サクラチル……

2014-1040268今日の伊豆はまた冬に逆戻りで、朝からなんとまた雪が降っています。

高地にある我が家ではこの前の大雪で積もった雪もまだ完全には融けておらず、もう3月にもなるのにこの雪で、一体ここは本当に伊豆なのか、と思ってしまうのですが、ここでの暮らしがまだ2年にしかならない我々にはこれが異常な状況なのかどうかもよくわかりません。

が、ここでの暮らしの長いご近所さんから伺った限りでは、今年の冬は少々例年とは違うようで、そうした異常気象に引っ越してきてごくわずかの時間の間に遭遇するというのも、きっと何か意味があるのでしょう。

一方、ここはこんなお天気なのに、テレビでは河津の早咲きのサクラがほぼ満開だと告げています。去年は、晴れた日を選んで二人して出かけたのですが、今年は先週急に入った仕事が忙しくて、もう見に行けないかもしれません。

ただ、フツーのサクラはまだまだこれからなので、そちらを楽しみにすることにしましょう。とはいえ、この寒さでは大幅に開花が遅れるのではないでしょうか。

この桜ですが、春を象徴する花として日本人には一番なじみが深いもので、俳句でも「花」といえば桜のことを指すのだそうです。春一番の梅に次いで、春本番を告げる役割を果たし、その開花予報、開花速報は多くのメディアをも賑わします。

話題・関心の対象としては他の植物を圧倒し、入学式や卒業式などの、例年3・4月に行われる式典を演出する花でもあるため、とくに強い印象を与えます。

色々なアンケート調査でも、好きな花として桜をあげる人が断トツに多いそうで、また、咲くときだけでなく、散って行くその姿にはかなさや潔よさ(いさぎよさ)を感じる人も多く、最も日本人の心の琴線に働きかける花といえるでしょう。

この桜の散りゆくさまの、はかなく、わびしいかんじは、古くから「諸行無常」といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でもあります。

江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜は「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神そのものだと言っています。

一方の「潔よさ」については、江戸時代以降しばしば武士道のたとえにされ、潔いことこそが、武士の模範と見たてられてきました。

無論、江戸時代には、武士だけでなく農民や町民もいたわけですが、士農工商の頂点に立つ侍が尊ぶ花なのだから右へ倣え、というわけでもなかったのでしょうが、その気分が伝染したのか、彼等もまた桜が大好きで、農地や町屋のあちこちに桜を植えてきました。

その「気分」は、明治時代以降も受け継がれ、五千円札にその肖像が使われた新渡戸稲造も著書の「武士道」」で、武士道=日本の象徴たる桜の花、とわざわざ冒頭に書き記しているそうです。

さらにこの気分は、明治、大正、昭和と続いた日本陸海軍にも受け継がれ、この武士道を軍の規律の中心においた旧日本軍でも、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

太平洋戦争末期に開発された、日本初のロケット戦闘機であり、かつ特攻兵器であった「桜花」に与えられたこの桜の意味は「華と散る」であり、戦死や殉職の暗喩です。

この殉職とは、一般に、特定の業務に従事する職員が、職務・業務中の事故が原因で死亡することを指します。先の太平洋戦争では、軍務こそがこの業務であり、そこで死ぬことは大変な名誉とされ、率先して散ることが美徳とされました。

とくに、日本軍においては、功績顕著な戦死者を階級の上で昇進させ、その死を称えました。この昇進のことを、とくに「特別昇進」と呼び、以後「特進」と略して使うようになりました。また、明治以降の日本では、こうした特進に値する殉職者はとくに、「軍神」として崇めたてられるような風潮も出てきました。

軍神と称された軍人としての代表としては、日露戦争における日本海海戦での大勝利を挙げた連合艦隊司令長官の東郷平八郎がもっとも有名ですが、このほかにも旅順港攻略で功績があったとされる乃木希典大将もまた、軍神とされています。

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「軍神」というのは、当初は公式のものではなく、主にマスコミが用いていた尊称です。

しかし、昭和13年5月17日に、それまで30回以上の戦闘に参加してきた西住小次郎中尉が、流れ弾に当たって戦死して以降、軍が公式に指定するようになりました。軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになり、「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていきました。

この西住中尉の話は、菊池寛が小説化し、「西住戦車長伝」のタイトルで東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載され大好評となり、1940年(昭和15年)には松竹により映画化され、上原謙が西住役として主演しています。

軍から公式に「軍神」として指定されたのは西住中尉が初めてであり、以後、日本陸海軍においては、「死して国を守った」彼等を神として尊敬するよう強要するようになっていきます。精神的な指導が行なわれるようになり、皇室に忠誠を尽くした彼等を日本史上の人物であるとして神格化していきました。

ちなみに、この西住小次郎中尉も死後、大尉に昇進しています。この軍神が正式な称号とされるより更に以前、功績があった死者を「特進」させるという風習が根付いたのは、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐が最初です。

実は、日本では元々戦死者を特進させる習慣は無かったそうですが、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐、橘周太陸軍少佐などが、死後それぞれ中佐に一階級特進したのがその嚆矢となりました。

広瀬少佐のことはご存知の方も多いと思います。日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死しました。

決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに「軍神」とされ、郷里の大分県竹田には、広瀬神社まで建立されました。広瀬少佐はのちにこの功績が称えられ、「中佐」に昇進しています。

一方の橘周太少佐のことは、あまり知らない人も多いでしょうが、この人は海軍ではなく、陸軍の人です。

日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長を務めていましたが、首山堡という敵の堅固な要塞の攻略に当り、最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げたことで有名になりました。この人もまた郷里の雲仙に橘神社という神社が建てられ、やはりその死後、中佐に昇進しています。

その後も戦争が起こるたびに、こうした「軍神」や「特進」の風習は続いていき、昭和に入ってからの第一次上海事変時には、「爆弾三勇士」と呼ばれた三人の軍人が出ました。

爆弾三勇士というのは、中国の国民革命軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した、久留米の独立工兵第18大隊の3名の兵士のことで、彼等もまた、死後に特進されて、一等兵から伍長へと昇進しました。

ところが、一等兵から上等兵を飛び越して、伍長へ「二階級特進」というのはそれまで例がなく、これが初めてのことでした。それ以降、旧日本軍においては、功績抜群の戦死者は全軍布告の上、二階級も階級が上がる、というのが慣例になっていきました。

戦後の現在になってからも、自衛官、警察官、海上保安官、といった職務階級が明確な職業においはて、殉職に伴って在職階級から二段階昇進させる制度は、慣行として残っています。

名誉・叙勲・その他の遺族に対する補償も特進した階級に基づきなされ、この結果「二階級特進」は、しばしば単なる「殉職」とは別のより位の高い称号とみなれることも多いようです。当然のことではありますが、死亡退職金や遺族年金は、特進後の階級を基準とするため、遺族はより多くの手当を受けることができるようになります。

