後、幕府は小笠原諸島に居住する住民に対し、ここは日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ、同意を得ました。咸臨丸による小笠原訪問の翌年の1863年(文久2年)には、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告し、さらに同年9月には、八丈島から38名の入植が開始されました。

この小笠原派遣で、磐吉は塚本恒輔とともに母島の測量地図作成を担当しています。塚本は長崎伝習所時代の同僚で、身分が低いため当初第1期生の矢田堀景蔵の内侍若党として員外聴講生として受講し、その後実力を認められ伝習生に抜擢された人物です。維新後は初代中央気象台長の荒井郁之助を補助し日本の気象観測をリードするようになりました。

ちなみに、塚本が仕えたこの荒井郁之助は、軍艦操練所で教授方を勤めた幕臣で、のちに榎本らが箱館に立国する蝦夷共和国では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦では総司令官として奮闘することになる人物です。維新後は許されて、札幌農学校の前身の開拓使仮学校校長を勤め、上述のとおり中央気象台の初代台長にもなりました。

もしその後も生きていれば、磐吉もまたこの荒井や塚本のように新しい時代を担う人物となっていたことでしょう。明治海軍を担う重要官僚としての道を歩み続けていたに違いありません。しかし、時代の変化はそれを許さず、過酷な運命へと彼を導いていきます。





戊辰戦争

ちょうどこのころ、同じ長崎海軍伝習所で共に学び、その後命運をともにすることになる榎本武揚は、ヨーロッパに渡り、デンマークやフランス、イギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察しています。

榎本は、伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規の次男として生まれました。近所に住んでいた田辺石庵という儒学者に学んだのち、15歳で昌平坂学問所に入学。2年後に修了しましたが、修了時の成績は最低の「丙」であったといいます。

18歳のとき、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現・函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。翌年昌平坂学問所に再入学しますが、すぐにまた退学しています。ぶらぶらしているころに長崎海軍伝習所が開設されることを聞き込み、聴講生となった後、磐吉らとともに第2期生として入学しました。

22歳で海軍伝習所を修了し、築地の軍艦操練所では磐吉とともに教授となりますが、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学んでいます。25歳のとき、幕命でアメリカに留学を命じられましたが、南北戦争の拡大によりアメリカ側から断わられたため、留学先もオランダへ変更となりました。

幕府はこの年(1862年(文久2年))にオランダに蒸気軍艦1隻を発注しており、榎本の任務は、それが完成するまでの間、その建造過程を記録するとともに、ヨーロッパの情勢を視察する、というものでした。

1866年(慶応2年)にその船、開陽丸が竣工したため、榎本はこの船に乗り、オランダ・フリシンゲン港を出港して、1867年(慶応3年)3月、横浜港に帰着しました。

5月に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられると、7月には軍艦頭並となり、布衣(ほい・幕府叙位者に許される礼服)の着用を許されました。9月、さらに軍艦頭となり、和泉守を名乗ります。

この2年前の1864年(元治元年)には幕府による第一次長州征討が実施に移されており、2年後の1866年(慶応2年)には第二次長州征討が行われました。この二次征伐では結果的に幕府軍は大敗を喫し、その後の時代の流れは反幕に大きく傾いていきます。

小笠原に磐吉と共に派遣された小野友五郎はこのころ、この長州征伐に係る幕府陸軍動員にあたり、動員・補給計画に携わっていました。磐吉もまた、幕府幹部としてそうした役割の一部を担っていたと思われます。

第二次長州征伐において幕府は、周防国大島(現・山口県大島郡)から海路長州藩内に侵攻しており、おそらくその攻防戦にも磐吉は関わっていたのではないでしょうか。小笠原派遣から3年を経て25歳という血気盛んな年齢になっており、打倒長州に燃えていたに違いありません。

しかし、そうした気分を覆すかのように、同年7月20日には大坂城において将軍・家茂が弱冠21歳の若さで客死します。その5か月後の12月5日には、一橋慶喜が将軍職に就任しますが、この優柔不断な将軍の登場によってさらに時代は混とんとしていきます。

翌年(1867年)の10月、その慶喜が決断した大政奉還の実現によって、旧幕府と反体制派の対立はいったん治まるかと思われましたが、薩摩藩らは政変を起こし、朝廷を制圧して慶喜を排除した上で新政府樹立を宣言しました。

のちに王政復古と呼ばれるこのクーデター以後、旧幕府と新政府の対立はいよいよ深まっていきました。慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至ります。

1868年1月26日(慶応4年1月2日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、これをもって事実上、戊辰戦争が開始されました。

旧幕府勢力と、薩摩・長州などの新政府勢力が戦ったこの戦争は、やがて江戸に伝播し、北陸・東北を経て最終的には箱館(函館)で終焉を迎えることになります。

この兵庫沖での幕艦の砲撃に対して、薩摩藩は幕府に猛烈に抗議しました。このとき榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩と幕府は既に戦争状態にあり、あたりまえのことだと突っぱね、2日後の1月4日には、更に兵庫港から出港していた薩摩藩の春日丸ほかを追撃しました。

阿波沖海戦と後年呼ばれるこの戦いは、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦でした。開陽丸は薩摩藩軍艦・春日丸、同藩運送船・翔凰丸を追走し、敵艦に計25発の砲撃を加え、応戦した春日丸は計18発の砲撃を開陽丸に向けて放ちました。しかしどちらも大きな損害には至らず、またこの海戦による死傷者は双方皆無でした。

一方、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は大敗北を喫します。これを受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに1月7日に大坂城へ入城しました。しかし徳川慶喜は既に前日の夜に大坂城を脱出しており、7日早暁、榎本不在のまま開陽丸に座乗して8日夜までには江戸へ引き揚げてしまっていました。

榎本はやむなく大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を勘定奉行並・小野友五郎とともに順動丸と翔鶴丸に積み込みました。さらに自分自身は新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗り、大阪湾を出発して江戸に到着しました。

このとき、榎本は大阪から逃げ帰った慶喜の弱腰に腹をたてていました。慶喜はその榎本に登城を命じ、そこで彼を海軍副総裁に任じることを告げます。思いもかけない抜擢でしたが、このとき榎本はその大役に謝する間もなく、慶喜に対して徹底抗戦を主張しました。

しかし、恭順姿勢の慶喜はこれを採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従ったため、榎本も新政府軍との不戦をしぶしぶ了承。旧幕府艦隊を温存することを承諾しました。

後年、「江戸っ子の代表的人物」と評されたように、榎本は執着心に乏しく、正直で義理堅い人間であったといわれています。このときも、主君の慶喜に真顔で戦はやめてくれ、大事な船を守ってくれと頼まれて嫌とは言えなかったに違いありません。

慶喜に対しては、死ぬまで終始一貫礼を尽くしたことが知られています。維新後、徳川慶喜が公爵となったとき、旧幕臣が集まり祝宴を開きましたが、その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ろうということになりました。このとき、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないと固辞したといいます。





蝦夷へ

こうして、榎本はおとなしくなったかに見えました。しかしその3か月後、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つとして、旧幕府艦隊の引渡を要求してきました。これに対して恭順派として旧幕府の全権を委任されていた陸軍総裁の勝海舟は、これを了承します。

この決定に榎本は再び猛烈に反発します。艦隊を預かれといったり、今度は手放せといったり一貫性のないこの幕府の対応に怒りを周囲にぶちまけ、ついには悪天候を口実に、艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走してしまいました。

このとき、恭順派である総裁の矢田堀には榎本からお声はかからず、置いてけぼりをくらいました。矢田堀はこれを機会にその後ほとんど歴史の表舞台に出ることはなく、維新後も工部省、左院などを転々としました。海軍に関係する職にも就きましたが、軽いものばかりで不遇の思いを募らせ、晩年は酒と碁でその鬱屈を紛らしていたと伝わっています。

こうして榎本をリーダーとして館山に向かった旧幕府艦隊でしたが、その後勝海舟の説得により4月17日にいったん品川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡しました。しかし、このとき開陽等の主力艦を引き渡すことはなく、旧幕府艦隊の主力艦温存に成功しました。

その後も榎本は、新政府に恭順しようとしていた館山藩の陣屋を海上から砲撃したほか、脱走兵を東北地方へ船で輸送するなど旧幕府側勢力を支援しました。また奥羽越列藩同盟の密使と会うとともに、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行と連絡を取り合うなど反新政府勢力の結束に努めました。

明治元年(1868年)8月20日、榎本武揚らはついに品川を脱出し、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる艦隊を率いて蝦夷をめざし北上、奥羽越列藩同盟の支援に向かいましたが、この時、27歳の磐吉が艦長として任されたのが蟠竜丸でした。

この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していました。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託しています。

ところがその海路、房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、主力艦のひとつだった咸臨丸は下田港に漂着してしまいます。このとき、磐吉が操船する蟠竜がこれを曳航して清水へ入港しますが、その修理に時間がかかると目されたため、蟠竜丸だけが先に出航しました。

残された咸臨丸は、そのすぐあと追いついてきた新政府軍艦隊の襲撃を受け、この戦いで乗組員の多くは戦死または捕虜となりました。船はその後新政府の用船となり、維新後の明治4年9月、北海道への移民を載せて小樽へ向け出航しますが、その途中、木古内町泉沢沖で暴風雨に遭難し、破船、沈没しました。

房総沖ではまた、美賀保丸もマスト2本も折れて航行不能状態となり、銚子の犬吠埼近く黒生海岸へと漂着し、座礁の末に沈没しました。周辺漁民の救助を受けたものの乗船者13人が水死。生存者のうち約150人ほどが上総の山間を経て江戸へ向かいましたが、新政府方の追撃を受けて大部分は投降、その一部が処刑されました。

こうして、2隻の艦船を失った榎本艦隊ですが、その後磐吉の操船する蟠竜丸も追いつき、バラバラながらも8月下旬頃までには順次仙台に到着しました。9月に入り、榎本は仙台城で伊達慶邦に謁見。翌日以降、仙台藩の軍議に参加しますが、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日には仙台藩も降伏を決定しました。

これを知った榎本は登城し、仙台藩の執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとしますが果たせず、やもなく再び出港準備を始めました。このとき、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加えており、この新編成の艦隊に仙台藩を脱藩した兵など約3,000名を収容し、次の補給地、石巻へと向かいました。

この石巻への移動中、榎本艦隊は、さらに千秋丸という船を気仙沼で拿捕しました。この船は幕府が仙台藩に貸与していたものでしたが、無頼の徒に奪われ海賊行為を行っており、これを追い詰めて奪還したものです。艦齢20年ほどのボロ船でしたが、新政府との戦いが予想される中、一隻でも戦力が増すことは歓迎すべきことでした。

その後、一行は宮古湾で補給の後、さらに蝦夷地を目指します。そして10月20日には箱館の北、内浦湾に到着。湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸しました。その後二手に分かれて箱館へと進撃、各地で新政府軍を撃破して五稜郭を占領、11月1日には郭内に入城しました。

一行はさらに各地で松前藩の駐屯地を攻撃しますが、旗艦・開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失してしまいます。タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁したもので、江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことが災いしました。

回天丸と神速丸がその救助に向かいましたが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消しました。その後何度か試みられましたが、ついに本体が浮上することはなく、永遠に海底に沈んだままとなりました。

こうした不運によって旗艦を失った榎本ですが、12月15日には蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となりました。

この間、榎本はイギリスとフランスに新政府との仲介を頼み、新政府宛に旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓したいという内容の嘆願書を出しています。しかし、新政府はその受理を拒絶しました。

このころ、それまでは局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。これによって、幕府が買い付けたていたものの、引渡未了だった装甲艦・甲鉄の新政府への引き渡しが実現します。これは、戊辰戦争の勃発に伴い譲渡が中断していたものです、

翌1869年(明治2年)1月に新政府に引き渡されたこの船の「甲鉄」という呼称は、命名以前の無名艦であった頃の通称です。その後明治海軍の正式軍艦となってからは「東艦(あずまかん)」と呼ばれるようになりました。

本艦はアメリカ南部連合の注文により、同盟国だったフランスで建造されたものでした。しかし、その納入をアメリカ北部合衆国が妨害したため、納入先が宙に浮きました。あちこちの国に転売されたあげく、南北戦争が終結したため、再びアメリカが買い戻していました。

それを旧幕府が購入しようとしていたわけですが、奥羽越列藩同盟が崩壊し、明治政府が新たなる政府であることをアメリカが認めたため、新政府が購入することになりました。

まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したようですが、榎本らの脱走艦隊がまだ健在である以上、その脅威の排除のためには不可欠と判断し、購入に踏み切ったものです。

この艦は、甲鉄の名のとおり、全面を鋼鉄製の装甲で覆われており、南北戦争中に使用したあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された結果、それをすべてクリアーして完成したものです。複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付つけたこの船をみると、フランスという国のこの当時の建艦技術の高さが窺えます。

これだけの装甲を施しながら、最高速力は10.8ノットと、沈没した旧幕府軍の旗艦、開陽丸の10.0ノットを上回っています。もっとも最新のイージス艦の最大速力は30ノット以上といわれますから、それに比べればはるかに遅いといえますが、この当時は世界最高の機関能力を持っていました。

しかも本艦は、艦首に口径27.9cmものアームストロング砲が取り付けられており、また船体中央部には口径12.7cmのライフル砲2基を据えるなど、軍備でも世界的な水準のものを備えていました。

甲鉄艦(東艦)

こうしたモンスターのような艦船とまともに戦って勝てるわけはありません。このため、旧幕府軍はこの状況を打破すべく、宮古湾に停泊中のこの甲鉄を奇襲し、移乗攻撃で奪取する作戦を立てました。

これは、斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入するというものでした。攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠する、という作戦で、いわば騙し討ちです。しかし、奇計を用いることは正当である、とこの当時の万国公法でも認められていました。

敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例です。宮古港海戦とも呼ばれるこの作戦は、1868年(明治元年)3月21日の未明の回天・蟠竜・高雄の出港から始まりました。

その結果は、冒頭で記述した通りであり、高雄と春日は失われ、回天だけが箱館へ逃げ帰るというさんざんなものとなりました。この戦いでは、回天艦長の甲賀源吾が戦死し、総司令官として乗船していた荒井郁之助が自ら舵を握って、追ってくる新政府軍艦隊を振り切りました。

作戦は失敗に終わりましたが、このとき砲術士官として春日に乗船していた東郷平八郎は、「意外こそ起死回生の秘訣である」として、この回天による奇襲を評価し、そのことを後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われています。

箱館戦争

こうして旧幕府軍艦隊が徐々にその戦力を失う中、新政府軍は、着々と箱館政権が設立した蝦夷共和国に忍び寄ってきました。やがて青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて4月9日、江差の北、乙部に上陸します。

このとき新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の軍艦を擁し、艦砲射撃で陸上の旧幕府軍要塞を破壊しつつ、陸上部隊の上陸を支援しました。

これに対して、箱館政権の艦隊は、失われた開陽の代わりに回天丸を旗艦とし、これに蟠竜丸、千代田形丸を加えた3隻の編成でこれに対するしかありませんでした。それまでの松前藩との交戦や新政府艦隊との海戦で多くの艦船を失っていたからです。

しかも4月30日には、千代田形丸が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は回天丸と蟠竜丸だけとなりました。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦いましたが、5月7日に回天丸の機関部が損傷。弁天台場付近で意図的に座礁させ、海上砲台として利用されるようになりました。

一方、陸では5月11日に箱館総攻撃が行われ、その結果、脱走軍の最大の砦であった松前の弁天岬台場がほとんど壊滅状態となり、その救援に向かった土方歳三が銃弾に撃たれて戦死しました。

この箱館総攻撃では海上戦も行なわれ、磐吉が操船する蟠竜丸が最後の一艦として早朝から縦横に運転して敵方を射撃しました。磐吉は双眼鏡を手に着弾を確認しては砲撃を指示し、圧倒的な兵力差にもかかわらず、新政府軍艦・朝陽丸の火薬庫に着弾させて轟沈させました。これは日本史史上初の軍艦の轟沈記録といわれています。

このとき、朝陽丸の艦長をしていたのが、かつて長崎海軍伝習所で磐吉と同期生だった佐賀藩の中牟田倉之助でした。朝陽丸は、先の松前攻撃でも陸上攻撃のために170発の砲弾を放って松前城の櫓に命中させ、さらにこの箱館総攻撃でも回天の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せていました。

しかし、磐吉の操る蟠竜丸の最後の奮闘によりその最後を迎えることとなります。蟠竜丸の放つたった一発の砲弾が火薬庫に当たって大爆発を起こし、同船は轟沈しました。

中牟田は重傷を負いながらも一命を取り留めましたが、副長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死して海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡しました。

のちにこの時の勲功によって中牟田は海軍中佐に任じられ、さらに海軍大佐となったあと、海軍兵学寮校長となり、草創時の明治海軍兵学校教育にあたりました。この時期の生徒が、のちの海軍大臣で総理大臣も務めた山本権兵衛です。ほかに海軍大将となった上村彦之丞などを輩出しました。

中牟田はさらに明治10年の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長や枢密顧問官も務めましたが大正5年(1916年)に享年80で死去しています。

この朝陽丸が爆沈したとき、旧幕府軍の陸兵が生き残って海上にあった搭乗員を陸地から狙撃しようとしましたが、磐吉はこれを一喝して止めさせています。

たとえ敵であっても無防備の者を殺めるという行為は許さない、という彼なりの美学が感ぜられますが、これはかつて師であった江川や斎藤から教えられた儒学の基本理念である、仁(人を愛し、他者を思いやる)の体現であったでしょう。

このころ「浮砲台」となっていた回天は、一艦のみで奮戦するこの磐吉の蟠竜丸を、すぐ近くにある弁天台場と共に援護していました。しかしやがて箱館市中に新政府軍が進入すると、背後からの砲撃も受けたため、総司令官、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は全員が回天を脱出。一本木(現在の箱館駅近く)へ上陸してその後五稜郭へ撤収しました。

無人となった回天は、その日のうちに新政府軍の手で放火されて消失。煙突、外輪、後部の船体だけが無残な姿で残りましたが、当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられています。

唯一生き残った蟠竜も、その後新政府艦隊から集中砲火をあびることになります。弾薬が尽きるまで応戦しましたが、いよいよとなると磐吉は退船を決意し、乗組員ともども弁天台場近くに上陸、敵中を突破して弁天台場へ撤退しました。

この弁天台場とは、外国船襲来に備えて旧幕府が箱館湾沖に建設したもので、周囲390間余(約710m)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていました。高さ37尺(約11.2m)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780m)で囲まれており、砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備する本格的な要塞です。

この台場の近くに、長い間世話になった蟠竜丸を座礁させた磐吉は、「またのちに(新政府が)使うこともあるだろうから」と自焼を禁じました。

同日、新政府軍の手でやはりこの蟠竜丸も放火されましたが、火災は帆柱を炎上させるのみで船体には殆ど引火せず、そのうち帆柱が折れ、バランスを崩して横転したことが幸いし、その後、鎮火しました。

維新後、イギリス人により船体が引き揚げられ、上海で修理されましたが、この際、帆柱の数が3本から2本に変わり、甲板上に大きな船室が作られるなど船体上部がほぼ新造された結果、姿は大きく変わって往年の優美さは失われました。冒頭で述べたとおり、その後さまざまな用務を得ましたが、明治30年(1897年)に大阪で解体されました。

弁天台場に立てこもった旧蟠竜丸の乗組員は、既にここで戦っていた新選組とともに小銃等で応戦して奮闘を続けましたが、箱館市内が新政府軍によって占領されたため、やがて孤立。14日までには、弾薬・飲料水・糧食も尽き、本陣五稜郭に先立ち、ついに15日に新政府軍に降伏しました。

一方の五稜郭では、これに先立つ12日以降、箱館港内にいた新政府軍の旗艦、甲鉄からの艦砲射撃を受けていました。このうち、奉行所に命中した一発の砲弾により、洋学者で歩兵頭だった古屋佐久左衛門が負傷、のちに死亡しています。

さらに新政府軍は各所に陣地を築いて大砲を並べ、五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にしてそこに畳を敷いて休息を取ったといいます。

その後15日に弁天台場が降伏すると、16日には、箱館防衛の拠点、千代ヶ岱陣屋(ちよがだいじんや)も陥落しました。これは本陣の四周に外濠を巡らしたもので、およそ140m四方、高さ約3.6mの土塁と幅約16mの濠がありました。ここでは、築地軍艦操練所で教授も務めた中島三郎助が陣屋隊長として守備していました。

この前日、中島らは新政府軍からの降伏勧告を受けますがこれを拒否。このため、この日の未明、午前3時頃から新政府軍が攻撃をかけました。

北・西・南の三方向から突然銃撃が行われ、不意を突かれた陣屋内の旧幕府軍兵士たちは、組織だった防御ができず、多くが逃走したため、1時間足らずで陣屋は陥落しました。このとき、中島三郎助と長男の恒太郎・次男の英次郎、浦賀与力時代の部下・柴田伸助だけが残って奮闘したものの、やがて力尽きて戦死しました。

こうして、旧幕府艦隊は壊滅し、また各所の砲台や拠点が全滅したのを受け、同日の夕刻、榎本は、新政府軍に軍使を遣わし、翌朝7時までの休戦を願い出ました。政府側はそれを了承しましたが、このとき五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告したといわれています。

休戦の間、榎本ら旧幕府軍首脳側は合議の上、降伏して五稜郭を開城することを決定しました。この夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたといわれていますが、たまたま近くを通りかかった旧京都見廻役の幕臣、大塚霍之丞に制止され、思い留まりました。

ちなみに、この大塚は明治になってからは官僚となり、後に榎本武揚が北海道小樽の所有地管理のため設立した北辰社の支配人を務めています。

翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、箱館市街、亀田に設けられた会見場に出頭、新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願しました。

このとき黒田は、幹部のみに責任を負わせると、榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかったといいます。しかし結局榎本らは無条件降伏に同意。幹部らの処罰は宙に浮いたまま、降伏の手順書の提出だけが要求されてこの会談は終了しました。

その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には降伏の実行箇条書を作成、側近に新政府軍に提出させました。

翌18日早朝、榎本ら幹部は改めて亀田の新政府屯所へ出頭し、昼には五稜郭開城が実現しました。このとき、城内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了しました。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結しました。

戦後

降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放されました。一方、幹部については榎本武揚をはじめ、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、相馬主計、そして松岡磐吉の7名が拘束されました。

彼らは熊本藩兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京は兵部省軍務局の糾問司(きゅうもんし)に護送されました。そして同所内にある牢獄に一般の罪人とともに入れられ、それぞれが牢名主となりました。

この糾問司は、もとは江戸幕府の評定所だったもので、江戸城外の辰ノ口にありました。現在の東京駅の目の前にある丸の内永楽ビルディングが建てられている場所がその跡地です。旧幕時代には幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判が行なわれていました。

糺問司はその後、1872年(明治5年)に陸海軍にそれぞれ設置された「軍事裁判所」に移行され、1882年(明治15年)には「軍法会議」の制度ができたため、廃止されています。

