三笠フォーエバー

昨夜は、疲れました…… 女子バレー、すごかったですね~。フルセットで追い込まれながらも、逃げ切ったニッポン。あっぱれ!をあげたいです。ここまできたら、ぜひメダルを取って帰ってきてほしいものです。

それにしても、そのあとの卓球女子と男子サッカーの連チャンの応援で、もう、ほととほと疲れました。卓球女子の結果は下馬評どおりといえばそのとおりなのですが、第一試合と第三試合でそれぞれ中国に一死報いることができたのは良かったと思います。次のオリンピックにつながる結果だったのではないでしょうか。

サッカー男子。これは惜しかった……とはいえないものの、よく頑張りました。オリンピック前にはあまり期待されていなかったみたいですが、それをバネにしてここまで頑張った彼らにエールを送りたいと思います。まだ、3位決定戦があるので、銅メダルの可能姓もあることですし。それにしても、3位決定戦は、宿敵、韓国との試合になるような気がします。もしそうだとしたら見ものです。う~また寝不足になりそう。

爆発

さて、昨日は、三笠が日本海海戦に勝利し、横浜で凱旋の観覧式に出席したまでのことを書きました。

昨日書いたように、日本海海戦が終わるのとほぼ同時に、イギリスの「ドレットノート」のような革新的な弩級戦艦が登場したことで、三笠はもはや最新鋭艦ではなくなりました。その後の任務をそつなくこなして、早晩引退するところですが、多額の費用をかけてイギリスから輸入した船をみすみす解体するのはもったいない、とでも思ったのでしょう。帝国海軍はその後も三笠を使い続けます。

しかし、その後の三笠の不運を予兆するような出来事が、日本海海戦が終わった直後に起こります。日露戦争終結を宣言するポーツマス条約が締結された明治38年(1905)の9月5日から、わずか6日後の11日正午過ぎのこと。突然、後部火薬庫に火災が発生し、三笠は大爆発を起こして、佐世保港内に沈没してしまうのです。

その原因は諸説あるようですが、そのひとつは、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコール」を使った遊びによる引火というもの。その当時、水兵たちの間には、信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む、という遊びが流行っていたそうです。そして、その遊びの最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したものが、火薬庫に延焼したのが原因とする説です。

しかし、当の本人たちが死んでしまったため、それが本当の原因かどうかはわかっていません。ほかにも下瀬火薬の変質が原因という説もあるようですが、艦の損傷が激しく、本当の原因は結局わかりませんでした。事故当時、東郷司令長官は上陸していて無事でしたが、このときの事故での殉職者は339名にのぼりました。

この殉職者の中には、艦隊付属軍楽隊所属の「軍楽兵」が数多く含まれていたそうで、かの有名な軍艦行進曲(軍艦マーチ)を作曲した、「瀬戸口藤吉」も三笠に座乗していましたが、無事でした。

座礁

佐世保湾の底に沈み、半沈没状態になった三笠ですが、翌年の明治39年(1906)には、排水浮揚になんとか成功し、明治41年(1908年)には、第一艦隊の旗艦として復帰します。

そして、大正3年(1914)から、大正6(1917年)までは旧ロシアの沿岸警備につくなど、現役艦としての任務をその後も続けます。1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間には、日露戦争後、1917年のロシア革命後に誕生した社会主義国、「ソ連」を東から牽制する、いわゆる「シベリア出兵」の支援にも参加しました。

参加前には防寒工事も施され、飛行機の臨時搭載ができるようにするなど、艦の大幅な改良がおこなわれ、万全の準備が整っていましたが、今度は、大正10年(1921)9月16日にソ連沿岸を警備行動中に座礁事故を起こします。ウラジオストック港外のアスコルド海峡という場所で濃霧の中を航行中に浅瀬に乗り上げ、座礁したのです。

富士、春日などの救援を得て離礁することができ、ウラジオストックで応急処理をして、なんとか日本に帰ってくることができましたが、日露戦争以後二度目の着底になるだけに、乗船者は日本海海戦で海に沈んだロシア兵の呪いだと思ったかもしれません。

このシベリア出兵の際には、三笠が関係した、また別の悲劇が起こっています。1920年におこった「尼港事件」の際に、三笠は砕氷艦見島とともに、旧ロシア領の「ニコラエフスク」に向かいます。通称「尼港」に取り残された日本人の救出ルートを探るべく、ロシア沿岸にまで達したのですが、堅氷に阻まれ入港できず、結局任務を遂行できず、そのまま引き返してきています。