ただし、現在では、自衛官の場合は「昇進」という言葉は使っておらず、「昇任」であり、こうした殉職の場合には、「特別昇任」として1階級だけの昇任が普通だそうで、戦前のような二階級特進(特昇)はごくまれのようです。

ま、これは大きな戦役がないからであり、あまりあってほしくないことですが、今度もし日本が戦争に巻き込まれるようなことがあれば、こうした戦争での二階級特進はありえるかもしれません。

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ところで、残念ながらというか、幸いにも、というべきなのかもしれませんが、私の親族には、戦前、戦後ともこうした二階級特進を受けるような、殉職者はいません。

が、私の母方の祖父は、長年の日本海軍の艦隊勤務で功績があったとされて、勲章を貰っています。勲章といってもそれほど階位の高いものではありませんでしたが、本人は無論のこと、祖母もこれを大変誇りにしていたようで、その勲章は今も郷里の山口の桐ダンスの中に大切に保管してあったかと思います。

ただ、この祖父は、第二次世界大戦では参役していません。第一次大戦直後ころに入隊し、その後長らく艦隊勤務を続けていましたが、戦争が始まる直前に予備役として最前線を退いていました。

とはいえ、軍務についたのはかなり長かったようで、その中には、長門や扶桑といったそのころの日本を代表する大型軍艦での勤務もあったようです。その勤務態度は結構高く評価されていたようで、その軍務の傍ら、官費で海軍の「潜水学校」へも行かせてもらっています。

「海軍潜水学校」は、大日本帝国海軍における潜水艦乗組員を養成する教育機関のことで、水上艦や潜水艦の勤務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校し、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得させた学校です。

他の術科学校が横須賀鎮守府の管轄であるのに対し、潜水校は呉鎮守府の管轄となっていて、山口出身であった祖父もまた、比較的郷里に近いこの広島の地で潜水艦についての知識を習得したようです。

他の術科学校とはまったく交流がない特殊な学校だったようで、これは何故かと言えば当時の潜水艦というのは、現在のジェット戦闘機なみの、トップシークレットの塊のような存在であり、その技術の流出を当時の海軍が極端に嫌っていたためです。

とはいえ、他の術科学校と同様に、普通科・高等科・専攻科・特修科の4コースが設定されており、のちに潜水艦長養成コースとして甲種が特設されました。また、すべてのコースが兵科と機関科の二本立てで実施されていました。

残念ながら、祖父からはどういうコースを履修していたのかは直接聞かされていませんが、射撃訓練をよくやらされたと語っていたので、おそらくは普通科の兵科ではなかったかと思われます。

ちなみに、この祖父はかなりの射撃の名手だったようで、この潜水学校当時なのかその後かはよくわかりませんが、何かの大会で優勝して、賞を貰っています。

戦後はその射撃の腕を生かし?、山口の山奥で、猪や兎の狩りによく出かけていたようで、幼い私は、そうした獲物を見るたびにキャッキャと喜んでいたと母が話してくれたことがありますが、無論、遠い昔の話で自分では覚えていません。

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ところで、この潜水学校を卒業後、祖父は予備役に入るまで潜水艦ばかりに乗るようになったようで、この潜水艦乗りとなった祖父よりもかなり先輩の潜水艦乗りで、やはり軍神とされた人物がいます。

大日本帝国海軍の佐久間勉という人で、1910年(明治43年)に、艦長を務めていた「第六潜水艇」という潜水艦の潜航訓練中にこの船が沈没した際の勇敢な行いが絶賛され、以後、軍神とされるようになりました。

この「事故」が起きたのは、1910年(明治43年)のことで、奇しくもその場所は、祖父の出身地と同じ山口県の新湊沖でした。

新湊というのは、錦帯橋で有名な岩国の近くにあった小さな港町だったようで、正確な位置を調べてみたのですが、よくわかりません。岩国沖は比較的推進の浅い海が広がっているため、まだ性能の低かったこの当時の潜水艇(潜水艦と呼ぶのもおこがましいほどの小船)はここら一帯でよく訓練をしていたのでしょう。

第六型潜水艇というのは、アメリカ合衆国の発明家ジョン・フィリップ・ホランドが開発に携わった潜水艇で、この当時日本に技術輸入されて建造され、「ホランド改型」と呼ばれていました。

ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造され、コピーながら日本で初めての潜水艦建造であり、竣工までに1年半がかかって、1909年(明治39年)に竣工しています。

原型のホランド型のコピーといわれ、船体はより小型で、たった76トンしかありませんでした。これは輸送船に運んで移動し、そこから運用する計画があったためといわれています。

1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かいました。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様です。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生しました。ところが、浸水の際に作動するはずの閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖をしようと手間取っている間に17メートルの海底に着底してしまいます。

第六潜水艇は日ごろから長時間の潜航訓練を行っていたため、同伴していた母艦の歴山丸の船員も、当初は浮上してこないことを異常と思われなかったようです。また、後日の調査では、この母艦の見張り員は、異常と報告して実際には何も問題がなかった場合、佐久間少尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、と陳述しました。

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この艦長の佐久間勉という人は、福井県三方郡八村(現・若狭町)の出身で、22歳でこの当時の海軍のエリート校、海軍兵学校を卒業していますが、この時の同期には後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいました。

兵学校卒業後もわずか二年で海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいました。

日露戦争後は水雷術練習所で水雷術を学び、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908年に29歳になったとき、第六潜水艇隊艇長を命ぜられました。

日本海海戦の経験者でもあり、この当時の海軍は、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮がありました。このため、一船の船長ともなると、部下を叱咤して命に従わせようとする者も多く、この佐久間船長もこわもてで通っていたようです。

佐久間少尉の怒りを買うのが怖かった、と陳述したこの見張も、さすが長時間の間浮上してこない潜水艇を以上と思い、上官に報告。これを受けて、歴山丸は呉在泊の艦船に、これは「遭難」である旨を伝達し、自らも救難作業を開始しました。

その結果、翌日の16日(17日説もあり)に第六潜水艇は引き揚げられ、内部調査が行われました。しかし、既に艇長佐久間勉少尉以下、乗組員14人は亡くなっており、うち12人は配置を守って死んでいましたが、残り2人は本来の部署にはいませんでした。

不審に思った調査員が詳しく艇内を探したところ、2人は、機関室でみつかり、そこにあったガソリンパイプの破損場所で最後まで破損の修理に尽力していたことがわかりました。

母艦の歴山丸の艦長は、この第六潜水艇の訓練においては、まだ性能の安定していない潜水艇でもあり、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止していたといいます。