旧箱館政府の元幹部7人の処罰にあたっては、新政府内でも異論があり、木戸孝允ら長州閥の面々が厳罰を求めた一方、主に旧幕府家臣からは減刑の声もあがり、赦免嘆願書を出す者もいました。

特に榎本の才能を高く評価していた黒田清隆、福沢諭吉らは、その助命を強く主張しましたが、大きな動きがないまま拘禁が続き、榎本を含む7人は、未決のままその後2年を辰ノ口の牢で過ごしました。

榎本はこの獄中、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えていたといい、磐吉もまた英語を学ぶなどして過ごしていたといいます。

しかし、磐吉はその後熱病を発症し、牢屋内の床に臥せるようになりました。熱病といっても腸チフスや肺炎、敗血症、発疹チフスなどいろいろ考えられますが、罪人であるため医者が呼ばれることもなく、原因不明のまま、明治4年(1871年)7月5日5時、死亡しました。

享年30歳。真夏であったため、その遺体は敷地内に仮埋葬され、のちに東京谷中にあった松岡家の菩提寺、一乗寺に埋葬されました。

翌1872年(明治5年)1月、他のメンバー、榎本武揚ら幹部は全員が赦免され、このとき磐吉にも「死後赦免」の沙汰が下されました。あと6ヵ月ほど持ちこたえることができれば、生きたままの赦免を迎えるところでしたが、運命はそれを許しませんでした。

磐吉が獄にいる間、その赦免嘆願書を出した、旧斗南藩士、武田信愛は、その嘆願書に松岡の人となりを書き、「気骨本幹ありてよく衆を御す」と評しています。冒頭の写真からも見てわかるように、気骨にあふれ周囲に慕われたであろうその人物像が、この文章からもうかがわれます。

その磐吉の兄、弘吉はこの3年後の1874年(明治7年)、柴性のまま亡くなっています。
彼もまた榎本や磐吉とともに蝦夷共和国設立に参加しましたが、五稜郭陥落後、他の将兵とともに解放されました。明治以後は許され、明治海軍に出仕したと思われます。

榎本武揚は、釈放後、黒田が次官を務めていた開拓使に雇われ、ナンバー4にあたる四等出仕に任官、北海道鉱山検査巡回を命じられました。ここで北海道の資源調査を行った結果、その功績が認められ、のちには駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結する重役を果たしました。

これを皮切りに出世街道を突き進み、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任し、子爵となりました。しかし、第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任した際は、足尾鉱毒事件での対応をめぐって被害農民の反発を招き、大臣を引責辞任しています。

以後、政府要職に就くことはありませんでしたが、晩年にはかつて設立した蝦夷共和国の夢を再現すべく海外殖民への関心を抱き、1897年(明治30年)には36名の植民団のメキシコ派遣を実現させました。

しかし、目指していたコーヒー菜園の開発が思うように進まない中、資金繰りに行き詰まり、マラリアも発生して逃亡者が発続出するなどしたため、わずか3ヶ月でこの殖民地は崩壊しました。

1905年(明治38年)には、海軍中将を退役し、その3年後の 10月26日、腎臓病で死去。享年73でした。その葬儀は海軍葬で行われています。

榎本は、実務的大臣を何度も歴任し「明治最良の官僚」と評され、明治天皇からも信頼を得ましたが、その一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉」といった批判や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けました。伴食とは主客のお伴をして御馳走を受けることで、恩赦というおこぼれのおかげで出世できたという批判です。

しかし、辰ノ口の牢への投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていたといい、晩年に至るまでもどこか新政府には殉じない気分をもっていたようです。

批判を受けながらも、反論もせずに重職の数々を担い続けたのは、それは、かつて共に戦い死んでいった同志が受けるべきだった職務と考えていた可能性があります。彼らに報いるつもりで、重責を受け続けたと考えることもできるでしょう。晩年、自腹を切って手掛けたメキシコ植民事業も、そうした贖罪のひとつであったのかもしれません。

弘吉、磐吉の二人が師事した江川英龍の息子、英敏は、その後家督を継いで第37代江川家当主となり、生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の開発などを次々と推し進めました。しかし、家督を継いでから7年後の1862年(文久2年)に24歳で夭折しました。

継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継ぎましたが、英武は、明治19年(1886年)、町村立伊豆学校の校長に就任。学校では生徒に英語教育を施すとともに柔道教育にも力を入れました。

“講道館四天王”の1人に数えられた富田常次郎を講師として伊豆学校に招聘しており、この富田は、青年期より講道館創始者の嘉納治五郎と寝食を共にした人物です。後に米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽力し、その多大な功績から“講道館柔道殿堂”にも選ばれています。

江川や富田によってその礎が築かれたこの伊豆学校は、その後、静岡県立韮山高等学校となりましたが、現在でもその「学祖」を江川英龍としています。その校訓は学祖江川坦庵の座右の銘である「忍」であり、現在も毎年、松岡兄弟のような優秀な人材を輩出し続けています。

同校は地元では「韮高」と呼ばれていますが、一方では「龍城」という名前がしばしば用いられるそうです。この韮山高校のすぐそばには、かつて北条早雲が拠点としていた韮山城跡があり、こちらがその由来です。その本丸があったとされる場所からは、すばらしい富士の眺めを堪能することができます。

磐吉や弘吉が学んだと思われる、かつての韮山代官所、江川邸は、この龍城のすぐそばに位置します。これを読んで興味を持たれた方は、一度ここを訪れてみてはいかがでしょうか。きっとこのころ吹いていたであろう、心地よい風を感じることができるに違いありません。

重要文化財 江川家住宅(江川邸)静岡県伊豆の国市韮山1番地

カッコウ発 ウイルス着

今年は暖冬で、早くもソメイヨシノが咲きそうです。

日に日に暖かくなり、日中の最高気温も20度を上回ることも珍しくなくなってきました。

「冬籠りの虫が這い出る」といわれる啓蟄は、ちょうど今頃、3月の上・中旬のころの気候をいいます。

古代中国で考案された季節を表す標語「七十二候」のひとつに、同じ季節を表現した「鷹化為鳩」というものがあり、これは「たかかしてはととなる」と読みます。

鷹が鳩に姿を変えることをさし、獰猛な鷹も春のうららかな陽気によって鳩に化ける、といいう意味ですが、ここでの鳩は、郭公(カッコウ)でもある、といわれます。

カッコウをみたことがある人はわかるでしょうが、たしかにぱっと見た目には鳩に見えなくもありません。中国やヨーロッパを含むユーラシア大陸全般に生息する鳥ですが、日本にも夏鳥として今の季節ごろからやってきます。

全国的に見られますが、本州中部から北に多く生息しており、草原、耕地、牧草地と小さな林がある明るくひらけた環境に棲んでいます。エサとしては、昆虫類も食べますが、クモやムカデなどの節足動物を好み、毛虫なども食べるようです。

名前のカッコウは、オスがそう鳴くから付けられたものであり、学名はCuculus canorusであって、“Cuculus”は「クゥークゥルス」という風に発音します。日本語でのカッコウは欧米人にはそう聞こえるのかもしれません。

canorus(カルノス)のほうはラテン語で「音楽的」を意味します。ヨーロッパでは、カッコウの声が聞こえる春になると、少女たちがその鳴き声を使って占いをするそうです。その最初にきいた鳴き声の数で、自分があと何年たったら結婚できるがわかるといいます。

フィンランドやロシアでは、その鳴き声を悲しい声ととらえる一方で、フランス人には陽気な声として聞こえるらしく、それぞれの国で悲しく楽しい民謡が作られています。

ヨーロッパのこのほかの国でも、古くからその鳴き声が親しまれており、民謡以外の楽曲にも取り入れられています。有名なところでは、「おもちゃの交響曲:オーストリア」(エトムント・アンゲラー)、「第六交響曲(田園):ドイツ」(ベートーヴェン)、「森の奥にすむカッコウ:フランス」(サン・サーンス) などがあります。

サン・サーンスの「森の奥にすむカッコウ」は、「動物の謝肉祭」という組曲の中に収められており、全14曲のうちの第9曲目に出てきます。クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣するという形で表現されており、ピアノ伴奏がその「声」を引き立てる形になっています。

日本でも「静かな湖畔の森の陰から」といった歌に歌われており、これは長野県・野尻湖のYMCAのキャンプ場で作られたそうです。筆者も行ったことがありますが、確かに静かな湖であり、この歌の普及からカッコウはこうした山奥の静かな場所で鳴く鳥と広く受け止められています。

しかし良い意味に受け止められているばかりではありません。「閑古鳥が鳴く」という言葉がありますが、これはカッコウのことです。静かなところでしか鳴かない、ということは、つまり人気が少ないところで鳴く鳥である、ということであり、「閑古鳥」ともいわれます。客が来なくて商売がはやらない「閉店ガラガラ」の状態を指すときによく使います。

松尾芭蕉の句にも「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」というのがあります。こちらは風流の例えとして使われており、「閑古鳥よ いつも何となく物憂にふけっている私を、お前のその寂しい鳴き声で、もっと閑寂境の世界に誘い込んでおくれ」といったほどの意味です。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡って岐阜の大垣まで旅したあとに詠んだ句です。芭蕉はこのとき48歳で、京都や伊勢志摩などの畿内での旅を終えて江戸へ帰った直後でした。

その2年ほど前に約5ヶ月600里(約2,400km)に渡って各地を旅した中で見た景色への思いをこの歌に込めたのではないかと思われます。この旅の印象を綴られたのが有名な紀行文「おくのほそ道」です。ちなみに芭蕉はこれから2年後の元禄7年(1694年)に、50歳で亡くなっています。

このほか、日本の昔話には、カッコウがなぜカッコウと鳴くようになったか、について語るものがあります。

とあるとき、ひとりの母親が「背中がかゆいのよ 掻いてくれない」と息子に頼みました。しかし、その子は遊びに夢中で母の頼みを聞いてくれそうもありません。母親はしかたなく川辺に行き、そこにあった岩に背中をあててこすっていましたが、あやまって川に落ち、死んでしまいました。

残された子は親不孝をしたことを悔い、悲しみに暮れて泣きました。そしてもしお母さんが生き返ってくれるならその背中をかこう、かこう、と言っているうちに、やがて鳥になり、カッコウ、カッコウと鳴くようになった、といいます。

さらに、日本には昔から「鳩時計」というものがありますが、この鳩も実はカッコウです。

もともと、ドイツで発明されたものを輸入したものですが、上述のとおり、カッコウの別名が閑古鳥であることから、縁起が悪いので鳩に替えられたという説があります。普及したのは戦後のことで、輸入したものを改良して準国産化したのは世田谷にあった、「手塚時計」だといわれています。

オリジナルの鳩時計は、ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトというところで18世紀の終わりごろから作られ始めました。ここで鳩時計の心臓部ともいえる、装置が発明されましたが、これは二つの音を発し、その高低さで鳥の声を模倣するというものでした。

そもそもオルゴールのような自動演奏装置の一部として開発されたものでしたが、この地方の人々は器用だったため、身近にある豊富な木材を利用して彫刻で人形を作るのが得意であり、この装置をもとに、からくり時計を作り始めました。

19世紀の半ばまでには現在のものとはそれほど違わない原型の鳩時計ができ、この地方がスイスにも近いことから、その後スイスでも作られるようになりました。

そのしくみとしては、鎖に付いた細長い松ぼっくり状のおもりがついていて、鎖がその重みで上下することによって時計やそのほかの装置を作動させる、というものです。おもりは通常2つまたは3つあり、1つは時間を動かすため、もう1つは時報(鳩や鐘の音)、そしてもう1つはオルゴールを動かすために使われます。

現在では世界中に普及していますが、近年ではアメリカ、日本、中国などではクォーツなどのムーブメントを組み込んだタイプも多く販売され始めており、本場のドイツでも作られています。しかし、かつての伝統的な重り式鳩時計もドイツやスイスを中心にして、まだ作られています。

ドイツにはシュヴァルツヴァルド時計協会という組織があり、おもり式鳩時計の品質証明書を発行しています。同協会が定める品質をクリアしている証であり、その基準を満たしている伝統的な鳩時計にのみ、その認定書を付けることができます。

幾らぐらいするものなのか調べてみたところ、シンプルなデザインのものでも2万円程度はするようで、オルゴールが組み込まれているような複雑なものでは3~4万円もするようです。が、その装飾は見事で、その価値は高そうです。こうしたものがお好きな方は購入を検討されてはどうでしょう。商売をやっている方はやめたほうがいいかもしれませんが。




このカッコウについては、宮沢賢治もまたその作品の中で登場させています。「セロ弾きのゴーシュ」というもので、賢治が亡くなった翌年の1934年に発表された作品です。37歳で亡くなるその7年ほど前に習い始めたセロ(チェロ)に触発されて書いたものと考えられます。

町の楽団でセロを弾くゴーシュという男性が、夜な夜な訪れてくる動物たちから刺激を受けつつ、その才能を伸ばしていく、といった話で、この中に主人公のもとに音楽を教わるためにカッコウが訪ねてっくる、という場面があります。

ゴーシュは粗野な性格で、所属する楽団の楽長に叱られた鬱憤晴らしに、弱者の動物をいじめる、といった卑屈な若者でした。しかし彼の元を訪れる様々な動物たちへ無償の行為を繰り返すうちに、次第に謙虚さを学び、同時にその技量を高めていきます。

カッコウとの反復練習で自らの音程の狂いを自覚し、さらにタヌキの鋭い指摘によって、自分の楽器の特性を知ります。そして最後にやってきた野鼠は、ゴーシュのセロの演奏で動物たちの病気が治ることを教えてくれました。

こうして自分が人知れず役立っていることを教えられ、自信を持つようになった結果、ゴーシュの演奏はリズム、音程、感情の三つが改善され、聴衆の心を動かすようになります。

楽長からも褒められて初めて自分の上達を知りますが、このときはじめて動物達から恩恵を受けていたことに気づきます。と同時に慈悲の心が芽生え、これによって真に音楽を理解できる青年へと成長していきます。

この作品は戦後、三度にわたって映画化されており、1982年には、高畑勲が監督して一般公開されています。前年の1981年には、大藤信郎賞(日本のアニメーションの先駆者である大藤信郎を称え、1962年に創設された賞)にもノミネートされて受賞しています。

この宮沢賢治の原作の中で、カッコウはゴーシュの手助けをすることになるわけですが、最初に来た時はその鳴き声に悩み、ドレミファ(音階)を正確に歌うことができませんでした。

「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」とゴーシュはッコウをからかいますが、賢治もまたこの鳥の鳴き声はただ単調なだけ、というふうに思っていたのでしょう。

現在、日本中で使われている「音響装置付信号機」に使われている誘導音のひとつもまたこうした単調なカッコウの声であり、横断歩道を渡るとき、「カッコー、カッコー、カッコー」といった擬音に促されて道を渡った経験は誰にでもあるでしょう。

これは単調ではあるものの、その高温と低温の組み合わせが人の注意を惹きやすいとして、1975年に警察庁などからなる委員会によって選ばれたものです。擬音としてはもうひとつ「ピヨ、ピヨ、ピヨ」が選ばれ、このほかメロディーとしては、「通りゃんせ」、「故郷の空」の二つも選ばれています。

このように意外と我々の身近なところでもその声が応用され、親しまれているカッコウですが、その生活史をのぞいてみると、ちょっと眉をひそめるような生態を持っていることに驚かせられます。

それは「托卵」を行う、ということあり、これは自分以外の種の鳥に、卵を預けて育てさせる、というものです。カッコウの成鳥の大きさはだいたい35cmほどもありますが、これよりもはるかに小さいオオヨシキリやホオジロ、モズといった鳥の巣に自分の子の卵を産み付けます。

自分と同じくらいの大きさのオナガに対しても托卵を行うことが確認されていますが、いずれにせよ、自分で子育てをせず、人様の家に自分の子供を押し付けて育てさせているわけで、人間世界ではありえない習性です。

その「仕事」は巧妙であり、托卵の際には、その相手の巣の中にあった卵をひとつ持ち去り、ちゃんと数を合わせる、という念の入れようです。カッコウのヒナはだいたい10~12日程度の比較的短期間で孵化し、これは相手の巣の持ち主のヒナより早いことが多くなっています。

先に生まれたカッコウのヒナもまた親譲りの性格の悪さを持ち合わせており、生まれたらすぐに、その巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまいます。本能的にそうするようその遺伝子に刷り込まれているらしく、こうして自分だけを育てさせることに成功すると、その後はその巣の養父母の元ですくすくと育ちます。

その巣の親もまた他人の子とも気付かずにその子を育て、ご丁寧にその巣立ちまでご奉仕します。巣立ち直前には「カッコウ、カッコウ」ともう一人前の声を上げますが、その声が他の種の子の声であるのにも気づきません。「義母」である親鳥、例えばそれがオナガならば、「グェーイ、グェーイ」とカッコウの子とまたは違う声で鳴きながら給餌します。

しかし、やがてすぐには餌を与えないようになり、幼鳥をじらしながらより高い枝に誘導し、独り立ちを促します。やがてカッコウの幼鳥はどこかへ飛び去りますが、残された巣には何も残されることはありません。その巣から本来は巣立つはずの子は、とうの昔にカッコウに押し出されて、巣の外で冷たくなっているわけです。

もっとも本当の親であるカッコウの親鳥の托卵のタイミングが遅い場合は、先に孵化した巣の持ち主のヒナも大きくなっていることがあります。この場合は相手が重すぎて押し出せないため、そのまま一緒に育つ場合もあるようです。

また、あるカッコウが別種の鳥の巣に卵を産みつけた後、別のカッコウが同じ巣に卵を産む、といった「ダブルブッキング」をすることもあるといいます。この場合、2つの卵がほぼ同時に孵ることもあります。この場合はその2羽のヒナ同士が落とし合いをするところとなり、敗れたほうには当然死が待っていることになります。

こうした托卵がなぜ行われるのかについての解明は、まだ完全には行われていません。ただ、カッコウは自分の体の体温を維持する能力が低く、外気温や運動の有無によって体温が大きく変動することがわかっています。

このため、卵を産んでも自分の安定した体温で育てることができず、体温の変動の少ない他の鳥に抱卵してもらうのではないか、ということが言われているようです。




こうした托卵はカッコウの専売特許ではありません。他の鳥では、例えばダチョウのように、同じ種同士が共同で子育てをするといった例もあります。ダチョウはオスが地面を掘ってできた窪みにメスが産卵、その巣にさらに他のメスも産卵します。これを最初に産卵したメスが抱卵するといいます。

同様の行動はムクドリにもみられるということであり、このように自分以外の同種や他種に卵を預ける、といった行動は鳥類以外にもみられます。

北米に生息する“フロリダアカハラガメ”は同所に生息するアメリカアリゲーターの巣に托卵します。巣の発酵熱で孵化を早めると同時に、巣を守るアリゲーターの親を卵の護衛役に利用します。托卵先のアリゲーターの卵に危害を加えることはありません。

また、魚では、ナマズ類に属する“シノドンティス・ムルティプンクタートス”という種は、マウスブルーダー(口の中で抱卵する)である“シクリッド”という魚に卵を託す習性を持っています。このナマズの稚魚は、シクリッドの口腔内で育ちますが、その過程で養母であるシクリッドが生んだ卵を食べながら成長します。

さらに、昆虫の“シデムシ”も種内托卵を行います。その一種“モンシデムシ”も同種に托卵を行いますが、托卵される側は、ときに「子殺し」を行います。寄生に対して敏感な本能を持ち合わせていて、親は通常の孵化に要する時間と比べて孵化が早すぎる個体があればこれに気づき、殺すことがあるといいます。

カッコウの話に戻ると、同様に托卵されたその子が異種のものであることを見破る鳥もいます。そうとわかるとそれを排除してしまいますが、このように托卵を見破るケースが時おり見受けられるというのは、長い間痛い目に遭ってきた結果、そうした異種の卵を見分ける能力を自然に身に着けたものと考えられています。

これに対して、カッコウもまた対抗策を講じてきました。その結果、托卵先の相手の卵にできるだけ模様を似せ、見破られないようにできるようになりました。たとえばホオジロの卵には線模様がありますが、カッコウの卵にも似たような模様があって見破られにくくなっていますし、大きさもそっくりです。

このようにある生物学的な行動を通じて、関係しあう者同士がお互いの能力を発達させ、ともに進化することを「共進化(Co-evolution)」といいます。

生物学的には、一つの種の「生物学的な要因」の変化が引き金となり、別の種の生物学的要因もまた変化すること、と定義されています。この共進化は、別々の種との間だけでなく、同じ種同士でも起きます。

2種の生物が互いに依存して進化する場合、それがお互いの利益につながるなら、この共進化は「相利共進化」と呼びます。たとえばヤドカリとその貝殻上に生息するイソギンチャクとヒドロ虫との関係では、ヤドカリは殻の上にこれらの刺胞動物が生息することで敵の攻撃を受けにくくなり、ヒドロ虫は移動手段を得られます。

この場合、異なる生物種が同所的に生活することで、互いに利益を得ることができる共生関係であることから、「相利共生共進化」ともいいます。

一方、カッコウの例のように、カッコウ側は子育てをしてもらって利益を得ますが、托卵をまかされる相手は害を受けるわけであり、この場合は「片利片害」になります。しかし、そのことを通じてお互いに切磋琢磨し、化かし化かされないように進化するわけであり、「片利片害共進化」を果たすわけです。

同じ「片利片害」でもライオンとそれに食われる草食動物との関係のように、捕食種と被捕食種、といった極端なケースもありますが、この場合でも進化は発生します。ライオンは草食動物を効率的に狩るために進化し、草食動物はこれから逃れようとまた独自の進化を遂げるわけです。

一般には草食動物は逃げ足が速く、より周囲に敏感になるのに対して、捕食者はそれを捕まえられる能力が優れていきます。いわば「軍拡競争」のような状況であり、このように、敵対的な関係にある種間で、進化的な軍拡競走が繰り広げられるパターンは「赤の女王仮説(Red Queen’s Hypothesis)」として説明されています。

「赤の女王競争」や「赤の女王効果」などとも呼ばれ、アメリカの進化生物学者であるリー・ヴァン・ヴェーレンによって1973年に提唱されたものです。

「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する人物です。彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞からきています。

赤の女王は、一般的なチェスでは黒のクイーンにあたります。この物語の序盤で他の多くの駒たちとともに姿を見せますが、その後人間並みの大きさになって再登場すると尊大な態度でアリスに接します。

そして、鏡の国のチェスゲームに興味を持ったアリスに、自分が敵対する白のチームの歩となってゲームに参加するよう助言します。加えてルールを説明しますが、その中で「ひとところに留まっていたければ全力で駆けなければならない」とこの発言をするのです。

赤の女王が言いたかったのは、ゲームに勝ちたかったら、同じところに留まっていてはダメ、努力しなさい、ということなのですが、進化論的には、捕食者に耐えて生き残るためには、自らが進化し続けなければダメ、ということであり、こうしたことからこの説が「赤の女王仮説」と呼ばれるようになりました。

弱肉強食の生物界において小型動物が生き残っていくためには、いかに立ち止まることなく自分を進化させていくかが問われています。現在を生きる小動物たちは皆、捕食者から逃げのびる中で長い時間をかけて自己淘汰を行ってきたのであり、その結果この世に生存するに足る優れた能力を持つに至ったわけです。