尼港事件

尼港事件(にこうじけん)というのは、ロシア革命後、レーニン率いるボリシェヴィキ政権が実権を握ったのち、ソビエト連邦共和国内部で起こった内乱です。

ロシア革命では、レーニンたちの革命は成功したものの、政権交代の際にはロシア内部でかなりの混乱が生じており、その混乱に乗じてロシア領土を略奪しようと進撃してきた国がありました。ドイツです。

レーニンたちの新政権は、かつての領土を守ろうと、ドイツと戦闘状態に入りますが、革命直後のことでもあり、思うように兵を動かせず、敵を撃退できません。

一刻も早く安定した基盤を打ち立てたいボリシェヴィキ政権としては、ドイツと長期に渡って争うことはできるだけ避けたく、ドイツとの争乱を回避し、講和に持ち込みたいと考えていました。そして、なんとか講和条約の締結にこぎつけたものの、その条件として、現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにあたる広大な地域をドイツに割譲することを余儀なくされます。

これに怒った国民の不平分子が、反ボリシェヴィキ運動をロシア国内のあちこちで起こしますが、そのうち、ロシア東部の極東で起こった内乱はその最大規模のものでした。長年ロシアや日本に蹂躙されてきた中国人や朝鮮人も数多く加わり、ロシア人のパルチザンと合流し、その人数が大きく膨れ上がったのです。これが、1920年(大正9年)の3月から5月にかけて、アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港)で発生した「尼港事件」です。

この内乱では、港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、4000人を超える赤軍パルチザン部隊が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪を行った末に老若男女の別なく数千人を虐殺しました。虐殺され人たちの中には、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊も含まれており、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで700名以上にのぼり、一般住民はほぼ皆殺し状態だったといいます。

ニコラエフスクは、黒龍江(アムール川)の河口部上流(河口から80km)に位置する町で
日露戦争後、日本の入植地のようになっていました。漁業を中心とした商社なども数多く設立され、ここに一般市民500人が居住しており、領事館も置かれていました。そして入植した日本人や領事館を守るべく、300人ほどの陸軍の守備隊も駐留していました。

守備隊は、けん制のためにパルチザンの一部を攻撃しましたが、ニコラエフスク市内を占領したパルチザンは数の上ではるかに守備隊を上回っていたため、町の郊外の高台に日本軍が築いていた要塞を奪取し、市内に砲撃を始めました。日本人居留地内に押し入ろうとするパルチザンと日本軍守備隊との間では、いったん話し合いも持たれましたが、やがて決裂。

そして、居留地になだれ込んだパルチザンと隊長の石川少佐率いる守備隊とは、激しい戦闘状態に入ります。しかし、多勢に無勢で守備隊長以下のほとんどが戦死。生き残った守備隊員80人ほどと一般市民合わせても100人あまりしか助からなかったといいます。

三笠と砕氷艦見島の任務は、この日本人を救出する方法を探るため、あるいは援軍を送るルートを探るために沿岸まで近づき、視察を行うことでしたが、厚い氷に阻まれてニコラエフスクまで辿りつくことすらできず、結局海からの支援は無理、と判断してそのまま引き返しています。

その後ニコラエフスクは、国内からも派遣された日本軍とボリシェヴィキ政権下のソ連軍の共同によって解放されます。このとき、小樽から派遣された日本軍が樺太のアレクサンドロフスクに上陸するときも三笠は出動しており、海防艦「三島」とともに上陸部隊を援護しています。

再びの沈没…… そして退役

このように、日本海海戦後もシベリア出兵や尼港事件など、ことあるごとに出動し、日本とロシア沿岸の海防艦として20年あまりの間、国防を担ってきた三笠ですが、ついに大正10年(1921)11月12日、ワシントン海軍軍縮会議において、廃棄艦リストに載ることになり、退役が決まります。

ワシントン海軍軍縮会議とは、第一次世界大戦の後も軍艦の建造競争がおこなわれつづけた結果、各国ともその維持費用が莫大なものになり、国家予算を圧迫するようになったため、アメリカ合衆国大統領のハーディングが各国によびかけて開催された国際会議です。日本を含む戦勝5ヶ国の首脳が集まり、軍艦などの削減量が話し合われました。

この会議の結果、建造中の艦船を全て廃艦とした上で、英、米、日、仏、伊の戦艦・航空母艦(空母)等の保有艦の総排水量比率をそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75にすることが決まりました。これにより、多くの前弩級戦艦と弩級戦艦が武装解除されることになり、大部分はスクラップとして解体され、他は標的として破壊されるか、訓練あるいは支援艦の任務を与えられました。戦艦三笠も例外ではなく、このときの軍縮の対象となっています。