ところが、艇長であった佐久間少尉は、ガソリン潜航を母船に連絡せずに行っていたようで、その後事故調査委員会において、歴山丸の艦長は佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼しており、このために禁令を無視したのではないか、と述べています。

この事故調査委員会ではまた、このときの潜航深度は10フィート(約3m)であったと記録しており、この深度は、シュノーケルの長さよりもかなり深い潜航深度でした。

このため、母艦からの伝令ミスによって、佐久間船長がこの深さまで潜ったのではないかという指摘もなされたようですが、この調査委員会では、実際にそのような命令ミスがあったのかどうかについては、明らかにしていません。

結局、母艦からの指示ミスだったのか、船長の独断により招いた事故であったのかはうやむやなまま、調査は打ち切られており、また母艦の見張り員が長時間の報告を怠った責任も問われず、この見張り員に対しても同情すべき点が多いとして処分は行われませんでした。

このように、この事故において、誰もが処分されなかった理由としては、亡くなった佐久間艇長以下の死に際を美化しようとした動きがあったことが想像されます。

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実は、佐久間少尉は、艇内にガスが充満し死期の迫る中、長文の遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していました。

この遺書で佐久間勉少尉は、関係者への謝罪の言葉を述べるとともに、事故発生からの経緯を詳しく記し、死期迫段になってようやく自身の状態を書きながら絶命していました。

艇内にガスが充満して死期が迫る中、その遺書では、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いています。

謹ンデ陛下ニ白ス 
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

自分の部下たちが死んだのち、その遺族たちの生活が窮することないよう、ご配慮願う、今の私の頭にあるのはそれだけです、と天皇陛下に訴えたこの文章には、さすがに心を打たれるものがあります。

その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と、この当時の海軍大臣である斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して佐久間少尉は絶命しました。

佐久間少尉が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだったといい、これが沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された際には、当時の国内で大きな反響を呼びました。やがてこの話が海外に伝わると、諸外国でも大きな反響を呼び、アメリカなどでは、議会議事堂にこの遺書の写しが陳列されたほどでした。

この事故が起こった時より少し前には、イタリア海軍で同様な事故がありました。その後この潜水艇が引き上げられたときに行われた調査では、乗員の多くが脱出用のハッチに折り重なった状態で発見されました。

このとき出口付近で発見された水兵たちには、他人より先に脱出しようとして乱闘を起こしたような痕跡が発見され、その死の間際にかなりの醜態を晒していたことなどが明らかにされました。

このほかのヨーロッパ諸国の海軍でも似たような事故が起きており、これらのケースでも脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生したケースもありました。

こうした過去の事例を知っていた帝国海軍関係者は、この第六施潜水艇の事故においても、引き揚げられた潜水艇の中で、同様の醜態を晒していることを心配していたそうです。

が、蓋を開けてみると、出入口への殺到などは全く見られず、船員たちは全員が持ち場でそのまま息絶えており、持ち場を離れていた二人も、最期まであきらめずに潜水艇を修繕しようとして機関室で命を落としていたことがわかりました。

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さらに佐久間艇長が残した遺書の中には、冷静に判断した事故原因の説明だけでなく、帝国海軍の潜水艦開発に関する意見まであったといい、上述のような乗員遺族への配慮に関する事柄までしたためてあったわけです。

当然、帝国海軍としても、「潜水艦乗組員かくあるべし」と内部でほめたたえましたが、さらにはこれを喧伝すべく、この事件を広く公表しました。

おそらくはそうした中で、佐久間少尉は無論のこと、母艦の関係者の責任問題云々を表立たせるのは得策ではない、という意見が出されたことは想像にかたくなく、関係者の処分についても闇に葬るという操作が選択されたのでしょう。

こうして、佐久間船長以下は、軍神として扱われるようになり、修身の教科書(戦前の道徳教育に関する教科書)や軍歌としても広く取り上げられるようになっていきました。

海外などでも大いに喧伝された結果、各国から多数の弔電が届いたといい、前述のとおり、合衆国議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版まで設置されました。

ちなみにこの銅版は、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかったといいます。さらに、イギリス海軍においても、その王室海軍潜水史料館には佐久間少尉と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦後の現在でも展示され続けているそうです。

ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間少尉を挙げており、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と、戦後1986年に岩国で行われた第六潜水艇の追悼式でスピーチしています。

この当時の修身の教科書でのこの話のタイトルは、「沈勇」だったそうで、これは沈没した船に乗船していた勇者というほどの意味でしょう。夏目漱石もまた、事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」という随筆で、佐久間の遺書とその死について言及しており、いかにこの当時の反響が大きかったかがうかがわれます。

今日でも佐久間少尉の出身地の福井県では、「遺徳顕彰祭」という追悼式が毎年行われているそうで、毎回、海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われています。

引き揚げられた第六潜水艇のその後ですが、その後修理が行われて使い続けられ、9年後の1919年(大正8年)には、第六潜水「艦」に改名されましたが、その翌年の1920年(大正9年)12月1日に除籍。

その後は、上述の私の祖父も通った呉の潜水学校で「六号艇神社」として保存されていたようですが、戦争に突入すると、物資不足のおりから船体は桟橋に供用されました。しかし、戦後の1945年の暮れ、進駐軍の命によって解体されたそうです。

その一部の部品は、いまだ海上自衛隊の潜水艦教育訓練隊潜水艦資料室で保存されているそうで、このほか、呉市内にある「鯛乃宮神社」には第六潜水艇殉難者之碑が残っており、ここでも毎年、事故のあった4月15日に追悼式が行われているそうです。

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殉職した佐久間少尉もまた、その死後、二階級特進で、大尉となりました。以後、戦中戦後に至るまで、殉職者の特進は、引き継がれ続けており、自衛隊員や海上保安官はいうまでもなく、警察官や消防職員はもとより、刑務官や入国警備官、税務署員に至るまで、殉職者には、昇進や特進が与えられています。

一般企業や工場においても、勤務・作業中の事故が原因で死亡した場合は殉職と呼び、この場合、「産業殉職者」として顕彰会が建つこともあります。また、その所属する組織から昇進や特進が与えられ、篤い遺族手当が報ぜられる場合もあるようです。

とはいえ、殉職には当然ながら、昇進や特進の処置がなされないものもあります。民間業者が行う土木工事などでは、殉職者が出ることは珍しくなく、青函トンネルで34名、黒部ダムでは171名、東海道新幹線建設に至っては、210名、などの多数の殉職者が出ていますが、その全員が昇進などの処遇を受けたというわけではありません。

また、一般のスポーツ選手が競技中の事故で死亡した場合や、サラリーマンが通勤途中に交通事故などで死亡した場合には通常は殉職扱いにはなりません。ただ、競輪や競馬、競艇といった公営スポーツの場合には、どんなケースがあるかは知りませんが、一応、殉職の規定があるそうです。