一方で、たとえば海洋の孤島などのように捕食者のいない環境を考えてみましょう。そこで生き延びてきた小型動物たちは無警戒であり、もしそのような場所に上位捕食者が入り込んだとしたら、あっという間に食べ尽くされてしまうに違いありません。

捕食者がいる、ということはその時々では脅威に違いありませんが、長い目でみれば、自己を進化させるという意味で重要である、ということがわかります。

こうした赤の女王仮説は、他の種が存在する理由にも使えます。例えば昆虫の例では、北アメリカ北部に生息する“ジュウシチネンゼミ”の例があります。このセミは、17年に一度しか成虫が姿を見せません。アメリカ南部には13年にしか発生しないセミもおり、こうしたセミは、一定周期で現れたり消えたりするので、「周期ゼミ」と呼ばれています。

もっとも一定周期の間現れないのは特定の地域だけでのことであって、その間、また別の地域では現れます。つまり、ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、それぞれ別の場所で13年、17年周期で発生するのです。例えば隣接する地方では、ある年に片方の地方では発生するけれどもその隣では発生せず、そのあとも時間をずらして交互に発生します。

全米においては、17年周期の17年ゼミは3種、13年周期の13年ゼミは4種いるそうですが、これらのセミが同じ地方において同じ年に発生することはほとんどありません。まるでそれぞれの周期ゼミが隣のテリトリーの発生周期を知っていて、これを避けているようにすら見えます。

まれに、全米のどこにも周期ゼミが発生しない年もあるようですが、いずれにせよ、こうした周期ゼミは、基本的には地方毎に発生の時期をずらすことで、同じ場所に同じ種が重複して発生しないようにしている、と考えられています。

しかしそれにしても、どうして時期をずらして別々の場所に発生するのでしょうか。これについてはまだよくわかっていないようですが、この現象のひとつの説明としては、かつてこれらのセミに寄生した天敵があったのではないか、ということが言われています。

普通のセミは、ほぼ毎年、夏になれば発生します。これに対して、13年、あるいは17年もの長い間、間を空けて発生する理由は、3~4年の間隔で大発生する寄生虫を避けるためと考えることができます。これにより、長スパンで発生する自分たちのサイクルに、こうしたはついてこられなくなります。

しかもその発生年数が、13年、17年といった「「素数」であれば、より寄生虫を避けやすくなります。例えばセミの発生周期が13年ではなく12年であったなら、発生周期が3年や4年の寄生虫とは、同時発生してしまう時期が3~4年間隔で必ず出てきます。

ところが、これが13年であれば、発生周期が3年の寄生虫は39年、4年の虫は52年おきにしかセミと同時発生することができません。17年周期であれば、発生周期が3年の寄生虫は51年、4年の虫とは実に68年周期でしか遭遇しないことになります

こうした習性をもし周年ゼミが長い間の淘汰で得てきたとしたならば、これもまた共進化の結果であり、捕食者である寄生虫に、被食者である周期ゼミが勝ち残った結果の進化、といえます。




このように、ほ乳類のような小動物が自分の身体機能を進化させることで外的からその身を守ろうとするだけでなく、こうしたちっぽけな昆虫類もまた、自らの発生時期を変えるという単純な工夫で天敵から逃れる術を得ている、と考えることができるわけです。

このことはつまり、生物はその生存の過程において、何等かの迫害者がいる場合はそれに適応して彼らから逃れる術を身に着けている、ということにほかなりません。たとえ一つの世代においてそれが達成されなくても、何世代にもわたってそれが繰り返されれば、その結果として進化がもたらされます。

その進化は迫害を受けるものだけでなく、迫害者にも起こる可能性があるわけであり、昨今、人類を脅かしているコロナウイルスもまたそうした過程で進化してきたものです。

ウイルスは、手を変え品を変えて、宿主である我々の体内に入り込み、寄生しようとしますが、これに対して我々はそれを阻止するために、「免疫系」というものを発達させてきました。

免疫系は、細菌やウイルスなどの寄生者を排除するよう選択圧を受けた結果、我々が身に着けた能力です。片やウイルスもまた、こうした免疫系を破壊するか回避するような選択圧を受けた結果、世代ごとにその能力を進化させてきました。

従来のウイルスに比べてコロナウイルスのほうが感染力が強い、といったことが言われているようですが、これはそうした進化を重ねることによってその能力をより巧妙なものに仕立ててきた、と考えることができるのです。

こうした人間とウイルスの共進化、別の意味での「戦い」の歴史は長く、おそらくは人類が始まって以来続いているものでしょう。ヒトに感染するウイルスの中でも最も古いものといわれているのは、天然痘と麻疹(はしか)のウイルスであり、これらのウイルスは数千年前にヨーロッパと北アフリカの人類の前に初めて出現しました。

11世紀以降、十字軍やイスラムによる征服によって、こうしたウイルスは新世界へと運ばれていきましたが、ここに住む先住民たちは対抗する免疫を持っていなかったため、数百万人が死亡しました。1580年にはインフルエンザによるパンデミックが初めて生じ、その後の世紀でも頻度を増しながら発生し続けていきました。

1918年から1919年にかけて流行したインフルエンザは、初出がスペインであったため、スペイン風邪と呼ばれましたが、これによって4000万人から5000万人が1年以内に死亡し、歴史上最も壊滅的な伝染病流行の1つと言われています。

人類が初めてこうしたウイルスへの対策法を確立したのは19世紀になってからです。ルイ・パスツールは狂犬病ワクチンを、エドワード・ジェンナーは種痘を開発することで、ウイルス感染から人々を守ることに成功しました。

さらに20世紀に入ってからは1930年代に発明された電子顕微鏡によってウイルスの性質は徐々に解明され始めました。昔からの病気も新しい病気も、多くがウイルスによって引き起こされていることが判明するようになり、古代からあったポリオでは、1950年代にポリオワクチンが開発されるとその制圧が進みました。

ジェンナーが開発した種痘の実施は徐々に世界中に広まっていき、20世紀中盤には先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本においては1955年にほぼ天然痘は根絶されました。

一方では新しいウイルスも出現し、そのひとつであるHIVは、この数世紀の間に出現した新しいウイルスの中で最も病原性の高いものの1つです。人の免疫細胞に感染してこれを破壊し、最終的に後天性免疫不全症候群 (AIDS)を発症させるこのウイルスの感染対策はまだ確立されていません。

そしてコロナウイルスです。2009年の新型インフルエンザ以来の世界的流行となったこのウイルスに対して、先日、WHOはこれをパンデミックである、と宣言しました。

パンデミックとはある感染症が、著しい感染の広がりを見せ、死亡者も膨大になる事態を想定して、世界的な感染の流行を表す警告するものであり、世界的な保健機関であるWHOがそれを宣言すること自体、歴史的な大流行であることを意味します。

「今、すべての人類が脅威にさらされている」との警告がなされたものであり、多くの人を死に至らしめる可能性が高く、それを警告するためこのような宣言なされるわけです。

コロナウイルスが過去に発生した伝染病と比べてどれほど危険性が高いかはまだよくわかっていないようですが、人類にとって有害な伝染病であることは間違いありません。

しかし、上述のような「共進性」ということを考えたとき、こうしたウイルスの流行もまた、人類がさらに進化するための試練である、というところは否定できないでしょう。長い目で見れば、むしろ「必要悪」といえるのかもしれません。

そもそも、ウイルスは、人類の誕生のころから我々と共生してきたものです。コロナウイルスのように人に有害なものも数多くありますが、実は地球上には約1031、ものウイルスが存在すると推計されており、そのほとんどは人類にとっては有害ではなく、むしろ有益なものです。

対して、人間に害を及ぼすタイプのウイルスはその「病原性」に対して科学的関心が寄せられてきたものですが、それらは種を越えた「遺伝子の水平伝播」によって進化を促し、生態系の中で重要な役割を果たす生命に必須の存在である、という見方があります。

遺伝子の水平伝播とは、母なる細胞から子細胞への遺伝ではなく、個体間や他生物間においておこる「遺伝子の取り込み」のことです。生物の進化に影響を与えていると考えられています。

通常、生物の体の中では、細胞分裂によって母細胞から子細胞へ染色体がコピーされということが繰り返されています。同様の遺伝子情報は、親から子へと行われる際に継承されるわけで、その際の時間的変化を垂直的(遺伝子の垂直伝播)とするならば、同種が「同時的に」他の生物からの影響によって遺伝子情報を受けて変化することは「水平的」と表現できます。

これが、「水平伝播」であり、我々のようなヒトのゲノムには、ウイルスの遺伝子が「水平的」に取り込まれていることが知られています。つまり、我々が生きている間にウイルスによって侵されることによって、そのウイルスの遺伝子情報が我々の中に取り込まれる、というのです。

こうした水平伝播が長い歴史の中で繰り返されてきた結果、つまり、「垂直伝播」が起こってきた結果、ある種のウイルスは既に人間と一体化しているといわれています。

ヒトゲノムプロジェクトによって、ヒトゲノムの至る所に無数のウイルス由来DNA配列が散在していることが明らかにされています。これらの配列はヒトのDNAの約80%を構成しており、太古のレトロウイルスがヒトの祖先に感染した痕跡だと考えられています。

これらのDNA断片は、ヒトのDNA中にしっかりと定着しています。このDNAのほとんどはすでに機能を失っていますが、これらのウイルスの中にはヒトの発達に重要な遺伝子を持ち込んだものもあるようです。

4000万年前に存在したウイルスの遺伝子がヒトに取り込まれたとする論文も発表されており、ヒトの進化にウイルスが関与する可能性は昔から研究者の間で取り沙汰されています。

そして近年では、そうした影響力の強いウイルスのひとつが「バクテリオファージ」タイプのウイルスではないか、といわれています。

バクテリアファージとは、細菌に感染するウイルスの総称で、このタイプのウイルスが感染した細菌は細胞膜を破壊される「溶菌」という現象を起こします。

このとき、その細菌は食べ尽くされるかのように死滅し、死細胞を残しません。このため、「細菌(bacteria)を食べるもの(ギリシア語:phagos)」を表す「バクテリオファージ(bacteriophage)」という名がつけられました。つまりは、細菌イーター(細菌の掃除屋)ということになります。

ウイルスは、人類だけでなくその他の生物にとっても、病気や死の原因になるもの、という評価を受けていますが、多くの生態系においては、豊富にあるウイルスは実はその生存のために重要な役割を担っているといわれています。

上述のとおり、地球上には約1031のウイルスが存在すると推計されていますが、実はそのほとんどはこうした「バクテリオファージ」タイプのウイルスです。

しかし、そのほとんどは海洋に存在し、陸上にはあまりいません。細菌も含めた微生物は海中のバイオマス(生物体量)の90%以上を構成していますが、バクテリオファージタイプのウイルスはこのバイオマスの約20%を日々殺しているといわれており、海洋中には細菌や古細菌の15倍のこうしたウイルスが存在すると推定されています。

日本近海では、いわゆる「赤潮」と呼ばれ、微小な藻類が高密度に発生し水面付近が変色する現象がしばしば起こります。欧米でも赤潮は発生しますが、同様の原因ではあるものの水面が褐色になる現象が起こることが多く、これは water-bloom(ウォーターブルーム) と呼ばれています。日本でも発生することがあり「水の華」という呼称があります。

赤潮や水の華は他の海洋生物を殺す有害なものとなることも多く、バクテリオファージはこうした藻類ブルームを迅速に破壊してくれます。海洋の藻類は、ラン藻という細菌の一群から形成されており、複数のラン藻間の環境的なバランスを維持し、地球上の生物のための適切な酸素合成を助けているのが、こうした海洋性のウイルスです。

さらに、我々が病気になったときに投与される抗生物質に対し、これに耐性を示す細菌が増えており、これまでの抗生物質が徐々に効かなくなっている、と言われています。その対策のためにもこのバクテリオファージは有効ではないかと考えられ始めています。

薬を投与しても効果のない細菌(薬剤耐性細菌)によって引き起こされる問題は急増しており、細菌感染の治療の上において問題になってきています。ウイルスによる感染以上に深刻といわれていますが、ここ30年の間に開発された新たな抗生物質はたった2つだけであり、細菌感染と闘うための新たな手段としてバクテリオファージが期待されているのです。

その研究は1920年代に始められ、細菌を制御する方法として注目を浴びるようになり、1963年にはソ連の科学者たちによって大規模な臨床試験が行われました。その業績は、1989年に西側諸国で公表されるまで世界的にも知られていませんでしたが、その発表を受けて、バクテリオファージによる治療には大きな関心が寄せられるようになりました。

こうしたバクテリオファージを用いた細菌感染症の治療法は「ファージセラピー」といわれています。理論上、宿主生物(ヒト, 動物, および植物)に対して無害なだけでなく、腸内細菌のように病原性を持たず、善玉細菌に対しても無害であり、高い治療効果が期待できるわりには副反応も起こさないと考えられています。

このため、細菌を殺すウイルスとして大きな期待が寄せられているのです。ただ、欧米を中心にこれに対する関心は高まってはいるものの、まだヒトへの使用は承認されていません。細菌を破壊する過程で出てくる毒性が人間に及ぼす影響も懸念されているためであり、まだまだその実用化には時間がかかりそうです。

ただいつの日か、こうしたウイルスを利用した細菌治療法が確立され、それと同時にそうした優れた性質がヒトの遺伝子に害なく取り入れられる時代がくるかもしれません。その延長で、今猛威を振るっているコロナウイルスのようなものへの対策に使える日がくる可能性があるかもしれません。

あるいはコロナウイルスもまた改良されて人間と同化し、今のように有害なものではなく、むしろ有益なものにできるよう、人工的に改良できるような時代がやってくるかもしれません。

そのためにはあとどのくらいかかるでしょう。

何十年、何百年もかかるかもしれません。が、そのころまでには、また生まれ変わり、別の人生を歩んでいるに違いありません。

もしかしたら、そんな新技術の開発を担っているのはほかならぬ私かもしれません。

あるいはあなたかも。それならばぜひ未来の私を救っていただきたいものです。

桃太郎 考

もうすぐ雛祭りです。

いわずもがな、女の子の健やかな成長を祈る年中行事ですが、江戸時代までは、旧暦の3月3日、すなわち現在の4月頃に行われていました。「桃の節句」と言われるのは、このころが桃の花が咲く時期であるためにほかなりません。

この桃ですが、原産地は中国西北部、黄河上流の高山地帯だそうです。2500年も前から栽培されていたといい、誕生したての頃は、毛毛(モモ)とも呼ばれ、硬い果肉の表面は毛で覆われていました。しかし、味はよかったようで、その甘い香りも相まって、「不老不死の仙果」と考えられていました。

中国で誕生したこの桃は、やがてシルクロードをたどって、ペルシャへと伝わります。ペルシャとは、現在のイランを中心に成立していた国であり、ヨーロッパの入り口でもありました。ここを経て、さらに1世紀頃には古代オリエント一帯とギリシャ、ローマにも伝えられ、17世紀にはアメリカ大陸にまで伝わりました。

英名ピーチ(Peach)は、最初に桃が伝わった地、 “ペルシア”が語源です。ラテン語では“persicum malum”と書き、これは「ペルシアの林檎」という意味です。

ところが、日本では、これよりももっと古い時代の縄文時代には既に食べられていたようです。およそ6000年前の集落の跡である長崎の伊木力遺跡(諫早市)からは、桃の種が発見されています。ただ、中国原産のものとは異なり、おそらくは味もあまりよくなかったのではないでしょうか。

これより時代が下がった弥生時代後期(3世紀前半)の遺跡、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡では、その土坑から、2千個以上の桃の種が出土しています。こちらは祭祀に使われたものらしく、この頃もう既に、仙果として桃を崇拝する風習が中国から伝来していたと考えられます。

中国において仙木・仙果と呼ばれていた桃は、こうして日本でも、神仙に力を与える樹木・果実として珍重されるようになりました。その後も邪気を祓い不老長寿を与える果物として、さらに親しまれるようになっていきました。

平安時代(8~12世紀)にはさらに日本全国に広まったようです。ただ、当時の品種はそれほど甘くなく、主に薬用・観賞用として用いられていました。その後、中国の桃と交配が進み、品種改良も進んでかなりたべやすくなっていきます。

江戸時代までには各地で物産品として生産が始まり、山城伏見(京都)、備前(岡山)、備後(広島東部)、紀州(現和歌山)が主な産地となりました。

その後もさらに品種改良が進み、いかにおいしくするかを追求し続けた結果、現在では、世界でも類をみないほどの美味しい桃が生まれました。山梨産の白鳳やスイートネクタリン、岡山の白鳳などはその代表です。

ところで、日本の書物において、桃に関する最初の記述が登場するのは712年に編纂されたとする「古事記」といわれています。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、黄泉の国に亡くなった奥さんの伊邪那美命(イザナミノミコト)に会いに行き、その醜い姿を見て逃げ出します。そのとき、追いかけてきた鬼女、予母都色許女(ヨモツシコメ)に桃を投げつけることによって退散させた、といったことがそこに書かれています。

伊邪那岐命は自分を助けてくれたその功を称え、桃に意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)の名を与えました。そして「お前が私を助けたように、葦原の中国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやってくれ」と桃に命じた、と伝えられています。

こうした神話を受け、現在でも各地にオオカムヅミを祀る神社があります。東京都多摩市の熊野神社、島根県出雲市の多伎藝神社、富山県黒部市の新治神社、兵庫県豊岡市の桃島神社などが、それらです。

埼玉県行田市の行田八幡神社では、境内に「なで桃」を祀っており、なでると厄災消除になるといい、桃の絵馬も授与されています。また徳島県阿波市の賀茂神社では、本物の桃が入った「桃の実のお守り」を授与しています。

このほか、愛知県桃山市の桃太郎神社では、「桃太郎」をオオカムヅミ命の生まれ代わりとして祀っています。この神社には、全国的にも珍しい桃型の鳥居があるほか、桃太郎のおばあさんが洗濯をした洗濯岩などがあり、毎年、5月5日のこどもの日には桃太郎祭りが開かれるそうです。




この「桃太郎」ですが、そのストーリーを知らない人はいないでしょう。桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話です。生まれたのちは、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征。道中遭遇するイヌ、サル、キジにきび団子を褒美として与えて家来にし、鬼を退治してその財宝を手中に入れ、郷里に凱旋します。

桃太郎側を主人公とし、その視点で物語を綴った勧善懲悪話です。明治から現在にかけて普及したもので、地方には少し違ったバージョンなどもあり、作品によって場面ごとの違いはありますが、だいたいどの話も同じです。このため、民話をもとにした歴史研究の世界では「標準型」として分類されています。

ところが、明治より前のより古い系統の桃太郎説話は、こうした「標準型」とは少し異なっているようです。とくに、桃太郎の出生に関して、江戸後期に近い比較的新しいものでは桃から生まれたとする「果生型」が一般的ですが、これより古いものでは、桃を食べたお婆さんが若返りして、桃太郎を出産する「回春型」が主流となっています。

江戸時代、江戸では草双紙(くさぞうし)と呼ばれる絵入り娯楽本が流行しました。とくに江戸前期~中期にかけて普及した「赤本」と呼ばれる草双紙の中では、現在まで語り継がれる昔話が数多く展開されています。さるかに合戦・舌切り雀、花咲か爺などがそれであり、桃太郎もまたこの中に記録されていたもののひとつです。

江戸で流行ったこうした草双紙は、やがて地方でも読まれるようになり、桃太郎話も、各地で標準型とは異なる、違ったレパートリーが生まれるようになります。

例えば、香川県高松市鬼無町では桃太郎が女の子だった、とする話があります。おばあさんが川から持ち帰った桃を食べ、若返ったおばあさんとおじいさんの間に、男の子のように元気のいい女の子が生まれます。そして、あまりに可愛いので鬼にさらわれないよう桃太郎と名づけ育てる、といった話です。

また。桃そのものが女性であったという話もあります。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘であり、桃は若い娘の尻の象徴というわけです。回春型であるところは同じで、子供ができずに悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供をはらませ、その娘から子供を取り上げる、という話に仕立てられています。

こうした江戸期の桃太郎話の原典を、長年収集・筆写・比較研究した、日本近世文学の研究者の小池藤五郎(1895 – 1982)という人は、甲斐国(現山梨県にあった甘露山慈雲院(明治31年に洪水で喪失)というお寺で記録された「太郎物語(慶長5年/1600年)」がこうした桃太郎話の原話に近いものとしています。

この原典において桃太郎は「夫婦が神仏頼みして」得る、ということになっており、小池はこれが最も古い原型、次いで「夫婦が若返りする」「回春型」に変化し、最後に桃から生まれた桃太郎という「果生型」に発展した、という説を提唱しました。

つまり我々が慣れ親しんでいる「標準型」の桃太郎話は、比較的新しいものであり、おそらくは明治以後の教育改革の中で、学校や幼稚園で配られる教科書や絵本を通じて普及していったものと考えられます。

若返った夫婦の夜の営みによって桃太郎が生まれた云々の話は、子供にとってはあまりにもなまめかしいものです。標準型からそうした記述が消えたのは、教育的にもよろしくない、と判断されたためでしょう。しかしそれにしても、もともとの話にあった醍醐味が少々失われたようなかんじがしないでもありません。

とはいえ、社会的なモラルの形成が国是であった明治時代以降の日本においてはやむを得ない改変だったのでしょう。

ただ、これによって、もともとの話である、「神仏頼みで子を得る」、あるいは「若返り子をもうける」といった内容は失われ、その背景にあった、桃が邪気をはらい不老不死の力を与える霊薬である果実である、といった原型に含まれていた重要な部分は語り継がれなくなってしまいました。

こうした、桃を食べて若返るといった内容は、もともとは、中国で古くから信仰されてきた、不老不死の力を与える神女、「西王母」の伝説から来ているという説があります。

また、桃が邪気を払う霊薬である、という点は、上でも挙げたような、黄泉の国から逃げるイザナギが、刺客のヨモツシコメを退散させるための切り札が桃であったという日本神話ともつながります。

神話の世界の中で語られていた不老不死、邪気の効果のある桃は、やがて時代が下がって文化が成熟し、平安の時代になると、「山から流れて来て」というふうに脚色され、麓にある者がその能力を手にする、というふうに変わっていきました。




それにしても、平安や鎌倉のこの時代、よりポピュラーだった瓜や橘の実でなく、これが桃であったのはなぜでしょう。その理由について、児童文学作家の奥田継夫(1934-)は著書「どこかで鬼の話」の中で、こう述べています。

「桃は大昔より数少ない果物であり、においや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう」

その後、江戸期になって流行った草双紙などでは、こうした桃のイメージのうちの不老不死の部分がかなり薄まり、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす、といった「回春」の部分だけが強調されるようになりました。

一方では、さらに時代が下がり、幕末から明治時代近くになると、この回春タイプも次第になりを潜めるようになり、やがて桃から生まれた桃太郎、といった「果生型」の話が多くみられるようになっていきます。とくに親から子へと語り継がれる口承話では、この「果生型」が圧倒的に多くなっていました。