帝国海軍からの正式な除籍が行われたのは、これよりさらに二年後のことですが、その除籍の直前になって、さらに三笠をアクシデントが見舞います。

1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災は、10万人以上の死者・行方不明者を出した未曾有の大災害でした。あまりよく知られていないのですが、このとき、東京沿岸を中心とした各県では、大きな津波が発生しています。静岡県熱海市で6m、千葉県相浜 9.3m、洲崎8mの津波が発生していて、神奈川県の三浦半島にある横須賀でも6mの津波が襲ったと思われます。ちなみに、鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明になったそうです。

このとき、横須賀で係留中だった三笠はこの津波によって岸壁に衝突して擱座しています。先のウラジオストク沖で座礁して破損した部位から大浸水を起こし、そのまま着底してしまったのです。これでもう三度目の着底になりますから、さすがに海軍省もあいそがつきたのでしょう。浸水からわずか19日後の9月20日に正式に退役を決定。三笠はついに帝国海軍から除籍され、引退することが決まりました。

記念艦三笠

ワシントン海軍軍縮条約では、廃艦された船は解体されるとりきめになっていました。このため、三笠も海底に尻餅をついたまま、解体され、廃棄処分にされる予定でした。

ところが、日露戦争の立役者であり、国民から熱狂的に愛されていた三笠を解体処理することに国民は納得しませんでした。新聞各社も社説にその保存を訴えたことなどから、全国的な保存運動がおき、ようやく政府もその声に耳を傾けるようになります。

そして、ワシントン海軍軍縮条約の参加国に打診し、ワシントン条約の特別な例外として三笠の保存を認めてもらいます。ただし、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることが条件で、三笠は博物館船として残すことになりました。

1925年(大正14年)1月に「記念艦」として横須賀に保存することを正式に閣議決定。同年6月18日に保存のための工事が開始され、11月10日に工事は完了しました。この工事の間、8月29日には、財団法人「三笠保存会」が設立されています。そして、舳先を皇居に向けたのちに船体の外周部に大量の砂が投入されるとともに、下甲板にコンクリートが注入された、現在の姿の三笠が誕生するのです。

この日以降、三笠は海に浮かんでいる船ではなく、海底に固定された建造物となり、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わらない状態となりました。11月12日には保存のための「三笠保存記念式」が行われ、この日から「記念艦三笠」と呼ばれるようになります。呼称摂政宮殿下もご臨席になり、その新たな門出が盛大に祝われたといいます。

その後、第二次世界大戦が勃発しますが、「記念艦三笠」は取り壊されて「金属供出」されるようなこともなく、そのまま終戦を迎えます。横須賀では大規模な空襲もありましたが、米軍もさすがに固定してある旧式の軍艦を爆撃するようなバカではなかったようです。

しかし、第二次世界大戦の敗戦後、三笠を新たな不運が襲います。1948年に行われた「極東委員会」でソ連のテレビヤンコ中将が日本海海戦の意趣返しとして戦艦「三笠」の解体・廃棄を主張したのです。こういう事実を知ると、アメリカとの戦争末期になってから突然参戦し、多くの日本人をシベリアに抑留しただけでなく、樺太や北方領土まで横取りしたロシア人の底意地の悪さのようなものを感じます。

もっとも、ロシア側からみれば、日露戦争で負けた悔しさから出た行為なのでしょうが、この辺が同じ先進諸国といっても、ヨーロッパの他の諸国とは少し程度の低い野蛮人という印象をどうしても持ってしまうのです。

ニミッツ提督

しかし、このソ連からの横槍は、極東委員会に出席していたアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー少将が、「日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだ」と反論してくれたため阻止することができました。

しかし、そのころの三笠の保存状態というのは最悪でした。戦後の物資不足より、主砲を含む兵装や上部構造物はおろか、取り外せそうな金属類は機関部に至るまで、ガス切断されて全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされているという荒廃ぶりだったといいます。

これを見かね、三笠の保存のために立ち上がってくれたもう一人のアメリカ人がいました。ウィロビー少将と同じくアメリカ軍人で、海軍提督だった、チェスター・ニミッツです。

ニミッツ提督は、東郷平八郎がまだ生きているころに会ったことがあるといいます。かつて、日本が日本海海戦で大勝利を飾り、1905年(明治38年)5月に戦勝祝賀会を東京で行ったとき、横須賀に停泊していた「オハイオ」にも招待状が届けられ、ニミッツは他の候補生5名とともにこの祝賀会に参加したというのです。