「病死」の場合も一般には、殉職扱いにはなりません。

しかし、広島市への原子爆弾投下で警察官と警察事務職員ら233人が即死し、その後も原爆症により病死する者が1946年までに119人いましたが、これらは殉職として扱われています。長崎も同様であり、広島の被爆から19年後の1964年には、原爆症で死亡した警察官が、一階級特進で警部になっています。

最近では、2003年11月29日、日本政府はイラクにおいてテロリストにより射殺された日本大使館の外交官(参事官、三等書記官の2名)に対して二階級特進に相当する職階の特進が行われ、このとき亡くなった参事官は、「大使」に昇格し、三等書記官は一等書記官になりました。

そもそも職務階級制度そのものが存在しない外交官では前例のない、異例なことだったそうですが、これは任地のカントリーリスクが際立って高い状況などを勘案してのものだったといいます。

あまりあってほしくないことではありますが、今後、自衛隊のPKO派遣などを始めとして、海外で活躍する日本人が増えるのに伴い、こうした人達が海外で殉職するケースも多くなっていくのかもしれません。

日本人としてのその散り際に似つかわしいのは、やはりなんといっても桜でしょう。

冒頭でも述べましたが、本居宣長は桜を「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

もののあはれ(物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つとされ、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁のことをさします。

もともとは、苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念でもありました。

本居宣長は「もののあはれをしる」ことは同時に人の心を知ることであると説き、これによって人間の心への深い洞察力を求めました。また、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、美を見出したのです。

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とはいえ、すぐに花が散ってしまう桜は、家が長続きしないという想像を抱かせるためか、江戸期以前の武家社会でも、意外と桜を家紋とした武家は少ないようです。しかも日本ではサクラは公式には国花ですらありません。

とはいいながら、事実上、国花のように扱われており、旧帝国海軍や警察官の徽章は、他国なら星形を使うべき所を桜花で表しています。現在の自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用した意匠は数多いようです。

1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインであり、このほかにもポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲームなど、桜は様々な作品のモチーフや題材にもなっています。

特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は「桜ソング」として知られています。個人的な好みで選ぶとすれば、以下のようなものがあるようです。

「桜坂」(福山雅治)
「SAKURAドロップス」(宇多田ヒカル)
「さくら(独唱)」(森山直太朗)
「さくらんぼ」(大塚愛)
「さくら」(ケツメイシ)
「桜」(コブクロ)
「桜色舞うころ」(中島美嘉)

さて、今年もこうした曲のメロディーが巷に流れ、桜が満開になる季節が近づいてきました。

財団法人「日本さくらの会」というのがあるそうで、この団体が決めた「さくらの日」は例年、3月27日だそうです。

去年は、伊東のさくらの里や、松崎の那賀川のサクラを見に行きましたが、今年はもっと別なところも訪問したいと思っています。

みなさんおお気に入りのサクラの名所はどこでしょうか。良いところがあれば、ぜひお教え願いたいものです。

最近、最新のブログについては、冒頭のタイトル右の吹きだし、及び最下段の ”leave a reply” からコメントの記入ができるようにしてありますので、よろしかったらご参加ください。

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ロシアは女尊?

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なんということでしょう。

ここは本当に伊豆か?という景色が眼下に広がっています。

これでもだいぶ融けたのですが、昨日の朝には我が家の目の前の道路は完全に雪で陥没。苦労してクルマを出したのですが、それでもウチの車が四輪駆動でスタッドレスを履いていたから出せたのであって、同じ別荘地内では、当分買い物にも行けないお宅もかなりありそうです。

しかも、この降雪の影響なのか、伊豆市周辺ではあちこちで停電が発生しているようで、昨夜我が家でもここへ引っ越してきて初めて2時間ほど停電しました。

また、昨日もそうでしたが、今朝も防災無線で、伊豆市から中伊豆方面へのバスは終日運休だとのお知らせがありました。その他の路線でも今日もまだ運休しているダイヤも多いことでしょう。

中伊豆にあるリハビリ温泉病院に今、骨折した母が入院しているのですが、今日、そこへ辿りつけるかどうか、心配です。

あちこちで除雪車が引っ張りだこになっているようですが、もともと伊豆はこれほど大雪が降るような場所ではなく、除雪車そのものの台数も限られているようです。当分伊豆の交通網は混乱したままでしょう。回復するのは明日以降でしょうか。

この連休を利用して、伊豆方面へのお出かけを予定している方、くれぐれも道路情報に気をつけるとともに、冬用タイヤをお持ちでない方は、チェーンをお忘れなく。

さて、テレビをつけてみると、折りも折り、そこにも同じ雪国の風景が広がっています。先週末から始まったソチオリンピックです。彼の地の絶景とともにいろんな競技の様子をほとんどのテレビ局が放映しています。

内も外もまるで雪だらけ。まるで別世界に送り込まれたようで、不思議な気分です。

ところで、今日2月10日は、奇しくもちょうどこのオリンピックを開催しているロシアと日本が戦った日露戦争が勃発した日です。

この戦争は当時の大日本帝国と帝政ロシアとの間で、朝鮮半島と満洲南部の覇権をめぐって発生したものです。

ちょうど110年前の今日、すなわち1904年(明治37年)2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされました。しかし、この宣戦布告の二日前の8日には、すでに戦闘は始まっており、現中国の旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)が行われていました。

戦闘は、その後、旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦と続き、クライマックスともいえる日本海海戦において日本の連合艦隊がバルチック艦隊を打ち破り、これをもってトータルでは日本が辛くも勝利するという形で終了。

両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年(明治38年)9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

その後、ロシア帝政は、革命によって滅び、共産党によるソ連邦の形成と崩壊後、現在のロシア連邦に落ち着いており、今回のオリンピックも、プーチン大統領が率いるこの新生ロシアの旗のもとに史上初めて行われた冬期オリンピックということになります。

開催地であるソチは、黒海に面したヨーロッパでも有数のリゾート地です。スターリンをはじめ、歴代のソビエト連邦やロシア連邦の指導者たちの別荘があり、プーチン大統領もソチの別荘で毎年のように夏期休暇を過ごしているそうです。

また、イタリアの政治家シルヴィオ・ベルルスコーニ氏も休暇を過ごすために毎夏ソチを訪れているといいます。雄大なカフカース山脈の他にも、美しい砂浜や温暖な気候による亜熱帯風の植生に恵まれ、帝政時代に築かれた美しい公園やスターリン時代の様々な建築物などは、休暇を過ごす人々に大変人気があるといいます。

ところで、日露戦争当時、ロシア帝国はこのソチが面する黒海に「黒海艦隊」という艦隊を持っていました。日露戦争勃発後、これを遠く極東まで廻航させ、日本海海戦に参加させようという計画がありました。