親が子に物語を伝える際、桃太郎が若返ったおばあさんのお腹の中から生まれた、といった妙に生々しい話を描写をするのはやはりはばかられた、ということでしょう。

さらに「果生型」が一般的になってからは、桃から生まれた、といった話だけでなく、赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた、といった話も作られました。とくに、東北や北陸では、箱の中に桃が入っていたという話が多く、箱の色も赤い手箱と黒い手箱であったりするパターンもあるようです。

「たんす」や「戸棚」、「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生する、といった話もあり、語り伝えは一様ではありません。同じ果生型であっても、桃太郎が生まれる瞬間については、色々な脚色があるようです。

上述の「標準型」では、さらにこうした箱も取り払われ、単に大きな桃が上流からどんぶらこっこと流れてきた、というふうに変わっていきます。明治以降、もはや若返ったおばあさんのおなかから生まれるといった話は、まったく語られなくなってしまいました。

以後、標準型の桃太郎が語り継がれる中、桃太郎自身のその姿も変わっていきます。現在の我々が良く知る桃太郎は、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿であり、これに犬や鳥、猿が「家来」として付き従います。

しかし、それ以前の江戸時代までは、普通に着物を着て鬼退治に行っていたようです。戦装束などしておらず、動物達も単に道連れであって、上下関係などはありませんでした。

こうした桃太郎の衣装が変わった背景には、日本が維新以降、「海外進出」の道を歩み始めたことと関係があります。明治政府は、国家体制がある程度整ったのを見届けると、やがて、隣国の中国や韓国に干渉を始めました。

日清、日露戦争を経て日本が軍拡の道を進む中、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材にも登場して広く利用されるようになります。この時代、桃太郎は、周辺国を従える勇ましい大日本帝国の象徴になぞらえられるようになっていきました。

その後日本はさらに軍事大国化していきますが、第一次大戦のあと続いて起こった太平洋戦争に突入していく中、桃太郎は軍国主義という思想を背景に、「勇敢さ」の比喩として語られるようになっていきます。

このころの桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用されるようになります。孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現する国民的英雄としてみなされるようになり、しばしば国民の模範として描かれました。

もっとも、英雄として扱われたのはこの太平洋戦争のころだけです。それ以前の大正時代には、価値の本質は純真無垢であるとする「童心主義」が流行し、桃太郎はその象徴とされました。また昭和初期に流行した「プロレタリア主義」では、子供の野性味が尊重され、「革命」の騎手たる者のイメージとして桃太郎が使われました。

童心主義の立場が純真無垢や無邪気を価値とするのに対して、プロレタリア主義の人々は、童心主義は観念的であると批判し、現実に生きる子供を題材にしようとしました。大正デモクラシーとそれに引き続く昭和恐慌、さらに日中戦争の予感がある中、やがて革命がおこる、あるいは起こってほしい、と人々が願っていたためです。

その後太平洋戦争に突入していく中、童心主義もプロレタリア主義も鳴りを潜め、軍国主義の騎手として桃太郎は祭り上げられていきます。しかし、やがて戦争に敗れ、軍部に握られていた権利の人民への復権が叫ばれるようになると、今度は「民主主義」の先駆としての桃太郎が語られるようになりました。

おじいさんやおばあさんと三人での「和」を保った生活、犬、雉、猿には均等に黍団子を与えて平等に扱い、鬼のような平和を乱す悪者には敢然と立ち向かう、といったその姿勢こそが新しい時代の「国民の模範」と目されるようになったのです。

かくして、桃太郎は小さな子供に読み聞かせる「教訓的な話」、として幼稚園や学校で推奨されるようになり、巷の紙芝居でも頻繁にかけられるようになりました。本屋、図書館においても、そこに置かれる絵本や物語としては定番なものとして不動の地位を占めるようになります。

現在においても人気は高く、どの日本の昔話のランキングを見ても、たいてい5位以内に入っていることが多いようです。堂々の1位を獲得したアンケート結果などもあちこちで見られます。

しかし、こうした読み聞かせ型の物語も近年は多様化し、海外からの翻訳モノや新しいタイプの物語も増えて、もはや昔のままの桃太郎の時代ではない、という声もちらほら聞こえるようになりました。

近現代においては、「ジェンダーバイアス」といった問題も取り上げられるようになり、そもそも「桃太郎」というネーミング自体が、性差別の根源だ、という意見まで出るようになっています。

こうした風潮を受け、主人公を「桃子」とする桃太郎話まで現れ、この話では、男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行く、といったふうに改変されています。夫婦の役割にもジェンダー的な作業分担が適用さているわけであり、時代の移り変わりを感じざるを得ません。

1990年から放映されている、NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映された桃太郎話では、桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」です。

ところが、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる、という展開になっていきます。その後の話の筋は昔の話と同じですが、鬼ヶ島へ鬼退治に行くための動機づけが、これまでとは違っています。

こうした現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっているあたりが、何かネチネチとした理屈っぽい最近の風潮を表しています。かつて勧善懲悪のヒーローだった桃太郎はいまや教育の現場におけるそうした新たなモラルを提言する「建白書」に変わりつつあるようです。

もっとも、こうした角度を変えた視点から桃太郎話を改変する風潮は最近のことだけではなく、過去にも多くの翻案があります。

例えば、落語家の3代目桂春団治(1936-2016)が、演目のマクラとしてよく演じた「桃太郎」もそのひとつで、その内容は以下のようなものです。

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ある父親が、眠れないと訴える息子に、昔話の『桃太郎』を話して寝かしつけようとするが、息子は「話を聞くことと寝ることは同時にできない」と理屈っぽく反論する。

父親は困りつつ話を始めるが、「昔々……」と言えば「年号は?」、「あるところに……」と言えば「どこ?」、「おじいさんとおばあさんが……」と言えば「名前は?」といちいち聞くので、話がまったく進まない。

それでも強引に話を進めようとする父親に対し、息子は子供とは思えないほどに論理的かつ衒学的な「桃太郎」の解説を試み始める。

「昔々」「あるところに」などとして、時代や場所を細かく設定しないのは、いつの時代のどこの子供にも聞かせられるようにした配慮だ。おじいさんが山にいるのは「父親の恩が山よりも高いこと」、おばあさんが川にいるというのは実は海のことであり、「母親の恩が海よりも深いこと」を表現している。

おじいさんとおばあさんというのも、本当は父親と母親のことだが、話のつじつまを合わせ、話に愛着を持たせるために老けさせている。また、太郎が桃から誕生するのは、子供が神様からの授かり物であることを象徴している。さらに鬼ヶ島における鬼とは、「鬼のような世間における苦労」を表現しているのだ。

犬は「3日飼われたら3年恩を忘れない」といわれるほど、思いやりが深いといわれる。猿は「猿知恵」といった言葉にみられるように、知恵がある。キジはヘビに卵が狙われると、自分の身体を巻かせて囮にして退治する、落ち着いた勇気を持つ。つまり、この3匹で智、仁、勇という3つの徳を表している。

最後に、キビは五穀の中で比較的粗末な穀物であり、「キビ団子」は「贅沢はよくない」という教えの象徴である。

以上からいえることは、人間として生まれた以上は、日々贅沢をせず質素を守り、三徳を身に付け、親孝行し、先祖に日々感謝しながら一生懸命に働けということだ。やがて「苦労」と言う名の鬼を退治して「信用」「名誉」「財産」「地位」という宝物を手に入れ、世の中の役に立つ立派な者になることが一番の大事な道筋だ。

これこそが、『桃太郎』の物語の本質なのである。

こうした話をしているうち、父親のほうがいつの間にか寝入ってしまう。父親の寝顔を見た息子は、ひとことつぶやく。

「親なんてものは、罪がないな」。




落語家だけでなく、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛といった著名な作家たちも競って違った形の桃太郎を小説にしており、桃太郎が「日本人」の深層心理に与えている影響の大きさがうかがえます。

短編小説の名手、芥川龍之介も「桃太郎」の短いパロディーを書いており、そのあらすじはざっと以下のようなものです。

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奥山に大きな神木があった。その樹は一万年に一度花を咲かせ、一万年に一度実をつける。ある日、一羽のヤタガラスが枝に降り立ち、その実をついばみ落とすと、その実は人間界の谷に落ち、川を流れていった。

川へ洗濯へ出ていたたおばあさんがそれを拾って家へ戻り、山へ芝刈りに行っていたおじいさんがこれを包丁で切り、生まれた子を桃太郎と名付ける。

ところが、この桃から生まれた桃太郎はとんでもない怠け者だった。畑仕事も山へ芝刈りも行かず、あげくはこんなところに住んでいるのは嫌だからどこかに行きたいという。そう聞いた老夫婦はしめた、と思い、桃太郎に陣羽織を着せ、彼が好物の吉備団子も持たせて追い出した。

出ていった桃太郎は、やがてすることもないからと、鬼退治に行くことを決める。道中出会ったイヌ・サル・キジを仲間にするため、黍団子をやるが、おひとつくださいなと言われてもやらず、半個で仲間にする。

この三匹は仲が悪く、いつもいがみ合っている。桃太郎は仲良くさせるため、喧嘩をするなら宝を分けんぞ、と言う。宝とは何だと聞く彼らに、鬼が隠し持っているものだ、やつらを倒せばお前らの手に入る、と言って仲直りさせる。こうして、一行は鬼を倒しに行く。

一方、この鬼たちというのは、鬼ヶ島で平和に暮らしており、人との出会いはトラブルの元だと考えているような種族だった。酒呑童子も茨木童子も一寸法師にやられた鬼も、実際そんなに悪いことはしていない、人間の方がよほど恐ろしいことをやっている、と、子鬼たちに教えているほどであり、そもそも争いは好まない。

そこへ一行がやってくる。一気に島に攻め入り、「一匹残らず殺してしまえ!」という桃太郎の号令の元、イヌ・サル・キジとともに鬼たちを次々と殺害していく。あっという間に鬼ヶ島は制圧され、生き残った子鬼たちは人質にとられてしまう。

生き残った鬼の酋長が、「そもそもなぜあなたは我々を征伐しに来たのか?」と問うのに対し、桃太郎は「それは、おまえらを征伐しようと思ったからにすぎない。それがわからぬというなら皆殺しにしてしまうぞ」というと、残った鬼たちは黙って頭を下げた。

こうして鬼たちから奪った宝を引いて桃太郎一行は凱旋してくる。ところが、である。その後彼らが平穏な一生を過ごすと思いきや、ある日捕らえられた子鬼たちが反乱を起こし、雉と猿を殺して逃げるという事件が勃発する。

一方の鬼ヶ島では、生き残りの鬼たちが、着々と桃太郎に復讐をしようと準備を進めている。ヤシの実に爆弾を仕込んでいる鬼の若者たちの目は、嬉しそうに輝いていた……

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こういうふうになると、もはや昔ながらの悪を懲らしめる桃太郎の話ではなくなっており、そのエンディングからは忠臣蔵のような復讐劇すら想像させられます。

この話は「サンデー毎日 夏期特別号」として、1924(大正13)年7月に書かれたもので、このころの日本は帝国主義の道をひたひたと歩み続けていました。

このため、芥川はこの話の創作によって、「桃太郎を侵略者とすることにより侵略行為を風刺することに成功した」、と批評されました。その一方で、この話のその後の話の展開として「鬼ヶ島の独立」が想像させられることから、民主化運動を念頭に置いていたのでは、とする見方もあるようです。

いずれにせよ、フォーカスしたかったのは、支配の手段となる「暴力」ということではなかったかと言われており、鬼を退治した桃太郎の行為そのものが正しかったかどうか、というところに芥川が疑問を抱いたことは間違いないでしょう。




ところで、この桃太郎が鬼退治に向かったという「鬼ヶ島」というのはいったいどこにあるのでしょうか。

と、問われても答えられる人はいないでしょう。一般的な見解としては、鬼たちが居住しているとされる想像上の島であって、どの桃太郎話でも海に囲まれた島として登場し、舟を用いた移動が話の中に挟まれる点が特徴です。

どの話においても、明確な位置情報は語られないことがほとんどで、多くの昔話が「あるところに」と語られるのと同様、どこに位置しているか触れられることはまずありません。明治期以後の児童向けの絵本などでも一般的には岩で出来た島で、鬼の要塞としての門や砦が築かれているといった表現がなされているだけです。

ところが、明治から大正にかけて活躍した童話作家の巌谷小波が1894年に出した「日本昔噺」版の「桃太郎」には、鬼ヶ島が大日本国の「東北(うしとら)」の方向にあるという説明が付加されています。

日本の東北の方向には中国があります。この本の刊行の時期は日清戦争の勃発と重なっており、このことから、巌谷小波は、桃太郎を皇軍に、鬼を敵国の清朝中国に見立てたのではないか、と言われています。

しかしこの話は、明治以降時代に改変されたものです。昔からある桃太郎話に登場する鬼ヶ島の所在が中国である、というのはいくらなんでも無理があります。

その場所を特定するためには、やはりそれなりの「時代考証」というものが必要であり、そのためには、やはり桃太郎話の原典となったような古い古典を紐解くしかありません。

例えば、保元の乱(1156年)の顛末を描いた軍記物語である、保元物語」には、鬼たちの存在する島が海の先にあるという描写が出てきます。作者不詳のこの話の中には、「源為朝」が鬼の子孫であると称する島人と会話をし、彼らが神通力を有する宝物を所持している、といったことが書かれています。

「新 日本古典文学大系 保元物語(岩波書店)」 の脚注には、この鬼ヶ島は、「青ヶ島」の古名であるとされています。

この本の編纂者によって書かれたもので、4人ほどいるその編纂者の誰が描いた脚注なのかはよくわからないのですが、青ヶ島は伊豆諸島に属する火山島で、本州から遥か南方の太平洋上に位置し、最も近い八丈島からは南へ約60km程度離れている孤島です。

源為朝(みなもとのためとも)は、平安時代末期に実在した武将で、源頼朝、義経兄弟の叔父にあたります。身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた、といいます。

しかし、生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されます。やがてそこで手下を集めて暴れまわるようになり、一帯を制覇して「鎮西八郎」を名乗りました。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦しますが、敗れて伊豆大島へと流されました。

そこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したため、やがて追討を受け、最後も伊豆大島で追手を相手に奮戦します。しかし最後には敗れて自害。一説によれば、このとき32歳だったと言われています。

青島へ渡ったのはこの死の少し前の伊豆諸島支配の時代とされているようです。保元物語には、伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)に、鬼の子孫で大男ばかりが住む青ヶ島こと鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った、といったことが書かれています。

こうしたことから、源為朝と桃太郎を結び付け、物語の中で鬼たちが住んでいたという島はこの青ヶ島だったのではないか、という説が唱えられているようです。とはいえ、そもそもが桃太郎の話自体が神話の世界から発展したものであり、その中に出てくる場所を特定すること自体がばかげています。

ただ、嘘でもいい、東京からはるか200kmも離れた絶海の孤島に鬼が住んでいる、といわれれば、どんな場所なのかちょっと覗いてみたくもなります。

調べてみたところ、東京からの直通便はさすがにないようですが、八丈島からは週三便ほど船便が出ているほか、同島から一日一便ヘリが飛んでいるようです。興味のある人はお出かけしてみてはいかかでしょうか。

南北3kmほどの小さな島ですが、もともと火山島であることから、ハワイ諸島のような美しい景観を持ち、海中温泉もあるとのことです。近年、アメリカの著名な組織のWebサイトで記事が相次いで掲載されたことから、世界中から訪問客が集まるようになっているとのことで、日本でも人気が出てきそうです。

ちなみに、2016年現在のこの島の人口は168人だそうで、もちろん、全員が日本人です。島の名産品はサツマイモを原料とした芋焼酎だそうですから、鬼の子孫?の住民にはお酒がお好きな方が多いのかもしれません。



この保元物語にまた、鬼ヶ島には鬼たちが数々の財宝を保有していたとの記述があります。隠れ蓑、隠れ笠、浮履(うきぐつ)などがそれであり、桃太郎の話に出てくるものと似ています。保元物語の為朝が桃太郎の原型であるとする説を裏付けるものと考えることもでき、鬼ヶ島は青ヶ島である、といもあながち嘘ではないのかもしれせん。

より時代が下がった江戸初期に書かれた桃太郎話では、桃太郎が持ち帰った財宝は、隠れ蓑、隠れ笠に加えて、打ち出の小槌と延命袋などが追加されています。

1781年に出された「桃太郎一代記」では、これに金銀宝玉やさんごが加わり、さらに20世紀に入ると、その宝の表現も「金銀珊瑚綾錦」となり、これが常套句のようになっていきます。以後、昭和期以後に出版された童話に出てくる宝物は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、延命袋の4種の神器と金銀珊瑚綾錦すべてが揃う豪華版となりました。

それにしても、なぜ鬼たちはこれほどまでの財宝を所有していたのでしょうか。

実はこれについても触れられている桃太郎話はほとんどなく、こちらも鬼ヶ島の場所と同じく、そこはご想像にお任せします、の世界になっています。

これは、「悪い鬼」というイメージを増幅させるため、そこはやはり凶暴な鬼たちが弱い人間から財宝を奪って蓄積していたのではないか、と読み手に思わせるよう、書き手が仕向けたようにも思えます。しかし、実際には鬼たちが汗水たらして働いた結果、得られた蓄財で購入したのがこの宝物だったのかもしれません。

こういうふうに考えてくると、桃太郎の話の中にはほかにも腑に落ちないことがたくさんあります。たとえば、鬼ヶ島から凱旋した桃太郎が、家来となった犬、雉、猿にこれらの財宝を分け与えた、という話もほとんどないようですが、これはなぜなのでしょうか。

普通に考えるなら、「功労者」である彼らにご褒美を与えてしかるべきですが、それをやらなかったのには何か理由があるに違いありません。

悪いほうに考えると、単純に取り分の山分けを恐れたため、と考えることもできます。そもそも人間を家来にせず、動物を家来にしたのは、桃太郎の自部勝手だったと考えることもできます。人間を手下にして共に戦って鬼をやっつけた場合、そのための褒美を与えなくてはなりません。

ところが、動物であれば財宝を分け与える必要はありません。とりあえず鬼をやっつける「遠征隊」としての体裁を整えるため、犬・キジ・猿に「きびだんご」を与えてお供をさせ、成功のあかつきには、ただのペットとして扱えばいい、と桃太郎は考えたのかもしれません。

ほかにも疑問はあります。そもそも、この「きびだんご」とはいったいどんな食べ物なのでしょう。調べてみると、「黍団子」と書くようで、これは穀物の黍(きび)の粉で作った団子のことで、遅くとも15世紀末には用例があった、ということがわかりました。

日本では五穀の一つとされる穀物で、実をそのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりする、ということが古くから行われてきました。

炊きたてのモチ黍をすり鉢に入れてついたものは黄色い餅になり、それを丸めると黍団子となるとのことです。岡山県の「吉備」地方で作られていた団子も、この黍団子の一種で、吉備と黍(キビ)の語呂合わせから「きびだんご」といわれるようになったようです。

ところが、草双紙の研究家である前述の小池藤五郎が諸本を比べて結論したところでは、初期の頃の桃太郎物語には「きびだんご」は登場しなかったといいます。

元禄頃(1688年から1704年)の桃太郎は「とう団子(十団子)」であり、これは、現在の静岡県静岡市駿河区にある、東海道の宇津ノ谷峠というところで、「宇津ノ谷の十団子」として売られていたものです。道中の軽食に売られていたもので、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものといわれています。

それがなぜ黍団子に変わったのかについては諸説あるようですが、ひとつには、黍団子を「この世の竃の飯」と考え、あの世の竃の飯を食すとあの世へ行くのに対し、この世につなぎ止める飯、とする風習に基づいたのではないか、ということがいわれているようです。

鬼ヶ島という異界・あの世に行くに当たり、桃太郎の生命力を強化し、この世側に結びつけ、あの世=鬼ヶ島で迷わず、帰って来られる力を発揮させるものだったのではないか、というわけです。

この世の食物を異界(あの世)に持って行くという点では、「鼠浄土(おむすびころりん)」も同じで、食物の力に頼る(あの世で迷わないための鍵としての)類型といえます。

おむすびころりんの話は、次のようなものです。

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おじいさんが、いつものように山で木の枝を切っていた。昼になったので、昼食にしようとおじいさんは切り株に腰掛け、おばあさんの握ったおむすびの包みを開いた。すると、おむすびが一つ滑り落ちて、山の斜面を転がり落ちていく。おじいさんが追いかけると、おむすびが木の根元に空いた穴に落ちてしまった。

おじいさんが穴を垣間見ると、何やら声が聞こえてくる。おじいさんが他にも何か落としてみようか辺りを見渡していると、誤って穴に落ちてしまう。穴の中にはたくさんの白いねずみがいて、おむすびのお礼にと、大きいつづらと小さいつづらを差し出し、おじいさんに選ばせた。おじいさんは小さいつづらを選んで家に持ち帰った。

家で持ち帰ったつづらを開けてみると、たくさんの財宝が出てきた。これを聞きつけた隣りの悪いおじいさんは、同じようにおむすびを蹴って穴に無理矢理入れた。悪いおじいさんは自分から穴に入っていき、土産をよこせと怒鳴りつけた。

ねずみが大きいつづらと小さいつづらを選ばせたが、欲張りな悪いおじいさんは猫の鳴き真似をしてねずみを脅し、両方のつづらを持って帰ろうとした。ところがねずみはおじいさんに噛み付いたので、悪いおじいさんは降参した…
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この物語の特徴は、無欲な老人と強欲な老人の対比であり、因果応報など仏教的要素も併せ持つといわれます。似たような話に「こぶとり爺さん」などもあり、おむすびころりんの話自体にも様々なバリエーションが存在します。

中にはねずみが浄土の明かりを消してしまったために、そのまま悪いおじいさんの行方が知れなくなった話やそのまま悪いおじいさんがねずみもち(もぐら)となった話などがみられます。

単にねずみがかみついただけで終わるのではなく、このように悪いおじいさんが消失するようなバージョンが存在するのは、この話が作られた当時も、暴力的表現を排斥しようとする運動が強かったためではないか、といわれています。

同様に、鬼を退治して帰った桃太郎のほうがむしろ暴力的だ、と非難する人たちもいます。上述の芥川龍之介も桃太郎を悪者に仕立てていますが、龍之介は桃太郎のキャラクターを完全に変えてしまっているのに対し、こうした批評家の多くはオリジナルの桃太郎の行為そのものに異議を唱えています。

例えば、福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」の中で、桃太郎の鬼に対する振る舞いを次のように書いて批判しています。

「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。」

「また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である。」

現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と考える人は多く、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられる場合があるほどです。

2013年、日本新聞協会広告委員会が、「しあわせ」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」では、全国から1,069作品の応募がありました。その結果、グランプリをとったのは「めでたし、めでたし?」のタイトルで作品を出した、コピーライターの山﨑博司さんと小畑茜さんでした。

両者とも大手の広告会社、博報堂所属ですが、この受賞にあたり、山崎さんは次のようにコメントしています。

「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人からみればそう思えないことがあります。反対の立場に立ってみたら。ちょっと長いスパンで考えてみたら。別の時代だったら。どの視点でその対象を捉えるかによって、しあわせは変わるものだと考えました。」