その席でニミッツは、東郷平八郎大将を自分達のテーブルに招いて会話したそうで、気さくで流暢に英国英語を喋る東郷に感銘を受けた、とのちに自伝で記しているそうです。

そのニミッツが、第二次世界大戦後に日本に赴任してきたとき、「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われているという噂を耳にします。そして早速部下を派遣し、調査させるとこれが事実であることを知って激怒。海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止したといいます。

そして、さらに後年、1958年(昭和33年)の「文藝春秋」の昭和33年2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい」と訴えたといいます。

この一文は荒廃していた「三笠」を日本人の手で保存しようという機運上昇のきっかけになりました。ニミッツは、保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付したそうで、このほかにもアメリカ海軍を動かして、揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を三笠の保存事業にあてさせます。「三笠」の復興工事費は約一億八千万円もかかったそうですから、この費用はその保存のための大きな助けとなりました。

復活

こうしたニミッツ提督の尽力もあって、復元のための費用を集めることができ、三笠は元の姿に戻すべく、復元工事が始められました。復元にあたり、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼすべてが完全な形で返還されたそうです。

一般人に持ち出されて行方が不明になったものも多数ありましたが、1958年(昭和33年)にチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が除籍され、翌年日本において解体されたとき、これが同じイギリスで建造された艦であったため、チリ政府より部品の寄贈を受けるという幸運もあったそうです。

1961年(昭和36年)に三笠の復元が完了し、完成記念式典が開かれたとき、ニミッツはまだ存命でしたが、76才と高齢だったために来日は見送られました。5月27日に無事、完成開艦式が行われ、その際にはアメリカ海軍の代表として、トーリー少将が出席しました。そして、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参。三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹したそうです。

先日三笠を訪れたとき、私はまだこの事実を知りませんでしたが、こういう恩人がいたのを知っていたなら、その月桂樹に手を合わせていたことでしょう。今度行ったらぜひそうしたいと思います。

現在の三笠の砲塔、煙突、マストなどは、この復元工事の際に作成されたレプリカだそうです。下甲板以下は、ワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められているため、艦内で見学できるのは上甲板と中甲板だけです。

しかし、甲板の一部に現役軍艦当時のままのチーク材も残っていて、東郷平八郎司令長官以下、秋山真之参謀などが日本海海戦当時に立っていた艦橋に立つと、そこから見える三笠前部の主砲塔は確かに皇居の方向に向かっており、そこから、今にも砲弾が飛び出していきそうな感覚にさえとらわれます。

この記念艦の管理は三笠保存会に委託されていますが、三笠は現在も防衛省所管の国有財産なのだそうです。艦内には、日本海海戦関連の展示のほか、その当時の海軍の制服、装備なども展示されていて、「軍事オタク」にはたまらない博物館となっています。しかし、軍事オタクでなくても、日本がロシアと戦った「重み」知ることのできる貴重な史料がたくさんあり、見る人を惹きつけます。休日には多くの人々でにぎわう「三笠」ですが、平日にも地元の人々が絶えることなく訪れているといいます

エピローグ

ところで、日本海海戦で三笠に乗り組んでいた兵員のうち、最後のひとりは、京都の人で、1982年(昭和57年)に98歳で他界されたそうです。日本海海戦の従軍者で最後の生き残りとされた人は装甲巡洋艦、「浅間」の乗組員だったそうですが、この方も同じ年に亡くなっているとのこと。

チェスター・ニミッツ元帥は、1965年に脳梗塞をおこし、翌1966年2月20日に肺炎を併発して死去。三笠の復元記念式典が行われた5年後のことでした。遺言で「人生で成し遂げた業績として、元帥の五つ星だけを入れる」と言ったそうで、この五つ星の勲章以外には墓には何も入れられず、他の埋葬者と同一の規格の墓石の下に埋葬されたそうです。

また、東郷平八郎元帥は、昭和9年(1934年)5月30日)に膀胱がんで死去。6月5日に国葬が執り行われました。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍は重巡洋艦「サフォーク」を参列させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射したといいます。

ちなみに、この東郷平八郎元帥の曾孫さんが、私の住むこの別荘地にお住まいだそうです。まだお目にかかったことはありませんが、もしお目にかかることができたら、おじい様がこの国の繁栄のためにご尽力くださったお礼を、みなさんを代表して申し上げたいと思います。

三笠と伊豆。妙なところでつながっていました。