しかし、当時日英同盟を結んでいたイギリスなどの圧力により、黒海艦隊はボスポラス海峡を通過することができず、帝政ロシアは結局この計画を断念。それでもなんとか、黒海から軍艦を出そうとしましたが、結局商船に偽装した仮装巡洋艦数隻を脱出させることしかできませんでした。

このため、黒海艦隊は日本海海戦には参加できず、そのせいもあってヨーロッパにあったロシア艦船で日本海海戦に参加できたのは、北欧のバルト海にあったバルチック艦隊だけになりました。

その勢力が減った分、日本はこの戦闘を有利に展開することができましたが、黒海艦隊がもし参加していたら、日本海海戦における日本の圧勝はなかったかもしれません。

無論、この海戦において日本海軍は圧倒的な兵員の錬度と卓越した戦術を持っており、また下瀬火薬というこの当時世界最高威力をもった炸薬を入れた砲弾を使用しており、それらの総合力によってこの勝利に寄与したということは歴史家の多くが認めるところでしょう。

日本海海戦によって、バルチック艦隊はほぼ全滅し、ロシアは敗北を認めてポーツマス条約の締結に合意しましたが、この敗戦はその後の帝政ロシアの衰退を招く要因となり、ロシア革命を許すことにもつながっていきました。

日露戦争において、黒海艦隊はとうとう出動することはありませんでしたが、この革命後にもたいした出番はなく、その後のソビエト連邦時代に至るまで、ほぼ無傷のまま大部分が温存されていきました。

革命前のロシア帝国時代には、この黒海艦隊の兵員は多くがウクライナ人で占められており、1917年の時点で構成員の80 %を占めていたそうです。このため、ロシア革命後では黒海艦隊は長らく独立状態に置かれ、反ロシア共産党派についた時期があったといいます。

しかし、その後ソ連邦に接収され、1965年ころからは段階的にその割合は減ぜられ、ロシア人の割合が上昇していきました。

ソ連邦になって、アメリカとの冷戦期に入ってからは、この黒海艦隊にもようやく出番が回ってくるようになり、しばしば黒海から地中海へ艦艇を継続的に進出させて、アメリカ海軍やイギリス海軍を牽制する役割を果たすようになりました。この時期、米英海軍艦艇との接触事故も何度か発生しています。

やがて、このソ連邦も1991年に改革派のボリス・エリツィンが台頭するようになり、連邦を構成していた各共和国は、そろって連邦を脱退する中、ソ連邦は解体の方向に向かい始めました。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は事実上崩壊します。

その過程において、黒海艦隊の主要基地であったセヴァストポリ軍港が、ソ連邦から独立したウクライナの領地になったことから、艦隊の帰属が宙に浮くことになりました。

セヴァストポリというのは、ソチから西へ500kmほど離れた黒海のほぼ中央に突出するクリミア半島の先端に位置する町です。現ウクライナの首都は内陸にあるキエフですが、このセヴァストポリはこれに次ぐ中堅クラスの都市です。

黒海艦隊の帰属をめぐっては、長らく新生ロシアと独立したウクライナの二国間で協議が進められた結果、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれました。この協定により、黒海艦隊は2017年までセヴァストポリに駐留することが認められ、ロシア海軍はウクライナ領に基地を残すことに成功しました。

しかし、その期限もあと3年と迫っており、その存続は注目を集め始めているところです。ただ、現在のウクライナは親露派の地域党党首、ヤヌコーヴィチ氏に率いられており、おそらくはこの地での黒海艦隊の残存は決定的でしょう。

この黒海艦隊が縄張りとする黒海は、言うまでもなく、ロシアにとってはヨーロッパ各国からの侵略を防ぐうえでは最重要な海であり、そこに駐留する黒海艦隊もまた非常に重要な軍隊です。

しかし、黒海艦隊はソ連邦の崩壊後、十分なメンテナンスが行われなかったことから、老朽化が進んでいるといわれ、約40隻の在籍艦艇中、稼動状態にあるものは20隻程度でしかないといわれます。

しかも、黒海の東部には、ロシアから独立後もかつての旧主国との争いの絶えないグルジアがあります。2008年8月のような武力紛争が再び発生した場合には黒海艦隊が海上優勢の確保や輸送を担わなければなりません。

このためロシア海軍は今後10年間で黒海艦隊の近代化を重点的に進める予定で、フリゲート艦や潜水艦、大型揚陸艦を含む20隻を新たに配備して、兵力増強を図る予定だといいます。

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ここで、この黒海の地理的な側面をみてみましょう。

黒海はヨーロッパとアジアの間にある内海であり、マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がっています。黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、グルジアです。

どちらかといえば、日本人には馴染の薄い地域といえますが、その南岸のアナトリア半島を「小アジア」と呼んでいるように、ここから東へ向かうシルクロードを通じて、かつてはアジアともつながりの強かった地域です。

面積は約44万平方キロで、これはイベリア半島に位置するスペインとほぼ同じくらいの面積になります。意外なことに、その最大水深は2206mもあります。

「黒海」の名称はその黒味を帯びた海水に由来します。ちなみに地中海はトルコ語でアク・デニズ (白い海)というそうです。

その名の由来である、黒い色をした海水は、硫化鉄によっててきているとする説と、地中海よりも豊富な微小藻類によるとする説があり、なんとまだその成因ははっきりわかっていないそうです。

いずれにせよ、その層水は充分な酸素と栄養塩を含むため豊かな生態系を擁しており、さかんに漁業も行われています。漁獲高は年25万トンから30万tに上り、その3分の2がアンチョビで、残りはアジやイワシ、ニシンやチョウザメなどです。

これらの魚介類は日本にも輸出されており、スーパーなどで、「黒海産」の表示のある食材を見たことがある人も多いでしょう。無論、沿岸諸国にとっても豊富な海の幸を与えてくれる良好な漁場です。

今回のオリンピックが行われるソチだけでなく、あちこちにリゾート地があり、ヨーロッパ人にとっての別荘地帯でもあります。黒海沿岸全域が温暖な気候であり、とくに北岸のクリミア半島やソチ東部の山側にあたるコーカサス地方などはとくに過ごしやすい気候を持っています。

このうち北岸を中心とするロシア領では、ロシア帝国時代からリゾートとしての開発が進められ、特にソヴィエト連邦時代には、ヨーロッパなどの他国への渡航が難しかったこともあって、唯一のリゾート地として急速に開発が進みました。

特に大きなリゾート地であったヤルタ(現ウクライナ領)では、1945年にヤルタ会談が行われ、第二次世界大戦後の世界の枠組みが決められました。ヤルタのほかにも、ロシアやルーマニア、ブルガリア、グルジア領内には多くのビーチリゾートが存在します。