「そこで、みんなが知っている有名な物語を元に、当たり前に使われる『めでたし、めでたし。』が、異なる視点から見ればそう言えないのでは?ということを表現しました。広告を見た人が一度立ち止まり、自分の中にさまざまな視点を持つことの大切さを考えるきっかけになればと思っています。」

「しあわせってなんだろう?」と問いかける、この二人の作品は大きな反響を呼び、上のコメントは、その後各地の学校の教材にもとりあげられるほどになりました。

この作品の一番下には、小さな文字で、こう書かれています。

一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。
広げよう、あなたがみている世界。

あなたが真実だと思っているストーリーが実は、裏を返せばとんでもない噴飯ものだった、ということはないでしょうか。

もうすぐ3月3日の雛祭り。甘酒をのみながら、少し、そんなことを考えてみてはいかがでしょう。




夢の途中 1 夢の中のはなし

夢の中のその場所は、雑然としている。

町の中心部のようだ。

なのに道行く人もまばらで閑散としている。

しかし、まるで活気がないか、というかとそうでもない。

すりガラスの向こう、時おりよぎる影。煙突から出ている煙が見えるほか、何かを煮ているような匂いがする。遠くから子供が泣いているような声も聞こえる。あちこちに生活の気配があるのだ。

すべてが計算されたものではないことは確かである。時間をかけて、自然にこののどかな環境はつくられてきたに違いない。

通りの向こう、交差点の左側にやや高い白っぽい建物が見える。病院のようだ。その上のほうの階に、明るい病室がある。広い部屋で、どうやら新生児室らしい。よく晴れていて、三方ある窓からは眩しいばかりの日差しが部屋に注ぎ込んでいる。

春の日の朝。桃の節句から何日か経ったころの光景─。

何人もの赤ん坊がいる。が、みんな静かに眠っている。その中、ひとりの若い女性が胸元に抱えこんだものを覗き込んでいる。微笑を浮かべて満足そうな顔。

小さなからだ。未熟児らしい。こんな貧相な子が、まともな人生を送れるのだろうか。

実際、その人生は波乱に満ちたものになるのだが、この人はそれをまだ知らない。齢はおよそ25か6。出産用の白い浴衣を着たその人こそが私の母だ。

時とところが変わって、また別の光景がみえる。

木造の官舎が軒を連ねている。さきほどの町から南へ数キロ先の山合の村にそれはある。退院した彼女は生まれたばかりの私を連れてその一角にある我が家に戻った。けっして広い家ではない。6畳間と4畳半の部屋がひとつずつ、小さな台所に風呂、トイレは共用だ。谷間にあるため、明るくもない。そこにこの夫婦が住むようになってもう3年になる。

私には姉がいる。5歳年上だが、このとき同じ長屋には住んでいない。母の実家に預けられており、のちに合流することになる。

父はいわゆるダム屋だ。といっても土木技術者ではなく、電気が専門である。満州で生まれ育ち、専門学校でその知識を得た。それがその後の彼の人生においてどれだけ役に立ったことか。本人が一番自覚しているだろう。

満州は言うまでもなく現在の中国である。広大なその大地の自然は島と山で構成される日本とはおよそ異なる。「大陸」というにふさわしく、どこまでも続く平坦で単調な環境はけっして人には優しくない。しかし、そこで生まれ育った、というのが彼にとってはその後の人生におけるひとつのステータスとなった。

と書くと、まるで満州生まれを自慢していたかのように聞こえるが、少し違うようだ。むしろそこに生まれたことに対して引け目のような気持ちを持っていたのではないか。

かつて清が領有していたこの地域を日本は侵略に近い形で手に入れた。しかし欧米に敗れてそれを失った。父の卑屈はそこに原因があるように思う。祖国が今は存在しない、というのは、何か自分の存在が否定されているように感じるものなのかもしれない。

国を失ったユダヤ人と同じだ。しかしユダヤ人はその後自分の国をもらった。そのため、今度はそこに住んでいたパレスチナの人々が居場所を失った。一度生まれ故郷を失った、という点で、両者と父は似ている。

自分の生まれた故郷に帰りたくても帰れない人々のことを難民という。同じく根無し草のように漂っているという感覚が父のその人生においても常にあったに違いない。

そのあたりの気分は人の生き方を窮屈にさせるものらしい。小学校しか出ていない、とよく自嘲気味に話していた。といっても、高等小学校と呼ばれるもので、今でいえば中学校だ。この当時は高等小学校を出ればもう働きに出るというのがあたりまえであり、商家であった父の実家ならなおさらのことである。

ともあれ、そうした出自のせいというべきか、彼の性格というべきなのか、その後の父の人生は実に控えめなものであった。出る釘は打たれる、と言わんばかりにおとなしく出しゃばらずに、ひたすらに自分の砦だけを守って生きていく、という生き方だった。

高等小学校卒業後の15~6歳のころ、満州電業という、日本の電力会社のような組織に入社した。会社組織ながら教育機関があり、そこで学ばせてもらってから職に就いた。いわゆる電気技師の卵だ。

数年現場でキャリアを積んだが、その前後で日中戦争が勃発。やがて太平洋戦争へと発展した。20歳になるかならないかの彼は、徴兵され満州北方へ送られる。

それまで一サラリーマンだった彼にとっての軍隊は厳しい世界だったに違いない。しごきの洗礼は当然あっただろうが、そこでの生活を、ときに面白おかしく話した。

「フケ飯」というものがある、とある日教えてくれた。これは、上官の白飯に自分のフケを入れ込む、というものだ。白いフケは、白飯の中ではほとんど見わけがつかない。しかしフケには下し作用があり、これを食した上司はたいてい、腹をこわす。

初年兵だった父を含めて下流の兵士たちは横暴な上司に反感を持っている。いつか仕返しをしてやりたいと日頃からうっぷんを溜めているが、さすがに刃傷沙汰はまずい。それなら、ばれない程度にお灸をすえてやろう、という仕返しのひとつがこれであり、当時の軍隊ではかなり横行していたらしい。

普段、下っ端の兵士は白飯など食えない。粟や稗、麦飯などが主食だ。兵隊は冷や飯、上官は据え膳、という世界であり、軍隊というものは階級社会の典型である。だが、強い者が弱いものをいじめる場合、たいていそこには大きな落とし穴がある。恨み嫉みの積み重ねがその穴を穿ち、仁徳のない人間はそこに落とされる。

安心して口にできるはずの食べ物に実は毒が盛られていた、といった類の話はクレオパトラの時代からある。かくして父の所属していた部隊でもそれが起きた。尻をかかえて厠に駆け込む上司を陰でみていた仕掛け人たちは、大笑いして溜飲を下げたという。

イジメに対する意趣返しのようなもので、ほほえましくもある。いたずら、というには少々度がすぎているが、日本人同士ならまだ許しあえる部分があるだろう。しかし、敵国人同士殺しあう戦争ともなるとそうもいかない。やがて父も悪夢のような争いに巻き込まれることになる。

初年兵としての父は、結局戦闘には参加しなかった。しかしこのころ、すでに本土は各地で空襲を受け、満州各地の拠点も連合国から攻撃を受けるようになっていた。そこへ新たに参入してきたのがソ連である。

満州北方各地から乱入してきたソ連軍は、父が所属していた部隊が展開する地域にも進出してきた。

ある日の朝、ついにソ連軍が父の起居する駐屯地を急襲した。のちの彼の手記によれば、部隊はそうした危険を感じ、列車に乗って移動しようとしていたようだ。このころすでに満州北部には十分な武器や物資は届かない。敵を迎え撃つ武器も少なく細長く伸びた無防備な車両の帯は、敵の恰好の餌食となった。

父はその列車の後方に乗っていたが、ソ連軍が襲ってきたとき、まず機銃の掃射を受けた。その車両には数人が乗っており、はっと気が付くと、すぐ隣に座っていた同僚が血しぶきをあげていた。銃撃によって眉間を撃ち抜かれ即死していたそうだ。

このままでは死ぬ、と咄嗟に判断した父は、すぐに列車を飛び下り脱出した。転がり落ちるようにして荒野を走り抜けた先で振り返ると、さっきまで乗っていた列車が側の砲撃を受けて粉みじんとなり、噴煙をあげていた。

命からがら脱出に成功した父だが次なる試練が待ち受けていた。やがて押し寄せてきたソ連軍に追いつかれ、捕虜となり、そのままシベリアへ送られた。いわゆるシベリア抑留で、彼はその酷寒の地で3年を過ごすことになる。

つらい3年だったに違いない。そのころのことを多くは語らなかったが、零下の日々が続く中での同僚の死や生活の厳しさを時に口にした。私が小学生の頃、時折当時のことを語ったが、息子に語って聞かせるというよりも、独り言のようにしか聞こえなかった。




そんな厳しい時期を経て、やがて春がやってくる。待ちに待った帰国だ。しかし舞鶴港に入った船から陸を見た彼は、「祖国」である満州とは全く違った光景を目にする。自然だけでない。道行く人々の風体や建物の形も彼が育った環境とは異なる。大陸育ちの彼にとっては異国そのものだ。

父の父─私の祖父は、もともと金沢の人である。若いころに満州で一旗揚げようと思い立って出国。彼の地でガラス屋を営んで成功した。父はその家の次男として生まれたが、幼いころ兄は亡くなり、そのあと生まれた彼が事実上の長男となった。

祖父の最初の妻、私の祖母は彼が10歳前後のころに亡くなった。が、その前に父のほかにもう一人男児を設けた。祖父にはこの弟のほか、その後再婚した相手との間にできた妹が一人おり、父の出征前の家族構成は三人兄妹と夫婦二人というものだ。

終戦の混乱が続く中、祖父一家は戦地に行ったままの長男の消息を知る由もない。自分たちにも危険が迫りつつあり、追われるようにして満州の地を後にする。苦労はしたようだが無事に満州を脱出。日本に着いてからは、郷里の金沢で親戚の家に寄宿するようになった。

一方の父は、シベリアで命を縮めたものの、なんとか五体満足で舞鶴まで帰還してきた。しかし行くべきところはない。本来帰るべき故郷はすでになく、初めて足を踏み入れることになる第二の故郷、金沢へと向かっていった。

舞鶴から金沢までは、その当時も北陸本線が通っている。しかし、戦後すぐの動乱期には鉄道のダイヤも乱れていたに違いない。帰国したばかりで十分な持ち合わせを持っていなかったであろう父は、もしかしたら徒歩で金沢まで向かったかもしれない。

地図で調べてみると舞鶴~金沢間はおよそ200kmもある。一日40km歩くとして5日はかかる工程だが、はたしてシベリアで体力を落とした父がそうした行為に出たかどうか。

復員兵にはいくばくかの手当が出た、という話も聞いたことがある。復員者用の無料乗車証となにがしかの現金を持って汽車に乗り、金沢へ向かったと考えるのが自然だろう。

とまれ、祖国を追われ、シベリア帰りの父は、ようやく先祖が代々住まう金沢にやってきた。奇跡的に空襲を免れ、今も江戸の面影を残す北陸屈指の都会だ。そこに江戸時代の末頃から「越中屋」の名で呉服商をしていた家がある。

明治の中ごろまではかなり裕福な商家だったようだ。戸籍に残っている住所から調べてみると往時は、かなり賑わった場所に店を開いていた。香林坊にも近く、現在もにぎわう町の中心部だ。曾祖父は市議会議員も務めており、調べたところかなり高額の税金を払っている。当時の金沢市への税金支払い額ランクでは上から2番目だ。

しかし、明治の末までには落ちぶれた。理由はよくわからないが、古い形に固執しすぎたに違いない。人絹などの新しい素材で作られた安価な衣服が流通していく中、昔ながらの木綿や絹などの品質にこだわったのだろう。それでは価格面で勝負にならない。

そのあげく大きな借金を抱えた。大きな屋敷は売り払われ、一家も奉公人も離散した。本家筋に近い親戚たちだけが、遠くへ行くでもなく、なんとなく、もとあった屋敷の界隈に安普請の家を借りて住まうようになった。

そのひとつの家に父も迎えられたが、親戚とはいえ、会ったこともない人々ばかり。一応表向きは歓迎されたものの、どことなくよそよそしい。

どの親戚の家に父が住むことになったのかははっきりしない。が、そんな没落一族の居住環境がかんばしくないものであったであろうことは容易に想像できる。狭いだけでなく、当然、何かと居心地は悪い。

居候でもあり、まだ若かった彼がぶらぶらしていいはずもない。職を求めて町に出るが、そこで復興したばかりの政府が新設した役所の存在を知る。

建設省だ。彼にとってラッキーだったのは、ちょうどそこで彼が学んできた電気関係の技術者の募集があったことである。応募して採用され、最初の赴任先となったのが、山口のダム現場だった。

佐波川ダムという。サバと読む。山口は読みにくい地名が多い。防府(ほうふ)という町があるが、ボウフと読む人がいる。ほかに岐波(きわ)、厚狭(あさ)、埴生(はぶ)… 誰も読めないのが兄弟(おとどい)という山で、このほか特牛という地名もある。これはなぜかコットイと読む。

佐波川ダムは、今の山口市内の南東、徳地町の山合にある。現在周辺は水域公園になっていて、キャンプ場や様々なレジャー施設がある。しかし、父が赴任してきたころは当然、何もない山中だ。

そこに何年か勤めたころに、地元の人の紹介でお見合いをした。その相手が、母である。若いころの写真をみると、わりと整った顔をしている。が、けっして美人ではない。利発そうだが、燗が強そうにも見える。

一見そうは見えないが、なかなかのスポーツマンで、国体に陸上の選手として出場したことがある。といっても、田舎の町のこと。ほかに大したランナーがいなかっただけで、全国区的にはさほど秀でていたわけではない。

とはいえ、運動神経がよかったのは確かで、その後私が入学した小学校ではママさんバレーチームの主将を務め、広島大会で優勝したこともある。

対する父は、というと、スポーツにはまるで縁がない。またたいした趣味もない。残っている写真からは風采があがらない、ひょろっとした小男という印象を受ける。ただいかにも人がよさそうな面立ちである。また、ちょいとした愛嬌がある。想像するにそれなりに女性受けはよかったのではなかろうか。

はるか60年以上前のことである。二人を実際に並べて見ることはできないが、気の強そうな女と軟派な男との組み合わせは、意外にお似合いだったかもしれない。

年齢差は7つあった。父が大正15年、母が昭和7年生まれで、大きく離れているわけではないが、多少の年代的ギャップはあっただろう。

生まれも育ちも当然違う。方や大陸生まれのボンボン、もう一方は田舎育ちの百姓娘ということで、話のかみ合いどころがどこにあるのか、想像もできない。

が、見合いの結果は上々だったようで、二人はその後、式をあげた。母の実家のあった、山口市郊外の仁保(にお)という場所でだ。写真が残っているが、昔ながらの文鎮高島田結いの母と紋付き袴の父、すぐ近くに住む叔父夫婦やその他の親戚が写っている。



私には姉がいる、と先に書いた。母が21歳の時の子である。父は28歳だったはずで、この結婚後にすぐ、身ごもったらしい。

佐波川ダムでの仕事はその後4~5年続いたようだが、やがてダムも完成に近づき、次の任地は愛媛の大洲と決まったころに、母は次の子を宿した。私である。

身重の体で、まだ小さかった姉を連れて大洲へ行くのはなかなかしんどかろう、という話になったのだろう。ちょうど幼稚園に入る年ごろになっていた姉は、そのまま山口の母の実家に預けていくことになった。

この姉について、少し書いておこう。

山口に残された姉は、そこで幼稚園に通うことになった。市の中心部にある亀山公園内に今もあり、「山口天使幼稚園」という。

そのすぐ側にある、「サビエル記念聖堂」とも関係があるので、まずそのことについて触れる。

江戸時代に入るよりも半世紀ほど前、スペイン人のフランシスコ・ザビエルは山口を訪れて布教を行おうとした。この地を治めていた大内義隆はザビエルの宣教を許可し、信仰の自由を認め、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。これは、日本最初の常設教会堂といわれている。

この寺は山口駅から4kmほど北に行ったところにある現在の自衛隊駐屯地の近くにあったようだが、今はなく、記念公園になっている。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったという。

こののち、ザビエルは豊後国(現大分県)でも布教を行っており、これは現在までも続く長崎をはじめとする九州各地での熱心なカトリック信者の活動につながっている。

しかし、その後徳川幕府の時代にはキリスト教が禁教となったことから、九州や中国地方でのその活動の系譜は途絶えた。山口においても大道寺をはじめ関連する伝道場所が閉じられた。が、維新後に許され、亀山公園内にザビエルの日本での布教を記念して建設されたのが、初代ザビエル記念聖堂である。

ザビエルの来日400年を記念として1952年(昭和27年)に建てられた。その厳かな雰囲気に惹かれ、私は子供のころここをよく訪れたものだ。時に入り口のドアが空いていると、こっそりとその中を覗き込んだりしていたが、その天井には、法衣を着たザビエルがちょんまげ姿で脇差を指した侍相手に布教をする姿が描かれていた。

残念ながら1991年(平成3年)に失火により全焼したが、サビエル記念聖堂の所有者であるイエズス会より多くの資金援助を受けるとともに、種々の教会関係機関、山口信徒、山口市民や全国から寄せられた募金により1998年(平成10年)に再建されている。

その運営は現在でもイエズス会が行っているが、姉が通うようになった山口天使幼稚園はその隣にあって、同じカトリック系の学園法人が運営している。おそらくイエズス会が保有する土地を融通してもらったのだろう。1957年に「サビエル児童会館」という児童福祉施設として建てられたが、ちょうど姉が入園したころに幼稚園に昇格した。

園内にはマリア像が置かれているなど、ある程度宗教色の強い幼稚園である。といっても、おおかたは普通の幼稚園と変わらない。園児に教義を押し付けるようなところはなく、姉はこの幼児園で伸び伸びと時を過ごした。

ちなみに姉の誕生日は12月25日のクリスマスで、イエス・キリストと同じだ。だが、いまだもって宗教などにはまるで興味はない。教会のミサなどには一度も行ったことがないだろう。

キリスト教どころか仏教などにもまるでご縁はなく、たまに神社にお参りに行くくらいだ。子供のころから現在に至るまで趣味もたいしてない。ただ、運動神経はよく、若いころはいわゆる体育会系だった。元国体選手の母のDNAを受け継いだからだろう。高校時代には新体操部のキャプテンを務めていた。

想像するに周囲の男子も騒いでいただろう。弟の自分から見てもなかなかチャーミングだった。しかし、だからといって異性と浮名をあげる、といったこともなく、割と真面目に高校生活を送った。卒業後は、大手の保険会社に入社し、まともな会社員となった。

その会社に勤めて4~5年後、同僚の男性と結婚し、男一人、女二人の子を設けた。40台まではその夫の転勤であちこちを転々としたが、その後広島に落ち着き、幸せそうな日々を送っていた。少なくとも弟の私の目からはそう見えた。

ところが50台になって、突然離婚を宣言。息子や娘たちはさかんに諫めたが聞かず、同年齢の男性と同棲するようになった。ちなみにこの男性と彼女は小・中学校の同窓生であり、そうしたことが縁で付き合うようになったらしい。

父もこの不倫のことは知っていたらしく、姉が離婚を両親に告げたときのその怒りようはすごかったらしい。後で母に聞いたところ、許さん、認めぬの一点張りだったようだ。

その後離婚届も出さないまま時が流れたが、この間父との和解はなく、二人の関係は急激に冷え込み、その冷戦は父が死ぬまで続いた。

もっとも父と姉の折り合いの悪いのはこの時が初めてではない。私はどちらかといえば子供のころから父にかわいがられていたほうだったが、姉のほうはというとしょっちゅう父に叱られていた。

その原因はよくわからないが、相性が悪かった、としか言いようがない。男女の差という以外にもまるで共通項がなく、食べ物やテレビの番組に関しても二人が同じものを好きだったという記憶がないし、そもそも互いにあまり話したがらなかったように思う。

姉が小さかったころはそうでもなかったのかもしれないが、小学校高学年になるころからそうした傾向が特に強まった。年頃の娘と父親というものは、そもそもそういうものだろうが、何かひとつくらいは話の合うネタがあってもよさそうなものだ。

父がそもそも無趣味であったこともある。またあまり社交的なタイプでもなかった。休日に同僚や誰かとゴルフに行ったりするようなこともなく、うちにいて、朝から晩まで家に引きこもっているような内向的なタイプだ。あえて趣味といえば庭いじり以外では読書だった。

一方の姉はといえば、家にいることはほとんどないという印象で、実際、学校から帰るとすぐに友達と外へ遊びに行っていたし、お泊りで友人宅にお世話になることもよくあった。社交的なタイプといえ、これはおそらく母に似たのだろう。内攻的な性格である父とは正反対だ。

その点、私とはウマが合った。私も内攻的なタイプと言え、子供のころから外に出るよりはうちの中で本を読むのが好きだった。小学校では図書館の虫だったが、中学生になるころからはとくに歴史本をよく読むようになった。

父も本が好きで、とくにノンフィクションが好きだった。よく戦争モノを読んでいたが、私の歴史好きはそこから来ている。父の蔵書のうち、最初に借りて読んだのは吉村昭で、それは「海の史劇」という日露戦争を題材にした小説だったが、これを面白いと思った。

やがて自分自身でそうしたものを探すようになり、その流れで戦国時代や幕末を舞台にした、いわゆる時代小説のジャンルにはまった。

私が歴史ものを読むようになってからは、逆に父がその影響を受けたようだ。戦争モノ以外にもそちらにも目がいくようになり、私が読む本にもお金を出してくれるようになった。中学生のころ、小遣いとして月に千円ももらっていただろうか、その数倍の額を手渡されて、よく近所の本屋に通ったものである。

私が買ってきた本を父もまた読み、お互いに書評で盛り上がる、ということも多く、その後私が長じてからも、あの本は面白かった、あれがいい、といった話をよくしたものだ。

ところが、姉はというと、こちらもまた趣味というものがほとんどない。その点が父との共通点といえば共通点なのだが、いかんせん趣味のない者同士の間では分かち合うものは何もない。姉はといえば、私や父のように小説の類などはあまり興味はなく、買ってくるのは漫画のほうが多かった。

父はそれを低俗な読み物、と決めつけていたようで、彼女の居室に少女漫画の本がうずたかく積み上げられていくのをいつも苦々しく見ていた。「マンガばかり読んで!」というのが父が姉を説教し始めたときに出る最初のことばだ。しかし、その怒りの矛先は実はマンガばかりではない。

彼女の長電話がそれだ。この当時は当然携帯電話などなく、どこの家庭にもダイヤル式の黒電話が一台だけ、というのが普通だった。

その電話を独り占めにしていたのが姉であり、母や私が聞いていようがいまいがおかまいなしに長話を続ける。なるべく父のいない頃を見計らって電話をしていたが、父が帰宅し、たまたま玄関口で姉が長話をしているのをみつかると、ひと嵐がくる。

父を観察していると、姉の電話を見かけたときからすでにもう不機嫌で、電話を切ったあと、姉が素知らぬ顔で居間に入ってくるのをみるとますます顔が険しくなる。

その後食事をする間にだんだんと機嫌は持ち直してくるのだが、ビールなどのアルコールが入り、何かの拍子にその怒りがぶり返してくると、いつもの「マンガばかり読んで!」が始まるのであった。

たいていは姉が自室にひっこんでこの嵐は静まるのだが、ほかに学校の成績のことなどが絡まると、治まるどころかさらに雨風が強くなる。よせばいいのに、そこに母も加わって、三つ巴の親子喧嘩になっていくのであった。

この父娘の対立を傍観しつつ、気分的に私はいつも父の肩を持っていた。男同士ということもあっただろうが、姉と話すくらいなら、という気分がいつもあった。父と姉があまり相性がよくなかったのと同じく、彼女とは折り合いが悪く、よく姉弟喧嘩をした。

何が原因かは問題ではない。何かを勝手に使っただの、父母に告げ口をしただの、つまらないことで言い争いになるのだが、要は相手の存在が気に入らないのだ。その背景には父が私の肩を持つことへの姉のジェラシーがあったかもしれない。

ときに大ゲンカとなるが、5つ年上の姉とは、体力的にも言葉の上でもとても勝負にならない。このため、いつもフラストレーションを溜めていたが、ときには陰湿であることは承知の上で巧妙な仕返しもよくやった。

そのひとつとしてよく覚えているのが、チャンネル争いの結末である。私が小学生の高学年のころ、すでに我が家にはカラーテレビがあった。父はこうした電気製品の購入には積極的であり、その理由は所属先が電気を扱っており、業者とのコネにはことかかなかったためだ。

しかし、当の本人はあまりテレビを見ることは少なく、夜帰ってきてから食事が終わり風呂に入ったあとは、自室に閉じこもって読書にいそしむ。残る私と姉、母がテレビを見ているのだが、8時台のバラエティーが終わると、争いが始まる。

私はどちらかといえば男の子らしく、科学ものやチャンバラが好きなのだが、女性陣はといえばやはりドラマである。このときも二人がタッグを組んでお気に入りの番組をせしめた。

どんな番組だったか忘れたが、このときはどうしてもある番組が見たく、学校から帰るとそれを見るのを楽しみにしていた。ところが、いつものように二人にテレビを占領されたことから、大ゲンカになった。しかし、二対一では勝負にならず、とうとう居間を締め出された。どうにも憤りの収まらない私は、大胆な行動に出る。

二人が続いてのドラマ番組をみるまで、トイレや皿洗いに立ったときのことである。おもむろに、私は押入れからカッターナイフを取り出した。

そして二人に見られないようにコンセントからテレビへと延びる線の半分に切れ込みを入れた。電源はプラスかマイナスかどちらかをカットすれば絶たれる。両方に刃を当てれば、ショートしてしまう可能性があるが、気を付けて片方だけを断線すれば、大事には至らない。

学校の技術家庭の時間に知った知識を応用した犯行だったが、二人はそんなことは露とも知らない。茶の間に帰っていざお気に入りのドラマを見ようとするが、いくらスイッチを入れても映らない。やがてテレビが壊れた、と大騒ぎになった。

それを陰で見てほくそ笑む私。その日、父は残業で帰りが遅かったが、帰ってきてそうそう騒ぎ立てる二人に促されてテレビのチェックに入った。

チャンネルやらスイッチを次々にチェックしていったが、最後に私のいたずらに気が付き、つぶやいた。「あーこりゃ、電源がはいらないはずだわ」。

それをふすまの陰で聞いていた私は、すぐに怒られると覚悟した。が、1分経っても2分たっても何も起こらない。やがて母から「風呂にはいりなさいよー」の声が聞こえたが、不思議なことに結局その夜は、その後何のお咎めもなかった。あとでそっと断線したテレビのコードをみると、きれいにビニールテープで補修がしてあった。

翌朝も何事もないように学校へ行き、その後、この話が蒸し返されることは二度となかった。しかし、なぜ父は怒らなかったのだろう、という疑問が残った。

のちのち考えて私が出した答えはこうだ。まず、このとき私が取った行動は許されるものではなかったが、二人して一人を占め出すのはよくない、と父は思ったのだろう。また、そもそも父は、マンガばかりではなくドラマ三昧の姉を苦々しく思っていたようだ。そしてそれに加担する母にも批判的な気持ちを持っていたに違いない。

あるいは息子がとったその行動を、子供ながらに頭脳的でなかなかやるな、と思ってくれたのかもしれない。その後、父が亡くなるまで、あのとき何故私を叱らなかったのかその理由を聞くことはなかった。しかしその後、いつもそういう形で何も言わず、私のやることにエールを送っていてくれたような気がする。




さて、余談が過ぎた。姉のことはまた書くことにしよう。

こうして山口に姉一人を残して父と母は新しい赴任地である愛媛県の大洲へと移っていった。

大洲市は、「伊予の小京都」と呼ばれ、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町である。

伊予の地を南北につなぐ大洲街道と東西に結ぶ宇和島街道の結節点にある。また東には四国山脈を抜けて土佐国(現在の高知県)に出る街道もあり、さらに、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があった。地理的には四国の中にあって一番西方に位置するが、交通の要衝と言える場所であり、軍事的にも古くから要所であった。

最初にここに城を造ったのは、伊予宇都宮氏である。豊前宇都宮市の流れを汲む豪族であり、もともとは豊前(現大分県)を拠点にしていたが、14世紀ころから海を隔ててすぐのこの地に入り、先住民を鎮撫してここを所領とするようになった。

14世紀末、伊予宇都宮氏初代の豊房は、肱川と久米川の合流点にあたるこの地に城を創った。当時地蔵ヶ岳と呼ばれていたこの高台から名を取り、城は「地蔵ヶ岳城」と呼ばれていた。その後、江戸時代初期になってからは、藤堂高虎が徳川からここを下賜され、大洲藩と呼ばれるようになってから大洲城の名が定着した。

高虎はさらにこれを大規模に修築し、近世城郭としての体裁を整えた。こうして、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として大洲の城下町は繁栄していった。

現在でも江戸時代の当時の風景が余さず残っている。なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが並ぶ場所は、「おはなはん通り」と呼ばれ、1966年から翌年に放送されたNHK連続テレビ小説「おはなはん」のロケ地にもなっている。

冒頭で描写した私が生まれた病院は、そこからもほど近い。市役所の近くにあったようだが、今は既になく、消防署になっている。街の中心部だけに、ビルが立ち並んでいるが、半世紀以上も前のこのころは、ひなびた商店街があるだけだった。

父が建設省に入って二番目の仕事として関わったのは、市内を流れる肘川の上流にある鹿野川ダムという多目的ダムの建設だった。肱川は、その総延長が約100キロメートルにわたり、数百本もの支流を持つ愛媛県内最大の河川である。

その下流に大洲市街が位置するが、上流では川幅の狭い区間が多数存在するため、過去に市民は再三水害に悩まされてきた。建設省は1953年(昭和28年)10月、肱川の治水・利水を目的とした「肱川総合開発事業」の一環として鹿野川ダムの建設に着手した。

河口から約35キロメートル上流にさかのぼった場所がその建設地として選ばれた。ダムに堰き止めた水で洪水調節するとともに。ダム式水力発電所を併設し、最大1万400キロワットの電力を発生させて、大洲市内へ供給する。

工事は1956年(昭和31年)6月に始まったが、地質不良により基礎掘削量の増加を余儀なくされ、さらに1958年(昭和33年)12月に、試験的に湛水した際には、湖畔の3地区で地すべりの発生が確認された。このため、土壌改良や数々の地滑り防止策がとられたが、これが功を奏し、ダムは1959年(昭和34年)3月に無事完成した。

父と母はダムの建設が始まった当初から、ダムが完成してその管理権が愛媛県に移譲されるまでここにいたようだ。移管されたのは1960年であるから、ほぼ足掛け4年ここで暮らしたことになる。

その間、私が生まれ、狭い長屋はがぜん賑やかになった。母は今回の出産では産後の肥立ちが悪かった。母乳があまり出なかったようで、生まれて何カ月も経たないうちに私に与えられる乳はミルクに切り替えられた。

のちに母によく聞かされた話では、私は温かいミルクが嫌いで、与えられるといつも吐き出していたという。冷たいミルクを与えると、ゴクゴクと喜んで飲んでいたというから、よほど変わっている。

無論、自分ではそんなことはまるで覚えていない。ミルクだけでなく、その前後の記憶についてもまるでないが、これは誰しもが同じだろう。羊水の中のことや生まれてすぐのことを覚えている、という人がにいるようだが、そうしたケースは稀である。私もまた生まれたころのことは無論のこと、2歳になってからのことすら記憶にない。

余談になる。私は、幼いころばかりではなく、大人になってからも記憶がほとんどない、といったことがある。その時私は何をしていたのだろう。何を考えていたのだろう。どこへ行っていたのだろう、どうしても思い出せない時間があるのだが、そうした経験は誰にでもあるのではなかろうか。

また、もしかしたら、あれは夢だったのかもしれない、ということもある。現実には違いないのだが、その移り行く状況の中に身を置いていること自体、実態のないことのように思える。これまで歩んできた長い人生の間において、そうした時間は確かに存在する。とくに、大きな失意や大きな喜びの中にあったとき、そうしたことが多かったように思う。

ここに書きたいと思っていることは、まさにそうしたことである。忘れてしまっている話や夢のように思えたことを書き出していくのは面白いに違いない。少なくとも、明瞭に記憶に残っていることを書き留めるだけの話よりは人に読んでもらえそうだ。

また、記憶の欠落を埋め、自分史を完成させる、といったことには意味がある。なぜなら、自分がなぜこの世に生まれてきたのか、という疑問の解消につながっていく可能性があるからだ。

とはいえ、ここでは、まがりなりにも自伝らしきものを書こうとしている。夢物語ばかりでは人様に納得して読んではもらえないだろう。そこで、やはり現実にあった具体的な話を骨格に置いて書いていこう、ということになる。

そしてそれを書き出す場合、一番手がかりとなるのはやはり記憶しかない。それは古いものから順番に積みあがっていくものらしい。

しかし、時代が遡ればさかのぼるほど下のほうにあるから引っ張り出しにくい。また、前後がわからなくなっているものも多い。さらに言語能力が発達する前の記憶ほど、情報量は少ないから、これは丹念に掘り起こさなければ物語にならない。

この点、前世の記憶と同じである。断片的な情報はあるものの、顕在意識の中で思い出そうとするともうろうとしたものしか出てこない。本来なら、今生だけではなく、こうした過去生に遡っての自分史が書ければもっと面白いだろうなと思う。ただ、断片的なものであるからリニアにはつながりにくい。

さらに、それぞれが独立した人生だから、繋げたとしても物語にはならない。何千年前、もしかしたら何万年も前から続く自分の人生をすべて思い出したとして、それをつづるのには、おそらく何十年、あるいはもっと時間がかかるだろう。

残念ながら、本稿に使える時間はそれほど長くはない。なので、限られた時間の中で限られた情報しか導き出せないだろう。それならば、ここでは自分が今生で最も重要だったと考える経験を中心に書いていきたい。神経を研ぎ澄まし、できるだけ多くの記憶呼び覚ました上で、さらに欠落している部分があるなら、それを夢の話や想像で補っていくことにする。

人の齢は短い。たかだか80年、長く生きても100年だ。長い転生の歴史を思えばほんの短い午睡の中の夢のようなものだ。ゆえに、この稿でこれから書いていくことも、また夢の途中の話である。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 2 堀越

さて。

子供のころの最も古い記憶、ということになると、それは両親が私を連れて愛媛から広島に移ってからのこととなる。幼稚園に入る前の記憶のようだから、おそらくは4歳のころのことである。

大洲での長年の勤務のあと、父の次の赴任地となったのが広島だ。そこでの記憶のひとつに、父がどこかへ出張するときの朝のことがある。玄関先で母に抱きかかえられて見送る父を見て、私は大泣きしている。悲しくて悲しくて、という強い感情がこの記憶を頭の中にとどめていたのだろう。

過去生を思い出すときに最も鮮明に出てくるものはやはり感情だという。物理的なものや論理は記憶にはとどまりにくい。そのとき強く魂に刻まれた感情が最も鮮明な記憶として残る。

このときの私は、父と別れるのがよほど悲しかったのだろう。幼いころほかにも悲しいことが何度もあっただろうが、古い記憶というと、必ずこれが真っ先によみがえってくる。

その場所というのは、広島市の東部、「堀越」というところだ。広島駅からは山陽本線で東へ二つ目に「向洋(むかいなだ)」という駅があるが、そこが最寄り駅になる。周囲には工場が多く、その中でも日本製鋼所という大きなものがあって、今も稼働している。戦前は大砲などを製造しており、軍都であった広島を象徴する企業のひとつであった。

その工場の敷地の周りに張り巡らされた塀の外側に、我々一家四人が住んでいた官舎や他の官舎があった。20年くらいまでにはまだその一つがボロボロになりながらもまだ残っていた。今は取り壊されて付近一帯は駐車場となり、中心にはマンションが建っている。

長屋は二世帯が繋がってワンセットになったもので、これが5~6軒ほどもあったかと思うが、もしかしたらもっとあったかもしれない。日本製鋼の塀に沿って細い生活道路があり、これをたどって15分ほども歩いて国道に出れば、広島の中心部に向かうバスに乗ることができる。

長屋群のなかでも、その道路に一番近い側にあったのが我々の住処だ。そのすぐ隣、道路から入ってすぐのところにやや広い緩衝地帯があり、砂地になっていた。

二つ目の古い記憶は、そこで、ひとりの女の子と遊んでいるときのものである。

ケイ子ちゃんといった。恵子なのか啓子だったのかよく覚えていないが、もしかしたら圭子ちゃんだったかもしれない。

二軒ほど先にある同じ長屋の住人の娘だったが、同じ年ごろだったろう。よく遊んだ。それは二人で官舎入り口の砂地にいて、砂遊びをしているときのことだ。

最初はふつうに砂の山を築き、それを削ったり、水を流して川を作ったり、という遊びに二人で興じていた。だんだんとそれに飽きたころ、すぐそばに小さな蜘蛛がいるのを私がみつけた。

それに軽く砂をかけて埋めてしまうと、しばらくすると自力で穴をあけて表に出てくる。それならもう少し多めに砂をかけて、と延々とその小さな生き物相手のお遊びが続く。「クモ子ちゃん、クモ子ちゃん」と呼び、二人でその遊びに興じるのだが、その日だけでなく、また別の日にも別のクモを探してきては二人で砂遊びをする、ということが続いた。

その子とはたぶん他の遊びもしたと思うが、もっとも記憶に残っているのはその遊びのことだ。

強い感情を伴うものほど記憶に残りやすい、と先に書いた。その理論が正しいとしたら、もしかしたら私はこの子に淡い恋心のようなものを抱いていたのかもしれない。恋愛感情というものは他の感情以上に強いものだ。

顔はよく覚えていない。髪型もおかっぱだったようなおさげだったような、はっきりしない。だがいつも小ぎれいな洋服を着ていて、小柄な彼女によく似合っていた。おとなしい子で、大きな声を上げたりするようなこともなくシャイ、つまり、私とよく似ていた。

人は人を好きになるとき、やはり自分と似たようなタイプを選ぶという。理由はよくわからないが、自己愛に通じるものがあるのかもしれない。あるいは「自分探し」の側面もあるのだろう。自分に少し似た異性から、自分のルーツのような何かを見出そうとするのかもしれない。

しかし、恋路にはいつも邪魔が入るものだ。この子には二つか三つ年上の兄がいて、かなりのきかん坊だった。その子がことあるごとに二人の邪魔をし、「ケイ子、そんな奴と遊ぶな」と二人を引き裂くのである。最初は聞かぬふりをしていた彼女だったが、だんだんと距離を置くようになり、しばらくするうちに私とは遊ばなくなった。

その後何年すぎたかは覚えていないが、おそらく幼稚園に入るか否かのころだったろう、母から「ケイコちゃんちは、引っ越していったようよ」と聞かされた。

その事実を知り、何やら淡い寂しい思いがしたのを覚えている。このころのことで覚えていることはほかにもいくつかあるが、異性のことで記憶に残るのはこれだけである。強い感情が心に刻まれやすいという理論はやはり正しいに違いない。あれはつまり初恋だったのだろう。

その後私にとっての「女性遍歴」はしばらくない。ケイ子ちゃんがいなくなったのと同じころだと思うが、幼稚園に入ることになった。5歳のころのはずだ。

このころまでになるとさらに記憶は鮮明となり、多くのことを覚えている。当時の写真が多く残っていることも関係しているだろう。目視情報は記憶を呼び起こすし、ときに感情をも呼び起こす。

しかし写真もないのに、よく思い出すのは、この当時の官舎の周りの世界である。小さな子供の周囲のことだ。せいぜい500m程度の範囲にすぎないが、かなり細かく覚えている。

家の前の道路わきに小さなドブがあったこと。隣の工場との境の塀はコンクリート製であったこと、といった些細なことから、裏山の上には神社があったことや、すぐ近くに小さな川が流れていたことなども鮮明な記憶だ。

その川は、家から100メートルほど離れたところにあった。日本製鋼の塀と裏山に囲まれた狭い場所を流れていて、周りにはうっそうと木が茂っている。ドブ川というほど汚くはないが、清流というほどきれいなものでもない。おそらく背後の山から染み出てくる地下水を水源とするものだっただろう。その先には大きな川があってそこに流れ込んでいた。

長さは200mほどもあっただろうか。意外にも自然豊かで、多くの昆虫が棲んでいたが、ザリガニやオタマジャクシといった水棲生物もたくさんいて、それをよく取りに行ったものだ。薄暗い場所だったが、家に近いということもあって、冬場を除いてほぼ毎日そこにいたような気がする。

好きな場所というよりも、そこが一番遊びやすかったのだろう。今もときおり心象風景として思い出すが、なかなか幻想的な場所だった。ファンタジー映画のようだ、というのは少々言い過ぎかもしれないが、そうした映画の世界に迷い込んだような感覚があった。私の原点といえる場所かもしれない。

一方、もっと好きだった場所がある。自宅の官舎を出て表通り(といっても細い生活道路にすぎないが)を右に曲がると、延々と山手のほうへ向かっていく道がある。我々が引っ越してきた当時は何もない山野だったが、いまそこには、国道2号のバイパスが出来上がっていて、万の車が通る。この当時はまだ建設中だった。

その工事現場を横切ってさらに坂を上っていくと、ついに頂上に出る。といっても山というほどではなく、丘ほどの高さだ。おそらく標高は100mくらいだろう。そこから南にはなだらかな斜面で下っており、その先に広島湾が見え、湾岸には石油精製施設や工場群がある。

その丘には、戦時中に米軍を迎え撃つための高射砲が据えてあった場所があり、この丘はいわゆる高射砲陣地と呼ばれるものだ。直径10mほどだったろうか。塹壕が掘ってあって、周囲の壁はコンクリートで張り巡らされている。

このとき、もうすでに戦後20年近く経っている時期だから、高射砲が使用されていたころの機材などは何もない。ただ単にコンクリートで固められた塹壕、そして高射砲が据えてあったと思われる同じくコンクリート製の土台が残っているだけ。しかし、子供の遊び場としては格好の場所で、頻繁にここへ来ていた。

ひとりで来たという記憶があるということは、幼稚園くらいか、それに入る直前くらいのことだろう。外へ遊びにいくことを許される年齢といえば、それくらいだからだ。だが実は、それより以前からここへはよく来ていた。

というのも、我が家では、週末になり、父が家にいるときには決まって、お昼のランチを外で食べる、という習慣があった。子供の足を考え、家からそれほど遠くもない場所が多かったが、とくにこの丘の上は家からも近い。眺めもいいことからランチをするには格好の場所であり、家族連れで何度もここへ来ていた。

ランチの中身は決まってサンドイッチであり、マスタードが薄く塗られ、耳を落とした食パンにたまごサラダやハムが挟まれていた。これはまだ貧しかった我が家においては最高のごちそうだった。

姉や父母とそれを頬ばったあとは、塹壕の周りで遊びまわるのがおきまりだ。遠く眺める広島湾の風景もまた「休日のひととき」を感じさせる穏やかな材料で、両親もここが好きだったようだ。

その高射砲陣地に行く途中には竹藪があり、春にはそこで筍狩りをやった記憶がある。高圧線の鉄塔があり、その周りが広く伐採されている場所もあって、山野の眺めがよく、そこでいつもの弁当を広げるということもあった。

おやつにキャラメルやチョコレートを食べるというのも楽しみのひとつで、姉と奪い合って食べていたことを覚えている。このころには、そうした菓子に「おまけ」がついているものがあり、そのおまけ欲しさによく買ったものだ。「日光写真」というのがあり、これはキャラメルのおまけとしてついていた。

キャラメルの箱と同じ大きさの感光紙何枚かと薄くて黒いフィルムが入っていて、その二つを重ねて太陽光のもとにさらすと、フィルムに描かれたものが感光紙に焼き付けられる。

「写真」とはいうものの人や風景が映し出されるわけではなく、ただ単にフィルムに描かれたものが反転して焼き付けられるだけだ。たわいないおもちゃにすぎないのだが、私にとってはまるで魔法のように思えた。

いつのことだかその魔法の日光写真のセットを鉄塔の周りに置き忘れて自宅に帰り、大泣きしたことなども覚えている。このころから写真というものに執着があったのかもしれない。

小学校へ入るまえの4歳から5歳くらいまでのこの時期、ほかにも覚えていることは多い。どれが先で後なのかは判別がつきにくいが、両親の目の届かないところへひとりで出かけるようになったのはこのころのことだ。ただ、自力で行ける場所というのは、自宅周辺に限られていたに違いない。




ところが、幼稚園に通うようになってから、その生活範囲は飛躍的に広まった。

私が通うようになったのは青葉幼稚園といい、現在もある。自宅を出てから、先の丘へ行く方向とは真逆の方向へ進むと、住宅街が密集する別の小高い丘があり、そこを越えて、下ったところにそれはあった。園地自体もその丘の斜面の端にあり、その起伏を利用して整えられているが、けっして大きな施設ではない。

ニワトリだかウサギだったか何やら小動物を飼っている檻があり、幼児向けのやや大型の遊具などが据えてあった。遊びまわるにしてはそれほど広くない広場があり、園児たちはそこでひしめき合って遊んでいた。

二階に南に面した明るい教室があり、私的には外で遊ぶよりもそこが一番居心地がよかった。その部屋でお絵かきをしたり、切り紙、楽器の演奏、といった小学校入学前の一連の幼児教育を受けるわけだが、その中でも一番印象に残っていることがある。

それは、ミノムシを使った工作という不思議なものであった。ある日のこと、先生から今日は少し面白いことをやります、といったアナウンスがあったと思う。その先生が紙の箱を開けると、中から茶色の木の葉を身にまとった大量のミノムシが出てきた。