ソチもまた、ヤルタと並ぶ大リゾート地です。現職大統領であるプーチン氏のお気に入り地でもあり、ここが冬季オリンピックの開催地として選ばれたのも、「私がソチを五輪の地に選んだ」と公表するほど、プーチン氏がここにぞっこんであったためと言われています。

黒海南部のアナトリア半島の大半はトルコの領内になります。その南西には、トルコの経済、文化、歴史の中心地である、イスタンブールがあり、この地には古くには東ローマ帝国、オスマン帝国の首都があって栄えました。このことから、黒海地域の歴史はここを中心に作られたといっても過言ではなく、かつ、何回もその支配者が変わったことから、非常に複雑な歴史事情を持ちます。

現在オリンピックが行われていたソチも、かつてはオスマン帝国の領土でしたが、その衰退に伴い、現在のロシアに吸収されたという経緯を持ちます。

黒海には、これよりはるか昔の、紀元前7世紀ごろから、ボスポラス海峡を通ってギリシア人が入植し、沿岸各地に居住地を形成して植民を始め、タナイスやパンティカパイオンといった植民市が各地に建設されていきました。

これらの植民市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人から穀物や奴隷を購入し、ぶどう酒や武器などのギリシアの産物を取引して力をつけていきました。そして紀元前5世紀にはこれらの植民市を統合して「ボスポロス王国」が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていきました。

ボスポロス王国は、クリミア半島を中心にギリシア人の植民者と現地人らによって形成された国家で、黒海交易の中心として古代世界で繁栄を誇りました。

現在イスタンブールのど真ん中を通る、ボスポラス海峡の名は無論、これに由来しています。

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えますが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放ちました。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされています。

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この黒海の歴史をさらにこのギリシャ神話時代にまで遡ると、この当時黒海は、「アマゾン海」と呼ばれていたようです。黒海沿岸を含むギリシャより北方の未開地には、女性だけの部族「アマゾーン」がいたという伝説があり、現にトルコ沖の黒海には「アマゾン島」という小さな島が現存するそうです。

アメリカに本拠を持つ、世界最大のネット通販サイト、Amazon.comもまた、このアマゾンに由来しています。もっとも、こちらは、その創業者が南アメリカのアマゾン川にちなんでつけた社名です。

アマゾン川の流域にも女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたという説があるほか、その初期の探検者のスペイン人が、ギリシア神話の女人族アマゾネスのことを知っていて、そう命名したという説があります。

ちなみに、Amazon.comは、最初、創業者のジェフ・ベゾスによってCadabra.com(カタブラ)という名前をつけられていたそうです。この cadabra はおまじないの、「アブラカダブラ」から採られたものです。ところが、開業直前にベゾフ氏が、このベンチャー計画についてある弁護士と電話で話した際、この弁護士が、” What? cadaver? “と聞き返したそうです。

実はこのcadaverは、英語で死体の意味であり、ベゾフはこの電話によって以後この名前に嫌気がさし、名前をアマゾンに変更した、という逸話が残っています。

この黒海周辺に住んでいたとされるアマゾーンという女部族の話は、実はほとんど伝説に近いものです。ギリシャ神話が起源だともいわれており、神話上では、軍神アレースとハルモニアーという女神を祖とする部族であるとされています。

彼等(彼女ら)が住む黒海沿岸は、当時のギリシア人が住まう地中海地方よりも、かなり北方に位置しました。ギリシア人たちはこの未開の黒海沿岸地域のことを多少の侮蔑を含めて「アマゾン」と呼び、現在のトルコ付近であるアナトリア半島や北アフリカに実在した母系部族のことも「アマゾーン」と呼んでいたようです。

ただ、あまりにも古い話で歴史的な根拠も希薄であり、ほぼ神話に近い話と考えてよいでしょう。

が、神話上では、アマゾーンは馬を飼い慣らし弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していたとされています。人類で最初に馬を飼い慣らした部族、ということになっており、その後アジアにも広がる、騎馬民族の元祖だともいわれています。

アマゾーンは弓の他にも、槍や斧、半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中でも、多くの戦闘に参加しています。

基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わりました。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷としたといい、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたともいわれています。

古い絵画には、ウクライナを中心にその昔活動していた遊牧騎馬民族である「スキタイ人」によく似た姿で描かれているようです。現代のレオタードのような民族衣装を着ており、これに近い民族衣装を持つ、現在のウクライナ人の先祖とみなす人もいるようです。

この「アマゾーン」の語源ですが、弓などの武器を使う時に左の乳房が邪魔となることから切り落としたため、否定語である”a” と「乳房」の意味の “mazos” の組合わせをもって、「乳無し」と呼ばれたことからとされています。

このように、アマゾンは、かなり勇ましい部族だったようです。このため、現在でもアマゾーン、アマゾネスといえば、強い女性を意味する言葉としてよく使われます。

1973年に製作されたイタリア・フランス・スペインが合作で作った、イギリスのテレンス・ヤング監督作品の「アマゾネス」もこの伝説に着想を得て作られたものです。

そのストーリーですが、最強の女武族アマゾネスの女王がギリシャ軍の男兵士と恋仲になり、やがて二人は結ばれます。

しかし、元々このギリシャとアマゾネスは敵対関係にあり、かなわぬ恋は、やがて、両国の武力紛争には巻き込まれていきます。アマゾネスは、ギリシャ軍に対し宣戦を布告し、こうして血で血を洗う戦いが始まりますが、戦力豊富なギリシャ軍の前に女戦士たちは次々と倒れていきました……

この映画では、異性同士のからみだけでなく、アマゾネス同士のレスビアンの関係も生々しく描写されていて、大ヒットはしなかったと思いますが、この当時結構話題になったような記憶があります。

ギリシャ神話においては、黒海沿岸にトロイアという国があったことになっており、ここをギリシャ人が侵略したことき、アマゾーンはトロイア側についています。この戦争は「トロイア戦争」と呼ばれており、「トロイの木馬」の話で有名です。

ギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、トロイアは巨大な木馬を作って人を潜ませ、わざと負けてこれを敵に戦利品として持ち帰らせた後、夜中に木馬から兵士を出して敵をやっつける、というあれです。

このときトロイア側についたアマゾーンもまた女王ペンテシレイアに率いられ勇敢に戦いましたが、女王はギリシャの英雄アキレウスに討たれてしまいます。

このときアキレウスは死に際のペンテシレイアの美しさを見て恋に落ち、彼女を殺したことを嘆いたという話がギリシャ神話にもあり、上の映画アマゾネスもまた、こうしたギリシャ神話をネタにしたのでしょう。