その工作というのはあろうことかそのミノムシの木の葉の「衣」を剥き、中身を取り出すということから始まる。おそるおそる皮を剥いていくと、なかからは小さな蛾の幼虫が出てくる。ミノガという虫だと後に知った。私を含め、自然豊かな地に育った園児たちはそれを怖がるでもなく、むしろ喜々としながら作業を進めていった。

次に用意するのは、色とりどりの毛糸の屑である。これをハサミで切って山を作る。押しなべて広げ、そこに先ほどまでに皮を剥いたミノガの幼虫を放り込み、再び紙の箱を閉める…

と、その日の工作はそれまでなのだが、それから数日たった後、再び紙の箱を開けると、あら不思議、カラフルな衣装をまとったミノムシたちが、大量に転がっているではないか。

無論、園児たちは大喜びで、かくいう私も色とりどりのミノムシを手に取ってはしゃいだものだ。そのあと、ふたたびその衣を剥くと、色鮮やかなパッチができる。哀れ、ふたたび裸にされたミノムシはまた毛糸の山の中に放り込まれ、再び服を再生する羽目になる。

その出来上がったパッチは、しばらくの間、その教室の窓枠に貼られた糸にぶら下げられ、飾られていた。秋の木漏れ日の中、ゆらゆらとゆれるその色とりどりのパッチたちを、ぼんやりと眺めながら、きれいだなーと思っていたことを覚えている。

数ある幼稚園の記憶の中でも、このことを一番よく覚えているのは、よほどこの遊びがエキサイティングだったのだろう。

衣替えをした色鮮やかな彼らがその後無事に一生を終えたかどうかは定かではない。しかし、都会の幼稚園ではおそらくやらないような野性味あふれた授業であったことは間違いない。

幼稚園時代の記憶はさらに続くが、書きだすほどにキリがない。園内のことだけでなく、朝夕の通園、家の周辺でのできごとなど、このころに経験したことなどを山のように思い出す。

裏山の赤土の中から石英が出てきたのをみてにわか探検家の気分になったこと、枯草に囲まれた自分だけの基地、手に取り集めた数々の昆虫や草花たち、カキ筏が並ぶ海からの濃厚な潮の匂い、遠足や家族連れで行ったあちこちの公園や山河…

そうした記憶をとりまとめていくと、この堀越という土地で幼少期を過ごした時期ほど心豊かな時期はなかったなと思う。6~7年ほどの期間だが、人生において最もストレスなく過ごせた時間であり、その後の私の人格形成においても間違いなくプラスになったと思う。

ところが、このころの我が家の家庭事情は必ずしも豊かではなかった。父の給料は少なく、すぐ近くにあった雑貨店でしばしば借金をしていた、とかなり後になって聞いた。ちなみにその店の女店主は不愛想なひとで、そこから金を借りていたくせに、我が家ではその店のことを「好かん店」と呼んでいた。

わが家に金がなかったのは母が働いていなかったせいもある。まだ私が幼かったためで、職を持たず、専業主婦をしていた。が、見方をかえれば、主婦をやっていられるほど生活はひっ迫していなかったということにもなる。私自身も食事でひもじい思いをしたような記憶はなく、三食普通にいただけていたように記憶している。

職はもっていなかったが、母は何かとじっとしていられないタイプの人で、私が通っていた幼稚園のPTAの副会長を引き受けていた。小学校でも同様の役回りを引き受け、のちにはママさんバレーチームを率いて地区優勝したことは前段でも書いた。

貧しいといいながらもそういうことができるということは、生活は豊かでなくてもそれなりに暮らせていた、ということである。経済的に潤っていなくても毎日を明るく過ごせる、というのがそのころの我が家の状況といっていいだろう。この時代の私がのびのびとしていられたのは、そうした恵まれた環境にあったことと無関係ではない。



そしてやがて入学。私は通っていた幼稚園から5分ほど歩いた先にある小学校に入った。

青崎小学校という。青葉幼稚園、青崎小学校ともに青がつく。青崎はこの地の字名であり、小学校の名はそれを取ったものだが、幼稚園のほうもあるいはその地名にあやかったのかもしれない。

その名が示す通り、この地はその昔はかなり海が迫っていたようだ。そういう名前の岬を中心に埋め立てが進み、住宅の進出が進んだのだろうが、それはこの地が自動車メーカーのマツダの本拠地になったことに起因する。

マツダはいまや世界的な自動車メーカーであるが、もともとは「東洋コルク工業」というコルク栓を製造する会社だった。1920年(大正9年)に創業した会社はその後「東洋工業」と名前を変え、「軍都」だった土地柄も手伝い、軍需産業に着手するようになる。

軍の施設を作るための土木工事で必要となる削岩機を生産して業績を伸ばしたが、昭和20年の原爆の投下によって壊滅した。しかし、戦後復活し、以後は自動車を生産するようになった。1957年にオート三輪のTシリーズを発売、これがヒットし、さらに1960年には初の乗用車R360を発売してこちらも爆発的に売れた。

以後も着実に業績を伸ばし、トヨタや日産、本田に肩を並べるほどの大会社になった。現在、その本社周りには数多くの子会社、関係会社が軒を連ねるが、青崎の西に位置する向洋という場所に本社があり、ここがその中心だ。正確には、広島県安芸郡府中町になる。

そのさらに西には旧広島市街が広がるが、町の中心部であるその方向に向かって施設を増やしていくことは難しい。このため、自然と東側の山の手や海のほうへと手を伸ばし、そこへ社員や関連会社の人々が流入し始める。やがて現在に至るまでには青崎のようなベッドタウンが出来上がった。

この地には、マツダ以外にも先の日本製鋼のようなメーカーの本社が多かった。このため、私が入学した先の生徒たちの多くもそうした企業の子息たちであり、サラリーマン家庭の子供たちが大半を占める小学校だった。

クラスも多く、一クラス50人くらいで6クラス。一学年300人×6学年で、1800人という勘定になる。少子高齢化が進む現在は無論のこと、この当時でもわりと大きな学校だ。

自宅からはさほど遠くはない。通っていた幼稚園からも5分ほどであり、家を出てゆっくり歩いていっても20分ほどでたどり着けた。

すぐ近くに広島中心部に向かう主要道があり、その道路を挟んで西側はマツダの本社工場、東側にはこの学校と企業城下町ともいえる青崎の住宅街が広がる。

北に正門があるが、南に面した側がに裏門があり、我が家から通学するうえにおいては、こちらの門のほうが近い。そのためにいつもここを通っていた。入ってすぐのところに、1本の柳の古木があり、人々はこれを「赤チンくれー幽霊の木」と呼んでいた。

学校前を通る道路からもよく見え、門番のようにも見える。ある種この学校の看板のような存在でもあった。それにしても、学校の入り口のど真ん中にぽつんと一本の柳の木が立っているのも不思議といえば不思議である。思うにそれを取り除くこと自体がタブーとされてきたのかもしれない。

噂によれば、原爆が投下されたあとのこと、この柳の木の太枝に白装束の女性が腰掛け、下を通る人に「赤チンくれ~ 赤チンくれー」と呼び掛けていたという。

柳の下の幽霊、というのはよくある話だ。柳の木というのは風が吹くとゆらゆらとゆれ、ときに不気味に見える。それと掛け合わせて幽霊といえば柳、ということになったのだろう。この場所の幽霊も同じような理由で語られるようになったらしい。真偽ははっきりしないが、その幽霊の正体は、広島に投下された原子爆弾による被災者のことだといわれる。

在学中によく聞かされた話によれば、その当時、原爆によって市内各地で命を落とした人々の多くはこの地に運ばれてきた。まだ、小学校ができる前はここは空き地であり、そこを掘り、彼ら被災者が埋葬されたという。

広島東部の多くは、原爆の直撃を免れていたから、多くの被災者が避難してきた場所であることは間違いない。だが、本当に校庭の下に多くの遺骨が眠っているかどうかは定かではない。

被爆直後の混乱期のことでもあり、写真も何も残っておらず、人々の伝承の中での話にすぎない。とはいえ、それを事実と思わせるような不思議な話が、学校周辺のほかの場所でもいろいろあった。どこそこの交差点に血まみれの人が立っていたとか、暗がりで振り返ると白装束の人が立っていた、といった類の話だ。

もっともどこの町でもその程度の幽霊話はたくさんある。それらがすべて原爆の被災者絡みだとは言いきれない。

南門を入ってからすぐ右手には体育館があるのだが、その裏手で首つり自殺をした人がいる、とも言われていた。こちらも原爆とはなんの関係もない話なのだが、事実関係も根拠も何もはっきりしないままに、今も生徒から生徒に伝承されているようだ。

確かにその場所は、学校にいろいろある場所の中でも最も陰気で、しかも体育館の裏ときている。じめじめしており、学校中で不要になった器物などもそこへゴミとして放置されていたりして、雑然としている。

そこへ来てその噂だ。実際にあった話かどうかは別として、私自身もそれを聞いて以来、そこへ行くのがなんとなくいやになった。

また少し本題からはずれる。私はどうも他人よりも霊感が強いらしい。いわゆる霊能者といわれる人からもそう言われたことがある。霊的な存在には過敏に反応するたちらしく、かといって霊が見える、というほどに敏感ではない。ただ、そういう雰囲気のある場所、そういうモノがいるらしいところでは妙にゾワゾワする。

なぜ感じるのか。わりと冷静かつ理性的に考察してみるのだが、その結論としては、それは自分もまた霊だからだ、というところに行きつく。

人というものは霊が人間という生物の体に宿ったものだと信じている。霊そのものは、肉体的な感覚は持たないが、それが宿る体はそれそのものがセンサーのかたまりのようなものだ。

味覚、触覚、視覚、聴覚、嗅覚などの五感がそれで、自分の体以外の物理的ものを自覚するためには不可欠な機能である。感じやすい、とよく言うが、それはそのセンサーがとりわけ敏感なことを意味する。

一方、中身の霊のほうはそうした感覚は持たない。感じる(といえるのかどうか)のはそれ以外の実態のないものである。第六感ということばがあり、これは直感とか予知能力とかいう意味で使われることが多い。しかし、私はこれは霊が持つコミュニケーション能力、すなわち霊能力の総称だと思っている。

霊そのものは肉体を持たず、時空を超えた存在であるから、これから起こることもある程度予測できる。それを何等かの形で私たちの中にある霊に「通信」し、霊はこれをまた肉体が持つ脳の中にそれを一生懸命伝えようとする。

あるいは、別の霊から教えられてわかることもあり、それを伝えようとしている場合もある。こうしたものこそが、予知であり、第六感である。

そしてそれら教えられる情報の中でもとりわけ重要なものを伝えようとしてくれている外部の霊こそが、守護霊とか指導霊とか呼ばれるような霊たちなのではなかろうか。

もちろんそうしたメッセージをくれるのは守護霊ばかりとは限らない。ときには自分とは普段つながりのない、無関係の霊が何かを伝えようとしている場合もある。嫌な感じがするところに行ってゾワゾワするのも、別の霊が何かのメッセージを伝え、それを自分の中の霊が翻訳して伝えようとしているに違いない。おそらく私の場合、その翻訳に敏感なのだろう。

いずれにせよ、この世に形のない霊による、いわば「霊界通信」的なものが我々の中にある霊性に伝えられている、というのが私の考えだ。

小学校のころ、体育館裏で感じた怖いという感覚というのも、ある種そういった霊界からのメッセージだったかもしれない。しかしこの当時まだ小さかったころの私は、あまたある幽霊話を信じ、怖いものは怖い、幽霊はみたくない、というあたりまえの少年だった。

ただ、人よりその部分はやはり敏感だったと思う。その敏感だった、という部分が自分にとってプラスになっていたかのかどうかはよくわからないが、妙に人の心が読める少年だった。

「オヤジ殺し」という言葉があるが、どうも大人の心を先読みできるようなところがあった。相手がこれを言ったり、やったりすると喜ぶだろう、というツボの部分がなぜかわかるのである。

自分では意識していなくても、自然とそういうふうに振る舞うことができるらしく、周囲の大人たちからはよく気が利く少年と思われていた。単に話を合わせるのがうまい、ということだけでもないらしく、どうやったら気に入られるかを無意識に想像しながら行動したり、しゃべっているようだ。

そうした能力は小学校に上がって、高学年になるに従ってさらにはっきりとしてくるが、そのことはさておき、その小学校時代のことを少しずつ書いていこう。




学校に上がってすぐ、友人ができた。同じ長屋のすぐ隣に住む、隆君という名の少年で苗字は斎藤だ。同じ一年生で通学路も一緒ということで、すぐに仲良くなった。クラスは違えども、いつも一緒で、うちに帰ってからもよく遊んだ。

遊ぶ場所は、幼稚園のころはせいぜい500m範囲だったものが、通っていた学校周辺も含めて半径1キロぐらいには広がった。ただしかし、工業地帯の中にある町なので、子供の遊べる場所は限定される。あいかわらず自宅を中心として、高射砲のある例の高台方面でたむろすることが多かった。

そうしたなかでもうひとつお気に入りの場所ができた。

学校へ行くには二つのルートがある。ひとつは自分が住む官舎のすぐ裏山を直登して細い小道を下り、住宅街の間を抜けて行くルート。もうひとつは、北へいったん迂回して、山合にある別の住宅街の間を抜けて学校まで下るルートで、後者のほうがどちらかといえば正規ルートだった。

その両方を使い分けていて、普段、登校時には山合住宅ルート、帰りは裏山ルートで帰ってくるというのがお決まりだったが、雨や雪の日は行きも帰りも足元の悪い山登りルートは使わなかった。

帰り道が同じ友達と遊びながら帰るときなどは、住宅ルートを通ることが多く、それはその友達たちがそれらの住宅の住民だったせいもあるが、そこにはいくつかの遊び場があったためだ。

その遊び場所のひとつに、ある古い神社がある。住宅ルートの途中にあり、道を脇に逸れて、長い石段の階段を上って行ったところにあった。

今宮神社という。石段を昇り詰めると小高い丘の上に出る。そこには平坦な参道がある。両側をうっそうとした木々に囲まれていて、雨や曇りの日には薄暗い陰気な印象となるが、晴れた日は木漏れ日が参道に入り込み、独特の風情がある。

ここが小学校の低学年時代を通じて一番よく遊んだ場である。緑豊かな場所であることから昆虫採集もできる。境内はわりと広くて、そこでチャンバラをやったり、缶蹴りをやったりと、いろいろな遊びをした。学校の近くということもあり、我々男子だけでなく、女子たちにも人気のスポットであって彼女たちはそこでゴム飛びなどの遊びに興じていた。

ときに男女一緒になって遊ぶこともあり、いわゆる「だるまさんが転んだ」といったものや鬼ごっこが多かった。ちなみに、だるまさん…は、この地方では「見た見た人形」という変わった名前だった。「みたみたにーんぎょ」と言いながら数を数えて振り返る。

無論、放課後の校庭でも遊ぶことができるのだが、子供たち全員がなぜかその場所が好きで、私も友達とだけでなく、ひとりでもよく遊びに行っていた。

神社のすぐ裏手は切り立った崖になっていて、木々の間からは東の海田方面が見え、海があるその南の方角には広島湾の一角も垣間見ることができる。夕刻、大人がここへやってくることはまずなく、子供たちの聖地でもあった。

神社の由緒については何か立て看板があったように思う。その内容は覚えていないが、地元の鎮守の神様的な存在として古くからあるらしい。ただ、ここで遊ぶ子供たちに信仰心などあろうはずもなく、私もただの一度も手を合わせて拝んだような記憶はない。が、神様はきっと子供たちがそばで遊んでいるのを微笑んで見守っていたことだろう。

ちなみに、この神社へ上る石段の入り口のすぐ近くには、一本の大イチョウがあり、そのそばにはこちらもかなり古い井戸がある。平清盛の弟か誰か身内の娘が疱瘡にかかり、その治癒のための清水を汲み取るために掘られた、といった伝承がある。後年ここを訪れた際にそばの立て看板にそう書かれていた。

その説明書きによれば、その当時この一帯は海で、今宮神社も含め、我々の住まう住宅の裏山の一帯は、半島か島だったようだ。

工業地帯のベッドタウンとなっている現在からは想像もできないが、青崎の地名からも想像されるように、ここはまぎれもなく海岸地帯であった。

ちなみにこの神社の秋祭りはかなり盛大なもので、青崎一帯がその一事で盛り上がる。町中に注連縄が張り巡らされて、神輿が界隈を回る、というのは他地域のお祭りと同じだが、余興として鬼が出る。

といっても、町の青年会の面々の扮装である。彼らに青鬼や赤鬼の面をかぶせて蓑を着せ、鬼の恰好をさせたうえで酒を飲ませる。そのうえで、先を叩き割ってバラけさせた青竹を持たせる。古くから今宮神社に伝わる伝承行事で、その青竹に打たれると一年中無病でいられる、という。

かくしてしこたま酒を食らった鬼たちは狂暴化して町に繰り出し、青竹を引きずりながら人々を追い掛け回す。しかし大人にはあまり手を出さず、主に子供たちを追いかける。

子供たちは鬼をはやし立て、わざと怒らせたうえで逃げ回るのだが、鬼に捕まると思い切り青竹でぶたれるので、その逃げざまも真剣勝負そのものだ。鬼のほうも酒に酔っているものだからかなりの本気モードとなる。時に全速力で追いかけ、捕まえた相手を力いっぱいぶちのめすのでたまったものではない。

青あざになるほどぶたれることもあり、現在なら傷害で訴えられてもおかしくない。しかし、子供たちも心得たもので、そうそう簡単に捕まったりはしない。時に鬼の背後に回り、ときには物陰に隠れて飛び出し、ふいうちで鬼を脅かす。一方の鬼はそれに逆切れしてさらに相手を執拗に追い回す…という、まさに「鬼ごっこ」が一日中繰り返されるのである。

小学校に入ってからはこの行事に自ら参加することも多く、友達と一緒に町中を鬼を探して歩き回り、みつけると囃し立てて逆に追いかけられる、ということをよくやっていた。秋の好天に恵まれることも多く、神社の入口にある銀杏の木が黄色く染まり、積もった落ち葉がその好日をさらに印象的なものにしていた。

毎日がそうした楽しい日々ばかりではなかったが、小学校2年生の終わりまではおおむね穏やかな日々が続いた。楽しく学校に通い、充実した感覚があった。小学校なんて幼稚園の延長にすぎないと、こども心にそのころは思っていたし、成績もさほど悪くはなかった。

ところが、ちょうど三年生に上がる前に大きな変事が起こった。

そのころ父の職場は、日本製鋼所の敷地内に間借りしていた土地に建てられた広島国道工事事務所というものだった。我々が住まう官舎に面した塀の裏側にあり、通勤には10分もかからなかっただろう。

その事務所が突然移転することになった。それまでは民間の敷地内にあったが、公的機関が借地、しかも民地にあるのはまずかろう、ということになったのだろう。移転先は、現在ある場所から2キロほど離れ、広島のより中心部に近い場所に決まった。

「東雲(しののめ)」といい、東の明けの空の意味だが、おそらくそれを歌った古歌からとったものだろう。広島はそのデルタ地帯に7本の川が流れているが、そのうちの一番東側にある川で、猿猴(えんこう)川という川の西側の一帯となる。猿猴とは河童のことだ。

その地に新たに土地を購入して新庁舎を建て、広島市内全域の国道の新設・維持管理を行うという計画だった。合わせて事務所に通う職員の官舎も建設される。

やや離れた場所にも単身赴任者用の宿舎などが建設されたようだが、その官舎は新事務所のすぐ隣にあり、家族向けに設定されたものだ。

二軒長屋が3棟、合計6世帯しか入居できなかったが、そこに我が家が優先しては入れたのは父の勤続がもうすでにかなり長くなっていたためだ。そろそろ古株といってよく、山口時代から数えて10年近くになっていたはずだ。

民間のアパートを借りるよりもかなり安上がり、ということで、貸してやる、という事務所の申し出を父は二つ返事で受け入れた。

ところが問題があった。子供たちの通学である。このころ5つ上の姉は、川向うの中学校に入っていたが、引越しをしてもそこまではバス通学が可能だった。しかし、私の場合は元いた青崎小学校に通うための路線がなく、通う方法はただひとつ、歩くことであった。

新居のそばには別の小学校もあったが、途中から転校して学習環境を変えるのはよくない、という意見が、父だったか母だったかから出たらしい。二人とも決めかねていたが、結局のところ、本人に聞いてみようということになった。

これに対して、私は元の学校に通う選択肢を選んだ。見知らぬ学校に入りなおして新しい友達を作るということに対して抵抗があったことが一番大きかったが、子供のころから慣れ親しんだ青崎や堀越の町から離れたくない、という思いがあった。

結局、それまで通っていた小学校まで、2キロの道のりを毎朝夕歩いて通うことになったのだが、のちにこれが大きな試練を招くことになろうとは、このときは思いもよらなかった。

三年生になってからの担任は遠藤先生という女性だった。音楽の先生で若く、まだ30代なかばか40になるかならないかぐらいだったと思う。

その後私が抱えることになる苦悩はまずこの先生から始まった。何かにつけ思ったことを口に出し、ときにはきつい言葉で生徒を叱る。メリハリのはっきりした性格だといえば良く聞こえるが、音楽の先生のくせに体育が専門であるかのようで、スパルタ教育をモットーと考えているに違いない。

私はといえばシャイで引っ込み思案なところがあり、面と向って何かをはっきりと言われるとドキマギして口ごもってしまう。そういうところがお気に召さなかったのか、もっとはきはきしなさい、とよく叱られた。それ以外にもいろいろお叱りを受けたが、それほど悪いことをした覚えはない。

何回か遅刻をして廊下でバケツを持たされたこともある。遅刻は悪いことには違いないが、私にすれば遠路を歩いて通っているのだから仕方がない、という思いがあった。そうしたことを知ってか知らずしてか、あまりにも体罰的なことが多く、いやな先生だな、と感じるようになった。かくしてかつての穏やかな生活は嵐のような生活に一変する。

そのころ同じクラスに荒井君という同級生がいた。

素行の悪いことで有名で、女の子をいじめる、男子に対しても平気で喧嘩をふっかける、からかう、というたちの悪さで、かといってガキ大将というほどの信望もなく、ようするに問題児だった。

「マーチン・ジェリー」というのがあだ名で、だれがつけたのか自分で言い出したのかわからない。本当にそういう俳優がいたのかどうかも知らないが、要は「あちらの不良風」というネーミングだったようだ。

私はというと弱虫でいつも人陰に隠れているような性格だったから、こうした押しの強い人間とは相性が良いわけはなく、相手もこちらの弱さを見抜いてか、やたらにモーションをかけてくる。

あるとき、何かがきっかけで大ゲンカとなり、取っ組み合いになったが、その前後のことはよく覚えていない。ただ、うちに帰って気が付くと、左の耳に紙屑のようなものが突っ込まれており、これがこの喧嘩相手からの仕打ちであることは明らかであった。

その詰め物のおかげで耳が少し腫れていたようであり、病院に行くほどではなかったが、その痛みを母親に訴えた。ところが、これが大きな間違いだった。前述のように母は幼稚園ではPTAの副会長を務めるほど活発な女性であり、この小学校でも親同士の集まりで何かと学校の運営などに口出しをすることが多かった。

さっそく翌日学校へ行って、そのイジメについてくだんの担任に文句を言ったらしく、そこからは単なる子供の問題が大人の問題になっていく。

学校側としては、公明正大な裁判よろしく両方の側から事情を聴く、ということになり、相手の母親も呼ばれて事情聴取、という事態にまで発展した。しかし、たかが子供同士の喧嘩である、母親を呼びつけたところで何がわかるはずもない。結局は当人たちから聞くしかしょうがない、という結論になった。

放課後、遠藤先生に呼ばれ、本当に耳にモノを入れられたのか、と詰問されたが、その聞き方があまりにも厳しかったので、ついつい曖昧な答え方をした。それに対して「そんないい加減なことを言いんさんな!」とまた叱られ、結局私の申告は間違いだったという雰囲気になっていった。

喧嘩をふっかけてきた相手は、といえば私の耳に異物を入れたことなどはとっくに忘れ果てていたらしい。後日話しかけてきて、俺はそんなことはやっていないぞ、とうそぶく始末だ。気の弱い私はそのときも黙ってうつむいているだけだった。

その後、学校側が下した結論がどういうものだったのかは母から聞かされていない。が、上訴したにもかかわらず、息子の曖昧さ加減によって逆に悪者になってしまった、という感じで終わったらしい。母もその後この件に関して何も言わなくなったが、同じPTA仲間の間では、相手の悪口をさかんに言っていたようだ。

こうした一件もあり、私はクラスメートからもいじめられっ子、というイメージで見られることが多くなった。露骨にいじめられることは少なかったが、親しい友達もおらず、何をやってもつまらない。自信が持てず、成績はどんどん下がっていった。

もともと運動神経はあまりよくなかったほうなので、体育の時間も大嫌いで、苦痛そのものだった。とくに水泳の時間は最悪で、何かといえば仮病を使って休んでいた。

このころの私は呼吸器があまり強くなかったこともある。喘息の持病があり、水泳の時間がある日は仮病を使って一日休む、ということもあったが、風邪などをこじらせて本当に休むことも多かった。

子供心ながらこのころが人生の最悪の時期だと思っていた。親しい友達もできず、先生とは折り合いが悪い。しかも学校と家が遠いので、放課後に友達と遊ぶ、ということも極端に減った。結果として、うちに帰り一人遊びをする時間ががぜん増えた。

今の私が人と交わるのをあまり好まないのは、この当時の経験によるところが大きいだろう。常に一人でいることを好み、一人で遊んだ。自己完結がテーマであるかのようであり、そこに他人が入り込む余地はなかった。

一方ではその孤独の時間は別の形の自分を形成した。豊か、といえるほどのものではないかもしれないが、想像力が培われた。学校が終わると逃げるように家に帰り、父の工具箱を取り出す。手先が器用だったので、その中にある道具を使っては、近所の建築現場から出る端木などの材料を加工していろいろなものを作って遊んだ。

この当時はプラモデルの全盛期で、比較的子供にも求めやすい価格で販売されていた。そうしたキットの虜にもなり、船や飛行機、戦車などをせっせと組み立てた。自宅の庭で虫を相手に遊ぶことも多く、そこは私にとっては小さな宇宙だった。

また、このころから、家と学校を往復する通学路の中で、歩き歩きよく空想をするようになった。テーマはいろいろある。自分自身が探検家や冒険家になることもあったが、たいていヒーローかヒロインがいて、地上や空中、水中だけでなく、宇宙を駆け巡るのである。

テレビで見聞きした歴史的なものや考古的なものもあったりして、それこそ自分が想像できるだけのありとあらゆる世界をその中で創り出していった。

もっとも白昼夢というような病的なものではなく、単調な通学時間の暇つぶしのようなものである。その通学路というのは、学校を出てからマツダの工場群を抜け、猿猴川にかかった橋を渡ってからは川沿いの堤防を北上する、というルートにあった。

このあたりは海にもほど近く、感潮河川であるから、時間によって澪筋の半分ほどが干上がって干潟となり、そこにあるカキ筏などもあらわになる。広島はカキの一大産地だが、海だけでなく、知る人ぞ知る、こうした川の中にまでカキ筏があることを他県の人は知らないだろう。

少し濁った水面下にはいろいろな魚も垣間見えるし、潮が引いたあとの潟にはカニなどの甲殻類もたくさんいた。そうした水辺の風景に加え、堤防下の街並みは歩くほどに変化するし、空の模様も季節によってさまざまに変わる。想像力を働かせばいくらでもいろいろな世界が形成できるのである。

学校であったいろいろないやなことを忘れられるひとときであり、家に帰れば好きな工作もできる、ということで、少しずつではあるが、私の萎れた心は潤いを取り戻していった。



小学校の5年になったころ、その通学にひとつの変化が起こった。ある朝のこと、いつものように堤防沿いの道を歩いて学校に向かう私のそばに一台の乗用車が止まった。運転席から顔を出した男性は初老で小太り。おだやかそうな表情でニコニコと話しかけてきて、よかったら乗っていかないか、という。

小さなころから、知らない人の車に乗ってはダメ、と親や学校からも言われていたため、当然固辞したが、あまりにも勧めるのでつい乗ってしまった。しかし何事もなく、橋を渡ったあたりでおろしてくれ、明日もよかったら乗っていきなよ、といったことを言う。

翌日も同じように乗せてもらうことができたが、さすがに親に黙っているとまずいと思い、そのことを話すと、母がその人と直に話をして問いただしてみるという。

翌朝、その前日と同じ時間に母と私が待っているといつものようにその車がやってきた。母はその人としばらく話をしていたが、やがて笑顔で戻ってくると、今日も乗っていきなさい、と言った。

あとで聞いた話によれば、その人は我が家のすぐそばにある鉄工所の社長さんだった。私と同じく堤防沿いの道を通り、学校の近くに住んでいる工員を毎朝車で迎えにいくのが習慣だという。

その工員さんは私が5年生になったのと同じ時期からの雇いのようで、その迎えの途中、とぼとぼと同じ方向を歩いていく子供の姿をみて、遠路はるばる学校まで歩いていかせるはかわいそう、と思ってくれたらしい。

こうして、帰りはともかく、行きはまるで裕福な家庭の御曹司のように、車で学校に送ってもらう、というラッキーな日々が始まることになった。

その社長さんとも日に日に打ち解けて、いろいろな話をするようになったが、話の内容は高度なことや難しいことではない。天気のことや、どこそこに何ができたとかいった広島の街のこと、テレビの話とかで、そのほか、たまに自分の学校での出来事なども話したかと思う。ただ、今の学校がつまらない、といったことは一切しゃべらなかった。

一方の社長さんも、自分からはあまり家庭のことや会社のことを話す人ではなかったが、断片的には奥さんや息子さんの話も出てきた。その息子に会社を継いでもらうつもりだ、といったことも聞いたが、それ以上の突っ込んだことはこちらからもあえて聞かなかった。

それにしても両親以外の大人と、これほど密接な時間をすごしつつも、それほどストレスなく過ごすことができる、ということが不思議だった。社長さんの性格もあっただろうが、子供なりにそうした話の「間」を取ることができたのだ。自分にそうした会話能力があると気が付いたのはこのときが初めてだったかもしれない。

あたりさわりのない話題で場をつないでいく、というのは大人でもなかなかできることではない。ときに寡黙になりがちな二人きりの車内で、相手のご機嫌をそこねず、逆に楽しくさせる、というテクニックがその後の二年間でさらに磨かれたように思う。

そうした出来事もあり、私の小学校生活は徐々に明るさを増してきた。3・4年の担当だった遠藤先生に代わり、5年生から担任になった上杉先生は、やや年配で50前後だったろうか。優しい先生で、というか慈愛に満ちた、ということばがぴったりの人だった。言葉の端々で子供が大好き、という気持ちが伝わってくる。

ほとんど怒ったことがない。とはいえ生徒たちがなにかやらかしたときには彼女なりのお仕置きをした。相手の頬に手をあて、「いいか!」といいながら、ぴしゃりと叩くのである。

無論ビンタのような激しいものではない。軽いしっぺのようなものなのだが、みんなが見ている前でのこの行為は、自分がやったことが悪いことであったことを自覚させるには十分な効果がある。

自分の怒りをただ単に生徒にぶつけ、体罰を与えるだけだった前の担任とは大きな違いだ、と思った。あーこういうやり方もあるんだ、とその後の人生においてもこの先生のやり方は大いに勉強になった。

上杉先生はまた、人の長所を褒めてその能力を伸ばすのが上手だった。私の才能にも理解を示してくれ、図画の時間に描いた絵が上手だというので、教室の前の壁に長い間飾ってくれていたりした。最初のものはメロンか何かの絵だったと思うが、のちにそれ以外の風景画なども掲げられるようになった。

学校から自宅のある東雲に帰る途中に比較的大きな運動公園がある。そこへクラス全員で出かけて行って野外スケッチをする、という授業が一度あった。すぐそばには猿猴川が流れ、公園であるから緑陰も多い。周囲はマツダの工場群だが、見通しがよく、広場からは黄金山という山が見える。

地元の人ならだれでも知っているが、円錐形の姿の良い山で、広島中から見えることから、その頂上にはテレビ塔が乱立している。ここも子供のころからよく遊びにいったところで、眺めはすばらしい。360度の眺望があり、広島市街はもとより瀬戸内海が一望できるのだ。

その図画の授業があったのは秋のことで、その黄金山の紅葉が遠目にもくっきりと見え、広場にあった銀杏の木も黄金色に染まって実に美しかった。私はその光景を絵の具を使って写し取り、できるだけたくさんの色をパレットに作っては、何度も筆につけては絵に落としていった。

いわゆる点描画であり、誰からその手法を教わったことはなかったが、このときはそれが一番その景色を写し取るには最適だと考えた。自分で言うのもなんだが、その出来栄えはすばらしく、学校に持ち帰ったあとも、上杉先生に絶賛された。その後学内のコンクールも出され、金賞をもらった。

この絵もしばらくの間、教室の一番目立つところに張り出された。ほかの先生やクラスメートからもお褒めの言葉をもらい、金色のステッカーが貼られたその絵を毎日眺めながら、鼻高々だったことを覚えている。

こうしたこともあって、さらに私の心の中は明るくなっていった。少し自分に自信が持てるようになると、人は何かにチャレンジしたくなるらしい。

このころ母の勧めではあったが、そろばんを習う気になり、放課後になると毎日近所にあったそろばん塾に通うようになった。6級ぐらいからスタートしたと思うが、すぐに上達し、半年もたたないうちに3級の試験に合格した。

2級の試験にも受かる、と塾の先生には言われたが、2級になると暗算が出てくる。これを苦手とする私は結局卒業まで2級試験には通らなかった。しかし、このそろばん塾通いによって、自分にはまた別の能力があることを知った。

算盤の効能については諸説があるようだが、私が思うに、頭の回転を速くすることだと思う。指先と頭の回転は連動しており、いかに指先を素早く先が動かせるかは、とっさの判断力に左右される。上級試験には受からなかったが、その後身に着けた物事の判断能力や処理能力はこのときの鍛錬によるところが大きいと考えている。

そろばん塾に通いはじめたのは5年生の半ばくらいからだったろう。2級の試験に落ちたのは6年生になってからだが、暗算の練習があまりにもめんどうくさくなってきたので、そのうち通うのをやめてしまった。続けていればもう少しその方面の能力を伸ばせたかもしれない。

そろばんには挫折したが、自分には意外にも文章力がある、ということを発見する、といったこともあった。それはある日の国語の時間のことだ。校内の水泳大会ことを書いた作文を書け、といわれたのだが、その大会の日、私はいつものように仮病を使ってそれをさぼっていた。

なので、書けといわれても何も書くことがない。しかたなく、プール脇に座ってみていたみんなの泳ぎについて、かなり誇張を加えて書いてみた。

自分が泳いでいたわけではないから主観的なことは書けない。見たままをスケッチするつもりで書いたが、たいして想像力を働かせて書いたつもりもない。自己評価では出来は30点ぐらいで、満足感はほとんどゼロだった。

ところが後日、その作品に返ってきた評価は満点に近かった。しかも、副校長だか教頭先生だかが、それを市の作文コンクールに出してみたいがどうか、とその国語教師を通じて打診してきた。

どうせそんなもの通るわけないよ、と思っていた。校内の評価で金賞をとった絵のようにはいかない。市が主催するれっきとしたコンクールであり、たかが国語の時間にちょいと書いただけの作文が評価されるはずもない。

学校の恥になるだけなのに、と思ったが、可否を問われるままに、二つ返事でOKです、と答えた。しかし、そのあと、すっかりそのことは忘れていた。

ところが、数か月絶ち、秋も深まったころ、なんとその作品が入賞した、との知らせが届いた。しかもなんと金賞であり、賞状のほか副賞として商品までもらった。ノートとか鉛筆とかたわいないものだったと思うが、それよりも、あの程度の文章でこんな賞がもらえるものなのか、と内心驚いた。

無論、国語教師や上杉先生、両親も喜んでくれたが、当の本人はなんであれが…とまるでピンとこない。審査委員のレベルがよほど低かったのか、あるいは本当に自分にはそんな才能があったのだろうか、今でも不思議に思う。

もっとも、このころから文章をつづって人を楽しませる、ということは好きだった。後年、中学校や高校で授業以外で書く〇〇通信、といった文章を書くのは得意で、皆を楽しませるツボのようなものを心得ていた。

いまここで書いている文章も良いものかどうかはわからないが、読み手を楽しませている、と願いたい。もっとも、自分自身が楽しんでいることは間違いなく、それだけでいいのではなかろうか。

ところで、このころの私は肥満児だった。小学校4年生くらいから太り始め、5年生になったころには60キロほどもあった。原因はやはり例のイジメ問題に発する学校生活でのストレスだったと思うが、このころから少しそのことを気にし始めていた。

このため、意図的に、少しずつ体重を減らす努力をしていった。もともと歩くのは好きだったので、できるだけ歩きを中心とした運動をするようにし、朝夕の食事を制限した。おかげで中学校に入るころまでにはかなり普通の体形に戻っていた。




ひとつ良いことがあるとまたひとつ、またひとつと同じように良いことが増えていく。好事の連鎖とでもいうのだろうか、このころから少しずつ人生が変わっていくのを自分でも感じていた。

気持ちを明るくする材料はほかにもあった。このころ、我が家に一匹のペットがやってきた。5年生の春の誕生日か何かだったと思う。何が欲しいかと問われ、思い当たったのがそのころ興味のあった小鳥の飼育である。

我が家は官舎なので、犬や猫は飼えない。しかし小動物なら、ということでそれまでも亀や鈴虫などを飼ったりしていたがいまひとつ愛情を持てない。十姉妹(じゅうしまつ)を飼ったこともあるが、生まれたばかりの雛を親が落として殺してしまう、という残酷なシーンも見せられたこともあって、鳥はもういいや、と思い始めていた。

ところが、何かの雑誌をみて文鳥という鳥がいることを知った。神社の形をした箱の中からおみくじを嘴で咥えて出てくる鳥の紹介、といった記事だったと思う。そんなに慣れるのなら自分も飼ってみたいと思い、母にそのことを話した。

母の山口の実家は、農家だったので牛豚や鶏を飼っており、犬もいた。そのため母も動物に慣れており、というか動物好きなところがあり、私の話を聞いて探してみよう、という気になったらしい。

さっそく、町内から少し離れた国道沿いにあったペットショップにお目当てのものがいる、と誰からか聞きこんできた。

ちょうど11歳の誕生日の日曜の朝だったと思う。なぜかよく覚えている。新たに買い求めた竹籠を持って、その鳥を店にもらい受けにいった。文鳥には羽がグレーと白のツートンからなる普通の文鳥と、全身が真っ白な白文鳥がいるが、我が家にやってきたのは後者だった。

まだ目が開いたばかりの幼鳥で、羽はまだ白くなくグレーだった。このころから仕込むと手乗りになるという。本当は目が見えないころからの飼育が良い、と本に書いてあったため心配したが、藁で作った小さな巣箱に入れて毎日手で餌をやっていたら、そのうち見事に慣れた。

籠から出して手から手へと誘導する、という訓練を続けていたところ、ある日のことである。突然飛べるようになったその子は、母の手を飛び立ち、真っ白な小さな羽を広げて飛翔し、私の肩にとまった。日毎にその飛距離は伸び、ついには部屋の隅から隅まで飛べるようになったころには、もうすっかり家族の人気者になっていた。

うちへ来てから間もないころ、「チー、チー」と鳴いていたので、「チー子」と名付けた。オスらしかったが、そんなことはどうでもよい。チー子チー子とかわいがり、朝夕の糞の片付けやら餌や水の補給などすべてを私が世話するようになった。

毎日学校から帰ってきてからチー子と遊ぶのが楽しみで、たった一匹の小さな命がこれほどに日々を明るくしてくれるのか、と私自身も喜んだが、家族全員そう思っていただろう。

ちなみに、こうした小鳥の寿命はせいぜい5年、長くて7~8年といわれる。しかし、この子はなんと、私が大学3年のころまで生きた。10年以上の寿命があったことになる。

大学3年のころ、住んでいたアパートには電話がなく、友達の電話をよく借りていた。その友人からめずらしく母から電話が入っていると連絡が入った。出てみると、母の重い口から出たのがチー子の死だった。

思わず涙がこぼれ出たが、それからしばらくは悲しくて悲しくて学業が手につかなかったのをよく覚えている。

愛鳥との出会いも含め、私の小学校生活は、後段になるほど明るくなっていった。尻上がりに運気が向上していく、という実感がわいてきたが、そんな中、そろそろ卒業が近づいてきた。

2月ころには既に卒業式の準備が始まり、いろいろなイベントが検討され始めた。卒業式準備委員会、的なものが先生・生徒混交で開催されたかと思う。その中で、楽器の演奏や先生への感謝のことばといったありきたりのメニューが並べられた。

しかしそれではつまらない、ということで、ある先生が、式の最後にある式辞は一人ではなく、生徒代表の10人くらいでやろう、と言い出した。

その10人が6年間の思い出を大声で語っていく、というもので、その代表団の後ろで卒業生全員が歌ったり踊ったり、楽器を演奏したりする、という演出だった。しかし、かつての担任の遠藤先生が音楽の先生だったこともあり、このころの私はすっかり音楽アレルギーになっていた。どう考えても私とは無縁の催しだ。

それを受けて、各クラスでも誰が何を担当するかを決めろ、ということになった。そのセレモニーは基本的には何等かの形で全員参加する、という決まりになっていたが、私的には、どうでもいいや、と思っていた。そうしたところ、卒業式担当委員が私にあてがったのは、なんとエレクトーンを弾く担当だった。

無論そんなものが弾けるわけがない。戸惑いながらその委員の話をよく聞くと、なんのことはない、私がやることといえば、ただ単に鍵盤の一つを断続的に鳴らすだけ。自由意志はなく、シンバルを両手で叩き続ける猿のおもちゃと同じだった。

そんな犬でもネコでもできるような役割をあてがう奴も奴だが、私という人間はその程度にしかみられていないんだろうな、と思った。ほかにも歌を歌うとか、ダンスをやるとかいろんな役割があったはずだが、それすらも与えられなかった。

絵や作文はうまくても、そのころの私はクラスの誰ともなじまず、デブで運動音痴であったこともあり、孤立していた。仕方がないことではあったが、我ながら情けなかった。

かくして参加したくもない練習が始まった。徐々に習熟が進む中、あるとき、卒業生全員参加の全体練習も行われた。そのとき、ある先生が突然、全体的に構成を見直そう、と言い出した。

何か単調でつまらない、といったことだったと思う。ところが、驚いたのは、その変更の中で、なんと式辞のひとりを私に変更しよう、と言い出したのだ。

その先生は村田先生といい、学年主任だった。そのせいもあるが張りのある声といかついルックスからか、ほかの先生からは一目置かれていた。卒業式セレモニーを選出した代表者中心に行おうと企画したのもこの先生であり、この動議に対しても、彼が言うのなら、と他の先生も誰もが反対しなかった。

この式辞セレモニーは、卒業式の最後に行われるもので一番重要なものだ。その中心となる10人の代表の一人になったということは、雑用係から一気に主役に抜擢されたようなものだった。なにがなんだかよくわからなかったが、不服をとなえるような雰囲気でもなく、戸惑いながらもその新役を引き受けることにした。

こうして役回りが変更されてからも練習は続き、私の番のメッセージが滞りなく言えるようになったころ、卒業式を迎えた。

左胸に白い造花をつけ、卒業生全員が次々と会場に向かう。その向かう先の廊下で、あれっと思ったのは、例の村田先生見つけたことだった。

実は村田先生、私の役割変更を言い渡したあと、腰を痛めて長い間学校を休んでいた。いわゆるぎっくり腰というやつで、卒業式には間に合わないのでは、と皆が思っていた。声が大きいこともあってか、生徒からは怖い先生、というイメージでみられていたので、この日も来ないならそれで平安、という雰囲気が生徒たちのあいだにあった。

そのときすでに腰が治っていたのかどうかはわからないが、卒業式セレモニーの責任者でもあったわけだから、式に出なければならない。そんな義務感を持っていたのだろう。校内に突然現れ、いつものように大きな声で同僚の先生や、生徒たちに声をかけていくではないか。

私にも声をかけられるのではないかとドキドキしたが、結局は、何事もなく式が始まった。

その卒業式の日は、良い天気だった。もしかしたら桜が咲いていたかもしれないが、緊張していたのかよく覚えていない。式次第は次々と消化されていき、クライマックスに用意されていたセレモニーが始まった。歌えや踊れの催しの中、いよいよ最後の式辞になった。

ひとりひとりが小学生時代の思い出を語っていく。私の番になったときさすがに足が震えたが、つっかえることもなく無事にこなすことができ、最後の生徒の語りが終わると拍手がわき起った。

やがて校長先生の送辞や生徒代表の答辞が終わると、ついに卒業生退場である。みんなに続いて体育館出口に向かうのだが、このとき思わず涙がこぼれ出た。

その涙の意味は、大役を無事に務めたという安堵感よりも、楽しいことよりも悲しいことのほうが多かった学校生活がようやく終わりを告げたという脱力感から来たものだった。

驚いたのは、そのあと、くだんの村田先生が声をかけてきたことだ。突然だったので何を言われたかはよく覚えていないが、内容は「よくやったな、うまかったよ」的なお褒めの言葉だった。

これはあとで母から知らされたことだが、私の役割を変更したこの先生は、母が率いていたPTAのバレーボールチームの顧問もしていたという。リーダーである母とは当然互いをよく知る間柄であり、おそらくは頑張った母への遠慮もあって、私を抜擢したのではないだろうか。

多少事実と違えどもおそらくはそんなところだろう。親の七光りでひいきにされた、と考えるといい気持ちはしなかったが、ようやく私にも日の目を見る時期がきたのだ、そのための大役だったのだ、と思いたい気持ちもどこかにあり、後ろめたくはなかった。

こうして私の小学校生活は終わったが、その幕切れはそれまでの自分からの卒業をも意味していた。

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