ところで、このアマゾネスの話にもあるように、古来から実は女は男より強い、ということがよく言われます。男尊女卑ではなく、女尊男卑というのは、古代の日本では当たり前であり、古くは邪馬台国を治めていたのは卑弥呼という女性であり、その後も女性天皇は頻繁に歴史に登場しています。

現代においては、性差別に関しては「男性が加害者、女性が被害者」という構図で語られることが多いものです。が、「男性差別」ということも、最近はよく話題として取り上げられるようになりました。とはいえ、男性差別は女性差別に比べてとかく矮小化されて扱われることもまた多いようです。

が、真に男女平等を達成しようとするならば、男性差別は女性に対する性差別主義と同じくらい真剣に受け止めなければならないというような、まことしやかな主張もあって、インターネットなどでは男性差別に関する議論で大いに盛り上がっているサイトもあるようです。

こうしたサイトで取り上げられている、男性差別の具体例としては、例えば、メイル・レイプ、逆レイプというものがあります。女性が男性に暴力を加えるというもので、これは実際にそういうことがあるかどうかは別として、こうした暴力を取り締まる法律としては、刑法第177条に「強姦罪」というものが規定されています。

ところが、この法律では、女子に対する強姦の規定だけしか存在せず、逆に男性がレイプされた場合にはこの法律は適用されません。

このことは、国連の自由権規約委員会も指摘しており、この法律の定義の範囲を拡大して、性差別是正の観点により男性に対する強姦も重大な犯罪とするよう、同委員会は日本政府に勧告しているといいます。

このほか、助産師については、保健師助産師看護師法では助産師資格についての規定がありますが、第三条にて資格対象を女性のみに限定しており、男性差別の観点から疑問が呈されています。

また、離婚時の親権をめぐっても、子供の父母が離婚し親権をめぐって訴訟が提起された場合、特段の事情がないかぎり、父親側より母親側に子供の親権が与えられることが圧倒的に多いといわれています。

このほかにも、遺族年金の支給対象において妻は条件がないのに対し、夫は55歳以上との条件があり、また、配偶者を亡くした際に支給される遺族基礎年金においては、子を持つ妻が支給される対象とされ、子を持つ夫は支給の対象とされません。労働災害、遺族年金についても同様です。

さらに、児童扶養手当についても、2010年7月までは児童扶助手当が母子家庭には支給されますが、父子家庭に対しては児童扶養手当が支給されませんでした。がこれは、父子家庭を不当に排除しているとの批判もあり、2010年8月に児童扶養手当法が改正され、父子家庭に対しても支給されるようになりました。

教育の世界についても男性差別はあるといいます。

例えば、九州大学は、2012年度の理学部数学科の入学試験後期日程において「女性枠」を導入しようとしていましたが、男性差別であるとの批判が多数寄せられたため、2011年5月19日に導入の取りやめを決定しています。

また、日本の大学に男子校は存在しないのに対し、女子大学は多数存在します。私立に女子大が多いほか、国立でもお茶の水女子大学・奈良女子大学を始めとして、2校の公立4年制大学があり、このほか2校の公立短期大学が女子大学です。

ちなみにウチの奥様は、このひとつの広島女子大学を卒業しています(だからなんなのよ、おまえも入りたかったんかい、という話でもありますが……)。

このほか、必ずしも教育現場ということではありませんが、図書館においても、女性専用・優先席が設置されている公立図書館があります。台東区中央図書館、荒川区南千住図書館、江東区東雲図書館、葛飾区お花茶屋図書館等がそれであり、「不公平だ」などと男性から抗議が寄せられているといいます。

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このほか「女性専用」と聞いて真っ先に思い出すのが、電車での「女性専用車両」でしょう。東京や大阪で導入されているケースが多く、都営地下鉄、大阪市営地下鉄などの主に都市鉄道において、女性専用車両が導入されています。

この女性専用車両についてのブーイングは結構多いようです。

インターネット上のブログ等では「男女平等なら男性専用車両を作るべきだ」といった意見も少なくないようで、女性専用車両の導入が広まるにつれて、「女性専用車両に性差別を感じる。導入はやめて欲しい」など、女性専用車両に対する疑問や不満の意見もみられるようになっています。

こうした声は、最近とかく話題にされることの多い痴漢の「冤罪」や、増えているといわれている「痴女」をなんとかして防いでほしい、という観点からわきあがってきているようです。

一方では、列車や電車に続いて、ほかの交通機関でも「女性専用」を作ろうという根強い動きがあります。

空の交通においても、全日本空輸 (ANA) が、2010年3月1日より国際線の中型機と大型機に女性専用のトイレを設置すると発表したのは記憶に新しいところです。「体調不良時」には男性も使用できるとされていたようですが、だからといって女性専用トイレと同時に男性向けのトイレを設置するわけではありませんでした。

このことに海外のメディアが飛びつき、報道されて話題になり、男性差別に当たるとの指摘や男性専用を求める声が多数寄せられるようになったため、ANAはその反響の大きさに驚き、結局この女性専用トイレは廃案となりました。

現在においても、ANA国際線のシートマップには女性専用化粧室なるものは存在しないようです。

こうした交通だけでなく、巷の飲食店を中心とした店舗でも男性差別は起こっています。実際、一部商店には、女性のみの入店を許可し、男性の入店を制限・禁止しているものがあるそうで、例えば、2006年4月、JR北海道函館駅内に、「16時までは女性のみ」入店をうたったパスタ店が開店しました。

ところが、「男性差別では」という批判が寄せられるようになり、その後、開店2か月後の2006年6月には、批判が寄せられたことを背景として女性専用の時間帯は14〜16時にまで縮小されました。このときJRは「お客の要望に応えた」と説明しており、その後さらに女性専用時間を縮小したところ、逆に来客数は増えたといいます。

東京都新宿区にあるタカノフルーツパーラーもまた、昨年の4月までは、全時間帯において男性は女性同伴でない限り利用できなかったそうですが、最近では、5:00PM以降なら男性のみの利用もできるというふうに規定を改めていいます。

DV(ドメスティックバイオレンス)もまた、本来であれば女性から男性への暴力とされ、「夫または恋人などの男性から女性への暴力」と説明される場合が多いものです。

ほとんどのDVが男性から女性への暴力と考えられる場合が多く、被害者の95%が女性と主張する者も少なくないといいます。ところが、平成17年度に内閣府が実施した「男女間における暴力に関する調査」によると、DVの被害を受けた経験がある女性は33.2%、男性は17.4%だったそうです。

このことにより、「圧倒的多数」の被害者が女性というのは誤りであることが明らかになり、確かに男性が女性にDVすることのほうが多いものの、その逆もありきだ、という認識が世に生まれようになってきています。そういえば、一昔前に、「猟奇的な彼女」といった韓国コメディー映画も流行りましたね。

このほか、痴漢もまた、DVとはいえないかもしれませんが、暴力行為には違いないものです。先の女性専用車両も、主として痴漢行為の抑制を目的に導入された制度です。

とくに都内や府内では、痴漢被害を受けた際に恐怖心や大きなショック・不快感などを受ける女性が急増しており、中には同一人物から繰返し痴漢に遭う人もいて、このほか集団痴漢などといったケースも多いといいます。

咎めた側が逆に返り討ちに遭うケースなどまであり、このため、これを見かねた運営会社側が「緊急避難場所」や「駆け込み寺」としての防衛的機能を持たせるために導入したのが、「女性専用車両」です。

その歴史は意外に古く、1912年(明治45年)1月31日に東京の中央線で朝夕の通勤・通学ラッシュ時間帯に登場した「婦人専用電車」が最初とされています。もっとも、この「婦人専用電車」は、この当時、男性と女性が一緒の車両に乗るのは好ましくないという国民性を反映して導入されたものであり、短期間で廃止されたそうです。

戦後も1947年(昭和22年)5月に、やはり中央線で「婦人子供専用車」が登場し、同年9月からは京浜東北線にも連結されましたが、すぐに姿を消しました。

ところが、2000年代に入ってから、車内における迷惑行為や痴漢行為が社会問題として大きく取り上げられるようになり、明瞭な犯罪として意識されるようになっていきました。

このような状況を背景に、2000年(平成12年)12月、京王電鉄京王線で平日深夜帯に新宿駅を発車する下りの急行・通勤快速の最後部の車両に「女性専用車両」が試験的に導入されました。

この導入は好評であり、国土交通省も痴漢被害を減らす効果が期待できると評価したことから、京王以外の電鉄各社にも急速に普及していきました。

女性専用車両がなかった時代、痴漢による被害者は心理的にも物理的にも安全な逃げ場がなかったのに対し、この女性専用車両の導入は女性たちに安心感をもたらすようになりました。

最初に導入した京王電鉄によれば、痴漢の被害は、通勤時間帯に多いものの、次いで深夜での発生率が高く、こうした夜間では被害者が泣き寝入りするケースが多かったといい、この対策として女性専用車両は安全な避難場所として高く評価されたこともその普及の要因でしょう。

ところが、痴漢行為には、どうしても「冤罪」がつきまといます。また、痴漢被害は女性専用車両に乗れば防げますが、すべての女性客が女性専用車両に乗っている訳ではない以上、一般車両における痴漢の冤罪を完全に防ぐことはできません。

このように、痴漢防止として女性専用車両導入を図ることが、実は男性側にとっての冤罪防止には何の役にも立っていない、という意見もあり、誰でもが冤罪被害者になりうる可能性を指摘して、「男女平等の社会に反する」と不公平感を訴える意見もあるようです。

現に台湾では女性専用車が男性差別であるとされて3ヶ月で廃止になっており、このため日本においても、痴漢の捜査方法の改善が模索されるとともに、テレビなどでどうやったら痴漢とみなされるか、といったことが周知されるような風潮が出てきました。

実際に冤罪が認められるケースも多くなり、また、こうした冤罪の防止効果のない女性専用車両の導入だけを推進することについては、「かすかな違和感」を覚えるという女性も出てきており、一部の男性の「陰湿」さを指摘しつつも、「女性の隔離によってこうした一部男性のゆがんだ品性そのものが改まるとの保証はない」とする女性評論もあるようです。

あげくは、男性のみが利用できる車両、すなわち男性専用車両を導入すべきであるとの主張を行う人さえいて、これに加え、男女の乗車車両を分離すべきであるとの極端な意見を吐く輩もいるようです。

が、私としては、そんなもん、気持ち悪くて乗れません。夏の暑い日に飛びこんだ車両に乗っていたのが全員おっさんで、汗をかき拭き車中に汗臭い匂いが充満するとかいったシーンを、想像するだけでぞっとします。

女性専用車両には反対の立場をとりながらも、老人などより広い交通弱者のための専用車を求める中庸的な意見もあるようですが、それなら私も納得できます。「女性専用」とはせず、「弱者専用」でいいのではないでしょうか。が、そこがオカマやオナベの溜まり場になるのも考え物ですが……

この女性専用車両というものは、海外でもあるのかな、と調べてみたところ、イスラム教やヒンズー教では男女の同席が忌避されるため、これらの宗教の信者の多い国では、戒律に基づき女性専用車両(男女別車両)を設定している例があるようです。

例えば、パキスタンでは、「男女同席せず」が原則であり、女性専用車両にしか女性客は乗車しないため、他の車両は事実上「男性専用車両」となっています。また、イランでも、首都テヘランの地下鉄に女性専用車両が先頭と最後方のあわせて2両に終日設定されていて、エジプトのカイロ地下鉄にも女性専用車両が設定されているそうです。

このほか、韓国、台湾、フィリピン、タイ、インドネシア、インドなどのアジア諸国ではのきなみ女性専用車両、あるいはバスなどが導入されているようです。が、なぜか欧米諸国では少ないようです。

ヨーロッパでもイギリスとチェコぐらいであり、しかも列車や電車ではありません。イギリスでは、1995年から首都ロンドンに「会員制女性専用タクシー」というのがあるそうで、普通のロンドンタクシーは黒色なのに対して、これは車体をピンク色にしていて、運転手も女性が務めているそうです。

ただし、利用時は会員が電話で自宅や勤務先などに呼び出会員制なので、会員以外の女性は利用できず、駅や空港などでの客待ち営業や市中での流し営業も行っていません。ロンドンでは、無許可で営業している、いわゆる白タクが多く、こうしたタクシーでは女性客が乱暴されたり、金品を奪われる事件が多発したのが登場したきっかけだそうです。

じゃあ、今オリンピックが行われているロシアは?ということなのですが、ここにもあります。

長距離列車に酔客対策として「女性専用コンパートメント」が設けられているそうで、このほか、首都モスクワには2006年8月よりロンドンと同様に車体がピンクに塗られた女性専用タクシーがあり、これは「ローズタクシー」と呼ばれているそうです。

ロンドンと同様に運転手は女性が務めていますが、女性だけしか乗車できないロンドンの場合と異なり、父親・夫・恋人・息子など、何等かの女性の近親者が同伴していれば一緒に乗車できるそうです。

このローズタクシーは、イギリスのピンクタクシーを見習って導入されたそうですが、もともとは日本の交通機関における女性専用サービスを見ての発案だといいます。

思わぬところで日本は「女尊男卑」の習慣をロシアに輸出していることになります。

さて、そのロシアの彼の地において日本はいくつメダルが取れるでしょうか。今夜も眠れぬ夜が続きます……

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